呼吸を変える NO.256
○呼吸を変える
「呼吸を変えなさい」というけれど、正に呼吸を変える。その言葉、日本語でも歌をきちんと読んでいくうちに、音楽に、私の理想でいうと、「歌っていると見えない、音楽だと見えないで、語っているようにしているけれど、歌なんだ」という、そういうプロセスをとれる。たとえば、6つに切れていますけれども、これが6つに切れて聞こえていたらダメです。3つくらいの構成の中で、流れるためにどういうふうにすればいいかということでつないでいけば、いろいろな勉強になる。歌詞は変えてもかまいませんしメロディを変えてもかまいません。自分の言いたいところを含めて、愛の歌だったら普遍です。このくらいの言葉ならそんなに古くもならないし、新しくもならないでしょう。変えたければ変えていけばいいと思います。ただ、古い言葉のほうが練習しやすいでしょうね。どっちがやりやすいかというのは、人それぞれだと思うのです。伝えるということを考えたときに、どちらかに決まってくるのではないかと思います。それを何回も動かしていると、1時間くらい回していると、かなりこなれていくと思います。
レッスンはきっかけを与えてチェックをする場です。練習するのには、日本人の苦手なリズム、テンポ、構成ということにはいいのではないかと思います。これで終わらせないで、自分でつながるところまで、前半後半くらいまで、2つくらいつなげられるところまでがんばってみてください。
○高めていく
どれが正しい間違っているというのは、何通りもやっているとどれがどれだかわからなくなってくる。要は自分がいいと思ったものがいいと聞こえるようにして、自分がいいと思ったけれど悪く聞こえるものは、正されていくのがよい。よくない部分があまり出ないようになっていく。言葉でも発声的に正しくやればいいということではない。この中では喉を邪魔することは出てくる。そういったことが起こっても、次のところではきちんと戻れると、ベースで歌うわけではないのですが、ベースの上で問うて応用していかなければいけない。そこをきちんと区別していくことですね。それぞれの先生の教え方も価値観も、判断も違うところはあります。そのときにそれは自分で考える。
最初はわかりにくいけれど、それは覚えていくしかないですね。同じ声を出しても違う注意を受けてしまうことはいくらでもある。価値観が違うというよりも、優先順位です。今やるべきことをどうおくかというところでの差が大半ですね。何か新たにつかむことをやらせるのか、バランスをとることをやらせるのかというのでも違ってくる。
声でもどれがいい悪いということではなくて、それぞれに役割がある。歌には不向きなものもあれば、向いているものもある、というようなことでしょう。
バランスがとれなくなったら、先生方の言うことでわからなくなったら、聞いてください。今やったことが、私のほうのベースのようなことです。それはいろいろな先生がまたやるけれど、2,3年経ったときに、できるようになっていたらいい。そんなに反することをトレーナーが言っているわけではない。それぞれ、いろいろな方法からのアプローチのしかたです。あわせてやってみて、それでうまくいかなかったら、相談してみてください。
○息が出すぎている(声優の身体感覚)
息が漏れすぎ。今の声優のレベルだったら、強く言っているわけでもない。ドラマの声優さんはちょっと特殊だと思います。そのレベルだったら、いつもはもっと大きな声を使っているわけです。この大きさになってくると息が出る、そのまま息を拾われてしまうと、息が邪魔して入りにくい場合があるかもしれませんね。
最初の声たての部分で、いきなり入ってしまうのでなく、一回呼吸をまわして声にする。人によりますが、前に飛ばすことを日本人はあまりできないから、息を漏らしてしまいます。日本語は、こうやってしゃべったほうが楽な感じ、役者さんでもそうですね。声ができてきてしまったら、あまり口を動かさなくても伝わっている。それが日本語のいい加減なところなのでしょうね。低い声だったり高い声だったりするから、小さくせざるを得ないのですね。
役者でも、外国人に比べたら感情移入した言葉は声を抑えるわけですね。感情を伝えたいと思ったときに、向こうの人は思い切り出すのだけれど、日本人は、空回りしてしまうから、小さな声で、そうする。そこに若い人はついていけない。それにはやり方があるわけではないですね。
