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2014年3月

2014年3月31日 (月)

投げて戻す B125 

  どういうスタイルをとるにしろ、感覚的にいろいろなことを起こして、戻さなければいけないということです。放り投げたらどこかで拾わなくてはいけない。拾えなければ投げられないということになりますから、そこにトレーニングが必要となります。
 放り投げること、そういう世界があることさえ考えないからつまらないのです。最初は拾えなくてもいいから放り投げてみる。そのうち、おさまるところにおさまっていく。それでいいと思います。別に他人の曲でやるということではなくて、どんな曲の中においても試みましょう。

老化しない [論9-3]

 老化の傾向は、それを意識するということでは、確かにあります。昔なら起きなかったことを体の機能や生活のなかで感じることがあります。
 すると、少しでも時間を体操や初期の頃の発声トレーニングにあてて、戻そうとするわけです。その意識の継続こそがトレーニングのベースです。
 あまり、食べなくなった、体重をも増えなくなった―なども、仕事というか、コンディションの乱れを嫌がる自意識が制御し始めているのでしょう。そして、心身の問題に自らが面して初めて、本当の意味で学べるのでしょう。
 幸いなことに、研究所ですから、私一人でなく他の人を巻き添えにして、パーソナルトレーニングを行えます。(パーソナルトレーナーというのはフィジカルトレーナーのことと思ってください)同じ施術がどう効くのか、人によってどう施術が違うのか、そのビフォーアフターや、その先1週間後、1か月後のことなど、はるかに多くの情報が得られるわけです。そこで、声と体との結びつきについて、改めて多くのことを学ばされています。

 

2014年3月30日 (日)

動かす B124

 本来その動かし方によって、演奏というのは評価されるものです。楽譜を動かせないアーティスト、この場合、ヴォーカリストというのはありえない。なのに、日本の場合は声を聞かせるようなことがあったり、詞で聞かせる部分が大きいのです。音楽の中でどうフェイクしていくかということです。
書いてあるものを、ただ読み上げたらいいのと、即興で何かを起こしていかなければいけないのとは、レベルが違うことです。
 

体験する [論9-2]

 私は「頭でっかちで理屈っぽいので、素直になれ」と人に言いつつ、新しいことを始めたり、これまでのやり方を変えるには、けっこうかかります。特に自分の体のことを他人に委ねるときに完全な信頼を持てないせいか、他の人ほどの効果が出ません。肩こりも腰痛も頭痛も、この齢まで大して経験していませんが、その分野の一流の人からみると、いろんな問題があります。それを認められるようになったのも、一流といわれる人たちに会うようになってからです。また、体の専門家の意見や見解を否定できるだけの自分の体験はなかったのです。それぞれに指摘されるところも違うので、レッスンにくる人たちも、このように迷うのだと、よい体験になっています。
 ただ一方で、声に接してきたのですから、自らの体の不調は、声を通じて鋭いとみています。出にくくなれば、ほぐしたり、呼吸を強化したりして、自然と調整しているようです。年齢とともに普段の生活と別にそのような時間を取るようになりました。

 

2014年3月29日 (土)

収捨と収納 B123

  離れてどう戻すかということ。それは癖であったり個性であったり、真似ていいものではないとしても、似たものになる可能性があるということです。
 ときには、ただ歌うのではなく、誰風というものを真似て、そういう動かし方に慣れていきます。いろいろな発想をして変える。きれいに歌われているものを、ここまで動かしてしまうことも許される。それどころか、そうしなくてはならないのです。

 

「ヴォイトレ二極論(2)」 [論9-1]

Q.メンタルとフィジカルの要素を知りたいのですが。

○誘導する

 パーソナルトレーナーと5年以上、徹底した体の研究をしています。私は体が弱いけど健康です。体の故障、大けが、大病、大手術などもなく、マッサージや整体なども必要としなかったからです。人一倍、体は10代で鍛え、改造、強化もしました。その分、他人の体に無知だったのかもしれません。
 その前には5年以上メンタルトレーナーとしての強化をしました。これは、鬱など、メンタル的にまいる人の問題への最新の対処法を知るためでした。
 メンタルについては、周りの状況との関わりがあります。私は、一般の人よりは大きな振り幅で生きてきたので、有名人ほどの苦労や、プライバシーの侵害や被害などはなかったものの、死に損なったり、大舞台に立たされたりしてきました。海外を50カ国以上も回っていれば相当にショックなことにも遭遇します。そうして鍛えられてもいるし、一方で弱くもなっているわけです。
 感受性の問題は何とも述べられません。しかし、全ては、ヴォイトレにおいても相手を知ることから始めることは、人間関係や人間性についての深い洞察や経験は不可避だと思います。

2014年3月28日 (金)

三母音の「イ」 V211

「イ」は人が直立歩行して獲得した音です。喉頭が下がり、しかも首が立って声道が喉の奥から口に対して直角に合っていないと出せません。このフォルマントは、そういう状態のつくれない動物や赤ちゃんには出せないのです。
 このように発声器官そのものの変化、成長は、人間の人間たる言語に極めて大きく影響しています。その意味を代表する音が「イ」です。「イー」「イヤだ」、など、やや挑発的な音の響きにもなるし「イイ」「イーわ」のように穏やかに落ち着いた感じにもなります。両極端にブレやすい音のように思います。
 「ア」に比べ、「ウ」「イ」は出しにくく、歌でも苦手にする人が、特に高音では多いようです。しかし、声楽などでは上達するにつれ、「イ」の方が楽に高く、しかも共鳴させられます。口内の息、軟口蓋の方を高く上げられるために声道が長くしやすいのです。あごを引くことも関係します。
 「ア」の発声は、誰でも出てきやすいようですが、中音域の声と同じように適当にも出てしまうので、本当に調整していくのはやっかいな音です。日本語のようにもともと浅いと、そのままで定着し、発声や共鳴のなかで後々まで浅く固いまま、未完成に取り残されかねません。アマチュアの多くが「アー」で練習するのに、声楽家がそれを必ずしも使わないのは、長年使ってきたため、間違いやすいし、また深まりにくいからです。
 実際には発声練習では、母音だけでやるより、子音をつけている方が多いのではないでしょうか。その方がやりやすいのと、マスターしやすいからでしょう。
(参考、「Q&Aブログ」「トレーナー共通Q&A」の「発音」について、共鳴の前のきっかけの音として子音やことばをおいた方が、深めやすいのかもしれません。言うまでもなく、トレーナーの腕しだいで、使う音は大した違いはないともいえますが。)[完]

ループ B122

 声と作品を結びつけていく。
「わかれましょう」でつくったフレーズが、「あなたが」に入る。その動きを見てみます。その動きが平坦にならない。そこには、いろいろなイメージがあっていいと思うのです。
 ループをきちんと描いていくようなかたちで、「あなたが」というところに平たくならずに、自分がつくったフレーズを覚えて、そこに掛け合っていく。

2014年3月27日 (木)

三母音の「ウ」 V210

 「ア」の次に「ウ」を取り上げるのは、我ながら斬新的な試みです。大体、発声発音練習は「アエイオウ」、「アエイウエオアオ」、最近は、「イウエオア」、「イウエオアエイオ」などが使われます。(母音発声のメニュ)
 母音は、「ア」が最初、」そこから「ア」ー「イ」、「ア」ー「ウ」という2つの方向があります。口の形でいうと、横の方向と奥の方向ですが、それは口の開け方ではなく、口内の空洞の作り方、即ち、舌の位置の違いです。
 全体では、「ア」ー「イ」ー「ウ」(ー「ア」)の三角形となります。
 そして、「ア」ー「イ」の間にエ、「アーエーイ」
 「ア」ーウの間に「オ」、「アーオーウ」
 で5母音なのです。
 「アーエーイーウーオ」(ー「ア」)の五角形になるわけです。よく使われているのは、四角形ですが、それは「アーエーイ」が一直線に並ぶのに(2点上)「アーオーウ」は、少し「ウ」がずれる(3点)ためです。このあたりは、使い方によっても、前後にくる音など、場合によってもかなり違うものです。
 「アゥ」と言うと痛いですが、「ウッ」では腹を蹴られてうずくまるような感じですね。「ウウウ」は威嚇で、犬などを思い浮かべませんか。犬は「ウ」が出せるけど「イ」は出せないでしょう。それで「ウ」を先にしたのです。

