根性もの No.293

○根性もの

 かつて、ゴールデンタイムのほとんどがスポーツ漫画やドラマでした。だいたい根性ものですね。スターも多かったですね。野球、プロレス、空手、ボクシング、キックボクシング、武道、ほか。だから、それにのっていく人もいるし、今も「スラムダンク」など。そこまで積み重ねていけば、王道がみえると。努力とかも少しおちゃらけた。

○見えない力

 ここの中にすべて入っていく。声楽をおろしたときに役立つのは、見て見えないという力があります。感覚で見て、こういう歌い手よりも歌いこんでいないし、時代も違うし、かといって、ついていけなかったり劣っている部分があっても、量をこなせない。この人でも、すぐ歌ってレコーディングしたのではない。かなり入れ込んでいったと思います。その入れ込んだところが出てくるということなのです。
 全体的にはバランスを見ていく。それは細かいところでいうと、たったひとつでいいです。ここのつなぎのところだけやってみようということでよい。それで1時間くらいで練習できると思います。
 
○作詞

 今、詞をつくっています。何が難しいかというと、ひとつのフレーズを見つけること、それが見つからなかったら、成り立たない。えっこんなところがとか、こんな切り替えし方があるのか、というストーリーにつなぐ。キーワードひとつがあれば、修正能力でつくれます。10曲つくろうと思ったら、10個みつけなければいけないでしょう。その10個がなかなか見つからない。
 
○毎日70個

 アイディアマラソンというのを日本で広げる人に会いました。毎日70個出していると。エレベーターがあって、隣のビルがあって、地下で合体していたら、間を歩かなくても行かれるとか、その人は毎月70個考え続ける。大変なことだと思います。
 他のことに没頭しているときに、そのノルマはきつい。ただ本気で、というときには、それもひとつだと思います。
 詞をつくる人も当然そういうことはやっているわけです。やっているうちにいろいろなものに刺激を受けて、ときにパクッてみたりする。そのままでは自分のものにならないから、何かしら組み合わせ、ことばの数など悩む。そういうものを紐といて、すべてがつながっていく。
 
○秩序立てる

 デッサンをつくるということをオリジナリティとしては持っていてほしい。それから全体的に整理、秩序立てていけなければいけない。要は自分の弱いところは見せないように、はしょってしまったり、強みのところに変えていく。ひとつ歌って、受ければ、歌の場合は1分でいい。それから比べたら、漫才は展開が苦しい。
 一方、日本人にとって、1オクターブ以上の世界へ声を伸ばしながら、1曲、つなげていくというのは、大変な技術がいると思います。歌舞伎とかでもあれだけの声が出ているのだから、日本人が声がないということではない。鍛錬の部分があるのです。
 
○つくり出す

 表現に結びつける部分。確かに音楽の3要素はありますが、あまり細かくやらなくなってきた。人それぞれ骨格も顔もつくりも違うし、響いてくる音色が違う。いろいろなやり方も刺激になるなら、やってみればいいと思います。いろいろなものを集めましょう。ファンがついて、一方、誰かにはそのやり方はダメと否定されているのもあります。私の本も同じように、どこか通用することがあれば、そこだけをとればいい。そこから自分で見つけていくためのたたき台です。ひとつをメニューにして、10個、自分でつくり出せばいい。
 
○「正しいですか」

 最近くる質問では、「これは正しいですか」と聞くのが多い。「こういう声が出ているのですけれど」とか「上のほうにこう響いているつもりだけれどどうですか」とか、質問自体成り立たないでしょう。答えようがない。たぶん、いい響きが出ている、がんばりなさいという答えを期待しているのか、よくないからこうしなさいと言われたいのか、どちらにしろ、顔と同じで声も個性です。丁寧にお断りしなければいけない。
 
○日本語のニュアンス

 言語では伝わらないことがある。自分自身のそういう発想とかきっかけとして、キーワード的に言語を使うことは、効果的なことです。その辺は自分で組み込んでいけばいい。今の口の中で、あなたが開けた中で、声楽的な「あ」、それを5つで捉える。日本語では英語以上に、いろんなニュアンスで使っているのです。

○郷

 2番と比べると、音楽の部分は変わらない。ことばの部分は変わります。「くに」というのは、郷土を意味していたわけですね。国と郷土を分けていますが、昔は、郷土に、くにというふうにふっていた。団塊の世代が、集団就職、ふるさとが故郷としてあって、核家族になって、くにがなくなってしまったというような。余談ですが。

音色の動き No.290

○音色の動き

 皆の中でも、ときに、いい音色が出ているところがあります。それを指摘しないのは、そこだけ見ていてもしかたがないからです。こういうところが出て、伝わったといっても、20点くらい、こういう流れのところから、いきなり外れてしまったり、声がせっかく出ているのに、統制とか統一とか、集中力なのか、つかんでいる部分なのか動きをつくっている部分なのか、しばらくは待つしかない。そこから変な方向にいってしまう人もいれば、よくなっていく人もいる。
 結果としてよくなる変化と悪くなる変化がある。そこの中で駆け引きしていくのです。その辺になってくると、先にどうやりなさいとはいえないのです。
 
○わかる

 その人がやってみたときに、よければそれはいいといわなくても大体わかります。ほとんどの場合はそういうふうにはいかないから、そういうところが見つかるところまで、期待しながらやっていくということですね。
 課題を短くすると、音域はせまくなるし、集中力は持つから、打破するきっかけになる。日本人のもっとも練習すべきところは4フレーズくらい、半オクターブくらいのところです。所さんのつくる歌はそのくらいです。オチがついて終わってしまいますが、そこまでは歌っているようには聞こえないわけです。
 
○切り取る 切り替える

 切り替えが早いですね。距離をいろいろな意味で変えていますね。多くのクラシック歌手は同じところで歌ってしまいます。好きに切り取ってください。
 こういうところも、歌では「にゃー」とか「の」くらいしか残らないです。残るところというのは、たくさんの歌を聴いたらわかるのです。たとえばここで切り替えられて、まったく違うものが出てきた。
 
○残る

 「ルルル」といった後、空白があって、大きく言っているところしか聞こえないのです。こういうところをまわして、10人も20人も同じフレーズを歌ったときに、何が残るかということです。他人と違うことをやっている人ですね。それがすごく下手だと残る。下手だとあまり残したくないから、何かしらみせられた人、ひとつの条件は、ここで完全に変えられるかどうかです。
 
○呼吸で

 呼吸からいうのは、日本人にとっては難しくて、歌って成り立っていること、一つひとつが成り立っていること。
 「だけど」が成り立っていること、それから次の「ルルル」につなげる。それからその前の「さわ」の「ぐ」のところにつながっていること。「ぐーだけどー」と歌っていて、「ぐ」で切って、そこを受けて次の呼吸で、せりふの中の間合いとかきっかけとか違ってきてしまう。うまい落語家は、登場人物を音色でわけるのは誰でもできるのですけれども、息でわけてしまうのです。男性と女性の息、物語が展開していきます。
 
○呼吸を変える

 呼吸を変えられるヴォーカルはあまりいないですね。クラシックの場合は、発音という準備をしなければいけないですし、コピーで目一杯。本来、それぞれのところを成り立たせながらつないでいく。呼吸を変えていかないと、自分の呼吸がないと、本当の意味では伝わらないですね。
 そういう意味でいうとこの作品はうまくできています。なりきっている、演じきっているということで、うまく見えてくるし、そうは見えなくても、それをなりきったところで引き受けている。役者の力も必要だと思います。
 
○同化しない

 4曲歌ったら、だいたいの人は同じようになってしまう。1曲の中でも同じような歌い方をしない。これが漫才だったら持たない。お笑いで、本当に見てほしいと思うのは、大きくは、同じペースで世界観をもちながらも、同じようにいったらダメなのですね。早くなっていくテンポで息つぎが短くなっていたり、急にふっと抜けて違うところから言葉がポッと入っていたり、そして新鮮さを維持しなければ、お客さんは飽きてしまう。
 
