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2014年2月

2014年2月28日 (金)

柔らかくなるな B105

いろいろな歌い手が歌っているので、慣れてもらえばいい。こういう声を聞くことによって、体の結びつきとか呼吸が必要だということを知っていく。ポップスで、こういう歌い方をとるかというのはまた別の問題です。
 世界の一流のテナー、このCDは、全盛期のものとしてはよくないもので、70年代くらいの方がよかった。どこかのところでワーッと声を出し、それで曲はいいのでしょうね。流れや語尾処理など聞かなくても、その人が出てきたら成り立っている。ライブの中ではよかったのが相当あると思いますが、CDになっているものではあまり、そういうものがない。
 一時のイタリア人のように張り上げて歌う歌い手が少なくなりました。やわらかい声を出す、そういうところに対しては、もともとそういう声が出る人たちが入ります。

 

オリジナリティの発掘 [論7-15]

学んでいるなかで、最初は、それなりに順調に行っても、そのうち、その世界の入口に着くや、それで生きている人たちとまみえるや否や、自分というものを顧みざるをなくなります。声や歌が周りから認められるくらいにすぐれていても、それだけでは何ともならなくなるのです。そんな人はいたるところにいるからです。
 私どものところにプロが来るときは、そのときが最も多いのです。そこですでに自分が何者であり、自分の作品が何たるかを知っている人は少ないものです。
 オリジナリティを発揮できるような調整を中心にします。声楽で、この機に基礎を固めたいというのなら、出口ははっきりしているので発声と共鳴の基礎でよいのです。
 そうでない人は、体、呼吸の感覚は基礎で、できたら基礎の基礎に踏み込んで、徹底して変えていくことになります。
 多くの基礎と巷で言われるヴォイトレなどは、呼吸一つとっても、いつまでもやり始めた時期と変わらないものが多いものです。これは、スクールやトレーナーのせいではありません。本人に必要性もないからです。トレーナーも教えるときに、便宜的に形としてマニュアル的にやっていることが普通だからです。

 

2014年2月27日 (木)

具体的なシーン B104

 わかりやすい、わかりやすいから見えてこない。そういう歌も世の中にはあるけれど、いつもそれを暗示するもの、たとえば果物の何かであったりコーヒーカップであったり、何かしらもっと具象的なものが、それぞれ、抽象化のための具体的なものが必要なのです。

再生とは [論7-14]

よく私は再生とか再構成とか、リストラクチャリングというのを作品について述べますが、再生というのは、再び生まれ変わる、つまり、親から生まれた第一の誕生で人間となって、あとに思春期を中心に自分の人生を選んでいく、第二の誕生をするのです。役者や歌手になるのも同じことではないでしょうか。
 なりたいという憧れで、養成所や劇団やバンドやミュージカル劇団に入ったのは第一の誕生、そこで自分の限界にぶつかり、自分のできることを発見します。そして、自分の個性=オリジナリティを確立し、自分でしかできない世界をつくるのが第二の誕生です。
 歌手は、最初に憧れの歌や歌手から入るので、同じように歌いたいということを目的にします。しかし、そのままそのようになることはありません。そこから独自の声や歌で勝負できるものを掴み出し創造していかなくては、売り物になりません。

 

2014年2月26日 (水)

キィワード B103

 「秋」というよりも秋を代表する何かを出せばいいというようなことです。誰でも言えることを言う、誰でも言うことを歌うときに、たったひとつでもキーワード、こういう台詞があるから、という何か、ひとつ違うものを入れていく。誰がつくってみても同じというようなものになって、その辺のOLさんの茶飲み話と同じになってしまう。そこは何かしら、入れていくことです。

スタンス論 [論7-13]

プロの方がいらっしゃると、そのスタンスを、こちらがどう合わせるのかというスタンス決めが最大の課題です。
 しかし、アマチュアの方には、そのスタンスを決めることに3年かかってもよいと思っています。それが決まれば、プロとなれる可能性が著しく高まるからです。
 声楽家は目標とする舞台のヴィジョンがあるため、スタンスについては、ポピュラーのヴォーカルほど悩むことはありません。(悩んでいない人もいるので、共に悩んでみてください)
 そこがここのトレーナーとの大きな違いであり、それゆえ、体の基礎としてのヴォイトレにおいては充分に信用してコツコツと力をつけていけばよいのです。そこから表現世界がみえることもあります。しかし、多くのケースでは、再生する必要があります。

 

2014年2月25日 (火)

インパクトをつける B102

 いいものに関しては自然に入っているのが理想です。たとえば最初のままであったら、これは、頭からだいたいずっと見えてしまうことになります。するとそこの中で何かしら、少しひねり、言葉を変えるわけではないけれど、ちょっとした並び替えとか、倒置させることによって、何かを引き立たせていかないと、そのまま終わってしまいます。あまりにあたり前でインパクトがない。

 

表現力 [論7-12]

今の日本のミュージカルなら、アメリカンアイドルの予選でよいところまで行けるくらいの力も不要でしょう。感情表現もうまくなってきたアメリカンアイドルに限らず、世界の歌手(志望者)のレベルはとても上がっています。実力だけで競うのなら、日本もそのうちアジア出身やハーフの歌手ばかりになりかねません。
 なので、これ以上の愚痴はやめますが、ディズニーランドよりは、ハワイアンセンターのフラダンスの方がましということです。
 ユーチューブで「What’s a Beautiful World」をセリーヌ・デュオンが2つのバージョン(同曲異唱)で歌っていました。優しさ、温かさが伝わるもので成長が感じられます。ついでに、元は歌がうまく声のよかったアンドレア・ボチェッリも豊かな表現力を身につけてきました。
 日本の歌手はデビューがピークで、2,3年でパワーがなくなるという、その構造については前に触れました。世界の第一線のように、運もものにした若い日本のアーティストも本質を踏まえて育っていって欲しいと願うばかりです。ミュージカルもオペラも邦楽も、スターが出なくてはと、微力な研究所なりに世界と未来に向けてがんばっております。