 

線=フレーズ B121

   まず聴き方からです。聴いているときに声を出して線をつなぐというところで聴いてしまうと、そのことが形としての完成形になってしまう。線をつないでいるのではなくて、どうしてそういう線なのか、その線の中に何を起こしているか、何をのせているかということを聞いていく。
 表現について、こういう人たちは、声が自由自在に扱え、もっと大きな声も出る、なのになぜそうしないのかというように考えてみたほうがいい。そうでない所を気をつけてみていきましょう。なぜあけているのか、なぜ途中でとめてしまったのか、なぜこんな短く切ってしまっているのかという部分です。それを形でなく、そうなる前の動き、さらに動きのその前をみるのです。

2014年3月26日 (水)

三母音の「ア」 V209

合唱団などで、指導者(おもに指揮者)は、音の高さを、体や手や指揮棒で示します。数値(○○セントなど)にするなど、音の高さを数量化して例えている教え方もあります。
 小中学生の発声の習得などにおいて、母音を体全体で違いを感じるようにしている教え方もあります。母音の響きによって、その広がりに口内はもとより体でも感じ方や体感が違うように感じるからです。その差を発音の発声指導に活かすわけです。
 発声練習に母音がよく使われるのは、共鳴音(有声)で妨げないからです。
 発声練習によく使われるのは「ア」です。あくびの「アー」です。口が開き、本当は口でなく、口のなか、軟口蓋が上がるようにですが、喉頭が下がり、声道が充分に確保されるようにすると、共鳴しやすく、しかもリラックスするのです。外に響かすには「ヤァー」「タァー」などの方が強く出せることもあります。言語以前に遡り、つまり、共鳴で高音を変えながらマスターしていくのです。これを体操のような形で体の動きとともに発声(発音)をマスターする方法もあるからです。

 

基礎 B120

   フレーズをつくって、そこのフレーズのどこが落とし込みか、どこが離すところかの動きを2箇所くらいでやってみましょう。
 こういうところのフレーズを動かすことに徹底して凝っていくのは、もう、詩吟とか長唄の世界にしか残っていないのかもしれません。下手な発声練習をするよりも、こういうことを確実にできるように、最低でも3年くらいかけるべきではないかという気がします。できてくれば、いろいろなことができると思います。

 

2014年3月25日 (火)

聴音能力 V208

 誰もが外国語のネイティブな発音にこだわり憧れます。しかし、コミュニケーションにおいては、発声能力の劣っていることの方が、私は問題だと思います。
 先に、声量が第一と述べた通り、いかに発音が正しくとも小さな声では伝わりません。息が強くないと伝わらないことなどが、日本人にはとても多いのです。
 それは日本語が、あまり息を強く発しないからです。日本語は高低アクセントでは音の高さが分かることが必要です。その点、日本語は母音が子音のあとにすぐについて一体化しているので、多くは共鳴(有声化)します。息が強すぎたりハスキーではわかりにくくなります。また、強弱でみると、ほとんどがメリハリなく平坦なのです。
 強弱アクセントでのリズムの動き(チャント)で聞くような欧米人には、この小切れに棒読みしているような日本人のカタカナ英語では聞きづらいのは当然です。まるで、「ダダダダ…」と銃弾のようだという人もいます。私の「日本語の等時性」について述べたものを参考にしてください。どの音も同じ長さに伸びるということです。
 強拍に巻き込まれる子音が連続するような英語などの感覚は、日本語にはないために聞き取れないのが当たり前です。
 外国語の学び方、教育については私が述べるまでもなく、いろんな提言がなされていますが、まず母語である日本語で、自分の考えをきちんと組立て、しゃべることのできるようにするところからでしょう。

上と下の響き B119

  この当時は、今のように「あなた」と歌っても、そのまま「あなた」といえないから、こういうフレーズでは、「あなた」と聞こえるまで大変だったわけです。日本人が歌うと、上のほうに、鼻にかけて「な」のところで持っていきます。  
 もっと以前の歌い手は、ほとんどそこの部分でやっていた。それが上の響きということです。日本人というのは、上にいきやすいのだから、上の練習をすることよりも、体の方をつけなければいけない。
 声楽で上のことを学ぶとよいのは、声楽をやっていない人です。とはいえ、民謡を歌っていたり、都都逸をやっていたり、小唄をやっていた人も、鼻にかけて歌えていたわけです。日本人が、必ずしもそうやらなければいけないというのではない。私も、直感的に全くその必要性を感じなかったのです。

2014年3月24日 (月)

ホームページ お知らせ

ホームページのトップページを更新しました。

「よくあるご質問」も入りました。

外国語の音声 V207

 私たち日本人が外国語の習得、特にヒアリングと発音に弱いのは、アグレッシブとはいえない控えめな性格や、同一民族での農耕生活であったことからの必要のなさ、学び方(教育)の他に、私にはその結果とも思えるのですが、日本語が音声としては、いたってシンプルな体系であることです。それゆえ、より複雑な発音体系を持つ言語は習得しにくいのです。反対に、日本語を学ぶのに、欧米人などが漢字、カタカナ、ひらがなにため息をつき、中国人が、漢字を彼らほど大変と思わないのと同じです。
 母音を5つに、しかも曖昧にしか区別していない日本人が、たとえば、アだけで5つ、母音が26もある英語に悩まされるのは当たり前でしょう。韓国人、中国人は、子音などに強い息を使うのですが、それだけでももう少し日本人よりは楽です。
 長年、日本に住んでいても、どこの外国人かわかってしまう発音のくせや、その組み合わせというのは、だいたい母語にない音です。母語から違う音で最も似たものを代用しているからわかってしまうのです。私たち日本人がLのもRのもラで代用しがちなのはそういうことです。
 とはいえ、人間の発声や器官の構造は、それほど大差ないといえます。機能としては、絶対に発せられない外国語の音はないのです。
 実際のところ、日本語の日常会話のなかでも英語に必要な発音のほとんどは、すでに使っているのです。ただ、認識していないので、そこだけ切り取ったり並べ替えたりできないのです。発音の能力は、この認識ができているかどうかです。それで聞き取りも発音も左右されるのです。

つなぐ B118

一拍1音をどうつないでいくか、音をつないで線にするのではなくて、元々線がある中に、音をどういうふうに置いていくか、音楽のほうから考えましょう。
 強拍がないからインパクトがない。でも、日本ではこういうふうな感じで聞こえるもので評価されるというふうに見てもらえればいいです。そこは、日本語らしくきれいに処理していいと思います。その一つひとつを言っているのではない、こういうところは一番練習になります。

 

2014年3月23日 (日)

世界の音声 V206

 世界中の人が使っている音と特定のエリアの人が使っている音とを比べてみましょう。英語と日本語など、実際の言語を比べてみるのが早いですね。いわば、比較言語学です。
 たとえば、国際音声記号というのを使うと、およそ人類のすべての言語の音声(調音点、調音法)を記述することができます。
 たとえば舌を歯茎と軟口蓋に同時につけて出すなどという発音は、人間には難しいので言語の音として使われることはそうはないでしょう。
1、 人間としての共通の楽器部分で出せる音
2、 自分の使う言語に含まれる音
どの言語も母音と子音をもちますが、それはそれぞれ異なります。
 とはいえ、母音とは、共鳴した有音声、子音とは息や共鳴を妨げる(加工する)音ということでは共通しているのです。