○攻める

 音楽の場合は守られてしまっているでしょう。リズムがついてメロディがついている。言葉がついている。練習としては、それを外すことをやらなければいけないですね。
 伸ばしてはいないのに、どのくらい伸ばせるのだろう、どのくらい間を空けられるのだろう、その感覚で、攻めて成り立たせたものにおいて、無理に歌うところから始めなければいけない。
 
○区分けしない

 外国人の場合は、それをあまり無理に歌いあげようとしないです。クラシックもポップスもない。せりふも歌もあまり区分けがないのです。ところが日本の場合は、それを区分けしたところから入っているから、今のような歌い方をしたらリズムがとれていないとか、音がとれていないではないかとかが基準になる。レッスンは、さらにそうですね、そこしかいえないのでしょう。感情が入っていないというと、感情を入れては乱れてしまうわけです。デッサンをきちんとして、どのくらい、それを塗り固めるのか、どのくらいで離すのかというようなこと、それが独自のものになっていかなければいけないと思います。

○声楽の弱点

 「明日はどっちだ」をのせるために、これだけ大きくフレーズをつくっています。「何かある」の「あ」だけが、ちょっと声楽っぽいですね。このまま「る」もいってしまうと、声楽出身者と思ってしまうのです。微妙なところですね。「あ」をあのポジションには、普通持っていかないのです。この場合、たまたまそうなったのではないかと思います。
 
○声楽とせりふ

 いろいろな響き方が出てくるのですが、その中で上に引っ込めた、いわゆるきれいに母音を響かせるほうに動かしたやり方ですね。そのところで全部歌いなさいというのは、声楽の先生ですね。今は流行しなくなったような歌い方です。声楽の勉強は、ヴォイストレーニングで、せりふの勉強と兼ねると役立つような歌い方ではないかと思いました。

レッテルをはがす No.289

○レッテルをはがす

 この歌はよくできています。ちょっと固めている部分がありますけれど、今の歌よりは、体がついていてわかりやすいですね。今のはエコーをかけて、ああいうふうに歌えないのをポップスに聞こえるようにしてしまうでしょう。
 「アメージング・グレイス」や「マイ・ウェイ」、クラシックとポップスが、そんなに離れている意識はありません。ポップス歌手もクラシックを勉強し、クラシック歌手は小さいころから歌っているのがポップスで、教会で歌っているのが、クラシックなのかゴスペルなのかという感覚もないですね。日本人はとにかくレッテルを貼って分けていくのですが。それは、その世界の外にいることを示しています。
 
○~みたいにしない

 歌手なのだから、歌手といえばいいのに、ジャズ歌手とかシャンソン歌手と言わないと場がない、その辺からそういう歌い方があると思ってしまう。よく聞かれるのは、「ジャンルによって歌い方が違うのか」ということ。日本人には、まっとうな質問です。「同じ発声でいいのですか」と。それで当の人たちも、知らずにそうなってしまっているのです。
 クラシック、演歌、民謡、なんでも○○歌手みたいに歌う。みたいにというところで○○歌手ではないわけです。そんなものが匂ってくるほど、うさんくさいのに、です。

○「あしたのジョー」の歌

 「サンドバック」、弱めに入ったところから「浮かんで」、そこまではもった人が3人くらいいました。尾藤さんから学ぶここの部分、合っていない、ここで失敗していますね。40点くらい獲得した人はいるかもしれないけれど、10点という感じですね。ここからおかしい人もいますしね。この辺が一番ポイントですね。
 プロとして、とてもうまくやっています、というのは、全体の構成、構成ということがわかりやすい。最後のところまできちんとくみ上げている。ところどころ、わざとつめている部分があって、そこは価値観なので、かまわないと思います。

 後半、「かお」のところから持っていないですね。ひとつのメロディ処理のやり方です。もう少し音楽的にしたいと思いますが、何で音をとりにくくしているかというと、きちんと踏ん張って、台詞を出しているからです。皆のほうが歌わされてしまっている。流れてしまっているということです。ここで上げておかないと、次の「たたけ」に入りようがないわけです。感覚として、彼は音色のところでリズムをきちんとたたき込んで、その動かし方が入っている。皆のほうが浮き足立っています。

○デッサン

 最初にデッサンということをいいましたが、こういうところですね。発声の勉強もあるし、どこを共鳴させたらいいとか、リズムや音程もありますが、結果的にそれが見えなくなること、声も見えなくなるほうがいいのかもしれないですね。
 声だけのよさで勝負する歌い手がいてもいいと思いますが、多くの場合そうではない。どこかで気づかなければいけないと思います。クラシックの場合は、オーケストラを抜けていかなければいけないという絶対的な条件がありますから、グローブをはめて、ボクシングのルールでやらなければいけません。リングがあるから一目瞭然です。チャンピオン以外は負けていく。チャンピオンもいずれは負けていきます。
 ポップスはいろいろな勝負がありますから、こういうところの勝負ひとつで決まっていく。デッサンをもっていったときに、リズムにのったところの音色です。

○戻す

 音色をつかもうとすると、体や呼吸がとまったりします。それから音がひずんだり響きがばらけたりします。それをどこかでつかもうと、統一して戻さなければいけない。
 トレーニングするということは中心から外れていくのだから、どこかで戻さなければいけない。どんどんトレーニングしましたというのは、どんどん外れていくことになってしまいます。それを歌の中で戻せたら、それがいいのですが。

○独自の再現のために

 こういうものをやるときには、デッサンの試みをしてみて、声が出たらOKとか音がとれたり発音ができたらOKではなくて、その中で自分にしかできない独自のものをどう深めていくかです。
 しかも、再現がきかなければいけない。それも深めていっている部分で再現がきかなければいけない。きちんとデッサンイメージがある人にとったら、そのイメージが出てこない、というのは、自分の体や声がうまく動いてくれないからです。
 
○練習のポイント

 1フレーズだったら動くけれど、全体でやってみたり、歌1曲でやったらほとんどつながらない。練習するところは、常にそこなのですね。
 このくらいの短さでいい。皆の場合、まだ4フレーズ、1行やると雑ですね。1、2、3、4とあるとしたら、1、2くらいは集中力が持っているけれど、3、4くらいで雑だし、それから次のフレーズ、8フレーズくらいにいきます。
 
○一体感

 この前、ある歌手の「ローズ」を聞いたら、うまいんです。発音もよくてきちんとつなげている。でも買おうとか見に行こうとか、また、聞こうという気にはならない。ファンの方もいるでしょうが。
 結局、動かすことが目的になっているだけなので浅くみえてしまう。ベッド・ミドラーだったら。役者だとかではなくて、その人でしかできない何かが出てくるのかというところで見ていくことができます。徹底した一体感。

○安易に

 最近、音楽市場がガタガタで、職を失いかねない人も多くなっています。今までのプロデューサーや歌い手以上のものはつくり出せないのに、批判する権利もやる必要もないのですが、皆、同じように安易につくってきてしまった。他の芸能分野もそんなによくはないと思いますが、あまりに早かった。

○組み合わせ(構成)

 組み合わせが難しい。本当のことをいうとここからそこにいくときに、切り替えなければいけない。ここの部分から、間のとり方、どのタイミングで入るか、どの大きさで入るか、音色もですが、メロディを切り替えなければいけない。
 こっちが切り替わるのは、役者、こういうところで音色が出てきたときに、普通はそのままいくのですが、あえてここでひとつ変えています。ここで変えてしまうと、次で変えた効果が薄れてきてしまうのですが、早めに変えることによって受けやすくしている部分もあります。こういうところの大きなポイントは「け」のところがどうなっているか、それからここにどう入るかというところです。
 
