2.ヴォイトレの論点

論21.「ことばの壁」

〇信用してみることの壁

 

最近、こういう注意をすることがあります。

「トレーナーがわかりやすく説明してすぐに実感させられるのがよいとは限りません。説明しないことも、ことばにできないこともあります。」

質問されたらトレーナーは答えますが、それは、説明であってマニュアルのやりとりにしかならないことが、ほとんどです。

レッスンではトレーナーを判断したり、その内容を考えるのでなく、ご自分の声やその変化をじっくりと感じることに集中してください。ことばややり方ばかりにとらわれているのは、よくありません。

 

自分なりに理解して考え、自分なりにやってみて、次回のレッスンでトレーナーに「こうやってみました」「こうなりました」「この2つで迷っています」などと問うてください。ことばでなく、実際の声や体で問うのです。そこから、あなたのレッスンが始まるのです。

 

〇自己判断の壁

 

歌やせりふは、ことばだけでなく人に声で働きかけるものです。だからこそ、多くの人はここにいらしたと思います。

自分が判断する(そんなことはあたりまえのことですが)、それでどうなろうと自己責任という人もいますが、一緒にやっている以上、無駄に不利益を被られるのは、トレーナーにも迷惑なことです。何のためにアドバイスをしているのかわかりません。

トレーナーの判断は少なくとも、多くの人の自己判断よりも客観性があります。レッスンは、その客観性を元に行うのです。ですから、ご自分の感覚を一時、保留する必要があります。

 

〇聞くことの壁

 

一から手とり足とり、わからないから、どうすればよいと、すぐに聞くのもあまりよくありません。自分なりに工夫して、ことばでなく声や自分の考えたやり方をみせて、トレーナーに問うてください。

たとえば「脱力できません、どうすればよいのですか」聞くのはかまいません。聞いたらやってみてください。  「どうして、そうすれば脱力できるといえるのですか」と聞く人もいるのですが、何でも説明できる理由があるわけでないのです。

「脱力」できなければ、次回まで工夫してみるのです。そこで気づいて変わってこそ、学べていくのです。

 

〇答えることの壁

 

レッスンの中での応答で、疑問が解消されたらよいのではありません。そこで実感できたからといって、完結するのではありません。ことばの説明だけの疑問解消や納得、さらに自分本位の実感や効果の感覚に全て頼ることほどレッスンをムダにすることはありません。

もちろん、本当に実績があり、トレーナーを上回る判断をする人がごく稀にいます。かなりハイレベルの感覚をもつ人たちですが、そういう人でも歌や声でそういうことはほとんどありません。

 

自ら失敗しないと学べないことと思うので、これ以上は同じことを同じレベルでは、述べません。これまで失敗したことがあったら、それをよく考えたら、早く気づけるかも知れません。レッスンが悪い意味で同じ繰り返しにならないようにしましょう。

 

〇配線の追加と修正

 

レッスンを最大に活かすには、これまでの思考回路と違うとりくみが必要です。白紙にして臨んでみることです。

ことばのやりとりで、その場で納得、満足させることを求めると、そこをトレーナーも目的としてしまうことになります。それは決してよいことではないのです。形だけになります。レッスンが本当の意味で成り立ちません。

 

レッスンは共に創っていくものです。おたがいに12回でチェックしようとするような使い方はよくありません。

説明されなかったことや聞きたかったことは書きとめておいてください。どうすれば身につけるかは、体験です。これは、毎回、常に進展があるとは限りません。

 

〇納得や実感の虚

 

「それは、何のためにやる」「どこに効いている」「いつどういう効果がある」というのを納得しないと始められないという人もいます。どんなことも理由を聞かないと、聞いて納得しないと始められないという人もいます。 それは、トレーナーを信用していないということです。

何でも説明したらよい、そうしないとできないというようにコンプライアンスということを誤解しているのでしょう。

 

〇試行錯誤

 

トレーナーは理由を求められると説明をします。それはマニュアルかその応用としてです。

トレーナーもそのときのあなたの状態だけですべて把握するのではありません。まして初回なら、なおさらです。

間違っていることは直せますが、これから創っていくことは時間をかけて試行錯誤を交えながら、修正しつつ、進めていくのです。12回で間違ったレッスンもムダなレッスンもありません。

自分で合わないと思っても、その判断はとても難しいものです。継続を前提としているレッスンでは、そのときだけで判断してよいものではありません。

 

〇説明の虚

 

ここには、本を読んでいらっしゃる人も多いのですが、正しくできていないと思うのでいらっしゃいます。正しくできないのでなく、大体は正しいといえるほどやっていないだけですから、正誤を問うまえに充分にやること、つまり、スタートすることが大切なのです。

 

喉に支障がでる人は、マニュアルの使用での間違いも多いです。頭に体の感覚がついていっていないのです。 そういう人に限って、さらなるマニュアルを求めます。1ページが使えないのに、それを何ページにもしては、もっと、よくありません。

 

〇パラダイム

 

「一声が使えずに一曲歌えない」というのが、ここの方針です。しかし声を充分に使えなくとも、誰でも何十曲も歌っています。マニュアルなしでも、相当にうまく歌っている人がたくさんいます。どんな声でも、「声さえでれば歌は何とでもなる」のも、確かなのです。

その上での問題なのか、そこまでもいかないことでの問題なのか、そこまでいっていないことを本人がわかっているのか、わかっていないのかでは、問題の質が違うのです。☆

となると、本やマニュアルで支障がでた人は、そこのパラダイムを変えなくては、逆効果になります。

 

〇トータルの感覚と体現

 

私は昔、合気道をやりました。ひたすら型を繰り返します。いちいちその型は何にどう役立つのかは聞きません。いろんな理屈で解説している人もいます。教則本もでています。科学的にも生理的にも、今はいろんな解釈がされています。

しかし、まともな師匠なら、「だまってやりなさい」といいます。それは、暗黙知、経験知として、継承されています。

トータルとして身につけるものだからです。部分をとりあげ、どこが正しいというのはありません。

立ち方一つ流派によって違います。その理由を聞いて、他の流派のはすべて間違いとしますか。立ち方一つでも、自分のものとするには、生涯の問いとなるわけです。

 

どこでも基本を繰り返し、そのなかで自ら創意工夫した人が力をつけてなっていきます。人とでなく自らの体、感覚と対話していくのです。学者と違い、実践して、自ら体得体現することにしか意味はありません。

 

〇材料の使い方

 

理論、方法、メニュは、役立つように使うのです。どれがよいとか悪いとかでなく、材料にすぎません。型もメニュですから同じです。もしそこに説明を求めるなら、「他のメニュでもよいけれど、これがよいと思うよ」とか、「よいと自分は思った」としかいえません。すべてを試すこともできないから、目のまえのものを使うのです。

説明はあとづけです。確証はありません。なぜなら、その型やメニュで、どうしてもうまくいかない人もいるからです。別のやり方でもっと早くとかもっとうまくいくこともあるはずだからです。

トレーナーやレッスンは身になるように使うことです。質疑応答は答えを聞くのでなく、自分でやってみたことで問うのです。

 

〇自分の質問とトレーナーの質問

 

「初回のレッスンは皆、質問だけになるはずでしょう」という人がいました。ここでは、本やレクチャーを経てから、レッスンを入れているので、質問はそれほどありません。そう思う人は自分のなかで考えることが、必ずしも世の中と同じでないことから知ることがよいでしょう。少なくてもここでは通じないことの一例です。

もちろん、他の人と考えが違うのはかまいません。ただ、質問が多いのがよいのではありません。

内容によっては、よいことですが、知識のやりとりではレッスンではないからです。

初回はトレーナーからの質問は、若干多くなることもあります。トレーナーがその人と距離を感じているときでは尚更です。

その日のレッスンを確実に自主レッスンに取り込むことができるにも、何ヶ月も要します。形だけはまねられますが、実まで本当にできたら、問題は解決しているということです。 それがわかるために、型=メニュはあるのです。

 

〇自分の考え

 

成長が無意味に遅くなったり、無意味なムリやムダを被むらないためにトレーナーがいて、レッスンがあるのです。レッスンをわざわざ活かしにくくしている人もいます。それはあまりよくはありません。ここにこられる前と変わらないならもったいないことです。

 

他の分野での実績からの自信で自己肯定してくる人もいますが、本当に自信のある人は己を無にして新たなことにとりくみます。だから多くを早く得られるのです。

発声や歌に関しては、これまで、できていないのに、気づくことはよいのです。しかし、あとは根拠のない主張となっていることが少なくありません。「自分の考えでは」という、あまりにあたりまえのことは、いくら主張しても何も言っていないに等しいのです。声で問うてください。

 

〇試行錯誤

 

質疑だけで、レッスンに入っていかない人もいます。そういう人には、「一度、トレーナーの言うとおりに進めてみてください」とアドバイスします。

あなたのために、すでに選別したトレーナーなのです。初回、うまくいかなくとも二回目は、一回目のレッスンを元に修正して対応しています。それでまた考えたらよいのです。

 

トレーナーに指導でなく、その解説者、コメンテーターを求めているような人もいます。トレーナーと同じ考え、意見だから自分もすぐれていると安心したり、自信をもつ人も少なくありません。それは違います。

 

〇頭を切る

 

私はレッスンが始まったら、本は必要ないと言っています。

レッスンが受けられない人に、わずかばかりのことを本で伝えているつもりです。

レッスンでは、本や理論は一時おいてください。

レッスンはトレーナーの指導の元、進められます。その指示に従って進めてください。

質問は終わってからトレーナーへのレポートにまとめてメールするとよいでしょう。それをふまえて次のレッスンが行われます。

レッスン時間はどう使ってもよいのですが、話だけでおわるのはもったいないです。

トレーナーは出す声からの改善を導くのです。発声や実践にレッスンの時間をかけてください。

 

〇受け入れてみる

 

他の人と違うから、よくないというのではありません。学んで変えようとしてきたのに、自分の感覚だけを元にして判断し、自分だけのよしとする方向に進みたいのは、おかしなことです。進もうとして、足踏みして踏み出せないままになりかねません。

その判断も自分だけが第一というのなら、よい結果にならないでしょう。

 

声については、ふつうは、トレーナーがあなたのことわかるほどにあなたがトレーナーのことをわかることはないのです。わかるとはイメージですが、それを最初は、わからない、納得できない、合わないと思うかもしれません。しかし、頭から否定するなら、信頼しないとしかいっていないに等しいのです。

今の力でできない、合わない、向かないものであっても、必要なら、時間をかけて身につけていけばよいのです。

 

〇必要を満たす

 

 あなたは欲しているものを求めにきたと思います。しかし、それは、人生で手に入るかわかりません。私たちは、あなたに必要と思うものを与えたく思ってやっています。

そこでいらないというのなら、やめるというのも選択の自由です。

そういう可能性や限界がみえないから、人生はおもしろいし、自由だという考えの人もいます。私もそう思います。

トレーナーはあなたよりも、あなたの可能性、限界がみえます。いえ、レッスンでみよう、変えようとしています。それは、多くの経験と直感からきています。しかし、いつも簡単に適切なことばにできるものではありません。

レッスンやトレーニングで変えていけることは、しっかりやると、必ず変わっていきます。そこを私は、おもしろく自由なものと思います。ですから、必要なものを与えたいと思います。

 

〇欲しいものを離してみる

 

変わらない人の多くは、自分の考え方、判断にとらわれすぎているのです。それが正しければうまくいっているのに、いっていないから学びにきた、なのに、そこに執着するのはよいことでしょうか。

欲しいものに捉われすぎると必要なものがみえないのです。欲しいもので手に入れられるものなら与えてもよいと思うのですが、すべての人がそれを得られるわけではないのです。得ても使えないものなら、目的、目標から考えることも必要です。

 

〇レッスンとカウンセリング

 

頭で考えてばかりで感じることが疎かになっている人が多くなりました。説明しないのも、説明できないのも、トレーナーの能力でなく判断と思うのです。何も言わないのも、とりあわないのも、悩んだり迷った末の判断です。返答があるのがあたりまえ、返答がくるのが、親切、サービスと思っているのなら、残念なことです。

 

私はトレーナーを性別や年齢では分けていません。その人の伸びるために必要な要素をより多くもっていたり、与えられる可能性で選びます。直感的に、です。正直にいうと、そこで必ずしも充分な説明はできるとは限りません。

具体的なこと、方法ややり方で選ぶだけではないからです。

 

納得させたり説明するのは、レッスンの目的ではありません。そこは、特別に必要なケースではカウンセリングという形で行っています。

体で身につけていくものに説明ということばでの説得は、必ずしもうまく使えるものではありません。使ったところで、よくないことが多いです。何が正しいのかというのは、不毛な議論となります。

 

〇サービスの受け手

 

その場ですぐ、提示したり、体感させられるトレーナーは有能なのか、器用なのかはすぐにわかりません。でも、この頃はそういうトレーナーやサービスばかりが求められます。

そうした方法が、その人のために本当によいかは、簡単に判断できることではありません。よしあしの判断でさえ、しばらく様子をみていかないと何ともいえないことは普通のことです。

 

形だけをもち帰って、家でやって、それでうまくいくのなら、本でもDVDでもすみます。レッスンの意味はないとはいいませんが、その方が便利でしょう。レッスンでは、それ以上のことが成り立つように思います。

 

〇究極の目的

 

プロもまた、ここのトレーナーから多くを長年かけて学んでいます。

自らの作品をよくしたくて、自分のもつ条件を変えにきたのなら、その環境を最大限活かすことを考えることです。自分の条件だけを主張しているのでは、ただのお客さんです。もちろん、ワンポイントレッスンや専属のトレーナーの補助として使うのは自由です。

 

私は、ここにくる人は変わりたくて、いらっしゃると思っています。

自分の正しさ(学び方や考え方も含めて)を主張しにくる人もたまにいます。そういう人はご自身のお客さんのまえでそれを問えばよいと思っています。それで成り立てばそれでよいということです。