2014年2月24日 (月)

間合い B101


 歌から考えたら、単に歌えても仕方がない。そこにどう落とし込むか、どうつなげるか、人が聞いて心地よくなるための、いろいろなことをやるわけです。
 ある程度は計算しているし、そこで客と密接に関わっている。だから話し方と同じです。こちらでどんなに話しても、それだけで伝わるわけではない。
 向こうの動きをみなければいけない。ただし、向こう本位にしてしまうと、ひどいものになってしまうこともある。自分の呼吸をもって、どのくらいのスピード、テンポ、それも全部決めて成り立たせていかなければいけません。

歌の表現の成立へ [論7-11]

プロの歌手や役者がいらっしゃると、声の成立や表現の成立について、本人が必要としているのなら、私が引き受けることもあります。ただ、「歌がうまくなりたいので基礎を」というようなケースは、私共の(つまり、声楽以外の人に教える経験を積んでいる)声楽家のトレーナーをお勧めしています。
 たとえば、日本のミュージカルのように音大の6年生レベルであることが有利なようであれば、ここで声楽中心に学べば確実なのです。現にそういう人が合格していますし、在籍しつつ出演しています。音大の声楽科の練習曲、高音の共鳴とロングトーンやレガートをしっかりと身につけます。プロレベルでみせるための呼吸や発声(共鳴)をマスターしておくと、お釣りがきます。
 私は年に何人も来ない世界レベルを目指すアーティストには、そこでお釣りを受け取るのでなく、その分を、オリジナリティでの成立を求めます。目的は、ハイレベルにセットします。いわば、ド派手に声の技能をパフォーマンスするアメリカンアイドルの最終レベルと、その元歌を歌う20年以上前のオリジナルのアーティストとの違いにまで課題をセットするのです。

2014年2月23日 (日)

コピーからの脱却 B100

 自分のつくった歌は見本がないから、好きなように変えられます。うまく落ち着かないなら、曲を変えてしまえばいいわけです。そういう意味でいうと、型ではないけれど、決まりきった歌の中に、声の動きを持っていくほうがいいかもしれません。
 歌い手そのもののコピー、その歌い手が結びつきを切るには、発声から歌えばいいということです。

 

理想とのはざまで [論7-10]

 声の実力というにも即効性を求める人のために、ヴォイトレが調整だけの役割になりつつあるのかもしれません。となると、近いうちにトレーナーや歌手が、パソコンの音声やカラオケ採点機などに置き換えられるように代えられてしまうのでしょうか。
 私はヴォイトレとしても、基礎だけで成り立つ声(つまり「科白」の)全滅を救いたいのです。しかし、表現としては日本人の日常がこうなったのだから、そういうふうに舞台がなるのも自然ではないかという、醒めた現実観も持っています。今の若者が浅くアニメっぽい声ゆえに、今のヴォーカリストも俳優もそのようになるのです。ジャニーズのような歌も日本人らしくて、それはそれであってもよいのです。昔には戻らないのです。
 でも、それとここのヴォイトレとしての理想は別です。人間の可能性の最大化とグローバルな世界で通用するレベルを常に念頭においているからです。

2014年2月22日 (土)

シンプルなフレーズにする B099

 いろいろなことをやろうとして、そういうことが効果を上げていないという時期、効果を上げないのであれば、シンプルに処理をしたほうがいい。全部シンプルにしたらつまらない。どこかに何かが置けるとしたら、何かが決まってくる。それが筋立てです。直せる部分はあるのでしょう。
 それによってはバサッと切ってしまったほうがいいフレーズも出てくる。膨らませたほうがいいものも繰り返したほうがいいものもある。いいものを繰り返し、いいものを膨らませないといけません。あいまいなところやうまく定まっていないところは、持たせているだけ、作品としては削らないと雑なものになってしまいます。
 歌い方として、ていねいに歌うために、名曲でスタンダードなもので発声したほうがいいでしょう。
 

成り立つ基準 [論7-9]

 先の別役実氏の声(科白)と身体との一体化は、せりふについての、以前では当然の判断基準でした。私は、表現では、ロボットの音声も、ヴォーカロイド初音ミクも、その効果は効果として認める度量もあります。しかし、基礎としてのトレーニングにおいては、実体=リアル感=リアリティを声においてみます。
 体や呼吸の伴わない声や歌は、ヴォイトレにおいては排除します。なぜなら、それをOKにすると、本当には伝わらないということを許容し、何よりも私の考えるヴォイトレの存在意義がなくなるからです。
 しかし、そこには、歌手も役者も、「本当には」ということをつけてみるのなら、すでに、現実にほとんどいなくなりかけているように思いませんか。
 歌手も役者も、声だけでの表現ではないので、演出や振り付け、構成(脚色力、舞台セット力、照明音響、技術力、スタッフ力)などパフォーマンスも併せて成り立っているともいえます。
 「科白」はなくなり、「台詞」となり、ただの「ことば」となりつつあるのは、昔の作品と今のを比べれば一目瞭然です。それだけ声や音声が軽視される時代になったということです。

2014年2月21日 (金)

チャンス B098

違うパターンというのがあったとか、こういうのも以前に許されたような処理をしたとか、比べられるのは、ただの間違いです。ところが聞いたことがないようなものでは、そういうやり方はないのではないかという判断になりかねないのです。そこがチャンスです。

スタンス [論7-8]