○流れ

 発声しか考えないと、歌ってしまう。役者は台詞で感情移入してしまう。感情移入して音色を置くということは、動きが悪くなってしまう。自然に歌っているようでいて、微妙な調整がなされています。たとえばそれ以上に声をはったり、発声に持っていったりすると、感情に入らなくなってしまう。そうやってしまうと音の流れがとまってしまう。

同化 No.288

○同化

 高音に持っていくと、個性どころか、なおさら同じようになってきました。最近はばらけたようになっています。ステージになると、会場の音がよくなって、成り立ってしまう。そこは、よくないところです。ギター1本でとかアカペラでみたいなところから出発したほうがいい。
 ストリートのライブも雑になりました。昔は暗めなりに、何かを伝えようと思って歌っていた。今は元気がいいのか、ハモッて今ひとつという感じです。
 3拍子系の歌を歌ってみればいいと思います。8分の6とか12分の8とかいろいろやってみればいいと思います。

○続けてみる

 自分のやりたいことよりは、何かやれること、才能みたいなことです。目標が定まっていくように使うのがいい。広い分野で、どうやったら道筋がたつかわからない。それを学びにきて、先生と詰めていくこともある。その期間にも、いろいろと使えるといい。
 かつては、入るまでに悩み、入ってからはめいっぱい活用していた。
 他にもっとやりたいことややれることがあれば、それをやる。なければ、少なくとも一度選んだことは好きなことなのだから続けていけばいいのではないでしょうか。
 それが何になるかというよりも、それで自分を充実させたり勉強する。ということは、最悪、そのことと関係なくなったとしても、そこにエネルギーを費やしたり何かしらを得たということで、次につなげていくこともできる。
 どこかに行ってみてはつまらないとか、やる気がないとかでやめるのではない。ブランクがあいて、次に動くのに考えていたら、あっという間に一生が終わってしまいます。
 
○キープ

 やると思った動機や気分をどう維持するか。
 私は、最初はどこからでもいいと思います。どの気分でもどのトレーナーからでも、どの学校でもいいと思う。情熱をかけていくと、その対象が成長とともに、次を呼び込む。そういったセッティングを自分でしてみる。持続していかないと、何ひとつ変わっていかない。将来により有利な習慣や環境を確保していくことが大切なことですね。
 発声も、唯一決まった発声というのがあるのではない。気が向いたときにやり、そうじゃなければやらないなら、コンスタントに力がついていかない。ひとりではやめられない場に行く。
 課題を見つけるよりは与えてもらったほうがやりやすい。そうやって、今年できなかったものが来年できていく。時間やお金で他の人の経験や才能を使う。それは世の中、何でも同じです。
 
○会う

 本を読んで独学したいという人もいる。それには、相当なエネルギーがいるし、世の中に働きかけるというプロセスを経ない。
 本の出版ということでは、編集のプロの人たちが目を通す。そこを通すことによって、新しい問題が見える。「こんなのでは誰もわからないです」と言われ、試されます。そのプロセスは大切です。
 どんどん人に会っていくべきでしょう。いろいろと働きかけ、実現していく。レッスンも学校です。世の中に対して自分がアプローチすることをポジティブにやっていく。レッスンの内容面のことであれば、トレーナーや私がに相談してください。
 
○時間

 やっていくと、楽器のように、めきめきと上達するというものでない。歌は、どこのレベルかというのが、プロでさえはっきりしない。楽器というのは、5年やった人は、1年やった人に勝てるし、15年やった人には負ける。20年やっても、プロ級のレベルになる人が少ないのは、量も、センスも学び方もある。才能だけで頭を出すということで、きびしい世界です。どうしても練習量の壁というのがベースにある。
 ヴォーカルはそういう基準がない。しかし、早いようで時間がかかる。他の分野に総合されて生かされていく。
 
○曖昧さ

 歌の基礎は、楽器をやっていたら何かしら10分の1くらいは活きてくる。その人の生き方や考え方、あるいは性格とか気分まで影響してくる。一方、純粋に音楽として影響されることは楽器のプレイヤーよりは少ない。その分、役者の面であったり、パフォーマンスとか創造力とかが問われます。ギターやドラムの人のパフォーマンスと同じ、遊びとしてできる。その人自身がつくっていかなければいけない部分が大きいわけです。力がついても、一番不安だったり先が見えないというのはヴォーカルでしょうね。その代わり、力がないのに、勢いだけで案外とできてしまったりするのもヴォーカルです。今まで歌ったことがない歌で、うまくいったというのもある。演奏家では100パーセントないがヴォーカルというのは、そういう人としての曖昧な動きが大きい。そこまでどう生きてきたか、練習の年月が集約されて出てくる。その集約を歌に託すのです。

課題 No.287

○課題

 このリズムの上にこういう歌詞を成り立たせようとするのも、一生の勉強だと思います。そのことができないと歌えないということではない。そういうものを一本走らせた上で、歌は歌で切り取って、作品として作っていくのです。それはそのときにできる範囲でやっていくしかない。ただ一本どこかで走らせておかないと、歌い手はうまくこなせてから課題が見つからなくなってしまう。ほとんどそうなのです。課題は、本当はいっぱいあるわけです。ただそれを自分の中でごまかしてしまうわけです。
 
○怖さ

 下手に見せないように、うまく見えるように、格好つくように、お客さんに見せる、そこは余興でやるべきところです。本質の部分を見せていくには、余分、邪魔。落語でもお笑いでも、呼吸ひとつでも外してしまうと、せっかくのネタが全部ダメになって、マイナスになってしまう。
 その怖さが、音楽にないのはなぜでしょう。ミュージシャンの場合は、その人に徹底して音楽が入っていたら、OKになるからです。何をやっても音楽というならよい。しかし、歌では、そこが一番難しいと思います。日本のように、いい人の歌を歌ってしまうと、わからなくなってしまう。ふつう、自分がいいと思うものを、いい気持ちで歌っていると音楽や歌にならないものなのに。
 ということは、自分の音楽や歌がないというふうに見て、それを育てていかなければいけない。そこからが、ひとつのスタイルになっていくものです。
 
○スタイル

 歌い方がどうこうということではない。こう歌われてしまったら直せないでしょう。この終わりのところをもっと抑えてゆっくりやってみたらというようなことはいえないわけです。どこか直したら、もっとひどくなってしまうわけです。それはひとつのスタイルです。お客さんは舞台として見るから、客層によっても違ってきますね。すべてに対して万人に対してということではない。誰かにはすごく意味のあることでいい。誰かにはまったく意味のないことでいい。それでいいと思っています。
 ただ少しでも汲み取れるのであれば、昔のもので今やっても古くならない、何かしらインパクトがある、変わっているとか、絶対まねできないもの。そういうことから学べるものは、無限にあると思います。
 
○喉声

 最初は、喉声っぽい癖をつけるということで、あまり使えなかったのです。最近は歌い手に喉声というのはなくなっているのです。
 声楽家でポップスを歌っているような人は、四季なら活躍できると思ってしまう。ということは、共鳴を統一させて歌うということが、すでに古くなっているような気がするのです。
 海外のアーティスト、アメリカやイギリスも、そういう影響下にない。ロックでもパンクでもそうでしょう。拡散して歌っているような中でも、音がとれて、音色が出て、音色が刻めている、その部分でやっている。
 ただ日本人がそれをやると、喉を痛めてしまいます。どうやって流れにのせるかというような問題になってくるのかもしれません。一昔前の人のほうが、そういうものはもっていた.
 高音部に関して、声楽を勉強して美しい歌声にしても、全部がそういう処理法では、同じような歌に聞こえてしまう。飽きさせる原因にもなってしまう。
 浪曲や民謡のほうが広がりが大きい。声楽の部分を使って、中声的な声で裏声にもっていく扱いをしていく、そういうところに頼るものの怖さと、落ち着かせなければいけないところでせめぎ合う。どうやって歌うのかというときに、何かしらそういうものを持っているとこなせる。こなすだけではダメということになると難しいからです。
 
