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どこまで NO.271

○どこまで

 

 今や、やったからといって、これだけの効果があらわれるかというと、すぐには出てこない方が本質的なものでしょう。音響が発達して、エコーによって、何とでも聞こえてしまうわけでしょう。

 ポップスである以上、それを踏まえなければいけない、エコーをかけるところにビブラートをかけたりすると、なおさら乱れてしまうわけです。

 実際にこういうふうに聞かせたいときに、最低限どこまでのことをやるのかということです。ここのところでこういうふうに踏まえておくと、ここまで聞こえる。それをどこまで受け止めるか。

 

3次元的なのり方☆

 

 昔は音響技術が使えない分、ベースの部分がしっかりとあって、そこから上の部分にいく。高音というよりも、歌のクライマックスやピークの特徴として、上から入る感覚、サビのところで、ビデオを見るとわかりやすいのですが、3次元的に入っていくような発声を示します。

 これまでの延長上に盛り上げても、聞いている人にとっては同じようなものでしかないわけです。これが驚きに変わるためには、こういうところではないというところから入っていく。効果があるのを狙っているとしても、そこでの幅ですね。

 普通で歌っていくと、必ず落ちていくわけです。また拾って背負ってこういうふうにやっていく。そうするとこれ自体はつながらなくなってしまうから、ここでの滞空時間、ブレスをしなければいけないから、その分落ちる、でも流れとして持っていたら、落ちないわけですね。そういうものを削っていったときにどこまで出していけばいいのでしょうか。

 

○外国人の強さ

 

 日本人はずいぶん正直にそのまま歌っている。外国人は最初からクリエイティブ、はっきりストレートでわかります。日本人がミュージカルで声を壊すのに、外国人はなぜこわさないのか。半分以上休めているのではないでしょうか。私の仮説です。

 アナウンサーは1分の中で30秒しかしゃべっていなくても、1分話していることになる。日本人は50秒くらいしゃべっていて、その分、声帯を使っているのです。喉のところで声をとり、響かせることをやっているから、喉がなっているわけです。

 

○子音のピッチ

 

 子音の場合は、いろいろなところで音を作れてしまいます。高くなるのに母音ほど力がいらないわけです。それを高いとか低いということではなくて、体で持っているのです。最高音は上のソくらいです。今の人たちにとって「ソ」は、そんなに高いわけでもない。ハイCくらいで出して歌っている人もいます。

 体から考えたときには、こういうふうに考えたほうがわかりやすいでしょう。クラシックの歌い手はそうやって伸ばしているわけですからね。

 

○歌いすぎない

 

 全部、歌っているように聞こえる。プロのほうが休んでいます。踏み込んでその後に空白をあけている。実際に測ってもそのくらいです。

 クラシックをやるのだったら、まだいいと思います。クラシックのやり方で鍛えていくことも手法としては悪くないと思います。

 練習のときに、直接的に入っていくのだったら、相対感覚を利用します。皆が70くらいでならすとしたら、一箇所100ぐらいでもつくっておいて、その代わり、後は2030にしてもかまわない。それをいくつとるか、4つくらいとれると思います。

 70で全部引きずっていったら、聞いている人はだんだん飽きてきます。クラシックは違います。70なら70100なら100、ポップスの場合は変化をみせるのだから、70でずっと歌っていると、2050で使いわけている人よりも、聞いている人には、退屈になってしまいます。

 確かに出せるのはいい、本当に肝心なところに出して、「こんなこともできるのか、ならもっと」ということでやるのです。最初から、高密度で歌っていくと不利になります。

 

○アンチクリエイティブ

 

 今の人はあまり声を聴きたいわけではないから、歌手が保守的になります。声のところでのライブ、即興、冒険では、粗がみえ、フラットしたり、リズムのノリが悪くなってしまったり、何かが起きてしまったことのほうが、目立ってしまいますね。重くなってしまう。

 だから本来は、動かせる部分をさっと動かして、後は投げ出すような感じの歌い方です。投げ出し方を、ある意味のいい加減さをこういう見本から学んでもらえばいいですね。

 

○アプローチ

 

