「ネットと世間と師」
世間も組織もネットも、責任を取らないところから発言されているということでは、本来、もっと無力のはずですが、日本では、同調圧力となって、しばしば個人を圧迫します。
世間というのが、庶民、大衆の声、声なき声というのでなく、集団的なもの、漠然としたものとして成り立ち、相手にするにも、ただよう空気や引きずり込まれる沼のようなものとなっているのです。
師弟なら師が責任者、ゆえに師の許容したなかでは、無茶を言えるのです。突き詰めると、コミュニティにおける権限と責任の問題です。そこから、このネット社会を考えることが必要だと思います。
世間というのは、誰がどう決めたか、そこに個人がいないか見えないから、責任の所在がないのです。それは、つまり、自立した人間の社会らしからぬと思うのです。
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