私は、声については、基礎も表現も、歌手、声優、役者とかアナウンサーという職業や、歌、ナレーション、せりふなどというジャンルで、みていません。それゆえ、私の本の内容は、出版社(つまりタイトル)が対象を定めていても、歌手から一般ビジネスマン、日常生活用に、老若男女、児童向けまでありますが、大して対象をも選んでいません。この研究所も誰でも受け入れています。
 歌手に教える発声レッスンを以前はヴォイストレーニングといっていました。しかし、私はその多くは、単に、ヴォーカルアドバイスで、仮に歌を使っても使わなくても、そのようなものだと述べてきました。歌の上手い人が発声や歌唱を教えるわけです。
 それとは私の研究所は性格を異にしています。なぜなら、歌全体の定義にも私は、話し方まで含めています。「歌は語り、話も歌」だと思っています。
 歌での表現が歌以外で賄えるなら、わざわざ歌わなくてもよいし、歌うべきでもないという立場でみています。音楽人にはあるまじきスタンスでしょうか。
 それゆえ、歌や音楽をとても大切にしていると思っていただくと、このあとに論じやすいのですが。

2014年2月20日 (木)

歌と声の遊離 B097

 歌の世界が現実の声や現実の中で働きかける声と離れていっていることのほうが気になります。歌は、現実の中でドラマチックなことが起きたときの台詞を繰り返してふしがついていたら、歌になっているという程度で、そんなに大げさなものでもない。
 曲の世界もすごく煮詰まっていますが、オペラ的なつくりで声を聞かせるということになってくると、日本の中では、もう人心から離れてくるという気がします。といっても、名曲は名曲で、永遠に残ると思います。一方で、日本人はそういうレッテルにとても弱いからです。

基礎の表現との同一化 [論7-7]

私がネット社会の時代になるまでは、ヴォイストレーナーと自称しなかったのも、そのためです。また、トレーナーらしいトレーナーを求める人のために、いろんなタイプのトレーナーを研究所に揃えて、それぞれによりよく対応しているのもそのためです。
 私は、先のタイプと異なりますから、無視されても当然なのですが、多くの人が、こういうことに反論も含めて、関わってくださるのはありがたいです。以前にこのスタンスについて、次のようなことを述べました。
 基礎の行きつく先は人間としての共通、表現の行きつく先もまた、人間としての共通です。つまり、逆方向のようでも、共に極めたら、普遍的になり、一体になり、同一化するということです。(が、ついてこられる人だけ、ついてきてください)

2014年2月19日 (水)

バランス B096

 皆さんの場合は、この研究所の中においては骨組みができればいい、それだけで外に出たときに、何かは普通の人よりはやれるでしょう。ただし、人は見せ方のところで見ますから、全体的なバランスや構成力が必要です。
 トレーニングをやっているときには、あまり気にかけなくてよかった。けれど、世間では表に出たところだけしかみてくれない、そのところに関しては、敏感になっていかないといけないのです。
 声を軸にやっておくといろいろなもので助けてくれます。何でも経験としてプラスになるものは生かせばいいと思っています。
 

私のスタンスはトレーナー失格 [論7-6]

私のスタンスは、最初は声の基礎と表現をつなげるのでなく分けています。基礎でもなく応用でもないものは、それなりの基礎であり、それなりの応用です。
 先のA―Bの間にあるCでしたら、バランスがとれます。しかし、AよりAにしたらBの表現は成り立ちません。またBよりBにしたら、基礎など全く伴わなくなります。表現として作品をうまく上げたい人は、ぶっ壊れたようなものとなります。一方、丁寧に基礎をやりたい人は、それでは、まったくせりふにも歌にもならないということになるのですから、そんなスタンスのトレーナーはいません。そこからみると、私はトレーナー失格でしょう。
 

2014年2月18日 (火)

目的喪失 B095

 世界にはいろいろな傾向があり、時代の流れで、そういうものにあった作品がでてきます。それが小説や映画などでつくれるようになってくると、突飛なものも出てきます。
 傾向というのはあるのでしょう。ヒット曲が1、2年変わらなかった頃は、そういう意味では基準にできた。歌も何をもって上達なのかという基準というのがあったのです。
 早いというのもわかるのです。10年一昔だったのが、今や1年くらいになっているということ。ただその方向性というのが、全体的には見えなくなってきているような気がします。誰かのようになりたい、というのもあるのでしょうが、昔ほどではないわけです。
 

表現からみるということ [論7-5]

ヴォイトレを体―声とともに、表現―声の二軸でみることで、私は、日本ではかなり特殊なヴォイストレーナーであると思っています。
 一般的には次の3タイプ
タイプA.体→声でみる。個人の感覚や体を発声の点で把握して理想の声を導こうとする。歌唱や演技を切り離し、全身からの声そのものの基礎づくりということで徹底している秀でたトレーナーもいます。
タイプB.表現→声でみる。この表現が歌なら、プロデューサーや演出家的な視点をもつ、カラオケや歌の先生などもこちら。ピアニストやギターで教えるトレーナーもこちら寄り。応用性があり、即効をうたうトレーナーに多いです。
タイプCのトレーナー.両方をみる。そのことによって、どっちつかずなのは、よくも悪くも素人向けのトレーナーで、中途半端な感じが否めませんが、最も多いのがこのタイプです。歌手出身のトレーナーなど。そこそこにそつなくこなせ、器用で若くして恵まれた声や歌唱力をもつ人が、そのまま、周りから頼まれてなることも多いようです。自分の体験中心、自己流です。
 私は、AよりAを、BよりBを極めたところで行うといえるのかもしれません。他にこのスタンスの人は知りません。私のところのトレーナーは、Aをベースにして、生徒の要望によっては、Bにスタンスを移しています。私はAかBですが、生徒の希望に合わせるときはトレーナーに任せています。

2014年2月17日 (月)

