03.思想・哲学・宗教

コミットメント 2016/05/25

「何もかも疑わしく思えます」という人に会いました。

すべてを疑い続けたら、あなたという主体もなくなります。何事も怪しいとばかりに考えていくと、新しく学べず、行動も伴わずに終わります。他人を嘲笑しているうちに、人生も終わります。無責任な傍観者、になります。

何かを信じる、感じるしかないのです。哲学から宗教へと変わるのです。

信じていなかったものでも、否定、反論できなかったら、仮にでも、受け入れていくことです。関心をもち、見守りつづけることです。

Commitmentは、約束、義務、責務のことです。そこには、信じ切るという宗教的ニュアンスがあり、身を投じ引き受ける、ということです。日本で使われるコミットメントとは、大分違います。

 

「世の中、よくわからない」といって、1903年、藤村操は華厳の滝で自死し、「人生これ不可解、我この恨を懐いて煩悶、終に死を決す」と遺しました。それに対し、原口統三は、1946年、「二十歳のエチュード」を残し、悟った」ように自死しました。

 

果たして、何が真実なのでしょうか。

1931年、ゲーテルの「不可能性の定理」では、いかなる合理的な言説の体系も自ら自身を基礎づけることはできない。どんな学問体系も、科学もまた、それが真理であるという確かな理由は存在しないことの証明が成されています。

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○悪人正機 悪人の自覚をもつこと

 欲を抑えるのでなく、中道を進むこと 「小欲知足」が最近、私のモットーになりつつあります。

 誰かにしてはならないと強制されるものでなく、これは自ら気づくこと、足るを知る欲のなかで生きることです。
 向上心も欲なのです。思い通りにならない不満から、相手を否定する、これも自己肯定からくる怒りです。
 それはエゴイズムであり、こうあるべきだとか、こうすべきだというのは、自分の欲なのだと知っておくことです。そうでないと、ただの憎しみ、怒りになります。
 働くのは、他の人のためになり、自分の益にもなることです。端(はた)を楽にすると、言われています。
 自分を省みる心を失わないこと、人よりましを増長させないこと、無償のことをすること、他人の命のために自分の命を投げ出すというと、仏の話のようだが、ときに人間にもいます。

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○正しい人

 いい人は、争いを招くものです。そういう人は、自分は正しく間違ったことはしていないと思うから、意見を変えられない。つまり、人と対立してしまいます。「正しい」というのは、自分に都合のよい考え方に過ぎないのです。「なのに」とか「だから」とそこにつけてしまうから、自分の非を認められなくなるのです。自分の都合を押しつけると、必ずどこから都合の悪くなる人が出ます。いい人は、善よりもいたらなさに気づくことが大切でしょう。

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○他力本願

 「人間が努力して仏になるのではなく、仏がその人に仏になってくれ」という。
 阿弥陀の本願、願いの中に、あらゆるものを必ず救うことというのがありました。
 人間の願いを仏にかなえさせるのでなく、仏の願いを私が聞かせてもらうことが他力本願だと。
 私どもの業界も同じです。あなたが「アーティストにしてください」ではなく、私たちが「アーティストになってください」とお願いできるように、あって欲しいのです。そうあれば、あなたは、そうやっていけるのです。

 「筍(たけのこ)も名乗るか、唯我独尊」と「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の方より、鳴蚊哉(なくかかな)」 一茶

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○老いること

 長生きとは、老いのことで、短くも太く生きたい、あるいは逝折すると、ずっと思って生きてきました。老いの準備は、死への準備です。
 命を大事に、即ち、健康を守るのは大切なことですが、いろんな人の生き様、死に様をみてきて、次は自分だと思う歳になっていくのは、誰しも免れない運命なのです。
 頭も身体も弱くなっていく。しかし、その姿をさらすのも、元気ややる気や才能や努力を示すことと同じくらいに大切だと思うのです。「あの福島も末路はあわれだな」でもよいのです。それも役割です。そこから学んでもらえればよいのです。

