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2015年5月 1日 (金)

今日のメッセージ[ヴォイストレーナーの選び方]

○身体からの声、歌からの声

 表現というものとは別に、声単体の評価が成立するのか、それこそが私のライフワークというべき課題でした。いわゆる、声が本当に表現に化したときに声は消えます。私も話し終わって「声がよい」と言われるよりも、「何か温かい気持ちになりました」と言われる方を嬉しく思います。しかし、声そのものとその使い方となったときに、そこには発声と歌唱のように距離があるのは確かです。
 声楽は一つ伸ばした声の高さ、大きさ、長さ、音質が比較的その人の体からみてベストをみやすいものです。その条件は、オペラ歌手としてのプロとしての感覚、体、技術で鍛えられ、明らかに一般の人と変えられています。もちろん、一流のレベルにおいてで、そのプロセスなのか方向違いなのか、異様にふしぜんな日本の声楽は別にしてください。
 一流の舞台での表現と素人としての日常での表現力は、一見離れているようでも、自然であることでは一致してもいるのです。それに対し、中途半端な歌やせりふは、つくられたもの、その人もいなければ役も出てこないのです。
 ポピュラーの歌については、体からの声との乖離度がますます広がりました。その一端がカラオケの歌です。エコー(リヴァ―ブ)が包み込んで曖昧にし、聞き苦しさをみえなくしてしまったのです。カラオケの普及は私も一役買ったことがありましたが、一人でステージで何かするのに不慣れな日本人に経験を積ませること、これはカラオケBOX出現で消えました。そして今や、マシーンの採点への挑戦でゲームにしてしまいました。キイやテンポを変えて、歌を自分に合わせベストにできるという最大のメリットもなくなりつつあるのです。日本人って、とても残念な意味で、すごいと言わざるをえません。視覚や味覚にすぐれているからといって、ここまで聴覚をないがしろにしてよいのかと私は心配するわけです。
 ついでに言うのなら、その他の分野、役者などでも、日本人で国際的に通じるのは、50代以上の一部の声にしか残っていないとさえいえます。ここまで、地力としての声について述べてきました。
 

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