声量と通る声 NO.251
○声量と通る声
「ていねいにささやくような演技で表現してくれ」といわれたら、たぶん声量はかなり落ちてくるでしょう。そうではなくて、声量は小さくても抜けてくる声というのがあると思います。
私は、表現としては声量は重視していません。せりふも、声の動きだから、脚本のことばの中での組み立てのようなものはあります。たとえば、飛び跳ねてせりふをいうときに、大きくはいうけれども、あの動きについて大きな動きの声ということはありません。役者の声ではあるけれど、息をかなり使って顔面のほうに響かせて遠くに聞かせているというかたちですね。だから、腹の底から本当に出している役者の声とは違います。けれど、舞台として成り立たせるための声としては確かなのですね。
というのは、あれだけの動きに対して、お腹から声を出すということは、よっぽどの人でないと伴いません。動きのほうが最重視です。動きが重視だけれど、ことばのいろいろな遊びがあるから、ことばが聞こえないことにはダメなのです。聞こえるだけなら誰でもできるけれど、しゃべりの話法を使って伝えるということは、できています。
だから、これはヴォイストレーニングの目的にすることとは違ってきます。その応用になってくるヴォイストレーニングですごくベーシックなことがなくても、そのようなしゃべり方を使えば、滑舌は特にそうですが、伝えやすくはなるという部分はあります。
○役者の声
役者の声というのは、一昔前の黒沢映画に出ているような人、三船敏夫さんから仲代達也さん、それに江守徹さん、中尾彬さん、山城新吾さん、パッと聴いただけで、太くてしっかりした役者声ですね。別所公司さんや真田広之さんの声です。男性だったらあこがれの対象になります。
トレーニングといっている以上、何かしら共通の目的をとらなければいけない部分があって、結果としては、このような声でなくてもよいのです。でも、ある意味、人の声を鍛えていくと、クラシックの声が似てくるのと同じように、役者でもその人の体を使ってやっているような声というのは、似てくるのです。
ただ、今の役者さんにそれが全部必要かというと、異なってきました。一昔前は、ああいう声の出し方でないと、遠くに聞こえなかったのです。今より音響が悪かったからです。体育館だったり、雨の日に風もガタガタいうようなところでやっていたからです。今はホールもよくなっています。タレントさんの声でも、舞台ができます。
かつては、舞台をやろうと思ったら、1年くらいの声ではとてもできなかったのです。声を鍛えるというものの一番のベースはそういうところですね。20代くらいで芝居をやっていると、何となく生声っぽいものや素人っぽいのに、5年10年とやっていくうちに、役者さんみたいだねとかプロみたいだねといわれるように、声そのものが変わるということですね。
○声の変化
ヴォーカルの場合、それが必要でないということもあります。アナウンサーやナレーションの人は、声そのものよりは、発音やアクセント、伝達することを勉強するほうが優先されます。声が変わってくるには時間がかかります。40代くらいになってくると、報道関係の人も、さすがにしっかりした声になっています。それも一つのノウハウでしょう。
皆、全然違うことをやっていながら、同じところに行き着くのです。そういうことからいうのなら、結構、確かな基準があります。
あなたがいろいろな人をみたときに、この人の声は鍛えられている、この人は練りこまれていないとか、そういう部分でみることもできるのです。ただ、声は聞こえたらよいという部分もあります。
お笑いの人をみたらわかるとおり、いろいろな声があるわけです。彼らの場合は結構、自分のオリジナルの声を使っています。逆にいうと、役者のように共通としてよい声、2枚目だったら2枚目っぽい声を使わないとダメだったのが、そういう制限がまったくないから、彼らが選んでいる声というのは、舞台として迫力が出て、滑舌もまわるし相手にきちんと伝わり、しかも自分の個性が出せる声です。だから、案外とお笑いの人の声からみると、今の日本の中で使われている声というのは、はっきりわかってくるかもしれないですね。
滑舌だったら、単にやるだけで、ほぼ解決していきます。早口ことばや外郎売りをやればよいのです。ただ、声がついていないと、同じように言ったのに、滑舌が悪いとチェックされてしまいます。声がないと基準が厳しくなるのです。
たとえば20歳くらいのアナウンサーだと、1箇所2箇所噛んでしまうと、それで下手に思われてしまいます。声のある役者さんだったら、2箇所噛んでも、あまり目立ちません。前後の流れや、表現している力でフォローできる余裕があるのです。
