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つなぐこと No.279

○つなぐこと

 

 個人レッスンになると、その先生との人間関係や相性も入ってきます。ここの場合は担当のトレーナーが対応できないと思ったら、私や他のトレーナーに聞けばいい。いろいろなタイプの先生がいるから、うまく使えばよい。そういう感じでレッスンをペースにのせていく。

 のらなければのらないでかまわない。とにかく今日来て、行ったことをきちんと行い、明日につなげていくというようなことですね。何でもやらないよりはやっていたほうがいいと考えればいいと思います。それで続けて初めてわかってくることがあるということがわかると思います。

 絶対にやらなければいけないようなことがあったら、必然的に他のことは順位が落ちてくる。そういうものがないのであれば、続けてやっておけばよい。その期間にかけた気力とか体力とか次に生きてくる。テンションが落ちてしまうのが、体にも心にも一番よくないと思います。それをきちんとつないでいくことをやってみてください。

 

○役者声

 

 人間の心に響かせるために、どうするかということ。声はそれを活かすにも妨ぐにも最大の要因ですね。楽器だけでやっているときれいなのに、声を入れるというのは、必ずしもよくなりません。きれいな声だけがあって変わるのではない。トータル的にどう見るかということです。

 かつては、「役者声」というのがありました。聞くなりに「この人は役者」という声があります。黒澤明監督の映画の俳優などの声を聞いてみてください。日本の女優さんはちょっと違う声でつくってもいますが、美しい日本語の話し方です。

 昔は体育館みたいなところでやらなければいけないことがあって、現場で体に入れる声が必要でした。今はずいぶんなくなってきました。新劇などでは残っているでしょうが、そういう声です。

 

○声楽以外の声

 

 「ハイ」。こういうような声を100回できたからといって歌い手になれるわけではないけれど、声として深めるという意味でベースとしてやります。ここに基本があるから、役者や声優がくるわけです。声楽の発声だけでは、万全でないのです。一般の人が来るのもそうですね。

 ポップスのヴォーカルの学校で発声を教えてくれるところには、歌い手しか行けない。今のここは、半分はそれ以外の人です。エスニック関係の人も多くなっています。

 声優さんは昔からいて、ここに求めるのは、声のことです。声優の学校では教えてくれているようでも、声そのものは扱えていない。実際に仕事となったら、長くやっているベテランは迫力がある声が出るわけですね。そういうのがなかなか出ない。無理すると喉をつぶしてしまいかねないからです。

 

○感覚から変える

 

 まず高い低いでとってしまう。強くとるべきなのに長くとってしまう。それは日本人の感覚として、仕方がないのです。

 発音の前に、文化の差みたいなものが表れる。歌い方だけで、日本人だということは、ほぼわかります。韓国や中国のロックではわからない。やや子音が目立つくらいの差。日本の場合、強弱をつけられる人があまりいない。ほとんどベタ伸びになってしまっています。

 

JPOPSの発音

 

 息の中に音色が動いているわけではない。その辺は仕方ない。それは単に音を当てるための処方です。英語で喋っていても同じです。英語で喋っているものの、実際の動かし方はカタカナ。日本のラップも間延びを嫌って、ひとつの中に音にいくつかの音をつめたしますが、つめても連符になって、頭のアクセントになっていたりします。

 

○調整しない

 

 調整するのは、「明日本番ですけれど、うまく声が出ない」というときですね。付け焼刃で、エコーをかけたらもつようにカバーします。対応しなくてはいけないことも多いので、実際にやる。それをやったままでは、そのために先に行きようがない。日本の器用なプロが決まってぶちあたる限界、そこにトレーナーも気づいていない。

 その辺は声楽のほうがきちんとしてします。ポップスの場合は、手前でOKとしてしまう。声楽の場合は、これではOKと言えないとわかるからです。

 

○声が墨

 

 画家でいうと、誰の画風とかいうこと、それを確立していくこと。せっかくイメージがあっても、声で筆が走らなければどうしようもない。その分、声を扱えるようにきちんとしていくこと。両方伴って、総合的に伸びていくのです。

