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2006年のこと NO.272

2006年のこと

 

 カラオケで、テツANDトモのテツさんがチャゲ&飛鳥の歌を歌っていて、レベルが高かった。ほかの人がジーンとするのが、こちらもわかる。それは声だけでやっているのではない。声を消しこんで、その上で何かしら置いたところが伝わる。

 

○まずは

 

 欧米人だったらどうなるのかという疑問はあるけれど、日本人にはそうなんだということで、今の歌い手がいる。現実の歌い手を否定して、声が出るとか歌がうまいからといって出ていくことはできない。そういう部分をつけていかないと、声を磨いていっても、そこから難しい。でも、そこからの前まで行くことからです。

 

○動きのつかみ方

 

 古いもので、この通りにやってはいけないのかもしれない。こういうところにある流れの中に音楽のベースとしての心地よさがある。

 この当時にやっていたことは、今はバンドにまかせてしまっている。リズムもピッチも、ビブラートもまかせています。このあたり、体でわからないとそれ以上のレベルにはいけないわけです。

 欧米の歌い手レベルめざして、こういうことをもっときちんとやっていこうとしていたのが昭和の時代だったと思います。どう耳で理解していくかということ。そういうときに心地よさや歌としての快感を客としてきちんと味わっておくこと。そうしないと、自分が歌うときに、あるところまでしかいけなくなります。感動とはまた違う、音楽として人の心に働きかけるような動きのつかみかたです。

 

○切る

 

 「ふた」のところで切れてしまっていますが、効果的になっていますね。1音1拍の呪文から抜けられないわけです。1音1拍でとっていくと、どこかを長くすると他のところも均等になってきますから、どんどん歌っていかなければいけなくなります。大変になって喉も疲れて休まらなくなって、どこかで不調になってきます。

当時の人はどうカバーしていたかというと、相当、切っているのです。今のほうが歌っているのです。この人ほど声量がないのにもかかわらず、歌っていたら、喉がおかしくなるのはあたり前の話です。それが外国人と日本人の差にもなっていると思います。

 

○共鳴

 

 母音で全部やっていくのと、子音で邪魔するのと、喉に負担はかからないのでしょうか。母音共鳴を突き詰めると、オペラのような技巧が必要になってしまう。そういう方向に行くのはいいと思います。そこでやるには、そういうところのベースが必要になってきます。

 問題なのは、それが若い人に伝わらなくなっていることです。必要性をつくっていくべきなのか。ストーリーになる分にはいいのですが、ロックになると、生声にエコーをかけたようなあいまいさでしまらなくなります。

 

○回す

 

 「こわれそう」の「そう」だけでもいいから、ずっと歌っているような感覚を、どこかで切る。声量を伴わなくてもいいから、そこに中心を持っていく。そこがまわらなくても、どこかがまわってくるだろうというようなことです。

 ゼロからきちんと動きをつくっていこうということです。ゼロと考えなくても、歌があればもうそこに動きがあるのです。そこにのっかって、効果的なところに力を入れて、それ以外のところは全部引きましょうということです。全部をずっと引っ張っていかないことです。

 

○コラボ

 

 どんどん切ったあとに、どこは伸ばさなければいけないのかと考えていくことです。切ったところはバンドが何かしてくれる。と考えていれば、わずかな箇所において、自分自身にどんなフレーズあるのか、どんな音色を置かなければいけないのかというようなこと、コラボして考えていったほうがいいわけです。

 

○分担

 

 野球もスターが出なくなった。3球団のトップ、孫氏と宮内氏と渡辺氏が話していました。ピッチャーは一試合4人くらいが交代する。昔は完投だったわけです。それでこそ勝負ができる。4人交代しているところにスターは出にくい。

 歌もそうでしょう。一人で全部歌うようにならなくなっています。となると、ピンポイントでやるときに、どれだけ個性が出せるかですね。

 演劇もお笑いも90分間見なければわからないというのは、今の時代には成立しにくいのですね。舞台でも4時間見てもらったらわかるというのでは、まず見てもらえない。5分で面白かったら、15分見るという、そういう時代です。そこに何かわかりやすいパワーとして現れなければ、全部は見てもらえない。

 

○自分のことを知る

 

 CDを瞬間的にかけてみても、表現の個性、技術は、あらゆるところにあるわけですからね。そうでないことを出さない方向でやっていけばいい、という考え方もある。昔より楽といえば楽なのです。ただ、自分のことを知らないと、難しいということになってしまいます。

 

○向きを変える

 

 「声を出して」のところは少し向きを変えましたね。ちょっと落として、つなぐ。こういうかたちで作品を一本つなげるというのは、大変なことです。ですからそういう意味だとレベルの高い作品に仕上がっています。

 

○声を動かす

 

