自由度 NO.247
○自由度
だんだんと、悪い意味でうまくなってきます。サビのフレーズで声を長く伸ばしたり、ためたり、声を高く上げたり、トレーナーなら誰でもできることで終わりではつまらないですね。
いわないだけで成り立たっていないのです。私は、皆にトレーナーのようになってほしいわけではないのです。そんなことをいうと、それは難しいというけれど、難しいのです。そこが一番大きな問題です。
いろいろな曲を聴くのも、それを真似なさいということではありません。自分一人でやっていくと、常に固くなっていく頭、頭で考え出すことをやめるために、一流の音楽を流します。その音楽に対して最大限の自由度を感じてください。
レッスンやトレーニングは多くは不自由にしていくもので、それがよいのです。自分の中で精神的に自由度を持っていなければ、支配されコントロールされてしまいます。☆
ヴォイストレーニングは好きではないという人もいるでしょう。呼吸とか発声とかは人を支配してコントロールさせるものだから、アーティストとしてはそういうものに対して反発を感じるものです。
私はそんなつもりはないから、そういうことを一番やってこなかったのです。そういわれてしまうことが起きるのは、来る人が求めるからです。
トレーナーも、生徒がいないとご飯を食べられなくなります。このご時勢、いろいろなことをいわれ、批判もされてしまいます。そこで皆、安全な枠の中に入ってレッスンするのです。その枠の中に入ってやっていることで、一番大切な自由度を失ってしまいます。自由度をもたないレッスンで教えられた歌い手の歌は、残念ながらまじめな分、聞けません。
レッスンはともかく、トレーニングの中では、はみ出していなければいけないということですね。
○一貫性
感情を伝えることを自然にやろうとすると、自分の体という器を全部は使えません。小さく制御して作品にします。バランスをとらなければいけません。だからこそトレーニングというのはそれに反することをやるわけですね。
その体を大きくしようとか、大きな声を出すことが目的ではないのですが、ある意味ではわかりやすいです。
ジャズシンガーが数名ここに来ています。一流レベルの人は歌を歌っている音量の3倍くらいで話ができます。シンプルに大きな声が出せるのです。それで抑えて歌っているのと、大きな声を出せなくて、歌で精一杯張って歌っているのでは、勝負にならないですね。
基本のことをやるというのは、そういうベースづくりだという意味です。伝わるようにといったら、大きな声を出すわけにはいきません。でも、体を物理的に楽器としてみるなら、大きく出せたほうがよいということです。息、呼吸ということでも、一つの表現として一貫性が通せます。
一曲を読み切るというのは難しいことです。詞一つでもそうです。本来だったら、それができていなければ、歌えないわけです。しゃべっていても同じ、そこで1オクターブ半をこなしているから、歌になっているだけです。歌という意識もそんなにないと思います。
大きくすることが目的ではないというのは、単に大きく出たほうがよいということではありません。そこに体や呼吸が物理的、生体的に、楽器として精一杯使われているということからスタートということです。
ピアノでいうとフォルテッシモ、フォルテッシモの演奏よりも思いっきり叩いたら、ピアノは大きな音は出ると思うのですが、狂ってしまいます。どちらかというとそういう感じの調整です。ピアノが壊れるほど、力を加えるのではありません。大きくひびくにも楽器の限界があるのです。その音の最大のひびきまで出せる練習をします。人間の場合は楽器自体が変わります。
トランペットやピアノはどんな名人が弾いてもある一定以上の大きな音は出せないかもしれません。しかし、声はやり方によっては相当変わってきます。一人ひとりの条件が違います。
原理に忠実なところで一つ読もうとします。一つ読むのでも大変です。ことばも一つひとつ違います。一貫性を持ってやってみるような感じで大きく読んでください。
○聞こえてくる
声の限界というのが歌になったときに、そのままこの延長上にいかないのです。
これを大きく入れて「めまん」といえているところを絞りこんで歌にしていると、そんなに感情を入れていないのに感覚は入ってくるわけです。日常のニュアンス、日常のことばをあまりハードに使っていないから、感情を入れるといったら引いてしまいます。ただ、普通は感情を出すと、声が出るものです。
