直せる No.285
○直せる
宝塚でも、三代くらい前の人にはかなわない。できて50年くらいにピークがくる。そこを出身の人から演技や歌唱指導を受ける。
今考えると、単純で、1曲聴いたときに、私のベースにしているのは、自分がどこまで直せるかということ、それだけなのです。
たとえばこういう歌は聴いていると、価値観は違うとしても、50も100も直す箇所がある。こういう人がレッスンにきたら成り立つかどうかわからない。それは当人の好みが客や周りの好みですから。たとえばこの4曲の中で、まねの強い部分と個性的な部分がある。それがデッサンとして明確なかたちで個が歌を従えているかというと、逆なのです。歌に従ってしまっているわけです。それでは創唱した人にはかなわなくなってしまいます。
○情緒とメロディ
日本語がいいという人に原曲で聞かせても、日本語の歌のほうがいいと言うでしょう。それは日本語の情緒性、なぜかクラシックも情緒的なのです。
日本人の捉えるところは、モーツァルトでも何でも日本で流行るものは、メロディです。メロディがいいということで好むのです。複合的な構成や展開や、和音とかは誰も取り上げない。フランス人の好きなモーツァルトと日本人の好きなモーツァルトの曲の順番は違う。向こうのほうが優れているとはいいません。日本人が何にひかれるのかを知った上で、もう一度見る必要がありますね。上から見た上でもう一度降りてくる。日本人は情感が好き、情感をたっぷりとことばに込めて歌うというのが好きなのだと思います。
○古典を
若い人は古典にさかのぼらないのでしょうか。私の若いころは、いいと思ったら、原曲は誰が歌って、その次は、とルーツを求めていきました。いろいろと聞いて判断する。大体の場合は原曲のほうがもっといいのです。
○はまる
はまっていくことで上達するのはいいのです。ところがはまっていく上達というのは、ひとつの中でまわっていきますから、出口がないのです。そこを突き放して、心地よくなっている自己を否定していかなければいけない。それをより高いレベルから見たらどうなるのかと、違う可能性はどこにあるのかという見方をしていかなければいけない。どの世界も、はまっていくとだんだん見えなくなってしまうのですね。はまっている状態なのか客観視できる状態なのか、よく見なければいけない。
○立場
ファンがはまっているものには、なんともいえない。この人をまねたいと思った人のトレーニングを引き受けた場合には似たことになります。トレーニングに関してのことです。カラオケで楽しんでいることや、ゴスペルで楽しんでいることに対して、どうこうということはありません。常に立場の取り方というものがあります。
それぞれのスタイルがあれば、どれも勉強になると思います。ここでこういう人がいたら、どう思うか、きっとうまいと思うのですね。
○リズム
外国語、歌唱のメロディ、リズムの取り方ですね。それを外して歌える人はあまりいない。日本のラッパーでも、メロディがないだけでなく、リズムがないから、業界の人はよいと言っているのですが、それまでひどかっただけです。
よくなったということは、リズムに快感が出てくるのですね、リズムを刻んでいるとかリズムに合わせて歌っているということではない。シャウトに新しいリズムが生まれる。そこを超えないと、認められないわけです。エコーをかけるようになってきてから、さらにぼけ始めた。
オークラに、ある医者といたら、彼は本に革命をおこす、義憤で行動していますと言われた。そういう怒りみたいなものがなくなって、歌の説得力もなくなってきている気がします。
○笑い
M1グランプリの話、去年までだったらトップをとれているのを、まったく1からやり直しというかたちでつくってきました。関西系の審査員というのは、西の方に対して好感を持ちますよね。何をもって笑いというかという定義が違うというか、独特な部分があります。上位の3、4組のエネルギーは、ひとつの怒りです。それは世間や体制に向けてというわけではないのですが。
○代々木
この辺は、5月にはメーデーのころになると警備が強くなります。今の代々木は、山野の美容とアニメーションの街みたいになっていますが、かつては代ゼミの、その前は共産党の街でした。今でも街宣車が来ていますが、日本ではデモはなかなか起きない。
海外では、すぐに考えを行動に結びつけるでしょう。そのことと歌が結びついていたのが前の世代です。私のころには、学生もちょこちょこてんぱっていましたが、怒りということではなくて、イベント的な感じでした。
○団塊世代と今
団塊の世代で、集まる人たちがいるから、あの時代のアーティストは食べていける。古い歌を歌っていける。それは悪いことではないのですが、新しい動きが出てこない音楽や歌に関して、守りに入ってしまいました。
丸山さん(元ソニーの方)が、mF247という配信サイトから出そうとしたのに、向くのが沖縄のほうになってしまった。
日本のオリジナリティというと、もはや島にしかなくなって、それというのもプロデュースの延長にすぎないのです。
発掘してあげるという動きでは、新しいことをやるといって限度がある。既存のルートに対し、ネットでいろいろなものは出せるし、イベントもやりはじめていました。新しい知人に送れるようにするのも、ネットの使い方ひとつだと思うのです。けれども、エネルギーのもつものが出てこないと、テレビと同じような感じに終わってしまうと思います。
○ベースの力
編集部から頼まれてたのは、「なぜ、歌のうまい日本人の歌い手というのは、人の歌を歌うとあんなによくなくなってしまうのか」と。なるほど、そういう感じで見ている人もいる。わかってはいると思い、引き受けてみた。変に新鮮だったのです。
日本の場合は確かにそうです。ここにきて、ある歌手が好きでたまらないという人がいて、ここで勉強してコンサートに行ったら、ヒット曲以外は聞けなくなったと。アーティストに対する評価は、そんなことで変える必要はない。活動をしていることが実績だからです。ただ耳が鋭くなると、どのくらいできないのかというのは、わかってしまうくらいになる。
アーティストが、そのくらいにわかってしまうというレベルでやれてしまうのが、日本の音楽のレベルですね。声に関してということであり、その分、他に深い才能が秘められているといえるのですが。
海外の音楽のアーティストはわからない。パッと聞いても、どう入れるかどう直すかわからない。やってみたのがいいところに落ち着く。好きか嫌いかはあっても、何かは言えない。それはそれの完成度を持っている。それが作品だと思います。その辺は、まだまだ日本は甘いのではないかという気がします。
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