あるいは、レッスン受講生でなく、あなたをお客さんとして扱う方がよいのかと本人に問うこともあります。

トレーナーをお客さんから自分のファンとするというなら、究極の目的として是非、のぞんでほしいことです。

 

 

論20.「心身の使い方のミスと人間発声学(対処から統合へ」 

○声楽という治療法

 

 クラシックは、西洋のものですから、西洋医学と似ていると思うことがあります。西洋医学は、病気をどうするか、そこから始め、それをみて処理をしてなくすのをよしとします。単純にいうと、痛みをなくすために傷んでいるところを切り取る、薬で痛みを感じなくするなど、消したり取ったりするのです。マイナスが出ているとみて、元に戻すという発想です。病人からスタートするのですから、すでに病気があることを前提としています。

 クラシックは、教育体系がプログラムされています。普通の日本人が歌うと、「それは発声が違っている」として、正そうとします。しぜんに歌ったままでOKと言われた人はいないでしょう。自分なりに歌ってきた人は否定され、直されます。

 日本人のトレーナーに習った人ほど、徹底してダメ出しされ直されるとも言われます。下手に習った、ということになるわけです。しぜんもだめ、習ってもだめとは、いったいどういうことでしょうか。それこそが、クラシックの特殊性ということになるのです。

 

○声楽の功罪

 

 声楽というのを、思い切って西洋の治療法とみると、それを処して100余年、未だに日本から世界へ出た成功者が増えていかないこと、それと本場との大きな技量の差をみるに、本当のところでうまくいっているとはいえません。

 ただ、初期に何人かのトップレベルのオペラ歌手が出たこと、その後、全体的にレベルの底上げしたのは確かでしょう。底辺レベルを平均レベルに引き上げたのは、日本人らしい受け止め方と教育のせいだったのでしょうか。昔のようにスターは出なくなりましたが、全体として、ひどいというレベルのオペラや合唱はなくなったわけです。悪いのをなくした、まさにマイナスをなくす効果を上げたのです。

 マイナスをゼロにするというのは、元に戻すのですから、予め、明確な目的、正答があるわけです。つまり、向こうのお手本に似せる、向こうの人と同じように普通にするということです。しかし、プラスというのは、個々に違うので、創造的な分、形は予めわからないのです。

 

○ミュージカルという病

 

 ポップスのように、自分なりに歌って、そのままプロになっている人も世界中にいます。クラシックとどちらかが正しいとか、この2つは違うものと言いたいのではありません。私は、歌の声ということで同じに捉えています。

 その混合地帯が日本ではミュージカルともいえます。日本では、かなり特殊に二極化しているからです。役者出身と声楽出身では、得手不得手がかなり違ってきます。大ざっぱにいうと、役者は個性、声楽家は技術がみえます。

 ところがブロードウェイの出演者なら、何が出身かなどわかりません、両方を学び、共に極めているからです。技術と個性が両立して一体化しなくては、プロとして認められないからです。

 日本では、声楽家出身者は、高音域に届かせることとロングトーン、ビブラートの技術に秀でていて、役者出身者は声の個性やせりふ、演技での表現力に秀でています。さらに、ダンスで秀でた人もいる、となりましょうか。

 

○劇団四季の先に

 

 劇団四季は、興行として、日本で大成功した例です。音声面、歌唱技術に限っていえば、ブロードウェイのレベルとは比べものにならないものの、ダンスは、少しずつ近づいていると言う人もいます。そこで、役者から声楽出身者にメインが替わっていくのは、原調での無理な高音共鳴が必修となってきたからです。

 さらに、韓国、中国出身者に替わられていくのをみるに、その理由を日本人の発声力と音色力、特にパワー不足に求めざるをえません。

 ミュージカルなのに、発音ばかり優先されるのは、感心しません。私は、歌では、音楽面を主にみているので、根本的に違います。

 日本語を優先し、話の内容が初心者や子供にもわかりやすく伝えられるようにして、日本語の教育にも関わるようになった、日本語発音第一主義の劇団四季は、発音が不明瞭だった日本人の舞台へのアンチテーゼとして登場してきたと思います。そして、そこに学べることは、日本人の受け止め方ということです。それは日本での興行に成功するための優先順ということでしょう。

 

○総合して超える

 

 問題は、日本の歌が洋楽曲を取り込んで日本語詞をつけたところから始まっています。メロディとことばの矛盾です。それは、今はラップでリズムとことばの矛盾として起きているのですが、あまりみえていないようです。

 それはともかく、せりふからの歌へのしぜんな移行、それに伴わせた発声のマスターを考えると、次のようなことが言えます。

 後天的に出てきた病を、そこで捉えて治すのでは遅すぎるのです。対処治療の前に後天的に出てきた理由を探り、その前に出てこないようにします。未然に防ぐ、東洋医療でいう未病で治す、ということです。医療保険制度での治療費を減らすために、日本でも、ようやく未然に防ぐことの方に注意がいくようになってきました。それが予防医学です。

 発声は、ポリープや声帯結節ができたら病気と言われ、治療となります。喉がかすれたり痛くなっても、将来の芸術や芸能の歌唱、せりふに影響しないようにすればよいのです。それは一時の病、風邪のようなものかもしれません。そこでヴォイトレなどで予防することを覚えていくの

とよいでしょう。

 

○達するレベル

 

 芸事ですから、あるレベルに達していたのが達しなくなるのと、まだ達する実力がないのとは、違います。これは、日常の中に、声、せりふ、歌もあるので、なかなかややこしい問題です。ともあれ、間違っているのと達していないのは違うのです。

間違っているのは、直すとか正しく戻す必要があるのですが、達していないのは達するようにしていくしかないのです。しかし、達するに上限はないので、そこに求める程度の問題、いや、達せられる程度の問題となります。

 ですから、初めて声楽を学んだときには、正しく歌っていないとか、間違っているというのはおかしいのです。それは、達していないにすぎないからです。でも、声は出て歌っているから、その発声では舞台に通じない、OKは出ないから、間違いといわれ、正しい発声を覚えなさい、となります。この場合、間違いでなく、違っているというべきです。

 

○「正しい発声」と使える声楽

 

 声楽の「正しい発声」とは、多くの日本人には、これまで出したことのない特殊なものです。日本人の日常から離れているものです。実際に接するとまるで、初めて楽器を習うようにも思われます。楽器なら、初めてではなんともなりませんが、せりふや歌は、少々はできるのに通じないので、間違いと言われます。外国語の発音を学ぶのと似ているかもしれません。ただ、合唱や学校の唱歌などの歌唱、童謡などでは、声楽と共通しています。

 私は、「正しい発声」でなく、それを可能とする体づくり、呼吸づくり、発声づくりを学ぶように声楽を取り入れています。声楽の共鳴も歌唱も、声の可能性を大きく開花させる手段としてみていますが、目的ではないのです。そこが、私の考えるヴォイトレと声楽との違いです。感覚や体づくりとして、これまでの自己流や日本人らしい発声を打ち破る手段として、声楽は大いに使えるということです。

 

○生来の声と健康

 

 人は、生まれて、声が出て、母語を学び、話せるようになります。そして、歌えるようにもなります。そうして過ごしてきた幼少期から十代、ここでベースができます。ことば同様、その民族の生活や風習によって、歌や踊りは習得されていくといえます。とはいえ、同じ環境下でも、かなりの個人差はあります。

 同じ時代に同じ日本で育っても、いつも歌ったり踊っていた子と、そういうことに関心のなかった子では、十代でかなりの差がつくでしょう。カラオケによく行く人と、行かない人でも大きな差がつきます。歌でも、TVをみて育った子と、ラジオやレコードで聞いて育った子では、違ってくるでしょう。

 そこでは、小学生の100メートル競争での実力のように、特別にトレーニングするわけでもないので、あまり努力と関係ありません。素質や環境に大いに影響されての特技、才能として表れるところです。

 とにかく、健康である人には、関係のなかったはずの健康づくりが、日本では当たり前の時代になってきたわけです。話して歌っているのが当たり前の人がヴォイトレのレッスンなどで声づくりをするようになったわけです。どうも似ていませんか。

 

○直すのでなく、達していく

 

 病気を心身の使い方のミスから生じると考えるのなら、発声も同じようにミスと考えられなくもありません。となると、その発現の時点に立ち戻って直せばよさそうなものです。

 発声がよいとか悪いとか、歌がどうこうという前に、それに有利な考え方に変えて、それに沿ってトレーニングをして、変えていこうというのが、日本人の声楽です。

 それに対し、直すのでなく変える、間違いを正すのでなく、達していないのを達するようにする、できているのをもっとよくする、そのように考えるのが、私はよいと思うのです。

 正しい、間違いの二極でなく、程度で考えるのです。

 老いも病も不運にして起きるのでなく、すべては体の変化の中でのプロセスです。健康な人も、100パーセント完全ではなく、必ず病をもっています。ガンになっていない人もガン細胞をもっています。

 生きて死んだら何もありません。老いや病も私たちの頭でつくり出したものです。いえ、そう教わったものです。発声も同じではないでしょうか。

 

○発声依存からの脱却を

 

 声は、宗教とも深い関係があります。生活全体から人間発声学として捉えるならば、そこには無限の可能性があります。風邪で病院に行くような国はありませんから、日本人は病院依存症です。病院に行って薬に依存して、いつも病気を引きずっているのは、よくありません。

 一方、東洋医学でも、治療や薬に依存してずっと抱え込んだままになったり、直ってはまたすぐ繰り返すという人は少なくありません。そこは直っても別の個所がよくなくなる、転移のようなことも多いようにみえます。

 残念ながら、発声やヴォイトレも、そういう人がたくさんいます。いろんなところをいつも回って悩んでいる人もいます。そういう人には、是非、この研究所で終止符を打って欲しいものです。

 

○ライフワークにする

 

 私のところには、10年、20年といる人がいますが、それは、直らないのではありません。達していこう、極めていこうとしているからです。途中、かなり踏み外しているようにみえることもありますが、続けていくと、そういう人の方が大きく育っています。そこで、どういうアドバイスをするのかも、なかなか難しいことになるのです。武道のようにその人のライフワークとなっているのです。

 

○ヴォイトレの誤解

 

 「声が思うように出ない」「喉を傷める」などで医者に行く人の多くは、医者から紹介され、研究所にいらっしゃいます。そのほとんどは、病気とか怪我をしたのでない、治すというのでなく、達していないのです。発声や歌い方が間違っていたり、できていないのでなく、中途半端なのです。もっと大きく伸びる余地をみて挑んでいないのです。

 そこがわからないと、発声法を教わったところで、少し無理をすると壊します。それがわかると今度は無理をしなくなります。無理しないことで壊さなくなるのをヴォイトレと思ってしまう人が多いのは、私としては残念なことです。

 目一杯の無理をしても壊さなくなる、昔より大きく強く声を出せるようにならなくては、トレーニングではないでしょう。

 「発声が直らない」とか「歌がうまくならない」と思っている人は、考え方を変えてみることです。キャリアを重ねていくように考えて続けることです。そこでレベルアップするためのレッスンに気づき、ヴォイトレでは、ロングスタンスで声の器づくりをしていく力を蓄積していくのです。

 「すぐにうまくなる」「間違いを直す」ということばは、使いたくありません。そういう指導は、本質を見誤りかねません。

 

○発声は間違えない

 

 歌詞を間違えたり、音程やリズムを外したとは言いますが、発声は間違えるというものではありません。地力のなさでのコントロール不足といった力の問題がほとんどです。それは、訓練していかない限り安定しないのです。

 丁寧な発声と、それを再現しキープできる体力、技術を身につけていくこと、それが基礎たるヴォイトレです。歌唱には、発声や共鳴のバランスやコントロールとともに、表現のためのパワーとメリハリがいるのです。そのときに、声の芯や声量、共鳴と言った基本の力が大きく効いてくるということです。

論19-2.「歌うことのソフトウェア」

〇デジタルの進化

 文化での大きな改革期を20年ごとに、1967年のアメリカ、1987年のイギリス、2007年の日本とみる人がいます。

 2007年に、ヴォーカロイド初音ミクが登場しました。これはサンプリング音源、販売の会社から生まれたのです。(クリプトン社1995年~)

80年代のDTMMIDIDTMは和製英語)、

1983DX7発売(ヤマハ)、DXはシンセサイザー、QXはシーケンサー、RXはリズムマシーンです。

(背景)

1965年ベンチャーズが来日

1966年ビートルズが来日

1967年~ポプコン(ヤマハ・ライトミュージック・コンテスト)

1967年「帰ってきたヨッパライ」(フォーククルセラーズ)

196710月~「オールナイトニッポン」

19698月「ウッドストック・フェスティバル」(アメリカ)

ヒッピーカルチャー

(デジタル化)

196910月~ARPANET(インターネットの前身)

○歌うことのソフトウェア化とバーチャルシンガーの登場

 1968年「2001年宇宙の旅」HAL9000が「デイジー・ベル」を歌いました。これは、1961年、ベル研究所のIBM7094が実際に歌ったところからきたようです。

 以下、初音ミクを中心にみていきます。

1964年冨田勲のモーグのシンセサイザー、富田氏は、のちに人形浄瑠璃と初音ミクの共演を実現します。

「着メロ」と「着うた」「歌ってみた」の投稿、ネット発クリエーター ニコニコ動画 同人イベントの開催

20091月 バイリンガル(英語音声データベース)

カラオケ JOYSOUND

2009年 「ミクフェス’09夏」

20097月 PSP用ゲームソフト「初音ミク―Project DIVA」(セガ)

20104月「初音ミク アベント」6つの声

20115月 米国トヨタのCM

20117月 ロサンゼルスでアメリカ公演

201311月 パリ、シャトレ座でヴォーカロイド・オペラ「THE END

歌声ライブラリー「がくっぽいど」(GACKTの声)「ハルオロイドミナミ」(三波春夫の声2016)などの開発と発売。

論19.「「AIとこれからの声」へ。~ナレーション、声優、歌手、ヴォイストレーナーの職のソフトウェア化」

〇カラオケバトルという歌謡番組

 

