スケッチ、息と小さな声 NO.254
○スケッチ、息と小さな声
途中でいろいろと切れたり間があいてしまったりするのは、体でコントロールできないからです。お客さんがみているという前提ではないから、声をきちんと体につけていきましょう。声でしっかり返すということだけで1コーラスをつなごうということです。ですから乱れたらストップ、呼吸がだめになったらストップです。自分の材料をちりばめながら、音楽に対して近づけていくという、画の前のスケッチまでいくのです。
これは2オクターブです。普通はこれの半オクターブから1オクターブやるのにも、4年くらいではなかなかいけないものです。この程度できると、かなり優秀な声の使い手です。
ポップスのリズムに合わせて体を使ってみると、どのくらい大変かというのを、欧米人と同じくらいの感覚のところでやります。ちゃんとした人は、だいたい息が聞こえるのです。
私は最初から息のことを言っています。日本のヴォーカルで息が聞こえるというのは、無理に出している人はいるのですが、(向こうのが聞こえるからと俺もハアーッと出してみようと)そういう息ではダメなのですね。深い、ヴォーカリストが出しているような息でないと声が結びついていません。
その声を小さく小さく、このくらい小さくしてみても聞こえます。そのかわり私の動きが止まってしまう。というのは、それだけ体で表現しているのです。弱くしたり小さくしたりすることは簡単ですが、それで表現するということは、高くしたり大きくすることよりも難しいのです。表現力をもったところで小さく使うというのを問われるわけですね。
○フレージングと我
演奏家、ピアニストやバイオリニストは楽器で崩すしかないのです。その時間をかけてどれだけ大きくはみ出したり、空間を提示したりして、ということでお客さんとコミュニケーションを取ります。
ストップウォッチと同じ時間の刻みだったら、音楽といわないわけです。何が必要かというと、たたみ込み、そこから吸い上げる、どこで声を捉えてデッサンするとかいう絵が必要になるのです。
普通はこれが1分もてばよい。そのところを30秒くらいもてばよいし、これでステージをやるとしたら、この7割くらい、ここまで歌ってみせてしまうと底が割れてしまいますから、それで充分です。あくまで歌として聞かせているのではありません。トレーニングのプロセスとしてそれだけ全身を使うことや声を出すことは大変なのです。大きな声ということではなく、そのなかで体から捉えて、わずか1分間のことをやる。というのは、相当大変なのです。それに耐えうるような声も必要だし、呼吸も必要です。
何よりも必要なのは、自分のなかに何があって、それをどう瞬時に取り出して組み合わせていくかという能力です。こればかりはその人の素質で、与えた素材をどういうふうに自分のなかで消化したり創造していったりするかというようなことなので、かなりの我が必要なのです。
よく、もっとリラックスしてやらせたらよいのではないかと、なぜそんなに汗をかくのかと言われたことがあります。人間が一所懸命やって、何かを伝えるといったら、そのくらいは大変ではないかと思うのです。
○厳しさとフレンドシップ
声が出ない人をリラックスさせて出るようにするのは最低のことです。オーディションでも緊張する、お客さんの前に立ったら、すごく大変になります。トレーニングが本番よりも甘いとなったら、トレーニングになりませんね。そこまではスポーツと同じ考え方でよいのです。私がみている限り、現場では厳しいのです。
外国人のトレーナーについていた人は、音楽的に明るくとかやさしくとかになりがちです。ここにも黒人のトレーナーを3人、入れたことがあるからよくわかるのですが、日本人をみたら音楽があまりにも入っていないから、まずは音楽を楽しませようとするのです。それは子供に何かを教えるときと同じです。黒人のトレーナーに、黒人のヴォーカリストをつけたら、レッスンでにこりともしませんでした。同じレベルに近い人に対しては全然違うのです。
