2007年6月 8日 (金)

「コメント不要」椎名誠さん

どこもそういう空撮取材をするから負けられない、というところなのだろうが、その数日前の新聞で日本のエネルギー自給率が3パーセントで先進国最悪なんていう記事を読んだばかりなので、空を飛び回る沢山のヘリコプターの消費燃料を考えてしまった。事件がおきると記者がその近隣の人を取材して「おとなしい人でそんなことをするとはおもえませんでした」などというコメント記事を必ず集める。それにどんな意味があるのだろうか。アナウンサーが分かっている事実だけを伝えるニュースでいいじゃないか。

―マスコミの意地による浪費は、いったい何をしたいのかと思うか、働いた実感がいるのだろうか。(F)

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2006年7月10日 (月)

偏向批判 筑紫哲也さん(3)

沖縄とかかわることで私が思い知らされる最大のことは、この国の少数派、少数意見に対する壁の厚さ、あえて言えば非寛容である。
もし「肩入れ」があるとすれば、それと二重映しになる自分の所在があるからだと思う。
「偏向」批判には、「影響力のある身だから発言を慎め」という注文が必ずついて回るのだが、当の本人にはそんな実感がないのだ。

―肩入れして、何とかなるほどに力などないのに、それを気に食わない人には、発表報道の公平に機会を与えることさえ偏向となる。発言、大いに結構。ただ、少しは深く学べよとのこと。(F)

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2006年7月 9日 (日)

偏向批判 筑紫哲也さん(2)

多数派の意向と利益に立って、少数派のそれを封じこめることが、民主主義(多数派)という名の「専制」を生むという自覚はほとんど存在しなかった。
まして、少数派にとって良い境遇を作り出すことが、多数派にとっても結局は恩恵をもたらすものだという洞察が作動した形跡は終始なかった。

―選択はどちらをとっても、敵を増やすわけだ。小数を支持しない限り、現状の改革は無理で、民主主義は少数の推力を倒すとともに、少数の弱者や正しい者も抹殺する。(F)

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2006年7月 8日 (土)

偏向批判 筑紫哲也さん(1)

だが、そこに何を選び取るかの選択が働く以上、「偏向」批判は必ず付いて回る。
森羅万象、いろいろなことが起きている中で、どれをニュースとして選択し、それらの中でどのニュースに比重を置くかにも、作り手の判断は働くのだから、この批判を免れる者はいない。あるのは風当たりの強弱ぐらいだ。

―批判を免れるものはいない。場に身を置くかどうかは、自ら選べるときもあるし、職として選んだこと、あるいはそこで評価されたことがそれを押し付けてしまうこともある。(F)

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