 日本では、カラオケに続き、ヴォーカロイドが実用化されました。これは、ロボット、アンドロイドという2つの進化に相当します。

 歌番組もほとんどなくなりつつある日本のTVで、カラオケ採点機能での点数を競うカラオケバトルの放映が増えました。カラオケ採点機能が改良され、ある面で、審査員以上の公正な判断をしているとみたのでしょうか。そのセンサー機能を人の耳よりも信用をおいたわけです。

ゲームのようなことが、いつの間にか、その点数を1点、いや、0.1点でも上げようとして、参加者が競うようになっています。歌手のゲストコメンテーターでさえ、その点数を基準として聞こうとしているようです。歌の先生、ヴォイストレーナーの仕事を、代行していることになってきたのです。

 十代のオリコンランキングの上位の半分が、ヴォーカロイドの歌曲となったこともあります。高い声と滑舌(早口ことば)を楽しんでのことです。それが生理的快感らしいのは疑いようがありません。ランキングのあとの半分も、AKB48とかジャニーズ系ですから、もはや、ここでとりあげる対象にならないのです。

 

〇コンピュータの進歩と音楽

 

 カラオケバトルをクイズやゲームのように興味本位でみていましたが、声の世界での大きな変化であるのは現実なのです。歌番組として、カラオケ採点機を入れないものよりも、多くの人に視聴されているのです。紅白もそうして競った方が視聴率は上がるかもしれません。

 20世紀後半、シンセサイザーの登場で、バンドの音づくりは打込みになりました。人間よりも正確に音楽の演奏を文句一つ言わずにこなすのです。しかも、それまでにない音色や音の動きまでつくれます。ドラマーも、人間では32ビート、64ビートなどを正確に持続しては叩けません。同様に、歌手はヴォーカロイドのもつ声域、リズム、音程の正しさに敵いません。まだ勝っているのが発音、高低アクセント、イントネーションの変化ですが、これらもいずれカバーされるでしょう。残るは、音色、その人だけの声です。しかし、それさえ近いうちに代替されそうです。あなたの求める声や有名人の声で読み上げるソフトは、間違いなく出るでしょう。

 

〇日本でのAI化と“かわいい”

 

 ハイテク技術での技量、正確さの向上、再現性と、人の耳を通しての音楽、歌の捉え方、脳での聞き方での評価とは、必ずしも比例しません。とはいえ、AIとなると、そういうものさえ取り入れるでしょう。いずれはiPSでの生の声帯で発声できるようなアンドロイドも出てくるでしょう。声帯の代用の発声として、医療リハビリ面での必要から開発されるでしょう。

 CDのレベルなら、そこまでの必要もなく、人の声の合成だけでも、ほぼ間に合いそうです。カラオケバトルで、正確、完全な歌唱を競うだけなら、人は、音声ソフトに敵わなくなるでしょう。

 “かわいい”カルチャーに席巻された日本の若い世代は、歌手の歌声が人間の声でなくとも、さほど違和感をもたないようです。それどころか、合成音に慣れてスムーズに移行しつつあるのです。もしかしたらウォークマンあたりから慣れていったのかもしれません。iPodiPhoneの音にも違和感はないでしょう。すでに、若い世代は、デジタル音をよいものとして、ファミコンあたりから訓練されてきたのです。

 

〇声優、ナレーター業のソフト化

 

 声優、ナレーターの仕事は先細りです。ナレーションのソフトが、かなり高い完成度で販売されています。しかも、日夜、改善を続けています。

 通訳、翻訳も、一流は、どの職では特別ですが、それ以外では、通訳、翻訳ソフトに替わるでしょう。

 余談ですが、私の学生時代では、まさか自分が、日常でパソコンを使うとは思ってもいませんでした。1980年代のことです。電動タイプライターはありましたが、アルファベットに比べて日本語の入力自動化の限界を感じていました。

 女性では、和文タイピストというのが花形職、1枚で何千円かを稼げました。写植屋さんは、もっと高く、二千万円ほどの初期投資で一生安泰などと聞いていたものです。今や、和文タイプライターは職とともに消え、街に写植屋さんもみあたりません。職が消えるというのは、簡単なことなのです。

 ちなみに、当時、動画映像、VTRのマスターを160分ほどをつくるのに1千万円以上かかっていました。機材もスタジオ代も含めると、今と何桁違うでしょうか。今や、小中学生がそのレベル以上のことをできます。無料で、しかも、すぐに配信までできるようになったのです。

 ついこの間まで、浪曲が日本を席巻していたのに、もはや、その面影もないのを彷彿とさせます。

 

○シンギュラリティ

 

 シンギュラリティTechnological Singularity(技術的特異点)とは、人工的な超知能が人の知能を超える特異点です。一説には、2045年(カーツワイルほか)に起きるとされています。

 人工知能(AIAGI)の開発は、DNA解析、原子力の発明と並ぶ大革命といえます。

 

○リオから東京オリンピックへ

 

 たとえば、パラピンピックの選手が、これ以上サイボーグ化したら、オリンピックの記録をすべて上回るのではないでしょうか。

 パラリンピックでは、義足で2015年に10.57秒の記録を出したアラン・オリベイラ選手がいます。ちなみに、ウサイン・ボルト選手の記録は9.58秒(2006年)です。

 すでに走り幅跳びでは、マルクス・レーム選手が8m40まで出しています。(マイク・パウエルは8m95

 マラソンについては、世界記録が2時間257秒、車いすマラソンでは、すでに1時間2014秒となっているのです。(2016.9月現在)

 

AI世界と日本人

 

「マトリックス」の映画のように、培養され夢だけ見ている状態、夢の中で幸せにくらす方が日本人は、自由を求めて命をかけて戦うよりまし、と思うのでは、とは、松田卓也氏の指摘したことです。「永続敗戦」という白井聡氏のベストセラーに思い当たりました。

 

Q.テクノロジーの進歩は、どんどん速くなるのですか。

A.集積加速の法則、The Law of Accelerating Returns、これは「ムーアの法則」より派生しました。集積回路の集積度について1960年代に発見されたものです。指数関数的な進歩をするということです。というのは、1年後2倍、2年後22乗で4倍、3年後23乗で8倍、10年後およそ1000倍、20年後100万倍、30年後10億倍ということです。

 これを、コンピュータの進化のスピードとして、その結果をみると、当たっていると言われます。

 

Q.AIで、すべての仕事はなくなりますか。

A.アンドロイドは、ロボット(産業機械)以上に、人を助け、人のこれまでの仕事を奪うでしょう。人の仕事として残るのは、自由意思を尊重して、判断して関わること、トップとボトムくらいのようです。

 

Q.AIは、音楽の創作もできますか。

A.すでにシンフォビア(SYMPHOBIA)の奏でる音楽は、本物そっくりと言われます。ディビッド・コープのEMIは、特定の作曲家ふうに曲づくりをします。

 

Q.音声入力があれば、キー入力は不要になりますか。

A.iPhoneSiriは、2011年秋、英仏独語、20123月に日本語版がでました。これまでのViaVoiceAmiVoiceとは、格段の違いがあります。事前の訓練もいらないのです。

 ただし、音声入力は、周りに人がいるときなど使いにくいのが欠点です。いずれ、骨振動の入力、喉の筋肉の動きを捉える技術(NASA)などが、使われるでしょう。

 脳波で入力できるようになるかもしれません。これはBCIブレイン・コンピュータ・インターフェイス、または、BMIはブレイン・マシン・インターフェイスと言われています。

 現に、EPOC(エモーティブ社)は、300ドルで、頭にかぶり16個の電極をつけ、簡単に脳波を扱えるように開発し、普及に拍車をかけました。

 

Q.AIの音声応答は、使われていますか。

A.ボットという人工知能ソフトウェアで、音声での応答をすることができます。

 コールセンターのなかには、電話の話し声から客のタイプを判別して、もっとも適切なオペレーターに回しているところがあります。それだけでも相当手間が省けるものでしょう。

 

Q.未来予測のオーソドックスな研究は何ですか。

A.1972年、ローマ・クラブの将来予測での「成長の限界」(MITメドウズほか)が有名です。(ロトカ=ヴォルテラの方程式が使われました)

 

○ロボットからAI

 

「ロボット」(1920年 カレル・チャベック)

AI」(1956年 ジョン・マッカーシー)

MOTOMAN1974年 産業ロボ 安川電機)

Eo1986年)PS1996年 ホンダ)

ルンバ(そうじロボット 2002年)

Sophia20154月)

Pepper20156月)、PALRO PARO 

そら楽(ドローン、ゴルフ場 2016年)

アルファ碁(20163月)1997年 ディープ・ブルー(チェス)、東ロボくん(受験)、ワトソン(クイズほか)

AIBO(ソニー)

ASIMO2011年 ホンダ3代目)

「教えてgoo」なども、AI使用

SiriGoogleNowCortana

NeoFace

 

(映画)

ヴィキ「アイロボット」「マトリックス」

スカイネット「ターミネーター」

 

(マンガ)

ハレルヤ「火の鳥」

「鉄腕アトム」「ドラえもん」「サイボーグ009

「ドラゴンボール」「攻殻機動隊」

 

関連記事をfukugenからあげておきます。

 

〇ことばと手話のAI化と平和

 

TEDで、ASLアメリカ手話を魅せる英語として演じたクリスティーンさんは、「音は、社会的通貨」と述べました。言葉を話してこそ、人は通じ合えるということです。しかし、手話があれば、理解し合えます。

 

私たちが、外国で外国語を理解できないとき、孤立化します。コミュニケーションがとれないと、そこで差別が生じます。しかし、通訳がいると対話ができ、理解し合えます。

 

ことばも手話もなんでも通じるようにAIが発達すると、それで、世界が平和になるということです。

 

〇通訳、翻訳は自動化に

 

多言語コミュニケーションサービス本格化。

ジャパンフィッターが2秒で自動翻訳

日英中韓 202010ヵ国対応予定

JTBとパナソニックのクラウド利用)

手荷物配送もラゲージフリートラベルで。

やがて、通訳、翻訳、ツアーガイドも淘汰の時代に。

 

〇パラリンピックに夢みる

 

パラ=パラレルは「もう一つ」のですが、もとはパラプレジア=対まひということでした。視覚障害や手足切断の人は、まひではないので、こう変わったのです。

 

足を切断したために、自由な長さの足をつけられるようになって、まわりにうらやまれたというモデルの人がいましたが、障害した人の働くことが驚かれた時代から、今や、技術の進歩もあり、障害が個性として強みになりつつあるのです。

 

そもそもカツラもメガネも整形も障害克服技術ですし、コンタクトレンズが望遠になったら、くらいに、身体のサイボーグ化は身近に進みつつあるのです。

 

パラリンピックがオリンピックの記録を塗り替えていくと廃止されかねないのでないか、と心配しつつも、両足50メートルの義足にしたら100メートル走は一歩とか、など、最近、私は、リハビリから競技になったパラリンピックに、余計な心配とともに、人類の夢を重ねて、見ております。

 

オリンピックで日本のメダルは最高の41、入賞は45でしたが、そろそろ国をはずしたいですね。日本などの大国は、選手村の外に完全ケアの施設を完備、金にものを言わせるようなメダルレースはおかしいのに、自国のことばかり考えるな、フェアにやろうよ、と思うのですね。欧米が仕切って日本がそこにのる、何処かで見たような。

 

1ヵ月まえ、867日とエチオピアでは、100人以上が政府の治安部隊に殺害されたとやら、で、マラソンでリレサ選手が抗議のポーズ。

 

夢とともに現実をしっかり、みたいものです。

論18.「声の強さ、耐性について」

Q.なぜ、ヴォイストレーナーの声は弱いのか。☆☆☆

 

〇ヴォイストレーナーの声は弱い?

 

最近、よく聞かれるようになった質問です。きっと、トレーナーは、声が強く大きいとか、太く深いと思って、会って幻滅したのかもしれません。しかし、ヴォイストレーナーというのは、必ずしも強い声を出せる人でも、強い声の出し方を教えることを専らとしている人ではありません。

 

ここは、ヴォイストレーナーに何を求めるのかで違ってくるでしょう。もちろん、全てをできるというトレーナーもいますが、そういう人に限って、大体は、全て薄めている、つまり、平均的にそこそこにできるということが多いでしょう。

 

私の研究所では、一人の受講生に複数のトレーナーがつく複数トレーナー制で行っています。これは、全ての問題に対応できる、あるいは、全てのタイプの人に対応できるトレーナーは、ハイレベルにおいてはどこにもいないと知っているからです。

 

〇海外のトレーナーと日本のトレーナー

 

万能なトレーナーなどは、アメリカやイタリアにもいません。そこで、すでに一流の歌手をみているトレーナーでも同じです。あなたがそうなりたくて、もしその人についても、なれません。 

これまで、たくさんの人が、一流をみているというトレーナーに学びに行ったのを私は知っています。そういうトレーナーの何人かとは面識もあります。しかし、日本人で、そうなれた人はみていません。

もちろん、歌手に限らず、認められるには声の力だけではないのですから、ヴォイトレの第一の目的の声でみるとします。でも、声の力こそ、全くついていないケースが多いのです。

 

海外のトレーナーと歌手の例から切り出しました。それは、大体において、現在、日本で歌手を教えている人は、他の国のヴォイストレーナーより声が出ない、弱い点で特異だからです。また、日本の歌手も役者も同様に、声は弱いのです。

そこで、プロの歌手、役者が自分を見本として教えると似たことが起きるのは、当然のことです。

 

それ以前に、そういう人たちは、声が強くなくてはいけないと思ってはいません。ポップスにはマイクがありますから、歌を上手く歌うことと、声の強さ、大きさは関係ないと思っています。または、本人はそうではないタイプなのでスルーしているのです。

もって生まれた声で、そのままでよいと思い、声の強さを求められなかった、求めても得られなかった、得ることをしてこなかったのです。簡単に言うなら、声を強くするトレーニングをしてこなかったし、その必要性も感じていなかったのです。

