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等時性 NO.245

○等時性

 

 日本語の音声では、もともと、その傾向がありましたが、今や急速にリアリティの世界が成立しなくなっているのです。

 私たちは読むときも何かを渡されて、しゃべるときにも、日常ではいわないように声を合わせて、「おはようございます」とやってきているわけです。表現が全部とんでいます。

 日本語は母音がついているから、拍で皆、そろえようとして長さがそろってしまうのです。しかも日本語というのは、均等に切れていくので、「あ な う ん さ -」という感じです。「何々ちゃん、あそぼー」といっているのと同じですね。そこで「遊ぼう」という気持ちが切れていても、そこまで敏感ではなく、ことばでなくとも節で聞いたつもりになってしまっているのですね。

 

たとえば、「冷たい!」を「つーめたーい」とやってきたからです。歌になるなり、声だけ出しているだけとか伸ばしているだけでもたせているのです。

このフレーズを、私たちは低い 高い 低い でとりましたが、彼らの場合は、弱い 強い 弱いでとるのです。たまたま強いところが高くなります。そういう感覚です。すると、「つめたーい」と、こういう感じの処理の仕方です。これは外国人の処理に近いです。

 彼らのは音程を読みにいっていないのに、音程がついているのです(後述の「メロディ処理」参照)。「つめたーい」はすでに発したところで歌です。日本の人は「つめたーい」などと伸ばさないと歌にならないと思っています。そのほうが、かなり特殊です。

 合唱団では合わせるため、あまり格好よくはなりません。普通、「つう めえ たあ いい」となっているのだから、表現の可能性として、「つめたーい」とすると音符が変わってしまいます。「つーめたーい」と違うメロディになってしまいます。結局「つめたーい」としか歌いようがないわけです(今の日本の歌はそうでもないかもしれませんが)。

外国人の場合は「つめたい」「つめーたい」「つめたーい」でも、動かせるのです。日本語よりも自由になるのが、リズムのグルーブです。中心の部分で息を吐いて、強アクセントがつくのです。

 

 それで聞いてもらえばよいのです。意識を変えるために、気づかなければいけません。100本アンテナがある人は、こんなことをいわれないうちに、歌えてしまったという人です。

 

 バイリンガルの感覚は、日本人の場合は難しいものです。英語が全部カタカナになってしまうというのと同じです。それが、強弱で最初から聞こえる人がたまにいます。日本人でも、小さいころから向こうのロックにどっぷりつかっている人にいますが、なかなか切り替わりません。

 

 カラオケ教室などではこれを「ノオンソマアイ」と歌ってしまうでしょう。これは強弱の「ノンソマーイ」とは違います。イメージや感覚レベルで違います。声を直したり歌を直すのでなく、聞く耳を直さなければいけません。

 私たちは日本人として生活していますから、日本語として聞きます。母音を中心に捉えて、その母音にちょうど1拍1音を当てていきます。音楽を勉強した人ほど「レミファミ」でとってしまうのです。こういうのは難しい問題です。音色の問題です。彼らは音程の感覚というのでとっていません。

 

 息が出ていて、その深い息が一つのまとまりをもち、それにことばが伴っている。リズムのグルーブとして運んでいっているのです。

 強弱リズムも、むしろ日本のリズムと異なり、吐ききったり叩きつけているような感覚です。日本人の歌い上げていくような感覚とは違います。

 

 日本人は「ラドソファ」の高い「ソ」のようなところで、強く出そうという感覚がないですね。特に最近は、ファルセットを使ったり、響きの位置を変えたりして、こういう音をやわらかくおきます。「低 低 高 低」という形で変えていきます。

 今、私がやったようにするほうが結果として確実にピッチがとれます。こういう発声というのは、我々の感覚には元々ありません。

 つまり、我々のほうが音色を変えてしまっているのですね。こういう歌い方をすると、ピッチが下がっているから発声を変えなさいといわれます。それはおかしなことです。

 メッセージを伝えるのだから、1オクターヴにわたりフレーズ間にわたり、ことばを言っているのですね。それが、メロディやリズムがついて動いているというだけです。ことばで動かないようなところのとり方というのは、ことばで言えないわけですから、変な発声になります。つまり、どうしてこういう発声をするのかというようにみえるのは、体がついていないということです。

 

