課題 No.287
○課題
このリズムの上にこういう歌詞を成り立たせようとするのも、一生の勉強だと思います。そのことができないと歌えないということではない。そういうものを一本走らせた上で、歌は歌で切り取って、作品として作っていくのです。それはそのときにできる範囲でやっていくしかない。ただ一本どこかで走らせておかないと、歌い手はうまくこなせてから課題が見つからなくなってしまう。ほとんどそうなのです。課題は、本当はいっぱいあるわけです。ただそれを自分の中でごまかしてしまうわけです。
○怖さ
下手に見せないように、うまく見えるように、格好つくように、お客さんに見せる、そこは余興でやるべきところです。本質の部分を見せていくには、余分、邪魔。落語でもお笑いでも、呼吸ひとつでも外してしまうと、せっかくのネタが全部ダメになって、マイナスになってしまう。
その怖さが、音楽にないのはなぜでしょう。ミュージシャンの場合は、その人に徹底して音楽が入っていたら、OKになるからです。何をやっても音楽というならよい。しかし、歌では、そこが一番難しいと思います。日本のように、いい人の歌を歌ってしまうと、わからなくなってしまう。ふつう、自分がいいと思うものを、いい気持ちで歌っていると音楽や歌にならないものなのに。
ということは、自分の音楽や歌がないというふうに見て、それを育てていかなければいけない。そこからが、ひとつのスタイルになっていくものです。
○スタイル
歌い方がどうこうということではない。こう歌われてしまったら直せないでしょう。この終わりのところをもっと抑えてゆっくりやってみたらというようなことはいえないわけです。どこか直したら、もっとひどくなってしまうわけです。それはひとつのスタイルです。お客さんは舞台として見るから、客層によっても違ってきますね。すべてに対して万人に対してということではない。誰かにはすごく意味のあることでいい。誰かにはまったく意味のないことでいい。それでいいと思っています。
ただ少しでも汲み取れるのであれば、昔のもので今やっても古くならない、何かしらインパクトがある、変わっているとか、絶対まねできないもの。そういうことから学べるものは、無限にあると思います。
○喉声
最初は、喉声っぽい癖をつけるということで、あまり使えなかったのです。最近は歌い手に喉声というのはなくなっているのです。
声楽家でポップスを歌っているような人は、四季なら活躍できると思ってしまう。ということは、共鳴を統一させて歌うということが、すでに古くなっているような気がするのです。
海外のアーティスト、アメリカやイギリスも、そういう影響下にない。ロックでもパンクでもそうでしょう。拡散して歌っているような中でも、音がとれて、音色が出て、音色が刻めている、その部分でやっている。
ただ日本人がそれをやると、喉を痛めてしまいます。どうやって流れにのせるかというような問題になってくるのかもしれません。一昔前の人のほうが、そういうものはもっていた.
高音部に関して、声楽を勉強して美しい歌声にしても、全部がそういう処理法では、同じような歌に聞こえてしまう。飽きさせる原因にもなってしまう。
浪曲や民謡のほうが広がりが大きい。声楽の部分を使って、中声的な声で裏声にもっていく扱いをしていく、そういうところに頼るものの怖さと、落ち着かせなければいけないところでせめぎ合う。どうやって歌うのかというときに、何かしらそういうものを持っているとこなせる。こなすだけではダメということになると難しいからです。
○オリジナリティ
そう歌ったところで、誰が認めるのでしょう。オリジナルのものというのは、よっぽど強さと感性度がないと下手だとしか見ません。認めてくれない、その歌い方をやめたらといわれる。日本のような国では、特に難しいと思います。
何人かいるのですが、大半、向こうから来たハーフの人。それでも認められないというのは、歌と音楽性にあるのでしょう。
業界は、若い人に対してという基準があって、それを破るのは難しい。いろいろなものを見ていますが、どうも私の耳でいうと、音色やオリジナリティのところで同じような傾向になっている。未熟で抑制するのがいいと。
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