日本の歌の変容とトレーナー NO.270
○日本の歌の変容とトレーナー
日本の場合というのは、時代の変わりのほうが大きい。Q&Aの、昔のを読み返すと、表現を変えたくなる。私の考えは変わらないのに読む人の層が変わってしまうからです。
トレーナーも長く生きている分、いろいろな人にあって、いろいろな意味で判断力がゆたかになっていく。ということは、逆にいうと決められなくなってしまうということですね。訳がわからなくなってくるのは、時代の流れのほうが大きいからです。
他の芸術の世界でも変わってはいるのでしょう。けれど、音楽の世界ほど複雑にわけがわからないまま、何がうけるのかも、どれがうまいのかもわからず、それゆえなのか、常に変わっていっているわけでもないと思うのです。
○目的喪失
世界にはいろいろな傾向があり、時代の流れで、そういうものにあった作品がでてきます。それが小説や映画などでつくれるようになってくると、突飛なものも出てきます。
傾向というのはあるのでしょう。ヒット曲が1、2年変わらなかった頃は、そういう意味では基準にできた。歌も何をもって上達なのかという基準というのがあったのです。
早いというのもわかるのです。10年一昔だったのが、今や1年くらいになっているということ。ただその方向性というのが、全体的には見えなくなってきているような気がします。誰かのようになりたい、というのもあるのでしょうが、昔ほどではないわけです。
○バランス
皆さんの場合は、この研究所の中においては骨組みができればいい、それだけで外に出たときに、何かは普通の人よりはやれるでしょう。ただし、人は見せ方のところで見ますから、全体的なバランスや構成力が必要です。
トレーニングをやっているときには、あまり気にかけなくてよかった。けれど、世間では表に出たところだけしかみてくれない、そのところに関しては、敏感になっていかないといけないのです。
声を軸にやっておくといろいろなもので助けてくれます。何でも経験としてプラスになるものは生かせばいいと思っています。
○歌と声の遊離
歌の世界が現実の声や現実の中で働きかける声と離れていっていることのほうが気になります。歌は、現実の中でドラマチックなことが起きたときの台詞を繰り返してふしがついていたら、歌になっているという程度で、そんなに大げさなものでもない。
曲の世界もすごく煮詰まっていますが、オペラ的なつくりで声を聞かせるということになってくると、日本の中では、もう人心から離れてくるという気がします。といっても、名曲は名曲で、永遠に残ると思います。一方で、日本人はそういうレッテルにとても弱いからです。
○チャンス
違うパターンというのがあったとか、こういうのも以前に許されたような処理をしたとか、比べられるのは、ただの間違いです。ところが聞いたことがないようなものでは、そういうやり方はないのではないかという判断になりかねないのです。そこがチャンスです。
○シンプルなフレーズにする
いろいろなことをやろうとして、そういうことが効果を上げていないという時期、効果を上げないのであれば、シンプルに処理をしたほうがいい。全部シンプルにしたらつまらない。どこかに何かが置けるとしたら、何かが決まってくる。それが筋立てです。直せる部分はあるのでしょう。
それによってはバサッと切ってしまったほうがいいフレーズも出てくる。膨らませたほうがいいものも繰り返したほうがいいものもある。いいものを繰り返し、いいものを膨らませないといけません。あいまいなところやうまく定まっていないところは、持たせているだけ、作品としては削らないと雑なものになってしまいます。
歌い方として、ていねいに歌うために、名曲でスタンダードなもので発声したほうがいいでしょう。
○コピーからの脱却
自分のつくった歌は見本がないから、好きなように変えられます。うまく落ち着かないなら、曲を変えてしまえばいいわけです。そういう意味でいうと、型ではないけれど、決まりきった歌の中に、声の動きを持っていくほうがいいかもしれません。
歌い手そのもののコピー、その歌い手が結びつきを切るには、発声から歌えばいいということです。
○間合い
歌から考えたら、単に歌えても仕方がない。そこにどう落とし込むか、どうつなげるか、人が聞いて心地よくなるための、いろいろなことをやるわけです。
ある程度は計算しているし、そこで客と密接に関わっている。だから話し方と同じです。こちらでどんなに話しても、それだけで伝わるわけではない。
向こうの動きをみなければいけない。ただし、向こう本位にしてしまうと、ひどいものになってしまうこともある。自分の呼吸をもって、どのくらいのスピード、テンポ、それも全部決めて成り立たせていかなければいけません。
○インパクトをつける
