「枯葉」 No.283
○「枯葉」
「枯葉」は平坦になりやすい曲で、難しいです。成り立っている部分というのが、「ホ」のところまで、「ソング」あたりはいい。表現として自立できているということです。最後の「fall」のまとめかたがよくない。
テンションを上げて入るべき歌ではありませんが、きちんとして整理していかないと難しいです。よくなかったのは、「since」、「the days」から「long」、「then soon I’ll hear」、「old」から「winter」に入るところも、厳しいですね。
○シンプルに
変な色のつけ方や、フェイクとか処理、音をゆらしてみたり、ずり上げてみたりずり下げてみたりしないこと。そういう技術っぽいことは、技術っぽいと見られるとダメでしょう。お客さんがそういうところで拍手をしていたりすると、わからなくなっていくのでしょうか。
レベルの高い人たちが、こういうことをやっているかどうかというふうに聞けば、どうなるかということもわかります。実験としてはいいのでしょうが、シンプルになっていないのが気になりました。
○伏線
ギアを変えるのはいい。一連の流れを、何かを際立たせ、どこかで収めなければいけないということでのできです。エンディングもです。
おかしくするのはかまわない。そこからヒントを得る。個人の好みもあります。全体の呼吸や動きにのっかったところに働きかけていないと、こちらには届かない。やってはいけないということではない。プロもやっている。
プロは無理に大きくしたり強くしているのではなくて、そうなるべき必要性を伴うべく、伏線を張っている。二段、三段構えなので、落としません。表現に対する呼吸を持って、結果的に強くなったり大きくなったりしていると捉えていたほうがいいと思います。
○全体でみる
全体の流れからは絶対に崩さない。たとえば7割ぐらいまでしか崩すことを許されないところには、6、7割で止めている。それ以上ということになると、次のフレーズが成り立たなくなってしまう。常に全体の中で、流れを優先しながらどこまでやれるかということです。
課題ですから、100パーセントで上げて、次のところがグタグタになろうが、ブレスが間に合わなかろうがかまわないです。ただ、結果、何もやらないほうがいいことも多いのです。どの辺で調整していくのかということだと思います。
○決まる
どこをどこまでコピーをとるのかというのは難しい。声量とか音色、フェイクをコピーしようと思ったら、おかしくなる。踏み込んで、その後にそれを大きく膨らませ、1、2と2段階くらいで着地したと。ジャズでは、多くの人がそれをそのままやろうとしてしまうのです。元の歌い手にとって、そうなってしまったのは、多くの選択のひとつでしかない。結果、どうなるのかはその日の体調や感覚だったりする。歌っていくと、今回はこれで行こうかというところへ落ちる。
3回弾むのではなくて、1回だと決めたということは、そういう歌い方があるのではなくて、その歌い手の中での呼吸から声の動きの中で決まる。この曲の一番伝えたいものを、そうやったということで、同じにとらなければいけない規則はないのです。
○組み立てる
そういうものを聞いてしまうと2倍にしたくなる。ここでもうひとつできるぞと3倍にしてしまったりする。そこは本来、そうあってはいけないことなのにです。何かの弾みの後に、ポンッとボールが跳ねるような余力でやるようなところです。その余力のところを2つ3つと、さらにやってしまったら、バランスで崩れています。歌ではなくなってしまうのです。
無理に息をもってきて配分を変えて、まねてやってしまっているのがみえる。メロディもリズムもどこが中心なのかわからない。ここは動きをつくるところなのか、それともつくった後に遊びとしてあるところなのか、何一つ決まっているわけではないです。その日の気分、感じ方によっても動きは違います。それを常にうまく組み立てる術をもつというのが、プロの歌い手です。
声は声で伸ばしておいてほしいのです。展開とか構成みたいなことをどこまで読み込めるかが、その歌い手の能力です。
○古い
客とのかけひきで、歌い手が呼吸を変えた、何かをやるぞ、ああやったと。呼吸が同じで、同じように盛り上がり、収めてくれる、そういう伏線をはり、そういうルールを守ったほうがいいですね。
そこについては、厳しく見ています。こういう歌はそうしないと、何も言うことがなくなってしまう。こういう歌は、古い歌ですねとしかいいようがない。古く聞こえる歌ほど難しいです。
