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違う No.275

○違う

 音楽は皆が楽しむもの。リラックスして楽しむと声は出るようになる。それはベースとしての声、日常の中でそういう声が出れば、周りの人は比較的受け入れてくれるということです。ただ、多くの人を感動させるという武器にはならないですね。その辺を一緒にしてしまうからややこしくなってしまいます。やれた気になってもやれないのです。
 
○誤解

 プロのための特殊なトレーニングはない。何がプロとアマチュアの違いがあるといったら、結果的には、感性、アンテナの働きの部分です。ひとつの曲を聴いたときに、どれだけのことを感受できるかというのが第一。それをどう表現かつ実現できるかということで次に手段に入ります。
 そこで変わらなくては実際に歌は変わってこないし、発声も変わらない。そこの部分が変わらないのに、人に教えられて発声法を身につけても却って、よくないことになります。それが日本人の場合、よくある誤解です。
 声が出せるようになると、いい声とかすごい声とかを求めだす。発声ができてきたといわれて、もっと誤解することになってしまうのです。そんなものはないのです。いえ、あってもさほど役に立たないのです。

○よい歌は、歌わない

 歌がよければ聞き入る。相手に沈黙を強いるみたいなことになるのです。
 発声がいいとか、音感がいいとか、そんなことを言われてしまうのは、歌ではない。うまい歌だと見えてしまうところでうさんくさいでしょう。
 日本人のは、大半にそれが見えてしまう。キューバのはそれが見えない。声と楽器で騒いでいるくらいなのに、聞いていると離れられなくなる。
 音楽は、小さい子が空き缶をたたいているのと変わらない。そういう土着性に根ざすと強い。足を地につけて自分として自然に出している、そういう部分のものでないと、生き残っていかない。深まっていかないですね。

○調整

 10人いたら、1人くらいは、それなりにすぐれています。5人くらいは普通で、最後のほうの2人くらいは、かなりの劣等生です。ただその2人が歌い手から一番遠いのかといったら、必ずしもそうではない。音楽の授業などで全然ダメだった人の方がプロの歌手になっています。
 授業での基準は、人よりはみ出さないで声を調整できる能力だからです。少なくとも表現ではない。そこからもっとも遠い。なのに、ヴォイトレを求める人もまた、そういったものに走っているわけでしょう。
 
○導くこと

 日本の合唱団は、大人になっても、ウィーン少年合唱団のようなものが頭にあるから、近づくだけで超えられない。最初から同じことはできないことを知っていたら、もっとよい方向に導けるのに。
 絶対にできないことをがんばる。似ていることで評価されるから、本人や指導者も、そこで満足する風潮があるからです。でも、幸せはそういうものだから、うらやましくもあります。
 
○次の目的
 
こういうところに来る歌い手の半分くらいは、安定して高い声を出したい、それが目的で次にどうするのかがない。高い声で歌っている人たちはどこでヴォイストレーニングやったのかを調べてみましたか。どんな方法を使ったのか。皆、10代のときから、声が出ていた。まして、ヴォイストレーニングをやれば出るようになったとか、言えるわけです。
 出るようになっても自然にやれていることを、トレーニングでやって、その分、不自然なのだから苦労する。ヴォイトレで彼らよりきれいに出せるとは限らない。それで勝負するという考えは抱かないことです。
 
○似せない

 大きな声や高い声が出せないなら、神様は違うものを与えてくれている。それを磨きなさいと。そのほうが世の中に通用する、必要とされるし、接点になる。
 今、皆がこういう音楽をやっているから、こういう音楽をやろうと思った時点で、出ていけなくなります。こういう音楽を10年前からやっていたらよいのですが。
 何をやっていくかということでは、その人の人生の目的というのはさまざまです。
 素人で今まで歌ったことがない人が、ビートルズのコピーをやりたいといったら、それはよいことです。今まで3,40年、ビートルズを歌ってきた、あるいはプレスリーをずっと歌ってきて、これ以上似ないから、ヴォイストレーニングでもっと似させてほしい。そういう場合は難しいでしょう。でも、本当の基本に戻れるチャンスでもあります。
 
