表現の本質☆ NO.273
○表現の本質☆
作品の何に対して、どう聞くかということもあります。皆それなりによしあしがあります。
一概に歌手といっても、誰もがいつもいいわけではない。曲によってもかなりよしあしがあります。
1曲で強い人もいれば、トータルでみせる人もいます。学ぶなら、その歌がよいときにも悪いときにも、それぞれに異なるものを学べるものです。聞く目的によっても違いますが、それを具体的にしていくことが学ぶことです。
ヴォイストレーニングは非常に幅が広いのです。
○切り離す
カラオケであれば、自分と似ている声の人を選曲して入れば、やりやすいです。仲間内で歌うなら、そのほうがうまく聞こえます。
しかし、ヴォイストレーニングからいうと、本当に似ている人の声を真似するというのは、たやすいから悪い癖がつきやすい。それがよいということではありません。
基本的には、歌とトレーニングはある程度、切り離して考えましょう。現実の歌い手と、自分というのは違う人間なのですから。
○すべてから絞り込む
よいとか悪いという前に、興味があろうとなかろうと、まず全部を見て聞いていくほうがいいでしょう。
「よいCDを紹介してください」と言われても、その場でセレクトしたもの、与えているものは、相手がいてできることなのです。
こちらが1000から1を選んで与えて聞くとしても、あなたは、その1から100、できたら1000を聞くことです。
○よいものとは
プロというのがひとつの基準と思えるのであれば、アマチュアの素人のものを聞くより、プロの人のを聞けばいい。プロの中でも一流といわれる人、評判が高い人、あるいは売れている人、売れている人イコールいいものというふうに思う必要はありませんが、売れていないものよりは、よいものであることが多いでしょう。
歌というのは相対的に組まれているものなのです。無伴奏で一番うまい人は誰なのかとか、声が一番よい人は誰なのかということでは、あまり意味はないのです。
○学ぶために動く
歌というものは一人で歌うものではありません。伴奏者もいればアレンジャーもいれば、ライブ会場の客もいます。トータルの中で判断するものです。声が大きい人や高い人がいたとしても、それは声の大きいのや高いのを聞きたいだけではないのです。
自分にないものは他の人の才能を使い、自分にあるものは最高に発揮してやっていく。そのために自分を知っていくことです。
○成り立ったあとに
必ずしも歌がうまいことと、歌がよいと評価されるということは違う。そのときにどういう基準を自分につけていくかということです。
「どれを聞けばよいですか」「どこに行けばよいのですか」、それぞれ理由があって成り立ち、そうでないところは成り立たなくなっていきます。成り立つことを優先してもよいし、あとにしてもよいでしょう。
そのために、自分でいろいろ動き回って経験を積んでいくことです。数をこなすというのもひとつの勉強です。何よりもそれが自信にもなっていくと思います。
○困ることを直す
「喋りをどうすればよいか」という問題では、あなたの友達がそのほうがよいと言って、あなたもそのほうがよいと思えば、そうすればよい。
喋りというのは、たとえば「普段どんなものを着たらよいのですか」と言われるのと同じで、その人とその周りの人の価値観で動いています。普段は、どういう声を出さなければいけないということはない。
人前に立って、他の人に価値を与えるならという条件があって、初めて、こういうのはダメということがあります。
普段しゃべるときには、言葉が聞こえにくくても、発音がはっきりしなくても、友達などであれば問題ない。そうではない人のところでは困るから、「どういうふうに直せばいいのですか」ということになる。困ることがあって、直すことがある。普段から「お腹から声を出しなさい」というようなことは、その必要にこたえるための準備にはよいということです。
○大きさより通る声
「大きさ」というのは、その場の相手に大きく聞こえることに意味があります。声の場合は、音が波動で伝わる。大きさというのは、出すのと聞くのとはちょっと違う。伝わればいい。大きい声でなくても通る声であればよいということです。小さな声でも通る人はいる。小さな声でも通れば問題ない。
言葉が聞こえてもよくわからない場合もあります。ロシア語でしゃべられたら、私たちにはまったくわからない。当然です。でも日本語として聞き取りにくかったり、あるいは何を言っているのかよくわからない、では困るわけです。