 日本人は何であんな高いところで、あんな早いテンポで歌うのでしょう。自分の体や呼吸と全然合っていないところでつくっているからそうなっていくのです。

 「あなたたちのようにやっている」と日本人は思っているのです。でも彼らは、「俺たちはそんなことをやっていない」と。そこの価値観がみえていないのです。

我々は彼らに合わせた高さと速さでやっているつもりなのです。彼らがやっているのは、高いとか速いというのではなくて、彼ら自身の感覚や呼吸に合わせた高さと速さです。だからキーも変えます。低いところでも高いところでも同じように歌います。

 日本の場合は、原曲に合わせた高さです。向こうは自分のキーに合わせて低くしています。一方、日本人というのは全体的な形優先です。個人の一番出せる能力を中心に物事を考えていないことが多いのです。

 ほとんどがバンドに合わせて、ヴォーカリストの声が犠牲になっています。本来、ヴォーカリストが合わないキーで歌うということはありえないのに、ほとんどそればかりです。

 楽器のプレイには弾きやすさがあるのです。オリジナルと同じように弾かないと、弾きにくかったり、同じ音が出しにくいからです。それに合わせてヴォーカルも高いところを歌えよとなります。ところが彼らは最初に自分たちのヴォーカルが歌いやすいようにキーを設定しています。そういう考えをしないというのはおかしなことなのです。

 

○応用

 

 模範から実践して、こういうふうに変えてみましょう。私の「メロディ処理」というのは、メロディで処理しなさいということではなくて、メロディを意識しないで処理をして、メロディが聞こえるようにしなさいという意味です。強弱グルーブが中心という意味です。

 声域を処理したり、高音に当てていくという発声をするということを教えているのは学校です。これを教えないと、音が外れているといわれてしまいます。そのかわり、その音に当てるというのは、自分の今の体で、声も変わらないのだから、もう無理をしてしまっているわけですね。

 

 「ドミソドソミド」が発声練習、簡単にいうと、今の「ファソラ」というのと、「ハイハイハイ」というのとは音色の違いです。1オクターヴ低いように聞こえるかもしれません。パワフルな声に対してイメージできないと、細い声が高く、太い声が低く聞こえてしまうのです。それほど、我々には、音色の感覚はないわけです。

 

 発声練習からいうと、とにかく出た音をOKにしてしまうのですね。声域がなくても、高いところにエコーをかけてしまえばよいのです。カラオケは、それができるわけでしょう。うまく出せないところでの声をよく聞かせられるようなものになっています。

 私がいいたいのは、それがよいとか悪いとかではありません。今はピッチをとるためによいのかもしれません。ただ、5年たってもそれでは変わらないということなのです。

 役者でもアナウンサーでも声が変わって、よい声になっているのです。ところが日本のヴォーカリストはあまり変わらないでしょう。

 元々、いかに無理をしているかということです。無理にその音を出してしまったら、いつまでたっても出せません。ファルセットをかけて変な弱々しいものにしかならないのです。

 

 声優やナレーターでも同じです。日本で最初に教えるのは、正しい発音でやりなさいということです。「あいうえお」を区分けしてつくってしまいます。声ができないうちに発音をつくってしまいます。その発音に合わせて、体から声を出すことができなくなってしまうのでしょう。

 日ごろ遊んでいるときに大きな声を出していたり、騒いでいたりするような魅力的な声が出なくなって、表向きはきれいかもしれませんが、生活感のない、個性のないような声になってしまいます。ひどい場合はアニメ声のようになってしまいます。

 これらは全部応用すべきものなのです。何が応用で何が基本かというのを分けないうちにやってしまいます。応用のほうを先にやってしまうと、あとから基本はなかなかできないのです。これはスポーツと似ています。基本のフォームづくりが先で、そのときに自分に心地が悪くなるのはあたり前なのです。

 

 たとえば自由に泳いでいる人に、コーチがフォームを正しくしなさいといったら、最初は泳ぎにくくなります。今は自由にやったほうが速いでしょう。でも、理想のフォームというのは、あとで速くなるために、人間の体の原理から考えられたものなのです。☆

 一時は自分が好きなように投げたほうが速いし、力いっぱい投げたら速いですが、それで毎日投げるのはムリです。そういう問題でなければ基本のトレーニングが必要ないです。

 スポーツの場合は、より速く高く遠く、体がすべてです。ところがアートの分野では、他で優れることができるから複雑になります。歌も声だけではありません。だからなかなか声も伸びないのです。

 

