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問題の捉え方 NO.246

○問題の捉え方

 問題ははっきりしているのです。やるべきことというのは、そこのところへの落とし込みです。自分でやっていても、ぶつ切れというのは、それぞれの箇所をやっているからぶつ切れになるのです。たとえば、そこのところで声を張った、その結果、自分の体がどういうふうに受け止めて、どう降りてくるのかということを、しつこくそこの間だけでみます。その間というのは1秒なのか2秒なのか、伴奏を抜かして間をはかります。伴奏で助けてしまうと、余計にわからなくなってしまうのです。
 実際のステージというのは、お客さんはバンドの音と一緒に聞いていくから、助け合ってつくっていくものです。ただ、本来ピアニストはピアノだけで聞いても聞けるレベルで、歌い手は歌い手だけで聞けるレベルにしておいてから合わせることです。合わせるのが難しいのだから、簡単になるくらいにアカペラで練っておくというのが前提です。
 バンドをつけてしまうと何でもできてしまうように思ってしまうと曖昧になってしまいます。今のでみえないのは、一つの解釈で決めてしまっていることです。決まってしまっている限り、それ以上の声は出てきません。ここでやるべきことはそれを外すことなのです。

 本当にどう歌いたいのかということを、それぞれの1行1行でやってみればよいでしょう。それをつなげようとしたら無理です。それをつなげるには2オクターブくらいの余力がないとつながりません。
そのフレーズだけを考えるのなら、そのフレーズに対して一番よいキーをとり、一番よいテンポをとればよいのです。たとえば8フレーズあるとしたら、8曲の歌のようになってしまうわけです。
 このテンポのこのキー、このフレーズは高いから、ちょっと低くしたところなら一番よいところだけが出ますね。歌にするときには無理ですが、トレーニングということで行ないます。そうやってそれぞれのフレーズをめいっぱい出したときに、どうなるのかを見抜きます。実際に歌うときには、一番活かすべきフレーズをより活かして、他のフレーズは抑えます。

 Aメロを抑えているように、全体を考えたときにはそのギャップを常に意識します。調子が出て、音響やマイクの使い方でうまくまわせたりします。でも、伝えなければいけないことは明確なイメージですね。
 それがまだわからないのです。この歌をお客さんが聞いて、何十人かの歌い手で聞いていたら、その中のパターンの中で細切れに取ってきたようなフレーズにみえます。そこでまとまって入るのですが、Aメロで戻ったときに、ある程度は素人とは違う部分が出てくるのです。それで歌えているといったら歌えているわけです。それでプロはできてしまいます。
 そこからどうやっていくのかというのは、それがあると却ってできません。この中のどの箇所か、一つだけとって、一番自分が歌いたいところ、最後の「cry」のようなフレーズの運びをどうやるかということが一番ベースになる問題です。

○吟味する

 トレーニングにおいては、歌の解釈を抜かすことです。ピアニストがついてテンポやリズムをとらなければ、弱く強くと、頭で動かすわけですね。しかし、呼吸では動かしていないわけです。呼吸で動かすと乱れるけれど、その注意はそこではしなくてよいのです。音程やピッチが下がったなどということよりも、もっと流れを先にとっていかないと、ぶつ切れということが起きてしまいます。
 出だしは強く入っていて、強く入るのはよいのですが、その体と呼吸が入っていないのに強く出そうとすると、頭でそうすることになります。頭で操作する以上、不自然になるのです。そうしてくせをつけて覚えてしまうと、無難にはなるのですが、その無理がどこかにきてしまいます。大きく展開できなくなります。

 調子のよいときはあまり意識しませんが、いつもよい状態でもたせるようにしないとだめですね。歌から外れているわけではありませんが、声からいうと、その無理が重なり、10曲も歌っていたら、必ず悪い方向にいきます。強くなってそれなりに鍛えられたらやれてしまうだけに問題なのです。もう一つ深いところなりやわらかいところに落としておきたいものです。
 声だけでみると、歌の味というのを別問題にして、こういう歌に対しては通用するかもしれません。しかし、他の歌になったときに限界が出たり、棒読み、画一化したような歌になりかねないのです。

