2.ヴォイトレの論点

ヴォイトレの論点目次(本文の題と一部変更あり)

ここには、福島英が、最近のQに対して、自分の考えを述べていますが、1つの問いから本質的に深めて説いていますので、一般向きでない回答もあります。福島の持論もあります。わからないときは、気にとめず、またいつか読み直してみてください。

 

1.声優無用論(宮崎駿監督の声優は使わない発言やホリエモンの「声優ってスキルいるの?」について) [1309]

 

2.音高の喉への影響について [1309]

 

3.理論に基づくトレーニング(発声の原理について、解剖学や生理学に基づいてトレーニングしたい) [1310]

 

4.あえて”反科学”の勧め(発声に関して科学的なトレーニングの是非について) [1310]

 

5.ヴォイトレにおけるシャウトの位置づけ(シャウトについて練習やメニュ) [1311]

 

6.鼻にひびかせること(副鼻腔共鳴) [1312]

 

7.成り立つということ [1401]

 

8.ヴォイトレ二極論(1)(「状態の調整と条件づくり」) [1402]

 

9.ヴォイトレ二極論(2)(メンタルとフィジカルの要素) [1403]

 

10.ヴォイストレーニングは何を信じてやればよいのか [1404]

 

11.ヴォイストレーニングの統一化について [1405]

 

12.ヴォイトレで独り立ちするには [1406]

 

13.トレーナーによる方法やメニュの違いについて [1505]

 

14.バランス調整と実力アップ(発声での筋トレ不要論について) [1506]

 

15.考える技術と感じるアート[1604]

 

16.鍛える[1605,1606]

 

17.まねで教えること[1607]

 

 

18.声の強さ、耐性について[1704]

 

19.「AIとこれからの声」へナレーション、声優、歌手、ヴォイストレーナーの職のソフトウェア化[1705] 

 

19-2.歌うことのソフトウェア[1706]

 

20.心身の使い方のミスと人間発声学(対処から統合へ)[1707]

 

21.ことばの壁[1803]

 

22.「ウーロン茶は喉に悪いについて」[1812]

 

23.「日本人と声とその行方~2018年、音楽業界から平成の総括とその先を読む」[1901]

 

24.「マイクと歌唱の振りについて」<「チコちゃんに叱られる!」(2018.12.21放映、年末拡大版)への疑問>[1902]

 

 

 

 

 

論24.「マイクと歌唱の振りについて」<「チコちゃんに叱られる!」(2018.12.21放映、年末拡大版)への疑問>

〇セッティング

 

年末のTVで、「マイクを持っていない手を動かすのはなぜ」という珍問と、「マイクを持つと歌が下手になるから」という珍答がありました。専門家に聞くという人気番組ゆえ、戸惑う人もいたように思います。それについての見解を述べます。

お答えになったのは、オペラ歌手関係の方なので、まず、キャスティングに無理があります。本番でマイクを持つことのないオペラ歌手に、なぜ聞くのでしょう。

音楽や歌となると何でも専門はクラシック、声楽家という権威付けは、まだはびこっているわけです。(そこでの実験台は、松崎しげるというポピュラー歌手でやっているのに、です。)

ここからの答えは、この質問に対してというのではなく、こういう「的確でないセッティングの害」ということになりそうです。クイズ形式の番組にすると、ともかくも奇をてらったような、きっと皆が「はっ」と驚いたりびっくりするような答えを先に期待して設問してしまうのでしょう。そこでまるでやらせ番組のようにおかしくなるのです。

 

〇マイクと呼吸

 

まず、「マイクを持っていない手を動かさないで歌う歌手がいる、あるいは、動かさないで歌う歌がある」ということを簡単にスルーしているのです。

回答者の理由は、「歌うときにマイクを持ち口先にキープすると、肩まわりがロックされた状態になり、肺を膨らますことができなくなる。肩を動かさないと肩につながる筋肉が収縮し、働きが低下するので肺に取り込む空気が減る」

「結果、声量が減り音も出にくくなり高音も出ず歌が下手になってしまう。それを補うのがマイクを持っていない手」であり、マイクを持つ手(例えば右として)の方の肺()80%になり、持たない方の手()を動かすことで肺()120%になって補えるみたいな論旨でした。

その後のオペラ歌手の動画では、マイクも使わず両手を動かして歌うという関係のないもので「オペラでは、大きな声や高音を出すときは、手を大きく動かしている」という説明でした。

 

〇肩のロック

 

オペラ歌手に関しては、マイクを持とうと持つまいと、手の振りをつけようとつけまいと、同じレベルの歌唱ができるのが最低条件です。劇を演じるのですから、そこでの役割にふさわしい手振り身振りをしなくてはなりません。座ったり寝転んだり抱きしめたり握手したり直立不動でも歌えるのです。(ちなみに先日、観賞した映画「私はマリアカラス」では、両手を前で交差させて腰にそえて歌っているのが印象的でした。)

ステージではともかく、声楽のレッスンでは、肩を動かしてはいけないというのが定石です(私は必ずしもそう思うわけではありませんが)

「肩が動かせないと、高くも大きくも歌うのに不自由になる」というのは、声楽家なら、初心者もいいところです。むしろ、トレーナーは、そういう初心者の肩を「ロック」させます。それは、喉が安定する=歌唱の発声が安定するからです。

 

〇マイクと振り

 

声楽家については、スタンドマイクで直立不動の方がよほど安定して歌えます。ハンドマイクは、持っていない手の動きが難しいのです。この場合の動きは見せ方ということです。

ポピュラー歌手では、逆にスタンドマイクの方は両手の動きが目立つので、マイクを持つ方がやりやすいです。片手がロックできるからです。初心者にもその方がよいはずです。

スタンドマイクでの手の所作は、とても目立つだけに別の技術がいるほど難しいのです。それが完全にできているのは美輪明宏など少数です。

パフォーマンスで演じる“振付”と歌の表現上に出てくる“振り”とは、違います。その比率も歌手によって違います。

肺の容量が変わるなどというなら、手をずっと上にあげて歌うのが最良の声という話になるでしょう。

 

他の質問や回答ではけっこうレベルが高いのに、歌や声になると、ここまで低次元でバラエティ化されるのは、それこそスタッフも「ボーっとしてるんじゃねーよ」です。せめて教育番組くらいは、何とか教育できないのでしょうか。

 

ちなみに松崎しげるのように、オーバーアクションで歌う人、あるいは、そういう曲の動きを封じたら、歌いにくくなるのは当たり前です。その実験は受け狙いのような偏向したものです。東海林太郎さんならどうだったでしょう。それぞれの歌手と歌にスタイルがあります。

ですから、真面目に考えるのなら、マイクを持っていない手の問題ではなく、“振り”の問題として捉えた方がよいのです。

ちなみに、クラシック歌手でマイクを使うときの動きとしては、秋川雅史をみてみるとよいでしょう。確かに両手を大きく広げていますが、それは表現効果のためで、歌いやすくするためとは、私は思わないのですが。

 

〇振りと呼吸

 

腹式呼吸に伴う胸式呼吸でも、歌唱では、胸の上方や左右でなく下方がメインです。それを担う肋間筋は肩や手の動きで広げるものではありません。走った後など「ハアハア」と肩で息をします。こうした緊急時の呼吸に関わることはありますが、歌唱のコントロールはしにくいのです。

プロ歌手なら、マイクを持たない手を動かそうが動かすまいが、歌いやすい、歌いにくいはそれほどありません。オペラ歌手なら、なおさらそうです。

素人の場合も、あの回答では、肩式中心の胸式呼吸になり、歌いにくくしてしまうと思います。「緊張をほぐすため肩を回してから歌いましょう」くらいなら、わかりますが。

 

〇手振りとパフォーマンス

 

しっかりと歌う、その延線上、補助、補強に、動かしやすい手は使われます。マイクを持つ方が固定されているので、そうでない手をどう処理するのかは、なかなか難しいのです。手を下におくこともあります。胸におくこともあります。両手でマイクを持つこともあります。歌の効果に+αを狙うためです。マイクコードを持ったりリズムをとるのに動かすのはタブーです。

お客にリズムを、この場合は拍ですが、とらせるために拍手のまねをするのは、よくあるパターンです。歌の表現でしぜんと手が動き、その動きがないと歌いにくいパターンはあるでしょう。このときの松崎しげるのように。

五木ひろしなどは、かなり意図的にあの手振りをつけたといいます。美空ひばりでも、演出上での手の役割は大きかったでしょう。思いあたるのは、沢田研二、西城秀樹、金井克子、山本リンダ、石川さゆりなどでしょうか。ジャニーズ関連やピンクレディあたりになるとパフォーマンスの振付で、歌そのものは歌いにくくなっているでしょう。

 

〇マイクの効用

 

ポップスにおいて、プロは、カラオケでは歌いにくいというのはありますが、それは歌唱に合わせない伴奏とリヴァーブのせいです。マイクは、歌いにくくするのではなく、引き立てるものです。

マイクを持つと、「高音や大きい声が出しにくくなる」のではなく、高音は届けばよいし(ごまかせるし)、小さな声でも大きく聞こえるため、うまく聞こえるようにできてしまうのです。

(それで、ポップスのまともなヴォイトレは、マイクを使わないことが多いのです。歌いやすくするのではなく、ごまかさないためです。自信をつけさせるなら、あるいは、ステージのリハーサルなら、その逆にマイクをつけたレッスンとなります)

 

〇自分なりの見識をもとう

 

素人が「えっ」と思う答えであるのは他と同じとしても、この分野に関しては、説明を聞いて納得できないことが多いのです。答えを聞くと不信が募る、それは専門家でなく素人でさえそうだと思われるのに、どうなのでしょう。

「トレーナーや医者が、番組の盛り上げのために妥協する」のも、「本来そんなわけがないことを、おもしろいからと興味本位に、よい方法のように紹介する」というプロデューサー主導の構成(特にバラエティ)にも、これまで反感を感じてきました。どう編集されるかは放映されるまでわからず、というケースがメディアではとても多く、必ずしも、その専門家の見識ではないことも多いのですが。

普通のことを普通に言って成り立たないのであれば、わざわざ取り上げなければよいのです。先生にも視聴者にも、ひいては、番組にもメリットがないと思うのです。プロでなくても、素人が10人中9人、そうでないのではと思うことを、そして、実際にそうでないことをどうして流すのでしょう。

ということで、今回は、関連したことを並べてみました。専門の先生やメディアにのせられないくらいの見識をもっておきましょう。

なお、「チコちゃん」の声は、何と木村祐一、MCは森田美由紀です。(全て敬称略)

 

論23.「日本人と声とその行方~2018年、音楽業界から平成の総括とその先を読む」

〇ヴォーカロイドと声

 

日本では、カラオケに加えヴォーカロイドが開発され、その合成音での「歌声」が十代には受けています。一過性のものかと思っていましたが、ほぼ定着してきました。声域が高くまで及び、テンポも速いので、カラオケでの挑戦にはもってこいなのです。高く出せる、速さについていける、早口を滑舌で噛まないというのは、もっともわかりやすい指標だからです。この点で、私は、カラオケが結果として日本人にもたらしてしまったものの影響の延長上に位置づけています。「カラオケバトル」が、日本人の歌を聴くものから一人で歌うものへ、そして、高音でハイテンポなものに変えるのを促したとみているからです。

