カテゴリー「11)福島英のアーティスト論」の30件の記事

2014年2月14日 (金)

「成り立つということ」 [論7-1]

Q.よく成り立っているとか、成り立っていないと評されますが、どういう意味でしょうか。

○アートとしての声

成り立つというのは私の、よく使う用語です。
 私の読者の方は、私のアーティスト用の本では馴染んでいることばでしょう。
 全てのジャンルに共通して、人に働きかけ惹きつける力を放っていることです。
 そこに何かを超えた一体化の生じていることです。
 私は、歌やせりふだけでなく、スポーツや芸術、ときに絵などを例にして説明してきました。特に絵はわかりやすいのです。
 岡本太郎氏は、縄文土器に涙を流すほど感動し、それをもって芸術の定義を根本的に変えました。いや看破し、ことばでも表しました。彼は画家ですが、既存の専門家のワクでものをみなかった人です。
 絵はデッサンでオリジナリティが出ているかで決まります。その線、そして色、歌でいうとフレーズと声の音色です。声域や声量などは二の次でよいのです。リズム、そしてメロディかことば、それがリアルに立体的に(3Dで)生命力をもって(LIVEに)生き生きと迫ってこないといけないのです。
 この前、高橋竹山とマイルス・デイビスの演奏を例に出しました。参考に、マイルスの描いた画集はとても魅力的ですので研究所においてあります。

2014年1月29日 (水)

能の現場 A030

 「何が足りないのですか。どう補えばいいのですか」となると、一流のプロであろうと、他の分野の人であっても、私は、一転シビアになります。海外の、初めて聞くような音楽や何百年の歴史のある邦楽などになると、表現での判断はしません。
 そこでの価値観によりそうために、そのトップレベルの作品やステージ、師匠や先達の至芸をみせていただきます。トレーニング光景を見ることができたら、とても参考になります。そして、そのとき、誰よりも私は、目でなく耳で受け止めることに集中します。
 能の謡のように、若い弟子に老成した表現を与える声を求められることもあります。それを出せるようにすると、不自然と言われます。若いのですから当たり前です。そんな矛盾のなかで、求められる声の世界と、出せる声との接点をつけていくというのは、職人の世界といえるでしょう。
 そういうときは、私は一人でなく他の専門家とともに座して聞くようにしています。元より正確はありませんが、その永遠なる世界への一歩でもアプローチできればよいのです。

2014年1月22日 (水)

「海外の歌」 A029

中国の超級女声(中国版アメリカンアイドル)をみました。今のハイレベルのアメリカンアイドルと比べると、個性があまりなくておもしろないとも思います。フィリピンやアラブのものの方がおもしろい。

アメリカンアイドルのお勧め
1. Joshua Ledet (ジョシュア・レデット) When a man loves woman(マイケル・ボルトンのカバー アメリカンアイドル2012)
2. Candice Glover (キャンディス・グローバー) Love Song(アデルのカバー アメリカンアイドル2013)
3.Jacob Lusk(ジェイコブ・ラスク) God Bless the Child(アメリカンアイドル2011)

2014年1月15日 (水)

世界とのギャップ A028

翻って、日本では、どのようになっているかをいうと、人気がつくと歌らしくなって、ことばから離れていき、リアリティを失うため、実力のない人のレベル(主役の声や歌、音響の力も含め)で未だ“スマップ”さんたちと変わらないことをやっていても許されているわけです。20世紀半ばの基準や理想をもって、それさえ頭に入っていない観客を巻き込んでいるのが、現在の日本なのです。(でも、19世紀のレベルももう少し高かったでしょう)
 21世紀の舞台は、音響技術のおかげで日常のままにリアルになるというのは、日常での声ではあまりドラマの成立していない人たち、つまり、私たち日本人には、一見、有利に思えますが、実はより不利になることかもしれません。
 私は20年ほど前、1960年代の歌唱を範にとりつつも、発音不明瞭、声の浅く、息の弱い若い人たちの声がそのまま歌になっているのがJ・POPSだから、それはそれでよいと肯定しました。
 その2つの立場をそのままに置き換えているわけです。つまり、完全なる発声、発音、歌唱表現の訓練を積んだ上で、役柄と一体化して成り立ったところでのプロのリアリティと、その一方しか持たない、あるいは、アマチュアのリアリティ(よい意味でなく、素人の日常)が、音声の表現において、日本では見分けられないようになってしまったのであろうと思うのです。
 いや、今さらそうなったわけでなく、以前からそれに近かったし、そのようにずっと思ってもきたわけです。(これは、私の「トレーナーの選び方」や「論点」延長に展開しているので、真意を理解したい方は、ご一読ください。特にリアルとリアリティ、成り立つということについて)