逆にいうと、それで人並み以上のことができ、認められてきたのです。つまり、高い声、細い声、きれいな声を求め、あるいは、すでにもっている声、質がよく、恵まれたタイプか、高音域優先タイプが、日本のトレーナーには多いのです。

 

〇ヴォイスコントロールとヴォイストレーニング

 

ですから、プロの歌手やトレーナーで普通の人よりも大きな声が出ない人はたくさんいます。そういう人は、声は鍛えるものでない、その人に合ったしぜんがよい、と考えています。そうなると、どこが声のトレーニングなのかと、私なぞは思うのです。

そこで伝えられているのは、ヴォイトレでなくヴォイスコントロールであると、私は、二つに分けてきました。

 

今の日本の歌の現状から、そういう方向に特化したヴォイストレーナーや声楽家を紹介することもあります。私の研究所には、かつて、声の弱いトレーナーも何人かいました。が、今は、一般の人よりも声が弱いというトレーナーはいません。ここには、あらゆる分野のプロの人もくるので、声が弱いのでは、などと疑問をもたれてはやっていけない厳しさがあるからです。

 

要は、いろんなタイプ、専門のトレーナーがいるので、そこをきちんと知ることです。ご自分のトレーナーに、どこが専門、強いのかを聞くのもよいと思います。それがわからないのなら、私があなたをみて勧めるトレーナーから始めるとよいと思います。

論17.「「まね」で教えること」

○客観化する

 

 自分が一人で行うことと、レッスンのようにトレーナーと二人で行うことは違います。私は、一人と二人とは絶対的に違うと思っています。何十人ものレッスンでも、私は、11の複数形でみて1対多とはみていませんから、二人以上なら何人いても同じかもしれません。

 ですから、自主トレの結果を問うレッスンが大切だと思うのです。よいレッスンは、声が行き来するもの、声が働きかけるものです。トレーナーから教えるのでなく、生徒が声で問うのにトレーナーが応じているようなものです。

 「トレーナー対生徒」の11のところへ、私がそのセッティングみる形をとると「1対(11)」となります。トレーナー二人のレッスンを比べることで、もっと客観視できます。たくさんの個人レッスンを受けるのは、平行ですが、それを統括してみる私がいることで、重層的になるのです。これがとても大切なことです。そのトレーナーと生徒、二人の働きが、より客観的に判断できます。さらに、生徒1人に2人のトレーナーをつけると、1対[(11)(11)]となります。

 昔は、マンツーマンのレッスンを次の番の生徒さんに見学させることで効果を上げているレッスン体制がよくありました。距離をおいてみていると、聞く力もつきます。

 私はステージやCDを自分だけが聞くのでなく、すぐれた生徒やトレーナー、すぐれた観客が聞くのを、その外からみて、つまり、一番後ろからみて、より多くを学びました。秀でたトレーナーや生徒が作品をどう感じるかを知ることで、自らの評価を客観化するように努めてきたわけです。

 

○まねの盲点☆

 

 研究所では、一人の生徒さんに複数のトレーナーをつけています。その分、客観視しやすくなります。

 トレーナーが信頼されると、よい面もたくさんありますが、そうでない面では、トレーナーのくせが入ります。それゆえ、23人のトレーナーにつく方が、もっともよいと自分が思うトレーナーだけにつくよりもよいと思うのです。

 一人のアーティストや一人の役者だけから学ぶと、知らないうちに必ずまねになってしまうと警告しています。これまでに、教えている先生にそっくりな芸風になった生徒さんたちを、他のスクールでたくさんみてきました。

 先生が歌手なら、なおさらその感性が大きく影響します。多くの人は、プロ歌手ほど才能や強い個性があるわけでないから、そこにいると、その影響下にどっぷりと置かれます。喋り方や言うこと、立ち居振る舞いから考え方まで似てしまうのです。そこに出入りする関係者も、先生を評価する人の集まりだから、なおさらそうなります。これは、北島ファミリーの例で以前、説明しました。それも一つの学び方であり、特に日本では徹底してそういう伝え方でした。

 これが有利な点は、形だけは早くできることです。人前に早く出せるのです。そうであるほど後で不利な点に化してしまうのが、怖いところです。自力で出ているのでは、ないからです。まねを外そうにも外せないし、外したら形もなくなるのです。他の芸なら、それを踏まえて次に進めることもあります。しかし、声や歌はそうはいかないからです。個人の体、さらに個人の喉、そこは他人の入り込めない壁があります。なのに、その区別が本人にもまわりにもつきにくいからです。

 

○育つ

 

 教え方がわかりやすく、やさしいトレーナーにありがちですが、いつも自分よりできない人だけを相手にしていると、どうなるでしょう。そのトレーナーの力を5としてみると、半分の2.5の力くらいにまでしか育てられなくなっています。

そういうトレーナーは、自分の力を示すのに、未熟な相手が出せない高音やファルセットなど、わかりやすいことをやって見せます。それが獲得すべき目的であり、技術のようにみせるのです。「私はできるが、あなたはできない」というギャップを示します。そして、自分のまねをさせて、まねができるようになることを目的とします。おのずと器用にまねられることが優れているという評価になります。ロングトーン、ビブラート、ボリュームなどを見せる人もいれば、昔の作曲家のトレーナーのように、歌や伴奏のうまさを見せる人もいます。でも、どれもヴォイトレの本質ではありません。

 自分より有名であったり活躍していたり、違う面でプロである人を相手にしていると、トレーナーの力が5しかなくても相手が10に育つことがあります。学ぶポイントを本人自身でつかみ、何事もできるようにする方が大切です。

 

○勢い☆

 

 年をとり衰えていくと、それを隠すための飾り方、いわば、声や振りの使い方、みせ方がうまくなります。それも芸であり、文化たるものと思うのです。

 しかし、若いうちはパワー、勢い、威力がベースです。エネルギーをムダに使えばよいのです。過剰な放出こそがインパクトとして唯一、アピール力となります。

昨日の自分との競争などは、衰えてきたらでよいのです。最初は、周りに勝とう、より秀でよう、からでよいと思うのです。

 トレーナー業は、そうはいきませんから、そうでないことを教えることになりがちです。それが、トレーナーにつくときにもっとも注意することです。多くの人には、まとめるのでなく、力を出すことが第一の課題だからです。

 

○秘訣★

 

 「特別な教えはありますか」「何回くらい通うとコツを伝授してくれるのですか」

 初日、初回でも必要なら、私はすべてを示しています。私のトレーニングの基本は一声の「ハイ」「アー」で示せます。それがそっくりできたら、初日に卒業です。何ら隠していません。わかりやすいでしょう。

 難しいことなどは学んでも、身にならないものです。ステージは難しいことをできることをアピールする場ではありません。難しく思わせないほどにこなせていてこそ、客も楽しめます。

大切なのは自分を知ることです。自分の声を知るのには時間がかかるのです。

 私よりもよい声の人、高い声、低い声の人、長く伸ばせる人、個性的な声の人など、いくらでもいます。ここのトレーナーも私よりすぐれた声の技術をたくさんもっています。歌のうまいトレーナー、ピアノのうまいトレーナー、せりふのうまいトレーナー、だから、皆で運営しているのです。

しかし、他の人と比べても仕方ないのです。「私はこれができる」「あなたは何ができる」「私と同じことができる」ということではなく、「他の人のできない何ができるのか」ということを問うのです。

 私のできないことをできてしまう人はたくさんいます。ですが、ここのトレーナー全員のことが一人でできるような人は、日本人なら、ほとんどいないと思います。それが総合力としての研究所の体制のもつ力なのです。

 

○プロの能力

 

 問われるのは、できる、できないではなく、できることでどこまでできるか、ということです。私は、歌手も役者も声優もアナウンサーもお笑い芸人、噺家もできません。では、できるとは、どういうことなのでしょう。それは実際、結果で問うしかありません。

 一つの基準は、「それで食べている」ということです。プロよりうまい素人もいるのです。資格のない職では、区別できないものです。何十年も前のヒット曲での知名度であろうと、印税やタレント活動であろうと、それで食べている人は、プロなのです。

 プロとして考えるなら、できるに対してできないというのは、それで食べていないということです。歌手といっても、自称歌手を含めたらカラオケに毎日のように行っている人は、たくさんいるでしょう。プロとして稼いでいても、歌や芝居だけで生計の立つ人は少ないでしょう。作詞作曲の印税は、歌い手とは別の職とも思います。あくまでヴォイトレからみてのことです。シンガーソングライターは、声も含めた総合力ということになります。

 プロとは、人生でそれを選び、あるいは選ばされ、それで生きてきている人といえます。歌手出身の、アナウンサー出身のヴォイストレーナーというならわかりやすいですが、それは、むしろ本職でうまくいかない人も多いのですから、できていても売れない、でもプロの世界では、それはできていないとなるわけです。

 ですから、ヒット曲や出演機会もないトレーナーが、プロの歌手やプロの役者とその分野で張り合ってもどうしようもないことです。トレーナーは、声をみて判断し、トレーニングすることのプロであるべきです。トレーナーとして声がよいとか、カラオケがうまいのは、そうでないよりはよいだけで、本質的なことではありません。それで実力を問いたいということなら、役者や歌手をやればよいのです。なぜ、それで通用しないか、自らを知ったトレーナーでないと、プロをみたり育てたりはできません。

 

○トレーナーの業

 

 私ごときが声のトレーナーをやっている、なら、「自分ならもっとできる」で、アーティスト志願者がトレーナーに転向したなら、それは、よくも悪くも、失敗です。反面教師としても、私の影響下に入りすぎだと思います。それで人生が変わったというのは、必ずしも喜べません。なぜなら、好きなことの周辺で食べられる数少ない職とヴォイトレを考えてしまったと思うからです。

 私は、ライフワークとして、自らの心身のためと後進のために、声の研究のための研究所をつくっていました。アーティストや社会人としての勝負もしないうちから、トレーナーとして先生になって欲しいとは思わないのです。

 世界への人材が出ていない日本で、私は、アーティストの踏み台になるつもりではあったのですが、トレーナーの踏み台にもならなくてはいけないようでは、困惑します。「トレーナーの選び方」を、トレーナー向けに述べているのは、その責任もあってのつもりです。

 

○よいと思うことを疑う

 

 「昔がよかった」という自分が、まともだとは思ってはなりません。自分たちがよいと思うよう行動していて、時代がよくなっていっていないというのなら、自分の「よいと思うこと」を疑うところから始めるべきです。

大人はバカだといって、大人になってみると、バカになっているものなのです。それに気づいているのといないのとは、天地ほどの違いがあります。私が語るにあたり気をつけているのは、次の2つの事実です。

 

1.海外の外国人の声、歌唱のレベルは総じて高い。

2.今の日本のレベル、日本人の歌唱力、声の力は向上していないどころか低下している。(平均レベルはカラオケレベルで上がっても、トップレベルは下がっている)

論16.鍛える

○能力の開発

 

 仕事のITによる効率化の反動としてだけではないと思いますが、どこでも誰でも心身の解放の必要性が高まってきました。身体の緊張、心の抑圧をどう解放したらよいのかがわからなくなってきたのでしょう。そこで、心身の解放、柔軟性を取り戻すものが求められるようになりました。で、早く楽に誰でも同じようにできるもの、という効率化狙いになって、いろんなものがブームになっては去っていくのが現状です。しかし、実のところ、マンツーマンのレッスンでもワークショップなどでも、かなり特別な状況においての気づきを効果にしています。

 あなた自身を早く変えるとしたら、あなたに入っているものを新しく異なるものに置き換えます。この時に、トレーナーのなかには、これまであなたに入っているものを否定する人もいれば肯定する人もいます。否定した方が早く大きく変わるし徹底します。が、自己崩壊のように思う人もいるし、周りの印象がよくないので、今は、肯定するトレーナーが多くなりました。そこまで責任も負えないし、時間をかける方が本人のためにもよいからです。それで、依存を高める方向にいきやすいのです。

 

○出力より入力

 

 あなたに入っているものがだめなのでなく、絶対量として足りないことがほとんどです。それと、本人が自ら限っている能力に、可能性があるから引きだし、高めたり、それに気づき取り出したりする、そのことで変わるというのは違うのです。自分のものが20あって、10は出ていて、10は出ていないから、残りの10を出します。出し切れたらOKというなら、自己啓発です。人は脳の37パーセントしか使っていないとか、潜在能力とかいうことで知られてきたことです。

 10から100が出たら大変革です。普通は、そこに90を入れないと出てきません。それを50しか入れずに出せるなら、その人の才能でもあり、綱渡りでもあります。そうして、もはや元の10があるのかないのかなどわからないようになると、問うても仕方ないのです。それを上書きしたといってよいでしょう。

 

○結果をみる

 

 私は、結果をトレーナーのもつレベルを追いつき超えたか、異なるものとなったかでみます。ある部分についてでみてもよいです。そうでないのは、趣味、お稽古事です。それでもよいし、自己の意志か、依存かを問うても、目的が自己満足なら本人がよければよいのです。

 一人前、一流レベルになりたいのに結果としてそうなれていないのなら、この指導の体系を厳しくみる必要があります。

 私が嫌うのは、トレーナーが「よい人」でありたいために、ほめて、能力のない人、いや、能力をつけられない人をまわりに侍らせ、数を誇るのに、そのまま、心地よい人間関係だけでつなぎとめているパターンです。まさにファンクラブづくりです。

 

○身体意識の向上

 

 発声の体感としては、寄りかからず開かれるようにする方向で、腰から決まることを目標にしてください。

 四股から肩入れは、イチローの打席前の一連のストレッチ運動で有名になりました。体勢が崩れても簡単には転ばないバランスの調整能力は、ふしぜんなフォームで粘るような鍛錬で成しえます。

身体意識の向上に、歌舞伎では六方(東西南北天地)を踏みます。足裏(湧泉)から手の掌(労宮)、親指と人差し指(合谷)、足裏の感覚を捉えるのです。それは、かつては日常の仕事や動作、武術などで身についていきました。盆踊り、ドジョウ掬い、ソーラン節などでも腰を落とし、腰を入れることを昔の人は知っていました。そこはみぞおちの脱力、緩めることにもなります。野口晴哉氏の活元運動での邪気の吐き出しなどもヒントになるでしょう。