○勘違い

 コピー命の人は、本当に本物と同じように出したくて、とことんやってきているわけです。これまで出ないものをどこまで伸ばせるかというと、もう1割くらいは近づけるかもしれない。でも、そのままでは絶対に同じものにはならない。持って生まれた声帯、楽器も違う。「手術して彼と同じ声帯にしてください」とか、「彼の声帯を移植してください」というのでしょうか。その辺での勘違いが多いです。
  
○できない

 楽器は同じものを聴いて、同じものを買ってきたら、同じことができなくはない。プロのギタリストの使っていたギターを買ってくると、彼と同じ音色というのは出せるようになるかもしれない。体や声帯の場合は、それは不可能です。
 トレーナーだから何でもできるでしょうか。マライア・キャリーを誰でもできるかという話になります。男性はできないということではない。女性でもできる人はいない。
 歌い手の場合、厳しい基準で見たら、その人のことはその人にしかできません。ところが日本の場合、似ている人をやたらと評価しますね。海外の場合はあまりないだけに特殊なことです。
 今の若い人も、皆同じような歌い方になってきました。個性が出ているのは、年配の人の方でしょう。和田アキコさんの歌声といったら、パッとわかります。

○うまいと深さ

 間違う、正しいということは、アーティスティックな分野においては、そもそも存在しないと思います。あるのは深さの差。「上達法」というテーマで、いくつかの本を書いてきました。やれば上達するけれど、何をもって上達というのかということです。「周りの人がうまいと言うようになった」。では、その基準は何なのかということです。多くは、日ごろ聞いている歌い手に似てきたということですね。
 のど自慢でも、うまい人ほどつまらない。じいさんやばあさんが音を外しているところが面白いです。拍手したくなる。そういうところにリアルな表現はおきてくる、でも、深くはない。聞き手の感情を捉えなければ鈍いまま、歌のうまいようなことはいやみにしかならないです。
 
○歌の価値

 歌のうまい人や声のよいだけの人が出ていけないのは、つまらない、飽きるからです。先も奥もわかってしまう。つまり、深みがない。
 カラオケで誰でも自分で歌える時代に、ちょっとくらいうまい人のを聞きたいわけはないのですね。自分ができない世界、その人じゃないとできない世界を見たいわけです。

○見本

 今のJ-POPSがよい悪いということはいえない。平井堅さん、宇多田さん、ゴスペラーズ、コブクロなどが見本になってしまうことです。
 昔の歌い手を見本にすると、間違わないしうまくなる。しかし、悪い癖がつくことがそんなになかった、というのはできなかったからです。がんばっていくと、半分くらいまでは上達に導かれるところがあったのです。
 今は、マイクを使うと、すぐに似たことができてしまうのです。それっぽくはできる。しかし、平井堅さんらの才能というのは、他の人が絶対にできないところにあるのです。トレーナーでも、そのようには絶対に聞かせられない、まねても他人がすると、ものまねにしかならない部分、それがアーティストの価値なのです。
 
○皮肉

 アマチュアの人はプロにあわせようとやっていくから、同じことをやったつもりでその半分の力も出せない。後、半分を出そうとして人生をかけてやっても無理です。仮に同じになってみても価値はゼロ、しかたがないのです。
 うまくなることを目的にとってしまうから、うまくなる方向に行く。すると、トレーニング自体がうまくできなくなってしまいます。すごい皮肉です。
 トレーニングは確実にベースの部分をアップさせて、自分の価値を出すための体や感覚を作っていくものです。その辺でややこしくなっている問題は多いですね。

○フィールドづくり

 いろいろヴォイストレーニングの方法やメニュができたのはいいことです。いろいろなトレーナ-も出て、いろんな本もでた。
 最初、「ヴォーカル」「ヴォイストレーニング」という本が本屋の棚にないから、つくろうと思って、私が10年くらいで30冊ほど書いたら、それができた。次に一般の人用の声の出し方がない、声という棚がないのでつくりました。そうやって世の中が少しずつ変わっていく。
 ただ、その後、ヴォイストレーニングや発声が、マニュアルとして一人歩きしているところは気になります。本来、私が意図していたことはこういうことではなかったのに、その路線をひいてしまった。
  