2014年1月 8日 (水)

21世紀の歌 A027

 私見としては21世紀の求める表現としてのあり方が、主役級の歌に示されていたとみました。つまりは、私の求めるスケールの大きさや仰々しい表現力を、歌声でみせるのでなく、ことばのままに伝えることを優先したのでしょう。
 そのための新しい試みが2つあります。
1、 歌を録っておいて演じるのでなく、リアルに現場で録る。(歌もせりふも)
2、 その表現(ピアノとのアドリブ)を変えずオーケストラの譜割り(原曲)を変えて歌に合わせる。
この2つで私が不自然に思い、遠ざけていたミュージカルを自然にするために最大の障害を技術的に取り去ったわけです。(それゆえ、アカデミーの「録音賞」獲得なのでしょうか)つまりは、リアルなことばと歌とのギャップ、あるいは、普通のことばとせりふとのギャップをなくしたのです。
 そこが主役級3人と脇役との違い、実力差というよりは、演じ方での違いですが、21世紀と20世紀の違いであると、日常のリアリティと舞台のリアリティを等分に配した興味深い試みと、世界中で私だけしか考えないであろう独善的な解釈を述べておきます。 

2014年1月 1日 (水)

歌唱への所見「レ・ミゼラブル」(トム・フーパー監督) A026

このミュージカルは今年11月帝国劇場で凱旋公演になるのですが、今回は2012年のトム・フーパー監督の映画についてです。かつてジャン・ギャバンやポール・ベルモント主演の映画もありましたが、私の中では、1998年のアメリカの、シンドラーをやった人(リーアム・ニーソン)の印象が強いのです。それにしても、やはりこのタイトルは、私には「あゝ無情」の方がふさわしいと思います。(同じく、モンテ・クリスト伯も「岩窟王」でなくては私にはピンとこないのですが…)
 さて、これは前評判があまりに高いためだったせいか、私としては人間の原罪や死、法などといった重いテーマを、特に前半はさっと通り過ぎていくのが、軽く感じられました。でも、ロマンスのあたりで、ミュージカル映画としての焦点のあて方がわかってきたので、今度は、主役ジャン・バルジャンとコゼット、マリウス3人の軽やかな歌い方が気になりました。個人的な趣向としては、ジャベール(ラッセル・クロウ)、エポニーヌ(サマンサ・パークス)神父さん、隊長さんの方が好きなのはお許しください。フォンティーヌ(アン・ハサウエイ)は、よくみせてくれたと思いました。

2013年12月25日 (水)

「胸が痛い」憂歌団 木村充揮さん A025

 

デッサンで音楽性がベースに、ヴォーカルとしての歌詞がのっていて評価させられてしまうのは、木村さん独自につくりあげた歌唱です。これも発声や、歌唱の先生がお勧めするところからは対極のヴォーカリストです。ことばと音とフレーズで、相対的に?オリジナルのフレーズデッサンを知り尽くし、それしかない型に持っていっているのです。
私は日本の歌手の力が本当に世界に追いついてない、いくつかの例として
1、ヒット曲の一番だけが特に秀でている、というか二番以降や他人の歌では別人のようにレベルが落ちる。
2、他人の歌を自分のオリジナリティにもってこられない(自分のヒット曲では冠たる世界を確立しているのに、カバー曲ではほとんど二番煎じ、歌のうまいレベルになってしまいます。選曲のアレンジについても他人任せ、本人のよさがほとんど活かされていない)
そこからみてシンガーソングライターの方が、オリジナリティが強く、他の欠点や本質的な能力不足まで総合力で補って、出てきているので、ステージをよく知っているのです。しかし、カバー曲をみる限り、すべてだめ、演歌歌手のポップスやジャズも、若いシンガーソングライターたちの昭和歌謡も褒められるものはあまりにもないのです。そのあたりは、クレイジーケンバンド、横山剣さんのセンスを見習うべきです。
フレーズとして使えるのは「胸が痛い」の「胸が痛い」飲みすぎると毒になってしまいますから、ほどほどに。

2013年12月18日 (水)