アプローチ B117

 全部歌う必要はありません。ポイントを絞り込んで、たとえば「壊れそう」の「そう」だけを同じにする。そう簡単に同じことは全体にはできない。1箇所だけ同じところだけ追いつこうと思って、聴いてみてください。
 気をつけなければいけないのは、いかに日本人から離れられないか、といったら変だけれど、聞いているようで形やテクニックしか聴いていないのかということだと思います。
 全体的に、本当にクリエイティブに聴いていない。1箇所ずつ聴いていくと、一流の歌唱ならちょっとは聞こえるようになる。といっても、全体では聞こえなくなってしまい、どうしても真似て元通りになってしまう。ほとんど逆のことをやらなければいけないのに、と思っています。

2014年3月22日 (土)

声の感じの力 V205

 声は年齢によっても変わります。さらに語感にも、声の感じが強いと思われるものがあります。私なりに分類すると
1、 語感―ことばの音声と意味の割合が強いもの
2、 音感―発音の感じの割合が強いもの
3、 声感―声の感じの割合が強いもの
感嘆詞などがわかりやすいのですが、同じ音やことばでも、言い方で全く伝わるものが違ってしまうのです。普通は、ある意味に決まっているのに、言い方で逆になるものもあります。弱く言うと勧めたり促すことばも、強く言うと強制になります。肯定文でも語尾を上げると疑問や反語になります。この辺りは、どこの言語でも似ているのです。
 もしかすると、言い方次第で何でもyesもnoになるくらいに意味は変わるのではないでしょうか。うまく言うと、ほとんどのニュアンスは変えることができるのではないでしょうか。
 表情だけでも大きく変化させたら意味は変わるものですから、次のような段階で変えるのは、そう難しくないのです。
1、 息、声
2、 語。モーラ、音韻、1音(もしくは1拍)
3、 ことば

アンチクリエイティブ B116

 今の人はあまり声を聴きたいわけではないから、歌手が保守的になります。声のところでのライブ、即興、冒険では、粗がみえ、フラットしたり、リズムのノリが悪くなってしまったり、何かが起きてしまったことのほうが、目立ってしまいますね。重くなってしまう。
 だから本来は、動かせる部分をさっと動かして、後は投げ出すような感じの歌い方です。投げ出し方を、ある意味のいい加減さをこういう見本から学んでもらえばいいですね。

 

2014年3月21日 (金)

生活と声 V204

語感については日本語についても、何人かの研究者がいます。一読してみるとよいでしょう。音感もまた、語感と同じく発声の原理、ここでは生理学に基づいて考えた方がよいですね。
 母語というのは、それを使う人たちの性格、文化、風土などとともに生まれ育って受け継がれてきたものです。その点、性格や顔のつくりにも似ています。
 南極に住むイヌイットの言語体系は、赤道直下のハワイ語と明らかに違います。その土地の風土によって違います。狭い日本でも、東北弁と博多弁を比べてみるとよいでしょう。
 季節の影響というのは、寒いから口を開かない、動かさない、あまりたくさんしゃべらないなどにみられます。空気の乾燥によっても違いますね。
 食生活でも違うでしょう。肉ばかり食べる人とベジタリアンなどでは、顎の形、開閉度、噛む強さ、つまり、発声をするための楽器(体、顔)も、その使い方(呼吸、舌、顎、口、唇)も違ってくるわけです。

歌いすぎない B115

全部、歌っているように聞こえる。プロのほうが休んでいます。踏み込んでその後に空白をあけている。実際に測ってもそのくらいです。
 クラシックをやるのだったら、まだいいと思います。クラシックのやり方で鍛えていくことも手法としては悪くないと思います。
 練習のときに、直接的に入っていくのだったら、相対感覚を利用します。皆が70くらいでならすとしたら、一箇所100ぐらいでもつくっておいて、その代わり、後は20、30にしてもかまわない。それをいくつとるか、4つくらいとれると思います。
 70で全部引きずっていったら、聞いている人はだんだん飽きてきます。クラシックは違います。70なら70、100なら100、ポップスの場合は変化をみせるのだから、70でずっと歌っていると、20と50で使いわけている人よりも、聞いている人には、退屈になってしまいます。
 確かに出せるのはいい、本当に肝心なところに出して、「こんなこともできるのか、ならもっと」ということでやるのです。最初から、高密度で歌っていくと不利になります。

 

2014年3月20日 (木)

スタジオボード お知らせ

事務所前のボードにもスタジオにあわせトレーナー名をつけました。1階までおりなくても確認できるため、ご活用ください。

ネーミング V203

人間がことばをつくるときに、赤ん坊の喃語から明瞭な母語になっていくように、曖昧な音声が少しずつ明確に区分されてきたのは、間違いないでしょう。特に外国語は母音の音も、子音の音の組み合わせが複雑です。
 日本に来た外国人には、漢字に興味を持つ人が多いのですが、それは象形、万国共通の理解ができる形(形象)を楽しんでいるのです。川は、誰が見ても流れを表します。こういう研究は日本ではとても盛んでした。白川静氏の古代漢字研究のような偉業もあります。
 体や呼吸の分野で体操の野口三千三氏は、「野口体操・からだに貞(き)く」という代表作のタイトルでわかるように、漢語や起源も研究しました。竹内敏晴氏など、皆、音声や体のことでも、深めていくと、日本語の研究、さらにその先では漢字の成り立ちに行きつくようです。
 企業も同じですね。社名や商品名についてもブランドとしたい前の語感について多くの人が研究しています。

 

子音のピッチ B114

子音の場合は、いろいろなところで音を作れてしまいます。高くなるのに母音ほど力がいらないわけです。それを高いとか低いということではなくて、体で持っているのです。最高音は上のソくらいです。今の人たちにとって「ソ」は、そんなに高いわけでもない。ハイCくらいで出して歌っている人もいます。
 体から考えたときには、こういうふうに考えたほうがわかりやすいでしょう。クラシックの歌い手はそうやって伸ばしているわけですからね。

2014年3月19日 (水)

せりふの分解 V202

 せりふを、分解してみます。意味は省きます。せりふは語感の組み合わせです。一語の発音の感じが組み合わされるので、リズムやメリハリが変化します。
 感嘆詞でも、ああっ、ああ、ああ、あ~、あー、あ”、と字で表すには限界がありますが、日本人はうまく字の形を変えたり、絵文字などを使ってフォローしていますね。まさにそこがリアルにおいては声の役割のところなのです。その使い分けを上司、同僚、部下と3つにシュミレーションしたのか中経出版の「人に好かれてきちんと伝わる声になる本」(CD付)です。

外国人の強さ B113

 日本人はずいぶん正直にそのまま歌っている。外国人は最初からクリエイティブ、はっきりストレートでわかります。日本人がミュージカルで声を壊すのに、外国人はなぜこわさないのか。半分以上休めているのではないでしょうか。私の仮説です。
 アナウンサーは1分の中で30秒しかしゃべっていなくても、1分話していることになる。日本人は50秒くらいしゃべっていて、その分、声帯を使っているのです。喉のところで声をとり、響かせることをやっているから、喉がなっているわけです。

 

2014年3月18日 (火)

声としての差 V201

最終的に問われる、その人の魅力や存在感というものも、音声では最低限のことをやる、つまり、はっきり聞こえるように言えることが、第一となります。そのことが個性を出すことより優先されます。
 歌や芝居のうまい人と、印象に残る人の違いは、声においても明らかな差があります。日本では、ますますルックス、ヴィジュアル面が優先され、声の力がなおざりにされているのは残念なことです。とはいえ、映像優先の方向にずっと動いてきたのですが。
 ここでは韓国ドラマ、時代劇で学んでください。主人公やそれに準ずる役と、数日しか登場しない役者との声の違いを知ってください。台詞は台本をつくる脚本家、見せ方、撮り方や構成は演出家、監督の責任です。そのせりふをどのように表現するかが役者の真骨頂なのです。