まずそこのところで声はつくられていきます。歌声というのが特別な声になってくのを嫌うのは、むしろ私よりも若い人のほうです。音大のクラシカルな発声がよいというのは、昔のイメージの土壌にのっているわけです。歌になっているというよりも、つくってしまっている。声がきれいで美しくても、それを聞いているうちに音楽、歌から表現というふうにはなりません。もう頭から歌ってしまっているわけです。
それは本来あるものから、飛ばしてしまっているのですね。声がよい悪いではないのです。たとえ美しい声でもそれで歌うのではなくて、その延長上に歌が聞こえてくるべきでしょう。そうでなければ、声はなるだけ使わないようにして、声に入っているもので人に伝わるものを出していくのです。
今やってほしいことは、大きな声でいって、そのままフレーズをつくることです。伝わった、伝わっていないというのはあまり気にしなくてよいのです。ただ、伝えたい感じは少し意図しておいたほうがよいでしょう。大声でやるだけでは脳がありません。大きな声でいって、そのあとで音を、どこでもよいのでとってみましょう。高くてもよいです。
○プロセスを踏む
声を大きく出して、次にメロディをつけてみるということです。体から取り出したところで一番素直な声というのが、ねらいです。それにちょっとしたニュアンスを与えるだけ、ちょっとした変化を与えたところが歌なのです。
せりふというのはその間にあってもよいでしょう。ここで声というのをせりふといってもよいのです。せりふでやって歌でやってみたのでもよいですね。
人によっては声を出して、せりふだということでもよいでしょう。どう感じるかはどうでもよいのです。
ちょっとした変化を自分の中に入れてみる、そのことで効果が上がった側を選ぶということですね。どちらも効果が上がっていないのに、選んでも仕方ありません。
トレーニングのベースとしては、きちんということを勉強すればよいです。私は単純に、大きくお腹からの「ハイ」ということをやればよいと思っています。歌のときにはそれを忘れてやるのです。
根本的にはそれだけです。「ハイ」というので体を深めて、声自体を出せるようにしていきます。
そこのところでしっかりできていたら、歌の中でロングトーンも、ビブラートもできてきます。フェイクもアドリブの元も出てきます。材料としては、こういうヒントがあるということです。どこかで閉じているところで開けるようなのがよいのです。
とはいえ、万人に共通ではありません。念頭にトレーナーが目指す声があったとしたら、そのトレーナーがよほど優れていないと間違えますね。目指す声が、誰かの声であったり、トレーナーの声という場合が多いのです。それは、本人の声ということではありません。出ていると勘違いしていながら違う声になります。
マニュアルだらけの歌をトレーナーがやってしまう場合もあります。努力をして無理につくって、つまらなくしてしまう場合もあるのです。日本の歌の場合はけっこう不自然ですね。プロセスをふまないからです。
位置づけとしては、たとえば「ハイ」と息を吐くとか体を使うことがあって、それ声にしたフレーズがあって、そのフレーズの入る歌があって、本当の歌があるのです。これだけの枠の中でやっているわけです。これをつないでいくのが一つの勉強ですね。
応用してみなければわからないのであれば、1フレーズずつやってみればよいでしょう。ただ4フレーズくらいの単位でやってみたほうがわかりやすいでしょう。
このことばが苦手だと思ったら、ことばを変えて、「ハイ」でも「ネイ」でも「ライ」でも何でもよいでしょう。基本は「ハイ」で与えています。「ナイ」とか「ネイ」とかのほうがいいやすいのです。物理的な共鳴体としてみましょう。
ヴォイストレーニングということをやる必要はあります。「ハイ」といったときに、体が入って全身が使えて、しかも上のほうにひびきが集まる、そのような一貫したような音がどこかにあります。それが本来、その人が持っている、一番ベーシックな発声です。それをみつけて育てていくことです。
○フレーズのデッサン
ロングトーンや歌として自然に、という前のところです。物理的な楽器として使えるだけのものにシンプルにします。ことばによっても、細かくみていったら声は全部違います。
せりふや歌になると、ニュアンスが入って、そういう意味では、伝達の装飾づけが行なわれるのです。トレーニングではその装飾付けがメインになってはいけないということです。そのために一度、体に戻しているわけです。