 全部歌う必要はありません。ポイントを絞り込んで、たとえば「壊れそう」の「そう」だけを同じにする。そう簡単に同じことは全体にはできない。1箇所だけ同じところだけ追いつこうと思って、聴いてみてください。

 気をつけなければいけないのは、いかに日本人から離れられないか、といったら変だけれど、聞いているようで形やテクニックしか聴いていないのかということだと思います。

 全体的に、本当にクリエイティブに聴いていない。1箇所ずつ聴いていくと、一流の歌唱ならちょっとは聞こえるようになる。といっても、全体では聞こえなくなってしまい、どうしても真似て元通りになってしまう。ほとんど逆のことをやらなければいけないのに、と思っています。

 

○つなぐ

 

 一拍1音をどうつないでいくか、音をつないで線にするのではなくて、元々線がある中に、音をどういうふうに置いていくか、音楽のほうから考えましょう。

 強拍がないからインパクトがない。でも、日本ではこういうふうな感じで聞こえるもので評価されるというふうに見てもらえればいいです。そこは、日本語らしくきれいに処理していいと思います。その一つひとつを言っているのではない、こういうところは一番練習になります。

 

○上と下の響き

 

 この当時は、今のように「あなた」と歌っても、そのまま「あなた」といえないから、こういうフレーズでは、「あなた」と聞こえるまで大変だったわけです。日本人が歌うと、上のほうに、鼻にかけて「な」のところで持っていきます。  

 もっと以前の歌い手は、ほとんどそこの部分でやっていた。それが上の響きということです。日本人というのは、上にいきやすいのだから、上の練習をすることよりも、体の方をつけなければいけない。

 声楽で上のことを学ぶとよいのは、声楽をやっていない人です。とはいえ、民謡を歌っていたり、都都逸をやっていたり、小唄をやっていた人も、鼻にかけて歌えていたわけです。日本人が、必ずしもそうやらなければいけないというのではない。私も、直感的に全くその必要性を感じなかったのです。

 

○基礎

 

 フレーズをつくって、そこのフレーズのどこが落とし込みか、どこが離すところかの動きを2箇所くらいでやってみましょう。

 こういうところのフレーズを動かすことに徹底して凝っていくのは、もう、詩吟とか長唄の世界にしか残っていないのかもしれません。下手な発声練習をするよりも、こういうことを確実にできるように、最低でも3年くらいかけるべきではないかという気がします。できてくれば、いろいろなことができると思います。

 

○線=フレーズ

 

 まず聴き方からです。聴いているときに声を出して線をつなぐというところで聴いてしまうと、そのことが形としての完成形になってしまう。線をつないでいるのではなくて、どうしてそういう線なのか、その線の中に何を起こしているか、何をのせているかということを聞いていく。

 表現について、こういう人たちは、声が自由自在に扱え、もっと大きな声も出る、なのになぜそうしないのかというように考えてみたほうがいい。そうでない所を気をつけてみていきましょう。なぜあけているのか、なぜ途中でとめてしまったのか、なぜこんな短く切ってしまっているのかという部分です。それを形でなく、そうなる前の動き、さらに動きのその前をみるのです。

 

○ループ

 

 声と作品を結びつけていく。

「わかれましょう」でつくったフレーズが、「あなたが」に入る。その動きを見てみます。その動きが平坦にならない。そこには、いろいろなイメージがあっていいと思うのです。

 ループをきちんと描いていくようなかたちで、「あなたが」というところに平たくならずに、自分がつくったフレーズを覚えて、そこに掛け合っていく。

 

○収捨と収納

 

 離れてどう戻すかということ。それは癖であったり個性であったり、真似ていいものではないとしても、似たものになる可能性があるということです。

 ときには、ただ歌うのではなく、誰風というものを真似て、そういう動かし方に慣れていきます。いろいろな発想をして変える。きれいに歌われているものを、ここまで動かしてしまうことも許される。それどころか、そうしなくてはならないのです。

 

○動かす

 

 本来その動かし方によって、演奏というのは評価されるものです。楽譜を動かせないアーティスト、この場合、ヴォーカリストというのはありえない。なのに、日本の場合は声を聞かせるようなことがあったり、詞で聞かせる部分が大きいのです。音楽の中でどうフェイクしていくかということです。

