まねしない No.277
○まねしない
題材として、体や息がはっきりしていくほうが使いやすいのです。誰でも歌えるような歌を、癖をつけて歌っているようなアーティストの発声でまねしたら、どこをどう勉強したらいいのかわからなくなってしまう。
最初は、体が強い人、息や声が強い人を一つの目標にする。鍛えたことがない人は、体が変わる可能性がもっとも大きくあるからです。
調整だけにしないことも大切です。また、その順番を間違えないことです。まねやコピーがよくないのは、よほどの人でないと小さく取り込んでしまうからです。だいたい他の人に合わせてやろうとしたら、小さくなってしまいます。
○体から
先に体を固定して調整してしまうと、体はそれ以上に使えなくなってしまいます。反対に、部分的な動きを先にして、全体的なフォームを後で直そうとすると大変なことになってしまうのです。最初にやらなければいけないことは、部分よりもトータル、つまり体になってくるのです。感覚から先に入ればいいのに、体が少し先に動いてこないと、感覚も細かいところまではわからない。そこは、常に掛け合って、やっていくというようなことです。
○ことばから歌へ
ここでは、役者や声優、ヴォーカルは、基礎として同じように対応しています。声優さんが多くなったのですが、言語も感覚の部分、体と呼吸を結びつけているところに言語をベースにおいています。
歌い手というのは、言語でないところで歌いあげるようなおかしな錯覚があります。「ことばをしゃべるところで歌えるのですか」と言う人もいます。歌がどこかから現れてきたわけではないのです。ことばをしゃべっているところに節をつけたくなって、高いところになったり響いたりして、いろいろと応用度が高まってきただけです。
○大きな声
役者の訓練では、大声を出し、声をこわした人はやめてしまう。発声練習は大きな声を出すことが正しいように受け継がれていたのです。それでは応援団と同じです。
体の原理からみたら、結果として大きな声が出ることは、発声の原理とあっているとは限らないわけです。本来は、発声の原理のところからやることです。ところが、それでは喉のところに負担がきてしまう。ひずんでいるとか感覚的に嫌だと思うことは、当人の体にとってもよくないわけです。だからそれをひとつ深くするだけでも違ってきます。
○発声を考える
日本の場合は、あまり発声からは考えないです。耳で聞いているのも、音の出し方や息の出し方、体の使い方も違う。日本語の場合は、母音をつくるのに口を動かさなくてもできる。ビジュアル的に伝わりにくい。すると、いきなり「あいうえお」をきちんとやるべきとなる。それが行き過ぎてしまうからまずいのですね。その程度のことをわかっていないから難しい。
○小さな声と体
大きな声が出なくても、声をどんどん小さくして、このくらいになっても聞こえます。このほうが私にとっては体を使っています。動きがぎこちなくなります。
小さな声で伝えようとしたら、大きな声で伝えるよりも難しい。深い息と体のコントロールが難しいわけです。
高い声も弱い声で成り立たせようとしたらもっと難しい。高い声というのは誰がどう出しても聞こえてきます。ところが、低い声で伝えようとしたら、それだけパワーや体のことができていないと、聞きづらいのです。そういう部分は、最終的な応用の部分です。最初はわからない。トレーニングの時期ではある時期、そうしてもいい。でも、それが目的ではないということです。
○個性と原理
生まれもったのどが、トレーニングによって鍛えられて使えるところまでやっておけばいい。人によってはここまで出る人もいるけれど、ここまでしか出ない人もいる。それは個性です。
高いところが出ない人は、低いところではもっと出たりする。違うところによい声の音域があることも少なくない。それを見つけるのがヴォイストレーナーの仕事です。その原理を知るまで、あまり先にいかない。
○有利に
日本の場合、すぐにキーを下げないでしょう。向こうから入ってきたとおりに歌う。そこで、相当無理があります。
合唱団でも予め、つくった歌や楽譜があって、それにあわせて練習をしていく。本当は自分の表現をするのだから、最初は自分が有利に変えてしまえばいい。