○演出としてのヴォイトレ

 ヴォイストレーナーとして、誰がいいかを聞かれたなら、一時、演出家やプロデューサーを勧めていました。
 花王のCMを録ってきました。4人くらいの素人を 5分でプロ並みのナレーションをできるようにする。これまで、もっと無茶なことをやってきたから、何ともないのですが、本来、プロデューサー、演出家などの仕事です。私の方針と根本的にあわないことです。でも人に伝えるために、どんな声をどのタイミングで、どう入れなければいけないのか、どう組み合わせなければいけないのか、そういうことについてはお互いによく知っています。トレーナーより、現場においての実践です。耳がいいことも必要です。
 
○お笑いの声と耳

 お笑いの芸人は鋭いです。ネタでもっている。といっても、ネタだけでは続かない。有名になったら放送作家が書いてくれます。
 お笑い芸人の力は、実は、声の力といってもよい。漫才なら掛け合いの力ですね。違う芸人に同じネタをやらせてもダメでしょう。そこがオリジナリティなのです。
 声の力の使い方、活かし方を、自分のキャラとともに知り尽くしている人が成功し、生き残るのです。自分がどういうふうに声を使えばよいか、自分たちがどう演出すればよいのかは、笑わせるという芸の中で学んでいく方がわかりやすいのです。

○歌い手の力

 歌い手が、今のお笑い芸人なみのことを感覚できなくなってきたのです。音楽や音響技術に甘えて、声が通用しなくなっている。お笑いの人は苦節10年を積んでいるでしょう。落語でも30代で2つ目といったところでしょう。
 日本での歌い手は持って生まれた声で作詞作曲に優れた人が早熟にプロになる。芸事として完成していくとしたら、ベースだけでも10年かかります。
 お笑いの人は10年で、力を積み重ねていくのです。歌い手は同じ10年であまり進歩していないどころか退歩することも多いのです。器用に歌いこなすことを、あたかも技術のように覚えて、本当の基礎となる力をつけていない。歌えていたら、何も言われなくなっているからです。手の抜き方、安全な歌い方を覚えていくだけになっています。トレーナーにつくと、なおさらそうなりやすいのです。
 
○実力

 いつまでたっても日本から世界へ冠たる歌手は出そうにない。J-POPSで全米に進出と言ってもいつも不発、PUFFYがちょっと売れました。宇多田さんは大丈夫じゃないかと同じ轍を踏む。宇多田さんがプロであるところは、日本語で英語のように音楽にのせたところです。英語で歌ったら単なる歌の一つです。アメリカがレベルが高いとか、宇多田さんの才能を否定しているのではない。彼女の才能というのは違うところにあって、それでこそ日本でヒットしたわけです。そこ以外で勝負するなら向こうにいったらいくらでもいる。一緒にしてしまうのは、おかしな話ですね。
 
○音楽表現の土壌

 誰もがやらなかったことを初めて新しく表現として生み出して、それで表現として支持されたということで、そのことを才能というのです。そう考えていくと、日本では声のよさや歌のうまさでやれた人はあまりいないでしょう。歌のうまかった人や声のよかった人は、けっこう一発屋で終わっています。
 日本人は元々、音声に優れた人をあまり評価しないということもあります。日本人の歌はストーリー、詩の後ろ、バックグラウンドを聞いてしまいます。これまでも声の表現力でよかったのは、決まってハーフやクオーターや在日韓国(中国)人。

○15分の集中

 劇団四季の人とは、地方でもレッスンをしています。曲がりなりにもプロがやりやすいのは、レッスンで最初からトップレベルにもってこれること。そうでなければオーディションは受からないし、ステージはやれません。
 60分や90分のレッスンはないのかと聞かれますが、実際に人間が集中できるのは、15分から30分です。レッスンの中でいうと、そのなかでさらに本当に一瞬ですね。歌では3分くらいあるようでも、実際には1コーラス1分程度、それだけでの勝負です。
 そういう世界においては、15分というのでも相当に長い時間なのです。
 ワークショップで、20人と90分間やると、ひとりあたりの持ち時間は5分弱です。劇団にいくと40人を2時間でやる。ひとりあたりの時間は3分でしょう。そこでものにできるかできないかは当人次第です。

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