書いてあるものを、ただ読み上げたらいいのと、即興で何かを起こしていかなければいけないのとは、レベルが違うことです。

 

○投げて戻す

 

 どういうスタイルをとるにしろ、感覚的にいろいろなことを起こして、戻さなければいけないということです。放り投げたらどこかで拾わなくてはいけない。拾えなければ投げられないということになりますから、そこにトレーニングが必要となります。

 放り投げること、そういう世界があることさえ考えないからつまらないのです。最初は拾えなくてもいいから放り投げてみる。そのうち、おさまるところにおさまっていく。それでいいと思います。別に他人の曲でやるということではなくて、どんな曲の中においても試みましょう。

 

○オリジナリティの見方

 

 10年くらい前に聞いたものを、10年後に聴いています。聞き返して、自分の得ていた感覚と、今聞いた感覚との違いをみます。

 日本人として育ち、日本人として受け入れて、人に対峙したときに、自分が元々もっている条件はあるわけです。それを一回ゼロにします。相手のものと置き換えられるかはわからないのですが、歌の場合は体が楽器ですから、そこの部分で、相手になりきれない部分が出てきます。その決断こそが決めてです。

 筋肉も、呼吸も一人ひとり皆違う。それは性別や年齢ということではなく、個別に質から何から全部違う。

 ただひとつ基準があるとしたら、音として聞こえてくるものは、物理的な現象です。それにそぐわないと心地よくないということ。楽器として、私は「オリジナルの声」といっています。その楽器の使い方としての一番いいものはあるということです。人間として声のマックスでの使い方として定めたのが、クラシックでしょう。それをより個人の使い方で定めた一分野がポップスだと思います。

 

○獲得すべきこと☆

 

 クラシックのやり方がポップスに入ってくると、ポップスの中でも共通のやり方があるのではないか、あってほしいという願いが出てきます。トレーナーの出現はそういうことです。そこに、あたかも確かな基準をつけなくてはいけなくなってきます。すると上達するものに対して、ランクを付けることになります。そして、それにそって磨いていかなければいけなくなるのです。

 以前のようにオペラと同じように見ることもできていた時代、マイクがなくて勝負できた時代は、それなりに基準がつけられたと思います。

 声がよかった人は、それでよかったでしょう。声が大きく出る人はそれで条件を満たしていた。ところが今みたいに音響技術で何でもできるようになってくると、獲得すべき条件は何なのかが曖昧になります。それこそが自由というもので、より活かせばよいだけのことです。

 

○進歩として

 

 世の中に売れているもの、流行っているものはいいもの、何らかの理があるのです。若い人が出て新しい歌が出てきたら、それは50年前の歌い手より今はよい。今の時代においては今の歌い手のほうが正しい。正しいという言い方は変かもしれませんが、それを見て嘆いている人も、いつもいるのです。いつの時代も嘆いているのは年寄りです。どんどん新しいものが出てくればいい。

 ただ、残念なことにサッカーやゴルフのように、日本で活躍した人が世界で通じてはいません。そこは今、ダメになったのではなくて、昔からあまり変わらない。つまり、進歩していないのです。

 

○構造的にみる

 

 たぶん、こういう聴き方で、今の演奏に対して拍手がくるというのは、私からいうと多すぎる。日本人がどういう聴き方をしてブラボーというのかという行動から見ていくと、一部分の声だけなのですね。どこかの箇所で大きな声が出たり、そこで磨かれた輝く声という言い方がありますけれど、そういうことが単発に出ているだけでブラボーなのです。

 欧米のを聞いてみると、つながっているなかで、構成を、ハーモニーを捉えていきます。重層的かつ構造的なのでしょうね。日本人のはかなり刹那的な反応です。

 

○声力でみる

 

 昔のオペラは声だけ、ハイCの輝きだけを聴きにきていた。それがだんだんドラマで見せるようになってきた。オペラというのは、ミュージカルと同じでストーリーですから、声の中では、物語としてでなく、音楽として線がつながっているところを見ていきましょう。