 

○声とイメージ

 

 イメージがあったとしても、声が伴わなければダメ、高いところの細い声というのを、マライア・キャリーはできるかもしれないが、俺にはできないという限界がある。声にできるところまでしかイメージも反映できない。

 イメージは、豊かなほどいいです。実際には、声にどのくらい応用力があるかとなります。

 声があるから、さらにイメージが湧いたというようなことはありますね。声があるよりもイメージがあるほうが強いということをよく感じます。いろいろな音響で声は加工できます。だからこそ、イメージという、その人独特のものが大切なのです。

 

○コピーの限界

 

 最近は、プレスリーやビートルズそっくりにやりたいという人もいて、トレーナーと相談しつつ、受け入れています。20年くらいやってきた人には、すごく完璧なものを期待されているからです。

 ゼロからやるのならできるかもしれない。でも20年歌ってきて、そうなれなかったら、それ以上に近づけないこともあります。とはいえ、大体は、若干、直せるのですが。もっとも高い完成度を求めると、人をまねさせるには限界があるからです。

 ただ、考えが少し変わった。ポップスでもクラシックとなる時代、まねて継承するのも一手だと。

 

○ナツメロ・ノスタルジー

 

 年配の方が「昔の歌を歌いたい」とくる。トレーニングだったら、古い曲でもよい。ただ向こうの人たちは、年齢に関係なく新しいものをやっています。どんどん新しいことに挑戦して、今の世界のこと時代のことを、今、歌う。

 日本の場合は、何となく昔のヒット曲を昔のメンバーと昔の客でやっています。ノスタルジーで使うだけではもったいない。まだまだ60代、70代もいろいろなことができるのです。「昔はがんばっていていい時代だった」と、そのままそこに入っていってしまう。同窓会、OB会では、批判はタブーでしょうけど。

 

○ジャンルの弊害

 

 音楽を分けるのは、あまり好きではないのです。それで守られている分、ダメになっていく。演歌もシャンソンも、発祥した国でも、すでに似たようなものだから、何とも言えないのですが。既成の形を崩していくことが、アーティスティックな活動です。そこまででなければ、声は必要ないというようにも、ときに思います。

 

○日常レベルの向上

 

 丁寧に声を使おうとすると、相当、声は直ります。誰もがレッスンで経験することでしょう。しかし、体の余裕が出てきて初めて、本当に、よくなります。私がサッカーをやるよりも、他のプロスポーツであっても、現役選手がサッカーをやるほうが強いのはあたりまえです。それは、アスリートとしての体の基本が共通しているからです。広範なフィールドで集中して、常に体を動かしている日常レベルでの差なのです。

 

○体からの声

 

 声域の2オクターブは、発声練習の前倒しのようなものです。やってみるだけで、レッスンの中心ではありません。体から声をつけて確実に息で声にしていって動かしていくプロセスのあと、声域へ応用されていくのです。

 アマチュアの人は体をつかったり息を使ったりしても、そこで声にならない。息や体だけ使っても、声に結びついていないのです。声に結びついていくこと、息と体を得て使っていくという、その瞬間を捉えるレッスンが必要です。

 

○結びつく声と体

 

 体と結びつかない声は動かせないです。大きくは出ますが、動かせない。芯がないと線が描けません。☆

 クラシックでは、どうしても最初は力が入ってきてしまうのは、そのためです。必要悪と私は言っています。こういうふうに歌いたくなくても、2オクターブも声量もとろうと思って体から歌おうと思ったら、無理が働く。

 

○ベースの声

 

 その人のベースのところから出てくる声。それを私は、声楽とかポップスとか分けていない。役者のも分けていないです。その人の体で原型のところから、半オクターブでも対応できない声で、やたら声域を広げるから日本人のクラシックのようになってしまう。1オクターブくらいまでなら、役者のような声でも、もっていける。

 そこにリズムが入って、デッサンの世界、ひとつのかたちがみえるときに変じて飛べるかです。ベースのあるヴォーカルは、息とリズムが聞こえる。

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