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可能性 No.274

○可能性

 

 現実の世界でやっていて、実際にここにくるプロのヴォーカリストを見ていると、上手下手ということではない、その人にしかできないことが必ずあるわけです。一番大切なことは、学ぶべきことです。

 一人ひとり違う体を持っていて、一人として同じ声帯を持っていません。結果として、誰一人同じ声を持っていないことに対して、どういう判断をプロセスで下すかといったら、かなり難しい。難しいことを知っておくとよい。

 世の中が認めようが認めまいが、こだわり続けて一番いいものを出すこと、それを深めていき、多くの人に認めさせていける可能性のあるものをみつけたいと思うのです。

 

○現実的な対処

 

 現実問題として、ミュージカルなどになってくると、期限を切ってそこのオーディションを通らなければいけません。しかし、本人の徹底して掘り下げた価値は、そのオーディションの求めるものに、多くの場合は合っていないのです。 

 実際にプロになるといっても、自分で食えるようにと言っていながら、どこかにのっかっていこうという人がほとんどでしょう。オーディションを通って、レコード会社からデビューしたいとか、所属できたらいいと。現実に私たちはそういう人とやっています。それに対する基準は、当然、与えられたものに添わなければいけないとなります。

 その場合、そこのオーディションに問われることをトレーニングします。本人がそう望むからです。こちらからしかたがないとかはいいません。その人の価値観の中で、その目的や夢に対して、トレーニングするからです。

 

○一般の人への対処

 

 ヴォイストレーニングというのが、本当にプロでうまい人にしか伝わらないのだったら、意味がありません。どうしようもない人にも役立つ、やったらやっていない他の人を追い越せる、やることによって、大きく変わるということに、大きな意味があるわけです。

 私が一般の人と行なうようになったのは、一般の人の声には、声を支える基礎のなさが明瞭にみえるからです。ですから、少し支えるだけですぐによくなる。ところが、自分で支える力はないからすぐ頭打ちになる。そこからが本当のトレーニングです。

 

○プロへの対処

 

 プロとやるのは楽です。余計なことは必要ない。舞台の中で通用するのだから、その精度を上げていく。発声も、それを支えるものも最低限持っている。足りないのは、日本人の場合は、音の流れの感覚です。そこから声を判断する感覚が甘いのです。

 自分が一体何をやったのかということをきちんと評価できないままに、いつまでも周りから評価されてやれているのは、日本の客やスタッフの音声への基準の甘さだと思うのです。だから、その先で伸びる人が少ない。そこをしっかり伝えて、トレーニングします。

 

○成功に向けて

 

 声については、考え方も出し方もいろいろな人がいて、いろいろな対応をしています。答えとか正解とかを一つに考えてしまうと、それがずれたときに通用しなくなってしまう。それでは甘いのです。

 声をトレーニングして、その人が社会的にも成功しなければ、それはよいトレーニングではない。声は、人間の社会の中で大きな位置をしめている。そのことをやって、人生がうまくいかないとしたら、トレーニングやレッスンに本質的に欠けていることが多い。

 

○先のために

 

 役を完全に演じきれる人だったら、人生に失敗することはないです。声はその武器の一つです。世の中の役に立たないとしても、自分はやりたいというこだわりがあれば、そういうのがアーティストなのだからいいと思います。しかし、第三者からみた可能性を先に予測して、開くのがトレーニングです。

 

○万能力

 

 声で得た技術そのものはどこかに使えますから、こんなに確実な自己投資はありません。ブランドものを買ったりするよりもよい。人生のいろんな場面において、声というのは決定的な影響を持つことがあるからです。

 声楽をやったけれど就職できないという。そうしたら学び方がおかしい。他の人より声が使えるのに、説得できない、価値を与えられないとしたら、何を学んだのでしょう。ものまねで終わっていませんか。

 声、せりふを使えばなんでもできてしまう。しゃべっているだけでもいろいろなことができていく。それ以上のことを起こしたいから、歌やステージを使う意味がある。

 

○おかしい

 

 日本の歌は喋ったほうがいい。楽屋で女の子が喋っていると、面白くて個性的なのに、舞台に上がって歌になると、一様につまらなくなります。同じ動きをして同じ間の空け方をする。合唱団の楽屋裏に行くのも楽しい。並んで歌ってしまうやいなやつまらない。これは教育の現場、トレーナーたちもおかしい。