3次元的なのり方☆ B112

昔は音響技術が使えない分、ベースの部分がしっかりとあって、そこから上の部分にいく。高音というよりも、歌のクライマックスやピークの特徴として、上から入る感覚、サビのところで、ビデオを見るとわかりやすいのですが、3次元的に入っていくような発声を示します。
 これまでの延長上に盛り上げても、聞いている人にとっては同じようなものでしかないわけです。これが驚きに変わるためには、こういうところではないというところから入っていく。効果があるのを狙っているとしても、そこでの幅ですね。
 普通で歌っていくと、必ず落ちていくわけです。また拾って背負ってこういうふうにやっていく。そうするとこれ自体はつながらなくなってしまうから、ここでの滞空時間、ブレスをしなければいけないから、その分落ちる、でも流れとして持っていたら、落ちないわけですね。そういうものを削っていったときにどこまで出していけばいいのでしょうか。

 

2014年3月17日 (月)

音色と味 V200

私が一般向けのテキストをつくるときは、ことばの意味に加えて、専門である声の使い方を入れています。ことばにならないところは、本では述べられないために、CD付になるまで出せなかったのです。(そうなっても教材として、ことば、発音中心にせざるをえないのですが)語学を耳で発音を聞かずに学ぶと、実際の会話になったときに通じないことと似ています。
 最近のCDには、定型である、あいさつことばを加えています。誰でも「おはようございます」と言っているのですが、どういうものが伝わるのかを学びます。同じことばに違いを出す、そこが声なのです。
 もとい、芸事でも芝居でも、正しく間違えないで言えたかなどは問われません。(間違ったら失敗です。言い直しが多ければ失格です。正しくいえることは前提ということです)
 どう言ったのか、どう伝わったのか、それを決めるのは相手役でなくお客さんだという勝負なのです。落語でも、100席覚えて入門から、二つ目、真打になると、噺の数でなく同じ噺を、いかに客に聞かせられる力があるかが問われるのです。
 それには一つの噺を何百回も練習しなくてはいけないわけです。ただ、数をやればよいのでなく、他人のネタでやっても、自分の味で出さなくてはいけないのです。挨拶も同じです。

 

どこまで B111

今や、やったからといって、これだけの効果があらわれるかというと、すぐには出てこない方が本質的なものでしょう。音響が発達して、エコーによって、何とでも聞こえてしまうわけでしょう。
 ポップスである以上、それを踏まえなければいけない、エコーをかけるところにビブラートをかけたりすると、なおさら乱れてしまうわけです。
 実際にこういうふうに聞かせたいときに、最低限どこまでのことをやるのかということです。ここのところでこういうふうに踏まえておくと、ここまで聞こえる。それをどこまで受け止めるか。

やり方+α [論8-14]

 プロの人には、ステージの予定を聞いて、それを踏まえてレッスンしています。つまり、どんなヴォイトレにしろ、現在のステージにマイナスになることはできないのです。
 多くの人は調子が悪くなったらヴォイトレに行く、するとよくなる。ステージの前にヴォイトレに行くという人もいます。それは、調整やマッサージのようなヴォイトレです。
 先述したプロ野球の二人はベテランのプロであって、全て普通の人よりも恵まれた心身を持って、実績をあげた人たちですから、それぞれトレーニングによってこれまでを「失うのが怖い」という感覚は正しいと思うのです。自分のやり方があるということです。
 トレーナーはそれを知った上で、別の可能性や+αを考え、実践します。あなたと合意の上に研究、トライアルすることもあります。それをイメージさせたり、プロセスをクリアにするのはどうしてもイマジネーションとして伝える言語力がいるのです。そのあたりはすぐれたパーソナルトレーナーと同じです。[完]

2014年3月16日 (日)

声として視る V199

 私は言語よりも音声、ことばよりも声としてみるのが専門です。歌には歌詞があることがとても重要で、特に日本人にはそこが大切です。しかし、私は、歌詞はのっているだけ、声だけで、まずは楽器レベルの演奏として完成させてくれという、ことばを引いて受けみる立場です。ここが歌謡曲や演劇の先生と違います。
 私も、この純粋な専門分野だけで仕事をするのは稀となりつつあるのかもしれません。
 ことばを大切に語るように歌うこと。マイクがあれば囁き声でも使えます。
 それに対して、オペラなどでは、声が届かないとことばも伝わりません。音量、共鳴、さらに楽器として、美しい音色、人間の完全なコントロールとして極限に近いハイトーンでは、発音よりも発声、共鳴が問われます。
 私がクラシック歌手、いや、声楽家は共鳴(音声)のプロと述べているゆえんです。ですから劇団四季のように母音を明確にするところから入るようなのは、けっこう負担が大きいわけです。
 オペラは、落語の定番の噺(枕やMCなど入らないもの)と同じようなもの、スタンダード曲と同じです。内容が分かっているなら、通の人が聞くなら、その分、ことばは第二義のものになります。今や、総合芸術であり、構成や衣装、ルックスなども問われますが、もとは声を競う芸術でした。その点、邦楽、詩吟なども音色やフレーズ、つまり喉の方が優先されているように思います。

フォームの改良 [論8-13]

 フォームの改良というのは、これで成果が限界、もうよくならないと本人が思わなければ、なかなか難しいものです。ことばと同じく発声や歌は、これまでやってきたものが全てくっついて今のあなたが状態だからです。体も、一気に痛みや副作用を超え大きく変えるのか、少しずつ変えるのかは人によって、本来は違うのです。しかし、プロを目指す人が結果を10年、20年先に送れなくなってきたのがそもそもの問題です。
 参考までに調べてみると、野球では一流のプロでさえ、「現場で調整してこそ上達する」という考えと、「筋トレなど特別な場で鍛えて補強すべし」という考えがあります。
 どちらもそれで成功してきた人たちの見解なので、本人にとっては正解だったのでしょう。しかし、自分のやり方以外でやると、これまで持っていたものが崩れるようで、怖くて変えられなかったと、どちらも正直に言っているのが印象的でした。
 もしかすると、もっとよくなった可能性もあった、しかし、今はあるものでやるしかないのです。

2014年3月15日 (土)

著作物使用

福島英の本「声のトレーニング」他が、学校や塾のテキストに多く引用されています。

ことば以前と省略形 V198

たとえば、「おはよう」と言うのと「オッス」、「オッス」は「おはようございます」の短縮形とも思われます。一方、上司が部下に「おはようっす」などと言われて、「オッ」「アア」と応じると、そこでは承認の返答として、その表情や音が意味を持つだけで、ことばにはなっていません。
 感嘆詞などでは、このような形でことばを感嘆して略してしまっているともいえるのではないでしょうか。もちろん、定番?としては先になんとなく感じの声が出て、そこに、より伝えたくて意味としてのことば、単語ができてきたのでしょう。
「ああっ」→「しまった」
「えっ」→「ほんとう?」
「へっ」→「うそでしょ?」
 この場合、実際の現場では、後ろの方のことばはなくとも伝わりますね。しかし、前の「ああっ」や「えっ」は、書き表すだけでは正しくは伝わりません。第三者に伝えることを前提にすると、音声で真似るか、ことばを使うかしかないのです。
「いっいたーあ―(痛い)」
 こういうときは、海外で外国語を使って生活していても、思わず母語が出るものです。
 一人でいるときは、普通の声、気のおけない他の人がいるときは、ややおおげさに、厳粛な式典のときは無音(息だけ)くらいで、というような使い分けをしてしまうことでしょう。いつも他者を気にしておのずとコントロールされてしまうのが、人の声、大したものです。

一流の条件 [論8-12]