○セッティング
ジンクスというか、ひとつの儀式をつくってみる。それをやったら落ち着いて眠れるとか、これをやったら体調がよくなるとか。一日を感謝し、次の日もまたがんばるぞというふうに持っていく。くよくよして寝るより、泣くなら思い切り泣いてしまえば、ひとつのカタルシスになる。そうやって、一日の毒を排出して、気持ちよく寝るのが自分の体をいたわることです。体の状態が偏っているのだったら、それを戻してやる。心と体と両方あわせてです。
後はテンションとモチベート、いい本を読んだり映画を見たりする。眠れないということになることもありますが。
外で起きたことや出来事はどんなに悪くてもそれを切り替える力を持って、自分のベストのところで休み、行動するというところで身につけていく。
声は本当に気分次第です。練習は場ができているか、自分のイメージでどれだけ切り替えられるか。密度の問題なので、ひとつの充実した感覚を自分に与えてやる。
役者の世界も、どこまで入り込めるかといったら変だけれど、とことん入り込めないと逆に自分を客観視できない。そういう意味でいうと、覚悟の問題になってしまいます。それこそ体当たりではないけれど、周りをあまり気にしていてもしかたがない、周りに合わせようとしても、個の強いところに集まっていないと、ためになりません。
○オンする
イメージづくりや切り替えにたけてくるようになっていますが、5,10年もやっていると、喉に関しては確かに鍛えられていく。けれど、ただ鍛えられていくことよりも、自分のベストの状態で使うことのほうが、大切なのです。
何もわからないときは、毎日何時間も出して過ごすというのがひとつ、本当は一番いい時間のうちで10分のピークとその使い方に分け、練習ができたら、繰り返したほうが、たぶん高いものとなっていく。オンするわけですね。
でも自分でいろいろな経験をしないと、何時間も出してみないと、一番いいのをパッと出そうとしたときにどうするかというのが、わかるかといったら、最初はわからない。
テンションが下がったり集中力がないときに、ダラダラと3時間もやってしまったりする。それは喉を壊すリスクにしかならないですね。だから、だめとはいいません。
スポーツと同じで、テンションが身を守る。ハードな試合で怪我はしないですね。怪我するのは練習中に集中力が欠けたときです。ラグビーでも相撲でも、毎試合、全員が故障してもおかしくないくらいに激しくぶつかっている。それだけすごい集中力とテンションで、ギリギリのところで怪我を避けているわけです。瞬間的な予感でかわす。
それほど、危ないことは声にはないから、雑に扱ってしまう。そういう予感を働かせて、続けるのだったら、間をもうちょっと休めてからとか工夫する。最初はそこだけの差だと思います。
○自己流のノウハウ
過酷な現場はいくらでもあるし、いずれくるかもしれない。スポーツはそれに備えて、もっとハードにトレーニングをしましょうとなる。声の場合は、精神的な方向におく。ある意味では、今の楽器で8割か9割はできている。1,2割は完成するのに5年10年とかかることだから、精神を鍛え、自分のベストが出れば問題はない。問題なのは自分のベストが出ないことです。
スポーツ選手は若いときのベストが歳をとっても出ればいい。それ以上に肉体が強くなったり、精神力が強くなることはある。調子が悪いときに若いうちにはどうしようもなく悪くなったけれど、歳をとってくると、こういうときにもあるレベル以上、落とさないことができるようになってくるから、何とかもつ。それでも、50、60才では、およそプロのスポーツ選手はやれないわけです。40才までプロの選手で残っている人は、相当なノウハウを持っています。自己流のノウハウ、他の人には通用しないけれど、自分はこうやれば最悪の状態にはならないというようなもの、それは役者さんでも歌い手でも必要ですね。若いときにできても、その後にダメになってしまう。長くやれている人はそういうものを持っている。
トレーニングはそのためにやる、毎日トレーニングができないことを悔やまない、息を吐く力とか体を使えること、柔軟のことなどをやらないと衰えてしまいます。歌も、ベーシックなことをしないで歌い続けていくと、どんどん変なことばかり覚えて、スケールが小さくなってしまう。何か変な自分の持っていき方になって、それで喉も悪くなってしまう。人に感動を与えられなくなってしまう。