○オリジナリティ

 そう歌ったところで、誰が認めるのでしょう。オリジナルのものというのは、よっぽど強さと感性度がないと下手だとしか見ません。認めてくれない、その歌い方をやめたらといわれる。日本のような国では、特に難しいと思います。
 何人かいるのですが、大半、向こうから来たハーフの人。それでも認められないというのは、歌と音楽性にあるのでしょう。
 業界は、若い人に対してという基準があって、それを破るのは難しい。いろいろなものを見ていますが、どうも私の耳でいうと、音色やオリジナリティのところで同じような傾向になっている。未熟で抑制するのがいいと。

今昔 No.286

○今昔

 

 リズムというのは、わからないです。日本語でこなすこと、向こうに合わせず曲も合わせず、独自のものをつくっている。その独自のものはあわただしくバタバタして、頭打ちのような日本人の日本語の感覚が出ている。かつての、日本人の声のよい歌手の歌にもよく出ているもの。日本の客にとってはそのほうが聞きやすいし、日本語も聞こえやすい。音色やリズムを中心にして、向こうに近いような感覚で動かしたら、客は離れるのでしょうか。

 昔はしっかりと発音しなければいけなかったり、メロディを外してはいけなかったのですが、今は自由なので、聞くほうがそういうことを許してくれる。なのに、そこをまったく新しいアーティストたちは使いきれていないのです。

 

3拍子のリズム

 

 3拍子系のリズムというのは、日本人には難しいのですね。本当に難しくて、ただ3つ打てばいいというのではない。これは4分の3で、そんなに複雑ではないのですが、この流れではのれない。

 日本語でつけていったときに、休符と3拍子の中だけで動かしていくと、どうしても詰まってきてしまうのです。全部しゃべりまくっているようなかたちになるのです。ところが、向うの原曲のを聞いてみたら、相当、間が開いているのです。そういうふうな処理の方法をするには、本当は日本語をつけかえればいい。

 それをどういうふうに変えていけばいいのか、聞くほうは日本語をつけかえても、日本語として捉えていこうとします。

 日本で3拍子がないのかというとそういうものでもない、ただこういうものになってくると、3拍子の問題というよりも、リズムの問題です。こういうものをこなして、流行りのものをこなせるのではないかという気がします。

 

○妨げる

 

 動きからつくっていくと、踊りや身振りが入ってしまう。ステージを見ている人には手とか体の動きでよりわかりやすくなる。音だけで聞くとみえないものまでみえる。感じやすくなります。

 ピアノの演奏の場合は、たしかに体も手も動きはします。あくまで音楽演奏の動きにおいています。だから、音楽で、流れを流暢にできるのを妨げるのは、ステージングからきているものだと思います。

 

○バタバタ

 

 聞き込んでいると似ている部分がある。この歌い方にしていくと、呼吸がとれなくなってくるからバタバタしてくるのです。それがわかるとすぐに切り替えて元に戻すのはさすがだと思います。

 呼吸だから、どこかで踏み込んだら、どこかでリピートしなければいけない。水泳を例によく言っている。水をかいたらその分、腕を休ませなければいけない。これができていないとフォームが崩れていきます。

 どこかに間をとらなければいけないけれど、これだけ畳み掛けていくと間がとれなくなる。畳みかけていくときに、せりふにはなるけれども、音楽が崩れて、途中バタバタとなってしまう。劇場型の人には,評価されるのが、楽器やバンド型の人にはやりにくいと思われますね。

 

○リズムと呼吸

 

 とても1時間ではやれないのです。1000回やれば、どんどん変わってくる。つまみ食いしてでもできる。1年やって、また1年後にやってみて対応できるかということです。

 どこかで入れないと、入っていないとダメですね。自分の呼吸を持っていても、違うリズムのものだから、違う呼吸を入れなければだめですね。そのリズムに乗せてやってもダメで、そこに自分の呼吸が出てこないといけない。

 こうやって繰り返しているうちに、自分の呼吸を意識したり、自分の呼吸みたいなものに、なんとなく半分くらいとなったら相当よくなる。今のところだと5分の1や10分の1もいっていない。3分の1くらい合えば持つ。徹底して合わせようとしたら、78割に近いところまで。やがて日本語でももっていけるようになるのでしょう。もっともそこばかりにこだわれない思惑があると思うので、そうはいかないのでしょう。もっとさっぱりと歌えば、呼吸はもつと思いますが。

 

○テンポ感

 

 3拍子ということも、歌のタイミングも、こういうのは古い勉強というか、一番基本的な勉強ですね。学校でアンサンブルで、バンドとあわせて、リズムがとれるといいます。最初はメトロノームで合わせて、そこから自分でつかんでいく。

 テンポ感があるということ、歌い手の場合は、言葉としての部分できわめて台詞を言うとか、音楽の部分だけで、きちんと完成させておく。それをつなぐところで、歌い手の力が発揮される。両方あわせてやったときに、どちらか一方よりもよくなるというのが、歌う味です。

 せりふだけで伝わるのだったらせりふでやったほうがいいわけです。

 伴奏をつけていくと、それでごまかしになって、日本の場合は、歌に使われてしまっている。せりふでは、漫才でも演劇でも、間で覚えているのです。この間合いをどうやるか、ましてや2人でやったらタイミングがあわなければいけない。どうやらなければいけないというルールが決まってくるのです。

 自分の感覚と場の感覚の中で、ある程度決まってきたらよい。決まっているから伴奏がつくのではないのです。そのテンポ感のアップの速度やどのタイミングでとるかとは、誰かが決められるものではなくて、自分の体とその時代です。

 

○歌になる

 

 今の時代だと速くなる。これでも速いほうだと思いますが、それは指示できることではない。こういうレッスンは、作詞も作曲も、アレンジもかねている。自分の呼吸をきちんと知って安定させていくとともに、歌にしていく。

 歌や表現になることからやっていくといい。歌になるということは、それなりの落ち着きを示す。速いものに関しては、向こうのものがあって、それを聞きたいお客さんに対して、日本語に訳している。

 

○独立性

 

 きちんと歌詞とメロディに呼吸と体を一致させてつくったかというと、そこまでの完成度はない。いい悪いではなくて、完成度を見たときに、練習の課題としてのこと。人前で発表するには、お客さんが満足すればいいわけです。結局、お客さんの満足で終わってしまうのか、作品としての独立性とか完成度とかいうものを追及するのかで、課題のレベルが違ってくるのです。

直せる No.285

○直せる

 宝塚でも、三代くらい前の人にはかなわない。できて50年くらいにピークがくる。そこを出身の人から演技や歌唱指導を受ける。
 今考えると、単純で、1曲聴いたときに、私のベースにしているのは、自分がどこまで直せるかということ、それだけなのです。
 たとえばこういう歌は聴いていると、価値観は違うとしても、50も100も直す箇所がある。こういう人がレッスンにきたら成り立つかどうかわからない。それは当人の好みが客や周りの好みですから。たとえばこの4曲の中で、まねの強い部分と個性的な部分がある。それがデッサンとして明確なかたちで個が歌を従えているかというと、逆なのです。歌に従ってしまっているわけです。それでは創唱した人にはかなわなくなってしまいます。
 
○情緒とメロディ

 日本語がいいという人に原曲で聞かせても、日本語の歌のほうがいいと言うでしょう。それは日本語の情緒性、なぜかクラシックも情緒的なのです。
 日本人の捉えるところは、モーツァルトでも何でも日本で流行るものは、メロディです。メロディがいいということで好むのです。複合的な構成や展開や、和音とかは誰も取り上げない。フランス人の好きなモーツァルトと日本人の好きなモーツァルトの曲の順番は違う。向こうのほうが優れているとはいいません。日本人が何にひかれるのかを知った上で、もう一度見る必要がありますね。上から見た上でもう一度降りてくる。日本人は情感が好き、情感をたっぷりとことばに込めて歌うというのが好きなのだと思います。
 