実際、NHKの「歌コン」を除いて、軒並み生演奏の歌番組がなくなりつつあるなかで、歌を永らえるよう努めているのか、だめにしているのかわかりませんが、「カラオケバトル」の番組だけがゴールデンなどでも出ています。とはいえ、「歌コン」も「カラオケバトル」も往年のヒット曲のカバーがメインです。なかにし礼の言うように「歌謡曲は昭和とともに終わった」のです。

日本人の指標好きは今に始まったものではありません。ランキング、口コミなどを異常に気にするのは、絶えず周りのことを察して行動してきた国民性に由来します。

カラオケに採点装置をつけ、さらに採点器によるカラオケバトルなどもその一環でしょう。こうなれば、紅白歌合戦もカラオケ採点器で決着をつければ視聴率が伸びると言ってしまいたいくらいです。

 

〇カラオケとPV

 

カラオケ業界には、スナックでの普及からカラオケBOXになる前まで、私も大いに協力していました。新聞にカラオケコミュニケーション論を、雑誌にカラオケ歌唱論を書き、「カラオケ上達法」という単行本まで出しました。手軽に自分の声のキィやテンポで練習でき、皆でステージを楽しめる、とても画期的でアートなことに思えたからです。しかし、これもまた個室化して仲間内だけのコミュニケーションに、そして、お互いの接点はバトルゲームに堕しました。

 

平成に入ると、カラオケでのヒット狙いの曲がたくさんつくられました。異様に声域も高くなっていったのです。かつては、五木ひろしの上のファくらいで日本人男性には高い声だったのです。オフコース、サザンオールスターズあたりでソ、ラ、さらにその後はハイC()へと。この裏には、マイクと音響技術の性能の高度化やミキシング、アレンジのハイテク化がありました。ニューミュージックやJ-POPSといわれ、歌唱力より高音、ハイトーン、ハイテンポに若い人は飛びつき、懐メロ、演歌畑のおじさんと一線を画するようになったのです。

 

PVと声

 

カラオケの利用法も、皆が一緒に歌って楽しむ欧米と違い、一人が歌い皆が聞くふりをしている日本では、歌手は、もはやアーティストではなく、ヴィジュアライズされていきました。やがて、オタクを介して応援団がアーティスト化して、世界へ知られるようになったのです。

マイケル・ジャクソンやマドンナの頃、作品は歌唱力の音(sound)を問うものから映像のヴィジュアルな世界(PV=プロモーションビデオ、ミュージックビデオのこと)へ移りました。歌から振付、ダンス(照明、衣裳、舞台装置)へ重点が移ったのは、耳から目への移行でした。それは、ラジオからTVへの移り変わりをなぞっています。

TVも家族団らんの昭和から個別化の平成、そして、ウォークマンからiPodを経てネットで完全にパーソナル化しました。ウォークマンで音を個人に封じ込めた音楽の世界は、再び大きく変わったのです。

 

〇ミュージカルの興盛

 

 音楽は、政治的、社会的な影響力を失っていきました。特に日本ではそれが顕著です。芸能界でのエンターテインメントの一ジャンルになったのです。

歌の世界で日本から世界に出たのは、坂本九を例外とすると、声の力よりは音の技術、シンセサイザーやテクノ、そしてヴィジュアル系でした。冨田勲、喜多朗からYMOなど。(ミッキー吉野、向谷実、小室哲哉、中田ヤスタカの流れ)

 アングラ、不条理劇がミュージカルに取って代わられていったのは、ハッピーエンドで安心してみられるということで、みやすいからでしょう。となると、歌も聞きやすいことが望まれるわけです。

声や音楽、芝居としての芸術性でなく、日本語としてわかりやすいこと、ヴィジュアルとしての完成度が高いこと、そこで成功したのが「劇団四季」です。音楽でなくヴィジュアル面に力点をおき、歌は歌詞の発音にこだわり、老若男女に受ける娯楽としていきます。つまり、ディズニー作品でディズニーランド化を全面に進めていったのです、Tokyoディズニーランド化です。

 

〇戦後の流れ

 

 時代の流れもあります。わからないものを突き付けたりすると、「わからないからだめだ」「おもしろくない」と、サービスを受ける消費者のように日本の客は変わりました。いや、一般化し大衆化したので、ある程度はやむをえないことでしょう。

これは団塊の世代まで何とか保っていた教養主義の終焉といえます。「わからないから、すごい、おもしろい」と思わない。学ぼうと思わないのは、今の自分を是とするからでしょう。わからないからわかろうとは努めない。大量の情報の垂れ流しが選択のみを迫り、創造の孵化を待てなくしました。

それまでの世代は、海外、特に戦後はアメリカかぶれして向こうのまね、アメリカに近ければよいというものまねの価値観に支配されてきました。日本の音楽業界では、欧米ナイズ、特にアメリカ化されることで二重に複雑になりました。それでも今日は耐え、明日に希望を抱いて、上昇志向で励んでいたのです。

今もって舶来信仰はありますが、少なくとも、今の若い人は、欧米に引けを取っているとか追いつけ追い越せといった競争意識は薄いでしょう。人口が少ないというのは競争意識そのものが薄れ、争うのではなく協力しやすく、共鳴を求めやすくなるということです。その点では私たちの先を行っているともいえます。元より、日本人の社会は村社会で、察する文化(ET・ホールの言う「ハイコンテクスト文化」)で、共感力が強かったのですが、家父長制など上下関係が支配していてそれを妨げていたといえましょう。

 

〇デジタルと声

 

 私は、声といったものが、こうも安易にデジタルに変わるとは思いませんでした。そういってもピンとこない人も、歌がロボットの歌に替わられる日がくるとは思わなかったのではないでしょうか。

楽器、インストルメンタルは、それだけでも演奏を成立させてきました。オーケストラはじめ、歌のない音楽はいくらでもあります。楽器は人間のつくりだしたものゆえ、音そのものとその奏法が価値ですから、常に進歩してきました。大昔の楽器よりも18世紀あたりに完成されたものの方が性能がよいはずです。それは20世紀に素材の開発、ひいてはエレキの力で最終段階に入りました。 シンセサイザーは、あらゆる楽器音をつくれます。さらにマイクロコンピュータが入ると完璧です。ここで日本は、ピアノ製造などの技術とともにトップレベルに立ったのです。日本人ですぐれたアーティストなら、それを駆使して世界へ出ていこうとするのは当然でしょう。

ドラムやギター、ベースの演奏は、誰でも打ち込みでつくるようになりました。多くのプロプレーヤーは、打ち込みによって失職させられたのです。シンガーソングライターは、キター一本、あるいは、キーボード一つでステージができた自作自演のアーティストでした。今は、レコーディングやバンドも一人でできてしまうのです。まさに「カラオケ」です。そして、歌唱も「ヴォーカロイド」へと。

 

〇アーティストの変遷

 

 この間、アーティストたる才能は、バンドマスター→歌い手→プロデューサー、ミキサー、アレンジャーなど、その担い手が変わっていきました。でも、歌手がヴォーカロイドに、ステージでも初音ミクに代わられるとは思わなかったでしょう。

これを年配の人なら一過性の流行や一部分とみていることでしょう。現に海外では、まだ特異なテクノロジーとしかみられていません。でも、日本では、すでにヴォーカロイドの曲は十代のオリコンチャートの半分を占めたこともあったほどです。

海外では、以前ほどの大スターは出ていませんが、多くのすぐれた歌手やプレイヤーが健在です。声や歌唱のレベルは下がっているようにはみえません。大スターが出なくなったのは音楽、歌、ステージとしてあらゆるパターンが出尽くしたため、どんなハイレベルのスターも○○と○○の掛け合わせのようにみえてしまうからです。

これは、現代美術が抽象化して写真など技術革新で写実の枠を破ったのに対し、現代音楽が音ゆえに生理的に成功しなかった、視覚と聴覚の違いもあるでしょう。臭覚と聴覚は古い脳、幼い頃の記憶に強く左右されるからです。

 AIは人間と違う、ロボットはペットになれない、アナログとデジタルは、などと区別するのは、アナログで育った世代の感覚でしかないのかもしれません。人間の脳は入ってくるものによって書き換えられるということです。多くは、幼いときに入っているものによります。あなたや私がどう感じようと、新しい世代は、そこに入っているものが違うし感じ方が違うということです。

 

〇2D化とデジタル音声を好む日本人

 

 全国人気47位の茨城県がランキングを気にして2D(2次元、3D3次元)のアニメキャラをPRに使ったところ、かなり効果を上げ始めたそうです。ゆるキャラ王国日本では、人間以外のものとも共感しやすいのです。車に傷一つつけない日本人の潔癖感もありますが、日本人は、人間以外のものを人のように擬人化して扱うのに抵抗感がないのです。家畜にもロボットにも名前をつけてかわいがります。本当にロボットで介護や癒しが務まっているのです。これは、八百万の神を持ち出す間もなく、日本人のDNAに受け継がれてきたものでしょう。

アイドル代わりの3Dキャラは、代わりでなく、アイドルそのものです(紅白もオリコンもAKB48ら女子ユニットとジャニーズ系がメイン)

人間以外のものにも共感すると言いましたが、どうやら日本人はそこに留まらないようです。一部では、人間ではないからよい、人間よりよいと思う人も出てきたようです。人の歌声よりもヴォーカロイドの声の方がよいと言う人もいるのです。

これは、デジタル音声と幼いときに生活してこなかった世代にはピンとこないと思います。でも、人の声には楽しい思い出がなく、ゲームの声や音楽の方に喜びがあった子供時代を過ごしたら、そうなりませんか。

体罰を受けたわけではなくとも、強い口調で大きな声で言われると滅入ってしまう…。説得力を強いてくる声は、もはやパワハラ…。「盗撮注意」という注意書きは日本にしかないでしょう。それを補らえるのに多くの人が関わって日夜がんばっているというのは、まるで喜劇のようです。そうした日本人の感性は、クールジャパンでみられる多くの文化を生み出す一方、偏りを増しています。

 

〇共感と免疫低下

 

共感ということは、快いことです。しかし、そこばかりが高まると自分の五感=体に働きかけてくる快だけを中心に行動することになりかねません。となると、不快なものは我慢できないものとなっていきます。それはまさに「今、ここで」の感覚ですから、当初は不快でもそのうち快感になるかもしれないようなものに対しては億劫になるでしょう。

現に日本の芸事や稽古、下積みなどのありようも変わらざるをえなくなってきています。ハラスメントは、スポーツ界を筆頭に、古い体制の残っているところで槍玉に上がっているわけです。

脱臭、抗菌大国日本で心配されるのは、不快を排除することで抵抗力を失った心身です。

 「いきなりステーキ」がアメリカに進出して伸び悩み、向かい合うテーブルの敷居を外しました。向こう側は見られぬようにしているのは、アメリカ人には不評、理解不能なわけです。