 

○発声技法

 

 声をうまく出せるようになった人は、しぜんとそのようにしてきたのです。これは、武道でも健康法でもスポーツでも同じです。ヴォイトレも、当初はそうして発展してきたと思われます。つまり、すぐれた声を出す人をみて、そのプロセスを辿ったのです。

 ヴォイトレの基本は、声の育成プロセスそのものでの再生強化調整の方法といえます。そこを逸脱するのは極力避ける方がよいと思うのです。目的によっては、応用されるのはやむをえませんが、目的を定めるときは充分に注意することです。

 

○部分とつながり

 

 「鍛錬する」ということが、否定されてきているように思います。鍛えることを否定する人の根拠の一つは、個々の筋肉を鍛えなくとも全体の機能を結びつきをうまく使えば、もっと大きな力が働くということです。そこには個々に鍛えることで、そういう結びつきが妨げられるという疑いがあるのでしょう。

 以前に、「野球のトレーニングで、『筋トレはバランスを崩すからトータルの動きの中でつくる』という考えと、『マシンジムなどでの弱点補強も必要』という2つの考えがある」ことを述べました。この点でスポーツと芸事は異なるわけではありません。この「部分と全体の問題」は、必ずしも明確に分けられるものでないと思います。

 一つは、時間という要因です。小さい頃から10年以上かけて、毎日続けてきた人に3年で追いつこうとしたら、しぜんにバランスをとってだけでは無理でしょう。部分を鍛え強化を急がざるをえません。

 鍛えるのが、そのまま目的になるのでなく、その上で全体の中に組み入れて自然に統合されていくように考えましょう。つまり、バランスが一時崩れても、いずれバランスがとれるようにできたらよいのです。そうでないというなら、アスリートは試合だけしていたら上達するということです。そんなものが通じるとしたら、それはほとんど歴史もない競技や素人の間でだけのことでしょう。

 

○無理の否定

 

 「鍛える」というのは、無理強いとか痛めるというイメージがついてしまうので、今や避けられていることばになっているのでしょうか。マッチョな筋トレのイメージなのでしょうが、心身を鍛えるのは、かつては生きていくための基本でした。

 スポーツはともかく、芸事に「鍛錬」を使うのによくないということもあるのでしょう。でも、それをいうなら、スポーツや武道だけでなく、芸人も職人も、皆、無理をしています。決して身体によいことをやっているわけでないのです。それゆえに、引退とかがあるのでしょう。

 発声については、筋肉の力そのものの働きでなく声帯での呼気の変換ということだから、ということで方向から「鍛える」イメージはよくないという考えには一理あります。とはいえ、スポーツも筋肉の力で競うのでなく、それに基づいた心身の使い方ですから、そこでコツやバランスは欠かないわけです。単純に力を入れたらよいとか力持ちが有利ではないのです。力を働かせるために力を抜くのですが、フォームを保てる力は必要です。そこを混同しないことです。そこでフォームが大切にされる点で、私は発声と共通していると思います。発声は、呼吸に関する筋肉はじめ、全身の体、声帯でも筋力、全て使えなければよい発声にならないのです。

 

○「鍛える」の否定

 

 「鍛える」を否定する人には2タイプいるようです。元より鍛えていない人、声が弱く(声量がなく)少し大声にすると声に異変が出る人やそういう人に関わるトレーナーです。声の弱い日本人には多く、特に歌い手で高音を使う人に多いです。

 もう1つのタイプは、大声や強い声で鍛えて声を壊したり声域をコントロールできなかった人です。自らは鍛えていながら、そのプロセスは間違えた、不要、無駄だったから、他の人はやってはいけないという反省型も含みます。この2タイプの考え方の傾向と思い込みは、前に詳しく述べたので参考にしてください。

 となると、私は、「鍛える」肯定派と思われるかもしれませんが、それでは日本の声楽家、テノールやソプラノと一緒に教えることはできません。一緒に研究所でやっているということは、多様性を認めているということです。つまり、相手の目的、タイプ、レベル、これまでのプロセスによっても違ってくるということです。同じ人でも目的が違えば手段、プロセスは違います。

 

○ともに含む

 

 鍛錬と調整を分けているのは、理屈上のことにすぎません。同じメニュでも、ある人には調整、ある人には鍛錬になるのです。いえ、正しくは、どんな人にもすべてのメニュは、声を出す以上、鍛錬と調整をともに含むのです。その比率や優先をどうするかこそが、レッスンの考え方、トレーナーの個性にもなると思います。

 ということでは、単にやり過ぎや方向性のミスを、鍛錬や「鍛える」ということで否定している人が多いように思います。つまり、高すぎ、大きすぎ、(特に高くて大きすぎ)長く出しすぎ、休憩が少なすぎ、短すぎなど、負荷がかかりすぎていることでよくないのです。雑であったり荒っぽいのも、そこに含まれます。それは、言うまでもなく、喉に負担と疲れをもたらし、調子を損ねる原因となります。

 私は、日本人は心配しすぎ、過保護で、あまりにも状態にこだわりすぎ、そのときの調子だけでみているように思えてなりません。安全にきれいに響く声だけを求めてきた結果が、パワーが出ない、出せないという結果ではないかということです。

 ですから、あえて、この時期において、もう一度、声のパワーから考えてみることを提唱しているのです。もちろん、「鍛える」や鍛錬に悪いイメージをもつ人、トレーナーは、あえて、このことばを使わなくてよいと思います。

 

○声のパワー

 

 声を使う人にとって、身体、肉体を支えとしていることは、楽器のプレイヤー以上に問われていることと思います。それが欧米に追い付けないからと、リラックス、弛緩する方に行ったともいえるのです。昔は、野口(三千三)体操、今はアレクサンダー・テクニックとかが、必ずしもそうした問題解決の本質をついているものでないことを加えておきます。

 喉が、声が弱くなったから、それを壊さないように、より弱めにしてリスクを負わないようにしているのは、うつ病対策みたいなものにも思えます。

 この日本人の若い人の心身の弱化における問題にトレーナーがそのまま対応している現況で、さらにパワーダウンしていっています。仕事である以上、現状に対応しなくてはならないのはわかります。しかし、劣っていくことに現状のままで対応しているのは、結果として、さらに劣らせていくことになることを知るべきです。

 もはや日本はガラパゴス化しているのでしょう。その反動として、ヴォーカロイドやヴィジュアル系での個性で世界に出ていく、そのオリジナリティを日本の売りとみるのは、体のついた声、音の世界での歌、音楽を顧みなくなった証拠でしょう。その点で、私のように生の音、生の声を好む者には残念なことでしょう。

 

○フォームを身につける

 

 身体を有効にというのも、長いのか短いのか、自分の人生のなかで使うことを考えてこそ、トレーニングです。ですから、私は、ヴォイトレがトレーニングということでなければ、小さな頃から歌ってきたり、演じてきた歌手や役者の自然習得プロセスを理想的に思います。ヴォイトレをしないで同じことができたら、それはそれで理想的でしょう。しかし、そうでない場合、ヴォイトレをする必要があります。特に、早くとかより高度にという人にはトレーニングとして与えるのは当然でしょう。

 「スポーツは体に悪い」と唱える人がいますが、それを一歩進めたら、「生きていることも体に悪い」のです。呼吸は酸素の取り入れを基にするのですから、その最たるものでしょう。酸素は毒でもあります。マラソンやダッシュは過激でよくないからジョギング、ジョギングで死ぬ人もいるからジョギングはよくない…と、そういう弱化の動きのなかに、今の発声もあるわけでしょう。

 痛めるも活かすも、どこで分けるかです。筋トレは痛めて強くするわけです。人生を短く太くか長く細くかでも、価値観、いや、その人自身も選べないのが人生でもあるわけでしょう。まして、体や喉は、ということです。

 

○バランス

 

 身体の能力は加齢とともに老化し、少しずつ衰えていくのです。声も同じです。声帯も二十歳過ぎたら劣化していきます。どのようにメンテナンスして、よりよく活かすか、そこに調整という技術があります。とはいえ、状態での最大調整以上に力をつけていきたいのなら、条件を変えなくてはいけません。必要半分な量の確保のための一時の遠回りをよしとせず、バランスのうまくとれない期間まで否定するような浅い考えが一般化したのは残念なことです。あなたが、自己流でそれなりにやれていたとしても、それがベストとは限りません。

 水泳を習いに行くと教わるフォームはやりにくいし、一時はタイムも落ちるはずです。でも一年後には、そのフォームの方が楽で速くなっているでしょう。不足している条件をトレーニングで部分的に補強、柔軟や筋トレをしたら、もっとよくなります。それは、筋力でよくなるのでなく、筋力でフォームが支えられ、バランスもよくなり、力学的にも理想に近づいていくからです。

 というようなことも、何かを心身で学んだことのない人には、なかなかわからないのです。そういう人がトレーナーになると困ったことになります。

 どんなものでもフォームを身につけることで大きく変わるのです。フォームはつくり上げていくものです。不足する力をつけなくては形として整わないのです。そのプロセスは、慣れないうちはマイナスに出ます。習得の程度に従ってプラスになっていくことを知ることでしょう。たとえば、発声の上達の本質とは、口内や額、頭の共鳴への方向付けではないというようなことです。

 

○まとめ

 

a.天然、しぜんで力を抜いて出す。

b.鍛えて力で出す。

c.鍛えられている。力を抜いて出す。

 つまり、無理に分けると、何事でもこの3つのプロセスがあります。「鍛える」を否定するのは、bを否定しているのです。でも、そのためbに達することがなく、aの状態で留まるようになりました。

 声の場合は、育ちによって、すでに鍛えられているcの力を持つaもいるのです(海外のヴォーカリスト、外国人)。さらに、歌は、必ずしも声の力を必要としません。この日本では、特にそうなってきていますし、海外、特にアジアは似た傾向にあるのを感じます。つまりaで充分なヴォーカリストもいるということです。こういったことが特にポピュラーのヴォイトレをややこしくしているのです(bの力で出すという表現は、誤解とリスクを招くのですが、スポーツのプロセスのような意味であえて使いました。気をつけてください)。

論15.考える技術と感じるアート

○断じるということ

 

 断定する人は、大体は、大した人でないので、その内容が合わなくても気にしないことです。

 勉強して知識を得ると、ひけらかしたくなるものです。私も、最初に人前で話したり本を書いたときは、断定調だったのでよくわかります。もちろん、自分のやり方を信じ込んでいるし、すぐれていると思うからそうするのです。人に認められたいとか褒められたい、あるいは、説得したいときは、そうなりがちです。

 なぜかというと、それが求められているからです。トレーナーがよいと思わず迷っているようなものを誰が求めたいと思うでしょうか。その方が簡単で相手にもわかりやすいからです。その分野の専門家であったり、仕事をすることで報酬を得るには、そうしたことが望まれるからです。

 同じことを続けていると、特に初心者の人だけを相手にしていると、それに慣れていき、自ずと早くそうなるものです。ですから、今の私などは、始めたばかりのトレーナーの方が慎重な分、よいと思うこともあるほどです。

 楽に早く簡単にできるのがよいと思う人は、お客さんです。お客さんはビシッと言われたり背中を押してもらう一言が欲しいから、トレーナーの断定調を好みます。トレーナーもそうしているうちに、そういう人ばかりが残るから、ますます自説に自信をもち、偏っていくのです。

 それは、野球好きの人が、たまたま、サッカーを23年みて、「やはり野球ほど深くない」と断定するのにも似ています。昔がんばった人ほど切り替えられないのです。

 勉強して学ぶほどに、断定はできなくなります。今の私は、一人の人の一つの質問に、100200も答えが思い浮かびます。こうであれば、と仮定した条件とともにいくつか述べることもあれば、全く説明しないこともあります。

 相手の望むことにすべて答えるのでなく、相手をみてよかれと思う方向をみて、タイミングをみて述べます。相手にこちらが望めるようになるように答えます。その人を知るにつれ、その人もみえていない可能性を探りつつ、本人の行きたい方向と本人のもって生まれた資質を合致させるようにレッスンを創造していくのです。

 このスタートラインに立つのに23年はかかります。そこまでは何をどうやってもよいのです。ただ、先の事のための基礎を入れ込むことが肝要なのです。

 

○わからなくてよい

 

 「ヴォイトレをやらなくても、うまくなりますか」と聞かれることがあります。

 「読むだけでよくなる…」というタイトルの本を書いている私が、答えるのもどうかと思いますが、あの本は、やっている人を対象に述べたものです。やるだけではわからないこと、みえていないことがあるという意味で、死角となるところ、アプローチの盲点、気づき方を示したものです。やらない人に対して、私が言うことは、何もないのです。

 多くの本は、入門者対象、つまり、やりたい人、やろうとしている人をターゲットとしています。それが一番、売れるからです。いや、それしか売れないことが多いからです。そのため、編集者自身の興味と理解の範囲に限られます。それで、ビジネス書や自己啓発書のように「何週間でわかる」などというタイトルになるのです。

 「わかってもできなければ、わかったと言えない」など、くり返してきました。が、これも「わかることができることとは何か」を定義しないと進めないでしょう。わかるってどういうことで、どうなることで、なぜそれが必要なのか、これは、知るほどにわからず、できるほどにできないから、続くような気がします。

 少なくとも、私はそうなので、続いています。すぐにわかった、できたという人のものなど、ちっともおもしろくないのです。まして、私が求めるようなすごいものとは、真逆なのです。

 まして、それで認められてもいないなら、ただ幼いこと、未熟なこと、自画自賛で自己陶酔にすぎないのです。認められるといっても、どの程度か、多くの人に知られていたらよいのか、多くのファンがいればいるほどよいのかとなると、どうでもよいことに思えませんか。どうせなら、国や時代を超え、歴史に残るものを目指していきましょう。

 

○活かす力、生きる力

 

 あのトレーニング、あの方法、あのトレーナーがいいね、などと言うのも、幼く未熟なことでしょう。人についても、いいとかすごいっていうのも、何もみていないように思います。そういうところもそうでないところもある上で、自分に役立つように、人も方法も、あなたが使えばよいのです。使える力を手に入れるためにレッスンとトレーニングがあるということです.