○古典を

 若い人は古典にさかのぼらないのでしょうか。私の若いころは、いいと思ったら、原曲は誰が歌って、その次は、とルーツを求めていきました。いろいろと聞いて判断する。大体の場合は原曲のほうがもっといいのです。
 
○はまる

 はまっていくことで上達するのはいいのです。ところがはまっていく上達というのは、ひとつの中でまわっていきますから、出口がないのです。そこを突き放して、心地よくなっている自己を否定していかなければいけない。それをより高いレベルから見たらどうなるのかと、違う可能性はどこにあるのかという見方をしていかなければいけない。どの世界も、はまっていくとだんだん見えなくなってしまうのですね。はまっている状態なのか客観視できる状態なのか、よく見なければいけない。
 
○立場

 ファンがはまっているものには、なんともいえない。この人をまねたいと思った人のトレーニングを引き受けた場合には似たことになります。トレーニングに関してのことです。カラオケで楽しんでいることや、ゴスペルで楽しんでいることに対して、どうこうということはありません。常に立場の取り方というものがあります。
 それぞれのスタイルがあれば、どれも勉強になると思います。ここでこういう人がいたら、どう思うか、きっとうまいと思うのですね。

○リズム

 外国語、歌唱のメロディ、リズムの取り方ですね。それを外して歌える人はあまりいない。日本のラッパーでも、メロディがないだけでなく、リズムがないから、業界の人はよいと言っているのですが、それまでひどかっただけです。
 よくなったということは、リズムに快感が出てくるのですね、リズムを刻んでいるとかリズムに合わせて歌っているということではない。シャウトに新しいリズムが生まれる。そこを超えないと、認められないわけです。エコーをかけるようになってきてから、さらにぼけ始めた。
 オークラに、ある医者といたら、彼は本に革命をおこす、義憤で行動していますと言われた。そういう怒りみたいなものがなくなって、歌の説得力もなくなってきている気がします。
 
○笑い

 M1グランプリの話、去年までだったらトップをとれているのを、まったく1からやり直しというかたちでつくってきました。関西系の審査員というのは、西の方に対して好感を持ちますよね。何をもって笑いというかという定義が違うというか、独特な部分があります。上位の3、4組のエネルギーは、ひとつの怒りです。それは世間や体制に向けてというわけではないのですが。
 
○代々木

 この辺は、5月にはメーデーのころになると警備が強くなります。今の代々木は、山野の美容とアニメーションの街みたいになっていますが、かつては代ゼミの、その前は共産党の街でした。今でも街宣車が来ていますが、日本ではデモはなかなか起きない。
 海外では、すぐに考えを行動に結びつけるでしょう。そのことと歌が結びついていたのが前の世代です。私のころには、学生もちょこちょこてんぱっていましたが、怒りということではなくて、イベント的な感じでした。
 
○団塊世代と今

 団塊の世代で、集まる人たちがいるから、あの時代のアーティストは食べていける。古い歌を歌っていける。それは悪いことではないのですが、新しい動きが出てこない音楽や歌に関して、守りに入ってしまいました。
 丸山さん(元ソニーの方)が、mF247という配信サイトから出そうとしたのに、向くのが沖縄のほうになってしまった。
 日本のオリジナリティというと、もはや島にしかなくなって、それというのもプロデュースの延長にすぎないのです。
 発掘してあげるという動きでは、新しいことをやるといって限度がある。既存のルートに対し、ネットでいろいろなものは出せるし、イベントもやりはじめていました。新しい知人に送れるようにするのも、ネットの使い方ひとつだと思うのです。けれども、エネルギーのもつものが出てこないと、テレビと同じような感じに終わってしまうと思います。

○ベースの力

 編集部から頼まれてたのは、「なぜ、歌のうまい日本人の歌い手というのは、人の歌を歌うとあんなによくなくなってしまうのか」と。なるほど、そういう感じで見ている人もいる。わかってはいると思い、引き受けてみた。変に新鮮だったのです。
 日本の場合は確かにそうです。ここにきて、ある歌手が好きでたまらないという人がいて、ここで勉強してコンサートに行ったら、ヒット曲以外は聞けなくなったと。アーティストに対する評価は、そんなことで変える必要はない。活動をしていることが実績だからです。ただ耳が鋭くなると、どのくらいできないのかというのは、わかってしまうくらいになる。 
 アーティストが、そのくらいにわかってしまうというレベルでやれてしまうのが、日本の音楽のレベルですね。声に関してということであり、その分、他に深い才能が秘められているといえるのですが。
 海外の音楽のアーティストはわからない。パッと聞いても、どう入れるかどう直すかわからない。やってみたのがいいところに落ち着く。好きか嫌いかはあっても、何かは言えない。それはそれの完成度を持っている。それが作品だと思います。その辺は、まだまだ日本は甘いのではないかという気がします。

「本」 No.284

○本

 制限することで甘んじてはいけない。タイトルはレトリックかと思っていたのですが、なるほどと思わせて最後まで読むと、タイトルがきちんと説得させている。なかなかタイトルが説得させてくれる本というのはない。
 
○成長

 ファッションのセンスがいい人が、「着るのをやめろ」と言う。自分ではそれが一番似合っていると思っていて、その人の勧めたものは合っていないと思う。1年がまんして言うとおりにして、1年経って自分に合っていると思っていたものを再び着てみたときに、いかにダサかったかわかる。そういうものだと思うのです。
 以前の自分の中ではこれがいいと思っていたり、自分だと思っていたり似合うと思っているものは、通じない。ファッションに関していうのだったら、プロの目で変えてもらう。
 ファッションに自分を合わせる。それはある意味では自分を投げているようなのですが、より自分を活かすために、ファッションのセンスが伸びたということです。そういうことはよくありますね。次元を超えるというのは、その先のこと。
 
○触れる

 3年前に書いた文章を読み返して、こんな程度のことを書いていたと思えればいい。私は10年前に、書いた本を読んで、結構、関心したりしていますが。
 自分の力とは違う方向であれば、情けないものになります。歌もそれの最たるものではないかと。続けて、うまくなれる人は、日本では少ない。あなたのことではなくて、プロの人が正にそうです。そこから考えてみると、他の分野でそういう考えをもっている人から学び、破り続けていかないと、すぐに停滞してしまう。本当にシンプルによいものに触れていくといいと思うのですね。
 
○亜流

 時間があれば、トークショー、いろいろあるらしいですから、聞きにいくと何か発見があるでしょう。
 日本は日本でいいと思うのですが、その結果、日本独自のものができているのではなくて、昔の亜流、他の国の亜流のものでとどまっているところで、満足してしまうのではないでしょうか。
 格好いいというのから入っていく世界はいいのです。けれども、どこで自分のものにするというところに気をつけないとダメです。
 
○日本のもの

 ファッションでも、日本人が発信できたものは日本のものですね。向こうにいって勉強はするけれども、日本のものとして出している。そうでないと向こうでは認められない。
 日本は、向こうで認められないと入ってこない。一方、向こうで認められても、日本では評価されないものもある。日本で評価されているものは、同窓会のもの。今もそういう国。
 今、あなたの周りでもきっとそういうことが起きていると思います。どういうふうな思考をもっていくかというのは、大切なことだと思います。作品を本質で見ると、そんなに迷わないことです。
 それを必ず妨げる何かがあるし、人がいる。そこは、窮屈な部分です。それが悪いということではない。日本のいいところでもあるのでしょう。

○音色を活かす

 いろいろな発声があります。個性的な音色を出すということは、一見、発声が統一されなくなってしまうことです。リズムを中心にとってメロディを処理していく。母音をとりメロディをとり、拍をとり、そこに言葉をつける感覚ではない。
 