日本の歌の変容とトレーナー B094

 日本の場合というのは、時代の変わりのほうが大きい。Q&Aの、昔のを読み返すと、表現を変えたくなる。私の考えは変わらないのに読む人の層が変わってしまうからです。
 トレーナーも長く生きている分、いろいろな人にあって、いろいろな意味で判断力がゆたかになっていく。ということは、逆にいうと決められなくなってしまうということですね。訳がわからなくなってくるのは、時代の流れのほうが大きいからです。
 他の芸術の世界でも変わってはいるのでしょう。けれど、音楽の世界ほど複雑にわけがわからないまま、何がうけるのかも、どれがうまいのかもわからず、それゆえなのか、常に変わっていっているわけでもないと思うのです。
 

せりふの変遷 [論7-4]

私はこれまで文字としては、「せりふ」か「台詞」しか使わず、「科白」を用いたことはなかったので、その不明を恥じつつも、やはり、これからも「せりふ」か「台詞」を使うと思います。ややこしいですもの。
 もう、変えられないだけのものを私自身も背負ってきたのですから、私にとって氏の「台詞」は「言葉」「科白」は「台詞」(せりふ)で用いています。これを「言葉」―「台詞」―「科白」の分け方でみると、一世代で一つ軽くなってしまった証拠と思ってもよいのかもしれません。別役さんのときの「科白」は消え、私たちの世代での「台詞」も消え、今や「言葉」だけかもしれません。
 同じことは、音楽でもいえます。テンポが速くなる、間がなくなるというのは、表現者の力不足でもありますが、一方、聴き手の、観衆の好みの変容とはいえ、アーティストの声の力不足とも思ってもよいともいえます。聞かせ続ける力とそれを聴き続ける力、ともに忍耐力の不足かもしれません。アナウンサーの話す速度も速くなりました。それぞれに一通りにはくくれない背景があると思うのですが。

2014年2月16日 (日)

勉強会 お知らせ

村松先生のところで、研究所のトレーナーらと勉強会を行いました。大変に得るところのあった勉強会でもありました。

個人とグループレッスン B093

個人というのはなかなか上達しにくいけれど、個人で得たものだから、そこで学んだことは、崩れにくい。
 グループというのは同じメンバーでやっていくと、同じメンバーでないところで見えなくなってしまうこともある。本人たちがわかったと思っていたのに、全然わかっていなかったということもよくあります。

「昭和の歌よ、ありがとう」☆ [論7-3]

もう一つ、たまたま見たのですが、例にあげておきます。CD「昭和の歌…」製作中の泉谷しげるさんが、TVで次のようなせりふを、まさに「科白」として吐いていました。レコーディングでの2場面でした。(13.8.18)

 泉谷しげるさんは夏木マリさんの収録のとき、「あのさ、だんだん普通になっちまうんだから。歌はいいの。そうでなくて楽器、(音で)埋めすぎだっていうの。ほんとしょうもないな。もっと歌を生かすように間をつくれ。こら、弾き過ぎるんじゃねえよ!」
 そして八代亜紀さんの録音のとき「ブレスは生かした方がかっこいいんだよ」と。
ともに歌い手に言ったのではありません。念のため。

 ちなみに氏の子育て論 
 「ピアノ、やりたいことがあっても習うな。習わなくてもできる。『ピアノが欲しい』?好きなら、もうやってる。人の家に忍び込んでも。買ったからやるでは遅い。親はとりあえず子供のやることは反対、本当に好きなら逆らうはずだ」。
 氏の座右の銘?は「天使のように大胆に、悪魔のように細心に」(黒沢明)とか。

2014年2月15日 (土)

肉付け B092

歌というのは長くやっていると歌えるようになります。ただし、そこでやっているようなことは、だいたい3~4年もたってくると頭打ちです。実は全然ついていないのだけれど、骨のほうがわかるようになってくると、もつようになるのです。
 そこに後は、人生経験、思いとか自分の考えていることや体験していることがどういうふうに歌の中に反映してくるかというようなことになってしまうからです。
 つらい思いをしたり、苦労をしたほうがいいのですが、イマジネーションの世界です。苦しい思いをしたからといって、歌に結びつくわけではない。結果として、肉づけをしていく作業をやらなければいけない。でも、それで骨が崩れてしまう場合も多い。
 

「台詞と科白」☆ [論7-2]

これは別役実さんのタイトルです。8月18日の日本経済新聞の文化欄からそのまま引用させていただいた後、論じたく存じます。

 「台詞」は言葉だけのものを言い、「科白」はそれに仕草が加わったものを言うのである。(中略)
 でき上がったせりふは、一度身体をくぐらせてきたもののように、手触りのあるものに変質している。つまり「台詞」は「科白」に変わったのだ。同時に、その働きも変わったと言えよう。
 「台詞」の場合聞き手は、発信された情報を受信するだけだが、「科白」の場合の聞き手は、その動作に自分自身のリズムを同調させざるを得ないから、情報の受信と同時にそれへの共鳴にも思わず誘われることになる。つまり言葉は、発信し受信されるだけでなく、それに加えて共有し共鳴されなければならない、というのが「科白」の考え方なのである。(中略)
 今日我々の周辺を飛び交う言葉が、次第に「科白」のニュアンスを失い、「台詞」でしかないものになりつつある気がする。(中略)
 言葉は、意味の記号化された「台詞」としてのみ流通し、「科白」としての質感を失っていったのである。(中略)
 日常我々の使っている言葉が、「台詞」にしか過ぎないとなると、会話から体験感が失われるから、(従って早口になる)思いが成熟することなく、素通りしてしまう。(中略)
 「煙草はせりふを割って吸え」という、舞台上の演技者のための教訓は、今日、我々の日常生活に必要な智恵となりつつある。

2014年2月14日 (金)