 日本人の精神的なものがそういうふうに、一つの目的に対して組み立てられたときに、おかしくなるという例の一つです。おかしくなっても頑固に守りたい人がいる。

 

○幻想

 

 ヴォイストレーニングや声楽も、絶対に正しい声やいい発声というのがあるとか、絶対に誰にも通用する方法があって、それさえマスターしたら声が出るようになって、歌がうまくなるというような幻想みたいなものがあるようです。その人の声を聞いたらわかるのに。

 

○自然に

 

 何の世界でも長くやったら人並みレベルまでできます。日常会話を不自由なくできていることでも、高い能力なのです。ピアノを弾いて日常会話しようというのなら、プロでも何分の1も伝わらないでしょう。声はことばというのを覚えなくても声が出すところから会話ができるのです。まだ哺語でむにゃむにゃとしか言えない時期からコミュニケーションがとれるわけです。小学校くらいに上がってきたら、言いたいことを伝えられるようになる。そこがベースです。そこでできていることさえ、舞台でできていないなら伝わりっこないです。こと歌、せりふというのは、誰でもできる。ところが勉強をしてしまうがためにどんどんできなくなっていく。

 そこで、ヴォイストレーニングは、発声で訳がわからなくなった人を、自然に戻すことが多いのですね。

 

○捨てる

 

 コンピュータとしか会話ができなくなった人は、コンピュータを捨てなくてはいけません。業界の人やトレーナーが万能のようなふうに思ってはなりません。

 発声を勉強した人は、大きな声、高い声が出したい。そうしたら歌がうまく歌えるようになると思い込んでいます。

 J-POPSでは、大きな声も高い声も出せなくても、歌をうまく歌っている人が多いかもしれません。声は悪くて歌は下手でも、プロ歌手をやっている人もいます。こっちのほうが、ある意味ですぐれているといえるのです。

 

○見合う

 

 より確実に、より強くというよりも、繊細に相手に伝えるために、ヴォイストレーニングが役立つと考えたほうが楽でしょう。どのくらいの期間をかけたら見合うのかも、かけた分、何かに見合うから心配不要です。ただ、それをわからないとずっとわからないこともあります。私は普通のトレーナーだったら「ハイ」と言うだけで次にいく世界を20年以上やっています。まだ終わりようもありません。

 

○グループのレベル

 

 先生より生徒のテンションが低いようなグループでは何の意味もない。学校形式でやっていると、同じ条件で伸びた人がいる、伸びていない人がいる。これが現実です。皆が伸びたというような評価は、平均レベルまででいっているということに過ぎない。スクールの発表会での到達レベルです。

 

○価値

 

 私が求めているレベルは、それで食べていけるレベルです。最初と違う形に変わってしまうのはよいのです。その人の夢が変わるのもよい。

 プロになろうとした人の目的はプロになるということです。プロになれなかったら、そこでは失敗、自己投資ということで、はっきりと考えています。そこでの失敗は、人生での失敗とは違います。試合の一敗にすぎません。

 他のトレーナーが言っているみたいに、「誰でも声がよくなります」「高い声が出ます」などは言わないです。

 そんなことは習わなくてもできる人は、世の中にいくらでもいます。声がよい人も歌がうまい人もいます。誰でもできることができても、それはやっただけのことで、本人に意味があっても価値はない。でも意味があればよいというなら、よいのです。

 

○スタート

 

 プロの養成機関かといわれると、違うのですが、考え方としては、価値を出せるだけのことをやった上で考えればよいということです。

 歌や声というのは、はっきりしないからです。美しく見えるとか、テレビに出てもはずかしくないとか、そういう基準でもあればいい。

 メイキャップをしなくても、皆、個性的な顔をしている。そんなものをしないほうがいい。でもそれを認めてしまったら、化粧の意味がなくなってしまう。より美しくというのは、時代や国によっても変わるし、何かしら基準を置いているから、売れていく。そこでの価値を知ることがスタートです。

 

○個性と自然

 

 個性も自然のままがいいという、そういうトレーナーもいます。自然で個性があれば何もやらなくてよい。好きなように楽しんで歌っていればよい。それはそれでありです。そうでないものを求める人のためにレッスンはあるのです。

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