○声のパワー

 ペギー葉山さんの時代のように、より深いところで声をとって、ビブラートをかけるみたいな結び方は、歌という形にまですると、説得力があるでしょう。
 残念なことながら、最近は、歌唱力の声そのものの部分が落ちたため、そういうところが古く聞こえてくる。若い人は、そういう声のパワーでは聞かなくなってきているのですね。
 
○プロの歌

 母音で1拍というかたちは、向こうの音楽に合わせたときに、音の流れからはみ出すことができないですね。ためてしまうし、遅れてしまう。もたれてしまったりする。その乱れがどうしても出てしまうということですね。
 それを聞いて、周りのプレーヤーは、それを正そうと思って、拍やメロディを一致させようとして、ピッチャー音程を正そうと促す。すると、きれいに収まるが、それ以上のものが出てこないということになってしまいます。
 
○混沌

 ぐちゃぐちゃにやっている中で、つかんでいく方がよいのではないかと思います。ゴスペルとウィーン少年合唱団が対立するような浅いレベルでの感覚の違いがあるのではないでしょうか。いろいろ研究してみてください。

○歌の日本語
 
1週間くらい前にいろいろなところで賞をとっているクラシックの人が、日本語で歌うのがいいと、クミコさんのが見本だというのです。クラシック歌手がクラシックの世界で認められながら日本語で歌わなければいけないときに、その日本語で歌う見本として、いろいろなものを聞いた結果、そこに落ち着く。
 私は、常に自分の感覚は疑っています。若くてすぐれた人がそういうのだから、何かあると思ってきくわけです。難しいのは、本当のオリジナリティといろいろなものが合わさって、消化できていない部分のオリジナリティ、これは、すぐには区別がつかないですね。
 
○基準

 いろいろなものをまねながら独自のものが確立していくのです。私もプロの人とやるときに自己懐疑的だったのです。自分はどう歌いたいのかということを押し付けてしまうことになってしまうのですね。次に自分はどう聞きたいかの押し付けになりかねない。自分はこの曲をこう解釈したい、こういうふうにやってほしいと導くと、ヴォーカリストだったら、そう言われたほうに持っていってしまうでしょう。私はその点では懐疑的なのです。違うと思って直して向こうがやったというところでは、成就していない。今ははっきりしています。まねて、だめだったというか、結局は、まねだとわかった人を結構見てきたからです。

「枯葉」 No.283

○「枯葉」

 「枯葉」は平坦になりやすい曲で、難しいです。成り立っている部分というのが、「ホ」のところまで、「ソング」あたりはいい。表現として自立できているということです。最後の「fall」のまとめかたがよくない。
 テンションを上げて入るべき歌ではありませんが、きちんとして整理していかないと難しいです。よくなかったのは、「since」、「the days」から「long」、「then soon I’ll hear」、「old」から「winter」に入るところも、厳しいですね。

○シンプルに

 変な色のつけ方や、フェイクとか処理、音をゆらしてみたり、ずり上げてみたりずり下げてみたりしないこと。そういう技術っぽいことは、技術っぽいと見られるとダメでしょう。お客さんがそういうところで拍手をしていたりすると、わからなくなっていくのでしょうか。
 レベルの高い人たちが、こういうことをやっているかどうかというふうに聞けば、どうなるかということもわかります。実験としてはいいのでしょうが、シンプルになっていないのが気になりました。
 
○伏線

 ギアを変えるのはいい。一連の流れを、何かを際立たせ、どこかで収めなければいけないということでのできです。エンディングもです。
 おかしくするのはかまわない。そこからヒントを得る。個人の好みもあります。全体の呼吸や動きにのっかったところに働きかけていないと、こちらには届かない。やってはいけないということではない。プロもやっている。
 プロは無理に大きくしたり強くしているのではなくて、そうなるべき必要性を伴うべく、伏線を張っている。二段、三段構えなので、落としません。表現に対する呼吸を持って、結果的に強くなったり大きくなったりしていると捉えていたほうがいいと思います。
 
○全体でみる

 全体の流れからは絶対に崩さない。たとえば7割ぐらいまでしか崩すことを許されないところには、6、7割で止めている。それ以上ということになると、次のフレーズが成り立たなくなってしまう。常に全体の中で、流れを優先しながらどこまでやれるかということです。
 課題ですから、100パーセントで上げて、次のところがグタグタになろうが、ブレスが間に合わなかろうがかまわないです。ただ、結果、何もやらないほうがいいことも多いのです。どの辺で調整していくのかということだと思います。
 
○決まる

 どこをどこまでコピーをとるのかというのは難しい。声量とか音色、フェイクをコピーしようと思ったら、おかしくなる。踏み込んで、その後にそれを大きく膨らませ、1、2と2段階くらいで着地したと。ジャズでは、多くの人がそれをそのままやろうとしてしまうのです。元の歌い手にとって、そうなってしまったのは、多くの選択のひとつでしかない。結果、どうなるのかはその日の体調や感覚だったりする。歌っていくと、今回はこれで行こうかというところへ落ちる。
 3回弾むのではなくて、1回だと決めたということは、そういう歌い方があるのではなくて、その歌い手の中での呼吸から声の動きの中で決まる。この曲の一番伝えたいものを、そうやったということで、同じにとらなければいけない規則はないのです。
 
○組み立てる

 そういうものを聞いてしまうと2倍にしたくなる。ここでもうひとつできるぞと3倍にしてしまったりする。そこは本来、そうあってはいけないことなのにです。何かの弾みの後に、ポンッとボールが跳ねるような余力でやるようなところです。その余力のところを2つ3つと、さらにやってしまったら、バランスで崩れています。歌ではなくなってしまうのです。
 無理に息をもってきて配分を変えて、まねてやってしまっているのがみえる。メロディもリズムもどこが中心なのかわからない。ここは動きをつくるところなのか、それともつくった後に遊びとしてあるところなのか、何一つ決まっているわけではないです。その日の気分、感じ方によっても動きは違います。それを常にうまく組み立てる術をもつというのが、プロの歌い手です。
 声は声で伸ばしておいてほしいのです。展開とか構成みたいなことをどこまで読み込めるかが、その歌い手の能力です。

○古い

 客とのかけひきで、歌い手が呼吸を変えた、何かをやるぞ、ああやったと。呼吸が同じで、同じように盛り上がり、収めてくれる、そういう伏線をはり、そういうルールを守ったほうがいいですね。
 そこについては、厳しく見ています。こういう歌はそうしないと、何も言うことがなくなってしまう。こういう歌は、古い歌ですねとしかいいようがない。古く聞こえる歌ほど難しいです。
 こういう歌のほうが、はっきりと言いやすいですね。今風の歌やJ-POPSを持ってこられるよりいい。違うと思っても、それを伝えるようには、なかなか言えないからですね。違うといったら意地悪のようです。一つひとつの音に対して細かく判断しても、頭からダメだということでは、いつも、苦しみますね。
 プロの人には、とても言いやすいです。向こうもわかってくれる。迷っていても、自分で知らないうちに悪くなったというのは、聴けばわかる。
 そうでない場合は、発声だけをみるのでもないかぎり、歌についてあまり言わないようにしています。意見が世代の価値観の相違のようになって、違うと言ってしまったら、どうしようもなくなってしまいます。
 
○「部分的に」

 部分的にというのが成り立つのは、どこかがいいのに対して、どこかが劣っているとか、本来こうできるはずなのに、そこをやっていないとか、両方の比較があっていえる。悪いとばかり言っていると、どうすればよいかわからなくなってしまいます。何をもって悪いというのかを明確にしない限り言わない。
 起承転までのところはひとつの部分で、結でまとめなければいけない。「はじめて」というところはいい、「だよ」というところの終わり方に対して直す。