それは役者でもいます。
そういうことをさけるペースメーカーとしてもレッスンを考えればいい。
○自己管理
全然寝ないでガタガタでやっていても声が出るタイプもいれば、逆にどんどん壊していって休養に追い込まれるタイプもいます。それはそうなってみないとわからないから、そうなってみればよい。
どんなに人のアドバイスを受けても、自分の体は自分にしかわからない。それで本当に必要だと思ったら、睡眠とか体についてとか調べればいい。
声を支えるための食事、仕事の割り振りの仕方、人間関係、いろいろなことを学ばなければいけないのです。自分でここが弱いと思ったら、てっとり早いのは本、または、専門の人に会いにいって、知る。そのほうが大切なのです。
喉は強くなってくるとあまり考えなくなってくるから、弱いうちのほうがノウハウは身につきますね。最初から喉が強かったら、本当にノウハウはいらないから、そうするといつか伸び悩む。壊れたときにどうすればいいのかわからない。あるレベルになったらそれ以上上達しない。苦労するのは、次の段階に行くのにはいいことです。
凝ったらきりがないけど、細かいことにこだわる人は多い、役者でも芸能人でも。朝は起きたらこういうことをするとか、食事はこうだとか。あまり決めつけすぎてしまうと、そうでないときにどうするのかとかいうことになってしまうのでほどほどに。お守りみたいなもので、自分の思い込みでもやり方をつくってしまっている。
私はなるべくそういうものがなければできないというものをつくらないほうがいいと思うけれども、何もないと人間は不安なものです。何かしら心のよりどころがあったほうがいいのでしょう。
○無理を重ねない
たとえば、より高いところとか大きく出すとか、何かしら加工して癖をつけるというのは、発声から見ると、よい発声をさまたげるものです。歌でやってはいけないのでない。しかし、無理がトータルとして重なっていくと、慢性的に喉を疲労していくようになってくるので、今3つ言ったうちのどれか、たとえばより高く歌うことをやめるとか、より大きく歌うことをやめるとか、あるいは癖をつけて歌っているのをやめる。癖をつけて高くして、大きくするようなことをやると、喉は疲れた状態が続きます。
トレーニングの中心としては、均一に出せる声量、声域の中で使っていく。高いところで引いてしまうのなら、その高さは使わないということが、ベースになっていくわけです。
スポーツでも踊りも誰でもできるけれど、その基本のところをきちんとやりましょうと、スウィングだけウォーキングだけを取り出して、きちんとやってくださいといわれると、普通の人は雑になってしまいますね。
発声練習のほうが難しい。発声練習の上にのせた歌は歌ではない。歌というのはいろいろな歌い方ができてしまう。
人によって違うので何とも言えないことがあります。ハードに鍛えて、喉を壊しながらも覚えていくようなタイプと、そういうやり方がまったく通用しないで、喉を壊してしまうから休めて最初から丁寧にやっていったほうがいいタイプもいます。トレーナーはリスクをとらせない。ハードにやらせ、お医者さんに注意され、それを繰り返すということは、自主練習ならともかく、トレーナーがついていたらやらない。あまり意味のないことだと考えがちです。ハードに使おうがソフトに使おうが、喉に負担がくるなら、喉は休ませなければいけない。それから無理に出していいというものではない。一番いい状態のときを注意して出し、あまり悪い状態のときに追い込まない、見切りみたいなものが必要です。悪くなると思ったら、練習したくても喉を休める。それからメニュの間をあけることです。集中力のなくなったところでやろうとすると、喉のためにはよくない。自動的にそうなっていくことだからなかなか結びつかない。それから今の歌は難しいから、そういう意味でいうのならわけておけばいい。表現のレッスンで、発声の基本のレッスンをあまり邪魔したくない。
皆、やけに喋る。そういう性格の人が多い。歌い手には静かな人は少なくて歌以外のところで喉に負担をかける。常識的なことを言うのなら、歌で使った分は日常生活では休めること。今日はたくさん練習したというのなら、同じペースで喋るともっとロスしてしまう。今日は2時間、練習したといったら、2時間は喋らないようにしなければいけない。いつもより2時間分減らさなければいけないのです。