文化放送 

文化放送「いきいき世代倶楽部(くにまるジャパン内)」に2/6・2/13に2回出演し、声と健康、アンチエイジングと声について、話しました。

仕込み B091

材料があまり入らない。そういう意味では、同じ曲を複数でやってみればいいのではないかと思います。
 グループレッスンというのは、ある時期まで、よく伝わる。場で伝わる。一人になったときには、ずいぶん引いてしまうのです。10人くらいでやっているときにすごくうまい人が、ソロでやってダメになってしまうのです。
 役者は常に誰かとやっていくものですから、グループでの作用で勉強していけばいいのでしょう。けれども、ヴォーカルの場合はその辺がどうなのでしょうか。
 

「成り立つということ」 [論7-1]

Q.よく成り立っているとか、成り立っていないと評されますが、どういう意味でしょうか。

○アートとしての声

成り立つというのは私の、よく使う用語です。
 私の読者の方は、私のアーティスト用の本では馴染んでいることばでしょう。
 全てのジャンルに共通して、人に働きかけ惹きつける力を放っていることです。
 そこに何かを超えた一体化の生じていることです。
 私は、歌やせりふだけでなく、スポーツや芸術、ときに絵などを例にして説明してきました。特に絵はわかりやすいのです。
 岡本太郎氏は、縄文土器に涙を流すほど感動し、それをもって芸術の定義を根本的に変えました。いや看破し、ことばでも表しました。彼は画家ですが、既存の専門家のワクでものをみなかった人です。
 絵はデッサンでオリジナリティが出ているかで決まります。その線、そして色、歌でいうとフレーズと声の音色です。声域や声量などは二の次でよいのです。リズム、そしてメロディかことば、それがリアルに立体的に(3Dで)生命力をもって(LIVEに)生き生きと迫ってこないといけないのです。
 この前、高橋竹山とマイルス・デイビスの演奏を例に出しました。参考に、マイルスの描いた画集はとても魅力的ですので研究所においてあります。

2014年2月13日 (木)

発声で動かさない☆ B090

マイクがあるとそんなに気にならないのですが、癖にまでなると全部でてしまい、説得力が弱くなってしまうのです。今の段階ではきちんと入れて動かしていく。
 細かく考えても細かく動かない。発声がいい状態でうまく感情が入ったり、音楽が入っていると本当に細かく動いていくのです。発声の勉強はしておくのですが、発声で動かしてはいけない。状態だけをキープしながら自然にやればいい。
 だから、自分が得意なところに関しては計算しないでやっている中で、声にまかせてやればいいのです。けれども、その状態が悪くなったり、不得意なところに関しては、イメージで正すのです。
 発声で正そうとしたら、それこそフラットしたりする。そのイメージの中で気をつける。大きさでも、きめのこまやかさでも、やってみればいいという感じがします。

鼻声の3タイプ [論6-3]

参考に、鼻声といっても、次の3つはそれぞれ異なるものです。
1.鼻腔にひびかないで鼻につまるように聞こえる
2.鼻腔以外がひびかないために鼻ばかりひびくのも、鼻に抜けるという(n、d、r)
3.滑舌やよくないケースや共鳴がよくないとき
とはいえ、日本語の歌やフランス語(しゃべりも歌も)はかなり、鼻にひびかせているものです。鼻声がだめというのも、程度問題です。

2014年2月12日 (水)

織り交ぜる B089

面白いもので、きれいなだけの声は退屈してしまう。粗っぽい声では雑に聞こえてしまう。その辺をどう織り交ぜていって、どうひとつの作品をつくるかということです。
 メロディや歌詞を大切にしなければいけない。声は楽器という考え方ですね。違う解釈が出てもいいし、やっている間に、声を感じたり、チェンジングを感じたりする。動きを感じたりしながら歌ができてくるというのは、一番いいことではないかと思います。

鼻にかからないようにする [論6-2]

すぐに鼻にかかってしまう人は、鼻にあまり抜けないように意識してください。鼻をつまんで確実に変わるのは、鼻音であるナ行です。「ナ」を出した状態のように、軟口蓋が下がっているのです。(開鼻声)それに対し、鼻づまりのような声(閉鼻声)は、その逆のことが起きているのです。
ただ、鼻がつまって鼻腔が使えないのも、鼻に過度に響きをかける(鼻に抜く)のも鼻声といわれるので勘違いしやすいのです。

ただソプラノなどは、かなり鼻のあたりに共鳴の調整をもっていく感覚調整している人が多いので、音が変わるべきという教え方(チェックの方法)もあるのでしょう。
結論としては、鼻をつまんで歌うことはないので、「声の共鳴そのもの」でよしあしを判断するということです。

2014年2月11日 (火)

丁寧さ B088

 どの程度、丁寧に扱うのかということ。丁寧に歌うことばかりやっていても歌はついてこない。大体長くやってきた人は、丁寧にやっていこうとします。しかし、どこかはみ出しておかないと。本当の意味の丁寧は、どういうことでしょうか、丁寧におくということはそこで退屈してしまいかねないのだから、それ以外のところできちんとつくっておかないと。両方、形だけにしまったら、一番よくないですね。
 何か起こしたところも雑、おさめるところも雑となってしまう。
 

「鼻にひびかせること」 [論6-1]

○ことばの定義について

用語の定義や使い方で、共鳴や共鳴腔とは、かなりあいまいな扱われ方をされてきたものです。鼻音、鼻腔共鳴などもその一つです。    
そのために、私はあまり使わず、ほかの先生の使う場合は、イメージ言語扱いにしています。ここでイメージ言語というのは、それを使うことで結果がよければよいというものです。「喉をはずして」「頭のてっぺんにあてて」「肺活量を大きくして」とか。

鼻腔の共鳴は、鼻をつまんだということで必ずしもオンオフになるのではありません。
正しくとこだわるのなら、閉鼻音と開鼻音の問題にするしかありません。前提として、共鳴と空気の通りとは別物であるということです。鼻腔の通りを妨げるなら、ただ、閉鼻音というしかありません。
たとえば、副鼻腔が炎症をおこすと、そこで鼻がつまったような声になります。