○声量の限界と鍛えるということ
声量を上げていくと、いずれは割れて聞こえづらくなるのは、誰でもそうなのです。どこまで使えるかということをヴォイストレーニングは日ごろ経験していくことによって、詳細に知っていくことができます。
自分の限界を知るとともに、それを破る場合、これはトレーニングでしかできないのです。それから限界を知って、そのなかで使い方をどういうふうにするかということが大切です。たとえば声量を上げなさいといわれて、声量を上げるという声量はお客さんが聞いたときのインパクトとか、その人の伝える世界の大きさをいっているわけです。声そのものがでかくなっても伝わらないのであれば、意味がありません。こういう場合にいわれる声量というのは、本来は声量を上げたように聞こえるように演じなさいということになってくるのです。必ずしも声を大きく出せということではないです。すごく大きな声で2時間、演技ができるのかといったら、できないのです。声量そのものを問うのではなくて、お客さんが聞いて、すごくインパクトがあったと思わせるような声の使い方、演じ方をするということです。
声を鍛えるということ自体は、役者のトレーニングと同じです。応援団やいろいろなところで声を鍛えるといって声出しをやっているのです。ただ、ヴォイストレーニングにおいてはあまり無駄なことはやらないで、できるだけ効率的にしていくことなのです。トレーニングとはそういうものです。
スポーツだったら試合をたくさんやったら強くなるというのはあたり前ですが、そうでなくて、基礎トレーニング、あるいはいろいろな方法論で、より合理的に行ないます。欠点があるから補うために、特別に何かをやろうとするのがトレーニングです。
サッカーでもシュートをすればよいのかというと、それだけではないのです。結局は何に使っていくかということによっても違いますね。
プロになっている人たちもきます。それも10年以上やっているような人、普通のヴォイストレーニングというのは歌がうまくなるためとか、あるいは声が出るためにやるのですが、そういう人は、その条件は持っているわけです。そのなかでどれだけ細かくみて、チェックをし、確実性を増していくか、さらに高い表現ができるかということです。これは、プロの人がアマチュアよりも必ずしも優れているわけではないのです。とはいえ、基本的に自分のことについては、他の人たちよりも知っています。
ヴォイストレーニングというのは、歌うことや発声をすることではなく、その人の課題を探り、それに対して強化する方法、補う方法を与えていくことです。それが声や演技で解決できないのであれば、どういうふうにみせていくかとか、こういうところはできないからやらないとか、違うやり方を取り入れます。歌でいったら、音響や動き、編曲、ステージということであればいろいろなもたせ方があるのです。そこからは演出家とかプロデューサーの領域になってきます。
我々のなかでは音声までの基準でみていきます。ただ、現実問題、ヴォーカルは、音声だけでみせるものではないので、ビジュアルや振りも入ります。
○悪声の必要
ミュージカルになると、両方でみせていかなければいけません。よい声であればよいということではありません。悪役だったり、よい声でないほうがよい場合もあります。
たとえば人をおびやかせる役、こういうほうがかえって難しいのです。人に対して好感を与えるような声というのは、喉によい声を使えばよいのですが、人に不快感を与えていくような、人をびびらせたりいじめたりするような声は、人に対して悪い感情を与えるから、自分の喉も傷つけやすいのです。怒りまくっていたら喉をやられてしまうのと同じです。
そういうものを鍛えていくのは、役者のトレーニングの特殊性です。歌い手やアナウンサーは、悪い声をやる必要はありません。声優は必要になることがあります。たとえば外国人の吹き替えをやるときに、かなりテンションが高くて、けんかっ早いような声を出さなければいけません。20歳くらいの若い人でも、2役3役もらい、40代のおばさんの声も出さなければいけなかったりする日本では、無理にやると喉がつぶれてしまいます。日ごろから備えておくことです。
○ヴォイストレーニングの本質