一人カラオケも一人焼肉もよいこととは思いますが、外国人がラーメンの人気店、「一蘭」に入ると驚くでしょう。一人席で注文も全てノンバーバル、一言のことばも必要ありません。「ありがとうございました」まで自動音声です。日本は、「変なロボット」がおもてなしをする国になりつつあります。

 

AIとサービスと手間

 

サービスでの顧客満足(CS)において、人間でなくてはできないことがあり、その価値は失われない。これは確かなことでしょう。いかにAI技術が高まってもそれを相手に応じてわかりやすく説明したり安心させたりすることは難しいことです。

しかし、店に人がいないと買う気にならないとか、一言、声をかけることが大切と言いつつ、本当にそうだったのでしょうか。私たちは、「寿司屋は、声が元気でないとおいしくない」と言いつつ回転寿司ですませ(職人との会話を楽しまない)、近所の商店よりも少しばかり安い量販店で買うように、簡単に行動を変えたのではありませんか。

コミュニケーションをとるという手間は、心身の労力も求められるので、忍耐力がないと避けてしまうのです。いろんな人間との関係づくりは、それを必要とするものだからです。

 

〇日本人の変容

 

日本人の体型は、a.昭和戦前(おじいさん)、b.昭和戦後(お父さん)、c.平成(こども)と著しく変わり、モデル体型化しました。2018年初頭(12)、高麗屋の襲名披露で横一列に並んだ3(3)を、私は、声はもちろん、顔の大きさや体つきでみました。a→bで欧米化した体格は止まり、b→cで小顔化、足長細身化したのです。日本の男性の声は中性化、女性化し、高い声で歌えるようになりました。これは、きっと日本の女性の求めるところだったのでしょう。

日本の女性は、社会的にはともかく、実生活において、どの国よりも強く個性化しました。しかし、他の国の自立した女性のように、男性に男らしさを求めません。中性化すること、まるで去勢をせまっているかのようです。

海外のイケメンはマッチョです。男性スターの条件は、イケメンに加え、女性にない男らしい体です。しかし、日本だけは真逆です。やさしさが第一、強そうなのはだめなのです。戦後の平和がもたらした福音なのでしょうか。

元より、共感を優先するのは女性らしさですから、そうして育てられたら当然なのかもしれません。日本における父性の不在は、日本が「アメリカの妾」となってから、取り戻されそうもないようです。

 時代劇がなくなったのもひびいているように思います。

日本は戦後、国際間での戦争ということからみると、平和であり、よって豊かになりました。しかし、この21世紀初頭の低迷のなか、周りの国々が全て日本以上に成長しているのなら、日本は相対的に貧しく弱くなっているのです。世界第二位だった頃の余力は、いつまでも続くものではありません。

声を大にして言わなくてはならないことが、声が出なくなっていっているのです。

以前、「あるウイルスが世界で流行ると、日本人だけが全滅するのでは」と言ったことがあります。今や、「AIに全てを奪われ、日本人だけが全滅するのでは」と、声を大にして言わなくては、と思います。

 

〇団塊の世代と不祥事とハラスメント

 

 余談となりますが、今どきの流行となると、ハラスメントです。セクハラから始まってパワハラ、マタハラ、モラハラ、アルハラ…と(しかし、「セクシャルハラスメント」が新語流行語大賞の金賞をとったのは1989年、奇しくも平成の始まった年です)

 今の政財界、企業の不祥事は、ほとんどが内部告発です。これらはネット社会の恩恵でもあったのですが、ここでは世代交代から眺めてみたいと存じます。

不祥事などがあからさまになるのはよいことですが、それは内部の統制力を失ったことでもあります。日大アメフトに代表される運動部の不祥事、これもプロアマ問わず、スポーツ界の例をあげるときりがありません。

 

今年で団塊の世代は、1947年生まれでは71(定年が65歳とすると、そこは1953(昭和28)生まれです)、現在、ほぼ第一線を退いて直の後輩の退職も続いたところで、その影響力が消滅したのです。

私は、ほぼ一回り下の世代で、いかに人口の多さが力になるのかを目の当たりにして育ってきました。1学年で260万人と160万人の差は4割削っても同じという圧倒的なものです。熾烈な競争をしていく世代の後で、私たちは、三無主義とも呼ばれました。

世界がもっとも大きく動いた1968年は、ベビーブーマーが成人した前後でした。それは、仮に半減したとしても今の20代よりも3割も多いのです。

不祥事は、もともとあったことがフタが外れたことで明るみに出たとみてよいのではないでしょうか。

私たちの世代が社会のトップになって抑えられなくなったのです。昭和30年代生まれは、パワハラ、体罰が当たり前で鍛えられた上の世代の洗礼を受けたのに、下の世代や団塊ジュニアにはそれを強いにくくなったジレンマの世代でもありました。 

 

 戦争を戦ったのは大正時代に育った人です。そのあとの昭和の1ケタ代は、戦前の主義の崩壊で不信だらけのままマイホーム化していくなかで、新たに登場したベビーブーマーに対しては、異才や異端児を受け入れる度量もありました(日本史上、稀にみる混乱期でしたからやむなくもあったでしょう。人手不足に集団就職、そして高度経済成長とレールが引かれつつも、多様性が活かされてもいたのです)

 

それに対して、団塊の世代は人数が多いのですから、何をするにも自分たちで足りてしまうのです。才能も人材も同じ世代で賄えたのですから、下につく人間には、補助でよい、つまりイエスマンを重用するわけです。同世代の私がみるに、有能な人材は大企業や役所を早々に見切って離れ、イエスマンが残っていったのです。つまり、出世は、忖度能力でなしたのですから、当然のごとく上のフタが外れるとそこでいろいろ起こるわけです。人望も統治能力も異質の人材も使えないのですから対処できないのも当然です。おかげでいいように突き上げられ、そして「民生化」が始まったのです。極論となりましたところで、お開きに。

論22.「ウーロン茶は喉に悪い」について

このところ、ウーロン茶と発声についての問い合わせが続けて届きました。ヴォイトレにおいて、「ウーロン茶害悪論」というのか、ウーロン茶は、よく悪玉にされています。悩んでいる人や悩ませている人がいるので、この機会に詳しく説明しておこうと思います。指導者で「絶対に禁止」といっている人も多いようなので…。

 

 

 

〇害悪とされた理由の検討

 

 

 

よくないという人の論拠は、「ウーロン茶は中華料理で口内が脂っぽくなるのをさっぱりと流す働きがある」、つまり、「喉の粘膜やねばりけをなくすからいけない」ということのようです。その状態で発声すると喉を痛めてしまうという感覚、イメージです。

 

たしかに、声楽家やヴォイストレーナーにはそのようにアドバイスする人もいます。なかには、そのことばを信じている人もいるし、自らの失敗談として、伝える人もいます。あるいは、実際に試してみたらそうなったという人もいます。

 

まあ、試せるのですから、「試してみて、自分で考えればよい」と思うのですね。別にウーロン茶しかないわけでありませんから、プーアル茶とかルイボスティとかすべて試してみるとよいと思います。

 

 

 

私には、どうでもよいことで全く気にしていませんが、他の人に説明しなくてはいけない立場なので、できるだけていねいに伝えたいと思います。本気で調べるなら、飲料を何十種類か研究室へ持ち込めばよいのです。しかし、そこで、何を基準に発声との関連を決めるかを定める方が困難でしょう。

 

 

 

いくつかの前提となる指摘をしておきます。まず、喉というのが声帯の状態を指す場合、潤っていて発声によいということと飲料との関係なら、まったく論拠になりません。声帯の間(声門)を水は通らないからです。声門から入ると誤嚥になります。健康な人ならむせて咳で出してしまうので、そこでよくないということです。これは飲料の種類と関係ありません。

 

声は、声帯の粘膜部の開閉での振動によって生じます。ここに声を出しやすくする?油分があって、それをウーロン茶が流すとガサついてしまうというのは、イメージかもしれません。水分は食道へ流れ、気管には入りません。

 

喉というので咽頭、口から食道までの間のところをさすのであれば、口内が乾いているのを、ウーロン茶がより乾かしたりガサつかせることはありません。

 

では、体験としてどうして、そのように感じる人がいるかというと、そのときのイメージ、(人に聞いたことによる暗示と、スッキリ感による感覚)と、もう一つ、飲んだすぐあとに、ということによるのでしょう。

 

先にもっとも理想的な状態を説明しておくと対比しやすいでしょう。体内に充分に水分が入っている結果として、声帯は潤います。口内は適度に唾液でみたされていて、乾燥していないのが望ましいでしょう。つまり、口内なら最良の状態は、分泌した唾液によって覆われているのです。それに反するのがドライマウス状態で、緊張なども起きます。

 

ウーロン茶でなくとも、水っぽいものを飲むと、そのときに乾燥していた喉(口内や咽頭)はしめらされて、喉の渇きはおさまります。このとき、唾液も流されているのです。これは発声に必ずしもよい状態とはいえません。何分もしないうちに唾液で再びしめらされた喉は、よい状態に戻ります。飲んで、それを待たずに声を出すのがあまりよいとはいえないのです。

 

 

 

〇レッスンで思い込みをなくす

 

 

 

思い込みというのは難しいもので、それを信じるとその方向へ感じるようになります。自分で感じたから正しいとなります。「緑茶、プーアルはよいけど、ウーロン茶はよくない。」そこで「絶対だめ」って決めつけた人は、控え室にウーロン茶があっても飲まないでしょう。近くに買いにいくとか、がまんしてロスがでてしまうでしょう。

 

美空ひばりは30曲くらいのステージで水は一滴も飲まなかったといいます。ステージは照明で乾燥するし、昔は、ほこりやたばこの煙で喉に悪いことがたくさんありました。ハードでタフネスな天才と比べても仕方ないと思いますが、時代や環境が違ってきていても、私としては、あえて不利な条件を増やさないようにすることが対処の基本と考えています。

 

いろんな知識を得て、さまざまな防止策をとりつつも、自らの喉を強くしていきましょう。ちょっとしたことくらいで不調にならないように、また不調も経験して、そのなかでも、より悪くしないだけのタフさも身につけておくことです。

 

本番中、こまごまと水分補給をしているとけっこうな給水量になり、胃に負担になることもあります。早めに給水しておき、よい状態で本番を迎えることです。本番中はあまり水や他のものに頼らないことです。いろんなリスクが生じるからです。レッスンでも同じことです。そういうことを身をもって試すためにレッスンがあるともいえます。

 

 

 

昔の人は声がよくなる食べもの、声によくない食べもの(飲みものも含む)などを経験から出しました。偉い人のいったことは伝承されていきました。そういう人がいったからと信じるのもよいのですが、こればかりは個人差があります。

 

「私には、ウーロン茶はよくない、よくなかった」というのはわかります。しかし、どれだけの検証をしているのか。たかだか何回の失敗であったとしても、それは本当にウーロン茶のせいでしょうか。まして、発声のしくみからは、おかしな説明で他の人を暗示にかけるのはよくないと思うのです。「私自身は飲まない」でよいと思うのです。

 

「水を2リットル飲むとよい」というのも、似たロジックで語られることが多いです。

 