○かたち

 歌というのが難しいのは、気持ちがのっても、3ヶ月で終わりになったり、6ヶ月で終わりになったりする。1年経ってからもう一度といっても、ダメになってしまう。それに似たような崩れ方をしました。構成はわかっているし、歌の置き方もわかっているのに、なぜ、新鮮にさわやかに聞こえなかったのかということです。
 この手の歌はその辺がとりえです。新鮮さを失っても、もつ。でも、プロが歌うには難しい歌です。かたちをつくって演じてしまうと別ですが。なかなかこのかたちをつくりにくい。この内容とこの音の広がりみたいなものを処理する。役者がやっているようならいいのです。けれど、この歌の音楽としての味は死んでしまいます。
 
○フレーズ処理

 「たとえ今は」から、音が若干狂っています。全体的にトーンダウンしたようなイメージになっているのです。「遠くはなれていても」の「は な れ て も」、それから「ひとつの」のところの「つ」から「の」ですね。「愛」はいいと思います。「涙」も崩れている。「この胸に感じる」のブレスは変えられたのではないかと思います。
 「遠く 離れていても」、それから」「いつでもこのことは忘れないでいて」、この3つの山に対して、平坦になって、「でいて」でずれている。それをひきずったようになって「あなただけを」というのが平坦になって「思っている」は動かしているけれども、「この熱い」というのは崩れて、「愛を」も平坦になってしまっているということです。
 「たとえどこにいるときも」、それから「何を」は、ひっぱりすぎというか、ひきずりすぎている。意外とサバサバと歌っていかないと、メロディとか内容のよさが伝わりにくい。
 
○感情移入

 客観的に突き放して、何の感情移入もしないように歌っていながら、ちょっと肝心なところに入れるくらい、そのくらいで、十分なくらいに伝わる。それをメロディや歌詞を大切にするということで、それ以上に歌い手が声でどうしようということを入れてしまうと難しくなってしまいますね。流れてしまうと、もっていかれなくなってしまう。感情だけに走り過ぎないように。そのことはわかっていたと思うのですが。感情移入したのが悪いのではなくて、音のもたれとかべたつきということですね。すごく感情移入してこれを歌ったという人もいたと思うのですが、そういう意味での悪さではないですね。

○入れ方

 流れというのを考えてみましょう。音響の性能がよくなっていくにしたがって、生まれ持っての声が問われなくなって、発声も問われなくなっているかのようです。
 映画の音楽でよく使われているものは、その映画の中にきちんと歌がはまっています。うまいとか下手とかでなく、心地いいと思わせる。
 昔はゴスペルの人しか歌わなかったようなものも最近は全世界で歌っている。発声や声からいって、それぞれの味はあります。日本人があのレベルのことをできるのかというと、あの流れの中では我々は歌えないですね。
 どこかではみ出してしまったり、どこかで声を荒げてしまったり、どこかで入り損ねてしまったりする。そういう入れ方に近いのかもしれない。
 
○音楽性

 全体の流れをきちんと知り、自分の音楽に対して、声量に頼らず、きちんと組み立てていく。すると、落ち着いたサウンドになる。向こうのラップを聴いていると、BGMでも気にさわらない。日本人のを聞くと、英語なのに日本語に聞こえるというのもある。英語でやっても、落ち着きが悪い。ドタバタして、一生懸命に何かを言っている。言っているということしか聞こえなくて、繰り返し聞くと疲れてくる。音楽性とは、音楽の流れに基づいた声の見せ方や処理のことだと思います。外国人は、ラップや小さな声で歌うこともうまい。

○組み立て  

 バンドの人も、ピアニストやギタリストがたまに歌うのです。ヴォーカルのようないい声ではないのにうまいのです。下手ではないのです。うまい、下手と思わせない。声量や歌唱力のことばかり気にしていたから、下手でないのはなぜと思ったものです。うまくなかったら下手なのですから。ミュージシャンだから、当然、リズムも音も外さないです。でもその他にも、組み立てができていたのですね。そういう歌い方を目指せということではない。
 今はそういう見方をされます。まったく下手なのは別にして、教えやすいというのは、1オクターブしか出なくて声量も出なければ、固定していくだけだからでしょう。それによって音が外れるということはなくなっているのです。
 
○駆け引き

 カラオケで、声の出ない人は、下手にはならない。ぼそぼそと歌っているので判断されない。正直にめいっぱい歌う人が、ど下手なわけです。なかなか体から声を出せないものです。
 本当のことをいうと、声は体から息とか流れにのせているので、両方の要素がほしいです。メロディどおりに歌う。そこで何かしら新しいものを起こすためにパワーが必要です。最終的に、うまかったと思わせるには、駆け引きがいります。音楽やバンドの駆け引きができて、セッションができていなければもちません。
 
○納める

 「サックスやトランペット、セッション楽器と一緒に勉強しなさい」と言われて、トロンボーンとサックスをずっとヴォイストレーニングでやっていました。声でセッションが伝えにくい。サックスは音というのを、どういう音色でおくか、同じフレーズを自分の音色をどう出して、それをどうつなぐかを学ぶ。ピアノよりもわかりやすいわけですね。トランペットでもそうでしょう。こういう動かし方をするのは、これしかないという色とため、それを皆、持っている。そういうことでは、声はもっと自在にやれるから難しい。
 声自体が一人ひとり違う。自分の声がトランペットだったらどう吹くのかというような問いからです。そうなったときには、何でも吹きまくればいいということにはならないはずですね。どこでどうやってどう埋めていくのかということを、はみ出していいと思いますが、きちんと納める。
 
○わかる

 きちん納め方というのを、マスターしておく。語尾とエンディングは、ヴォイストレーニングのベースのこととつながってきます。若干でたらめでもそういうところが納まれば、聞いてもらえる。うまい下手の判断は、声が雑だとか、声が割れてしまったとか、そういうところで見られる。それを見せないようにしなければいけません。マイクにエコーがついたらごまかせますが、マイクを使わずそれを見えるようにしています。
 私が期待するのは、アラを見えるところで見えないようにする技術をきちんと持つということです。エコーをかけたら、こんな厳しいことは言われない。専門家でないとわからないほどの緻密な問題でなく、これは、大きな問題です。
 カラオケでやっていたらわからない。アカペラで歌って自分で聞いてみたら、わかることです。そういうところを反省してやってみてください。
  
○人前で
 
ひとつの目的は人前でやることです。人前でやると感覚が変わる。張り上げて歌っていたのに、人前に出ると、もっと伝えたくなって、柔らかく丁寧にしてしまう。そのことで直っていけばいい。
 急に直していくと、呼吸と体の原理から、それてしまう場合もあります。体験してもらうのが一番いい。ピアニストや伴奏をつけてしまうと、違う感覚が入ってくる。それもいい経験なのですが、自分のものを確立して持っていないと、振り回されてしまいます。
 
○効果づけ

 最初からピアニストをつけてしまったら、ピアニストの演奏にのっかってしまうだけです。私はいろいろな人で経験しています。
 アカペラでやれば自分でわかっていく。ピアノやバンドがついて、雑になってしまう。お客さんにはわからないかもしれない。それゆえ自分を伸ばすトレーニングの場としては、よくないことです。そういうところから、自分でチェックしてみてもいいと思います。
 とはいえ、アカペラで聞くとだめでも、加工をかけ、音質を変えてみることによって、うまくできるケースはあります。ごまかすということではなくて別の意味での効果が出てくることもあります。

形と身(書道) No.282

○形と身(書道)

 書道で、先生のお手本を見てなぞって書いたら、同じように見えるかもしれない。でも、よくみたら、バランスも力の入れ方も違う。ひとつの呼吸の中で動いているものではない。そこから入るのは勉強としてはいい。多くの人が、形だけ正しくまねようとして、ぶつ切れをつなぐだけになる。字をみるのでなく、先生の動きをみることです。それは、時間と空間で捉えることになる。どの角度からどのタイミングで、どのスピードで入るのか、身のこなしを知ることになる。
 