こういう歌のほうが、はっきりと言いやすいですね。今風の歌やJ-POPSを持ってこられるよりいい。違うと思っても、それを伝えるようには、なかなか言えないからですね。違うといったら意地悪のようです。一つひとつの音に対して細かく判断しても、頭からダメだということでは、いつも、苦しみますね。
プロの人には、とても言いやすいです。向こうもわかってくれる。迷っていても、自分で知らないうちに悪くなったというのは、聴けばわかる。
そうでない場合は、発声だけをみるのでもないかぎり、歌についてあまり言わないようにしています。意見が世代の価値観の相違のようになって、違うと言ってしまったら、どうしようもなくなってしまいます。
○「部分的に」
部分的にというのが成り立つのは、どこかがいいのに対して、どこかが劣っているとか、本来こうできるはずなのに、そこをやっていないとか、両方の比較があっていえる。悪いとばかり言っていると、どうすればよいかわからなくなってしまいます。何をもって悪いというのかを明確にしない限り言わない。
起承転までのところはひとつの部分で、結でまとめなければいけない。「はじめて」というところはいい、「だよ」というところの終わり方に対して直す。
○かたち
歌というのが難しいのは、気持ちがのっても、3ヶ月で終わりになったり、6ヶ月で終わりになったりする。1年経ってからもう一度といっても、ダメになってしまう。それに似たような崩れ方をしました。構成はわかっているし、歌の置き方もわかっているのに、なぜ、新鮮にさわやかに聞こえなかったのかということです。
この手の歌はその辺がとりえです。新鮮さを失っても、もつ。でも、プロが歌うには難しい歌です。かたちをつくって演じてしまうと別ですが。なかなかこのかたちをつくりにくい。この内容とこの音の広がりみたいなものを処理する。役者がやっているようならいいのです。けれど、この歌の音楽としての味は死んでしまいます。
○フレーズ処理
「たとえ今は」から、音が若干狂っています。全体的にトーンダウンしたようなイメージになっているのです。「遠くはなれていても」の「は な れ て も」、それから「ひとつの」のところの「つ」から「の」ですね。「愛」はいいと思います。「涙」も崩れている。「この胸に感じる」のブレスは変えられたのではないかと思います。
「遠く 離れていても」、それから」「いつでもこのことは忘れないでいて」、この3つの山に対して、平坦になって、「でいて」でずれている。それをひきずったようになって「あなただけを」というのが平坦になって「思っている」は動かしているけれども、「この熱い」というのは崩れて、「愛を」も平坦になってしまっているということです。
「たとえどこにいるときも」、それから「何を」は、ひっぱりすぎというか、ひきずりすぎている。意外とサバサバと歌っていかないと、メロディとか内容のよさが伝わりにくい。
○感情移入
客観的に突き放して、何の感情移入もしないように歌っていながら、ちょっと肝心なところに入れるくらい、そのくらいで、十分なくらいに伝わる。それをメロディや歌詞を大切にするということで、それ以上に歌い手が声でどうしようということを入れてしまうと難しくなってしまいますね。流れてしまうと、もっていかれなくなってしまう。感情だけに走り過ぎないように。そのことはわかっていたと思うのですが。感情移入したのが悪いのではなくて、音のもたれとかべたつきということですね。すごく感情移入してこれを歌ったという人もいたと思うのですが、そういう意味での悪さではないですね。
○入れ方
流れというのを考えてみましょう。音響の性能がよくなっていくにしたがって、生まれ持っての声が問われなくなって、発声も問われなくなっているかのようです。
映画の音楽でよく使われているものは、その映画の中にきちんと歌がはまっています。うまいとか下手とかでなく、心地いいと思わせる。
昔はゴスペルの人しか歌わなかったようなものも最近は全世界で歌っている。発声や声からいって、それぞれの味はあります。日本人があのレベルのことをできるのかというと、あの流れの中では我々は歌えないですね。
どこかではみ出してしまったり、どこかで声を荒げてしまったり、どこかで入り損ねてしまったりする。そういう入れ方に近いのかもしれない。
○音楽性
全体の流れをきちんと知り、自分の音楽に対して、声量に頼らず、きちんと組み立てていく。すると、落ち着いたサウンドになる。向こうのラップを聴いていると、BGMでも気にさわらない。日本人のを聞くと、英語なのに日本語に聞こえるというのもある。英語でやっても、落ち着きが悪い。ドタバタして、一生懸命に何かを言っている。言っているということしか聞こえなくて、繰り返し聞くと疲れてくる。音楽性とは、音楽の流れに基づいた声の見せ方や処理のことだと思います。外国人は、ラップや小さな声で歌うこともうまい。