 月に1~4回のライブで中6日休みの取れる人と、毎日のライブやステージをやる人には求められるレベルが違います。オペラで正味30分以上歌う人と、合計3分しか歌のない人も違います。ボールを1球だけ投げるのと、一人で9回まで100球以上連投するのも違います。一流であるほど、強靭な肉体とそれを上回る精神力が求められるのです。
 反面、声に関心を持ったり、ヴォイトレに通う人が、その最低条件を満たさなくなってきています。そのためヴォイトレも過保護にならざるをえないわけです。
 たとえば、混乱したり、一時下手になって先が見えなくなるようなことは、どんなトレーニングをしていても起きることです。それが基礎であればあるほど、副作用というより、心身、感覚を変えるのですから当然です。
 それを恐れて、これまでの自分の感覚を守ろうとすると大きく変わる可能性もなくなります。しかし、そういう場合は少しずつ時間をかけるのが唯一の手段です。

2014年3月14日 (金)

声の想定 V197

 声を音としてみると、次の4つで定められます。
1、 強弱、(声量、音圧、ヴォリューム)
2、 高低、(周波数)
3、 音色、(フォルマント)
4、 長短、(time)、持続時間、息の長さ
これに
5、 共鳴(鼻声など、または頭声、胸声)
 が加わり、また
6、 調音(調音点、調音法)
 で、発音され、語となり、その組み合わせで言語ができるのです。

 1~5までは楽器にもみられるものですが、いくつかはかなり制限されます。(特に音色)ピアノという楽器は、かなり特別なもので、同時に発信できる数が多いため、万能でした。それに加え、エレクトーンやシンセサイザーは音色も多彩にしたのです。そういうことは、1つしか発声できない声では、人数がいないとできません。(ホーミーは二つの声という人もいますが、それぞれを単独で自由に動かせません)しかし、生体としての人の声ほど複雑にいろいろな音をつくり出せるものもないともいえます。
 語としても、意味を持つ、持たないということで分けて比べてみるとよいでしょう。

筆に例える [論8-11]

 筆に例えると、aはペンのように形だけをきちんと取ること、そこに太細や濃淡がつくのは、墨をたっぷりつけるようになってからです。それがbで描けるようになっても、三次元、つまり、どこで何㎝あけるかという二次元半紙の上の世界でなく、どのスピードで、どの高さまで持ち上げて、どの太さで、どの角度に筆が降りてくるかになると、手首だけでなく腰からの全身運動になります。そのレベルで動いていないと、本当は、歌も人に働きかけてこないのです。
 つまり、aは口だけの、bは胸からの、そしてa+bで全身での歌、あるいは歌手でない人には声になるに至るのです。時系列と空間軸とで述べてきましたが、イメージできますか。

2014年3月13日 (木)

ヨガマット お知らせ

レッスンで寝転ぶときのためにヨガマットや畳を用意しています。

性と声 V196

ほとんどがマニアックなため、研究されず、実践だけされている分野は、喘ぎ声、いわば閨房の世界です。しかし、これは芸能やショービジネスに、まさに直結しているものです。ヌードが芸術にまで高められたのに対して、いささか貶められているように思います。
 ラップやレゲエ、シャンソン、ブルース、世界中の歌にはかなりストレートに即したものがあるのですが、キワドイということばで封印されています。禁じられたものもあります。
 とはいえ、私たちは、人の声にエロスを聞き、感じているのは否定できない事実です。萌え声というのもその一つでしょう。
 これはセックスが人類は一つということを証明しています。つまり、いくら人種や民族が違っても、やれちゃうし生まれるということです。それと同じレベルで、あのときの声も、民族の差はない、とまでは断言できませんが、人類平等の証です。それは個人差、(特に性差)の方が大きいと思われます。
 確かにことばも意味をもって使われ、くどく、くどかないとなるのでしょうが、その最中には、意味などない声が露わになるものでしょう。

aよりb [論8-10]

若いトレーナーをみていると、bから入ると、あるとき、aの感覚を得て全ての過去これまでのbの感覚を否定しがちです。普通は大体がaだけで止まります。ごく稀に、aからbに踏み出すケースもあります。
 トレーナーもa中心、b中心と、その比率は人によって違います。
 私のところでは、相手(レッスンをする人)によって、トレーナーが合わせることが多いように思います。特に声域(高い声)、ピッチ、バランスなどを重視するのが、一般のお客やバンドメンバーで、ほとんどここだけで歌をみます。となると、なかなかbには踏み出せません。
 bは強化、鍛練や声量というよりは、音色の問題、豊かにする、太くすることが目的です。(音色については、その後のaは浮遊、飛躍、挑戦のようなものです。
 最初のaだけでは薄く、二次元の世界で形をとっているにすぎないのです。

2014年3月12日 (水)

求愛の声 V195

求愛のために、使われたのはメールや手紙という文章、文(ふみ)の前に、ことば、呼びかけ、歌謡です。その前では、声の響きだったでしょう。セレナーデのように、異性に呼びかけ、自分に関心をひく慣習は、今のカラオケにまで引き継がれているのです。
 そこでは、歌詞の意味も大切ですが、声の質や歌い方で伝わる感じがもっと大切なのです。
 男性の声変わりは1オクターブも低く変わり、たくましく太い声になります。もちろん、強く生命力のあることのアピールです。
 歌だけでなくても楽器の演奏で、異性に魅力的に働きかける。これも世界中いたるところで明らかです。楽器というのも叩く(打つ)、弾く、吹くと、人の身体機能を拡張したものです。演奏をしていても、実のところ、歌っているのです。サックスやトランペットは、まさに人の声の代替えのようなものに思われますね。
 そして、それは1対1でなく、1対多でも人を魅了するようになりました。オペラやオーケストラが、その完成された形でしょう。

3層構造論 [論8-9]

私の「3層構造」を例えるとこんな感じでしょうか。 1、 a カラオケ 素人   日本のヴォイトレ 2、 b カラオケから歌唱  素人からプロ 私のヴォイトレ 3、 (a+b)+a プロレベル 欧米のヴォイトレ  つまり、私はaを否定しているのではなく、aの上にaをやってものらないからb、つまり私のことばでは役者の声(芯があって響く低中音域、太い声)にしてから、共鳴に入るということでした。  これまで、aのレベルで欧米のヴォイストレーナーの元へ行っても大して声が変わらない人の例を、あまりにたくさんみてきたからです。(人にもトレーナーにもよるので、一般化しては言えませんが)  私のヴォイストレーニングが日本のアンチ声楽として、役者ベースの上に出てきた時代背景(1990年代)と、その後のJ・POPSの声力との逆行については述べました。声を鍛えようとして潰した人が、自然と、解放、リラックス、反トレーニング論者になるのも当然ですが、そんなに安易なものではないのです。  これでマイナスをゼロにするという意味では、1と3とはレベルは違っても、とても似たことをするわけです。つまり、抑圧した能力を回復させるのが1と3であり、全能力にさらに加えたのが2なのです。

2014年3月11日 (火)

眠りの声 V194

 喜怒哀楽と言いますが、喜び、楽しみと、悲しみと怒りは、ことばや語がなくても伝えられます。伝えなくても自らで発することができます。これらは表情だけでほぼ区別できるほどです。目や口も体の姿勢や所作、仕草、振るまいとともに、口内で息と声が、それに伴う音を発するのです。
 無意識のレベルでは、夢をみるときに発している声もあります。寝言でことばになることもあれば、ムニャムニャということもあります。
 さらにもっと原初的なものは軟口蓋で発するいびきです。これも呼吸が音を生じる例です。さらに下りますと、体で生じる音として、直腸から屁、胃からゲップ音、横隔膜からのしゃっくり、軟口蓋から鼻腔のあたりで反射的に起こるくしゃみもあります。

リラックスの限界 [論8-8]

