必要性 NO.257
○必要性
最近思うのは、歌がそれだけで必要とされているわけではないこと。だから、ますます歌ってしまったらいけないというのは感じます。声楽も昔の名演奏を、1960年代に日本にきたオペラ歌手から見て比べています。歌っているけれども歌ではない輝きのほうが大きい。
声のよさでいうと今の人でもいい。でもひきつけられない。ひきつけられるというのは、ラジオ、テレビも白黒で音声も悪いから却ってよかったというのもあるのでしょう。ときに違う次元で、人がひきつけざるをえないものが出ている。
昔だからあったとかそういう人だからということではない。あなたでも歌を生業にしている人も誰でも持っている。
そこを全面的に出さないような歌の構成がとられていることが多くなりました。それをこなしてしまおうとか、受けをとろうとか思うのはかまわない。けれど、歌の時間内において、真摯に向かっているかということではないと思います。
ここではあまり形の見える歌はめざしません。ほとんどの歌は形だけで、出ている声をみます。若いときはしかたないと思います。専門の人でも、声だけに集中して、それはわからなくなるのです。一生懸命やっているので聴けるのです。
オールディーズということであれば、そこの部分でまだ輝いているものがあります。それを今の若い人が聞いて、心にしみたり歌だとわかるようなところはあるので、古い新しいということではないのです。
○イメージと線
イメージでとったときに自分の体や声が一致しないというときに、ピッチが乱れたり声が引きずられたり、もたれてしまったりする。テンションを高くということでなく、声の扱い方を考えていかなければいけません。
他の人の曲を歌っていくときは、それをうまく歌うこととオリジナリティとの兼ね合いですね。自分にしかないものをその曲でというときに、相手の歌い手のレベルが高いと、そこに巻き込まれて形をとってしまう。それはわるいことではないのです。
本質的なところで解釈していくと、聞かなくとも似てくるわけです。その歌のメロディのよさは同じように感じるでしょう。その動きに関しても共通の線があって、自分も出してみたら、同じようになったというのはいいのです。ただし、聞いているうちにそのままとってしまったというのはみえてしまいます。
根本的にその線をとったのなら、最後にこうなるだろうという線には簡単にはいきません。その人自身の呼吸や歌だからです。それなしにで1曲仕上げてしまうと、説得力がなくなり、ひとつの作品というわけにはいかなくなるのでしょう。
でも日本の場合はそういうものでも評価をされてしまう。それが歌うということだったり、それがうまいということになるので、難しい。
それをどう歌えばいいのかというのは、見本として見せられるのです。けれども、見本のようになってしまうからダメだというのです。
自分をぶつけてこないとしかたがないわけです。ありのまま、自分の音楽のところを豊かにして、それをある時期に切りとって問い、自分の中で問うていくということになりますね。
○他に学ぶ
他の人を見るのはいいことです。声楽の先生で30分のレッスンでも1時間前にこさせて、前にレッスンをやっている人を見て、そこから学べばというレッスン形態をとる人もいます。2人きて、半分ずつ、レッスンしてくれませんかというようになってしまうと、片方にほめて、片方をおとすということは、やりにくくなってしまう。同じようなかたちで評価するとよくわからなくなってきます。レッスンでどれがよかったということで決まるのではない。
オールディーズにはいろいろな曲があって、それが自分の声の線と一致しているかどうかということでは、その呼吸が声をどこまで運べているかということです。自分のビデオを見たときに、歌ってしまっていないだろうか、あるいは、ここは借りていないか。借りるのはいいですよ、できないところは借りてしまえばいいわけです。ただ借りた分だけ、自分が返さなくてはということです。
この曲を歌い続けなさいというわけではありません。そこできちんと区分けをしておけばいい。これは借りたことだからいずれ返さなければいけない、ここは短いけれども自分でつくれたもの。きちんと貯金しておかなければいけないと。当然、音が狂ったとかピッチが狂ったというのは、なぜこうのなのだろうと、声が大きく出たりしたがために狂ったというのなら、それはそれでいい。バランスを整えよう思ってしまうと、またおかしくなってしまう。喉声にもひっかかってきます。
○トータルでみる
歌の場合、後ろに重点がおかれてしまいやすい。
最初のほうは練習してくるから、1番の歌詞ではよい。だんだん調子に粗が見えリカバーできなくなって、テンションが下がって、もたれたりすると、飽きてしまうようになります。
1コーラスは歌えても、2コーラス3コーラス目と、厳しく見てみると、ここで何回もやってきましたが、2,3番はプロでも相当レベルが落ちますね。ヒット曲はいいが、それ以外の曲はなかなか歌えないというのと同じです。
外国人では、最後で持っているし安定していますね。同じように2番ではみ出すようなことをやっていても3番で締めている。それが1曲で歌うということだと思います。