「壊れかけのラジオ」徳永英明さん A024

 徳永英明さんという歌手は、はっきりいって私のところで取り上げる材料の対極にありました。それは歌手や歌のよしあしではありません。先の八神、中島、ユーミンもです。最近、といってもソロになったあとの谷村新司、堀内孝雄、佐野元春、桑田圭祐、忌野清志郎、小椋佳さんなど、私があまり触れなかったので新鮮なのか、ここに名前が上がってくるのは不思議でもあります。
 ここのヴォイトレでは、マイクを使わないところでの実力を基準にしています。しかも現実にはポップスはマイクを第二の声帯というくらいに重視します。そのため、日本ではカラオケの悪い影響で口先での加工、体や呼吸をなおざりに、高いピッチをとるだけの発声に目的がなりがちになっていることは長く指摘してきたところです。小さく絞り込んだ声でピッチやリズムを完全にこなすのは、無理ではありませんが、不自然ゆえに安定に乏しく、表現の自由さよりも発声を固定させてバランスを取ることに終始してしまいます。いわば、小さな箱の飾りのような歌になりやすいのです。
ただ、最初に大きなイメージのもとで体を解放して歌った経験のある人は、声量を使わなくてもデッサンが鋭いので伝わります。(声量が落ちても歌唱力が衰えないのがベテランということを述べたことがあります)徳永氏は本人の独得のデッサンをもつから成り立ちます。しかし、それをまねて嗄声で歌うと、最悪の演出になってしまいます。彼が中居正広さんにしたアドバイスは、小さな声で歌うことですが、それで聞かせ感動させることは、特別な才能をもつ人以外には、不可能なほど高度な技なのです。ヴォイトレとしては、絞り込みは応用の応用であり、まず大きな器づくりです。鉄は熱いうちに大きくしておくことです。

2013年12月11日 (水)

「みずいろの雨」八神純子さん A023

 先日の“Songs”で中島みゆきさんの陰に八神純子さんがいたと。つまり、グランプリが獲れなかったというので、ポプコンの話にいつかつなげようと思います。八神さんは、「たそがれマイラブ」「シルエットロマンス」の大橋純子さんとセットで私には入っているのですが、いつも出てこないのです。この歌唱力の存分に発揮された曲は、とても難しく、扱いきれなかったことも原因かもしれません。ミルバの「愛はるかに」ではありませんが、世の中にはあまりにパーフェクトすぎて、よい歌なのに、カバーが出ない、歌えない、歌いたくない、もうその歌手でその歌唱があれば充分というものがあります。(これは、戸川純さんとか椎名林檎さんなどのとは別の意味でです)
 余談ですが、日本のトリビュートやオマージュ、特にこのところのは、「好きだから選曲した」「売れるから選曲した」の間で迷っているくらいで、本当に大切な「私が歌えばこの曲はこれほど魅力になる」「私の才能を開花させる材料としての選曲」があまりにもありません。カバーヒットブームの先駆けとなった徳永英明さんはよいとしても、そのあとに続く人のは、あまりに芸のなさを出してがっかりするのもたびたびです。

2013年12月 4日 (水)

「時代」中島みゆきさん A022

 何かにつけ、ユーミンと並べられるようになった頃、ユーミンは苗場、中島みゆきさんは「夜会」で固定ファンを固め、今も確か二人ともやっている?歌謡曲やTVなどの世界と別に独自路線を引いていました。ときどき使ったのがこの「時代」でした。
よくポプコン当時の中島みゆきさんが歌ったなと思えるほど大きな曲です。ちなみにこの2人の発声や歌唱としては、私が言うまでもなく、当時では異色であった2人は、それゆえ、女性シンガーソングライターという世界を確立していったのです。それとともに世の中に歌い方や声そのものの概念も変えていったように思うのです。(カラオケの出始めたころはあまりうまくない子の選曲に入りました)
そういうピークを過ぎた後のカリスマ的な声というのは、私にもまだ理解できません。「超音波がでる」とかいう分析もありましたが、たけしさんの歌にもあるのですから。
確かに時代は回るのです。でも変わらないものも変わるものもある。あれから4半世紀、日本は変わりました。私たちは変わったのでしょうか。変われなかったのでしょうか。
こんなものを書いている毎日は、さして変わっていませんが、まわりは大きく変わっていきました。
ときに写真をみると、明治時代や戦前に撮られた、全く私と関係のないような写真さえ、その家族やその時の心境が推し量られ、感慨深いものがあります。黒沢明監督の65歳のときの作品「デルマ・ウザーラ」を25年ぶりにみました。昔、何とも思わなかったのが、今の私はデルマの写真が懐かしい友のように感じられるのです。