いいものに関しては自然に入っているのが理想です。たとえば最初のままであったら、これは、頭からだいたいずっと見えてしまうことになります。するとそこの中で何かしら、少しひねり、言葉を変えるわけではないけれど、ちょっとした並び替えとか、倒置させることによって、何かを引き立たせていかないと、そのまま終わってしまいます。あまりにあたり前でインパクトがない。
○キィワード
「秋」というよりも秋を代表する何かを出せばいいというようなことです。誰でも言えることを言う、誰でも言うことを歌うときに、たったひとつでもキーワード、こういう台詞があるから、という何か、ひとつ違うものを入れていく。誰がつくってみても同じというようなものになって、その辺のOLさんの茶飲み話と同じになってしまう。そこは何かしら、入れていくことです。
○具体的なシーン
わかりやすい、わかりやすいから見えてこない。そういう歌も世の中にはあるけれど、いつもそれを暗示するもの、たとえば果物の何かであったりコーヒーカップであったり、何かしらもっと具象的なものが、それぞれ、抽象化のための具体的なものが必要なのです。
○柔らかくなるな
いろいろな歌い手が歌っているので、慣れてもらえばいい。こういう声を聞くことによって、体の結びつきとか呼吸が必要だということを知っていく。ポップスで、こういう歌い方をとるかというのはまた別の問題です。
世界の一流のテナー、このCDは、全盛期のものとしてはよくないもので、70年代くらいの方がよかった。どこかのところでワーッと声を出し、それで曲はいいのでしょうね。流れや語尾処理など聞かなくても、その人が出てきたら成り立っている。ライブの中ではよかったのが相当あると思いますが、CDになっているものではあまり、そういうものがない。
一時のイタリア人のように張り上げて歌う歌い手が少なくなりました。やわらかい声を出す、そういうところに対しては、もともとそういう声が出る人たちが入ります。
○日本人の客
曲として捉えていることは、日本の客の場合はあまりにも厳しくない。曲や歌詞のことを知っているけれども、音楽的には聞いていない。ニューミュージックであれフォークであれ、日本人の聞き方には偏りがあります。
その上で、実際に皆さんが歌っていくときに、どういうステージングのしかたをとるかということです。
声で勝負できる世界はいい、ポップスのように全体的にいろいろな加工がしている中で、ますます生の声がなくなる、求められない。
○磨かれる
深夜に出ている若手のお笑いの人は、ゴールデンタイムに出ている人と比べると、言葉が聞きづらいですね。何を言っているのか、耳を立てなければわからない。新しい世代に対しては受けているとは思います。
そういうものが5年10年で磨かれていく。それを越えたようなものでの基本として、声が磨かれていくのではないかという見方をしていくと、歌い手のほうがあまり変わらないですね。それでも残っている人は、歌詞をきちんと伝えているのでしょう。
○歌の日本語
かつては、少なくとも歌詞と曲が合っていた。歌詞を変えたら曲がダメになるというような緊密性があった。1980年代くらいまでです。
日本語の処理をして、体を使ったところのフレーズの中でやっているのは、このくらいのところが限度だと思います。尾崎紀世彦さんくらいの歌唱力。日本語がきちんと聞こえなければいけないとなると、劇団のように必要以上にはっきりと日本語を処理しないで、歌の日本語としてやっていく。私は、村上進さんや岸洋子さんを上げていますが、深緑さんがわかりやすい。
○深いポジション
日本の男性のヴォーカリストで深いポジションで歌っている人、そういう人を名前で答えてしまうと誤解を、こういうのがよいのかという感じに受け止められないと思うのです。深いポジションといえるかというと、その当人が勉強していなければ、わからなくなるので、役者のほうがわかりやすいのです。
何を持って深いポジションかというのが、そもそもイメージの問題です。
この時代は音色を持っている人、いわゆる音色とフレーズで動かせる、ベースのところがある。上のところでも展開できる、こういうことをクラシック歌手も含めて、支えができているというのですね。深いポジションをキープする一方、クラシックでもこの上にファルセットに移す。この範囲内で歌えているということです。
腕の力がなければボールを遠く投げられないという、そういうイメージ、これをちゃんと受け取れる。どこまでどう投げなければいけないということ以前の、練習としては考えておくといいと思います。
○喉の耐性
「日本語が声帯を傷つける」とか、あるいは負荷があるという問題になったときに、外国人の子音は周波数が高いから、瞬間的に高いところにいくわけです。
母音を共鳴させて持っていくと、クラシックと同じようになるのですね。
線を引いてみても、引いた分だけしか線が伝わらない。より伝えようと思ったら、線をもっていなければいけない。高さではなくて大きさということで太く使わなければいけない。そうなると、喉が耐えられなくなってくるわけです。[続]