〇本物を知る頭のよさ
ポピュラーにおいては、最終的には、本人の判断する能力に負うことになります。そのためには、分野を限らず「一流のもの」にたくさん触れ、「一流のもの」を頭と身体に叩き込んでおかなければなりません。ヴォーカリストは、勘がよくなくてはいけません。これは、学校の成績に表われるような学問や知識のことを言っているのではありません。原始的な本能、つまり人間の本来の生命力に根ざしたパワーにどこまで正直でありえるかという意味です。偽物と本物を区別して、本物を追い求めていかなくてはなりません。それを知る眼、耳が必要です。
〇本物のヴォーカリスト成長の軌跡をたどる
ヴォイストレーニングというのは、形から入る部分と身体でわかっていく部分と両方あります。どちらから入ってもよいと思います。ある程度進むと、今度は誰にも頼らず自力でやっていかなくてはなりません。創造の苦しみ、新たなものを生み出す陣痛を恐れてはなりません。
自分の本能や直観で、これだと思った方向へ試行錯誤を繰り返し、何度も自分で判断して進んでいかなくてはいけないのです。
ヴォイストレーニングを受けなくても、素晴らしいヴォーカリストになった人がいるという事実は、彼らがヴォイストレーナーに頼らなくても、自らの正しい判断で、ものにできる声を身につけることができたということです。あるいは、何かを表現したいという強い衝動のもとに、声が身についてきたわけです。
「こういう表現をしたいから、こういう声が欲しい」というのが本当のヴォイストレーニングのあり方でしょう。
もともと、ヴォイストレーニングがあってヴォーカリストがあるのではありません。優れたヴォーカリストの歩んできた道で習得してきた声の段階の軌跡をブレスヴォイストレーニングは追っていく方法をとっているのです。ですから、身体や歌、表現と一体化できるところまで頑張り通さなければ、こういったヴォイストレーニングは何の意味もありません。
〇何を、何のため、どう表現したい?
力のあるヴォーカリストは、どこにいて何をしていても、ヴォーカリストです。ステージをしたいからヴォーカリストをやると言うのでは、ただのアイドルの親衛隊みたいなものです。何かをステージで表現したいという人のうち、その方向がある人のみが残っていくのです。
とすれば、その何かを発見していかなくてはなりません。その1つのヒントが、声そのもののパワーに心身を傾ける「ブレスヴォイストレーニング」なのだと考えてみてください。
なぜ、1人の人間が何万人もの人間を動かせる声を出せ、感動を与えられるのでしょう。こういうところに素直に感心するところから始めてください。どうしてヴォーカリストになるのか、自分がそういうヴォーカリストになれたら、自分を動かす原動力は何なのかなど、いろいろ考えてください。
なぜ、何を、どこで、どういうふうに、誰に歌いたいのか。具体的に考えていくと意欲も本能的に刺激されます。外に目を向けるばかりではなく、自分の身体の内に熱い衝動を感じてください。
〇自分の血の中に流れているものをつかめ
どこの国にも民族性に根ざしたオリジナリティがあります。エスニック・ブームで、今まで注目されなかった地域の音楽がヒットしています。
自分の住んでいる「辺境の地」にこそ、新たな創造の余地があるのです。都会の音楽にかぶれて悶々としている人も、ふるさとを振り返ってみてください。
根のないところから新しいものを作り出すよりも、自分の血の中に何が流れているのかを突き詰めていった方がよいと思います。
日本の第一線のミュージシャンも、そろそろそれに気がついて、日本の音やアジアの音を探り始めています。また、最近の若い人のバンドの中には、もっと感性的に、日本の音、民謡や雅楽のもつ要素を捉えたものも出てきました。特に、沖縄あたりはうまく発信しつつあります。
〇日本を掘り起こし歌い上げる時代に
民謡や雅楽のもつ要素を捉えた音楽は、日本人の音楽的でない発声でも案外と味わいのあるものです。考えてみれば、大漁節を歌うのに、イタリアのベルカント唱法を使うわけがないのです。
私が「ブレスヴォイストレーニング」で試みてきたことは、欧米のロック・アーティストと日本人のロック・ヴォーカリストとの絶望的な声のパワーと魅力の差を現実的に埋めるための方法です。しかし、応用面で、日本人の発声ということについて、日本の風土や生活、日本人の性格や気質などを肯定した面から、もう一度捉え直しています。
日本語の発声自体を楽に音楽的に使いやすく変えていくことと、そのための発声トレーニングが必要であるという思いは変わりません。討論や台詞読みから日常生活に至るまで、声に関する啓蒙が必要です。声の芸術である歌をひっさげてヴォーカリストが世界に飛び出すには、根本的に力不足を感じます。
その上で、その先を見越して日本人や日本の歌についても、これまで以上に考えていかなくてはいけないと、思うようになりました。日本のヴォーカリストをみていると、母国語で歌えないヴォーカリストや生まれた地で根をおろしていないヴォーカリストばかりです。これでよいのだろうかと素朴に考えてしまうのです。
〇体力的限界と内なる音楽の不毛が引退理由?