皆さんの中でも、どこまで歌えているのか、どこまでが許される、どこまでそれを人前に出す、ということは、どれだけ自由になっているという見方をすればいい。己の行きたいところにいけばいいわけです。あとは解釈や創造を人が予期せぬようにできるかだと思います。
○はまる
詩をつくるのは、いい勉強かもしれない。そこで同じことばを2回繰り返したらいいか、繰り返さないほうがいいのか、前にもってきた言葉を持ってきたほうがいいのか、やめたほうがいいのか、悩みましょう。曲に入れてみないと決まらない。そういうあたり前のことがわかる。
詞は曲がついているのだから、たたみかけたらいいのかとか、英語のような感覚で入れたらいいのかというのは、メロディを入れないと決まりようがない。その音や歌はなしにして、詩の世界が成り立っていない。
正直にいって、そういうふうに歌ってきたから、そういう詞なんだなというだけ、どうもこの詞はというのは多くなってきた。
今の世界を歌うのに、それを歌おうと思って歌ってしまうとよくない、そこが難しい。
世界中のアーティストも今の時代のことを、いろいろな事に関心をしめしアピールしたり計算も働く。心からそう思っているかもしれない。どういう状況におかれていようが、作品としての独自性でみる。すごいと伝わってくる当人が、ヒットしそうとつくっているとか、どうでもよくて、作品としての真実味があればいい。
それでも、ある意味で、怒りや暴力性がなくなってくると、歌は厳しいと感じます。怒りまくって生きるというのは、ある。ある歌い手が、あるときに、ライブの帰りに怒りがなくなったと、歌をやめてしまった。それは彼にとって歌う動機であったのでしょう。そういうものが素直に出ている場合は伝わる。怒りがベースだからといって、怒って歌うわけではないですね。あたたかい歌、ほんわりした歌も歌う。
そういうものがないと、鋭い切り込みとか余韻とか、歌の構成や感覚の鋭さみたいなものが欠ける。
よく地球とか環境とか歌っている歌い手がいますが、そのテーマのために歌っているようなのは、今一つです。この前、選挙で歌をつくった人がいますが、あれと似たようなものになってしまう。それならプロレスの入場ソングのほうがリアル感がある。
おかしいのは、テーマパークや企業のパビリオンのです。ゆるいキャラクターが出てくる。有名な人が書いて、お客さんが皆いい人ということで、そえられる。校歌と同じですね。のびのび育つというようなことを書く。そこで刺激的なことばは使われない。何か全体的に歌がはまってしまっているような感じがします。
○感じる
わずか一部分でいいので、感じる、それがあるのか、そこに違和感を感じたとしたら、それは何なのか、他の人は評価しても、自分はそうは感じないのかもしれない。そこはわからないです。
昔から後ろで見ていた。私は基準というのは、いつも考えています。そこですぐしゃべらなければいけなかった。他のトレーナー2,3人と見て課題曲をやると同じ曲を80曲以上、聞かなければいけなかった。
それでわかってきたことはたくさんあります。オーディションでも同じ曲を聴いたらわかります。こちらのほうから歩み寄って、聞いてやろうというふうにはならない。飽き飽きしている状況において、光を放ってくるものは何かということです。
それは、アマチュアのなかでは歌だけではなくて、歌の中に見え隠れする個人の事情ですが、それゆえ、何を問うかということになればいいと思うのです。
しかし、そうして音楽、殊に歌が甘やかされてきたのは問われないところですね。
年に2回、100人くらいが出るイベントをやっていたのです。朝から晩まで、ベテランもあわせて、100組みると、大して面白いものはない。その中で面白かったというのが、選ばれるのですね。今はあまりそういう機会はないでしょう。
昼から夜までいて、心身が疲れてくるから、その中で何かが起きる歌、聴きたいと思う歌い手というのは、まれな感覚と歌唱力をもつ。
アマチュアからプロになるときの必要なものは、取捨選択、吟味する力、捨て切る力です。これは小説家でも画家でも、彫刻をつくる人も同じです。いらないところをつけないということです。要は冗長にしないということです。
○組み合わせ
そのためには、たくさんのパターンを入れておかなければいけない。自分ひとりでつくる歌はない。いろいろな歌の組み合わせだったり、表現の組み合わせ、それを豊富に持っているということが、強さですね。たくさんの歌い手のいろいろなフレーズや持ち味、曲を覚えているということ、資質的なことに、量的なことも入るのです。
問題は、その組み合わせ、相撲みたいに、とり組みです。大体は、こういうものの組み合わせだとわかってしまうかたちでしか出てこない。違うものをそこに取り出せたり、あるいはダメというものを見通して先に持っていけるかということ。
曲の組み合わせというのもそのためです。18曲くらい与えて、その中で3曲選ばせるわけです。3曲といっても3つのフレーズを選べるかです。
皆で出し合ったときに、これは使えるという判断をどのレベルでできるか。最初は、班のメンバーでできていたのに、だんだんトレーナーにしかできなくなって、そのうち逆に、トレーナーはできないというのを皆が選ぶようになって、結局、崩れてしまうものです。