日本人が向こうに行ってレッスンを受けたというのですが、次元が違うから、コミュニケーションをとってくれているのです。音楽の友好面で、足元にも及ばないから、仲良くしているのです。私たちがあなた方に対しては厳しくても、レクチャーで普通の人に会ったらニコニコして励ますのと同じです。それは友好的に、一回しか会わない人だから、わざわざ恨みを買われる必要もないし、その人を元気づけてあげることで役立つというのならそうします。そのことのレベルと3年も5年も10年も続けてやっていくトレーニングと、一緒にしてはいけないのです。
○コーチの与えるもの
いろいろな学校に行くと、生徒がすぐにやめてしまうから、先生がほめたり、よいところを伸ばしてやろうとします。それは根本的な善意ですが、はっきりとその世界に向いていない、才能を違う世界に振り向けてあげるということも必要だと思います。やることもやらないし、他のものから逃げている人に、神様が味方してくれるわけもないわけです。
昔のように、何歳までに成功しなければ、というようなシビアなことがなくなったのはよいと思うのです。30歳からでも60歳からでもできます。ただ、トレーニングということですぐれた結果を出したいのであれば、ある程度時期をしっかり決めて、2年くらい、できたらその前後に5年、そして、10年単位でみてほしいのです。わからないという人は、何でもよいから、2年でも3年でもやれるところまで精一杯やってみてください。今はそういう考えです。
昔は全部の面倒をみようと思ったのですが、他の分野のすぐれたコーチの人に会ってみると、10年で1人、20年で1人から3人、世界的な名選手が出ればよいですね。それはそうだと思います。マラソンコーチでも何でも、年間に300人育てたというのは、それはもう、接したというだけですね。
こちらがどうこうできるわけではない。そういうことができる人が増えてくればいろいろなものを得て、環境がよくなっていきます。その期間、楽しむ、自分と対面していくことになるのではないかと思います。こういう活動をやっているのも、基本的にはあまりに安易に習得させたかのように思わせてしまうようなトレーニングや歌の教え方がはびこっているからです。
何もなかったら何もなくてよいと思うのです。自分で努力して、一人でやっていこうと思ったら、そんなに間違わないものです。ところが、安易に誰かの手を借りようとか、何か絶対によい方法があると思って、鈍くなっていきます。それを求めても、それは手に入らないのです。我々が出せる方法や材料というのは、あくまでその人が気づくためのきっかけとして、与えられるためのものです。何事も同じものをどう活かせるかです。
呼吸法のようにわかりにくい世界ではないですね。成果はそのまま、声で表れてきます。優秀な人が、その順番で世の中でやれているのかというと、そうではありません。
日本の場合は特に、人あたりがよい人や、何でもやる人が先に優れていきます。それも一つの下積みだと思います。お客さんのこともあります。
ただ、声のことに関しては、多くの人がしっかりとやっていないだけに、やっていけば一つの武器になっていくというのは、間違いないことではないかと思います。
○セッティング
肺が2つあって声帯があって、それで口というのがあって舌があって、誰でも日本語の「ラ」はこう出しています。英語の「r」も10も20もいろいろな方法があって、全部やって一番当てはまるものを選べばよいのです。
そういう意味で知識はないよりもあったほうがよいのですが、あまり鵜呑みにしてしまうとおかしくなってしまいます。ヴォイストレーニングと考えなくてもよいと思うのです。
優れた人がやっているようなことのプロセスをどうやったら自分にセッティングできるかということ、それから自分の目的がどこにあるのかを具体的にしていくことですね。
プロと一概にいっても、いろいろなタイプの人がいます。どこで支えられているのかということをみることです。どこに客がいるのかということ、その客に対して、どういう作品をつくっているのかと考えることです。
優れた人とやればよいのです。ところが優れた人は、あなたとやるとしたら、あなたが何か優れていなければ一緒にやりません。何もかも一緒にやるのではなくて、本当に自分でしかできなくて、優れたところに絞り込みます。
研究所ではそういう考えです。その人が好き嫌いというのは関係ありません。才能があるなら、そこを磨けと。好きなことは自分でやればよいのです。金をかけても返ってこないのは、趣味でやればよいのです。