 一番大きく出る声以上に、歌は歌えません。それ以上に大きく歌っている部分は、はみ出している部分です。声の一番根っこの部分を捉えることが、発声を変えるポイントになります。それを伸ばそうとすると、どこかにひっかかり、ひっかかったまま伸びて、やわらかさがなくなったり、ぐさっと切れてしまったりします。それは今までに歌いなれている固め方だから、歌らしくはみせられますが(それが今うまくみえている理由でもあります)、逆に限界にもなってきます。

 体の根っこから捉えた考え方で、今の「ry」を大きくいってみましょう。単に「cry」の「ry」のところだけ出すというのが次の段階です。もう一度、大きくいってみてください。
 それ以上、感覚をずらさないで、メロディをつけてみてください。伸ばさなくてよいです。

○くせをはずす

 待たなければいけないのです。できないのではなくて、できるけれど、歌の中で使っている「cry」のところの「ry」は、かすれさせたところで突っ張って、丸みや動きが出にくいのです。感覚的には入っているのに、声が突っ張っているから、アタックでそれなりの色合いが出た声になります。それがハスキーボイスになったりよい音色になっているとみる人もいます。

 声だけからいうと、少し使いにくいところにいって、次の限界になってしまうことです。そこまでのことが安定していると、その安定を壊すのも大変なのです。くせを外すことになっていきます。くせを外すのがよいのか悪いのかは別です。きれいな声になってつまらなくなったということもあります。
 発声の原理から考えたら、トレーニングというのは真ん中でやるべきです。それに色をつけたければステージでハスキーにしようとかシャウトにしようとか飾りつけるとよいでしょう。それを動いている中でやっていく、それを動かそうとか、こうやって、次にこう抑えていこうというのがあると、頭が音程を取りにいっているようなものです。ピアニストも、音符をピアノに落としていても、その先に流れができていて、感覚があるところに音符がはまっていかないと、曲調になりません。

 自分のものを聞いていまひとつに感じるとしたら、部分部分の音符に関する演奏はできているけれど、全体の流れに声の制限とイメージの制限があるからです。自分がその声でやって、そういう出し方しかないというところに組み立ててきていないのです。
 安定性はあります。そこは、すぐには外せません。そこを外してしまうと、歌になるのかがわからないからです。ただ、トレーニングの根本的なところは全く別です。そこのつなぎ方などを教えると、枠に入れてしまうことになります。何年も変わらないようになって、1、2割しかうまくならないのです。

 すごく変えたいということであれば、今のところまで戻ることです。今よりももっと戻ることかもしれません。そこで、息だけとか体だけとか、そこで使った体や息や、大きな声を「ハイ」といったとかいうこと以上には、歌には使えません。
 向こうのジャズ歌手は、「cry」だけで相当にひびく声を出すと思います。それがあるから抑えても、流れに乗れます。そこはベーシックな部分です。そういう形でトレーニングをやって、フレーズをとってください。

○自由

 ヴォイストレーニングや声のことというのは、特殊なことではありません。それを特殊なことに思って、特別な方法があって、特別な基準があって、それに基づいてやらなければいけないと思ったときから自分のものではなくなってしまいます。そういうもので築かれた世界というのは、誰かが築いた中でしかやっていけないのです。
 研究所でのグループレッスンをやめてしまったのは、その中では成り立つことが外で成り立たないと、外がおかしいという見方をしてしまうような傾向になっていくからです。ここは外ではなくても、世界にストレートに開かれていなくてはなりません。固定観念を持ち、そうでないものを認めなくなったときに、その人は固定されて、プライドだけが高くなってやっていけなくなってしまうのです。