 老や死や病を受け入れない人生は、ありえません。生まれてからも、いろんな苦があり、意味があります。そこで少しは喜び、怒り、哀しみ、楽しめたのだから、私はけっこう満足もしているのです。
 しばらく、福言を中断しました。体調もありましたが、心がそれを望んだからです。
 私はもう連載のように、締め切りがあるから書く、書くために材料を探し、無理に話題を取りにいくことが嫌いです。芸のレベルが下がるからです。もちろん、それで鍛えられた時期もありましたし、それを専らプロとしている人には、何を甘えているのかといわれるでしょうし、以前の私なら、今の私に向かってそう言います。

 どこからきて、どこへ行くのか、私は日本から遠く地球の裏のアルゼンチンまで行きました。あのイグアスの滝で豪雨にうたれて、そこで飛び込んだら、誰も止められないと、考えたこともあります。しかし、また地球を半周して戻ってきたら、結局、6畳の部屋を一周することと大して変わらないことに気づいたのです。
 「人間、寝て一畳、座って半畳」ということばがあります。

 500年前なら、コロンブスやマゼラン以上の旅を、エジプトでピラミッドをみて、インドでタージマハールに入っても、それは今の私ではないのです。
 「朝(あした)には、紅顔ありて、夕べ(ゆうべ)には白骨となれる身なり」

 これを思い出すたびに、子供の頃に一休が、しゃれこうべを正月のめでたいときに、掲げて歩いた話が、今はなるほどと思うのです。
 死ぬ日が決まっていたら、「アメリカングラフティ」で最初に死ぬ場面、その後は、そこまでがドラマとしてみられます。最近のまんがの浅間山荘の「チャンス」で、氏名とナンバーと、「死ぬまであと何日」と記されて、ストーリーが進行します。私は今日「死ぬまであと何日なのか」と思うのです。正月には、あと何回正月が迎えられるのかと、あとは四季それぞれに、年に4回くらい考えます。

 自分の願いがなくなると、他人の願いがきけるんだというのも、気づきました。仏や目上の人も、あなたや私に願っているのです。それを聞くことができると、仏教でいう「聴聞」になれるのですね。

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魯山人の才覚

房次郎10歳、4件目の養子先で、おいしいものを選んだら、
家族からより愛されると、猪肉を買いに行って、
赤身でなく脂身の多い方を選んで、褒められた。
「私がたべもののうまさというのを自覚したのは、実にこのときであった」
書道の大家、岡本太郎の祖父の岡本可亭にまかないで入り、
「一生涯うまいものを食べて暮らす」という志を持つ。食道楽を極める。
「美の源泉は自然であり、美味の源泉もまた自然である」

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円空の仏

円空は、生涯に十二万体の仏像を彫ると誓った。
一年一体360日として、333年、つまり、一日十体で33年かかる。
円空仏の発見は、今のところ、5200体という。
一日に十徳を積めば、大往生。作品をつくれば、それなりになれるでしょう。

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上杉謙信家訓

「心に誤りなきときは人を怒れず
心に欲なきときは義理を行なう
心に我がままなときは愛敬知れず
心にくもりなきときは心静かなり
心に私なきときは疑うことなし」

自分の心に聞けば大半のことはわかっている。そこで、だ。
次に、人に対して、大人になれるか、なれないかが問われるんだね。

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東大のモットークラッシュ

総長いわく、
「先頭に立つ勇気
 本質を捉える知
 他者を感じる力」
東大という権威も壊れ、いまや風前の灯。灯台もとくらし。

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リッツカールトン高野さんの話(2)

ヴィジョンないものをイメージする。達成するための処方箋を考えること。
イメージしつづける力、そして巻き込む力がリーダーシップである。
真剣にものごとを考える。物事でなく、考え方を教える。
ぴんとくるものを、なければつくれ。より派手、より華美でなければならない。
決めてしまうこと、しつこくいい続ける。本気か、真剣か。
リッツカールトン “心に温かくなるスイッチ”

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