逆に、自分が嫌いであっても、才能を与えられたところであれば、そこを伸ばしたほうがよいと思うのです。それは人のために役立つ、世の中のために役立つ、ということは仕事になります。仕事と全部結びつけなくてもよいのですが、人前で何かやっていくということは、責任が伴います。少なくとも自分のことを知っておくことと、管理することです。
私は、今更、風邪で声がつぶれたとはいえないのです。
ミスをなくしていくことです。若いころは仕方がありません。無理をしてしまいます。私もすごくハードな日を送っていました。でもそのときに得たことをきちんと記録して、こういうふうになるということを知ったら、次の10年はもっとレベルの高いことができなければおかしいでしょう。
スポーツなどは体力が衰えてくると、技術を得るのと、徹底した環境づくりでカバーします。研究所はあなたの習慣と環境をつくるための機会です。どう作品を出す、書いてみるのことに意味があると、何でもやってみればよいのです。そうしないと、自分がみえてきません。いろいろな質問に答えて、自分で答えをみつけていってもらえばよいと思います。
○間違いの可能性を試す
レッスンというのは一つの機会、オーディションや本番だと思ってください。自分の体調がよくても悪くても、そういうときにはどうすれば一番よくみせられるかを試します。実際に覚えたはずがこう間違える、ということを知るところです。ここからここに飛んでしまうような間違いが起きるとか、大体の場合は目いっぱい、100パーセントやって完璧だと思っても、実際にステージになるともっとやっておけばよかったと、最初はその程度がわからないのです。
覚えるだけなら100回で覚えます。けれど、それを1000回2000回やっている人との違いというのがあります。単に300回やって覚えたら、練習ではできてしまうのです。ところが本番になったら、頭から飛んでしまったり、途中から全然わからなくなってしまったり、1番から2番で混ざったり、いろいろなパターンの間違いを起こすものです。
ここに通っている間に、全部の間違いの可能性を知ってしまったほうがよいのです。こういう間違いもありえるという可能性です。すると新しいものを覚えなさいといわれたときに、これはきっと、1番のここが2番のここと間違えやすいとか、最初に用心して、こういうところをおさえておこうとなります。
少なくとも、最初にやらなければいけないことは、出だし、何が出るかということを100パーセント覚えておきます。まず出られなかったらどうしようもないし、出たら、その後はつなげるからです。
それから、他の曲よりも3倍か4倍、時間をかけないと、こんがらがってしまう曲、覚えにくいけれど忘れにくい曲もあるわけですね。人によっても違います。これは難しい曲といって教えるのは、だいたい2番と3番と4番が混ざるものです。対になっていたらわかりやすいのですが、同じことばが出てきたりすると、間を抜かしたり、先にもっていかれて、次のフレーズに入ってしやすいのです。
間奏を待たなければいけないのに、同じコードで早く入ってしまったり、起こしやすい間違いがあるのです。
そういう練習もかねてレッスンを1年やったら、ここで2、30回オーディションを受けたのと同じような経験になります。
2曲くらいだったら完全に覚えてくることです。8曲なら2曲覚えて、あとはかまいません。覚えることが目的ではありません。けれど、覚える訓練も必要です。それから声に関しては、正しく楽譜を取る、正しく歌うこと、楽譜を持ってみることです。
その曲がモノになると思わなくても、かじっておいたり、朗読をやって自分のを聞きます。そういう感覚があると、映画をみたり朗読をみても、難しいけれど、よくやれているな、というような、自分のなかで判断基準がつきます。自分の歌った曲なら、難しいところをよくこういうふうにやれているとか、もっと身近にわかるわけです。経験しておかないと、その辺はわからないのです。
判断は、10秒伸ばすのを、自分は3秒しか伸ばしていないと思ったら4秒にし、5秒にします。10秒やって、いい加減になっているのなら、どこが成り立ってどこが成り立っていないかということを判断するということです。それと音色や、高い声を出すというのは別の問題です。