 現実から離れたところで、トレーニングを強化しなければいけません。でも現実にきちんと返してやらなければいけません。そこには距離、時間の差があるのです。

 声楽の人は、その距離は無視して、声楽をとことんやっていればよいです。ポップスの人がそれをまねてしまったら、発声っぽい癖がつきます。心をこめて自然に歌っていると声がよくなる人もいます。

 多くの人はどちらにもならないのだから、中心のところをきちんと自分からみていくこと、それから体からみていくことです。自分の好き嫌いというより、自分のより知らない、優れているもの、自分の声の中で引き出すことです。どちらが間違いということでもないのです。実際にあなたの声の中で、この声が一番よいというところから始めるのが現場のやり方です。

 

○理屈

 

 声楽やヴォイストレーニングというのは、理屈からはじめるという部分もあります。ただ、それが表現と離れてしまったらいけません。どこかでつながっていなければいけません。そして、理屈よりも、現実にどうであり、次にどうするのかということです。

 大切なことは、長期で考えることです。2年で成果が出なくても、そのあと、3、4年5年、続けていくときに、きちんとオンしていける方向に向けておくことです。役者でも、そういうところを持っていないと、あとでのどを壊したりします。

 

 日本のヴォーカルというのは、シャウト型で声量があるような人は、30代から40代でほとんどその声量を失ってしまいます。生まれつき、何となく高い声が出て、そのまま声を変えないでいる人のほうが、最後まで日本人相手の場合は伝わります。そこではそんな高度な技術は必要ありません。

 たまたま高い声が出る人が若くしてデビューして、そのまま声が鍛えられないままに終わってしまっているのです。もっと鍛えたら伸びるような人を伸ばしきらないまま終わらせてしまうのは、もったいないことです。声楽も、留学をすると大化けするような人もいます。それはどちらかというと日本で認められなかったような人たちですね。

 

 トレーナーの好みもあると思うのです。トレーナーから外すと、きちんと歌えるようになったというケースはよくあります。トレーナーの発声や歌い方が基準になっているから、制限されているのです。また、トレーナーも人間ですから、自分の好きな音楽、好きな歌い方、好きなアーティストに合わせて、生徒をみるようになってしまうという危険があるのですね。

 それよりも、プロでやれたというのが、やれなかったところに対して、何が違うのかというところをみることです。

 

 まねるのは、自分の基準ではなくて、スターに近づいているかという基準にしかすぎません。本当の基準ではないのです。本当の基準というのは、他の人に似ていようが似ていまいが、独自のものが成り立っているかです。その人でないとできないこと、個性ということです。他の人がやったら皆、間違ってしまうことが自分だけには通用すること、それがその人にとって正しいことです。☆

 

 トレーナーにできないことを育てるのです。トレーナーができるなら、トレーナーが歌えばよいのです。トレーナーはだいたい自分ができるような範囲の目標内でのレッスンにしてしまいます。すると、うまくいったところでトレーナーにしか育ちません。

 

 しぜんにみえるためには、このくらいのことができていなければ、しぜんに出ません。このくらいのことをやろうとすると、自分でやるときには、同じことをやっているようで、小さくなってしまうということです。それでは表現は成立しません。

 自分でこの長さを伸ばした、この音が届いていると思っていることは、自分の中ではできているのだけれど、一つ外から離れてみたら、その半分もできていません。これを2倍くらいにしてみる、たとえば拡大してみます。こんなものでも拡大してみればよいのです。心地よいと、聞いていても伝わらないのです。

 

 声だけでいうのなら、2、3秒でよいから、理想の状態を出せたとしたら一歩、2年とか3年かかってもそこまでいかないから、大変なことです。わずか2、3秒からでよいのです。

 歌ということでいうのであれば、バックを含んだ一つのセッションです。うしろの動きがあって、それに対して自分の動きを沿わせて、どういうふうに離していくかという中で、その音の掛け合いをつくっていかなければいけません。この要素の両立は大変なことです。

 10年かかってでもこのレベルまでやれたら、日本でナンバー1になれると思います。

 

○伝わる

 

 その人が、思いや気持ちをきちんと引き受けて出すということができていなければ、伝わらないものです。大きな声や高い声で歌い上げることは、それだけをとれば簡単なことです。

 まさに小さな声で絞り込んで、息だけでこういうふうに聞かせるというほうが、大きな声で歌うことよりも難しいということですね。マイクを使うと拡大されてしまいます。

 日ごろそういう声でささやいていたり、いろいろな経験の中で出してきた人にとっては、コントロールできるのかもしれません。

 