 カラオケ教室や一日公開セミナーで、ワンアドバイスだけしても、それだけでは意味がありません。歌のコメントでも本当のねらいは、その人が全体の整合性をどうつけているのかをみて、それを壊すことですね。それしか発想がないと、そうではないといっても好みの問題でしょうとなってしまいます。自分で壊させるしかないのですね。自分で壊すということは優れた作品をみて、自分の優れた感性において、鈍い感性を壊していくというやり方しかないわけです。☆

 だから結局、芸術的なことというのは教えられないのです。教えられないのに、なぜ基礎があったりデッサンがあったりするのかといったら、自分のイメージとか、自分が描く理想というのはあるのに、それに体が対応しないとか、声が対応しないとかを自覚するためです。
 バイオリンでいうと、プロと同じぐらいのスピードで弾けるようにしておきます。でもプロはさらに数倍早く弾けるわけです。それを目標にしても仕方がありませんが、そうしてその世界に一歩、入れます。歌はプロが歌っている速さで歌えたらプロになれるのではありません。

 トレーニングは何のためにするのかというと、演奏になるためにです。というのは自然になるためにということですね。自然になるためには、とことん不自然なことをやっておかなければいけません。要は100のことができて初めて、6、70のことをやったときに自然になるわけですね。
 正しい声や正しい歌い方というと、最高で6、70を目標にしてしまうから、せいぜい30くらいになって音大の入学生くらいのレベルが結果になってしまいます。ただ、カラオケが下手だから、人並みに恥をかかないようにして歌えたらよいと思ってしまう人には充分です。
 でも、恥をかくような歌だったらカラオケが成り立たないのかというと、まったく別だと思うのです。その人の個性があって、その人の個性の声で出ているものであったら、既存の歌とは違うから人の心を惹きつけたり、何かを与えることさえできます。
 歌は、元気なだけでも通用する場合もあります。元気なだけでも人はみたがるのです。それを何回もみたいと思わなかったり、1時間どころか10分以上たってしまうと飽きてしまったりするわけですね。それを飽きさせないがために仕組まれてきたものが歌であったり、フレーズであったりで、それを支える根本的な発声ということです。

○接点

 話よりは音楽を聞く方が必要です。しかし、話も精神論的なものであれば大切だと思うのです。実際の音楽にふれたり、普段、聞かないようなアーティストにふれていきます。その中で起きる変化と自分との接点をどうつけていくかということです。誰かに接点をつけてもらっている以上は、まだ成り立たないのです。
 レッスンというのは、その接点をつけてくれるきっかけです。私でも一応それをつけようと努力します。それはあたり前のことで、接点がつかないでレッスンを辞めてしまったら仕方ありません。辞めさせないために接点をつけるのではなくて、接点のつけ方を教えることによって、自ら接点をつけられるようにしていくのです。☆
 私は昔、あるトレーナーに、「先生は世の中と接点がつけられてよいですね」といわれたことがあります。「自分は声もあるし歌もうまいけれど、世の中にも認められていないのは、接点のつけ方が下手だからやっていけない」ということをいいたいのでしょう。それは明らかに考え方が間違いです。
 歌が下手だろうが声が出なかろうが、世の中でやれている人の方が、ずっと声をつかっています。結果が出ていることでしか実社会では評価されないのです。長くトレーニングをして、子供や学生のような考え方になってしまうとしたら、明らかに間違いなのです。声や歌をやっていくがために不自由になっていく、人に対してインパクトをもっていけないとしたら、根本的なところの誤りですね。