○説得力
若干、低くなっていると思います。構成を少し下に保つようになったから重くしたのですね。重くしたから、実際に演奏としては耐えなくても、体とか声に負荷がかかることで、若干鍛えられるというのであれば、それはトレーニングとしての部分です。
バランスからいうと最初に歌うほうが動きやすいです。前に出ている、最後の「アー」のところをやってください。
突っ張らないでください。途中で、「アーアーアー」の後に、声が2つにわかれてしまいます。一つにしましょう。
呼吸や体のほうがうまく結びつかないまま、結構バタバタしてしまっています。演奏上、は、正しいと思うのですが、意味の含みになると、そこからの部分です。
日本の民謡でも正に、誰でも音はとれるし伸ばせます。説得力が出るというのは別です。そこで、技術や節回しが出るのではなくて、一本きちんと線を踏まえて、それを体や呼吸できちんと保って動かしているとかいうところです。今やったくらいの短さでいろいろと切って、それを一つだけ膨らませてみたり、次につなげてみたり、終わらせてみたりということを徹底してやっていく時期が必要ですね。
それだけは、すぐによいとか悪いとかはいえなくて、自分で練りこんでいくしかないのです。その結果として、半年前より、そういうことがしぜんにみえてくるのです。
トレーニングというのはしぜんにやろうとすると、うまくできません。器を大きくもって、今ギリギリやっていたことが器のなかで、今よりしぜんに収まってくればできていくという方向づけをします。小さな器でギリギリにやってしまったら、破綻してしまいます。そういう意味でやるのだから、不自然になってもよいのです。部分に関してはしぜんにできる、一本つなげてしまうと不自然になってしまいます。その一本をつなげられるだけの器をもたなければいけないのです。
○二段構え
単純にうまくいかないから、ぶつけてしまったり、パッと切り替えしてしまったり、さっと終わってしまったりすることを頭でやらないことですね。徹底して体に尋ねながらやっていきます。
その結果、音楽が変わってしまったり、今やっている課題とずれてきても、それはそれでよいのです。一つの発声をつくっているというかたちで、別の勉強と思っておけばよいわけです。
応用された歌をコピーすることを、何回もやっていても、どうしても人の感覚だから、それに合わせることに急いでしまうのです。それで学んでいく人もいますが、どこかで本人のよさと違ってきてしまいます。
最終的にはオリジナルをやらなければいけないのです。この作品は難しいと思ったら、簡単にしたところで、自分のものを何回もやる経験をすることです。呼吸のところを元にしなければ、向こうのコピーのところだけでやっていくと、そこで生まれ育たないとわからないというようなところになって、あきらめてしまったり自信をなくします。
自分の呼吸でやれば、人類は世界中、皆、同じところがある。先生を受け継いでいながら、全く違うものをつくっている人ばかりです。先生と弟子の体は違うし、感覚も違う。自分のベースのところからその作品をこなすように考えつつ、最初はもたないから、発表会のときには、向こうに合わせてやる、というように2段構えでいくべきですね。それで徹底してどちらかでやっていく。自分のほうでいくらやっていても、作品にはならないし、先生のほうだけでやっていても、何となく似ていれば似ているだけ、うそ臭くなってしまいます。器用な人ほどそうなってしまうから、両方やりつつ、自分との距離を行き来します。こっちに近づけてみようとかもっとこっちに戻そうとか、よいものを最終的には選んでいくのです。
○メンタル
どんなにやり方があるとしても、そのやり方で1割くらいよくできるくらい、精神的なものが5割をだめにしてしまいます。どんな先生と、どんなに集中力をもって、2、3割よくしても、精神的、あるいは心理的に迷っていたら、よい効果が出ません。
メンタルを直したほうが、声も楽に出ます。あまり体の状態とか、声の状態とか歌とか実際のステージのできをリンクさせることはないと思います。