歌はだいたい1オクターブ半くらいしかない、2オクターブあっても1音か2音、高い音が一瞬出てくるみたいだけです。2オクターブを上行下行していく歌はないですね。私が見た中では離れていても1オクターブです。2オクターブ完璧に歌える必要はない。ポップスはマイクも使えます。
○大切に
大切にしなければいけないことがたくさんある。ヴォーカルにとっての修行の10年ということを本当に組み立てられたら、すごいことでしょう。ここはできるだけそういう方向にしています。
最初の2年は、歌がうまくならなくてもいい。下手になってもいい。下手にならなければおかしいとさえいえるのです。
自分のものがなくて、借物で歌ってきたわけでしょう。それを全部外したら、自分の歌は何もないです。すごく下手になるのです。しかし、自分の声で素直に歌って伝わるものを大切にします。
○下手であれ
下手に見られたくないから、何かを借りて、それっぽく歌って、下手に見られないようにする。すると、自分自身もごまかしてしまうことになってしまいます。だから下手であれということ、ずっと下手でいいのです。
というのは、下手というのがその人の個性なのだから。笑ってもらえたり受けたりする。それが嫌だったら、それを深めるしかないのです。下手のまま、皆が感動できたり、すごいなと言われるようになる。オリジナルとはそういうものでしょう。
○うまくなるな
うまいといわれてしまったら、それはオリジナルではないでしょう。以前に基準があって、何かに似ているからうまいわけです。日本でも残っているオリジナルの歌い手は、ユーミンや中島みゆきさん。彼女らは変わって、カリスマになりました。もともと歌手になりたくて入ってきたわけではなく、ことばの世界で構築したかったタイプです。声や歌がよいということではなく、その人の世界ができていくかどうかです。
訳のわからない2オクターブの発声をやる、声量を誰よりも出せるようにするというのは、目的に意味がないのです。多くの場合は、声はそこで無理に使われているから伸びないのが現状です。
○夢とタイプ
本人が、そのことがやりたいというのなら、そのことをやらせます。それが夢ならばです。ただ本当の夢が何なのかを捉えられずにいる場合が多いです。プロになりたい。それで何かのステージを思い浮かべてくるのに、実際のトレーニングにいってしまったら、結びつきのないところですごしてしまうのです。
何をやりたいのかというと、夢を実現したいからでしょう。それに対して、お手伝いすべきです。それに必要なものを最小限、声に関しても、最小限得るということが第一です。
○他のものと違うこと
絵はたぶんに自由にかけると思うのです。ところが声の場合は、すべてができるわけではない。すごく感動して、ああいうふうにやりたいと思っても、その人と違う声帯で発声が合わなければ、やれてはみても、あまりよくはならない。楽器としてかなり限定されているということです。だからこそ強みになる。ピアノのように同時に10個の音も弾けなければ88鍵もない。せいぜい2オクターブあればいい。歌自体が1オクターブでしょう。歌っているところと喋っているところから、テンションが高まってせいぜい1オクターブくらいなのでしょう。
○1分
人間がしゃべってみて、相手に伝えるのにひとつのことで1分でしょう。その1分くらいという感覚も欧米から来ているのですね。
欧米は、相手に対して一回喋ると1分から2分もまくしたてます。長ければ5分くらいしゃべります。その間、相手は愛想よくうなずいたりしない。こちらがしゃべったことに対して向こう側が、1分2分しゃべる。そういう対話がベースです。1分まくしたてようと思ったら、体を使うしかないでしょう。口先でやっていたら、まくし立てられなくなるでしょう。
○表現の力
日本では、「えーと」「さー」などと、何も考えないで喋りだす。しゃべって詰まったら相手が助けてくれる。すぐにバトンタッチをしあうでしょう。体を使ってしゃべる必要がない。論理的に考える必要もない。喋りの目的というのもないでしょう。
喋るということは、相手を説得させて自分の意に添わせるということです。そういうところがないところで歌が成り立つとしたら、表現の力もつきません。