ヴォーカル活動も続けていく意志の力にとどめをさすのは、体力が原因であることが多いようです。ですから、やり続けていく以上、身体は常に人一倍、鍛えておかなくてはなりません。
それと、音楽がいつまでたっても本当の意味で自分の内なる世界に育たないことも、身を引く大きな原因でしょう。
「素質がなかった」とか「才能がなかった」というのは、自分で自分に設けた限界です。それを破るために、音楽、身体が必要なことを、もっと自覚すべきでしょう。
日本では、プロのヴォーカリストとアマチュアとの境界が、あいまいです。そのためか、困ったことに努力を伴わない夢を見続ける人が多いのです。あげくの果てに、中学校や高校を中退したり、家出同然で上京してくる人もいます。そのこと自体がどうだとはいいません。しかし、学校の先生や両親すら自分で説得できないのでは、その先が思いやられるではありませんか。どうやって、何千人もの観客を説得するのでしょうか。
今は、ハングリーに、やみくもに苦労すれば、生活感が曲に移って、世の中に認められる時代でもないのです。自分たちが楽しくなければ、誰も集まってくれないのです。しっかり生きていなければ、しっかりしたものを伝えることはできないのです。
〇飾るか、創り出すか
「へたでもよいからずっと歌い続ける」というのも立派ですが、人前で聞かせる以上、うまくなった方が、聞く人も自分も気持ちがよいはずです。
日本人は素人芸に寛容な国ですから、昔から素人のど自慢に人気がありました。カラオケ・ブームも邦楽バンド・ブームもその延長上にあったと言えるでしょう。アマチュアとしての音楽の楽しさを通じて、メンバー間のコミュニケーション主体のバンドが多くなってきたのは、決して悪いことではありません。層が広がるということは、そこからビッグなものが生じる可能性が高まることを意味するからです。
しかし、これだけでは、ポピュラー・ミュージック界にとっては、進歩でも何でもありません。みんなブランドのバックを持つ代わりに、ギターやベースを抱えているだけです。
それでアーティストだと勘違いしないでください。スタジオのバイトをしようが、音楽業界の仕事をしていようが、それと「音楽で食べていける」こととはまったく別のことなのです。ちょうど、ファッションを身につけている人とそれを生み出している人との違いです。デザイナーの近くにいるだけで、デザイナーであるということはありません。
音楽で自分を飾りたいのですか、それとも、音楽そのものを自分で作り出そうとしているのですか、そこをよく考えることです。
〇いつも心の中にステージを持ち音楽を奏でる
最初はステージというものが、高いところにあって、毎回そこに何とか飛びついて頑張っています。そのうち、そこに立つのがあたりまえになって、あまり距離を感じなくなってきます。慣れてきます。それは、毎回、努力して全力を尽くしているうちに、背伸びをしなくても人に聞かせる演奏が充分にできるようになったことを意味します。余計な力を抜いて、自分の心を語るように歌っている人に思わず引き込まれるのも、その無理のなさ、自然なスタンスからくるものでしょう。ただ、常に創造的に挑まないと、すぐマンネリ化してしまいます。
いつもいつもジャンプしなくては人前に出れないようだと、年を経るにつれて段々、疲れてきます。観客を集める努力も報いられなくなり、ステージのレベルも高くならなければ、そのうち飛べなくなる日がくるのです。
それは、日常の中に音楽の世界を本当の意味でもつに至らなかったせいです。アーティストではなく、ただ単に音楽が好きな人に過ぎなかったわけです。
本物のアーティストとは、ステージで音楽を演奏するだけの人ではありません。日常の生活の中に音楽を持ち、ステージの有無にかかわらず、いつも心の中で音楽を奏でている人です。
その人が、心身一体となって感じているところに音楽があって、ヴォーカリストとしてのステージは、それを表現する場に過ぎません。ヴォイストレーニングも歌うことも、その手段に過ぎないとさえいえるのではないでしょうか。