2014年2月10日 (月)

歌の中から B087

 特にトレーニングは目いっぱい起こそうとしないと、体も声も必要ないのです。だから、体や声をつくりたい、息をつくりたいというときには、歌の中からやるのもいいと思います。そのほうが実践的です。
 発声を全部覚えてから歌おうといっても、一体何がどう使えるのかというのは、次の問題になってしまう。使わない声までつくって、余裕があるのはいいのですが、その余裕をどこに回すかといったら、もっと自分のタッチ、自分の動かし方のところに時間をかけるべきですね。
 

まねるものではない [論5-13]

 誰かがそういうもののあるパターンをシャウトと名付けただけです。それを切り取って練習しても安易なものにしかならないでしょう。形に囚われているからです。
シャウト=叫ぶというのは人間の日常生活のなかでは、一種、異常事態に対する行ための表れです。ですから役者や声優と同じく、歌手も歌などというのでなく叫んでいるものです。いかにも狙ったような男性ファルセットなどで伝えることよりも、よほどストレートな表現であることを、今一度思い出すべきなのです。
 結論として、やりたければやればよい。自分の責任と感性において、それで使うのも使わないのもあなたの自由です。表現に欠かすことができないものであれば、それはそれで成り立つ。問題はそこからどうみるかです。ですから、やってみないとわからないでしょう。つまり、そんな曖昧なことを大切な基礎レッスンの時間に、私は扱う気はないということなのです。

2014年2月 9日 (日)

歌わない B086

これは歌ってしまっています。たとえば「もう一度」の「ど」、「何でこういうことをやるのだろう」、「自分ではこうはやらないな」と思ったところは、ひとつのポイントですね。だから思うようにやればいい。違うことをやっても許されるところもある。可能性がある。そこで何かしら、あなたの個性が出ているという見方をすればいいわけです。
 歌というのは、皆、歌いこなすことから入ってしまうからよくない。人が与えた歌であっても自分が1からつくるというくらいの気持ちになって、起こしていかなければいけないわけです。

何でもやってみる。もっている分にはよい。 [論5-12]

どんな荒技も裏技も特技となる可能性があります。武器として、ある面では、使うことを前提としない特殊な技として身につけるのもよいでしょう。練習で試してみるのもよいでしょう。逆に、そういうバックボーンが、冒険心や挑戦心がないと、歌のうまさ、声のよさは、つまらなさになってマイナスになってしまうのです。
 どんな試みもプラスマイナスがあります。いつかはプラスプラスになることを目指しつつも、一つのトレーニングで何が得られるのか、そして何が失われるのかを知っておくことです。失われても後で取り戻せるものは、気にせずに冒険してみてください。ただ、取り戻せないケースでは、それでもよいのかをよく考えてください。
 そもそも、そんな心配をしなくてはいけないならやらないことです。誰も保証や限度を決めてシャウトしているわけではないのです。必要に応じて、表現は多彩に展開していくのです。

2014年2月 8日 (土)

13年ぶりの雪 お知らせ

東京では13年ぶりに大雪警報がでました。すぐにつもるので雪かきするのも大忙しです。

140208

表現方法 B085

カラオケ教本には、いろいろな記号が付いています。「感情をこめて」とか「ブレスを入れて」とかです。決まりきったものではなく、やっていきたいのなら、自分でこれを変えていく。変えていくのにも、歌の場合は原則を踏んでいきます。
 これをこう書く人もいれば、別に書く人もいると思います。人によってもいろいろ変わってきます。
 スタンスを決めていたことがあります。どこかにポイントをおく。うまくいかない人に全部言うのではなくて、どこかにしぼりこんで、それ以外のところを離していく。
 

応用ということ [論5-11]

声域、声量などと同じく、私にはシャウト、フェイク、アドリブというようなことなども応用プレーの範囲です。ファインプレーは客を興奮させてくれますが、ハイリスクゆえ日頃の練習ではやりません。テクニカルなプレーもレベルの低いうちはそこを見せ場にしますが、本来はファインプレーとかテクニカルなプレーに見えずに、さりげなくこなせているのが真にレベルが高いということです。
 第一、一流のアーティストは、ステージでシャウトしても、シャウトの練習はやりません。だからといってステージでできないのを、ぶっつけ本番ともいかないので、歌のフレーズ練習に組み入れているでしょう。というのなら、声―歌の両極のどのあたりにそれを位置づけるのかを考えてみることです。
 

2014年2月 7日 (金)

ソチオリンピック お知らせ

ソチオリンピックがいよいよ開幕します。モーグルの予選が開幕前にはじまり上村愛子選手は5度目の出場、ジャンプの葛西紀明選手は7度目の出場とのことで、モチベーション維持も含め、その精神力は素晴らしいと思います。

相対化する☆ B084

多くのトレーナーは自分がそこそこにできてしまったから、特に活躍している人ほど、同じレベルの人には対応できても、そうでない人をどういうふうにするのかというのを、本当の意味ではみていないわけですね。たまたま育った人がいるかもしれない。けれど、それがどこまでが教えた力なのか、その人自身の力なのかということは、比べようもない。
 ここは、他の学校いくつ分ものように、この研究所自体で、いろいろなヴォイストレーニングをやっています。うちの先生も外からきた先生も同じように扱っています。同じ生徒をそれぞれ、どの先生がどういうふうに扱っているかということを見て、客観性をもてるわけです。目的がはっきりしていたら、その目的に対してどういうふうに組んでいくかということだけです。

正論 [論5-10]