一気に飲むのはよくありません。体内の水分をきちんと補給するのは、発声以前に健康であるためにもあたりまえのことです。

 

水分補給ばかりは、年齢とともに準備が必要となります。保水力が落ちるからです。若いときの無茶は、回復しにくくなります。リスクが大きくなるのです。30代以降、発声の問題はそれによって生じることも多いです。しなくてよいなら、それでよいでしょう。

 

 

 

〇甘やかさない

 

 

 

レッスン室やスタジオは、今や空気清浄機に加湿器、除湿機で発声に最適な状態に整えられています。しかし、プロには意図的にハードな環境で歌うことに喉をならしている人もいます。そこは、アスリートと同じでしょう。 人間、親切すぎるトレーナーが思っているよりもずっと強いものです。大丈夫と思えば何でもないことも多いのです。あまり知識を蓄えて、メンタル的なことに弱点や注意点をたくさん集めない方がよいです。知るのはよいのですが、もし自分にはそうであっても、トレーニングで克服していくくらいであってほしいものです。飲料に限りませんが、レッスンこそが、その実験場であり克服の場になるはずです。

 

ウーロン茶を飲んだあとでも平気に声が出るし、何ら痛めないのは、私にとってはあたりまえです。飲料は飲みすぎないこと、頼りすぎないこと、飲んだら一呼吸おきましょう。それですむようにしていきましょう。

 

喉にオリーブオイルやハチミツがよいなどという人もいます。(このまえ、TVで歌唱の直前にハチミツをビンから直接飲んでいる来日外国人をみました。)

 

これもイメージからでしょう。健康によいものなら、まわりまわって発声によいといえば何でもよくなりますが。

 

飲食の場合、時間を考えずに云々してもだめでしょう。冷たいもの、熱いものの方が筋肉には直に影響を与えるものです。刺激物、むせやすいもの、糖分の多いもの、胃に負担になったり、炭酸のようにゲップの出そうなものは、別の原因でNG。スポーツドリング、ハチミツレモンなどは糖分やベタつきに注意。ハッカやメンソール系や喉の水気を奪うようなものは、あまりよくないといえるでしょう。利尿作用のあるもの、アルコールやカフェイン、乾きもの、乳製品など痰が出やすいものも避けましょう。

 

あと、水道水を否定する人が多いですが、今の日本では、大丈夫です。本人がイメージ操作されていなければですが。

 

 

 

以下、私の著書(「人は『のど』から老いる『のど」から若返る』)からの編纂です。

 

 

 

喉の油分(この場合、油でなく適度な潤滑油の意味と思われる)をとるのにウーロン茶がよいとか、油分がとれるからよくないと言う人もいます。声帯に届かないので、むしろ、冷たすぎるもの、熱すぎるものに注意することです。

 

ジンクスとしては、本人の感じることに従うこともメンタル的に効用があります。しかし、間違った根拠づけはよくありませんし、他の人に通じるとは限りません。

 

ウーロン茶で声が出にくくなるのではありません。それで、すぐに唾液で口内が潤うならよいのです。唾液こそが一番と思ってください。

 

緑茶に関しては、カテキンでの抗菌作用がよいこともあります。

 

 声帯やその周りは潤っているのが理想的です。それは、発声の原理から、声帯やその周辺を乾燥させるとハイリスクになるからです。こまめに水分を摂り全身に水を回しておくことが大切と考えておくとよいでしょう。ただ、直前や声を使っているときは、抑えた方がよいでしょう。

 

 

 

〇お茶と水

 

 

 

 熱いお茶をすするのは誤嚥しやすいので、ぬるめにするのがよいでしょう。蕎麦でもラーメンでも、すするものは気をつけましょう。

 

 唾液の量が減って口内乾燥(ドライマウス)するのは、よくありません。薬もそういう成分がよく入っています。 

 

唾液には口内を潤滑にし、自浄,抗菌、乾燥を防ぐ粘膜の保護、酸性に偏らせないで緩衝します。溶解、消化作用などの働きもあります。

 

 

 

水を急に飲むと血液が薄まりバランスが崩れることもあります。疲労やこむら返りを引き起こします。

 

水分補給は大切ですが、少しずつ摂ることです。

 

 

 

ここからは年配の人への注意です。身近にお年寄りがいる人も知っておいてください。

 

飲み込んだ後、息を少し吐くことです。「プハーッ」と吐く息を鍛えましょう。息を吸うときに誤嚥しやすいからです。食べる前も少し声や息を出すと安全です。

 

 汁物よりはとろみのあるもの、あんかけがよいでしょう。中華にはとろみのあるものが多いので、お勧めです。

 

かつて、おかゆがよいと言われていましたが、今は、おかゆの方が危ないと言われています。誤嚥しやすいのと熱くても流れ込むからです。

 

注意するべき食べ物(窒息を引き起こす)は、モチ、パン、おにぎり、アメ、ダンゴ、ゼリーです。

 

 

論21.「ことばの壁」

〇信用してみることの壁

 

最近、こういう注意をすることがあります。

「トレーナーがわかりやすく説明してすぐに実感させられるのがよいとは限りません。説明しないことも、ことばにできないこともあります。」

質問されたらトレーナーは答えますが、それは、説明であってマニュアルのやりとりにしかならないことが、ほとんどです。

レッスンではトレーナーを判断したり、その内容を考えるのでなく、ご自分の声やその変化をじっくりと感じることに集中してください。ことばややり方ばかりにとらわれているのは、よくありません。

 

自分なりに理解して考え、自分なりにやってみて、次回のレッスンでトレーナーに「こうやってみました」「こうなりました」「この2つで迷っています」などと問うてください。ことばでなく、実際の声や体で問うのです。そこから、あなたのレッスンが始まるのです。

 

〇自己判断の壁

 

歌やせりふは、ことばだけでなく人に声で働きかけるものです。だからこそ、多くの人はここにいらしたと思います。

自分が判断する(そんなことはあたりまえのことですが)、それでどうなろうと自己責任という人もいますが、一緒にやっている以上、無駄に不利益を被られるのは、トレーナーにも迷惑なことです。何のためにアドバイスをしているのかわかりません。

トレーナーの判断は少なくとも、多くの人の自己判断よりも客観性があります。レッスンは、その客観性を元に行うのです。ですから、ご自分の感覚を一時、保留する必要があります。

 

〇聞くことの壁

 

一から手とり足とり、わからないから、どうすればよいと、すぐに聞くのもあまりよくありません。自分なりに工夫して、ことばでなく声や自分の考えたやり方をみせて、トレーナーに問うてください。

たとえば「脱力できません、どうすればよいのですか」聞くのはかまいません。聞いたらやってみてください。  「どうして、そうすれば脱力できるといえるのですか」と聞く人もいるのですが、何でも説明できる理由があるわけでないのです。

「脱力」できなければ、次回まで工夫してみるのです。そこで気づいて変わってこそ、学べていくのです。

 

〇答えることの壁

 

レッスンの中での応答で、疑問が解消されたらよいのではありません。そこで実感できたからといって、完結するのではありません。ことばの説明だけの疑問解消や納得、さらに自分本位の実感や効果の感覚に全て頼ることほどレッスンをムダにすることはありません。

もちろん、本当に実績があり、トレーナーを上回る判断をする人がごく稀にいます。かなりハイレベルの感覚をもつ人たちですが、そういう人でも歌や声でそういうことはほとんどありません。

 

自ら失敗しないと学べないことと思うので、これ以上は同じことを同じレベルでは、述べません。これまで失敗したことがあったら、それをよく考えたら、早く気づけるかも知れません。レッスンが悪い意味で同じ繰り返しにならないようにしましょう。

 

〇配線の追加と修正

 

レッスンを最大に活かすには、これまでの思考回路と違うとりくみが必要です。白紙にして臨んでみることです。

ことばのやりとりで、その場で納得、満足させることを求めると、そこをトレーナーも目的としてしまうことになります。それは決してよいことではないのです。形だけになります。レッスンが本当の意味で成り立ちません。

 

レッスンは共に創っていくものです。おたがいに12回でチェックしようとするような使い方はよくありません。

説明されなかったことや聞きたかったことは書きとめておいてください。どうすれば身につけるかは、体験です。これは、毎回、常に進展があるとは限りません。

 

〇納得や実感の虚

 

「それは、何のためにやる」「どこに効いている」「いつどういう効果がある」というのを納得しないと始められないという人もいます。どんなことも理由を聞かないと、聞いて納得しないと始められないという人もいます。 それは、トレーナーを信用していないということです。

何でも説明したらよい、そうしないとできないというようにコンプライアンスということを誤解しているのでしょう。

 

〇試行錯誤

 

トレーナーは理由を求められると説明をします。それはマニュアルかその応用としてです。

トレーナーもそのときのあなたの状態だけですべて把握するのではありません。まして初回なら、なおさらです。

間違っていることは直せますが、これから創っていくことは時間をかけて試行錯誤を交えながら、修正しつつ、進めていくのです。12回で間違ったレッスンもムダなレッスンもありません。

自分で合わないと思っても、その判断はとても難しいものです。継続を前提としているレッスンでは、そのときだけで判断してよいものではありません。

 

〇説明の虚

 

ここには、本を読んでいらっしゃる人も多いのですが、正しくできていないと思うのでいらっしゃいます。正しくできないのでなく、大体は正しいといえるほどやっていないだけですから、正誤を問うまえに充分にやること、つまり、スタートすることが大切なのです。

 

喉に支障がでる人は、マニュアルの使用での間違いも多いです。頭に体の感覚がついていっていないのです。 そういう人に限って、さらなるマニュアルを求めます。1ページが使えないのに、それを何ページにもしては、もっと、よくありません。

 

〇パラダイム

 

「一声が使えずに一曲歌えない」というのが、ここの方針です。しかし声を充分に使えなくとも、誰でも何十曲も歌っています。マニュアルなしでも、相当にうまく歌っている人がたくさんいます。どんな声でも、「声さえでれば歌は何とでもなる」のも、確かなのです。

その上での問題なのか、そこまでもいかないことでの問題なのか、そこまでいっていないことを本人がわかっているのか、わかっていないのかでは、問題の質が違うのです。☆

となると、本やマニュアルで支障がでた人は、そこのパラダイムを変えなくては、逆効果になります。

 

〇トータルの感覚と体現

 

私は昔、合気道をやりました。ひたすら型を繰り返します。いちいちその型は何にどう役立つのかは聞きません。いろんな理屈で解説している人もいます。教則本もでています。科学的にも生理的にも、今はいろんな解釈がされています。

しかし、まともな師匠なら、「だまってやりなさい」といいます。それは、暗黙知、経験知として、継承されています。

トータルとして身につけるものだからです。部分をとりあげ、どこが正しいというのはありません。

立ち方一つ流派によって違います。その理由を聞いて、他の流派のはすべて間違いとしますか。立ち方一つでも、自分のものとするには、生涯の問いとなるわけです。

 

どこでも基本を繰り返し、そのなかで自ら創意工夫した人が力をつけてなっていきます。人とでなく自らの体、感覚と対話していくのです。学者と違い、実践して、自ら体得体現することにしか意味はありません。

 

〇材料の使い方

 