そこで半オクターブで1フレーズ歌うのにも結構大変だということです。そのせりふを読んで、歌ってみます。
うまくその線が描けなければ、声というインクをつけること、そして、ちゃんと発色させるのです。発色というイメージは、デッサンの中からどこか、一箇所2箇所伝わるところとして出てきます。練習においては、100本も200本も線を引いては消し、その1本がみつからないのなら、そのフレーズは使えません。また別のものを描くことをやればよいのです。そうやっている間に、自分の声のことを知っていくこと、そして、声の効果をみていきます。それは歌に限ったことではありません。朗読をやっている人や演劇をやっている人の方が、もっと細かくみているかもしれません。歌い手もそれをしなければいけないのです。余計なものをはいでいくと、本質はそういうものになってきます。
習うということは正に真似していくことですから、向こうから入ってきたものを好きだと思って、勉強しているだけではそのままになってしまいます。
母音で、楽譜の「ラシドレミファー」で音をとってしまって歌います。何十年もやっていくと、それでも歌らしくなっていくわけです。ただ、根本的に違うわけです。
好きであって真似て、そこで自分の感情として発表するとしても、実際には自分の歌でなければいけないのです。見本としては使えます。
真似るのではなくて、自分の足りないものに気づいていくことです。体も声も息も足りない、大切なのは、こういう中に音楽的なつながりや流れをみて、今までとってきたような形を再検証することです。
私は以前、日本人のように歌ってしまうところとむこうとのギャップが語れなかったのですが、明確に示せます。
勉強すればするほど、日本人に戻っていくのです。トレーナーがそうなら、聞く歌もそうなっていきます。そこでやらなければいけないことは、壊すことだったのです。
30年勉強してすごく歌える人もいれば、歌えない人もいます。でも2、30年生きてきたことは自分の中に入っているのです。それを変えようというのは、そう簡単なことではありません。よほど壊すほうに意識しておかないと、昔に戻ってしまいます。
3年たっても、常に前に壊すような努力を続けさせています。とはいえ、壊し続けているかというと、大抵は無理です。2、3年でそれなりに歌えるようになって、まわりからもそれなりに認められるようになってしまうと終わってしまいます。それでまわりには通用してしまうのです。
感動しなくても拍手するお客は素直ですが、そのときには別の場が働いてしまうのです。それを全て取って作品だけとして聞いてみるという非情さは、日本人にはあまりありません。
そういうことをいうと嫌われています。人が一生懸命やっているのを認めるのはあたり前です。しかし、レッスンの場でそれをいってしまったら終わりです。その人の最後の舞台であったら、それはよいことだと思います。
やってほしいことは常に同じです。いえた、いえない、大きく出せた、出せていないだけでなくて、自分がきちんと自分の体の中で表現しきったというのが、発声の問題です。それが相手に伝わるように、自分の中で目一杯のものが出たというのが、次のイメージなり歌、せりふの問題です。テープにとって聞いてみてもよいでしょう。他の人とくらべる必要はありません。自分がやってみたときに実感を得られないと思ったら、課題を変えてもよいでしょう。これに食いついてどんどんやってみてもよいのです。トレーニングで一番必要なのはできないでいることとのギャップがあるなら、具体的に突き詰めることです。
○高い理想を
歌い手がうまくならないとしたら、役者やお笑いの人と違って、ステージでそれで惹きつけられないからです。
得るべきことは、その判断の基準です。トレーナーの判断の基準は参考に過ぎません。自分でやってこれ以上の実感がないと得たものが、狂っている場合も多いのです。
ただ、それさえ持てない、自分の中でさえうまくまわっていないとしたら、人に伝わることはないと思います。
自分で納得いかなかったのに、お客さんから認められた、どう思うかといわれると、お客さんがそのときの気分で聞いてみたら、よい曲だと思える場合はあるし、歌い手がうまく歌えていなくても、お客さんが評価してくれるときはあります。それはそれで喜んでいればよいのです。
