歴史
古代から江戸末期までに平地や丘陵、山を利用して築かれた。
城は中世から明治時代までに築かれたもので、武家や城主などが敵対する武力集団から守るための防衛施設である。
紀元前3世紀~3世紀(弥生時代)
環濠集落 城の起源は、弥生時代、農耕のはじまり、集落のまわりに「濠」と呼ばれる溝を掘り、その外に土を盛り上げて土塁を築く。
〇古代山城
7~8世紀 博多湾奥に築かれた「水城」(みずき)や、太宰府に百済人らによって造られた「大野城」(おおののき)。「朝鮮式山城」と呼ばれています。他にも東北蝦夷地への侵略のため、東北に19の城柵を設置。
多賀城や秋田城は、陸奥鎮守府や出羽国府となり、政治・経済の中心部として機能。
〇近世城郭
利便性の高い平地や平地に近い丘陵にも多く築かれるようになった。
山城の麓に館を営んで生活や政務を行っていた城主は、有事のときにだけ城内に生活の場所を移す。寺院建築や住宅建築の特徴を取り入れ、日本城郭特有の天守のような重層な櫓の要素をもった楼閣建築に。城の外観には権威をしめす目的も含まれるようになり、独特な形となった。
11~14世紀 戦時に使用するため、小規模ながらも防御能力の高いお城が発達。
楠木正成による「赤坂城、千早城」の籠城戦では、約100日間立てこもって鎌倉幕府の大軍を撃退。以後、武将の間に籠城による戦法、山城で、軍事的拠点。
堀や土塁、曲輪(くるわ)
土で築かれ、建物は木造。堀の幅は、およそ五間(約10m)前後、弓矢の射程。
戦国時代、火縄銃に塀や建物で防弾する必要が生じた。内部に石や瓦礫を入れた分厚い土壁(太鼓壁)やおもに寺院に使われていた屋根瓦、銃弾の届きにくい幅の堀、そして石垣が多用される。
お城を中心として、武士、町人などが生活する城下町が形成、経済の中心。
平野に築かれる「平山城」。行政の拠点。
16世紀後半 天下統一の機運が醸成されると、大きな天守を持ち、大規模化。権力の誇示。
〇「城 (き)」「城柵」の定義
日本では「城」を“き”と読み、「柵」の字も用いた。
城の一部、施設を館や塔、城壁、堀、城門と呼ぶのに対し、全体を指し示す場合には、城郭。
敵との境界線に近い前線の要塞を「出城」と言い、主戦場を指す語にもなる。
ヨーロッパ、中国などの大陸では、都市を囲む城壁と戦闘拠点の城砦(城塞、城館)とを区別する。「城」は、本来は、城壁都市を意味する。
日本では城壁で囲まれた城壁都市が普及せず、主に後者の城砦の意味で使用される。
「柵」は主にヤマト王権が東北地方に設置した政治行政施設を併設する防御施設(城柵)を意味する。
「城」は水城や大野城のような西日本に点在した古代山城や防壁の類いを意味する。
大和政権が唐や新羅からの侵攻を想定して、滅亡した百済から日本に亡命した人々の指導によって築かれた。版築土塁の外郭城壁をもつ、後の中世以降の築城技術へ継承されなかった
中世、戦国時代では、小高い丘陵や山などに郭(曲輪)と言う平地をいくつか設け、その郭を柵や土塁で囲ったり、切岸と言って、斜面を急に加工して下の郭から上がりにくくしたり、堀切や竪堀という尾根を分けるように切った堀など。他の郭からの侵入を困難にした。
郭の入り口を小口(虎口)といい、その小口に門を設けたりもした(矢倉門や冠木門が主流)。
大抵は、主郭(一の丸、本丸)、二の郭(二の丸)、三の郭(三の丸)と郭を名付ける。
近代以前の軍事的な防衛施設、戦闘拠点であるとともに食糧や武器や資金の備蓄場所。
城は、住居であり、政治や情報の拠点であった。
純防衛用として山地に建築されたり、街道や河川などの交通の要衝を抑えたりする。
〇城の機能
防衛機能
不意の攻撃や戦力に劣る場合、籠城する。備蓄された装備や城壁などの施設が味方の居住性を高め、敵の移動や視界、攻撃を妨害する。
攻者三倍の法則などの経験則が唱えられたが、守備側が籠城だけで敵を撃退することは難しく、援軍を待つための時間稼ぎ。
敵の侵入に備え、国境の監視などの役割も果たした。
居住性
城館は、領主の生活の場であり、政庁となって領地支配の象徴としたり、敵地への勢力拡大の前線基地とする。
都市を囲む城壁という意味では、領民の住居になった。このため生活に必要な施設が城内に全て揃えられた。農耕地は、城壁の外にある場合が多い。日本の山城などは、居住性は低い。