理論、方法、メニュは、役立つように使うのです。どれがよいとか悪いとかでなく、材料にすぎません。型もメニュですから同じです。もしそこに説明を求めるなら、「他のメニュでもよいけれど、これがよいと思うよ」とか、「よいと自分は思った」としかいえません。すべてを試すこともできないから、目のまえのものを使うのです。

説明はあとづけです。確証はありません。なぜなら、その型やメニュで、どうしてもうまくいかない人もいるからです。別のやり方でもっと早くとかもっとうまくいくこともあるはずだからです。

トレーナーやレッスンは身になるように使うことです。質疑応答は答えを聞くのでなく、自分でやってみたことで問うのです。

 

〇自分の質問とトレーナーの質問

 

「初回のレッスンは皆、質問だけになるはずでしょう」という人がいました。ここでは、本やレクチャーを経てから、レッスンを入れているので、質問はそれほどありません。そう思う人は自分のなかで考えることが、必ずしも世の中と同じでないことから知ることがよいでしょう。少なくてもここでは通じないことの一例です。

もちろん、他の人と考えが違うのはかまいません。ただ、質問が多いのがよいのではありません。

内容によっては、よいことですが、知識のやりとりではレッスンではないからです。

初回はトレーナーからの質問は、若干多くなることもあります。トレーナーがその人と距離を感じているときでは尚更です。

その日のレッスンを確実に自主レッスンに取り込むことができるにも、何ヶ月も要します。形だけはまねられますが、実まで本当にできたら、問題は解決しているということです。 それがわかるために、型=メニュはあるのです。

 

〇自分の考え

 

成長が無意味に遅くなったり、無意味なムリやムダを被むらないためにトレーナーがいて、レッスンがあるのです。レッスンをわざわざ活かしにくくしている人もいます。それはあまりよくはありません。ここにこられる前と変わらないならもったいないことです。

 

他の分野での実績からの自信で自己肯定してくる人もいますが、本当に自信のある人は己を無にして新たなことにとりくみます。だから多くを早く得られるのです。

発声や歌に関しては、これまで、できていないのに、気づくことはよいのです。しかし、あとは根拠のない主張となっていることが少なくありません。「自分の考えでは」という、あまりにあたりまえのことは、いくら主張しても何も言っていないに等しいのです。声で問うてください。

 

〇試行錯誤

 

質疑だけで、レッスンに入っていかない人もいます。そういう人には、「一度、トレーナーの言うとおりに進めてみてください」とアドバイスします。

あなたのために、すでに選別したトレーナーなのです。初回、うまくいかなくとも二回目は、一回目のレッスンを元に修正して対応しています。それでまた考えたらよいのです。

 

トレーナーに指導でなく、その解説者、コメンテーターを求めているような人もいます。トレーナーと同じ考え、意見だから自分もすぐれていると安心したり、自信をもつ人も少なくありません。それは違います。

 

〇頭を切る

 

私はレッスンが始まったら、本は必要ないと言っています。

レッスンが受けられない人に、わずかばかりのことを本で伝えているつもりです。

レッスンでは、本や理論は一時おいてください。

レッスンはトレーナーの指導の元、進められます。その指示に従って進めてください。

質問は終わってからトレーナーへのレポートにまとめてメールするとよいでしょう。それをふまえて次のレッスンが行われます。

レッスン時間はどう使ってもよいのですが、話だけでおわるのはもったいないです。

トレーナーは出す声からの改善を導くのです。発声や実践にレッスンの時間をかけてください。

 

〇受け入れてみる

 

他の人と違うから、よくないというのではありません。学んで変えようとしてきたのに、自分の感覚だけを元にして判断し、自分だけのよしとする方向に進みたいのは、おかしなことです。進もうとして、足踏みして踏み出せないままになりかねません。

その判断も自分だけが第一というのなら、よい結果にならないでしょう。

 

声については、ふつうは、トレーナーがあなたのことわかるほどにあなたがトレーナーのことをわかることはないのです。わかるとはイメージですが、それを最初は、わからない、納得できない、合わないと思うかもしれません。しかし、頭から否定するなら、信頼しないとしかいっていないに等しいのです。

今の力でできない、合わない、向かないものであっても、必要なら、時間をかけて身につけていけばよいのです。

 

〇必要を満たす

 

 あなたは欲しているものを求めにきたと思います。しかし、それは、人生で手に入るかわかりません。私たちは、あなたに必要と思うものを与えたく思ってやっています。

そこでいらないというのなら、やめるというのも選択の自由です。

そういう可能性や限界がみえないから、人生はおもしろいし、自由だという考えの人もいます。私もそう思います。

トレーナーはあなたよりも、あなたの可能性、限界がみえます。いえ、レッスンでみよう、変えようとしています。それは、多くの経験と直感からきています。しかし、いつも簡単に適切なことばにできるものではありません。

レッスンやトレーニングで変えていけることは、しっかりやると、必ず変わっていきます。そこを私は、おもしろく自由なものと思います。ですから、必要なものを与えたいと思います。

 

〇欲しいものを離してみる

 

変わらない人の多くは、自分の考え方、判断にとらわれすぎているのです。それが正しければうまくいっているのに、いっていないから学びにきた、なのに、そこに執着するのはよいことでしょうか。

欲しいものに捉われすぎると必要なものがみえないのです。欲しいもので手に入れられるものなら与えてもよいと思うのですが、すべての人がそれを得られるわけではないのです。得ても使えないものなら、目的、目標から考えることも必要です。

 

〇レッスンとカウンセリング

 

頭で考えてばかりで感じることが疎かになっている人が多くなりました。説明しないのも、説明できないのも、トレーナーの能力でなく判断と思うのです。何も言わないのも、とりあわないのも、悩んだり迷った末の判断です。返答があるのがあたりまえ、返答がくるのが、親切、サービスと思っているのなら、残念なことです。

 

私はトレーナーを性別や年齢では分けていません。その人の伸びるために必要な要素をより多くもっていたり、与えられる可能性で選びます。直感的に、です。正直にいうと、そこで必ずしも充分な説明はできるとは限りません。

具体的なこと、方法ややり方で選ぶだけではないからです。

 

納得させたり説明するのは、レッスンの目的ではありません。そこは、特別に必要なケースではカウンセリングという形で行っています。

体で身につけていくものに説明ということばでの説得は、必ずしもうまく使えるものではありません。使ったところで、よくないことが多いです。何が正しいのかというのは、不毛な議論となります。

 

〇サービスの受け手

 

その場ですぐ、提示したり、体感させられるトレーナーは有能なのか、器用なのかはすぐにわかりません。でも、この頃はそういうトレーナーやサービスばかりが求められます。

そうした方法が、その人のために本当によいかは、簡単に判断できることではありません。よしあしの判断でさえ、しばらく様子をみていかないと何ともいえないことは普通のことです。

 

形だけをもち帰って、家でやって、それでうまくいくのなら、本でもDVDでもすみます。レッスンの意味はないとはいいませんが、その方が便利でしょう。レッスンでは、それ以上のことが成り立つように思います。

 

〇究極の目的

 

プロもまた、ここのトレーナーから多くを長年かけて学んでいます。

自らの作品をよくしたくて、自分のもつ条件を変えにきたのなら、その環境を最大限活かすことを考えることです。自分の条件だけを主張しているのでは、ただのお客さんです。もちろん、ワンポイントレッスンや専属のトレーナーの補助として使うのは自由です。

 

私は、ここにくる人は変わりたくて、いらっしゃると思っています。

自分の正しさ(学び方や考え方も含めて)を主張しにくる人もたまにいます。そういう人はご自身のお客さんのまえでそれを問えばよいと思っています。それで成り立てばそれでよいということです。

あるいは、レッスン受講生でなく、あなたをお客さんとして扱う方がよいのかと本人に問うこともあります。

トレーナーをお客さんから自分のファンとするというなら、究極の目的として是非、のぞんでほしいことです。

 

 

論20.「心身の使い方のミスと人間発声学(対処から統合へ」 

○声楽という治療法

 

 クラシックは、西洋のものですから、西洋医学と似ていると思うことがあります。西洋医学は、病気をどうするか、そこから始め、それをみて処理をしてなくすのをよしとします。単純にいうと、痛みをなくすために傷んでいるところを切り取る、薬で痛みを感じなくするなど、消したり取ったりするのです。マイナスが出ているとみて、元に戻すという発想です。病人からスタートするのですから、すでに病気があることを前提としています。

 クラシックは、教育体系がプログラムされています。普通の日本人が歌うと、「それは発声が違っている」として、正そうとします。しぜんに歌ったままでOKと言われた人はいないでしょう。自分なりに歌ってきた人は否定され、直されます。

 日本人のトレーナーに習った人ほど、徹底してダメ出しされ直されるとも言われます。下手に習った、ということになるわけです。しぜんもだめ、習ってもだめとは、いったいどういうことでしょうか。それこそが、クラシックの特殊性ということになるのです。

 

○声楽の功罪

 

 声楽というのを、思い切って西洋の治療法とみると、それを処して100余年、未だに日本から世界へ出た成功者が増えていかないこと、それと本場との大きな技量の差をみるに、本当のところでうまくいっているとはいえません。

 ただ、初期に何人かのトップレベルのオペラ歌手が出たこと、その後、全体的にレベルの底上げしたのは確かでしょう。底辺レベルを平均レベルに引き上げたのは、日本人らしい受け止め方と教育のせいだったのでしょうか。昔のようにスターは出なくなりましたが、全体として、ひどいというレベルのオペラや合唱はなくなったわけです。悪いのをなくした、まさにマイナスをなくす効果を上げたのです。

 マイナスをゼロにするというのは、元に戻すのですから、予め、明確な目的、正答があるわけです。つまり、向こうのお手本に似せる、向こうの人と同じように普通にするということです。しかし、プラスというのは、個々に違うので、創造的な分、形は予めわからないのです。

 

○ミュージカルという病

 

 ポップスのように、自分なりに歌って、そのままプロになっている人も世界中にいます。クラシックとどちらかが正しいとか、この2つは違うものと言いたいのではありません。私は、歌の声ということで同じに捉えています。

 その混合地帯が日本ではミュージカルともいえます。日本では、かなり特殊に二極化しているからです。役者出身と声楽出身では、得手不得手がかなり違ってきます。大ざっぱにいうと、役者は個性、声楽家は技術がみえます。

 ところがブロードウェイの出演者なら、何が出身かなどわかりません、両方を学び、共に極めているからです。技術と個性が両立して一体化しなくては、プロとして認められないからです。

 日本では、声楽家出身者は、高音域に届かせることとロングトーン、ビブラートの技術に秀でていて、役者出身者は声の個性やせりふ、演技での表現力に秀でています。さらに、ダンスで秀でた人もいる、となりましょうか。

 

○劇団四季の先に

 

 劇団四季は、興行として、日本で大成功した例です。音声面、歌唱技術に限っていえば、ブロードウェイのレベルとは比べものにならないものの、ダンスは、少しずつ近づいていると言う人もいます。そこで、役者から声楽出身者にメインが替わっていくのは、原調での無理な高音共鳴が必修となってきたからです。