○身内の歌から出る
日本の歌は、もともと身内の歌です。すべて身内の中で行われる。日本の場合、身内ともそれ以外ともコミュニケーションをとりません。そこでインパクトやパワーで相手の耳を振り向かせること、そこに立ち止めさせて、去らないようにさせるという必要がないのです。
今の日本のライブハウスはさらに身内だけ、中に入ったお客さんは皆ファンです。
向こうは違います。客から罵声を浴びせられることもあるでしょう。気に入らなければブーイングがあったり、お前の歌は聴きたくない、と常に第三者です。
○会話と対話
友達と会話するのにも体も腹式も使い、言語として声も使って、そのまま人前に出してみても通用する。向こうの高校生の会話をここで流して聞いても、ちゃんと成り立っている。
日本では、高校生どころか、社会人の対話も成り立たない。プライベートな会話ばかり。日本の場合は、オフィシャルにもってこれないわけです。発音もはっきりしていない。言いたいこともはっきりしていない。
ところが外国の場合は、第三者に聞かれても成り立つところで、考え方も相手と意見も違うし、やれているわけです。そういう文化的なベースが違う。
○借りない
あの人のようになりたいと言って入ってくるのが日本人らしい。そのままトレーニングもして、完成形はそういう方向になっているし、多くのプロもそう歌っている、全体として特殊な形です。
自分の言いたいことがあって他の人と違うということを打ち出していくのが、表現の世界です。アーティストの世界です。そうなったときに声だけどこかから借りるというのはないし、音楽も、その基本スタンスをもつことからだと思うのです。
○ことばから入る
ことばから入るというのは、日本語から入る、ことばの実感から入る。自分が歌ったとかことばを言ったではなくて、相手がそれを捉えられたかです、つまりは自分の表現が成り立ったか。
これは皆さんでもチェックできます。歌がうまいとか下手とかあまり関係ない。毎回、成立させられる人は少ない。だいだい2,30人がやると、1,2人がたまたまできる。次の回には違う人ができたりする。
評価は案外とはっきりしています。私が判断しなくても周りの人もわかる。日常でもあることです。
もうひとつは音楽から入るやり方です。たとえば役者さんは音楽に入るのは苦手です。そのかわり表現のところから入る。それはずっと得意です。それで飯を食っているからあたりまえです。
○イメージ
よいものをたくさん入れておかないと明確にイメージができないでしょう。どういうイメージをそこに持ってくるかが大切です。絵のように、そのとおりには描ける。
私がプレイヤーを描いたら、単に平面的な絵で、音楽やっているように見えない。音が聞こえない。こんな音を出したいんだ、こんな感覚のライブ感を伝えたいというところで色使いとかタッチがあります。まだ背景を塗り残している、ということではない。埋められないのは、その人の世界観です。その人にとってはそれで完成、現実とは違う。
○絵とデッサン
現実がリアルに見えてこなければいけない。そうでなければ写真のほうがいい。写真より伝わらなければ、絵を描く意味もないでしょう。昔は写真のかわりに絵が使われていたから、そっくりでよかったのでしょう。
絵はデッサンですから、同じ人が描いたことはわかるわけです。こっちは赤だから違う人だという人はいないと思う。それがオリジナルのデッサンということです。
○ものまね
歌でも同じです。これはこの人の作品、この人風の作品だとか、そうすると、誰かが似たようなタイプだとなります。これはあの人に似ている、あの人のまねといわれてしまう。まねではないけれどまね、歌でも、そういわれてしまった歌い方は価値がないです。これは現実でも同じです。
○オーディション
ここ何年か、プロデューサーにきてもらって、生徒をオーディションしてもらっている。順番がついていたのに、なぜデビューさせないのかというと、これならもっと若くてかっこいい人は他にもいる。つまり、うまいということでの1番2番では意味がない。何か違うものを持っていて出せそうな気がするというのでなくては。そういう人が一人いたのに早稲田にいって、その話をけってしまいました。