調子がよいときはよい、しかし調子のよいときには油断して、とんでもないことになってしまうので、調子のよいときに気をつけます。体の調子が悪くても、歌が悪くなったり、ステージがダメになるものではないのです。そこは切り離して考えておきます。両方でダメにしたら、体の状態がよくなっても、声が立ち直らなかったりします。関連づけすぎてしまうと、マイナスになります。
ほとんどのものは気力でカバーできていくものです。膠原病をかかえながら歌手をやっている人、点滴打ちながらやっている人、透析を受けながらやっている人、体からいうとよくない人もいるわけです。それでステージで歌えないのかというと、歌くらいは歌ってしまっているわけです。
体の状態というのは皆、個人の事情だから、これは人があれこれ言えるものではありません。ステージでは言えるわけでもないし、みせられるわけでもない。自分のなかで、こういう期間、どうセッティングするかということで合わせていくしかありません。
悪く考えてしまったら、どんどん悪くなってしまいます。どこかが悪くなっているときは何かがよくなります。体の状態がよいときには、集中力が働くとか勘が働くとか、そういうふうになっているから、自分ですごく悪く思っていても、何かしらプラスしていることがそのときにはあるわけです。そういうときのほうが、チャンスの場合もあります。そうでなかったとしても、そう考えていくべきだと思います。
○入っているもの、出てきたもの
基本的には歌うところを決めて、それ以外をどうもたせるかということになると思います。コピーで終始してしまった人は、影響を受けている。そのときに自分で歌ったものを聞くと、コピーしたかどうかというのはわかりにくいと思うのですが、特徴的な癖が出ています。似ていること自体は悪いことではありませんが、そういうところがある意味では引っ張られたところというような見方をしてよいと思います。それがよいとか悪いということではありません。お客さんにとってみたら、そのほうがよいという場合もあるし、そうやってしのいだということで、プラスの評価になるかもしれません。
私はそれに代わる武器がなかったのかという見方をします。自分のなかで感覚的に動かせないものや入っていないものは、何かが代用します。そのときに誰かの曲でそれを聞いていたら、それが手っ取り早く出てきます。手っ取り早く出てきたことだけで終わってしまうとまずいですね。
今日はそれで終わってもよいのですが、終わったということは結局どういうことだったということを反省しましょう。自分が選んで、そのコピーでしのいだということであれば、それはそれで目的どおりにいったわけですが。そうではなく入っていたとか、あるいは練習中は自分のものに聞きとれなかったりするものが、本番になったら、そう出ていたことに、びっくりしてしまう場合もあります。
○創唱
日本人の場合は創唱者、最初に歌って、ヒットした人のものをベースとして考えがちです。そこから離れても、戻るところがそこになりがちです。もう少し基本的に、きちんと楽器のこととか、曲からやっていくことです。創唱した人はあくまでもその一人にすぎません。その曲をつくっていたとしても、そこを分けてみたら、その曲自体の作曲、作詞の部分から取り出せるものがもっとあるのです。
誰かが歌うということは、どこかはデフォルメしているわけです。同時にそれが応用するということで歌唱するということです。省略されている部分がずいぶんあるのですね。プロになればなるほどそれが巧みになります。この歌のここは、こういうふうに歌えばよいと、自分の頭で考えなくても、そういうかたちでなされてしまう。ほとんど、その人独自につくってきたパターンのなかで落とし込まれます。それはプロの歌い手のやり方、特に日本ではそうです。
そういう人がこういう曲を歌ったら大体どうなるかというのは、ほぼ予想がつきます。そのなかで予想がつかない人がいたとしたら、一流の人です。それであって初めて独創性があるスタンダードな曲をその人なりに歌えるのでしょうが、そのような人は、日本の場合なかなかいません。なぜかというと、覚えた人でコピーして、それ以上に基本に踏み込んでいないのです。