 簡単そうに見えるけれど、難しい。こういうところで見せられるのが、ひとつのフレーズです。発声練習は、こういうことのために行うことでいいと思います。

こういうことでどう動かせるかということです。

 「アイウエオ」とか「ドレミレド」とやっていても、こういうフレーズできちんとできること。

 「い」の中に「ただ」をおけるとか、それを動かせるとかです。「い」のところのうえに「まはただ」と続けては、日本語ですからバラバラになって離れていきます。「い」でフレーズをつくって何とか伝えられています。向こうの言語では、もっとやりやすいのでしょうが。

 

○勝負

 

 サビのところでどれだけ声が出せるかということではなくて、その動きの中にベースの動きがあって、その上に大きな流れがあるわけです。その流れの中で何を与えられるか、流れを出して、それに乗り、その上に何を自分でつくれるかということの勝負です。

 

○何かしらの基準

 

 確かに声域もあったほうがいいのですが、それは、自分の中で動かしてみることができるからです。理屈で考えているわけではないでしょう。1曲を通した中でつくっていくという部分があります。それ以上、長かったら違ってくる、短かったら違ってくるという、この大きさだからこういう歌い方になったという、何かしら基準があります。作曲家も作詞家もそれにきちんと合わせていたのです。いい曲は日本でもたくさんあると思うのです。ただ、歌い手をそこに入れてしまうとなかなか少なくなるのですね。逆に、歌い手がいて成り立った、伝わった歌をみてください。

 

○その人の歌をつくる

 

 昔はその歌い手に曲をつくっていたでしょう。美空ひばりさんに歌わせようと思ってつくっていたわけです。それがたまたま違う人にまわってヒットしたりとかいうことはあります。そのくらい考えないと、いいものはできないのではないかという気がします。

シンガーソングライターというのは、自分に合わせている。でも、自分で自分のことを知っていくのは難しい。他人に書く方がヒットすることも多い。

 好き嫌いで歌っていくよりも、お客さんとのコミュニケーションの中でつくられていくというのもひとつのやり方でしょう。

 

○伝える

 

 声量とか声域も必要だけれど、ここの「今はただ」という中でどう動かすかというところに割り込みます。それは役者のせりふと同じだと思うのです。誰でもできる、できるけれど、そこで充分に伝えるということは誰にもできることではない。-

 伝えられる言葉を自分で持ってくる、伝えられるメロディを自分で覚えてくる。それをきっかけにレベルを上げていくしかないわけですね。それは自分で見つけていくしかないから、ここでは材料を供給する。皆さんの中にそういうものが出れば、とても参考になります。ここはOK、あとは全部ダメといわれたら、ここがOKだけを磨いていけばいい。すると他のものも、そのレベルになってくる。

 

○基準と感覚

 

 ほとんど基準なしに勉強していますね。やりながら皆が基準をきちんと得ていけば、それでもいいと思います。何かを起こすということもなければ、そんなことをわからないままでもやれている人がいる。そういう感覚も勉強してみればいいと思うのです。

 

○二極化

 

 声域をとって、きれいな声で、疲れていない声の状態で歌わせなければいけない。となると、歌い手は今、演劇がほとんどできないような声を使う、しかも、日常の声はできていない。

 逆に役者というのは、そういう声は磨かれて、昔のような歌い方はできる。けれど、今の高さや発声のビブラート、共鳴には追いつけない。このように、二極分解してしまっている。

 声域をとるのには、声帯に負担を与えられない。歌はうまくなったりそれっぽくなるけれど、本当の意味では、体からの声はできていかない。体からの声をやっていると、今度は歌に間に合わない。

 

○逆を考える

 

 私は、正攻法的の考えとして、日常的に声が出ないのだから、役者の日常を得て、その上で音楽をやるべきだと思っています。音楽に結びつくのは5年後10年後になってしまうのもやむを得ないと思っていました。逆を考えればいい。皆、1020年やって、声も変わらないで限界がきてしまうのです。役者やお笑い芸人のほうが、声を得てうまくなっている。

 

○プロの体

 

 体がプロでなければいけないのに、歌い手の体がプロではないとしたら、それは当然できないわけです。喉をいためないようにして高い音を出させていても、声が変わっていかないと、5年たっても10年たっても本場の足元に追い付かない。ちょっとせりふをやらせてみたら、弱い声で、強くすると喉がガラガラになる。海外のオペラ歌手は演劇をやろうがロックを歌おうが喉を痛めない。

 

○日本人の声の弱さ

 

 日本くらいです。声がか弱い。さらにその傾向が増しています。しかし、「喉を使うな」世界に通用するような声を持っていて言うのならいい。

 日本の中でもたいしたことがないのに、そんなことをいったら、20年たってもだめだと思います。

 演劇的なせりふで、喉に負担がくるのも避けられています。20年たたなくとも大して変わらないとわかってしまいます。

 

○声の出る人出ない人

 

 人によりますが、持ってうまれたものもある。トレーニングと関係なしに、声が出る人と出ない人がいる。

 声を出せる人は、そういうことをやってきた人が多い。女性には少ないですね。お笑い芸人やいわゆる3枚目から入ってきている人たちも、喉声が多い。久本さんや柴田さんは、喉は強いし演じるにはいい。歌になると微妙には使えない。勢いでは使える。