言葉以前の問題では、シチュエーションで必要のないことを急に言ってもわからない。
相手が聞き返すという理由は、声が小さいからということだけでない。しゃべっている人の言葉を全部聞いたりはしないですね。
○聞いてもらうには☆
2通りのケースがあります。自分が関わると思ったら、小さな声でも聞く。相手が必死で訴えかけてきたら聞きます。
聞いても聞かなくてもどうでもよいと思うシチュエーションであれば、聞かない。声の大きさだけではないです。
内容がない、伝える意思がない。そういう場合は聞いてくれない。内容をもって伝える意思をもっていたとしても、何となく声や態度などに相手にそう思わせることができなければ、聞かなくてもいいから聞かないというようになってくる。長くなると、くり返しとなると、さらに厳しくなります。演出的なことを含めて、声を考えることです。
○歌とチェック
メロディが簡単で、音域が狭いというのは、盛り上がらないので今の時代風でなく、受けるわけではない。しかし、自分が歌えるまでのチェックということであれば、音楽的には、シンプルなもののほうがよいと思うのです。
カラオケでは、それなりに成り立たないとつまらないでしょう。そういうときは、自分と同じ声域の似たような歌い方をしているプロをコピーするのが簡単です。
○声のシチュエーションの問題
どう感じたかということですね。周りの人が厳しかったり、上司にそういう方がいると、指摘されて感じる。電話についても、職場の環境をはじめ、いろいろな状況による。声だけの問題でない場合もたくさんあります。
学校の先生もよくいらっしゃいますが、大勢の生徒たちと声で張り合ってもしかたがない。
こういうシチュエーションの中では、私がかなりボソッと喋っても聞こえますよね。シーンとして、皆も聞く耳を立てています。そこまでの問題が本当は8割ではないでしょうか。
○日本の社会と声の力
日本の社会の中では、声を強く出し、はっきりと話すということは、必ずしも有利なことではないです。一匹狼的なスタンスで、やっていこうというのならいいのですが。それ以外は、自分の話が聞いてもらえるようなシチュエーションを整えるところまでです。その条件の一つとして、発音や声をしっかりとしておくべきなのでしょう。
その前にそのことが問題なのかどうなのかということですね。自然ということでいうのなら、今しゃべっていることが自然かもしれません。そういうことであれば、声を直す必要はないわけです。声のみせ方を直せばよいのです。
トレーニングというのはある程度、不自然なことを積んでいきます。不自然なことを積むことによって、それを意識しないで自然にできるようにしていこうというようなことだからです。
○ポップスの声
実際にポップスで使われている声のほとんどは、テノールとして鍛えた声を使っているのではありません。発声というのをクラシックの先生について勉強したり、そのプロセスを踏んでいる人はいます。
声に関しては、プロと日本のプロは、少し違うと思います。声自体を芯で捉えていないせいです。向こうの音楽でのいい声だというのとは、違うレベルだと感じるところは多々、あります。
自分自身に納得するレベルにいくのに、アメリカは、黒人の歌い方に学ぶ、単に歌い方だけではないのです。向こうの言語をしゃべって向こうで学んだらそういうふうになれるかというと、そうではないのでしょう。
○海外に行く
海外がよければ海外にいけばよいでしょう。海外にいっていた人もたくさんきます。海外に行きたければ、行けばよいと言っています。どこでもよい。日本ほどすべてが整っているところはどこもない。そういう日本にいるよりはよい。日本にいると、本当の自分の問題に直面することがあまりない。
自分の思うことをとことんやらなければ生きていけないと、独りで生きることに直面します。自分の主張をきちんとつくっていくことに対して、よほど我が強くでもないと耐えられない。今のやさしい若者だとつらいところがあるでしょう。
○聞く
もちろん、海外に行けばいいのかというと、それもいろいろな問題があって、得られないものは得られない。ただ、同じ地球の中なのだから、見ておけばよい。
声に関しても、日本にいると耳はあまり必要ないけれど、海外は耳が鋭くないと危ない。そういう意味では聞こえてくる音も聞き方も違ってくるでしょう。