上のほうに集めて息を流すようなイメージで捉えてもらったほうがよいかもしれません。動きの中で通すためのものは、ベーシックなものとは違います。応用的なもので、基本のトレーニングにしましょうというのはよくありません。息が漏れすぎてしまって、そのような喉を持っていてやる人にはよいのですが、そうでない人にはかなり負担になって、喉を痛める危険もあります。一般的な出し方とはちょっと違います。動きの速さに対して滑舌をまわすようなものは、声そのもののよさ、表現力みたいなものは、犠牲にしています。動きがあれば伝わるということです。目をつぶって耳だけで聞いていたら、聞きづらくなってきます。そこはヴォーカルや役者の声ではあるのです。動きの早いものに対しての一つの処方と基準の違いですね。
声量を上げていくのはトレーニングでやっていけばよいでしょう。トレーニングで目いっぱい大きく出るところまでは声というのは本番で出せません。だからトレーニングのところではできるだけ目いっぱいのところまでやって、実際に使うときには、セーブします。舞台で今まで使ったこともないような大きな声を出していると、もたなくなってしまいます。
ヴォイストレーニングのメニュは、自分がやっていたり、オーディションで課題にするようなものを使えばかまいません。それをどういうふうに使うかです。声優のトレーニングは、せりふを与えたり、自分の好きなものを持ってきなさいということです。オーディションがある人は、そのものをやって仕上げます。
ただ、本当のことでいうと、レパートリーにするものとか、現実に今やっているものというのは、トレーニングの課題としてよりは現実として分けてやるべきものです。トレーニングは実験的な試みもします。もっとそれを大きくいってみたらとか、速くいってみたらとかでも、演出とは違います。
そういう意味では、曲では、自分が歌いたい曲ではなくて、その人が足りない要素が結構たくさん入っているような曲、その人の声が出やすいような曲をメインにしてトレーニングをかぶせるのです。
巷でヴォイストレーニングと呼ばれているのは、だいたい、姿勢を正して息を吐いてとか、「あいうえお」をやりましょうと、かたちだけになっているものが多いのです。
よくないとはいいません。一つの体験になりますが、そこで腹式呼吸を勉強しましたといって、腹式になった人はいないのです。実際の現場の必要性に対して与えていないからです。学校で学ぶ勉強みたいなもので、こんなかたちがあって、こうなってというかたち先行です。
声優の学校でやることは、ナレーションできちんと読めるようにするとか、順番に読んでみるとかいうことです。現場に行ったら、もっとしっかり声を出せとなります。まわりのベテランに負けないように迫力のある声を出さないと、使えません。そういうことが大切です。新しいことはそこで覚えればよいのです。
正しいヴォイストレーニングというのがあるわけではないのですが、トレーニングという限りは、体から変わってくるし、声のトーンが変わってくるものです。声の場合は感覚が変わってこないと、大きく変わりません。今まで生きてきて、今出している声は、今までの自分の感覚で出している声です。ヴォイストレーニングを受けているとか受けていないではなく、一番大切なことは内面的な感覚とか耳が変わってこないと、本当の意味で声は変わりません。
いろいろな学校に行って、どんなにヴォイストレーニングをやって、先生がやったのを真似てみても、それは他人の声です。本も役立つ材料は入っていますが、本当に結果がうまく出ている人というのはなかなかいないですね。
○共鳴とマイク
地声にしたら、低中音で出にくくなるのはあたり前、ソプラノの発声とは違います。マイクにのりが悪くなるというのは、共鳴がよくないのです。声楽をやること自体は声量も出るし、声の輝きも出るのに、中途半端な状況では、マイクというのは集約したものをとり込みます。きちんと体を使ったものをもう一度集約して入れます。マイクが遠くにあってもびりびり入るくらいに歌えるからよいのです。入らないのは、合唱団みたいに、単に広がっているだけの場合が多いのです。声楽自体が悪いのではなくて、そこでのキャリアです。
ポップスというのは口元にマイクを近づけたとき、ほとんど声がなくてもうまく聞こえるように、いろいろな意味で加工します。それに対して声楽的な歌い方というのは、一つの音をつないでいくだけの人が多いようです。すると、マイクを離したら入りやすいし、マイクを入れたらキンキンなってしまいがちです。
声楽とポップスが違うということではないのです。自分にとっての歌がどういうふうにあるべきかという問題です。
マイクはレコーディングやライブの実習に使わせることはあります。基本的には助けてくれるものです。ヴォイストレーニングでは特に使いません。