○長いスタンスでみる
声は精神的なことが大きい。長い目で考えたらトレーニングの期間というのはあるけれども、2ヶ月ほどで他の資格の勉強のようにプラスになったりマイナスになったりするかというと、そんな単純なことではない。何年か続けた後で、トレーニングがどこかの力になっているということです。効果をあまりにも気にして、マイナスに考えてしまうことのほうが問題です。
喉を痛めても、トレーニングに差し障りがないときもあります。敏感な状態になっているから気をつけなければいけません。声は必ずしも風邪でダメになるということではない。咳き込むとトレーニングをやろうとしたら喉にきます。声帯の状態を悪くしてしまうことがあるので、発声は咳が出るのなら無理でしょう。オンしていくのに、必ずしも一日一歩というわけにはいかない。あるときには、3歩、5歩といく、でも10歩くらい戻ったりする。そういう中でモチベートを低下させないことのほうが大切です。声を出すことと歌を歌うことだけがトレーニングではない。いろいろなものを聞いてみる、聞き方を変えてみる、体の柔軟を保っておくことも含めてトレーニングです。
○胸と息
胸に力が入っているということは胸そのものに力が入っている、全体的に見たときにそこに硬くなっている、押し付けてしまっている感じがするということです。声楽で胸の位置を上げ、それを保ってというときに力を入れたりすると、お腹などが動かないということもある。お腹に力が入らない、胸のところで邪魔しているというイメージです。
息が入らないということは逆に息を吐いてしまえば入るようになります。力を抜くのに一番楽なのは、力を入れることですね。胸に力が入っているというのはわかりにくい。腕は力をぐっと入れて、脱力する。体を伸ばすことによって緊張させてから弛緩する。
○研究所のレッスンのプロセス
アドバイスと実習とどっちがいいのかはいつも考えています。レッスンは、繰り返しやれることで細かいことを指摘して、そこで直す。実験の場ということであれば、ライブとは違いますが、生の場から得られるようなものもあります。
もともとグループでしたから、最後に2回くらいまわして終わり。ひとりが歌えるのは、1,2フレーズでした。
1,2フレーズに問うていることを、1曲まで組み立ててみようということで、はじまった。歌としては、持たないということで、最初は「夕焼けこやけ」、次にモノローグになって、2ヶ月目が朗読、3ヶ月目から課題の曲、4ヶ月目から実際に課題ということで、自由曲もやってみようということでした。普段のレッスンの延長上です。
1分間の勝負。自由曲はおまけで、ピアニストをつけてスタジオを借り、最後はライブハウスを借りて、バンドまで入れてやりました。
一般の方のライブというのが、なかなか接点がつけられないで、ライブハウスでやったのですが、カラオケと変わらないところからのスタートでした。
場はいろいろあってもいいと思うのです。グループの場であっても、個人レッスンの場であっても、どこでも得る人が得ていけば、よいと思う。
同じメンバーの中でずっとまわしていることで、生じていないようでも、ある時期がすぎたら変わることもあります。違うかたちの刺激を場に与えるということです。まだ行き着くところまで行き着いていない。1曲でも2曲でも課題を外して、枠組みは、あってないようなものとします。
ここの運営は私が決めているように見えますが、成り行きです。入ってくる人とそこから出てくる作品、その作品によって動くように動いていく、世の中と同じだと思います。
○離反
基準で認める認められないとかいうが、無意味、どこでも動かしていく人は動かしていくし、動かせない人は動かせないわけです。第一に出るということをしなければいけない。第二に出る目的を遂げていかなくてはいけない。私はあまり細かくは言わないのです。細かくやっていく発音を、最初は外国人や帰国子女にやってもらい、語学力、英語はしゃべれたほうがいいというようなことで英会話もやっていました。しかし、アーティックな分野においては、たったひとつ強い分野があるかどうかということになってくるわけです。