 さらに、韓国、中国出身者に替わられていくのをみるに、その理由を日本人の発声力と音色力、特にパワー不足に求めざるをえません。

 ミュージカルなのに、発音ばかり優先されるのは、感心しません。私は、歌では、音楽面を主にみているので、根本的に違います。

 日本語を優先し、話の内容が初心者や子供にもわかりやすく伝えられるようにして、日本語の教育にも関わるようになった、日本語発音第一主義の劇団四季は、発音が不明瞭だった日本人の舞台へのアンチテーゼとして登場してきたと思います。そして、そこに学べることは、日本人の受け止め方ということです。それは日本での興行に成功するための優先順ということでしょう。

 

○総合して超える

 

 問題は、日本の歌が洋楽曲を取り込んで日本語詞をつけたところから始まっています。メロディとことばの矛盾です。それは、今はラップでリズムとことばの矛盾として起きているのですが、あまりみえていないようです。

 それはともかく、せりふからの歌へのしぜんな移行、それに伴わせた発声のマスターを考えると、次のようなことが言えます。

 後天的に出てきた病を、そこで捉えて治すのでは遅すぎるのです。対処治療の前に後天的に出てきた理由を探り、その前に出てこないようにします。未然に防ぐ、東洋医療でいう未病で治す、ということです。医療保険制度での治療費を減らすために、日本でも、ようやく未然に防ぐことの方に注意がいくようになってきました。それが予防医学です。

 発声は、ポリープや声帯結節ができたら病気と言われ、治療となります。喉がかすれたり痛くなっても、将来の芸術や芸能の歌唱、せりふに影響しないようにすればよいのです。それは一時の病、風邪のようなものかもしれません。そこでヴォイトレなどで予防することを覚えていくの

とよいでしょう。

 

○達するレベル

 

 芸事ですから、あるレベルに達していたのが達しなくなるのと、まだ達する実力がないのとは、違います。これは、日常の中に、声、せりふ、歌もあるので、なかなかややこしい問題です。ともあれ、間違っているのと達していないのは違うのです。

間違っているのは、直すとか正しく戻す必要があるのですが、達していないのは達するようにしていくしかないのです。しかし、達するに上限はないので、そこに求める程度の問題、いや、達せられる程度の問題となります。

 ですから、初めて声楽を学んだときには、正しく歌っていないとか、間違っているというのはおかしいのです。それは、達していないにすぎないからです。でも、声は出て歌っているから、その発声では舞台に通じない、OKは出ないから、間違いといわれ、正しい発声を覚えなさい、となります。この場合、間違いでなく、違っているというべきです。

 

○「正しい発声」と使える声楽

 

 声楽の「正しい発声」とは、多くの日本人には、これまで出したことのない特殊なものです。日本人の日常から離れているものです。実際に接するとまるで、初めて楽器を習うようにも思われます。楽器なら、初めてではなんともなりませんが、せりふや歌は、少々はできるのに通じないので、間違いと言われます。外国語の発音を学ぶのと似ているかもしれません。ただ、合唱や学校の唱歌などの歌唱、童謡などでは、声楽と共通しています。

 私は、「正しい発声」でなく、それを可能とする体づくり、呼吸づくり、発声づくりを学ぶように声楽を取り入れています。声楽の共鳴も歌唱も、声の可能性を大きく開花させる手段としてみていますが、目的ではないのです。そこが、私の考えるヴォイトレと声楽との違いです。感覚や体づくりとして、これまでの自己流や日本人らしい発声を打ち破る手段として、声楽は大いに使えるということです。

 

○生来の声と健康

 

 人は、生まれて、声が出て、母語を学び、話せるようになります。そして、歌えるようにもなります。そうして過ごしてきた幼少期から十代、ここでベースができます。ことば同様、その民族の生活や風習によって、歌や踊りは習得されていくといえます。とはいえ、同じ環境下でも、かなりの個人差はあります。

 同じ時代に同じ日本で育っても、いつも歌ったり踊っていた子と、そういうことに関心のなかった子では、十代でかなりの差がつくでしょう。カラオケによく行く人と、行かない人でも大きな差がつきます。歌でも、TVをみて育った子と、ラジオやレコードで聞いて育った子では、違ってくるでしょう。

 そこでは、小学生の100メートル競争での実力のように、特別にトレーニングするわけでもないので、あまり努力と関係ありません。素質や環境に大いに影響されての特技、才能として表れるところです。

 とにかく、健康である人には、関係のなかったはずの健康づくりが、日本では当たり前の時代になってきたわけです。話して歌っているのが当たり前の人がヴォイトレのレッスンなどで声づくりをするようになったわけです。どうも似ていませんか。

 

○直すのでなく、達していく

 

 病気を心身の使い方のミスから生じると考えるのなら、発声も同じようにミスと考えられなくもありません。となると、その発現の時点に立ち戻って直せばよさそうなものです。

 発声がよいとか悪いとか、歌がどうこうという前に、それに有利な考え方に変えて、それに沿ってトレーニングをして、変えていこうというのが、日本人の声楽です。

 それに対し、直すのでなく変える、間違いを正すのでなく、達していないのを達するようにする、できているのをもっとよくする、そのように考えるのが、私はよいと思うのです。

 正しい、間違いの二極でなく、程度で考えるのです。

 老いも病も不運にして起きるのでなく、すべては体の変化の中でのプロセスです。健康な人も、100パーセント完全ではなく、必ず病をもっています。ガンになっていない人もガン細胞をもっています。

 生きて死んだら何もありません。老いや病も私たちの頭でつくり出したものです。いえ、そう教わったものです。発声も同じではないでしょうか。

 

○発声依存からの脱却を

 

 声は、宗教とも深い関係があります。生活全体から人間発声学として捉えるならば、そこには無限の可能性があります。風邪で病院に行くような国はありませんから、日本人は病院依存症です。病院に行って薬に依存して、いつも病気を引きずっているのは、よくありません。

 一方、東洋医学でも、治療や薬に依存してずっと抱え込んだままになったり、直ってはまたすぐ繰り返すという人は少なくありません。そこは直っても別の個所がよくなくなる、転移のようなことも多いようにみえます。

 残念ながら、発声やヴォイトレも、そういう人がたくさんいます。いろんなところをいつも回って悩んでいる人もいます。そういう人には、是非、この研究所で終止符を打って欲しいものです。

 

○ライフワークにする

 

 私のところには、10年、20年といる人がいますが、それは、直らないのではありません。達していこう、極めていこうとしているからです。途中、かなり踏み外しているようにみえることもありますが、続けていくと、そういう人の方が大きく育っています。そこで、どういうアドバイスをするのかも、なかなか難しいことになるのです。武道のようにその人のライフワークとなっているのです。

 

○ヴォイトレの誤解

 

 「声が思うように出ない」「喉を傷める」などで医者に行く人の多くは、医者から紹介され、研究所にいらっしゃいます。そのほとんどは、病気とか怪我をしたのでない、治すというのでなく、達していないのです。発声や歌い方が間違っていたり、できていないのでなく、中途半端なのです。もっと大きく伸びる余地をみて挑んでいないのです。

 そこがわからないと、発声法を教わったところで、少し無理をすると壊します。それがわかると今度は無理をしなくなります。無理しないことで壊さなくなるのをヴォイトレと思ってしまう人が多いのは、私としては残念なことです。

 目一杯の無理をしても壊さなくなる、昔より大きく強く声を出せるようにならなくては、トレーニングではないでしょう。

 「発声が直らない」とか「歌がうまくならない」と思っている人は、考え方を変えてみることです。キャリアを重ねていくように考えて続けることです。そこでレベルアップするためのレッスンに気づき、ヴォイトレでは、ロングスタンスで声の器づくりをしていく力を蓄積していくのです。

 「すぐにうまくなる」「間違いを直す」ということばは、使いたくありません。そういう指導は、本質を見誤りかねません。

 

○発声は間違えない

 

 歌詞を間違えたり、音程やリズムを外したとは言いますが、発声は間違えるというものではありません。地力のなさでのコントロール不足といった力の問題がほとんどです。それは、訓練していかない限り安定しないのです。

 丁寧な発声と、それを再現しキープできる体力、技術を身につけていくこと、それが基礎たるヴォイトレです。歌唱には、発声や共鳴のバランスやコントロールとともに、表現のためのパワーとメリハリがいるのです。そのときに、声の芯や声量、共鳴と言った基本の力が大きく効いてくるということです。

論19-2.「歌うことのソフトウェア」

〇デジタルの進化

 文化での大きな改革期を20年ごとに、1967年のアメリカ、1987年のイギリス、2007年の日本とみる人がいます。

 2007年に、ヴォーカロイド初音ミクが登場しました。これはサンプリング音源、販売の会社から生まれたのです。(クリプトン社1995年~)

80年代のDTMMIDIDTMは和製英語)、

1983DX7発売(ヤマハ)、DXはシンセサイザー、QXはシーケンサー、RXはリズムマシーンです。

(背景)

1965年ベンチャーズが来日

1966年ビートルズが来日

1967年~ポプコン(ヤマハ・ライトミュージック・コンテスト)

1967年「帰ってきたヨッパライ」(フォーククルセラーズ)

196710月~「オールナイトニッポン」

19698月「ウッドストック・フェスティバル」(アメリカ)

ヒッピーカルチャー

(デジタル化)

196910月~ARPANET(インターネットの前身)

○歌うことのソフトウェア化とバーチャルシンガーの登場

 1968年「2001年宇宙の旅」HAL9000が「デイジー・ベル」を歌いました。これは、1961年、ベル研究所のIBM7094が実際に歌ったところからきたようです。

 以下、初音ミクを中心にみていきます。

1964年冨田勲のモーグのシンセサイザー、富田氏は、のちに人形浄瑠璃と初音ミクの共演を実現します。

「着メロ」と「着うた」「歌ってみた」の投稿、ネット発クリエーター ニコニコ動画 同人イベントの開催

20091月 バイリンガル(英語音声データベース)

カラオケ JOYSOUND

2009年 「ミクフェス’09夏」

20097月 PSP用ゲームソフト「初音ミク―Project DIVA」(セガ)

20104月「初音ミク アベント」6つの声

20115月 米国トヨタのCM

20117月 ロサンゼルスでアメリカ公演

201311月 パリ、シャトレ座でヴォーカロイド・オペラ「THE END

歌声ライブラリー「がくっぽいど」(GACKTの声)「ハルオロイドミナミ」(三波春夫の声2016)などの開発と発売。

論19.「「AIとこれからの声」へ。~ナレーション、声優、歌手、ヴォイストレーナーの職のソフトウェア化」

〇カラオケバトルという歌謡番組

 

 日本では、カラオケに続き、ヴォーカロイドが実用化されました。これは、ロボット、アンドロイドという2つの進化に相当します。

 歌番組もほとんどなくなりつつある日本のTVで、カラオケ採点機能での点数を競うカラオケバトルの放映が増えました。カラオケ採点機能が改良され、ある面で、審査員以上の公正な判断をしているとみたのでしょうか。そのセンサー機能を人の耳よりも信用をおいたわけです。