そういう課題があれば、こういう曲の場合は、みていって寸法どおりにとるのは、難しかったのではないかという気がします。最初の1行で、どの程度の勝負ができたというのが、ほとんど大きな勝負でしょう。この形で勝負するのだったら、このかたちを崩したら、違う勝負ができるでしょう。
最初に張っていって、「ラブ」あるいは「ワン」というところを強調していった、その2つでほとんど決まってきます。その1行。うまくその人の個性と、創唱している人のニュアンスがまじって、何とかもったという人もいました。それはそれでよかった。バタバタしてしまう場合があります。その辺は気をつけてください。
○勝負
1割の人を引きつける何かしら要素、強さがあるかということで、みていけばよいのです。個性でもあるのは確かです。トレーニングからいうと、癖というのは可能性をせばめるみたいで、嫌がられます。そういうところで、日本人の場合は鼻にかかったり、外国人よりは浮きやすくなってきます。それ自体は聞きやすくなるのです。踏み込みが少しやりにくくなる部分があります。
音を確定させることはある程度、条件になってきます。気持ちよく聞いていると、何かそれであっているように思ってしまいます。何回も何回も歌っているうちに、徐々に自分の歌に変えていったり乱れてきたり、下がったり上がったり狂ってきてしまうことがあります。それは気をつけてみてください。
自分が勝負できるところのものを選んでいるわけではありません。日本人のなかにおいて、それなりに研ぎ澄まされて、張るところを張らないし、伸ばすところを伸ばさないというようなかたちで、何かやっているということではありません。結果として最良の選択をしていればよいのですが。真似てしまうと、それっぽくなって、戻らなくなってくる。こういうものは、ダイナミックに歌っていたほうが、ある意味、楽だとは思います。
私は全部で勝負させようとは考えていません。3番目くらいに勝負できるものを何とかもって、6回くらい繰り返せたら、よい歌になるのではないかというふうにみます。普通それがないままにいって、最後に少しそれが出てくるとか、サビにそれが出てくる場合が多いですね。
○ABサビ
Aメロ、Bメロ、サビとなるでしょう。サビまで出てきません。ちょっとうまくてBメロの後半で出てきます。Aメロをほとんど捨ててしまっているというような歌い方の人が多いです。サビが頭に残るとか、CMでサビだけやっているからサビが覚えられるということではありません。サビ以外歌えていないような感じもします。
向こうの人たちは、Aメロからサビみたいなものでしょう。下を歌って、いきなり上なのに、上を歌っていないようなかたちで楽に出して成り立っています。Aがあるところに、Bで途中をとらなくても、低いところで歌って、いきなり高いところでということでも成り立ってしまいます。ABサビは基本形ですが、Bはいりません。
日本の歌は、Bメロが変化をつけていないと、「転」ですね、そこで何か転じられていないともたないのです。AABサビというのが多いのはそういうことだと思います。それでよいのですが、もっと単純でよいのではないかと思うのです。ことばで言って、あとはそれが音楽というくらいのことでよいのです。でもそれは日本の文化なのでしょう。
○古いもの
コピーくささが出ていたという感じはします。最後のところ、「ワンス」のところから、あとの流れというのは、そんなに問題はないと思います。確かに解釈しているとおりだと思います。頭から全部が決まっていくというのはそういう感じですね。
コピーも、やや古い感覚になってしまった感はあります。頭の1行目が、「スウイング」のところ、それから次も3つくらいに分かれて、4つくらい山をつくって引いていくと、安定性はもっています。年配の方がお客さんだということもあるのでしょう。自分と同じ世代、若い人に対して、こういう曲を選ぶということはないと思います。カラオケに行って、これをセレクトもないでしょう。そういうときにセレクトして、よい曲だというところを取り出そうとしたら、どう変化させたらよいかということですね。
本当にスタンダードに歌ってしまえば、誰もが聞いたことがあるような曲です。クラシック歌手はこういうのは得意です。映画音楽のようになってしまうと、クラシック歌手が声を張って歌うような歌になってしまうのです。