 日本人にとっては、あまりに初めてのことが多すぎるのです。日常の中で、あまりそういう感情表現をしないからです。いつも怒りまくっていたり、泣き喚いていたりしている人だったら、声ということを理解はしなくても、出して、使い分けてきています。

 こういうところにきて、はじめて、声をどう変化させるか、使い分けるということをやるのです。本当は日常の中に入っていなければいけない、あるいは、入っているべきことなのに、です。

 

 私は昔、映画をみて、映画だから、派手に、物を投げつけたり、怒ったりしているのかと思っていたのですが、海外では現実がそのままなのです。はっきりと腹から声を出して怒り、物を投げ、暴力を振るいます。そういうことは、日本の生活にはあまりありません。向こうにとっては、ノン・フィクション、日本人からみたら、あそこまでやったら演技と思うくらいの差があります。

 

 海外の人たちがことばから音楽をつくるときの感覚、こういうのは別に特殊なものではないです。どこにでもあるようなものです。ただ、スケールをみることです。

 

 大きな声を出せばよいということではありません。相手に伝えるためのメリハリをつくっていきながら、メロディを処理しているわけですね。メロディを歌っているわけではありません。

音楽を歌ったり、声を出しているだけではないのです。いいたいことや気持ちを相手に伝えようということをやっています。

 その人の中に音楽が入っていたら、結果的に歌になります。音楽が入っているということは、次の段階です。誰でも音楽は歌えるのに、入っていなければ歌えません。

 

 どこまで伸ばして、どこまで息をためて、どこから切り出していくのか、ということです。レガート一つにしても、一生の課題くらいになってしまうのです。

 自分のイメージした世界を完全に成り立たせるための動かし方をやるのに、声でつっかかっていたら、どうしようもないのです。きちんと声をつかまえ、放置してはいけないのです。声で魅せるのではなくて、声に乗せたもので魅せるわけです。その声の動きをきちんと伝えていかなければいけません。どこかで切る、それで切ったところから、次にはどのタイミングで、どの声量で入るのか、どういうふうな加速度なり、ドライブ感をつけて入っていくかというのは、どこにも書いていません。その人の世界なのです。☆

 ところがそういうことを学ぶことを、ほとんどレッスンでさえ、やっていないわけです。音がある、次のことばが「あ」で始まる、そうしたら、「あ」で歌います。その間は、全部休んでいるのです。

 

 日本の歌の場合は、エコーがかかってバックがついて、通じてしまうわけです。世界に出ていけないのは、明らかにそういう演奏レベルでの差をヴォーカリストが埋めていないからです。

 

 日本の今のヴォーカリストは、ジャパンクールのブームの延長上で捉えられています。ロスの若者も日本のものを聞いています。アニメの主題歌、日本のいわゆる映画やアニメとか、漫画の延長上で受け入れられて、ヴォーカルの音声力とは違う、日本文化のブームです。

 そういう意味では、日本から向こうにいって、トップ10に入るくらいのヴォーカリストが出てもよいくらいなのです。それだけ日本人に関心があり、日本の文化に関心があり、日本の芸能文化もヒットしているのです(邦楽のパワフルさは別にありますが)。

 

○インパクトと深い声

 

 音声に対する考え方、感じ方の違いです。日本人に、こういうふうに表現しようと思う人はあまりいません。そういう貪欲さや強さでここまでやると、お客さんがひいてしまうという部分もあります。

 癒しっぽいのが日本の歌で、パワフルなものは外国のもの、外国人のオペラを生で聞くようになって入ってきました。ミュージカルがその狭間にあります。ミュージカルも向こうの移し変えしかヒットしていないわけです。

 もちろん、そういう時期はもう終わっていくと思うのです。

 一つの声を出したり、一つの声が2つになって重なったりすることで感動というものが起こるほど、声の持つ力というものは大きいけれど、日本の中ではあまりそういうものに出会えないです。

 

 これも一つのオリジナルです。これで半オクターヴです。こういう表現のスタイルをつくっていくのが、ヴォーカリストの本来の役割です。声楽をやるのがよいとか悪いとかいうわけではありません。声楽の中に基準をおいてしまうと、表現というのは、やらなくなってしまうのです。そのほうが困るのです。基本というのは、応用して価値があるものです。

 

 オペラ歌手でイタリア人のような生活をして声を出している人もいます。ただ日本人にとっては違和感のある声でしょう。その国の文化があるということで、やれることと使うことはまた別です。