本番で声が出なくならないように、いえ、常にベストでコントロールできるように、日頃から基礎のことをしっかりやらなくてはならないのです。プロの声はプロの体感覚に支えられています。すべて普通の人とは違うのです。そこはカラオケの上達法と、私の思うヴォイトレの根本的な違いです。
 私は、ヴォイトレ本が売れたために、カラオケの連載もやりカラオケの本も出すことになりました。そのときも、カラオケの歌の上達は、応用から入るようにしました。つまり、ステージでどうみせるか―どう歌うかから直します。どう声を出すか―その声を支える呼吸や体は後回しです。本人が、喉を守るために必要であれば「柔軟体操からクールダウンとして、ヴォイトレをやるとよい」と、声の強化については、あまり触れませんでした。
 丸暗記のピッチやリズムトレーニング、高音域レッスンで音符に声を、全てあてたら、リヴァーブの力で50点くらいの人でも80点になるからです。せいぜい、喉に力が入っているなら、それを解放すれば全て片付く、これがヴォイトレのように思われています。
 欧米のヴォイトレが一見似ているのは、元々声の芯や響きがあり、喉声発声でない、というより、喉声を出していても丈夫、かつ、保たれているからです。表向きカラオケのように共鳴中心にレッスンしているということでも、レベルは全く違います。

2014年3月10日 (月)

ダンスのように V193

 リズムは、心臓や脈拍、呼吸の動きと、足を蹴る、ゆするなど、くり返しの動きから生じてきました。もちろん、風や雨や川の流れなど、自然の音からも入ってきたリズムもあります。
 メロディの先駆けとなる節(ふし)も、まわりの音や自分の内部感覚から心地よく、あるいは悪く、取り出されてきたのです。つまりは感情の表出ということになります。ちなみにお笑芸人の3人組のロバートのネタに、何でも節(ぶし)にして歌ってしまう村人のネタがあります。
 ヴォイスパーカッションで世界的に有名なのは、日本人のdaichiさんとhikakinさんです。それに対して、ボディパーカッションというのもあります。手を打って、足を踏みならす。このあとは舞踏、ダンスと歌、音楽の歴史をひもとけばよいでしょう。

 

毎日のステージ [論8-7]

喉、かすれ声の問題では、少しかすれたり痛いくらいで、いちいち気にしたり、休ませたり、医者にかかったりしていたら、プロなど務まらないというのが、第一線でやっている人の本音のアドバイスでしょう。
 しかし、一般的には、「喉を休めなさい」と言うのが正しい答えでしょう。特にトレーナーとしては、そういう立場をとらざるをえません。厳しい医者なら「一言も発するな」と言うでしょう。
 しかし、プロの現場で喉がかすれたからといって休むなどはありえません。そこでは、慢性的な疲労の喉でも、いかにそれを出さずに舞台を務めさせるかに力量を発揮するしかありません。発声よりも呼吸や体のケアに専念せざるをえないこともあります。
 ですから、先の正しい答えは理想論にすぎません。毎日のステージのある人は休みなしで、そこで声が出なければ終わりなのです。

 筋トレ要・不要論では、二人の野球選手のを(日録参照)、また、体づくりとフォームづくりでは、野球選手のを(日録参照)、後でのべる。体の力、直観の鋭さについては、元横綱の伊勢ヶ濱正也さんのことばが、私の持論の裏付けとして参考になると思います。

(参考)○理不尽な前進☆☆
 「土俵のケガは土俵で治せ」といわれるように。捻挫や筋を痛めた程度では稽古を休んでいられません。(中略)
 私が現役時に肘の靭帯を痛めたときは、構わずその腕でダンベル運動をがんがんやりました。痛み止めを飲んでも激痛が走るし、終わると患部が腫れてくるので氷で冷やさないといけない。でもそんなトレーニングを2週間くらい続けると周りに筋肉がついて、傷めた箇所をカバーできるようになりました。
 痛みというのは我慢しているうちに慣れてきます。四股を踏んで汗をかいていると、ケガをしていることも忘れてしまいます。稽古中にケガをしても終わるまで気づかないこともしばしばで、後でちゃんこを食べている時に突然痛くなり、病院へ行ったら骨にひびが入っていたこともありました。それだけ集中していたということです。痛みよりも稽古の苦しさの方が強いからかもしれません。
 スポーツ医学が発達した現代では、まずきちんとケガを治すべきだという意見も多いでしょう。ただ、相撲に関しては、近代医学的な見地だけでは成り立たない独特の精神性が要求されます。
 生身で戦う力士の体は想像以上に強靭な上、痛みのたびに立ち止まっていては前に進めない部分があります。年6場所を務める中で多少のケガで休んでいては、とても番付を維持することもできません。
 体を痛めた力士が稽古することに理不尽さを感じる向きもあるかもしれませんが、これはただ土俵の上で勝つためだけではありません。ちょんまげを結ってお相撲さんらしく振る舞い、涙を流すまで稽古して体を鍛える。そんな毎日を過ごすことそのものが力士のあるべき姿なのです。
 そんな日常を実践する上で多弁は無用ということを、力士は暗黙のうちに理解しています。昔から勝ってインタビューに招かれても「アナウンサー泣かせ」といわれるように多くを語らない力士がいるのも、それが負けた力士への礼儀であるという共通認識があるからです。
 現代は冗舌な時代ですが、痛みを語らず克服する大相撲が受け継いできた「語らぬ美」が見ることができるのです。
伊勢ヶ濱正也さん [日本経済新聞 2013年8月20日]

2014年3月 9日 (日)

ホームページ お知らせ

ホームページ「what's new」「マスコミ掲載記事一覧」を更新しました。

喃語は、歌 V192

 ことばと歌と、どちらが先かというようなことは、定義にもよります。そもそも、この2つを明確に分けることはできるのでしょうか。本当はできないのですが、それぞれに便宜的に分別しているわけです。しかし、私はストレートにことばのない歌、スキャットなどを考えたらすぐわかることだと思います。
 ことばをもたないものとして動物をあげました。聖書では、言葉のないものは人間でないということですから、赤ん坊はまだ人になっていないのです。
 生まれてからの言語習得プロセスをみると喃語という、いうなれば、ムニャムニャ語の時期があります。このときになんとなく節回しがついていて、鼻歌のように聞こえるものもあります。「ダアダアダア」とか「アーアーアー」とか、これは歌としてみてもよいと、私は思います。

 

現実への対処 [論8-6]

せりふ劇、アングラ、不条理劇が衰え、ミュージカルが全盛になってきたのも、歌においては声の力を客が求めなくなってきたことと関係があると思います。アジアの歌がカラオケの導入で、アマチュア化したのと同じで、世界の歌も口先になる日が来るかもしれません。その先進国は日本であり、ヴィジュアルが中心なのです。
 とはいえ、現実のトレーニングは、今の時代の今の人と行うのです。トレーナーとしては、こういう状況を将来にわたってみた上で、変わるもの、変わらないものを知っておく必要があります。そして、自分の理想と現実的な対処と二つを確立しておくことが大切です。どちらが欠けてもよいトレーニングではありません。
 私もそうでしたが、若いと自分の理想に偏りがちです。その理想が共通でない人は、引き受けない、というのは良心的な立場です。ただ、今の仕事は、ここにいらした人の目的に対して、最良の選択ができるように手伝うことです。目的を具体化するには、発声の問題だけを考えても本当は無理なのです。

2014年3月 8日 (土)

感嘆の声 V191

 私たちが意味をつけずに、ことばとせずに、声を発しているものを考えてみるとわかりやすいと思います。たとえば文法上での「感嘆詞」です。「ああ」「あっ」「ええっ」などです。これは、interjection(英語)で、定義としては「不意の発声」となります。他にも「ワー(うれしい)」「キャッ」など無数にあります。
 声には、雄たけびのようなものもあります。突撃で「ウオー」というような声は大きく出せ、自分たちを鼓舞して相手を威嚇できるものとなります。「エイエイオー」など。