 使う力があれば、慢心していない人なら、学べることはたくさんあります。だからといって、すべてを知ることが必要なのではありません。すべてなどは知りえませんから、できるだけ、何事に対してもいい方向に考え、活かしていくことです。

 すべてを知ることでなく、少しでもできるために、それを目指していくのです。同じメニュでも、それで成長していくと気づき方が変わります。他の人が何とも思わないところで、多くのことを感じられるようになります。

 知識や情報を知っても、知るほどに迷うばかりです。考える力にならないし、考える力などあろうとなかろうと、生きる力があるのか、力が出るのか、強くできるのか、なのです。これは世界とあなたの関わりをつける力です。それがあれば考えるべきことを考えるから、考える力もつくし、知識や情報も自分が使える形で入ってくると思うのです。

 ですから知識として、それを望むのでなく、あなたと世の中の接点を見つけるために、そこの材料にして欲しいと思います。それで私は、「ノウハウやメニュでなく、基準と材料を得るように」と言っているのです。

 

○わかるとできると続ける

 

 レッスンでも本でも、入門者のためのものはわかりやすく、できやすく、誰にでも合うレベルに合わせてつくられています。それは、これまで行っていなかった人が行うために、とっつきやすくしてあります。そして、できるだけ続けられるために、つくられたものです。だから本当には役に立たないのです。

 でも、続けていくと変わることもあります。続けることによって次の事への用意ができてくる、そういう使い方で、次の可能性が開かれる可能性のあるものを選べるかです。発展性があるのかないのかが、本当は重要なことです。

 そういうものを使わなくてもできる人はいるのです。使わなくとも感じられる人がいるのと同じです。しかし、大体は、自主レッスンでできないから、感じられないから使っていくのです。使っているものができないのなら、できるものにしていくことです。できるようになったからといって、現実には、まだ、何ら使えないものにすぎないのです。まんがの描き方入門という講座や本と同じだと思ってください。

できるよりも感じられることが大切です。感じられるほどできなくなるものだからです。

 知識でなく、体を使うものは、そこがわかりにくいです。わかりにくいというか、わかる人にはわかりますが、わからない人にはわからない。わかるってことがわからないからです。覚えたかでなく、身についたかでチェックするのです。頭のように正誤でなく、体は程度、深さだからです。

 ですから、これまでもスポーツ、武道、芸事や自転車、車の運転のプロセスなどで、例えて説明してきました。そういう経験があれば、そこを思い出して当てはめてみるとよいのです。

 変わっていかない人には、変わるということがわかりません。続けてきた人、続けて変わった人しか、変わったことはわかりません。変わっていくことも、変わらない基本が何たるかもわかりません。わからなくてもできなくてもよいから、そんなことを頭で考えるより、続けることが大切なのです。

 

○ワープする

 

 もっともよいのは、あなたのレベルに合っていないものに、ハイレベルなものに挑むことです。到底できません。これは荒療治、いや、荒修行です。誰にでもよいやり方とはいえませんが、どこかでそのうち、一瞬、一声でも、感じられるかもしれません、できるかもしれません、距離がみえるかもしれません。偶然を必然にする、そういうチャンスになるのを待ち構えている体制をもっているのが大切なことです。

 同じ次元を感じられたら、いつか同じところにいけます。しかし、同じことをやっているつもりで次元がズレていることが多いのです。そのため、距離がみえず、そのプロセスも得られていきません。

 たとえば、カラオケのレパートリーを10曲、100曲、1000曲と10倍ずつに増やしても、声や歌は10倍ずつよくなりません。多くの人は、10曲から100曲までで上達したあとは、慣れてこなせるようになっているだけでしょう。周りに褒められるようになってその人の伸びも止まります。アマチュアの限界です。

 それは、あなたの方に合わせていくからです。本当はどこかでワープ、これまでのあなたにない感覚や体になって放たなくてはならないのです。自由に自在になるのです。

 そこで、トレーナーが必要となるのです。それでも対応のできる人は少ないので、これで補ってみてください。ヴォイトレ本100冊を読むよりもよいと思います。

 要は、質なのであって、そのための量です。私が量としてみせているのは、差がわかりやすいからです。運動部のハードトレーニングのようなものです。それだけではなんともならないことをやってみて初めて、体で知ることができるからです。

 

○絶対量と絶対時間

 

 何事も成し遂げるのに、ある絶対量は必要です。そこから増すことは必要ないのです。でも、一定量を続けることは必要です。

 ことば一つで歴史に名を刻んだ人もいます。そういう人は、質の差のようにみえても、ずっと量をもっています。それには時間がかかっています。トレーニングだけでなく、必要なものを吸収することを重ねた時間です。公になっていないだけです。

 で、ほとんどの人は量をこなさないうちに質で勝負しようとするから、うまくいかないのです。知名度とか注目度とか販売数とか、量そのもので測れるものは大したものではありません。

 私のこれだけの量から一つの真理だけでも得ていただければ、ありがたいものです。

 お客さんへのサービスは、スピード、効率のよさ、便利さで行われ、客数や売り上げといった量を結果とします。買い物ならそれでよいと思います。でも、生きていくのは、高さと深さとが熟していくことで、でしょう。いつ量から質的変換をするか、その後も慢心せず、いくつそれを重ねられるか、ということです。わからないときは、続けることです。それしかないときばかりだなと思うのです。

 

Q.まともかそうでないかは、どう見分けるのですか。

 

A.自分をバカと思わないのがバカ、酔っていないと言うのが酔っ払いの証拠です。自分のことは自分が一番わかっているという、わかっていなさについて述べてみます。

 例えば、心が病んでいると思われる人は、自分で精神科に行くことはなく、連れてこられます。精神の異常、正常は、元よりあやふやなもので、誰かに相談するにも、誰にその資格があるのかと問いたいほどです。

 そのあたり、ヴォイトレも似ています。医者は資格認定だから、医者よりも曖昧です。あちこちのトレーナーのレッスンを転々としてきた人なら、ここにきて、「そんなこと言われたことなかった」と感動されるか、または、不信に思われるかは、紙一重のようにも思うのです。

 外科手術のようにいかないし、すぐに生死にかかわるものでないあたりも、一回でよくならず何回も通うことも、カウンセリングなどと一部、似ています。声の問題はメンタルに関わるので、なおさらです。

 でも、問題は、まともかどうか、正しいのかどうかではありません。そういう基準をもって判定するものでありません。そう判断しても面と向かって、どこまで本人に言うのか、という点で、トレーナーの性格や生き方、価値観が出るのかもしれません。

 そこで基準は何かと聞かれても困るわけです。私が述べてきたのも、そういうふうに分けて考えるのを一時、やめましょうということです。まともも、まともでないのも、大して変わらないからです。表現者ということなら、そのふり幅があった方がよいでしょう。

 それと、トレーニングは、将来に向けて可能性を追求するのですから、過去や現状での分析や状態でこだわるのはよくないのです。現実は踏まえても、それを変えるためにいらっしゃるのですから、限界より可能性を探すのがトレーナーの仕事です。可能性は誰にでも無限にあるのです。そこを信じて可能性を大きくする、それがトレーニングなのです。

 

Q.正しい声とは、何でしょうか。

A.美人が、すべての人の合成した平均顔というのと同じで、正しい、よい声は、何となく多くの人の真ん中、平均という感じになるのでしょうか。人によっては、声にも上中下があり、上の方と言うかもしれませんが。正していくことはあっても、正しい声は一つではありません。

 

Q.ヴォイトレの規範はありますか。

A.「何でもよいから、声出して」とか「ことばを言って」とか「歌って」というのが、一番漠然としてやりにくいでしょう。そこで、メニュなどで枠組みを与えます。その方がスムーズに入れるからでしょう。

 特に日本人は、「答えは自分で」導くものだと言っても、「他の人は」とか「平均的には」とか「何番目(ランキング)」とか、チェックしないと落ち着かない性分なので、そこを変えるのが大変です。

 ヴォイトレがおかしいのでなく、日本人がおかしいから成果が出ないという問題です。

 「自由に」「好きに」のための表現と私は思っています。そのための枠組み、基本と言っているものの、表現が枠そのもののようになりがちなのは、日本人の生真面目さからなのでしょう。

 で、ヴォイトレとか練習というのが独立してしまいます。そのうち、道みたいになる、いや、もう、ここではなりつつあります。それは、無限の可能性への創造として、すばらしいことです。しかし、実態が形骸化して、同じように揃えていくだけの満足で終わっているようにならぬよう、よくよく気をつけて処さなくてはなりません。

 

Q.自己中心的ではよくないですか。

 

A.電車に乗ると、周りの景色が全て後へ吹っ飛んでいく、そういう人が、自己中心的なようでも、そう考えると誰もが自分中心にものをみているものなのです。誰もが、太陽が昇り沈むとみています。電車では、景色が全て後へ流れ、降りる駅が前から現れます。そしたら降りて、何の問題もないから、それでよいのではないですか、みたいに、私も応じるのです。

 そういう素直さを、私たちは失っているから、そういう感性こそがアーティスト向きといえます。詞も、そんなものをそのまま描写するからよいと思うのです。そこで狂気、エキセントリックになろうと、誇大妄想的になろうと、イメージで人を惹きつけるアートの動機とはそういうものでしょう。そうできないからと、他を頼んで違法ドラックなどに手を出してしまうよりましでしょう。

 

Q.精神的な病を疑っています。

 

A.心の病、精神の変調なら精神障害(mental disorder)です。そのうち、人格の変化に至ると精神病(psychosis)と言われます。これには、総合失調症(精神分裂病)、躁うつ病などが入ります。狂気となると総合失調症の色合いが濃いですが、そこは芸術的な感じもするようでもあるのです。

 

Q.声がおかしくない証明はできますか。

 

A.体内のアルコール濃度は、アルコール検知器で測れます。薬物でなく脳内物質でラリっている状態かどうかは、その言動からでしかわかりません。声が出ない、かすれているといった状態や高さや声量は、聞けばわかります。しかし、「おかしくない」とか「正しい」は、価値判断です。おかしいとしても、喉がおかしいのと脳がおかしいのは別です。

 

Q.科学が進めば、声の判定にトレーナーは不要になるのではないですか。

 

A.科学的によし悪しというのは証明できないから、研究所では、人の耳として、感じる能力での判定を頼まれるのです。データを人間の判断に結び付けて完成させるには、人としての判断でのよし悪しがいるのです。その上で、そういうAIが判定することはでてくるでしょう。カラオケ採点機のより高度なもののように。

 

Q.声や歌をみせにいけますか。

 

A.いらっしゃる人には、自分の歌はうまいとか、声がよいことの言質をとりにくる人もいます。声がダメ、悪いということでなく、見せつけたいならステージで、お客に披露すればよいのです。判断を欲するのでしたら、いつでもいらしてください。

 

Q.学びでの気づきの瞬間ってわかりますか。

 

A.何事にも、一線を超えるときというのがあるのではないでしょうか。そのときハッと気づくのか、それを気づかないのかは、人によります。人生のなかでも、そのときをチャンスと思うのか危機や年貢の納め時と思うのか、神に救われたと思うような機もあり、魔に魅入られたと思うような機もあります。よいことは神、悪いことは悪魔、と思うのは、どうも人の身勝手によることです。

 

Q.気づくのが大切なことでしょうか。

 

A.人は学ばされるところで、差を知る、いわば、差をつけることを植え付けられていると思うのです。事実は一つとしても、それをどうみるかでしょう。その捉え方でその人の人生も決まっていくわけです。気づくことでも、その気づき方、受け取り方が大きなことだと思うのです。

 

Q.何かをするかしないかを、いつも迷います。

 

A.何かが起きたとき、何を思ってどう行動するかです。何もしないというのも、この場合、何もしないようにしているということです。行動すると、何か変わるきっかけになるのです。必ずしも変わるとは限りませんが、行動しないとその可能性も出てきません。何かをして、そこで何かを学ぶのです。何がどう変わったか、それをどう学ぶかです。

 

Q.声さえ克服すれば、全ては解決して、よくなるのではないかと盲信しないか、心配です。

 

A.そういうことを迷っていらっしゃる人もいます。声に関わらず、自分の思い込みから妄想とも狂気ともいえる信仰にエスカレートしていく人もいます。まるで新興宗教に現世利益を求める人のように、こちらがグルのように祭り上げられたり、勝手に落とされ批判されるようなことにもなったりもします。最大のファンは信者ですが、そこで大変なことになることも学ばされました。

 出会いの数々に、研究所も学ばされ変わっていったように、誰にでも学んでいって欲しいと思うのです。

 弁解ではなく、説明しているのです。自分の人生に離陸して欲しいと思うのです。

 

Q.思い込みは害ですか。

 

A.いわゆる、若気の至りのような思い込みをもつのは悪いことではないと思います。若いうちに何かしないと、もち続ける方が難しいです。

 多くの人は、思い込みが続きません。夢や洗脳のように感じて、捨ててしまう人もいます。それが大人に、社会人になるということかもしれません。でも、自分のものでないと思って捨てたとしても、何かは残っていきます。自分のものになっていたら捨てるも捨てないもありません。

 子供のままでは人生は生きにくくなりますが、初心なら、もっと学べるように思うのです。どんなことも信じることには勝てません。

 

Q.毎日が腹立たしいです。

 

A.どうしたところで、とかくこの世は生きにくいものです。純粋さが生み出す狂気にまで達したら別ですが、それではアートか犯罪か、みたいになりかねません。日々の生活に根ざすくらいの怒りでは、うまくいかないことを人にせいにする、ただのクレーマーに成り下がってしまうので、避けたいところです。大きなものに怒りましょう。