 現実に日本というのは、アーティスティックなものに対して興味を持たない、保守的な国です。そこで優れたアーティストたちは世の中にわかりやすくうけやすいもの、向こうっぽいもの、今流行りのようなものを取り入れて発信します。これも一つの仕事だとは思います。場を確保しなければいけない、曲を増やさなければいけない、お金がまわらなければよいものもつくれない、となったときに、それを合わせられるというのも才能でしょう。
 ただ私がみている限り、長くやれているアーティストはそんなことで動いていません。それはやるとしても、余力でやってしまえるわけです。自分たちの根本的な世界や歌、発声ということではあまり考えません。それを保持しつつ、世の中で認められなかったり、あまりうけない場合に、きちんと違うものでおろしてきます。違う作品、違うステージングできちんと接点のつく形にまでしています。
 お客さんからお金をとっている以上、それに対する価値を出すことです。それに執着して、自分だけの世界をきちんと築いて、深めている人もいます。
 それがよい悪いというのは、生き方の問題になります。
 ステージの中で好きなものをやる、嫌いなものをやる、どちらをとるのでしょうか。私は基本的にはその人の才能のあるところでやったほうがよいと思っています。そうでないと続かないからです。歌の才能や声の才能があるということだけではないのです。
 要は自分が接点をつけられるところに、声や歌を持っていくことです。歌だけの特別な社会や声だけよければよい社会というのがあるわけではないのです。

 声の一つの現実的な形が歌です。歌というものだけがあるわけではなくて、それがステージとしてあったり、CDという形で商品となったりして、存在するわけです。その辺から考えていけば、声の問題ではなくて、自分がどう表現したいかということです。それを限定するものが声や歌です。声や歌で片付けようとするよりは、その世界をきちんと提示するのに対して、常に声が足りていないと思えばよいのです。そうしたら、自ずと足りない声が何なのかということになります。

 ロングトーンの問題も確かに、声が伸ばせたほうが伸ばせないよりはよいのですが、ほとんど伸ばさないで歌っている人もいるのです。だから、伸ばすことを勉強してよいのですが、伸ばすことがすべてではなく、伸ばせる上で伸ばさないという選択をするということで、伸ばすことを勉強するのです。伸ばせない、伸ばしても自分の味が出ないと思ったら、使わないというのも選択です。

 結局、自分の中に理想の自分をみておいて、それに対して比べていくことをやっていくのです。本当は優れた客を想定して、それに対してつくっていけば、そんなに狂わないのです。そこで手を緩めてはいけません。そこにどれだけこだわれるかということになっていくのです。
 声や歌の問題でないとはいいませんが、ヴォイストレーニングでいうのなら、意味もなく暴走するのでなく、少しは次元をオンすることに使うために暴走するのです。基本とはそのためになることです。そういうベースで考えられたらよいと思います。

○はみ出す

 実際にトレーニングの場では、朗読も歌と同じです。歌を1曲読んでみます。本当に伝わるように読んでみたときに、50しか力がないと思ったら、30、20でしかできないから、それを100にしようというのがトレーニングです。でも50のうち、49で表現できたら、100の声がある人より伝わるのです。
 役者や声優も歌い手も、うまい人ほど自分をコントロールして声をもっていってしまいます。ただ、コントロールされたものは、退屈なものになっていきます。それをどこかではみ出さなければいけないということです。真のレッスンというのは、できる限り大きく限界からはみ出させるわけです。

 1曲きれいに歌える人をわざと1フレーズで、そこをもっと大きな声を出させます。大きな声を出せばよいわけではありません。違うデッサンをそこで描けということで、頭で考えて頭を切ります。ここは強くここは弱く、とやっても、頭で考えたものがそのまま出てくるわけです。そんなものでは誰も感動しないですね。だからトレーナーはそういうことを教えてはいけないのです。その気になって、そこが強くなったという結果において、初めて伝わるのです。☆まとめたり整えたりするのはそのあとです。

 強くなれば当然のことながら、次に反動として、どこかで弱くなります。それは頭ではなくて体、呼吸がやっていくことです。こういうレッスンやトレーニングにおいては、感覚や体を変えたりするために、意識的にわざとそこを強調させ、デフォルメさせます。絵でいうと、小さな絵を描いている人に、大きな画板を与えます。ここに目一杯何か描いてみろということをやってから、最終的に小さなものに描きます。大きなものに描いた経験がある人と、そういうのがなくて小さなものに描く人とは、スケールが違ってくるわけですね。その限定をどんどん取っていくのを、一人ではやれないからレッスンがあるのです。