素人は目立つところとか格好いいところとか、自分が好きなところを選んでしまいます。自分の才能をきちんと見ていないわけです。そうでないところを引き立つように自分でできるか。
最終的にその経緯をみるとわかるのです。よかったもの、班の中でとりえが、皆でやっていくうちになくなっていく。「あれはどうした」「あれはやめました」そうしたら形だけにしかならない。それでは文化祭と同じです。とても日本人らしいプロセスです。
自分たちがやりたいことだけで、客のことを考えていない。客は優れたものだけを見たいのです。くだらないものはいらない。優れていないものは一切出さないこと。そういう舞台の出し方をしないかぎり、生き残っていけないわけです。その厳しさがなくなってしまうと全てが難しい。
経験として積んでいく一方、本当に自分の使えるものを見つけていく。使えるものをストックしていき、使えないものは捨てていかなければいけない。捨てても生きてくるものがあります。来年、再来年に生きてくるものもある。
歌1曲といってもそういうものが全部入っています。1曲の中で選択ができてくれば、そこからです。
○重ねる
単純なことでいえば、「ハイ」を100回言ってみましょうと。10回でもいい、その中の一番いいのがわかれば、それだけを取り出して、それをやりましょうと。それを3ステップくらい上に重ねられたらプロです、何事も同じなのです。
映画を作る人も役者も同じです。テレビも、コメントひとつで決まるのです。いろいろなタイミングをはかって、そのタイミングにコメントが一致したときだけ、危ないのを綱渡り的にできるときが最高、でもあるレベルから、そういうものを外さなくなってくる。毎度ぽしゃっていたら、世の中から消えています。
業界は厳しい。私も、そこに神経を使いたくないですが、勘と勘のなかで、一言を言うために、20から30くらいのものは持って、ネタとしては100くらいはもって、それでタイミングがこなかったら、その日はストップです。でもひとつは言っておかないと、出た意味がなくなってくる。そういう中で成り立っていくわけですね。
○我
歌い手も同じです。役者やタレントと比べると、自分のペースを持てるところはいいところですね。でもそういうことはあまり活かしていない。決まったテンポ、このキー、それで歌えるということばかりやっている。もったいないです。
少なくともヴォーカルは誰にも左右されないで、一番、我を出せる。役者や声優だったら、まわりにあわせる。まわりの呼吸、まわりがぽしゃったらそれをフォローしたり、いろいろな人と呼吸を成り立たせなければいけない。
ヴォーカルは真摯に、まっすぐ進める。トレーナーにも気をつかわなくてもいい。でも客と合わせるわけです。うまい下手ではなくて、何が心に残るかというところでどう問えるかということです。声もフレーズもリズムも武器になるものをきちんと集めて、それをさらに磨きます。曲を使って、試してみること、組み立てていくということだと思います。
こういうのを先生が、問われる前に教えてしまうから、生徒は育たなくて、言われたとおりにやっているということになってしまう。
楽器を聴くと、一流のものは、すごい創造性や工夫にあふれているということがわかってきます。
急ぐ必要はないのです。いいといわれているものには確かにいいところがたくさんある。それが根本的に共通しているというところでみていけば、勉強することがなくなることはないと思います。
○是正
一般のステージ、相手が一般のお客さんになればなるほど、あまりに崩れたところは見せないという切り分けは必要ですね。
私のレッスンでは、いいところが一箇所出れば9個は壊れていい、ぐちゃぐちゃでもいいという場です。普通はその1個が出ようが出まいが、9個が崩れてしまったら、どうしようもなくなる。
その場で、それを是正する感覚、向こうのほうから自分を見てみて正します。表情とか身振り手振りを含めて正していく。これはある時期仕込みとしてやっていく必要があると思います。これは次の脱皮のためです。
3年くらい経ってきたときに内面から出てくるものだけでということでは、なかなかチェックが難しい。
○宝物
日本にも優れた人たちがいるのに、曲や詞と、つくっていく世界がぴたっと決まったというような、スポーツの世界で見るような快感がどうも得られがたいのですね。歌っても、同じ曲、しかも何曲もあるからというようなゆるみみたいなものがある。
昔は1曲を歌うために、苦労して、そこに怨念みたいなものが入って、目が離せないなみたいなものが多かったのです。豊かになって、いい面でも悪い面でもある気がします。
とにかく、自分の体で自分の声で出したものというのは、人はどうあれ、自分にとっては宝物です。宝物ではなくては人様に与えるというのはおこがましいことです。
細かく見ていけばいい。ある意味では突き放してみていけばいい。それから場に応じて演じるような力をつけていけばいい。そのためにもっと入れていかなければいけない。ただ聞くだけではなくて、そこにいろいろな接点をつける。
本当に優れたものが手に入るようになりました。それは今の日本の恵まれたところだと思います。お金をそんなにかけずに世界中のものを身近に手に入れられる環境におかれているわけです。それで何かでてこなければ嘘ですから、あまり振り回されずにやっていけばいい。問題は意志です。