 

Q.記録をとることを勧めるのは、なぜですか。

 

A.話をノートにとる人もいるし、ノートを見せにくる人もいます。私は、この分野では、かなり多くの話や実習を記録してテキストを残しています。だからこそ、誰にでも勉強として、記録することをお勧めしています。

 人類がここまで発展したのは、ことばを生み出し、それを共有するために、口承から文字をつくり文章にしたからです。文字の発明によるところが大きかったのは、文字をもたない人々が、未開の状態にとどまっていることが多いことからよくわかります。

 自ら発展させるためには書き残し、シェアすることと思います。

 発展したのは文明で、必ずしも文化とはいえないのですから、芸については不立文字、このケースでは、使い方がおかしいですが、文字を立てないことも大切です。だからこそ、文字を使い尽せです。

歌における詞とメロディとリズムみたいなものです。詩人のみならず作曲家や演奏家は、思想家、哲学者、宗教者、芸術家に近いものと、私は思うのです。

 

○天才とバカ(芥川賞、テス、ポランスキー)

 

 天才と狂気は紙一重であるというのは、当たっているようで当たっていないと思うのです。

 私は、芥川賞の作品2つを読もうとして、「文藝春秋」を買いました。羽田さんのは読めたのですが、又吉さんのは途中で挫折し飛ばしてしまったのです。また、読めそうな気がするので、それは作品のできのせいではありません。 

 お笑いの方が関心がある。でも、介護は、現世利益的関心からきているのでしょうか。

私は、作家という職にも興味もあり、一部では作家と呼ばれていた時期もありました。しかし、そのメンタリティが今のところない、なくなったので、書けないどころか読めない、つまり、彼らのレベルでは読めないのです。

 大学の英語の授業で「テス」を1年間、原典購読したことがありました。今やスキャンダラスな感じになったロマン・ポランスキー監督です。彼の「テス」が、ナスターシャ・キンスキー主演で公開され話題になった何年かあとだったので、私としては直感的に官能的な選択だったのです。ともかくも毎回、自然のなかの風物、植物の名前を調べるのが苦痛でした。生涯、絶対に使わない英単語を調べるのに耐え、追試まで受けたのに単位になりませんでした。

 文学を学ぶのですから、自然の描写表現をしっかりと味わうこと、そういうなかでしか、しっかりと描ける力がつかないのは言うまでもありません。画家でいう、素描、デッサンの練習を放り出したのです。その分、声楽の先生のところに通いつつ、発声練習を続けていたわけです。今からみると、ただの狂気だったのですが、それも30年以上続くと、何も無駄はなかったと思うのです。

 

○詰める(「プリンキピア」)

 

 誰もが知っている「リンゴが木から落ちる」話です。それまでに何人も地球がリンゴを引っ張っていると気づいていたかもしれません。ニュートンは、20代で気づいて、40代で500ページを超える書物にまとめました。そこで初めて業績となって認められるわけです。

 詰めるという面倒な努力に栄誉が与えられるのです。つまり、価値はかなり面倒なところを経て生じるのです。それを面倒と放り出す人には与えられないのです。

 ですから、バカや狂人で、天才とかアーティストというにも2通りあります。

 一つのタイプは、作品や芸術活動を優先するあまり、他の事に常人のように関心がなく、周りに合わせて振舞わない人。もう一つのタイプは、詰める作業に狂人、バカのように打ち込める人です。山下清氏の貼り絵みたいなものです。

 詰めるには時間が必要です。待つこと、続けること、忍耐が必要なのです。必要なのは、耐える力です。

 

○感じる

 

 本人がどう感じているかは、それぞれに違うし、時期や作品にもよるでしょう。私は、最近、心や体の弱い人やそれに近い人をみると、一流の人と似たところがみられると思いました。そこで話したことで誤解させたかもしれないです。一流、天才と言われる人は病的であっても、病人とは違うということです。

 私がみて、弱い人がヒントになるのは、普通の人の感じないことへの反応、感受性です。この汚染された社会ではそこが鈍い人ほど健康ともいえるわけです。

 人に認められるには形式を整える、つまり、詰めの作業が必要です。それには体力、精神力を要します。

 思いつき、発想としておかしなことを考え、言う人はたくさんいます。しかし、そのままでは変わり者、行き過ぎると狂人として扱われます。すぐに思うがままに行動して人に迷惑をかけると、天才にも一流にもなりません。

 着想、発想が何であれ、精神が脆弱なままでは、それを絵や文章にしても一人勝手な陳腐な奇形なものです。それに耐えて、長い時間、未解決なまま、ずっと温め、現実に通用して他の人が承認できるような形にする、そこで初めて、クリエイティブとかアーティスティックといわれるものになるのです。

 自然描写のような細かな作業を、感情描写さえ絡ませていくという、アーティストなら、そこを苦しみ楽しむマゾめいた才能がいるのです。

 変わった人の変わったものから何かに気づいて作品にできる人はいるでしょう。でも、KISSがギターを壊すのをまねしても、アーティストと呼ばれない、過激なだけで何にもならないのです。

 

○感性

 

 「子供は天才」とか言われるのは、普通の大人より一途だったりデタラメなだけであることが多いのです。女子大生や主婦の感性で商品化されるといわれていた時代、私は感性について深く研究したことがあります。結論は、彼女らに目をつけて商品化した人が偉いのです。

 私も流木アートなどをやってみよう、と思ったことがあります。多摩川から拾った1.5メートルくらいの流木を研究所のエントランスに飾っておいたら、あるとき、大型ごみのシートの抑えに使われて、そのまま回収されていきました。私のセンスは誰にも理解されず、その流木にも人の心を動かす力がなかったのだから、流木も自業自得です。何千本の流木から選びに選んだものが何万円かの価値になるのです。簡単そうでも、その手間暇をかけずには、ビジネスにも、ましてアートになるわけがないのです。

 話を戻して、心身の弱い人の言動には、それだけ本気で痛切な気持ちが入っています。それで訴えかけてくるものがあります。吃音の人などは、ことばにできないことばを必死に絞り出したらすごく人の心を動かすものです。その一瞬を、強者であるオペラ歌手の舞台の歌の声と比べてみても仕方ありません。

 私が関心があるのは、人の心を動かす人の声です。そこに一流も天才もないともいえます。特別なことをせずとも、長く、あるいは、深く生きることで、声も顔も変わっていくのです。ただ、再現できない一過性のものでは、アートにはならないのです。

論14.バランス調整と実力アップ(発声での筋トレ不要論について)

〇発声での筋トレ不要論

 

これは、主に腹筋トレ不要論のことだと思います。言うまでもなく、呼吸筋、喉頭筋群、腹筋肉群、その他のトレーニングは分けて考えることかと思います。

 結論からいうと、筋トレというのが誰に対して、どういうレベルのことを言っているかです。「筋トレ不要」という時流に対して、あまりに一方的な傾向へ注意を促すため、また、そのときの相手に対しての答えとして、不要でなく必要だったことがあります。

 

 まず、筋トレで筋肉がつく原理について述べます。過度な負担をかけることで、筋繊維を破壊します。それが回復すると、前よりも大きく太く、つまり強くなるわけです。これが効率よく行われるというところに、筋トレの有効性があります。そこに栄養(タンパク質)と睡眠(成長ホルモン)は欠かせませんので念のため。しかし、個別に筋肉を強化することと全身連携でのプレーのよさとは、別であることがいつも賛否を分ける問題の一つです。

 

 私は、ステージや作品とヴォイトレ(この場合は、鍛えるヴォイトレ)、あるいは、応用としてのプレーと基本としてのトレーニングとのギャップをいつも指摘してきました。

 最近のヴォイトレが調整メインのもの、即実践的なものだけになってきたために、このギャップを時間的な経過をもって修正していくことを待たずして「すぐによくなる、ならない」だけで判断する風潮があります。そこに異を唱えているのです。

 本当にステップアップ、あるいは一番下の基礎、基本で力をつけ、器を大きくしなくてはいけないとしたら、そこでは、「すぐによくなる」どころか「一時的に低迷」、もしくは「悪くなる」こともあります。急ぐとリスクが増えるのです。いつまでも時間をかけられないし、急がざるをえない事情もあるわけです。

 優れたトレーナーは、この範囲や期間を的確に予想できるところの能力があります。

 つまり、今のあなたからあなたをどこまで現実から離して、いつに戻せるかを計算できる力、これには、直観に加え、数多くの経験がいります。すぐに少しよくすることは、すぐにできますが、長い時間で本当によくするには、10年単位で人をみてきたことをくり返すだけの年月がかかるわけです。

 

〇筋トレ不要論の背景

 

 筋トレや鍛えることが避けられるようになった風潮については、いくつかの理由があります。

 もっとも大きいのは、日本ではヴォーカルや俳優の体から(腹から)の声の必要性の低下です。音響機器の発達とともに、聞く人の耳の変化などもあります。歌のカラオケ機器への傾倒化も関係しています。器用なアーティストに声の力が宿っていないのは、日本では以前から特に目立っていたことでした。トータルとしての表現力のなかで時間のかかる声の養成を怠っていたこともあります。

 筋トレは、ヴォイトレにはまる人がはまりやすいゆえに、手段と目的を混同していったことも大きいでしょう。はまる人は熱心なあまり、急にたくさんのことをやり、短期的にみえやすい効果を狙います。それでは、どうみても、喉の場合、逆効果になりかねません。がんばってやった分、ただ喉を痛めるようなことにもなるのです。

 

 プロや一流の人の舞台では、ヴォイトレは、手段として使われています。プロにとっては、ベストを追求しつつも、現状では、最低限のベターな状態を守らなければなりません。その上で、クリエイティブなことを追求するのは歌では一握りの人です。それも大半は声でのクリエイティブティでなく他のことが優先となっていったのです。

 ほとんどの人はきちんと同じようにこなせることを第一の目的にしています。ヴォイトレは、そこでは調整、ウォーミングアップやクールダウンレベルにしか使われないことが多いのです。

 根本的な実力のギャップを埋める時間をもつのでなく、その日の状態をよくみせる、その小さなギャップをカバーするため、私からいうと、今のヴォイトレはトレーニングと真逆の方向に使われているといってもよいくらいです。そして、評価されるには、トレーナーも、その応急処置の能力をアピールすることが必要なわけです。それで、さらに、調整重視の傾向が強まっています。

 私はそれにも対応せざるをえないためにヴォイトレを分けていきました。他のトレーナーにもそこを分担してもらっています。

 

〇ヴォイトレの偏り

 

 ヴォイトレにはまった人のなかには、表現手段としての声でなく、声のための声という出口のないトレーニングに向かう人もいます。体に感じるのに筋トレはよいのです。疲れる分、やれた実感があります。そこで、喉を嗄らしていけば声がよくなる、力がつくという独りよがりの勘違いをしていく人も出るのです。

 それらを体験して、その後にそれを改められてきた人は、一様に一転して筋トレを否定するようになります。つまり、「よくならなかった」と真逆の立場に立ちます。そこからトレーナーになった人は、初心者にそのようにならないような指導を始めるのです。

 そこで学ぶ人たちは、ステージに出ていない人が多いゆえに、発言としては大量になります。ステージに出ている人やプロとして全うしている人は、わざわざ効果のあることをPRする必要も時間もありません。ステージで、その結果を問い続けているからです。

早くステージのもたなくなった人から発言するので、私からみると、本もネットも偏り過ぎています。「ヴォイトレは調整であり、鍛えるようなトレーニングでない」となってしまっているわけです。少なくともトレーニングした上で、今は調整だけをしているトレーナーがそれを言うのは、おかしなことです。

 

 論法として「私は人並みだったが、このメニュでよくなった」とか「私はずっと間違ったトレーニングをやってきたが、この方法でよくなった」は、説得力があるからです。トレーナーが、過去の自分(=今のあなた)を否定し、今の自分(=将来のあなた)を絶対肯定しているのです。一般の人には、その方が希望がもてるわけです。

しかし、問題は、そうして得た声がどのくらいのものかというところにあります。なかには、最終的に大きく踏み外し勘違いしたままの人も少なくありません。これは、好き嫌いでなく、明らかにシンプルな声ですから、一聴きすればわかるものです。

 

 「よい、悪い」「正しい、間違い」ではなく、目的のために手段としてどのように使ったかということが問題の本質だと思います。「このトレーニングは独りよがりなもので、今の私は他人には勧められない」というだけで、これを否定すると、それで効果を出したと言っているアーティスト、俳優、数多くの先人なども否定することになります。実績を残してきた人たちの言っていること全てが正しいとは思いません。しかし、そのレベルの声さえ出せない人が、感覚や理屈、あるいは少々の経験だけで、トレーニングを否定しているのは、おかしなことです。時間がかかり非効率であったり、別の意味では限界があったということも考えられるとしても、当代一芸をその声で演じることができたという事実は、否定できません。否定するなら、方法論を云々するのでなく、芸や声をきちんと検証することです。

 

 それだけ「早く少しうまくなる」ことでなく「時間がかかってもすごくなろう」ということを目標とする人がいなくなってきたのでしょう。前者の上に後者が成立することがないとは申しません。しかし、小手先のくせをつけると、後々、本当の能力を出すための妨げになりかねないことも少ないのです。

 一昔前の、声を嗄らしてでも強くしようとした人たちの感覚は、筋トレに近かったのですが、そこをとって、間違っていたとは言えません。それでは日本の邦楽や伝統芸とそのプロセスを否定することにもなりかねません。ハイリスクハイリターンなのか、ローリスクローリターンなのか、あるいは、ローリスクハイリターンか、それを決めるのは本人の感性の力です。トレーナーや医者などの立場では、ハイリスクは一般的には勧められないということですが、一般的なアドバイスで、アーティストがどのくらいよくなるというのでしょうか。例えば、楽になったからといって、よくなったとは限りません。

 

〇一般論と一流論

 