 私は、8時間くらい声を出しっぱなしにしなければいけないときに、今しゃべっているポジションより、やや深いポジションになります。それは自分ののどを守るためです。普通にしゃべっているときには、わざわざそんなところにしません。

 小さな声で相手に伝えようとするときも、体をけっこう使うのですね。声が遠くまで聞こえるということは、マイクに入りやすいという声です。表現する声というのは、必ずしも一致するわけではないのですが、声の条件の中の一つです。そういうふうになっていけばよいでしょう。

 こういう深くひびく声がなくなってきました。日本のホールや音響がよくなってきているからです。昔の役者というのは、風や雨音がする中で演じなければいけませんでした。

 日本人本来の絞り込んだ声もフォローしています。教育法にも、一長一短があります。師匠とまったく同じようにうつしこんでいって、ある時期がきたらそれを離れるということです。

 

 腹から声を出すということではわかりやすいです。最後に、歌としてどういうふうにアプローチするかということです。

 

 プロのヴォーカリストをまねたままではいけないのは、その人の雰囲気とか個性の部分、お客さんとの絡みの部分です。あなたがそういう歌を歌うわけでも、そういうステージをやるわけでもないし、客層によっても違ってきます。

 そこから伸びなくなって、通用しなくなってしまいます。若い人で、いろいろなトレーナーについて古い歌い方をする人がいます。漫才と同じで、それはステージでは新しい形にならなければいけません。

 

 声そのものも古い出し方をする人がいます。前は、自分の声を響かせたり、大きくしなければ、相手に伝わりませんでした。昔のしゃべり方というのは、そういう時代を反映しています。今は必要ないのです。普通でしゃべっていても、歌っていても、なんとかなります。

 

○評価させない表現を

 

 もう一つは音楽からことばに入るというのもあります。音楽から入るというのは、「ミミミミソファ~ドドドドミレレ」、ここまでが音楽です。ことばをつけるとわかりにくくなります。

たとえば「ティティティティ」、それでは歌にならないから、「ティーティーティー」。これだけで歌です。それは音楽の組み立て、「「ティティティ」なのか、「ティティーティ」なのか、バイオリンやピアノではどう弾いていくかというのを声全体から捉えていくことです。

 

 発声の「ティ」というところもあれば、「ティティティ」をどう組み立てるかということ、2つの面から考えられると思うのです。「ティティティ」なのか、「ティーティティ」「ティティーティ」なのか、そういうものを表現するイメージを持っていなければいけません。音楽観を持っていなければ難しいのです。

 

 声楽家の人はこういうものを音のひびきで聞かせようとするし、役者の人は、ことばで表現しようとします。一方、寄ってもいけません。ことばで聞かせながら、そのことばが消えても音楽がはじまったというものを伝えなければいけません。

 

 一つのやり方があるわけではなくて、レッスンとしてはたくさんの中から自分のデッサンをつくるのです。デッサンを何本もやって、この線がよいというのが、めざすべきフレーズです。この味わいがよい、この変化がよいと思ったら、そういうところで自分のものをつくっていくのが、オリジナリティの元です。

 それがなければ、その人が歌っていく必要もあまりありません。もっとうまい人はいくらでもいるのです。レッスンで変えなければいけないというのはそういう部分です。たとえば、○○さんみたいな人が10人いたとしたら、順番がついてしまうわけで、それはよくありません。

 

 日本人は素直ですから、間違えたら間違えたとわからせてしまうわけですね。その程度のものでしかないということなのです。その人がきちんと表れていたら、間違いというのは起きないのです。メロディを間違ったとか歌詞において間違ったということはありますが、表現が間違ったということはそんなにありません。メロディや歌詞を間違って、そこでお客さんが「あーあ」となってしまうなら、番外です。

 たとえばふつうの人が5回歌ったら、私は、そこによい順で順番をつけられると思うのです。ところが一流の人が歌ったら、自由でどれがよいのかは順番になりません。それが好みで、ある意味では音楽性だったり、その人が表現したい世界ですね。即興=ベストという世界です。その人がそういう気持ちになったら、そうなったということです。

 歌というのは、正解があってはよくないのです。現実的な表現だったら、その人がそのときにそうやったのだから、それが一番よいのです。それでも比べてみたら、あのときのあのステージのほうがよかったというのが、どことなくあります。それは、決してメロディがよかったとかことばを間違えなかったとか、発声があのときはよかったというものではありません。再現するにも常に創造していくようなものです。感覚の鋭い人をたくさん聞いて、学んでください。

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