ゲームのようなことが、いつの間にか、その点数を1点、いや、0.1点でも上げようとして、参加者が競うようになっています。歌手のゲストコメンテーターでさえ、その点数を基準として聞こうとしているようです。歌の先生、ヴォイストレーナーの仕事を、代行していることになってきたのです。

 十代のオリコンランキングの上位の半分が、ヴォーカロイドの歌曲となったこともあります。高い声と滑舌(早口ことば)を楽しんでのことです。それが生理的快感らしいのは疑いようがありません。ランキングのあとの半分も、AKB48とかジャニーズ系ですから、もはや、ここでとりあげる対象にならないのです。

 

〇コンピュータの進歩と音楽

 

 カラオケバトルをクイズやゲームのように興味本位でみていましたが、声の世界での大きな変化であるのは現実なのです。歌番組として、カラオケ採点機を入れないものよりも、多くの人に視聴されているのです。紅白もそうして競った方が視聴率は上がるかもしれません。

 20世紀後半、シンセサイザーの登場で、バンドの音づくりは打込みになりました。人間よりも正確に音楽の演奏を文句一つ言わずにこなすのです。しかも、それまでにない音色や音の動きまでつくれます。ドラマーも、人間では32ビート、64ビートなどを正確に持続しては叩けません。同様に、歌手はヴォーカロイドのもつ声域、リズム、音程の正しさに敵いません。まだ勝っているのが発音、高低アクセント、イントネーションの変化ですが、これらもいずれカバーされるでしょう。残るは、音色、その人だけの声です。しかし、それさえ近いうちに代替されそうです。あなたの求める声や有名人の声で読み上げるソフトは、間違いなく出るでしょう。

 

〇日本でのAI化と“かわいい”

 

 ハイテク技術での技量、正確さの向上、再現性と、人の耳を通しての音楽、歌の捉え方、脳での聞き方での評価とは、必ずしも比例しません。とはいえ、AIとなると、そういうものさえ取り入れるでしょう。いずれはiPSでの生の声帯で発声できるようなアンドロイドも出てくるでしょう。声帯の代用の発声として、医療リハビリ面での必要から開発されるでしょう。

 CDのレベルなら、そこまでの必要もなく、人の声の合成だけでも、ほぼ間に合いそうです。カラオケバトルで、正確、完全な歌唱を競うだけなら、人は、音声ソフトに敵わなくなるでしょう。

 “かわいい”カルチャーに席巻された日本の若い世代は、歌手の歌声が人間の声でなくとも、さほど違和感をもたないようです。それどころか、合成音に慣れてスムーズに移行しつつあるのです。もしかしたらウォークマンあたりから慣れていったのかもしれません。iPodiPhoneの音にも違和感はないでしょう。すでに、若い世代は、デジタル音をよいものとして、ファミコンあたりから訓練されてきたのです。

 

〇声優、ナレーター業のソフト化

 

 声優、ナレーターの仕事は先細りです。ナレーションのソフトが、かなり高い完成度で販売されています。しかも、日夜、改善を続けています。

 通訳、翻訳も、一流は、どの職では特別ですが、それ以外では、通訳、翻訳ソフトに替わるでしょう。

 余談ですが、私の学生時代では、まさか自分が、日常でパソコンを使うとは思ってもいませんでした。1980年代のことです。電動タイプライターはありましたが、アルファベットに比べて日本語の入力自動化の限界を感じていました。

 女性では、和文タイピストというのが花形職、1枚で何千円かを稼げました。写植屋さんは、もっと高く、二千万円ほどの初期投資で一生安泰などと聞いていたものです。今や、和文タイプライターは職とともに消え、街に写植屋さんもみあたりません。職が消えるというのは、簡単なことなのです。

 ちなみに、当時、動画映像、VTRのマスターを160分ほどをつくるのに1千万円以上かかっていました。機材もスタジオ代も含めると、今と何桁違うでしょうか。今や、小中学生がそのレベル以上のことをできます。無料で、しかも、すぐに配信までできるようになったのです。

 ついこの間まで、浪曲が日本を席巻していたのに、もはや、その面影もないのを彷彿とさせます。

 

○シンギュラリティ

 

 シンギュラリティTechnological Singularity(技術的特異点)とは、人工的な超知能が人の知能を超える特異点です。一説には、2045年(カーツワイルほか)に起きるとされています。

 人工知能(AIAGI)の開発は、DNA解析、原子力の発明と並ぶ大革命といえます。

 

○リオから東京オリンピックへ

 

 たとえば、パラピンピックの選手が、これ以上サイボーグ化したら、オリンピックの記録をすべて上回るのではないでしょうか。

 パラリンピックでは、義足で2015年に10.57秒の記録を出したアラン・オリベイラ選手がいます。ちなみに、ウサイン・ボルト選手の記録は9.58秒(2006年)です。

 すでに走り幅跳びでは、マルクス・レーム選手が8m40まで出しています。(マイク・パウエルは8m95

 マラソンについては、世界記録が2時間257秒、車いすマラソンでは、すでに1時間2014秒となっているのです。(2016.9月現在)

 

AI世界と日本人

 

「マトリックス」の映画のように、培養され夢だけ見ている状態、夢の中で幸せにくらす方が日本人は、自由を求めて命をかけて戦うよりまし、と思うのでは、とは、松田卓也氏の指摘したことです。「永続敗戦」という白井聡氏のベストセラーに思い当たりました。

 

Q.テクノロジーの進歩は、どんどん速くなるのですか。

A.集積加速の法則、The Law of Accelerating Returns、これは「ムーアの法則」より派生しました。集積回路の集積度について1960年代に発見されたものです。指数関数的な進歩をするということです。というのは、1年後2倍、2年後22乗で4倍、3年後23乗で8倍、10年後およそ1000倍、20年後100万倍、30年後10億倍ということです。

 これを、コンピュータの進化のスピードとして、その結果をみると、当たっていると言われます。

 

Q.AIで、すべての仕事はなくなりますか。

A.アンドロイドは、ロボット(産業機械)以上に、人を助け、人のこれまでの仕事を奪うでしょう。人の仕事として残るのは、自由意思を尊重して、判断して関わること、トップとボトムくらいのようです。

 

Q.AIは、音楽の創作もできますか。

A.すでにシンフォビア(SYMPHOBIA)の奏でる音楽は、本物そっくりと言われます。ディビッド・コープのEMIは、特定の作曲家ふうに曲づくりをします。

 

Q.音声入力があれば、キー入力は不要になりますか。

A.iPhoneSiriは、2011年秋、英仏独語、20123月に日本語版がでました。これまでのViaVoiceAmiVoiceとは、格段の違いがあります。事前の訓練もいらないのです。

 ただし、音声入力は、周りに人がいるときなど使いにくいのが欠点です。いずれ、骨振動の入力、喉の筋肉の動きを捉える技術(NASA)などが、使われるでしょう。

 脳波で入力できるようになるかもしれません。これはBCIブレイン・コンピュータ・インターフェイス、または、BMIはブレイン・マシン・インターフェイスと言われています。

 現に、EPOC(エモーティブ社)は、300ドルで、頭にかぶり16個の電極をつけ、簡単に脳波を扱えるように開発し、普及に拍車をかけました。

 

Q.AIの音声応答は、使われていますか。

A.ボットという人工知能ソフトウェアで、音声での応答をすることができます。

 コールセンターのなかには、電話の話し声から客のタイプを判別して、もっとも適切なオペレーターに回しているところがあります。それだけでも相当手間が省けるものでしょう。

 

Q.未来予測のオーソドックスな研究は何ですか。

A.1972年、ローマ・クラブの将来予測での「成長の限界」(MITメドウズほか)が有名です。(ロトカ=ヴォルテラの方程式が使われました)

 

○ロボットからAI

 

「ロボット」(1920年 カレル・チャベック)

AI」(1956年 ジョン・マッカーシー)

MOTOMAN1974年 産業ロボ 安川電機)

Eo1986年)PS1996年 ホンダ)

ルンバ(そうじロボット 2002年)

Sophia20154月)

Pepper20156月)、PALRO PARO 

そら楽(ドローン、ゴルフ場 2016年)

アルファ碁(20163月)1997年 ディープ・ブルー(チェス)、東ロボくん(受験)、ワトソン(クイズほか)

AIBO(ソニー)

ASIMO2011年 ホンダ3代目)

「教えてgoo」なども、AI使用

SiriGoogleNowCortana

NeoFace

 

(映画)

ヴィキ「アイロボット」「マトリックス」

スカイネット「ターミネーター」

 

(マンガ)

ハレルヤ「火の鳥」

「鉄腕アトム」「ドラえもん」「サイボーグ009

「ドラゴンボール」「攻殻機動隊」

 

関連記事をfukugenからあげておきます。

 

〇ことばと手話のAI化と平和

 

TEDで、ASLアメリカ手話を魅せる英語として演じたクリスティーンさんは、「音は、社会的通貨」と述べました。言葉を話してこそ、人は通じ合えるということです。しかし、手話があれば、理解し合えます。

 

私たちが、外国で外国語を理解できないとき、孤立化します。コミュニケーションがとれないと、そこで差別が生じます。しかし、通訳がいると対話ができ、理解し合えます。

 

ことばも手話もなんでも通じるようにAIが発達すると、それで、世界が平和になるということです。

 

〇通訳、翻訳は自動化に

 

多言語コミュニケーションサービス本格化。

ジャパンフィッターが2秒で自動翻訳

日英中韓 202010ヵ国対応予定

JTBとパナソニックのクラウド利用)

手荷物配送もラゲージフリートラベルで。

やがて、通訳、翻訳、ツアーガイドも淘汰の時代に。

 

〇パラリンピックに夢みる

 

パラ=パラレルは「もう一つ」のですが、もとはパラプレジア=対まひということでした。視覚障害や手足切断の人は、まひではないので、こう変わったのです。

 

足を切断したために、自由な長さの足をつけられるようになって、まわりにうらやまれたというモデルの人がいましたが、障害した人の働くことが驚かれた時代から、今や、技術の進歩もあり、障害が個性として強みになりつつあるのです。

 

そもそもカツラもメガネも整形も障害克服技術ですし、コンタクトレンズが望遠になったら、くらいに、身体のサイボーグ化は身近に進みつつあるのです。

 

パラリンピックがオリンピックの記録を塗り替えていくと廃止されかねないのでないか、と心配しつつも、両足50メートルの義足にしたら100メートル走は一歩とか、など、最近、私は、リハビリから競技になったパラリンピックに、余計な心配とともに、人類の夢を重ねて、見ております。

 

オリンピックで日本のメダルは最高の41、入賞は45でしたが、そろそろ国をはずしたいですね。日本などの大国は、選手村の外に完全ケアの施設を完備、金にものを言わせるようなメダルレースはおかしいのに、自国のことばかり考えるな、フェアにやろうよ、と思うのですね。欧米が仕切って日本がそこにのる、何処かで見たような。

 

1ヵ月まえ、867日とエチオピアでは、100人以上が政府の治安部隊に殺害されたとやら、で、マラソンでリレサ選手が抗議のポーズ。

 

夢とともに現実をしっかり、みたいものです。

論18.「声の強さ、耐性について」

Q.なぜ、ヴォイストレーナーの声は弱いのか。☆☆☆

 

〇ヴォイストレーナーの声は弱い?