英語をきれいに歌うことでプラスになるのは、そういうことをうるさくいうお客さんに、「よくなったね」といわれるくらいです。そんなところを聞かれてしまうことが、根本的に違う。日本人なまりの英語で、日本人に聞かせる英語でも、日本人的な情緒をかもし出すことで、何か通じあえばいい。方言でもそうです。共通語である必要はない。コミュニティとの密接なかかわりがあるのです。
それが国際的にといっては、訳がわからなくなってしまう。トレーナーとしては、声楽の形から入っている形が、いまだに残っている感じがします。声楽の方は優秀だし、声も出る。そのことと歌を自分がつくって、きちんと歌い上げていくということは違う。
日本人にとって、確立した声、声としてプラスになっているかというと、どうでしょう。その世界をやめると、案外わかるのではないかと思います。
私がわかったのは、自分が歌をストップしてからです。それから、5年、10年と、いろいろな人と接していると、そんなあたり前のことを外していたのかというのに気づいていく。
自分が歌っている場合、発声とかリズムとか、発音ばかり気がいって、鈍いわけです。スポーツでも、引退して、OBみたいな形で現場に戻ると、のびのびと、現役のときにこういう感覚でやっていたらもっとよかったと。熱中していると何かしらせまくなって、間違いとはいいませんが、鋭い人が高いレベルからみたら、こんなに狭く、見えない闇の中でもがいているというのがよくわかる。歌もそのパターンになりやすいです。日本人は特にそこに陥りやすいかもしれない。
○破る
声楽を、優秀な人に歌を聞かせてもらうと、形をとれたことが正しいというところから見てしまいがちです。それが壊さないとものにならないのに。
真に優秀な人ほど上にいけないというのは、日本の評価システムが形式重視だからです。岡本太郎のような人がいうことが、本来は歌や音楽でもっとおきていかなければいけない。お笑いでも役者でもそうだと思います。
昔は、役者がぐしゃぐしゃの人生を送っているところから、かもしだす説得力があった。今のほうが多彩な生き方はできるのに、昔のように押し付けられた制限がなくなってきているので、破れない。そこが難しいところなのでしょうね。
竹山さんは、目がみえず三味線でしか食べていけなかった。しかし、その中で一流になった人も二流になった人も、ダメになった人もいるのでしょう。
何かしらそれしかやらないなかに世界に通用するようなものが生まれていく。
歌をどう評価するのかというのも、このフレーズがどうだとか、この語尾を直したらというようなところもなくはない。
押しすぎたりひずみが出ていたり、きちんと抑えられないという、でも、それを直してみたらまた形に入って、形らしくしてしまう気がします。
○基準でなかった基準を
個別にコメントをつけはじめたのは、7年くらいたってからです。最初は全体評価しかしていなかった。その頃、個別にいうのは、年に1,2回で、あるいは合宿だけでした。私の中にも個別評価というのがなかった。基準はあったが、それを明示する言葉がなかったということもあります。いい悪いといっていてもしかたがない。その感覚は一体何なのか、わからなくても表現の成り立つときは一目瞭然だったからです。
今のように細かく言うようになるとは、その当時は思わなかった。もっとも細かく言っていることがいいことだとは思わないですね。どこかに基準をもって、そこから見ようとしているからです。その基準の持ち方はトレーナーによって違うでしょう。既存のアーティストとは違う歌というジャンルのないもので、できるだけみたいと思っています。そういうものを飛び越えてみたいのです。
水泳部の水泳やバスケ部のバスケではなくて、川で泳いでいる泳ぎであったり、ストリートでバスケットの動きで人をよけている、そんなところに機能美があって、人がすごいと思うようなものです。そこからしか生まれないプレイというのもあります。
野球選手がストリートに出てもしかたないと思いますが、たぶん素振りひとつで普通の人は感動する部分はあります。あまりジャンルの中に入ってしまうといけないのです。
ただうまくなろうとか極めていこうと思ったときに、そういう制限、ジャンルがないとなかなか極められないものです。
○制限をつける
制限はルールからも課せられます。たとえば人をよけていくというのを、何のトレーニングもルールもなくて無視してよけようとしたらできない。バスケではブロックにはばまれて一歩も進めない。ルールの下で覚えるからこそハイレベルに上達するのです。