 昔から声でしか見ていなかった。こういう声はポップスよりすごいというような、そういうものがあって、声楽を本格的にやっている人は、もっとそういう意識が強いのでしょうけど。

 

○流れでみる

 

 音楽として聞くと全く評価が違ってきます。それはよくありません。エコーをかければつながると何でもよくなる。

 ポップスの見方で今の時代からスタイルを考えてみます。昔から共通していることはある。ただ、日本人があまりにそういうことを見ないできた。それは、全体的な流れの部分です。向こうの一流の人もいろいろなことをする。しかし、突っぱねたり飛躍させたりするとしても、必ず絶妙におさめているのです。

 

○聴き方を変える

 

 要はアクセルとブレーキみたいなもので、ブレーキの利かないようなことはやっていないのです。日本人の作品は何かしらアクセルをふかしているだけ、それをきちんと戻して次の流れに結びつけるとか、そこで起きたことを即興的によりいいように生かすところまでの神経があまりないのです。オペラでも、ポップスでもそうだと思います。

 そういう部分で、私の見方は変わってきた。私は見方が変わってきたのに、歌のことばかりやってきた人たちはあまり変わらない。聴くことばかりやると、聴き方が変わる。歌うことばかりやってきても、聴けてくればそれはいいのです。そうではないから、なかなか難しい部分はあります。

 

○生理的ルール

 

 基本に戻って、線としてもう一度、音を捉えてみましょう。どういうふうに動かしていくかということです。

 日本の歌は母音で長く伸ばしていきますから、歌っているところだけが歌のようになっていっています。どこで入るかも適当、といういい加減さが、いつまでたっても音色とかピッチとかに、感覚がいかないようにしている。その辺は、どういうルールで、生理的なルールを踏まえた上でリズムのようなものを持っているのかを知っていく。言語からきている部分が大きいのですが、どう動かしているかということを学びましょう。

 

4,1,2,3

 

 フレーズレッスンは、1,2,3,4, 1,2,3,4とあるとしたら、4から1に入ることをよくやります。それから2から3につなげることをやります。そんな感覚はいらないと言う前に、根本的に入っていない私たちは必要です。順番に1,2,3,4と捉えている。それと、4,1,2,3,4,1,2,3、という感覚の人種とは逆です。それを使わなくとも、それが入っていないのだから入れておくべきだということです。入れても使うことを考えなくてもいい。

 

○タイミングの妙

 

 たとえば、「さよなら」から入る部分、タイミング、そういう勉強をしていないと強く出すぎてしまったり、うまくとれないで出したりする。

 プロデューサーもそういうことは何も言いません。そこはバンドが処理してしまっているからです。いつまでたってもプレイヤーの音楽はよくなっていくのに、歌や声は完成されていかない。だからこそこういうところからやります。ギャップをみないで成長もないのです。

 

○感覚を鋭く

 

 4,1,2,3,4,1,2,3の繰り返し、英語はそういうことですから、ここの部分の感覚を捉えなければいけない。ここは強く高くということです。

 100のマックスでの70であっても全部持っていったときには、聞き手にとって50でずっと持っているのと同じように聞こえてしまうということです。

 そこで体を使ったり、そこで声を大きく使おうとしているがために、ピッチが乱れてしまったりノリが悪くなってしまったりします。その変化が見えなくなってしまうと、退屈な歌に聞こえてしまう。それが頑なに守られているのは、ミュージカルとかオペラとか、あとはアマチュアの人がやっているところです。

 そこですごい声ということでは、プロになると却って聞けないですね。日本では、長唄のような世界、それはそれでいいと思います。ああいうふうに朗々とやっていく。

 

○生声

 

 ポップスの中では、要は70のままでずっと出すのなら2050の間で差をつけていったほうがいいということです。そこを音響がやってしまう。長く伸ばさなくても、リヴァーブをかけてしまう。ビブラートをかけると、なおさら聞きにくくなってしまうから、生声のままで歌っているのですむ。それでは技術はいらないのかというと、逆に技術での見せ方が必要になってきます。昔のものはオペラと同じで、マイクがなくてももつような歌い方をしています。

 

○変化でみせる

 