 いろいろなものを体験し、刺激を得たり考えたりしてやっていくということが大きな目的ですね。自分の歌を歌って、それを徹底してチェックすることもやるべきことでしょう。それから他の歌い手だったらどう歌うか、真似るのではなくて、自分の理想的にある歌というのは何なのか、問題は全体の構成、バランスとともに、今の自分から考えたら、ステージから考えたらどうなるかということです。
 客はバランスのとれていないものは評価しませんから、どうしてもまとめる方にコントロールされてしまいます。でも自分の出したい表現がそこに出てこなかったら、自分で認めないことです。最終的にはお客さんにも認められないからです。

○フレーズ

 どこか1フレーズでのベストの声を得ていくことです。たとえば歌に、AメロBメロで8つ違うフレーズがあるとします。その8つのフレーズのそれぞれをみて、自分の今の力から、一つひとつのフレーズの最高の表現というのは、テンポのキーのとり方も違ってきますね。ここでやっているデッサンはそういう練習です。
 一つのフレーズを中心にみるときには、全体のフレーズを考えなくてもよいのです。サビで高すぎで歌いにくいとか、出だしは低すぎて歌いにくいといったら、自分の出やすいところに持ってくればよいのです。テンポも速いならゆっくりにすればよいのです。要は8つに切り離し、それぞれのベストで練習するのです。それを組み合わせては歌えないでしょう。2オクターブくらい、声量に関しても、余裕があっても曲というのは、プロに向けて、ギリギリで彼らができるようにつくられています。
 全体の完成度をとっていったらすべて中途半端になるはずです。一つのフレーズを8つに分けてみましょう。その中の一つだけのことば、音楽も「ララバイ」だけで人の心が動いたりすごくあたたまったり、働きかけたりします。それはわずか1秒で、一つの音で、そこからやろうということです。最高の一つが出ないとダメなのです。

 そこに出し方があるのではありません。出し方があるとしたら、ヴォイストレーニングはテノールの発声をやってみて、高音を出しましょう、でOKです。現実的にJ-POPでも他の歌い手でも、そんな人はいません。それは何の練習になるのかということになります。
 「誰もができる方法が、高度には誰にも使えない」という、逆説的なことになるのです。皆が違う体を持っているわけではなくて、基本的には同じものを持っています。大きく男女で違うとか、同性の中でもいくつかのタイプはあります。そのパターンにある程度は基礎づくりとしてはまりながらも、そこから一番自分が表現したいものをとっていくのです。
 こういう世界での上達の仕方は、今の自分の感覚や体を外してみて、たった一つでもどこか通用したものから組み立てるのです。どこまで通用したかということで注目しています。

 たとえば、トレーニングのメニュということで、毎回一つずつ教えるということだったら、いろいろなことがいえるのですが、大きな目でみると、そういうものは5年経って、100個集めてみても、一つも使えません。3年かけて、たったひと声、たった1フレーズでよいから、誰かに何か働きかけることを出せることが大切なのです。それはクラシックでも同じです。

 トレーナーは、材料を与えて、何かよいものが出たときに、それが出たことを教えるのです。それをうまく出せる人の場合はだいたいいわなくてもわかるわけです。お客さんもわかります。
 普通の人が聞いて、何とも思わないレベルでレッスンでのよい悪いということが成り立ってしまうことがおかしいのです。到底通用しないものなのに日本の場合は成り立ってしまうようなのです。そのトレーナーと生徒の間にだけ成り立ってしまうこと、それが一番気をつけることです。
 トレーナーには認められていながら、世の中に出たら、何も通用しないという人があまりに多いのです。いろいろなトレーナーについてからここにくるでしょう。他人に通じることは簡単なことではないのですが、見分けることは簡単です。価値を出せているかどうかです。
 それは声がなければダメだとか、歌がうまくなければダメということではないのです。そうではないところでよいものを出せているのに、気づいていないことが多いのです。それがわかるようになるためにレッスンがあるのです。
                          

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