より技術を高めようとするなら、動きを制限することですね。声域や声量でない。1コーラスわずか1分に切り取るところで制限がある。その中で全部伝えなければいけない。それで30分でも1時間でも好きなように歌って伝えてというと大変なことになります。優れた人が、そのくらいの中で、ある声域や声量でおさめているということをよくよく考えてみたら、そう簡単にはできないことです。だから、10秒なり1フレーズで組み立ててみるというのは、ひとつのベースとなることです。
それを歌のうまさというところで見て、1曲のバランスをとって、おかしなところがないようにしようというのが、よくある上達法です。たぶんトレーナーというのはそういうプロセスをレッスンとしてしなければいけない。ところが、そのことで真の上達は難しいことになります。
1日野球教室のように、そこで得たことが何ポイントもあってもハイレベルには、できてはいかない。1ポイントくらいですむなら、何とか毎日の練習がプロセスになっていく。毎日がステージだと思えばいい。けれども、そういうレッスンを毎回しても1回で何かできるようになるとか、1ヶ月で何かできるようになるようにはならないわけですね。
そのプロセスをとるのはかまわない。そのプロセスも自分が決めていってかまわない。それは、ここだけの問題ではない、すべての世界の中で音楽や歌もそうだと思います。
ただ、既にジャズというかたちが決まっているものとして勉強しようと思ったときにジャズでなくなっているのです。入ったときに出てしまっているのです。
演奏家でも、優れた人がでて革新的な動きがあったあとに、そのことが守られたときに、ジャズではなくなる。形になって、そのときの熱さや動きが出てこない。
○きまりが悪い場
本当に自分の基準でやってブレスがどうこうとか、共鳴させたほうがいいとか、かすれているから声にしたほうがいいとかのレベルでは、それが直ってみたからといってどうなることでもない。
レッスンの場ではやりずらいというのは、いいのです。それはこの場で考えてしまうからです。どこでも気詰まりな場を持ち、自分で自由にやってみては問いにくればよい。自分が何かをやったり発言したりして、それで決まりが悪いとかいやだという気持ちが突きつけられるのがいいのです。
ここで毎日やって、そういう感覚がなくなっている。たまに海外から帰ってきたりして1週間くらいあけるとすごくきまりが悪いのですが、それのときに何かしら感じることがあります。
今もそういう機会をあえて私はもっています。3年に一度くらい、発言がまわってくる。そこで何を言おうが、一言いつも考えるわけです。何を言ってもその後は決まりが悪い。無視されたり発言が成り立たないということではないのですが、言わなければよかったとかしゃべりすぎたとか、わずか30秒くらいですが感じます。すぐれた人とそういう場を共有していく。
少なくともまわりは私より相当優れているので、ありきたりなことを言っても通用しない。自分が真剣にやってきたことでしか通用しない。やってきたことも、そういう人たちに比べると大したことをやってきていない。そういうときにはじめて本当に何を言えるかということを自らに問えるのです。
それっぽいことを言うのですが、やっていることのど真ん中でしかいわないときまりが悪いですね。それはいいこと。居心地がよくなってしまったら、そこの意味がなくなってしまう。嫌さが必要です。
ここでいくらやってもホームグランドですから決まりの悪さはそれほど感じない。そういうところを大切にしようとします。
やったあとに、きまりが悪くなったことは結構ありますね。人がたくさんきて上のクラスまでに、皆慣れてくる。2年くらいになるとうぬぼれる。そういうときに何かをいってもカチンとくる。黙っていればいいと思うが、場が成り立つということが、歌い手の場合はよくわかっていない。
スポーツの場合は記録が落ちたら、「一生懸命やった」といえる人はいない、認めるしかないわけです。記録をすべてと思って勝負をしなくてもいいのですが、確固たる基準があってこそ、よくないのがどうしてかを常に自分で見て修正できるから、いろいろなことがわかります。
歌はそこにスケール(=基準)がない。スケールがない歌を目指しなさいといっています。自分の中でどう感じるかということと自分でやったことをきちんと見ていくことだと思います。