 

○支え

 

「支えを強くしてやれば、ぶれる声ではない」といわれました。

 理屈からいうと、負担を部分的なところで支えて、その部分を傷めるよりは、全身で受け止めればいいということです。スポーツの場合はそれが、腰を入れなさいとか重心を低くとわかりやすい。

 

○守る

 

 歌の場合も、喉を使っていることには変わりない。ある時期までは声は消耗品です。今日1時間使ったといったら、1時間疲れるのです。それをできるだけ、効率よくやるためには、感覚として声はつぶさない方向におく。喉は守っていかなければいけないという感覚をどこかで強く持っていることです。

 そして、できるだけ休みを間に入れていくことです。無駄なおしゃべりや日常的に練習以外は声を使わない。だいたい喉が休まる暇がないから、疲れて壊してしまう。普段通りにしゃべっていて、それ以上にヴォイストレーニングをやったら壊すのはあたり前です。

常識的なことを知っていると、普通の人がお医者さんにいかなければいけないようなことを避けるようなことはできる。

 

○鍛える

 

 どのくらい早く身につくかはわからない。スクールに行っているようなヴォーカリストや声優を見ると、何年経ってもまるで声が鍛えられないのです。

 役者の発声練習はめちゃくちゃ、はっきり言うとあんな間違ったやり方はないのです。でも、10年やっていると喉は強くなる。それがいいほうに出る人と実際に壊してしまったり、うまくできない人がいるのは、事実。だから、あなたに当てはまるとはいえない。でも、喉を守るばかりがいいのかというと、使っていかなければしかたがない。

 

○順番

 

 歌の中で高い音を出そうとか、ファルセットをきれいにかけようということの前に、とにかくパワフル、強い声。というよりは、耐性のある声、耐えられる声をめざしていくのも、一つの方向です。その上で声をどういうふうに歌に使っていくかということを考えるほうが安全、かつ後で伸びる感じがします。

 

○人によりけり

 

 年齢にもよりますが、30歳くらいの人がやっても大丈夫なことを10代でやると、壊すこともあります。逆もあります。その人の体質や経験にもよります。女性では日ごろからカン高い声だけでしゃべっている人が地声を出そうと思ったら、大変です。逆に低い声で太くしゃべっているような人は、ほとんど影響がない。

 一般的に男性のほうが強い。大きな声をそこまでに出してきているからです。もとから声がいい人もいます。そういう人はスポーツやっていたりして声を出してきている。スポーツで声を壊してきている人もいます。ポップスの場合はいろいろな声があります。

 

○聞こえる声

 

「大きさがないと聞こえないのではないですか」

 大きさでなくても結構聞こえます。皆、声量で見るのだけれど、声量は音圧であり、聞こえそのものというわけではない。聞こえやすい声、聞こえにくい声があります。周りの声と混じったときは、異質な方が効きやすい。男性のなかで、ひとりだけ女性だと当然聞こえる。それから湿度や残響の度合いにもよります。

 

○子供ミュージカルの問題

 

 演出家は声を出させます。出していないとテンションが上がらない。日本の場合、子供向けのミュージカルでは、いわゆる子供っぽいしゃべり方をしてあげないと、子供たちの興味をひかないから、皆、同じような高く元気な声の使い方にして、壊しやすいですね。

 

○演劇の声

 

 しっかりした劇なら声にいいかもしれません。舞台ということから体からの声でも壊さないように使えるようになっていく場合もある。台詞で声を壊してしまうなら、基本的に母音だけとか発声練習だけでやったほうがいい。

 台詞の箇所、いい回し方にもよると思います。

 いわゆる演劇の人たちがやっているなかに、アナウンサーのように、口をあけたり、動かしたりすることが発声上、喉に負担がきたりすることがあります。

 

○邦楽の声

 

 きちんというために力が部分的に入って、本来なら流れにのれているから、離しても大丈夫なような声をいちいち締めてしまうようなくせがついてしまうと、喉をいためざるをえない。発声から考えるとよくない。舞台から考えたらやむをえないときもあります。邦楽によくみられます。声の安全のところから演じているといい演技にはならないでしょうからね。

 

BGM

 

新しいかたちで出てきている歌い手もいるけれども、もう、ほとんど歌の力ではない。今さら歌の世界をわかりにくくしても仕方ないので、素直に心地よさだけで効くようにもなりました。つまり、表現でなくBGM

 芸などでは、お笑いなどでみるように、とんでもないようなところから出てくることもある。それもなじんでしまうと、ある程度、位置づけ、分類ができる。歌の場合も、声とか曲とか、スタンスでは分類できるのでしょう。けれど、接点という部分ではあいまいな気がします。芸の力がなくても許容されるのが21世紀の歌であってもよいのだと思うのです。

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