欠けているもの [論8-5]

a―上半身と頭声 本番(試合)、ステージ
b―下半身と胸声 練習、トレーニング
 どの人もa、bは持っているのですが、絶対的にどちらか一方という人はいません。ただ大きくみると、私にとっては、日本人はa、欧米人や日本以外の国の人はbになります。
 あるいは、日本人はbに弱いし、その必要性をあまり感じませんが、世界のレベルではbがベースで、aが応用と、両方持っていると言った方が的を得ているのかもしれません。日本の音声力が世界に通じないのは、bが欠けているからだということで、私はみてきました。
 必要性にもよるでしょう。日本では1950~1960年代をピークに、その後bの必要性は薄れました。世界的な傾向としても、この10年はaの方向になってきたのかもしれません。
 別稿で私の持論を2012年のミュージカル映画「レ・ミゼラブル」への評論の形で展開しました。
 そこでは録音技術の進歩と観客の耳の変化を論じました。一言でいうと、主役たちはa、脇役たちはbということです。このbは、太くしっかりした声を得るという方向ですから、今の若いトレーナーや日本の声楽家などでは失われつつある要素であるのです。

 

2014年3月 7日 (金)

反射としての声 V190

 原始的なものとして、反射作用で声をあげるということがあります。火に触ったときに「熱い」などと、考えるまでもなく私たちは反射的に避けようとします。手を離しながら「アチッ」というような、ことばになるかならないかの音を発します。「アッ」「ワッ」でも、息を吐き捨てて音を出すのですから、世界中で似たような音声を使っていますね。よく似た例では、火を吹くようなとき、息の音で吹く(hu)のようなH音が世界中の言語で使われているというものです。
 (これは動物でも同じなのですが、発声の器官の機能が備わっていないと充分な声は使えません。羽をこすった音で求愛する虫はいても、それは声ではありません。カエルのは声といえるのでしょうか)
 このあたりの違いには、民族の差や性差、年齢差もあります。発声器官という生体では、フィジカルな要素に負うところが大きいのです。

 

再び二極論 [論8-4]

a―状態の調整 応用、統一、バランス、無意識
b―条件づくり 基礎、部分、偏り、意識的
 日本人に対して、私はbの必要性を説き続けてきました。世界の歌い手にあって、日本人に多く欠けている要素だからです。しかし、これまでにも述べてきた理由で、日本の歌手やトレーナーは、音が高く楽に声が出る人でした。なぜなら、外国人が語るように歌う音域でさえ、私たちの多くには高くて、技術のいるものであったからです。
 歌において、唯一絶対の基準は音高しかないから、正しいことを教授するのが好きな日本人には、まず声高だったのです。
 欧米人の歌や歌手が見本とされて、それに似ているということが評価の基準であったこと、この二重性が、日本人の歌の表現やリアリティの問題をずっといい加減にしてしまったのです。これは、その後に私が邦楽や役者、各界のリーダーなどのヴォイトレに携わるにつれ、ますますはっきりとしてきました。
 もう一つ理由があります。歌手は歌でうまくなるのか、ヴォイトレでうまくなるのかというと、元々歌で調整してうまくなれるくらいの人しかプロになれなかったからです。

2014年3月 6日 (木)

進研ゼミ

進研ゼミ4年生のテキストに「声のトレーニング」が掲載されました。

触れあう声 V189

 語感というのは、ことばを自分で発するときの感じと相手が受けるときの感じです。声を介し、私たちは自らの心身とも、他の人とも触れあっているわけです。自分の声帯の振動から相手の鼓膜の振動へ伝わります。空気中を伝わる音のバイブレーションなのです。
 音声というのは、意味を生じる声の音、音としての声ということです。それには、ことばとしての意味も含まれますが、その前に語として、あるいは声としてのレベルでも、すでに意味を生じているということです。
1. 声と息の感じ
2. 語の感じ
3. ことばの感じ
 たとえば、1については、人間のことばの習得前の状況を想像してみるとよいでしょう。猿人類などの研究もあります。くじらの声、鳥の共鳴管での鳴き声もコミュニケーションのための音声です。ことばがなくても音でのコミュニケーションするのは、様々な生物でもみられます。匂いや色などと同じく、五感によって私たちは伝えあってきたのです。(研究所のホームページ内の「感性の研究」を参考に)

立場での制限 [論8-3]

 読む人がヴォイトレを習っていたり教えていたりすると、いくつかの立場に分かれることになるでしょう。あるQに対してAがあれば、Yes、(私もそう思う)、No(私はそう思わない、あるいは反対だ)と。10個以上のバラバラのAがあると、Yesの人は、「この研究所(トレーナー)と同じ意見だ」「この研究所(トレーナー)はしっかりやっている」Noの人は、「この研究所(トレーナー)の言うことはおかしい」「とんでもない研究所(トレーナー)だ」となるでしょう。私がみても、この10個以上のAには、反対のことや矛盾すること、対立することが表れています。
もっと異質なものがあってもよいとも思うのですが、一つにはトレーナーの立場で述べるために自ら制御してしまうのです。私も同じで、何もかも本音とか持論で述べられません。相手がみえない分、慎重になるのです。
 となれば、10個のAに対して、「自分と同じのはこれ」「違うのはこれ」「知らなかったのはこれ」「間違っていると思うのはこれ」などというように使う人は少なくないでしょう。これまで学んだのと違う答えばかりです。トレーナーの指導に対して悩むことになるかもしれません。しかし、あなたへの本当の答えは必ずしもこの中にあるとは限りません。
 これまで私のを読んで来てくれた人には、その上で自分の異なるA、意見や見解を学べるようになるように望んでいるのです。相手によっても時期によっても変わることがあるのです。
 とはいえ、たとえ知識や用語が間違っていても、それで全く用をなさないAを私は入れていないつもりです。そこに価値を見出してほしいのです。それは、私が生徒に対してとってきた立場であり、同時にトレーナーに対してとった立場です。つまり、あなたが論をたててればよいのです。

 

2014年3月 5日 (水)

喉の耐性 B110

 「日本語が声帯を傷つける」とか、あるいは負荷があるという問題になったときに、外国人の子音は周波数が高いから、瞬間的に高いところにいくわけです。
 母音を共鳴させて持っていくと、クラシックと同じようになるのですね。
 線を引いてみても、引いた分だけしか線が伝わらない。より伝えようと思ったら、線をもっていなければいけない。高さではなくて大きさということで太く使わなければいけない。そうなると、喉が耐えられなくなってくるわけです。[続]

論をたてる [論8-2]

「論をたてる」ということはすなわち、立場をはっきりさせることになります。
 研究所のヴォイトレQ&Aのように、各論併記しているようなものはあまりありません。大体は、誰かが正答として回答しています。つまり、いろんな可能性のある答えから、どれかを決めているのですが、そのプロセスを省き、一つの絶対的な答えを求めたい人に与えるから正答というのでしょう。それゆえ、それが正しい答えだと思われやすいのです。しかし、その大半は、教科書的な回答であって、実用的ではないのです。
 私は、研究所の十数名のトレーナーたちの同じQに対するA(トレーナー共通Q&A)というのを公開しています。彼らには、ほぼ自由に答えてもらっています。そこでは、誤解や相手によっては悪作用の起こる可能性も承知の上で、掲載しています。集合知ですから正答ではありません。表記上、手を加えたり読みやすくはしていますが、内容を私が直したり、正誤を判定したりしていません。それは、私は全てをほぼ認めているからです。共通のQに対して、トレーナーの共通のAはないように思われるかもしれません。しかし私がみると、私の期待に反して、似たようなAも多いのです。私の期待とは、もっと多様であることです。同じ答えなら一人に聞けば充分だからです。

2014年3月 4日 (火)

深いポジション B109

 日本の男性のヴォーカリストで深いポジションで歌っている人、そういう人を名前で答えてしまうと誤解を、こういうのがよいのかという感じに受け止められないと思うのです。深いポジションといえるかというと、その当人が勉強していなければ、わからなくなるので、役者のほうがわかりやすいのです。
 何を持って深いポジションかというのが、そもそもイメージの問題です。
 この時代は音色を持っている人、いわゆる音色とフレーズで動かせる、ベースのところがある。上のところでも展開できる、こういうことをクラシック歌手も含めて、支えができているというのですね。深いポジションをキープする一方、クラシックでもこの上にファルセットに移す。この範囲内で歌えているということです。
 腕の力がなければボールを遠く投げられないという、そういうイメージ、これをちゃんと受け取れる。どこまでどう投げなければいけないということ以前の、練習としては考えておくといいと思います。