ポップスに聞こえるように、テンポを若干上げたほうがよいのでしょう。上げなくてもリズミカルにこのことを伝えるためにどういうふうにすればよいのかということではないかと思います。部分的に使えば、発声の勉強にもなるでしょう。息や声たての練習にもなるでしょう。それから音色や感情表現みたいなものにもなるでしょう。
あまり歌いすぎてしまうと、崩れてしまいそうな歌です。さっぱり目に曲自体がよいのだから、歌い手が消えるようにすっと持ち出せたりしたらよいですね。
本当に「ラブ」と「ワンス」だけを歌います。1、2行のところで雰囲気や音色のようなものです。ポップスのなかではそこが勝負でしょうね。
誰でも歌えるフレーズのようなものを、クラシックみたいに張ったり、声のよさをみせるのではなくて、情感が伝わるような感じ、悪い意味でいうと癖、その癖をつけて、その人のよさみたいなものをどういうふうに織り交ぜていくかです。
今日よかったのは、あまり歌いすぎなかったことだとは思います。もっと歌い上げて、完成させていくという方法もあります。ある程度、抑えていきます。今度は声が出にくくなったり、伝わるものがうちに入ってしまう危険もあります。前にはある程度出していかなければいけません。どちらにしろ、難しい曲だと思います。
○アレンジ
どうアレンジすればみせられるのかというふうに考えてよいと思います。そのジャンルだからといって規定はありません。若干はみだしてもかまわないのです。それこそオペラやイタリア歌曲を持ってきてもかまいません。
1曲プラス2曲目をアレンジして、自分のよいところだけで組んでみたらこうなるという構成をしたいのです。曲は自分が思うようにつくられているわけではないから、本当に1曲まるまるそれでしかダメだということもあります。多くの場合は、半分くらいはその気になれるけれど、後の半分くらいはやっぱり難しかったり処理できないとかいう部分があります。
質の勉強をするのだったら、ちょっとでも自分がくもってしまったり、いい加減になったり、よいところが取り出せないところは、実際に歌うときは別として、それを知っておくことです。それを出さないようにすることも必要だと思います。
歌の場合、真ん中をはずしてしまったら、それはもちません。自分がそれを歌うとなったときに、サビから歌い出せばこの曲はうまくいきます。頭から歌い出すと、その部分が無駄になるということであれば、ステージから考え、自分が一番引き立つようにするべきですね。
たとえば、10曲歌うのに全部サビから歌っていたら、難しいことになってくると思うのです。1曲でのステージを2回やるくらいの感じです。
2曲持ってくるのなら、アップテンポとスローテンポのもの、悲しい歌と楽しい歌、キーが低めと高めのものなどを持ってきたほうがよいです。同じような、似たようなものを持ってこられても、2曲目は退屈してしまいます。そういうことも含めて、本当は同じものが続いても、退屈させてはいけないのです。慣れることによって、自分の世界としては拡大するけれど、お客さんの心理が読めなくなってしまうことのほうが怖いです。そういうことでいうと、あまり曲や詞にこだわらずにやりましょう。
自分に合うようにアレンジすべきです。音声の力がなければないほど、本当に勝負できるところに絞り込んで、それ以外のところはやらないことです。演出はとことん研究して、ステージを保たせます。でも、もっと声やアレンジのところで成り立たせることをやるべきだと思うのです。
○キーとテンポ
やってほしいことは、一番自分に合うところのキーやテンポの設定を徹底して探してほしいということですね。昔はあまりそういうことを言わなくても、2オクターブの歌というのは1オクターブに編曲して、本来は上がるところなのに下げて歌っていたりしていました。曲を知っている人はおかしいと思うのだけれど、曲を知らない人にわからないようにアレンジしたわけです。変な転調をして、おかしなことをそこにつけてしまうとバレバレになってしまいます。あとで歌ったほうが偉いわけではありません。長い時間を歌ったほうが偉い、バンドよりも大きく声を出したほうがよい、自分が歌う部分が長いほうがよいというのはないですね。