 私は、一般論を述べたいと思いませんが、これを読む9割の人は一般の人なので、普通のことをまず述べています。しかし、1パーセントもいないであろう人のために一流のための論を加えています。研究所は、あらゆる人のために解放されているゆえ、年に一人か二人、一般の人とは異なる人も多くいらっしゃいます。そういう人のためにこそ論じているので、それらは、本などには述べられないのでお許しください。とても感覚の鋭い人、とはいえ、声についてはすごい人も人並みの人もいます。そこに対し、私はスタートしたので、むしろ今となれば、本質的な部分の残っているところといえます。  

 そこでは、はまるだけはまるのでよしとし、声のための声でもよし、そこはすでに出口です。内なる一流のアーティストが導くと、呼吸法や発声法もなく、喉も、頭声や胸声の共鳴などもなく、体のトレーニングがそのまま、せりふや歌の成果にストレートになっているのです。そういう現実があるのです。そこで一流たる人と一般の人との違いは、発声や体よりも、まずは意志の強さと集中力に顕著にみられます。

 

 トレーニングにリスクを負わせてよいのかといえば、本人が望んでもトレーナーとしては、できるだけリスクは避けるべきです。その矛盾をこなせるのが昔の一流の人です。リスクに見合うものがどのくらい得られるかは、人によるからです。リスクを最小にするには、急がずに時間をかけることです。体や心の管理を徹底するのが正道です。

早く急いで人に効果をあげるために使うとしたら、普通はリスクを避けたいのです。ただ無理なトレーニングとなるからです。

 

〇部分と全体

 

 ここでは、さらに根本的な問題に入っていきます。

 それは、個別の部分的な鍛練と、全身での有機的な結びつきを踏まえた使われ方とのギャップのことです。これまでも述べてきた例でいうと、「アスリートにマシンジムは必要か」とか「実践に対応した練習以外の部分的な強化トレーニングメニュはデメリットにならないか」というようなテーマで述べたことです。筋トレの問題は、そこでも答えているのです。

 ピッチャーがいくら投げても、もう球が伸びない限界がきたら、腕を中心とした筋力トレをします。それは自ずと腰の強化につながります。しかし、上半身を鍛えて強くするほど、それでは前よりもうまくいかなくなります。バランスが崩れるからです。下半身で支えられなくなるはずです。そこでもっと使いたい人、その上にいくような人は、走り込みなど徹底した下半身トレーニングをします。真逆のことをしてバランスをとるのです。このとき、下半身だけのトレーニングでも効果が出ると思いませんか。そうしてトレーニング法は修正されてきました。

 加えていうと、昔の農村や漁村で、幼い頃から親の仕事を手伝って育ったような選手は、そういうプロセスを知らずに下半身が鍛錬されていて一流になったのです。それで、そこを他人に教えられないどころか気づいていないものです。そこでトレーナーが必要なのです。一見、遠いところをトレーニングすることで技能をアップさせるのは、本当の基本トレーニングなのです。

 

 ヴォイトレが今や、柔軟やコア、バランストレーニングを取り入れたのは、残念ながら、トレーニングの進化ではありません。それを受ける人の心身の力が落ちたからです。ですから、それをしても昔の人に追い付けないというくらいで、その上には、なかなか行けません。少なくとも、声の力はなりません。そうでなければ、今も声の力だけ、日本は世界においていかれているはずがありません。そういう認識さえなくなったのが、この2030年です。

 

 一つひとつのトレーニングメニュはどうであっても、最終的には再び新しいバランスを整えることが必要となるものです。つまり、トータルでのパッケージ化が必要です。

 それを併行させていけるかどうかはトレーナーの方針や実力にもよります。しかし、何よりも本人の性格やタイプによると思います。

 はまって、そのまま抜けられなくなる人は、切り替える力が弱いのです。これは欠点でなく、その人のバランス能力にすぎないのですが、不器用な人は世に出にくくなっています。そこで皆、なおさら器用に走るということです。こういう風潮では、高倉健さんのような役者は二度と出ないということになるわけです。

 不器用な人は、長くコツコツとやるので声の力はついていきます。役者としての可能性は広がりますが、歌手にはなかなか難しいこともあるのでしょう。

 

〇副作用とリスク

 

 部分的な鍛練での副作用の最大のものは、そこばかりに意識がいって、全体の流れを妨げることです。

 これには私にも苦い体験があります。1990年代初めまで、いらした歌い手志願の人には、多くの歌、音楽が深く入っていました。声だけをしっかり鍛えたら、その人のなかに入っている一流のイメージが、潜在下で自動的に補正をして、歌として出ていくときには声もバランスをとるのです。そうであれば喉は壊さないし、リスクも回避できるのです。事実、悪くなった人はいませんでした。

 ところが、1990年代半ばになってくると、歌い手を目指しつつも、その感覚が体に入っていない人が多くなりました。そういう人は、トレーニングゆえ、声、体ばかりにずっと注意がいくのです。

 もっとも、よい声と、歌の世界を描きだすことは、次元の違うことです。よい画料を大量に使うこととよい絵というのは違うし、大きな音を出すこととよい演奏も違います。前者は後者をより活かすための道具や手段であって、目的ではないのです。そこに囚われると、それはそれで声を実感できるので抜け出せなくなります。この実感がくせものなのです。

 でも声がよくなるとしたら、その抜け出せないのは抜け出さないというメリットにもなるのですから悪いことではありません。大器晩成型も期待できるのです。

 ともかくも、こうした経緯で、私は、多くの歌を用意し紹介しなくてはならなくなったわけです。レッスンにも世界中の音源を使いました(詳しくは拙書「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」)。

 

 初心者レベルでも声の出ないのを筋力の不足にするか、全身のバランス、発声へのつながりにするかは分けられません。両方とも足らないことが大半だからです。

 イメージとして、筋力で声を出すというのは発声の邪魔にもなり、発声の原理とも異なります。しかし、場合によっては、より基礎の原理でいうと、息が強くならずに声帯がしまらなくて、まっとうな声が出ることもありません。このあたりも混乱している人が多いのです(この基礎の原理は、すでに備えているという前提で、喉の解放といわれているのです)。

 すべてを知る必要もありませんし、知ることもできません。ただ、今日はうまくいかないことが明日(遠い将来ということ)のためになっているのかどうかは厳しくみる必要があります。とはいえ、今日やっていることは何であれ明日のためになっているというのは、大きな目でみると確かなのです。

 ですから、コツコツとしっかり積み重ねることです。今、ここでやっていることに集中し、それを充分に味わいましょう。それははまるということでもありますが、はまってうまく逃げるよりは、とことんはまって底を破って抜けて欲しいのです。それは同時に、三昧、道楽でもあるのです。業界での仕事目的と自己修行のためのヴォイトレも異なると思いますが、その人の受け取り方次第で千変万化するのです。

 スポーツのトレーナーなどが普及しているトレーニング方法は参考にもなりますが、そこからの混乱も大きいようです。まず、プロアスリート向けと一般の人向け、老化や体に問題のある人向けとは、しっかりと分けなくてはなりません。

 

〇まとめ シットアップ、コアトレーニングなど

 

 最後に簡単にまとめておきます。

姿勢…正しい姿勢の一般論と、歌手やモデルなどの職業別のもの、さらに、アーティストとしての個別のもの。止まったところの形よりも動いているなかでのフォーム。

腹筋…筋トレというと、腹筋トレ、上体起こしと思い、しかもそれが腹式呼吸のトレーニングと思っているため、昔のプロダクションでは、歌手や役者になる人に、上体起こしやお腹に厚い本を置いたりしてトレーニングとしていました。上体起こしを今はシットアップと呼びます。この頃は、さすがにそれだけやっている人はいません。シットアップは腹部の表面の、いわゆるシックスパック(割れている腹筋)をつくりますが、それは身体の安定を支える深層筋とは別であるからです。2008年、アメリカのスポーツ医学学会が発表し、広まりました。それで腹式呼吸や、お腹からの発声にするというのは、違ってはいるとなっていますが、間違っているとか邪魔しているとかは、必ずしも言えるものではありません。

体幹(コア)トレーニング…これを腹筋トレと思っている人もいます。シットアップで腹直筋を鍛えるだけでは、背筋トレや体幹トレになりません。元より、体幹トレ、コアトレがベストというのは、しっかり鍛えて筋肉のあるアスリートであってこそ、そのレベルからその問題にあたることができるのです。そういう人がそれ以上に、やたら筋トレをしてもインナーマッスルやバランスはよくないということだからです(そういう注意を必要とする人は、この研究所でも1割くらいです)。

しかし、筋肉がないと姿勢も脱力もマッサージも調整も大して効かないのです。それを器がないと私は言っているのです。器がなくとも、体幹トレで少しはよくなります。しかし、それだけでは根本的な解決には程遠いのです。むしろ、筋トレをやり過ぎるとバランスが悪くなるので、やり過ぎるよりは体幹トレにまわすとよいのです。

論13.トレーナーによる方法やメニュの違いについて

Q.トレーナーによって、方法やメニュが違うのですが、どのように捉えていらっしゃいますか.

 

○トレーニングの方法論

 

 どんな質問も、相手やその状況や目的によって同じ答えにはならないと思います。ですから、私はいつも、多角的な見方、考え方のあることと23通りの見解とを示すようにしています。本来は、個別にしか対処できない質問、しかもレッスンを伴っているなかで対していくものだからです。

 こうして課題として取り上げるのは、一つの答えや一つの方法といった価値観しかない人が少なくないからです。ヴォイトレに関わる人に対して、その他の可能性をせばめないようにしてほしいからです。

トレーナーには、自分の都合によって、持論を万能なものとして、他の人に強制しないようにということです。

極端な例かもしれませんが、今の私の立場では、私自身の合わなかった方法や行う必要のなかった方法でさえ、相手によって効果的、あるいは必要と思えば採用します。もちろん、私と異なる方法やプロセスで教えられる複数名のトレーナーと一緒に仕事をしているから可能なのです。

 

○トレーニング法の誕生

 

 最初、トレーニングというのは、先輩や自分よりできる人がいて、早くそのレベルに追い付くために、そういう人のやっていることをまねることから始まります。ここで「早く」と「そのレベルに追い付く」は、必ずしも同じことではないし、「そのレベルより高くなる」ことは含まれてはいないことに注意してください。

 次の段階では、その分野の人のなかで、一流の人や憧れの人の「作品」や「舞台」から、「経歴」や「育ち」から、あるいは「毎日の過ごし方」や「トレーニングメニュ」などに学ぼうとします。その分野がメジャーになると、この順番が逆になり、憧れから入り身近な先輩をまねるとなります。

さらにそういう人が多く出てくると、そこで教えることを専門にする人が出てきます。そういったエッセンスをまとめてその人流のトレーニングとして伝えるようになります。トレーニング法の誕生です。その後、取捨選択を経て精選されて確立したり、ガラパゴス的に独自に進化して存在したりするのです。

 

○方法の分類

 

 ヴォイストレーナーの場合、声ですから、そこの対象となる分野というのはとても広いのです。私のところは研究所なので声を使う人ならあらゆる人が、なかには、さして声を使わない人、使えない人も来るのですから、対象=人類全部のようなものです。野球でいうと、監督やピッチングコーチ、フィジカルトレーナー、マッサージ師にドクター、カウンセラーなどが含まれます。

 以前、トレーナーの条件として次の3つをあげました。これをご覧になった人とのつながりで、能、歌舞伎の分野のヴォイトレにも関わるようになったのですが。

 トレーナーの条件とは、

1.声の育つプロセスを理解し、実践できること

2.個人差に対応できること

3.自分の力量の及ぶ範囲かどうかの判断ができ、そうでないときは、そのスペシャリストに紹介できるネットワークをもつこと

 

 今回は、方法についてみます。

A1.自分の方法

A2.自分が自分に試してみて、よいと思った方法

A3.他人の方法で自分に合うもの

A4.他人の方法で自分に合わないもの

 これをさらに、自分でなく生徒に対して

B1.自分の方法を生徒に使う

B2.A2を生徒に使う

B3.A3を生徒に使う

B4.A4を生徒に使う

 自分の方法といっても自分のキャリアのなかで変化していくものです。つまり、A1でさえ、

 A11.自分の最初に使った方法

 を、

 A12.自分がもっとも学べた方法、

 A13.自分がもっとも長く使った方法、

 A14.自分が今使っている方法

 となります。今、使っている方法も、いろんな儒応対や目的で分けることができます。人によっては、一つか二つでまとまることもあるでしょう。

 トレーナーなら自分のプロセスとその結果を把握しておくことが大切です。本当は。それは本人にはできません。長く自分をみた人、先生などに聞くことです。トレーナーを選ぶのに、そのトレーナーのトレーナーに、つまり、先生の先生に聞くのは、とても参考になることです。

 若くしてトレーナーを始めるとAからBへの移行が早くなります。

 また、人に教わった人は、その方法をCとして、自分の先生の方法というのが、その上に考えられます。そこではA3C3A4C4となります。自分自身だけの経験より教えられた経験の分、豊かになります。

 問題となるのは、B4ですが、多くの場合、A4のレベルで無視されて問題にもあがってきません。

 自分の先生の方法や他人の方法で自分に合わなかったが、生徒に合うものはあります。これをどう取り扱うかが最大のポイントです。

 私のように 他のトレーナーを複数使っていると、さらに他のトレーナーの方法としてDがあります。これは、生徒をそのトレーナーに一任すれば、半ば解決しますが、「合っている」ということがどういうことかを検証しなくてはいけないのです。そこで問題になるときは、私とともに別のトレーナーも複数使い、見解を比べます。となると、EFGとさらに増えます。

 ここまで必要になるのは、これまでにほとんどないタイプの人の場合です。あくまでトレーナー側でなく、本人を尊重してみると、理想はそうなるということです。

 いろんなところを次々に回って、多くのトレーナーに習っている人は少なくありません。しかし、時期やレベルが違うとその差もわかりにくいものです。ここのように、複数のトレーナーが同時に担当する例は少ないからです。同じ時期で比べずに、トレーナーや方法の客観的な評価はできるはずがないのです。