外国語ひとつをマスターするほどに聞くこと、しゃべることも、ヴォイストレーニングのベーシックなことを徹底してやることになるわけです。何でもやってみればよいと思うのです。日本で自己満足せず、もうやることがないというくらいにやったら、飛び出せばよいと考えますね。
○声の効用
自己満足しないためにレッスンを続けていく。歌というのは、自分だけのものではありません。自分の中で飽和していても、そこの時点ではまだ歌とは言わない。
歌といっても、健康のためとかストレス解消のためとか、カラオケのような感じで使われている場合もよくあります。音楽療法と同じで、声を出すということは精神的な問題を解決することにもなります。声が出せないと、ひきこもりになったりうつになったり、悪い状態になるということもあります。社会性をもちコミュニケーションをとっていく方法として、声自体も使われるのです。
○マイナスからの声
脳の病気で言語障害を起こし喋れなくなってしまうと、言語聴覚士が言葉のリハビリを教えます。ヴォイストレーニングの対処とはちょっと違うのです。声がうまく使えないのにもいろんなレベルがあります。東洋的なアプローチで、心と体をリラックスできたら声が出るという方針もあります。しかし、それで出る声と、声として価値をもつところというのは、かなり異なります。それどころか、必ずしも結びついていないこともあるのです。
○真の目的
声を自分のための自己満足の部分でやるのか、他人のために使うのかというと、目的としては違います。問われる厳しさも違ってきます。声に関しては自分を中心に立てなければいけないのは確かです。自分の楽器は自分でしか扱えないのです。手伝ったりサポートするだけで精一杯なのです。
声が出なくなってしまったからといって、手術をして出せるようにするわけにはいきません。
高い声が出ないから手術して、高い声を出すということまではお勧めしない。誰かが持っている声を、高い声に限らず、誰かが歌っている声を目指すのは、真の目的から外れています。
それは本当のことでいうと無理。その人の喋っている声から歌っている声まで素晴らしくてしかたがないということだったら、ファン。それまでに、そのレベルでできていなければ無理です。だから私は、何でもやればできるという考えではないのです。
○質を問う
できるといったらできるようになるものです。たとえば5オクターブ出したいといったら出せるようになる。ただ程度、レベル、つまりは質の問題です。
音に当てるだけならできる。ただし、それは誰でもピアノを弾けるようになるといっているくらいなものです。自分の中で楽しむ分にはできます。音を鳴らすということまでのことだからです。
人に価値を与える、相手に喜んでもらえるというのは、それとは全く違います。そこを、へたなくせにくせをつけて一緒にしてしまうとわからなくなります。
高い声が出せたり、大きな声が出せたりすると有利になるとか、歌手に一歩近づけるということではないのです。
プロセスとして、発声がよくなると同じ質で、高い声が出るようになってきたり、大きな声が出るようになるということです。
体力づくりをして誰よりも体力があれば、スポーツで勝てることにはならないでしょう。まして、ステージで一番うまく何かができるようになるということは違います。そんなことなら、スポーツ選手を歌手にすればよいでしょう。
大切なことは、徹底して自分に向き合っていかなければいけないということです。そうでなければ、真のヴォイストレーニングというのはありえません。トレーナーにできることは、そのお手伝い、100分の1くらいのところです。
○依存しない
日本にいると、すべて必要なことをやってくださいと期待されがちです。アーティックな分野ですべてやるというのなら、トレーナーがアーティストになります。
トレーナーの主たる役割は、質の高い練習の環境づくりと習慣づくりです。自立できるところまでお手伝いします。自立とは自分のメニュを自分でセットできることからです。
もうひとつは判断力です。一体何を持ってよしとするか、ただし、本人を離れた絶対的正しさという基準は、私の中ではなくなってきています。
○本のメニュと現場
本の場合は、ことばなので白黒つけていかないと、読む人に整理ができなくなります。正直に書いていくと、読んでも混乱してしまうから、ひとつのたたき台として、一つの理屈といった理論を通しておかなければいけない。