論拠 [論8-1]

「ヴォイトレ二極論」 

Q.「状態の調整と条件づくり」について、もっと知りたいのですが。

○論拠

 これまで、私はトレーナーが独善的になっていくプロセスを説明していきました。これは、若いトレーナーをたくさんみてきたので、現実に直面してきた問題であり、これからも接していくであろうことを私なりにまとめたものです。
 目的はトレーナーを否定するものではなく、否定するならすでに存在そのものの是非において不要という立場でも論じられるのですが、私は、トレーナーがより力をつけ、より広く深く気づけるために述べています。つまり、他のどんなトレーナーの言うこと、やることにも一理あり、それをよしとする人もいる。それを認めあって、お互いによいところを学びあいましょうという主旨なので、くれぐれも誤解しないでほしいのです。

2014年3月 3日 (月)

玄関マット お知らせ

玄関マットを新しくしました。今年は寒く、雨もよく降るので重宝しそうです。

歌の日本語 B108

かつては、少なくとも歌詞と曲が合っていた。歌詞を変えたら曲がダメになるというような緊密性があった。1980年代くらいまでです。
 日本語の処理をして、体を使ったところのフレーズの中でやっているのは、このくらいのところが限度だと思います。尾崎紀世彦さんくらいの歌唱力。日本語がきちんと聞こえなければいけないとなると、劇団のように必要以上にはっきりと日本語を処理しないで、歌の日本語としてやっていく。私は、村上進さんや岸洋子さんを上げていますが、深緑さんがわかりやすい。

 

レッスンでの違い [論7-18]

タイプAのトレーナーは腹式呼吸とか姿勢、舌や喉の改善点を、実例をもって教えてくれるでしょう。
 歌ってもらって、トレーナーは何をどうみているのでしょう。それをどうするのでしょう。私は、生徒さんは言うまでもありません。生徒さんをみているトレーナーも誰よりもみてきました。
 タイプBのトレーナーは、メロディ、音程、リズム、歌詞のチェックをして、声域、声量、メリハリ、ブレスの注意を、ときに見本をみせて歌を教えてくれるでしょう。
 タイプCのトレーナーは、発声スケール練習をして声を出しやすくするでしょう。何回か、歌にのせて、落ち着いて、ゆっくり気持ちこめて、などコメントして、歌い方を教えてくれるでしょう。
 以前に、ケースによってはこのCのトレーナーの方がA、Bよりも使えると述べたことがあります。これは、かつてはもっともオーソドックスなもので、歌手や作曲家、ピアニストなどが先生のときに行う一般的レッスンです。
 楽器、ピアノで例えてみると、Aはピアノの調律、姿勢、指の動きから教える。Bは1曲の頭から仕上げていくタイプです。それに対して、Cはバイエルなどを使い指の動かし方を教える、つまり、日本での幼児とか社会人向けの教え方ですね。
 それに対して、私といえば一流のピアニストの演奏を聞かせるのと、ピアノという打楽器としての成り立ちを学んでもらいます。つまり一音だけきちんと成り立つように鳴ることをやらせます。音楽としての表現の成立する音の流れの世界のイメージを心身に叩き込みます。この二つの対極の矛盾を与えて待つわけです。即ち、一方を完全に成り立たせようとすると、もう一方は全く成り立たなくなるのをよしとして、どちらもレベルを下げずにずっと保たせていくのです。[完]

2014年3月 2日 (日)

磨かれる B107

深夜に出ている若手のお笑いの人は、ゴールデンタイムに出ている人と比べると、言葉が聞きづらいですね。何を言っているのか、耳を立てなければわからない。新しい世代に対しては受けているとは思います。
 そういうものが5年10年で磨かれていく。それを越えたようなものでの基本として、声が磨かれていくのではないかという見方をしていくと、歌い手のほうがあまり変わらないですね。それでも残っている人は、歌詞をきちんと伝えているのでしょう。

やっていくために [論7-17]

 アーティスト気質というのは、マインドの問題が一つ、オリジナリティ、クリエイティビティの問題がもう一つです。一概に歌やせりふの世界と言っても、ピンキリ、それはレベルの差よりも、その人のスタンスの差の方が大きいと思います。
 特に日本では、差が大きいというのも、ほんの一部の人を除いて、ヴィジョンと覚悟が他の仕事の人よりもみえないからです。絶望的なのに本人はいたって楽観的、本人が本人を知らないというギャップ、つまり、厳しい自己評価と補強力の欠如、それは、この20年くらいでさらに変わってしまったことです。
 日常の生活でのせりふさえ伝えられないのに、舞台でどうするのでしょう。日常がだめで舞台でしか生きられないのが役者の発祥当時のありようでした。今や、その社会的地位は上がり、全国から殺到したなかで選ばれるようになりました。その割に声の力は省りみられていません。基礎のなさを注意せずに音響技術でフォローするから、なおさらわかりません。選ばれたあともその力がつきません。もったいないことです。
 実力でなくルックスやスタイル本位というなら、そうでない人こそ、力をつけることです。人前に出るのですから、同じ力量なら、ルックス重視は当たり前でしょう。

2014年3月 1日 (土)

2014.3月号 お知らせ

2014.3月号(NO.271)ができました。

「巻頭言」(プロフェッショナルへの伝言)

「fukugen」(出会い気づき変わるためのヒント)

「レッスンからの声」(声の感想)

ほか、ブログでも公開しています。

日本人の客 B106

曲として捉えていることは、日本の客の場合はあまりにも厳しくない。曲や歌詞のことを知っているけれども、音楽的には聞いていない。ニューミュージックであれフォークであれ、日本人の聞き方には偏りがあります。
 その上で、実際に皆さんが歌っていくときに、どういうステージングのしかたをとるかということです。
 声で勝負できる世界はいい、ポップスのように全体的にいろいろな加工がしている中で、ますます生の声がなくなる、求められない。

 

一流に学ぶ [論7-16]

私は、タイプCのトレーナーの形が最も一般的で残念と思うのです。
 タイプAのトレーナーには秀でている人もいると言ったのですが、特に秀でているのは、本人が身体の条件に恵まれずに、改善のために東洋医学などから体を学んで、実践してきた人たち(ヨーガなど)が多いのです。そのため、心身の弱い人に向いているのです。かなり、体のバランスを欠いたプロにはとてもよく効くでしょう。感覚を変えてそこから声を変えていく必要があります。それには、一流の作品を数多く、量も種類も聞くことです。そして大切なのは、そこで気付くことです。
 気づくためにいろんな作品を私は提示してきました。誰の作品からどう気づくかは、それこそがその人の個性ですから、教えるのではありません。材料を与えて待つしかないのです。しかし、それでは心もとないので、私や他の人の気づきを参考に与えています。
 一流レベルの歌い手や役者は、必ず、その前の一流の人に多くを得ています。学びに行くのも、聴くのも、観るのも同じです。そのことを通して気づくこと、これはわかる=わかったつもりになることとは全く違います。声や歌が全く違うものに聞こえてくることです。
 そういう感覚やとらえ方から入った人は、黙っていてもあるところまでは伸びます。ただ、さらに伸び続けるためには、学びに行き気づきを得ることです。
 どんどん感覚が豊かになるべきだとしても、日本のように(音声については特に)厳しいショービジネスの世界に晒されていないところでは難しいでしょう。
 それが私が最初にライブ型に研究所をつくった理由でした。しかし、教えてもらうためにいらっしゃるようになっていったので、思い切って全て個人レッスン、イベントやプロデュースはなしにしたのです。

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