○組み立て
バンドの人も、ピアニストやギタリストがたまに歌うのです。ヴォーカルのようないい声ではないのにうまいのです。下手ではないのです。うまい、下手と思わせない。声量や歌唱力のことばかり気にしていたから、下手でないのはなぜと思ったものです。うまくなかったら下手なのですから。ミュージシャンだから、当然、リズムも音も外さないです。でもその他にも、組み立てができていたのですね。そういう歌い方を目指せということではない。
今はそういう見方をされます。まったく下手なのは別にして、教えやすいというのは、1オクターブしか出なくて声量も出なければ、固定していくだけだからでしょう。それによって音が外れるということはなくなっているのです。
○駆け引き
カラオケで、声の出ない人は、下手にはならない。ぼそぼそと歌っているので判断されない。正直にめいっぱい歌う人が、ど下手なわけです。なかなか体から声を出せないものです。
本当のことをいうと、声は体から息とか流れにのせているので、両方の要素がほしいです。メロディどおりに歌う。そこで何かしら新しいものを起こすためにパワーが必要です。最終的に、うまかったと思わせるには、駆け引きがいります。音楽やバンドの駆け引きができて、セッションができていなければもちません。
○納める
「サックスやトランペット、セッション楽器と一緒に勉強しなさい」と言われて、トロンボーンとサックスをずっとヴォイストレーニングでやっていました。声でセッションが伝えにくい。サックスは音というのを、どういう音色でおくか、同じフレーズを自分の音色をどう出して、それをどうつなぐかを学ぶ。ピアノよりもわかりやすいわけですね。トランペットでもそうでしょう。こういう動かし方をするのは、これしかないという色とため、それを皆、持っている。そういうことでは、声はもっと自在にやれるから難しい。
声自体が一人ひとり違う。自分の声がトランペットだったらどう吹くのかというような問いからです。そうなったときには、何でも吹きまくればいいということにはならないはずですね。どこでどうやってどう埋めていくのかということを、はみ出していいと思いますが、きちんと納める。
○わかる
きちん納め方というのを、マスターしておく。語尾とエンディングは、ヴォイストレーニングのベースのこととつながってきます。若干でたらめでもそういうところが納まれば、聞いてもらえる。うまい下手の判断は、声が雑だとか、声が割れてしまったとか、そういうところで見られる。それを見せないようにしなければいけません。マイクにエコーがついたらごまかせますが、マイクを使わずそれを見えるようにしています。
私が期待するのは、アラを見えるところで見えないようにする技術をきちんと持つということです。エコーをかけたら、こんな厳しいことは言われない。専門家でないとわからないほどの緻密な問題でなく、これは、大きな問題です。
カラオケでやっていたらわからない。アカペラで歌って自分で聞いてみたら、わかることです。そういうところを反省してやってみてください。
○人前で
ひとつの目的は人前でやることです。人前でやると感覚が変わる。張り上げて歌っていたのに、人前に出ると、もっと伝えたくなって、柔らかく丁寧にしてしまう。そのことで直っていけばいい。
急に直していくと、呼吸と体の原理から、それてしまう場合もあります。体験してもらうのが一番いい。ピアニストや伴奏をつけてしまうと、違う感覚が入ってくる。それもいい経験なのですが、自分のものを確立して持っていないと、振り回されてしまいます。
○効果づけ
最初からピアニストをつけてしまったら、ピアニストの演奏にのっかってしまうだけです。私はいろいろな人で経験しています。
アカペラでやれば自分でわかっていく。ピアノやバンドがついて、雑になってしまう。お客さんにはわからないかもしれない。それゆえ自分を伸ばすトレーニングの場としては、よくないことです。そういうところから、自分でチェックしてみてもいいと思います。
とはいえ、アカペラで聞くとだめでも、加工をかけ、音質を変えてみることによって、うまくできるケースはあります。ごまかすということではなくて別の意味での効果が出てくることもあります。
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