内なる舛添たるもの 2016/06/28
一人の人間を評価するとき、まして、「やめろ」とその地位、役職を奪おうとするなら、何をなしたかをプラスマイナス両面からみて比べる必要があると思います。マスコミは、マイナス面しか出してきません。彼が何を新しくなそうとしたのか、なしたのかは、ほとんど伝えられていません。とりあげられるのは、慣習であった経費のムダ遣いだけ、それは政治家を判断する指標の一つにすぎません。
公私混同が、彼はせこいからだめで、石原元都知事のように豪快だったらよかったのでしょうか。もちろん、その対応の見事なほどの最悪の連続出しは政治力、リーダー力ゼロを暴露したのですが、「東京都知事がエコノミーにのれというのか!」と一言で恫喝しておさめたであろう石原氏に対し、氏は東大法学部出身らしい対応で正しさにこだわったあげく、最後は撤退、方針転換。
それよりも、かつぎあげてはいけなかったものを安易にかつぎあげては、守りもせず放り出す自民党、批判がくると、選挙に影響すると、同じ理由で、リオ視察をやめた都議員全員、結局やめるくらいに不要だったわけで、いや風向きがかわるとすぐに決定を翻す、全員一致、そういう根性のほうが、せこいどころか、さもしいと思うのです。選挙のため、即得権を守るためと。一人くらい東京のオリンピックに視察は不可欠と、行く人はいなかったのでしょうか。
私は、30代からグリーン車に乗っています。その頃は、個室があり、移動中に、生徒のレポート200人分を読むか、本の1章分を書くのを自分に課していました。仕事をしないときは、普通車にのりました。充分な睡眠が必要なときはグリーンにしました。会社の経費ですから、税金とは違うのですが、普通車に乗るのは、いつかグリーンに乗れない日がくる、そのときに苦労を感じないようにぜいたくすまいということが、どこかにありました。私のところには、金銭的事情で深夜バスや車で高速を使わずくる人、特急でくる人などもいたので、新幹線に乗れるだけでありがたいという気持ちもあったのです。私ごときがグリーン車ですから、都知事がファーストクラスというのに私は反感はありません。その時間に私の数万倍のお金の用途や都民のためになるべく判断がかかっているとしたら、ですが。
いつも、守りに入っている人の害を述べています。すごく雑にいうと、もっとも貧しくがつがつしていればこそ世の中の変革のために賭けるべく使命に生きていける人の職です。公僕、政治家、官僚、公務員も芸人、役者、河原こじき、そして、マスコミ、TV局、新聞社、出版社などだったでしょうか。これらの仕事がいつしれず年収1千万円を超えるようになり、世襲にもなり、貧乏体験もなくなりました。楽で高給だから、その職を選ぶなら、損得勘定にしがみつくでしょうよ。
自力で頭を出し顔をつぶされ、嫌われたぐらいで何もいわず身を引かされた舛添さんはほめられたものでないが、私がもっと不快なのは、それをとりまいて正義づらしたり、売名したり、特権を得つづけている輩の方です。
舛添さんは、以前、「公僕がファーストクラスに乗るなどとんでもない」と批判していたのに、地位と権力を得たら、のっかった。のっけた奴は、誰か。誰もが心中に舛添なるものをもっているのです。そういう機会がきたら、のっかってしまうのです。そこで謝り方がよければ好かれ、謝れなければ嫌われ処罰、なんとわかりやすい、なんとなさけない。
団塊の世代批判といっていた私も、もはや批判される方に入っているのですが、若い人や子供たちにみせたくないほどに情けなく、それゆえ、きちんとみせておこうと思いました。誰もが他人事でなく、我内なる舛添なるものを反省すべき機会に思うのです。
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