トレーニングでうまくなる、うまくなってもやれるのは違うことです。(やれるようになるための条件づくりは何回も述べてきたので省きます)私たちはすぐにできないところを取り上げ、そこだけを集中的によくしようと考えすぎます。できない、直らないのには、理由があり、それはすぐに直らないということよりは、すぐに直そうと急いで適当に繕うことをして、問題は根本的に解決されていないため、すぐに再発したり、そこで無理に解決させたことにより、限界や他のところに副作用が出ることがほとんとだということです。安易に直すという答えを出さず、直らない問いを抱え続けていくということです。
 本当はしばらく雑念を払って、もっと本質的なことをやっていくことで、実力がつくれて、副次的に解決できればよいということと、私はみています。
 

2014年2月 6日 (木)

演歌 B083

演歌はわかりやすいですね。基準がある。たとえば「オリジナル曲でオリジナルに歌いました」といわれたら、「そうですか」というしかない。基準がつかない。歌い方があるといっても、明るく歌えばそれでいいとなる。難しくしてしまったら、元も子もなくなるからです。ただ、その明るさがその人の声のトーンの明るさなのか、歌い方の明るさなのか、最悪、表情や動作の明るさなのかということによっても違ってくると思うのです。
 
 ルールがあるのかといったら1つのフレーズに対して、次のフレーズをどうつくるかくらいのところです。あまり何ともいえない。言葉で言ってしまったからといって、間違いではないでしょうし。

裏のトレーニング [論5-9]

シャウトに無理がかかるケース、無理のかかるシャウトには、無理、つまりリスクがあります。翻って、無理のかからないシャウトは、シャウトといえるのでしょうか。無理とは何かを定義して考えてみることです。
 シャウトをレッスン?や歌に使う分には、その後、声の調子が悪くならない(できたらよくなる)方がよいと思います。自主トレーニングでは用心してください。くせをつけたり、共鳴や発音を妨げたり、ピッチなどを不安定にします。
 歌として使うなら「何回やっても安定させられるか」でみるのも判断の一つです。
 私なら3回同じフレーズをシャウトして、一分の狂いもないものしか認めません。これはシャウト以外も同じです。もちろんその上で自在に変じるのは次のレベルでの判断です。
 そのためのトレーニングとなると正規のものはなく、「裏のトレーニング」となります。トレーナーの同意を得ず、本人が本人と格闘してみつけだしていくものです。この「裏のトレーニング」こそが、本人の表現世界を練り上げるための本質だと私は思っています。(「裏」だから書けませんからね)
 

2014年2月 5日 (水)

レッスン曲 B082

 昔の歌はレッスンとしてとてもいいのですが、J-POPSになったらどう歌ってもいいとなってしまう。どう歌おうかとなったときには、歌い手を変えたほうが早いということになってしまう。その歌い手の持っている素質と歌とをあわせて作っていくというのが難しいのです。
 演歌や歌謡曲のように、絶対にこの詞でこの曲がついているから、こうすると優れているという、基準のはっきりしている曲ですね。すると歌い手もこうやらざるをえないというのが見える。それを満たせないとだめといえるのです。詞がよくなかったり、曲とうまくついていなかったりすると、そのことではわかりにくくなる。渡している課題は、英語でもイタリア語でも、そういうのがはっきりしている。練習に使いやすいのですね。

やったあとでできるのか [論5-8]

団塊の世代あたりからの傾向としては、スパルタ式の人にハードに鍛えられ、彼らなみになれなかった人が、そういうトレーニングを否定しているわけです。案外と、声としては、紆余曲解を経て、最終的にはできている人が、「自分たちのようにやってはいけない」というのです。それには、私は必ずしも賛同できないのです。
 特にそれで声をダメにした人が「自分のようにならないように」言うならともかく、その後の指導や自分自身の発見したやり方でよくなったと決まって言うからです。その声で充分に人を教えているなら、「昔のは間違い、今のは正しい」とは必ずしも言えないのです。そういう鍛練や試行があったからこそ今の声があると私は考えます。この問題はこれまでたくさん触れてきました。(野村監督のあとの星野監督の優勝はどちらの手腕か、というようなことも) 誰でも昔の間違い、それを克服して今があると思いたいのです。今のが本当に正しいのか、昔のが本当に間違っていたのかは、簡単に判断できませんが、だめな私がこの方法でよくなったという成功ストーリーこそ、教える秘策ですから。
 私は役者やミュージカルの「悪役声」に経験や研究を重ねた時期がありました。やはり、その人の適性がものをいいます。しかし、この適性もトレーニングを続けていくうち、変化してくることもあるのです。まして、10年先、20年先までのデータはまだまだ不足です。
 確かなことは、声にはメンタルもフィジカルも、トータルとして関与しているということです。気弱になったり、充分に使おうとしないなら弱化していくのです。
 

2014年2月 4日 (火)

客観視する B081

主観だけになってしまうリスクも大きい。私も自分のことをいつも見て言っているように、です。
 そうではないところで言っているのに、受けている人には、こういう解釈じゃなくて、いろいろな選択のひとつくらいになってしまう。イタリア語や英語だと、こうなんだということが言いやすい。日本語はそういうふうには聞かれていないから、アドバイスがしにくいのです。
 

タブーとはいえない [論5-7]

仲代(達矢)流の喉の鍛え方も一流のなかでは、一理あるのです。当時は、体も鍛えていましたから、筋トレの筋肉再生理論のような感じで声にも応用されていたであろうことは想像に難くありません。
 ただし、ストレートに筋肉の理論が競技に影響するアスリートと、呼吸を音声の変換として使う発声という特殊なメカニズムが生じる歌手=アーティストを一緒にはできません。
 

2014年2月 3日 (月)

やれるようにやる B080

 ポップスを歌っている人は、何もやっていないということでは変わらない。それをどう組み合わせるかというのは、もうきりがありません。
 1番のところで1つか2つ伝える。2番のところで動きか何かで1つ2つ伝える。3番のところで、1つか2つ伝える、そのことを中心に考えて、構成をとっていかないと、ばらばらになってしまいます。
 感覚の練習には、いい曲です。使えば使うほど曲が大きくなって、体が耐え切らなくなってしまう。どこかでまとめていかないと、全部を歌っていくと大変な曲になりますね。ピアフみたいになってしまう。あれだけの声を持っていけるのならいいのですけが、ああいうかたちで全部歌ってしまうと、のびのびになってしまう。いくつかを動かしていけば、充分でしょう。

