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2014年2月15日 (土)

「台詞と科白」☆ [論7-2]

これは別役実さんのタイトルです。8月18日の日本経済新聞の文化欄からそのまま引用させていただいた後、論じたく存じます。

 「台詞」は言葉だけのものを言い、「科白」はそれに仕草が加わったものを言うのである。(中略)
 でき上がったせりふは、一度身体をくぐらせてきたもののように、手触りのあるものに変質している。つまり「台詞」は「科白」に変わったのだ。同時に、その働きも変わったと言えよう。
 「台詞」の場合聞き手は、発信された情報を受信するだけだが、「科白」の場合の聞き手は、その動作に自分自身のリズムを同調させざるを得ないから、情報の受信と同時にそれへの共鳴にも思わず誘われることになる。つまり言葉は、発信し受信されるだけでなく、それに加えて共有し共鳴されなければならない、というのが「科白」の考え方なのである。(中略)
 今日我々の周辺を飛び交う言葉が、次第に「科白」のニュアンスを失い、「台詞」でしかないものになりつつある気がする。(中略)
 言葉は、意味の記号化された「台詞」としてのみ流通し、「科白」としての質感を失っていったのである。(中略)
 日常我々の使っている言葉が、「台詞」にしか過ぎないとなると、会話から体験感が失われるから、(従って早口になる)思いが成熟することなく、素通りしてしまう。(中略)
 「煙草はせりふを割って吸え」という、舞台上の演技者のための教訓は、今日、我々の日常生活に必要な智恵となりつつある。

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