「メニュや方法が正しいか、正しく組まれているのか」というのなら、まったくの初心者に対しては有効です。たとえばスポーツの教則本が中高生に役立つくらいのことは、本でもできると思うのです。
できている人が読んで、他の人に説明するのに、こういう言葉を使えばよいとか、あるいは自分が今までやってきたことはこういうことだと、まとめたりするのに、理論は便利です。
実際のことは現場でしかない。現場というのは、その人がそこに存在して、誰かに何かを伝えたいと思ったときに現れてくるものです。
○ベーシックなトレーニング
発声をやったことがベーシックとなったおかげでプロになった人というのは、ポピュラーではあまりいないはずです。プロになる前にそういうことをやっている人はたくさんいるし、プロになったあとにやった人はたくさんいる。絶対にやらなければいけないことかというと、必ずしもそうでもないということですね。
では何でやらなければいけないのかというと、できていないからです。人を感動させたいのに、させられないというのなら、やらなければいけない。
プロから見ると、一般の人は、総じて劣等生です。何もトレーニングをしなくても、歌手や役者になれる人もいます。それはやっていないだけではなくて、すでに感覚と体のレベルで、そこまで生きてきたなかでやってきた。その感性として捉えられる力がないから学びにいく。10歳くらいになるとそういうものはかなりはっきりしてきます。
○キャリア
たとえば黒人でプロのヴォーカルになろうということなら、10歳そこそこにはもう決まります。日本のように20歳、30歳になってから、音楽をはじめ「歌手になるには何を聴けばいいのでしょうか」などと言えるのはスポーツ選手を目指す人が30歳くらいになって始めて、大リーグに入ろうと思うというようなことです。
年齢がある世界ではありません。実際に何かをやっていて、転身した人もいれば、プロデビューが40代以上の人もいます。
ただ、感覚のことや体のことでいうと、声には総合的な要素があります。その総合的な要素を満たしている上で、さらに具体的な強みというのがどこかで必要になってくる。
○日常の基本
日本の場合、歌は必ずしも音楽的な基本、声の基本とはなっていません。むしろ離れていることが多いです。ヴォイストレーニングや欧米などの発声法を、絶対にやらなければいけないということではない。それ以前に、日常の中で音声を表現すること自体のベースが根付いていないことが問題なのです。
こうやってしゃべって伝えていることで、役者のせりふができて、そこに節をつけることで歌ができる。その程度のものなのです。ところがそこまでのことができていないから、別にトレーニングをしっかりとしないと、せりふや歌が成り立たないということです。
○共通のもの
声そのものを聴くこと、これは文字では伝えられません。どんな音楽をかけてどう聞くのかということも同じことですね。
それを学んでいくには、プロは共通して持っているのに、普通の人は持っていないこと、それを明らかにしていくのが、ひとつの基準でしょう。
好き嫌いでないところで判断できるように、嫌いであっても、評価されるというものを認めていくというのが、可能性を大きくするために必要な価値観なのです。
○削ぐ
歌は、いろいろな力で成り立っています。作詞作曲の力だけでも成り立ってしまう。バンドのよさ、ステージでのパフォーマンスや踊りだけでも成り立ってしまう。ルックス、スタイルだけでも成り立つ。そういう部分を全部含めていくと、ヴォイストレーニングは訳がわからなくなってしまう。むしろ、声以外のものをとことん削いでいくことです。
ここで問うているところは、音声で表現する舞台と考えています。
○ずれる
声が出せない人が、声を出すところまでは、日常レベルのことへの対応です。専門家を紹介することもありますが、カウンセラーのほうがいい場合もあります。
理想とする歌声があって、学びにくるとしたら、違ってきます。まして、プロの活動のためとなると、かなりずれてきます。
今のヴォイストレーニングや声楽の大半は、現状に対応できていないでしょう。ヴォイストレーナー、声楽の先生は、今のJ-POPSの発声を認めないでしょう。そのずれをなくす必要はありません。むしろ、そのギャップをさらに大きくして分けてみることが大切なのです。[続]