○テンポでない

 ピアノでいうと、ペダルがまったくない。共鳴の変化がないようなかたちです。声としては共鳴しても、音楽としての奥行きがない。ボーンと長くつなぎ、最後の響きから、またつなぐという流れがある。それがパッと切れて、入れて、また切れて入れてとなっていると、その動きだけがあわただしく見えてしまう。テンポに遅れないで、ちゃんと入るという練習にでは、頭が強くという感じで、尻切れトンボのようにパンと終わってしまう。頭が弱く入るところもある。強く入ったとしても、最後のところは何かしら余韻があって、それを受けて次のところに入る。同じテンポでないと、聞きにくい。

○声が出にくいゆえに

 声が出ないのに歌っている人に、説得力があると感じることもある。もっといい発声の人がいるのに、そのようなこととは違う面で成り立っている。地方にいってもそういう人がいます。
 一番いい練習は、2番の頭のところ、これをどういうふうに動かすかというようなこと。これを丁寧にやっていくと流暢になる。声が出てくる。果たして、それがよいのかと思うこともありますが。
 
○強弱でない

 強くと弱くがはっきり出すぎています。もり上がりに対して納め方、大きく小さくだけでなく、距離をとるとか、遠くとか近くとか、いろいろな感覚がある。その中であらわれてきたものに対して、強さと速さだけを変じるのでない。強いとか弱いとかいうことでまだ動いているだけ。
 何回も歌って、あるときに力を抜いたら、きっとうまく動いていくでしょう。
 勉強しているときには、大きいところ、強いところしか聞こえないのでしょう。そのために体で無理に声を絞りだしたり、声を抑えたところで出して、喉に負担がきている。それが、つっかかった原因だと思います。
 
○強さの盲点

 30分、1時間とやっているうち、喉を強くやることによって出やすくなる。今度は弱くとか高いところに対応できなくなる。つまり、固まっていってしまう。とことん固めてやっている人も中にはいる。声楽的には理解できないとしても、丈夫な人もいる。日本人がやるとつぶれてしまう可能性が高くて勧められない。
 自分の喉が強いという自信はなくすこと。こういうことではつぶれないということがわかってから、徐々にやっていくべきことで、急にやるとつぶれる。イガイガするというようなことが重なっていくのは避ける。
 
○コツと深さ

 ここで抑えて、強く聞こえるようなことは、向こうは2秒くらい、こっち側は5秒くらいで同じ強さに聞こえる。だから、喉で動かして詰まっていくほど、力でやってしまう。力で動かすのは、ワンクッションおいた力でないとうまく働かない。思い切りやっているようで、実際にやっている人たちは、そういうところから何か、動かし方のコツを覚えていく。表情は同じような表情ですが、原理としては体から回してつぶさないような懐の深さがあるわけです。
 
○柔らかみ

 「タラララララ」という音はとれるし、その動かし方はできる。けれども、その音の中でもフレーズが成り立ちながら、こぶしのようにきちんと回って柔らかみというか、1つのフレーズがこうなるというのを出してみましょう。ぶつっと切れてしまわずに、こう聞こえればいいというところ、そのなかに入っているのは、ひとつの味だと思う。
 
○大きくするには

 最後の音がつっぱっていたら、状態を悪くしてしまう。他の部分も似たようなものだと思うのです。繊細に、コントロールしている線上に、大きくしていくならいいのですが、いきなりというやり方は危ない。ある程度は、輝く響きや音色をきちん育てて、フレーズのかたちで、強くしたり大きくしたりする。その動きの中でより大きくしてみたり、急にしてみたり変化してみたりということでメリハリをつけましょう。動きがないところでいきなり、3つくらいの球をバンバンとぶつけるようなやり方は危ないということです。
 
○徐々に

 自分がこの曲のここのところを繰り返したら、この音でちょっと痛くなったと、わかってきたら、無理に克服しようとしないことですね。よけておいて、そうでないところからアプローチする。1、2ヶ月でも喉は変わる。喉に影響がないとわかったら、徐々に強くしていくことです。
 
○真ん中

 本来は、土着の感性でやっていくものでしょう。それをヴォイストレーニングというのは合理的に効率的に、遠回りしないように、声の中心のところをみながら進めようとします。中心に対しては、ゆらしては戻そうということで、真ん中というものを、何かしら想定しておいたほうがよいということですね。
 
○負担

 ステージでは言いませんが、練習にまで負荷をかけてしまわないことです。体の負荷はともかく、声帯回りの負荷は、悪い方向に出てしまうものです。日本人の喉は決して、強いわけではない。外国人の10人に8人がOKのことを、日本人は2人くらいしかOKが出ないようなものです。歌いたいように歌っていることについては、ほとんどに悪い影響が出てしまう。
 
○外国人との差☆

 彼らは子音を使ったり、高いところをとったりしても、うまく喉を休めています。瞬時に使って、強く、大きく出しているようで、勢いやスピードでみせています。その後に使っていないのに、我々はそれを大きく伸ばして負担をかけてしまう。
 向こうが0何秒くらいでやっていることを1秒くらいでスタッカートぎみに、それを掴んで出せるだけの包括力のある体やコントロールがないので痛めてしまう。力では音楽的には動いていかない。ピアノを力で弾いているみたいなもので、音楽のレベルは低くなってしまいます。
 
○力と脱力☆

 力は働かせなければいけないときは、力を抜くのが原則です。働くところを意識しないこと。声に関しても、声を抜く、力を抜くことがどういうことか、わかるために、力を入れたり、体を使ったりするようなことは試みとしてやるのです。それを間違って覚えてしまわないこと。力でやろうとか息と吐いてやろうとすると、ずれた方向にいってしまいます。
 
○トレーニングの必要悪

 トレーニングで力をつけて強い声で歌えるようにというけれども、その力では歌自体は動かない。やるとしたら、歌の何箇所かにそういうところを使うくらいです。後は普通の感覚に戻すほうが、声は働きます。普通の感覚でいったら、何となくプロっぽくないから、くせをつけて動かしてしまう。そういうものでカバーしてしまえばいい、という方に流れるから、もったいない。

○つかる

 喉でがなっているだけ、音楽の構成の乱れにもなってくると思います。向こうの言語なので、どういうふうにささやき、どういうふうに働きかけるかというような、言語感覚はわかりません。外国人は日本語で喧嘩ができない。間のタイミングの取り方とか微妙なところはあるでしょう。そこはどっぷりとつかるしかない。
 
○反動

 聞いたときに、音をとって歌うのではなくて、聞いたところの感覚、体や息の感覚をとって、音楽の感覚で歌ってみる。自分の感覚や声は違うから、結果的には違うフレーズになっていい。コピーして、表にあわせて終わりではない。フラメンコは独自に、個人でしかやらないようないろいろな流れ方をする。その流れをそのままとろうとすると無理がきます。向こうの人がパンとやって、その延長上に声がのっているものを、自分たちで頭で理解して出そうとしても、向こうはここでパンとやった反動で楽にフワッといくのに、こっちは歌おう、声を出そうとしてやっているのだから、まったく違います。
 
○動かす

 向こうはバランスで収めている。弾むときも弾まないときもある。こんなところを練習しても、あまり意味がない。流れをつくっていくことのほうが大切です。
 流れをつくってはいても、単調です。最初にバッとつかんで、すぐに動かしてとしか見ていない。
 そこの中でも、たぶん言語のニュアンスに属するものだと思うのですが、ちょっとした何かがかかって動かしていく。スッとかかって動かしていく。
 間をもってから入るには、言語を読み込まなければなりませんね。読んでいる中でアクセントを捉えて、そのまま読みきって歌になるところで入っていくほうが、向こうの人が聞いたら、説得力があると思いますね。

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