どれだけ自分の出番を少なくして盛り上げられるかというような、瞬間的なところでの熱狂で勝負することです。
役者もだんだんやらなくなってきました。演出も昔と違って、ビデオがとれるようになりました。レコーディングもそうでしょう。録り直しができるようになって、オケも重ねられるようになってきたから、生でやる感覚がなくなって、甘くなったという気がします。
最初から編集するのが前提です。あとでやり直しができる、そのなかのよいものだけ抜いてもらえばよいとかいうような感覚になってしまうと、作品そのものとの接点がすごく甘くなってしまう気がします。
整理してみる。そしてつくってみてください。ジャンルは限定します。どうしても課題がほしいという人は、去年の課題をやってみます。レッスンでやったものを取り入れてみる。できるだけ誰かの曲だというものが臭わないようにしてほしいです。
○その人のもの
その人の体やその人の息とか、その人の声やその人のフレーズがみえるところまでできちんと勝負します。そういう段階を得るためにバンドなしでやっているのです。もう一度考えてください。
ヴォーカルは一人ですから、わがままがききます。そこにピアニストが入った瞬間にわがままがきかなくなります。2人でつくっていかなければいけません。ゆずり合わなければいけないとかぶつけあわなくてはいけないというような関係が出てきます。
一人練習のなかのものとしての、最高のアカペラという意味でいうと、そこに自分の息とか呼吸とか、音色とかフレーズとか出てこないのであれば意味はないですね。
カラオケをつけたほうが、聞きやすくなるわけです。そういう助けを何も借りないところで、伴奏の助けも何もないところで、何を価値として自分がやれるかをみます。人を引きつけることができるか、そういうところに課題設定をして、課題をどう選ぶか、選んだ課題をどう組み合わせるかということも含めて、大幅にアレンジや歌詞の付け替えをしてかまいません。
こんな変わったことをしましたというレベルでは、なるべく出さないようにします。元よりよくなったというところでも、そうなるとなかなか変えられるものではないのです。自分の力というのがわかっていたら、元のようには歌えないからこうやって、歌えている。そういうかたちでもってきてもらえば、もう少し細かくコメントできると思います。
○乱れ
音で今のように「さ」はこうなってしまうというのはわかるのです。多くの場合は、長いせりふであって、その後半部分が語尾の上に出てくるというのは、集中力やテンションが欠けるとか、自分のなかでもあやふやになってきたり、自分のペースを守れなくなってきたりしたときに乱れてきます。乱れ一つとして出てきます。それはいくつかチェックすれば、出てくるときはこういうときというのがわかってくると思います。ほとんどが日常の芝居の中でコンスタントに出てくるので、体調が悪いときだけ出てくるとか、そんなことはないわけでしょう。今の限界がその長さ、最初の5分くらいはよいのに、もともと喉の耐久力がなければ、2、3時間目に出てくるとか、3日間連続していたら、3日目にそういうものがでてくるとかは、芝居やミュージカルの人もあるわけです。
○喉より気持ち
今、深くとろうとしていることは、表現からいうと、雑になってしまいます。どちらにしろ、体を止めたりそこをとろうとする意識がくるところで、不自然なわけです。それでやれるとしたら、すごく短いところや、たとえば今「青い」でやっていること、「あまい」とか「私」、「あなた」になると変わってしまいます。そうしたらその調整さえできないものが、一つのせりふの長さのところで、調整できるわけがありません。だから今は分けて考えておいたほうがよいですね。
「た」というのは、「t」から「ア」に、をきちんと結びつけるわけですね。日本語は子音に母音で、次に母音がきます。子音をいったあとに母音が離れてしまうといけない。息を出さないわけですね。音を統一して、その上で、ていねいに扱いなさいということです。「はい」でも「ハー」でもよいです。「あおい」でやると、ことばとしては母音5音のうちの3音をマスターするわけです。そこでやったほうが、実践に使いやすいということです。