「状況と日本の宗教と世間」
状況に流されてはいけません。しかし、おかれている立場で、考えるということだけでも難しいのに、そこでおかれている立場を考えない判断ができるのかというと、かなり難しいことではないでしょうか。
個人―外ではなく、(自分―内)-外と、家や会社などの所属集団が自分をみえなくしているところでは、状況に流されないことは、ありえないのです。自分と内社会が対立しようがないからです。自分の状況は、個人としてあるのではなく、内社会そのものであるから、判断は常に状況に流されているともいえます。
日本の宗教もそう考えるとわかりやすいと思いました。そして、その宗教がみえないまま、世間となり、強い同調圧力となっているのが、いつもの日本なのでしょう。いや、その傾向はまた、ますます強まってきているようです。
| 固定リンク