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器を拡げる NO.258

○器を拡げる

いろいろな思惑の人がいます。この研究所では気づく機会はたくさんあるので、勉強するのに、いろんなライブラリとして聞いてもらう、レポートしてもらうようにしているのです。
同じ場を100使えている人と、5使えている人との差は大きいのです。一般の人には、訳がわからなくなっても困るので、会報のように、内部だけのものをつくりながら、こういうものを聞けばいいとか、ヒントをまとめていこうとは思っています。どんなものを聞けばいいと聞かれて、何でも聞けばいいと、今でもそう思っているのですが、でもここで聞かせられるようなものは、世の中では手に入りにくくなったり、誰も知らなくなってきたりしているのです。映画のせりふからでも、聞いていくことも自分を発見する勉強になります。
一番大切なのは、そういうふうに聞いているうちにそうなってしまったと、自分の日頃もっている感覚を裏切られるとき、そんなものを持ったら自分ではないということが起きる瞬間です。伸びている、器が拡がっているときですね。
好きなものは好きなのはあたりまえです。○○が好きといって○○を歌っていたら、わからないわけです。○○は嫌いといっていながら、すごくいいと思ったときに、自分の器が広がる。昔○○は嫌いだとよけてきたものを今になって聞いてみるのは、とてもよい勉強だと思います。
そういうものが好きという人にどこがいいのかということを知る。そういうことを述べた本もたくさん出ています。こんなところを好きと思って聞く人もいるのだとかいうように学ぶ。

「○○がいい」と、「何がいいのか」聞いても、「考えなくていい」と。自分の判断や基準とまったく違い、耳が働かない、そういうものを超えたところに作品があるというものでしょう。
私の場合は、職業病で、歌がかかっているレストランには行きにくくなりました。歌が嫌いなのではなくて、思い出してしまうわけです。歳をとればよくなってくると思います。その頃にじっくり聞こうと思います。

ていねいにきちんと歌えても、マイクや音響を考えないと、粗が出てしまいます。最終段階でそれをまとめるのが歌です。そのために、表現するところとしての1,2割の課題としておいておく。トレーニングというのは残りの8割というのに、もっと大きくつくり込む。そういうところでの発音がきこえなくても、歌として持つような声の線を出していく。声のひとつの流れや勢いをつくっていくことをやっていくのですね。

○創造と調整

一通りうまく歌えてからどうするのかということが、こなしてばかりいる人には難しくなる。遠回りのようでも、今できているところで繊細にみていくことです。もっと大きな声を出してみたら、声域がとれなくなる。そうしたら声域がとれなくてもいい。発音ができない、発音できなくてもいいと。そこの中での流れと声だけを聴いて、声をどう動かしていくとか、そこにどういう音色を与えていくかということをつめる。
そこをやらないで、先に声域をつくって、高いところをとれるようにして、ピッチ、リズム、発音ばかりをとれるようにすると、体からコントロールができなくなってしまいかねない。表情とか口の中でのコントロールでやっていかないと、ピッチが下がってしまう。
だから動いている状態でしあげる。口をはっきりあけるという、アナウンスのようなやり方はできても、そこでカバーするくせをつけると、後で難しくなってしまいます。
最初にやるべきことは、もっと体に声があるのだから、それを使いきれるところまで使おうということです。今までは歌にならなかったゆえに、それは時間がかかるのです。そのように思って、わずか1,2フレーズでも歌になるところから、歌にしていこうでいいのです。

この曲の中で読み込んで、そこから出してきたもの、計算しただけのものでは、音楽にはなりません。では音楽と声はどう結びついていくのか、そのイメージを持つほうが本当は大切です。
発声を活かそうとすると解釈でもおかしくなってしまう。客は歌を聴くときに、言葉など聞いていないわけです。何を歌っているのかも聞いてはいない。歌い手がこうであって、こうなのだということをイメージとして強く伝えようとしないかぎり、伝わるものではない。それは微妙なところに出てくるものです。

○イマジネーション

「今はもう秋 だれもいない海」誰もいない海は、夏の終わりのあとということはわかるのです。そんなことをいちいち解釈して、きちんと出していったつもりでも「知らん顔して」といってもわからないですね。歌詞はおかしいことを平気でいっていて、何となくの雰囲気で聞くわけです。辛い歌なのかさみしい歌なのかくらいしか聴いていない。そこに明確な色や景色を与えていかなければいけないのです。

自分でこう決めたといったら、それで一貫させる。より変化を与えたり、効果を上げるのには、プラスになること、マイナスになることが必ず出てくる。それを冒険してみたり、好きな方向に持っていく。動かすほど、戻すのが難しくなってくる。それで失敗するのはかまわない。そのことで、どこを直せばいいのか、自分の声が合っているところや伸ばせるところはどこかというようなことを知っていくのです。
難しいのは、この歌の歌い方があるのではなくて、ひとつの歌い方を想定してはいるが、それを自分で、より自分に生かしたときに、自分にとってどこはできるけれど、どこはできない、どこは見切らなければいけない、どこはもっと主張していくというような兼ね合わせを見ていくことです。まったく違う歌になってもかまいません。

「今はもう秋」と「だれもいない海」ということをきちんと対峙させなければいけない。今は「今はもう秋 だれもいない海」に対して、「知らん顔して人が」まで受けて、「私は忘れない 海に約束したから」で大きく転じて、「つらくてもつらくても」で結ぶ。「今はもう秋 だれもいない海」の中でも、成り立たたせるのです。一本通しながらも、いろいろなところに変化をもたせて、「今は」「もう」「秋」と全部のことを読み込んでいく。それで無理なら、その中で何を特に取り上げるのか、何を捨てるのかということを、考えなければいけないわけです。

若いときには経験がないし、安易に考えすぎる。「ひとつの夢が破れても」、100個くらい破れたらまだ生きていけるのです。これがたとえば余命1ヶ月くらいのおじいさんが「ひとつの夢」といったら、すごく大きなことだし、歌い手はそれを先読みではないけれど、すごく大きなこととして、「砂に約束したから」といっても流されてまた消えてしまう。どんな捉え方でもいい。「砂って味気ない」でも、とにかく自分のイマジネーションを出して、たったひとつの言葉に対して、どれだけ感じられるように持っていくかです。
メロディでもどう感じられるか。いきなり転じるところで「タタータタタタターター」となったら、それはすごい変化なのですね。それを歌い手は客以上に拡張して示さないと、お客さんには見えない。ところが曲に負けてしまう。

曲も詞もよいのに、歌い手がダメにしてしまっている。バイオリンでもそのよさを拡大させて、お客さんにそのよさを伝えていく。
小学生が見たら、何を言っているかわからない。忘れ物でもしたかというくらいです。そうではないことを、表情や全身や、声のニュアンスで伝える。役者と同じです。
つらいさみしいということの心情をどこかでつかみ、それをどこまで瞬間的に入れられるかということです。役者さんと同じです。
この台詞は言える、「広い公園でポツンといるようだけど」とナレーションもできます。そこにわざとらしくないかたちで、その風景を置けるようにしていく。
それをやるのに声が動かないとか伸ばせないということがあったらトレーニングです。イメージが強ければだいたい歌は持ちます。バンドもいる。でも、持たせただけでは、本来の歌になりません。
「素晴らしい愛を」といっても、そのイメージは難しいわけです。映画などからとっていくのも、一つのアプローチですね。

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