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評価 No.281

○評価

 

 どんなことでも、今の自分がすべてわかるわけではない。歌でも、パッと聴いていいと思って、23年経ったらつまらなくなってしまうこともある。最初に聞いたときに全くいいと思わないような声が、何年かたってよくなることもある。

 世の中で評価されたり世界で一流といわれたり、国を越えて世界中の人が好きになったものというのは、そういう思いを抱くようになった人がたくさんいたということ、それで、日本にも入ってきています。向こうで売れて皆が知っているような歌は、それなりのものがあると思っていい。自分がわからないからダメということではないのです。自分の能力以上の人とか作品は、評価できないものだからです。

 

○マックスから

 

 もっと声が出なくては歌えないとは思わない。あえてその人がその状態を、さらによくしたいのであれば、マックスにしてみる。その上で、構成で見せていくとかマイクを使ってみせていくということにするとよい。そうでないにもかかわらず、無理をして喉を痛める方向に持っていくのは、ヴォイストレーニングには逆行することです。

 そのことによって何が得られるか、失われるかということをつめてみる。状態が悪いということは不利です。それで何が獲得できるかです。将来的にも悪いというのだったら、よく考え修正するべきです。

 

○将来的にみる

 

 ヴォイストレーニングからいうなら、今できなくても将来できればいいことを目指す。実際の現場では、今月よければ、来月は悪くなってもしかたがないというときもある。そういう状態としても、何が得られているかということです。

 

○安定と不安定

 

 艶のある声を出したいなら、わざとらしくないようにそうしてみる。動きがわざとらしくなって、そこだけを動かして、ぶつっと切れているのでは、次のフレーズも歌の流れもできない。

 歌をきちんと歌おうとしたら、目いっぱいには歌えない。比較的、歌に聞こえたところは弱くしたところ、ベースの延長上で強くしたり裏声にしたり、変じたところです。

 喉について安定できるところが、そこしかなかったということです。他の部分は、喉に負担だったり、スムーズに入れなかったり、咳払いをせざるをえなくなっているような状況をつくってしまっている。要注意です。

 

○無理しない

 

 ステージのことは、私はそんなに気にしないのです。無理なことを練習というかたちでするくらいなら、練習をしないで、ステージで、そういうかたちをとるようにしたほうがよいと思います。くり返すと喉をやられてしまう危険があるときなどのことです。

 

○固執しない

 

 声のトレーニングで、たとえば体から息を吐いたり、「ハイ」とやるとしても、最終的にうまくいく人は、それを体でやろうとか息でやろうとか思わない。どこかでは音楽になる、音楽の動きの中に使われるという意識を持っていれば、危ないことにならない。そこを見ないで、声や息のことだけを見ているから無茶をする。体だけ見て、もっと強く使おうなどとやってしまうと、傍目から見てもおかしくなる。何でそこに固執する必要があるのかというところに入ってしまうと、しばらくは抜け出せない。やりすぎならよいが、方向違いになりかねないところがありますね。

 

○連関性

 

 歌うのに、声の状態を悪くしてしまうのは、まずい。音楽においては流れが消えてしまったら意味が伝わらなくなってしまう。その流れが見えない。あなたが強く出した箇所は、流れにのっていたり、あるいは流れから一瞬はずれていても、次からは戻せるところでしょうか。その、連関性によって、歌の成立は支えられているものです。

 

○拡大する

 

 聞いたことがない歌でも、きちんとつめて、歌い手としての感覚の中で進めていくと、価値観の違う聞き方になる。1行1行、大切に、音楽や歌というよりも、祝詞や読経などの形式もあるかもしれない。あるいは役者としては1行1行読み上げていくやり方があるかもしれない。けれども、声の動きに気がいくと、声自体を強く使いすぎる。柔軟な動きの中で、その動きを拡大してトレーニングする。失敗しても、そこからわかっていけばいい。最初から、その動きの上でないところにぶつけて、まくしたてているのでは、よくないと思います。

 

○プロセスを踏む

 

 ここの中で出した声と音楽を自分の中で活かす。フィードバックして聞いて、その前のものにのせて、次のところをつくる。それがどういう変化をとったら、次のところにどう落とすか。何かしら核があって流れがあるのを踏まえます。

 体で出して、どんどんいっているようなイメージになると、聞き手は声を出していると思うし、音楽っぽいものをやっていると思うけれども、実際にはそこに音楽は聞こえてこない。ピアノを力いっぱいバーンと弾いているようなものでは、単に楽譜を音に移し換えているだけかもしれない。自分の呼吸や声をコントロールする感覚のところに、そのメロディなりその音楽を処理しているプロセスが消えてしまわないように。メロディがおかしいとか音程や発声がおかしいということではない。そこの距離のとりかたの問題です。なぜそういうふうな音楽が生まれたり、なぜそういうふうになったかにあたるプロセスが必要なのです。

 

○変化する

 

 多くの人がそうやってコピーしてしまう。プロセスがなくて完成したかたちにする。まねるなという。歌い手が出した形だけとり、全てを失くした。変化の前の感覚に沿って動いているところに音楽がある。変化させたのは、たまたまそこで長くなったり短くなったりしたからかもしれない。それが歌い手の呼吸や音楽の動きにあっているなら、聞き手は納得できる。そこのプロセスがなくて頭で聞いて、こういう音と決め付けているものは、それだけのものですね。☆

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