 歌っている、声を出しているということではなくて、その変化を見せられるかなのです。フレーズ間のこと、さらにそのフレーズの中での動きを、きちんと納められているのかという見方をしてみてください。

 歌うということは、この歌で勉強する必要はないわけです。勉強すべきことは、どういう変化を使っているかです。一流の優れた歌い手というのは、勘もいいし声もいろいろ出せる。声が出せるのに声を出さないで歌っている部分はどういう意味があるのか、声の変化で歌っているわけです。それをそれなりに大きくつかまえていく。そうでないと、真似ていたのでは、より小さくなってしまうでしょう。

 

○勝負の土俵

 

 向こうが7020くらいでやっていることを我々は6050くらいの間でやってしまう。アマチュアの人は、80だけとか30だけでやろうとするわけです。100の世界があるとは考えない。ところがプロはそれを20以下にしてみたりする。表向きだけ真似する人は、そこを言葉にしてしまったりそこを引いてしまったりして、全部の流れを壊してしまう。

 既に音楽の流れがある中で、声をどう動かしているかという勝負をしなければいけないのです。音楽をつくっていくのではなくて、音楽はすでにあって、流れている。その中で声を置いて言葉して、変化をつけて最高のものにする。そもそも勝負していますか。

 

○心身の声

 

 こういう歌い方を今の歌い手はしない。体や声をつくっていくという考え方もなくなったかもしれない。ひとつのルールにのっていかないといけないというルールも形になってしまった。

 物理的な現象を起こしているのは、バッティングでボールがとぶのも同じです。瞬間的にどの角度でどの速さで、どの面にどうぶつかれば一番飛ぶのかというのは科学的に証明できます。記録が伸びるのは、用具もよくなるからです。昔のものよりもボールもとびすぎるから、とばないようにおさえたりする決まりが出ている。改良していくと、いくらでも伸びてしまうわけです。声の場合は、外から変えませんし、用具は使わないのです。だから多くを心身に負うのです。

 

○ノウハウの消失

 

 「ま」に対して、次の「と」がどう置かれているかと、作詞家や作曲家もそういうことを考えて、つくっていると思います。この当時のものは説明しやすいのです。

 言葉を一つ変えてしまうと歌がダメになってしまったり、メロディを変えてしまうと言葉がダメというように、全体的な必要性が煮詰まっている。

 ところがある時期から説明できなくなってしまった。それまで通信教育では、ほとんど歌詞の解釈でした。要は読む人が読んだら、「こんなに深くきちんとした構造でなっていてすごい」というのを説明できると、先生稼業はできるのです。

 ところが、ここはああでもこうでもいいし、どの歌詞でも成り立つとなったら、教えるということが成り立たなくなってしまう。

 何かを伝えたり渡せるというころは、そこにそれだけ深いものがあって、パッと見た目には気づかないのに、よくよく見ると、ここはこうなって、これというのはここからとっているということで、「へエー」ということが成り立つわけです。

 

○伴う

 

 通信教育で詞を扱えた最後が80年代くらいの歌です。それ以降の歌詞になってしまうと、曲と詞との結びつきが自由になってしまう。パターンも出しつくして、ヴォーカルを外に置いたアレンジ勝負となるわけです。

 それまでのはきちんとしていますね。本当に歌と曲が伴ってできている感じがあります。オペラに似ているような感じがあります。完成した形がある。だからこそ歌い手がそのままに終わらせないで崩す工夫をした。極端な例が、坂本九さんから沢田研二さんあたりの流れです。

 

○心地よく

 

 音楽が表現として動くために、曲と詞のコンビネーションを無視して、いろいろな形で取り出している。とはいえ、表現のほうから入っていかないといけないことは同じ。歌としてメロディが合っているとか言葉として言えているのではなくて、聞いたときに心地いいと、その心地よさを出すことがメインでなければ曲もヒットしないことは同じでしょう。心地よく音が聞こえてきたり、気持ちよくなるというのは、大切なことです。

 ロックになると、全体にバンドやドラムの音が入ってくるからわかりにくいけれども、アカペラで、こうやってひきつけられる。そうして捉え方が変わってくることこそ、レッスンの主眼だと思います。

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