納得できていないということは、自分の理想がもっと高く、よいものを聞いているからでしょう。よいものを聞いたあとに納得できなくなっていくことで勉強できるのはとてもよいことです。
きちんと細分化して、それぞれに対してトレーニングをセットしていくということです。どこまでこだわれるかということです。
ことばを変えること、それを高くしてみる、長くしてみる、あるいは何回も繰り返してみる。4つつなげてみる。どれも結構大変です。そういう発想をトレーニングの中に持ち込んでほしいということです。
歌と同じです。トレーニングの中にどれくらいの発想ができて、どれくらいの試みができるかというような創造的なことができない人が、歌になったときに、創造的な歌がつくれるかといったら、できないですね。
だから、いつも同じなのです。別にトレーニングや歌を分ける必要はありません。ただ、歌はどちらかというと自分の世界でありながら、お客さんと共有して一緒につくっていくものです。お客さんのほうをきちんとのせてあげなければいけないという、場のコミュニケーション力になってきます。
一人での練習というのは、もっとわがままなことができるわけですね。一人でやるときに、わがままな試みをしないでどこでやるのかということです。ステージは余力がないと楽しめるのではありません。楽しむのは別の意味ではできるかもしれませんが。
バンドと合わせなければいけないし全体の進行を考えなければいけません。音楽の中身のバージョンアップということは、その場でも起きると思います。バラードで、しんとした状態とか、ノリにノリまくって、自分を忘れたような状態でよいものが出てくるとか、そういうのが本番の強さだと思うし、そういうところから得られるものは大きいと思うのです。意識的にコントロールして課題を設けて行なうトレーニングは、一人の練習のときでないとできないことを選ぶべきだと思うのですね。それができたら一流だと思います。
レッスンでやり損ねたことを家に持って帰って、1ヶ月やりましょう。ここではできなくても、家でできればよいです。中にはここではできるけれど、家でできないという人とがいます。時間のあるところで、ここ以上に集中してやれば、心構えをきちんとして臨めば、よいものが出てくるはずです。
レッスンというのは、毎回、効果が出ていろいろなものが得られるのではありません。3年にたった一つでもよいから、もしその3年間ここにきていなかったら絶対に出なかったものとか、味わえなかった感覚が一瞬でも得られたとしたら、全部の元がとれるのです。
あまり欲張られても困ります。多くの場合はそれが出たらわかります。そういうものを持続して接点をつけさせたものに過ぎないのです。自分から接点をつけて、気づいていないところで気づいたり、理解したり発見したものでないと、本当のことでいうと自分の財産にならないのです。
私の本を読んでいる人はずいぶん多いと思います。何十万人といると思います。ただ、それをモノにするのは大変です。その本をマスターしたということは、その本の内容を全部しゃべれるということです、私はしゃべれます。そのくらいでなければ、その本はマスターできないのです。ただ、私の本をマスターしてくれというのではありません。それに代わる自分の本を10冊20冊つくったらよいのです。アーティストだから声で現実にやっていけばよいわけです。
そういうことでいうと、何かはっきりとわからなくなっているのではないのでしょうか。わからないのはあたり前なのですが、何が目的で何がギャップであり、そのために何をしているかということをふまえ、きちんとレッスンでオンしていくことです。オンするというのは苦しいことであり、楽しいことです。
最初に約束した通り、私が研究所を起こしたのは、芸人さんがすごく苦しんで10年修行して手にしていることを、ヴォーカルは何も苦しまないで10年経ってしまうからです。苦しむとは悪い意味で使っているのではなく、何か力がついていくという接点の葛藤のこと、不可欠なことです。
どうしても声が大きく出ないと思ったら、声を出すことに2年かけても3年かけても意味があるのです。最初からすぐに効果が出ないのは当然のことだといってもよいです。
昔は平均在籍年数が4、5年はあたりまえのことでした。今は3年でも長いといわれてしまうので、本来は成り立たないわけです。そういう部分でレッスンをどういうふうにするのかということを考えなければいけません。とにかく10年くらいで尽きないほど材料はここにはいくらでもあるわけです。