声力の低下 [論5-6]

もっと大きな原因は、日本では歌に生の声の力が求められなくなってきたこと。一般の人の声力の低下が背景としてあります。
 声楽でも、声、声帯や喉を鍛えるという考えは、ここ20年、30年、かなり廃れてきたと思います。日本では音響や照明など、装置技術が著しく発展したために、どんな人の歌もへたには聞こえないようにできるようになりました。カラオケを考えればよくわかります。
 しかし、これは芸事の底辺を支えるものではありません。役者の応援団ばりの大声トレーニングも最近は昔ほどのものでなくなりつつあります。幼いころから大きな声を使わなくなった今の若い人には耐えられないからです。声を壊すリスクを増やすだけと思われるからでしょう。
 

2014年2月 2日 (日)

レッスン復帰 お知らせ

1年ぶりにレッスン復帰されたNさん。以前とお変わりなく、トレーナーともスムーズにレッスンに入りました。

計算する B079

プロは計算してやるのですが、結局はそのときの感覚ですね。そのときにどこまで強くできるのかによって、どのくらいに降りられるかです。強くできなくなると、次に弱くできなくなってしまうのですね。だから、「火」でも「燃やす」でもいい、自分でここまでだと思うところを、はみ出るくらいにやってみましょう。次のところで呼吸が合わなければだめですが。
 練習のときには、大きくやっておけばいいと思います。練習のときに本番のように失敗できないと思うと、冒険できないわけです。すると器が小さくなってくるのです。常に練習ではそれを破る。
 ただでさえ、お客さんの前にいったら、はみ出すことはできなくなってしまう。練習のときにそこをやって、それで本番でまとまるのと、練習のときにまとめておいて、そのまままとめて歌うのとではインパクトが違ってくる。
 一番つまらないのは、最初から最後まで何も起きないこと、おさまってしまって歌われる場合ですね。

トレーナーのネック [論5-5]

こういう当たり前のことがみえなくなったのには、大きな背景があります。ひとつは、一般的にヴォイストレーナーの扱う対象が、声に難点がある人、声域や声量のない人、喉の弱い人になりつつあること。
 例えていうと、体力のない人が対象であれば無理に走らせるのはよくありません。でも、この場合、目的が人前で走ること、つまりレースに出るということなら、体力のないのを、その範囲で調整して生活をおくらせていても、体に無理がないだけで根本的な力はつきません。むしろ、体力をつけさせることが肝心でしょう。なのに、そういう人ばかり扱っていくと守りに入り過保護になりがちです。
 多くのケースでトレーナーにつくのは、そのトレーナーより声のない人ですから、どうしてもこのようになるのです。
 無理しなくてはいけない時もあるのです。というよりは、無理ばかりでやり続ける力が、歌手、役者など、声や体をはってやるアーティストの魂ですから、他人にとっての無理が自分には無理にならないくらいに、トレーニングで無理していかなくてはなりません。
 無理といってもいろんな程度があります。早くレベルが高くなりたければ無理が生じますし、小さい頃からじっくりと時間をかけて取り組んでいくと、自然に無理なくすぐれることもあるでしょう。なのに、多くの人が「早く」と「無理なく」を両立させようとするので難しいのは当然でしょう。
 
 さらに最近は、トレーナーについて「声を損ねた」とか、「これまでより悪くなった」と言われると困るから、即効的な効果に走り、一方で無難に過保護にならざるをえないのです。「客に応じる」というとよいことばですが、芸や一流の力をつけるというのは全く別のことです。トレーナーは、医者やカウンセラーではないのです。(そういう役割も一部あるとしても)
 

2014年2月 1日 (土)

2月号 NO.270 お知らせ

2月号(NO.270)の会報がでました。

「プロフェッショナルへの伝言」「レッスン録アーカイブ」ブログ更新しました。

レッスンとステージ B078

その人の意図を、どういうイメージをもって、どう解釈して、どういうふうに歌おうとしたかというところを見て、そのことに対して、どのくらいできているのかというところで、発声、そのためのヴォイストレーニングをみます。
 歌になったときは、声のよさ、流れ、歌詞と別なのですね。レッスンでの発声と、ステージで期待される歌い方は違っていい。両面からやっていくべきだと思うのです。
 ステージングということになると、一般の観客を対象にした現場中心となります。タレントやアイドルへのアドバイスに、曲の本質的な部分は、なかなか表れてこないのが現状でしょう。年配の人だと、知っている歌ではイメージ想起力になってきます。
 

喉を壊さないという目的の是非 [論5-4]

「壊したら強くなる」この考えは古来より日本に伝わっていました。邦楽、そして、役者では新劇あたりまで、仲代達也さんくらいまでの世代には、違和感のない考え方でした。しかし、これは今のヴォイストレーナーや医者にはほとんど賛同できない考え方となっているのです。
 しばしば私は、「科学的に」、「医学的に」という名の下で、まだ完全に実証できていないことをあまりにも、当然のごとく振りかざす、こういう風潮にも異を唱えています。
 「絶対無理してはだめだ」というのは、「無理」は「理がなし」のですから、今だけをみるなら、その方がよいのに決まっています。でも本当に「無理なことなのか」ということです。声が心配なら、あまり出さない方がよい。でも「声の心配をして、喉を守ること」が絶対的な目的や条件なのですか。本当の役者や歌手なら、いや、声を使う人であれば誰でも、「いつも心配しないで声を出せること、そのようになること」がもっとも大切なことのではないのでしょうか。
 

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