 

最近、よく聞かれるようになった質問です。きっと、トレーナーは、声が強く大きいとか、太く深いと思って、会って幻滅したのかもしれません。しかし、ヴォイストレーナーというのは、必ずしも強い声を出せる人でも、強い声の出し方を教えることを専らとしている人ではありません。

 

ここは、ヴォイストレーナーに何を求めるのかで違ってくるでしょう。もちろん、全てをできるというトレーナーもいますが、そういう人に限って、大体は、全て薄めている、つまり、平均的にそこそこにできるということが多いでしょう。

 

私の研究所では、一人の受講生に複数のトレーナーがつく複数トレーナー制で行っています。これは、全ての問題に対応できる、あるいは、全てのタイプの人に対応できるトレーナーは、ハイレベルにおいてはどこにもいないと知っているからです。

 

〇海外のトレーナーと日本のトレーナー

 

万能なトレーナーなどは、アメリカやイタリアにもいません。そこで、すでに一流の歌手をみているトレーナーでも同じです。あなたがそうなりたくて、もしその人についても、なれません。 

これまで、たくさんの人が、一流をみているというトレーナーに学びに行ったのを私は知っています。そういうトレーナーの何人かとは面識もあります。しかし、日本人で、そうなれた人はみていません。

もちろん、歌手に限らず、認められるには声の力だけではないのですから、ヴォイトレの第一の目的の声でみるとします。でも、声の力こそ、全くついていないケースが多いのです。

 

海外のトレーナーと歌手の例から切り出しました。それは、大体において、現在、日本で歌手を教えている人は、他の国のヴォイストレーナーより声が出ない、弱い点で特異だからです。また、日本の歌手も役者も同様に、声は弱いのです。

そこで、プロの歌手、役者が自分を見本として教えると似たことが起きるのは、当然のことです。

 

それ以前に、そういう人たちは、声が強くなくてはいけないと思ってはいません。ポップスにはマイクがありますから、歌を上手く歌うことと、声の強さ、大きさは関係ないと思っています。または、本人はそうではないタイプなのでスルーしているのです。

もって生まれた声で、そのままでよいと思い、声の強さを求められなかった、求めても得られなかった、得ることをしてこなかったのです。簡単に言うなら、声を強くするトレーニングをしてこなかったし、その必要性も感じていなかったのです。

逆にいうと、それで人並み以上のことができ、認められてきたのです。つまり、高い声、細い声、きれいな声を求め、あるいは、すでにもっている声、質がよく、恵まれたタイプか、高音域優先タイプが、日本のトレーナーには多いのです。

 

〇ヴォイスコントロールとヴォイストレーニング

 

ですから、プロの歌手やトレーナーで普通の人よりも大きな声が出ない人はたくさんいます。そういう人は、声は鍛えるものでない、その人に合ったしぜんがよい、と考えています。そうなると、どこが声のトレーニングなのかと、私なぞは思うのです。

そこで伝えられているのは、ヴォイトレでなくヴォイスコントロールであると、私は、二つに分けてきました。

 

今の日本の歌の現状から、そういう方向に特化したヴォイストレーナーや声楽家を紹介することもあります。私の研究所には、かつて、声の弱いトレーナーも何人かいました。が、今は、一般の人よりも声が弱いというトレーナーはいません。ここには、あらゆる分野のプロの人もくるので、声が弱いのでは、などと疑問をもたれてはやっていけない厳しさがあるからです。

 

要は、いろんなタイプ、専門のトレーナーがいるので、そこをきちんと知ることです。ご自分のトレーナーに、どこが専門、強いのかを聞くのもよいと思います。それがわからないのなら、私があなたをみて勧めるトレーナーから始めるとよいと思います。

論17.「「まね」で教えること」

○客観化する

 

 自分が一人で行うことと、レッスンのようにトレーナーと二人で行うことは違います。私は、一人と二人とは絶対的に違うと思っています。何十人ものレッスンでも、私は、11の複数形でみて1対多とはみていませんから、二人以上なら何人いても同じかもしれません。

 ですから、自主トレの結果を問うレッスンが大切だと思うのです。よいレッスンは、声が行き来するもの、声が働きかけるものです。トレーナーから教えるのでなく、生徒が声で問うのにトレーナーが応じているようなものです。

 「トレーナー対生徒」の11のところへ、私がそのセッティングみる形をとると「1対(11)」となります。トレーナー二人のレッスンを比べることで、もっと客観視できます。たくさんの個人レッスンを受けるのは、平行ですが、それを統括してみる私がいることで、重層的になるのです。これがとても大切なことです。そのトレーナーと生徒、二人の働きが、より客観的に判断できます。さらに、生徒1人に2人のトレーナーをつけると、1対[(11)(11)]となります。

 昔は、マンツーマンのレッスンを次の番の生徒さんに見学させることで効果を上げているレッスン体制がよくありました。距離をおいてみていると、聞く力もつきます。

 私はステージやCDを自分だけが聞くのでなく、すぐれた生徒やトレーナー、すぐれた観客が聞くのを、その外からみて、つまり、一番後ろからみて、より多くを学びました。秀でたトレーナーや生徒が作品をどう感じるかを知ることで、自らの評価を客観化するように努めてきたわけです。

 

○まねの盲点☆

 

 研究所では、一人の生徒さんに複数のトレーナーをつけています。その分、客観視しやすくなります。

 トレーナーが信頼されると、よい面もたくさんありますが、そうでない面では、トレーナーのくせが入ります。それゆえ、23人のトレーナーにつく方が、もっともよいと自分が思うトレーナーだけにつくよりもよいと思うのです。

 一人のアーティストや一人の役者だけから学ぶと、知らないうちに必ずまねになってしまうと警告しています。これまでに、教えている先生にそっくりな芸風になった生徒さんたちを、他のスクールでたくさんみてきました。

 先生が歌手なら、なおさらその感性が大きく影響します。多くの人は、プロ歌手ほど才能や強い個性があるわけでないから、そこにいると、その影響下にどっぷりと置かれます。喋り方や言うこと、立ち居振る舞いから考え方まで似てしまうのです。そこに出入りする関係者も、先生を評価する人の集まりだから、なおさらそうなります。これは、北島ファミリーの例で以前、説明しました。それも一つの学び方であり、特に日本では徹底してそういう伝え方でした。

 これが有利な点は、形だけは早くできることです。人前に早く出せるのです。そうであるほど後で不利な点に化してしまうのが、怖いところです。自力で出ているのでは、ないからです。まねを外そうにも外せないし、外したら形もなくなるのです。他の芸なら、それを踏まえて次に進めることもあります。しかし、声や歌はそうはいかないからです。個人の体、さらに個人の喉、そこは他人の入り込めない壁があります。なのに、その区別が本人にもまわりにもつきにくいからです。

 

○育つ

 

 教え方がわかりやすく、やさしいトレーナーにありがちですが、いつも自分よりできない人だけを相手にしていると、どうなるでしょう。そのトレーナーの力を5としてみると、半分の2.5の力くらいにまでしか育てられなくなっています。

そういうトレーナーは、自分の力を示すのに、未熟な相手が出せない高音やファルセットなど、わかりやすいことをやって見せます。それが獲得すべき目的であり、技術のようにみせるのです。「私はできるが、あなたはできない」というギャップを示します。そして、自分のまねをさせて、まねができるようになることを目的とします。おのずと器用にまねられることが優れているという評価になります。ロングトーン、ビブラート、ボリュームなどを見せる人もいれば、昔の作曲家のトレーナーのように、歌や伴奏のうまさを見せる人もいます。でも、どれもヴォイトレの本質ではありません。

 自分より有名であったり活躍していたり、違う面でプロである人を相手にしていると、トレーナーの力が5しかなくても相手が10に育つことがあります。学ぶポイントを本人自身でつかみ、何事もできるようにする方が大切です。

 

○勢い☆

 

 年をとり衰えていくと、それを隠すための飾り方、いわば、声や振りの使い方、みせ方がうまくなります。それも芸であり、文化たるものと思うのです。

 しかし、若いうちはパワー、勢い、威力がベースです。エネルギーをムダに使えばよいのです。過剰な放出こそがインパクトとして唯一、アピール力となります。

昨日の自分との競争などは、衰えてきたらでよいのです。最初は、周りに勝とう、より秀でよう、からでよいと思うのです。

 トレーナー業は、そうはいきませんから、そうでないことを教えることになりがちです。それが、トレーナーにつくときにもっとも注意することです。多くの人には、まとめるのでなく、力を出すことが第一の課題だからです。

 

○秘訣★

 

 「特別な教えはありますか」「何回くらい通うとコツを伝授してくれるのですか」

 初日、初回でも必要なら、私はすべてを示しています。私のトレーニングの基本は一声の「ハイ」「アー」で示せます。それがそっくりできたら、初日に卒業です。何ら隠していません。わかりやすいでしょう。

 難しいことなどは学んでも、身にならないものです。ステージは難しいことをできることをアピールする場ではありません。難しく思わせないほどにこなせていてこそ、客も楽しめます。

大切なのは自分を知ることです。自分の声を知るのには時間がかかるのです。

 私よりもよい声の人、高い声、低い声の人、長く伸ばせる人、個性的な声の人など、いくらでもいます。ここのトレーナーも私よりすぐれた声の技術をたくさんもっています。歌のうまいトレーナー、ピアノのうまいトレーナー、せりふのうまいトレーナー、だから、皆で運営しているのです。

しかし、他の人と比べても仕方ないのです。「私はこれができる」「あなたは何ができる」「私と同じことができる」ということではなく、「他の人のできない何ができるのか」ということを問うのです。

 私のできないことをできてしまう人はたくさんいます。ですが、ここのトレーナー全員のことが一人でできるような人は、日本人なら、ほとんどいないと思います。それが総合力としての研究所の体制のもつ力なのです。

 

○プロの能力

 

 問われるのは、できる、できないではなく、できることでどこまでできるか、ということです。私は、歌手も役者も声優もアナウンサーもお笑い芸人、噺家もできません。では、できるとは、どういうことなのでしょう。それは実際、結果で問うしかありません。

 一つの基準は、「それで食べている」ということです。プロよりうまい素人もいるのです。資格のない職では、区別できないものです。何十年も前のヒット曲での知名度であろうと、印税やタレント活動であろうと、それで食べている人は、プロなのです。

 プロとして考えるなら、できるに対してできないというのは、それで食べていないということです。歌手といっても、自称歌手を含めたらカラオケに毎日のように行っている人は、たくさんいるでしょう。プロとして稼いでいても、歌や芝居だけで生計の立つ人は少ないでしょう。作詞作曲の印税は、歌い手とは別の職とも思います。あくまでヴォイトレからみてのことです。シンガーソングライターは、声も含めた総合力ということになります。

 プロとは、人生でそれを選び、あるいは選ばされ、それで生きてきている人といえます。歌手出身の、アナウンサー出身のヴォイストレーナーというならわかりやすいですが、それは、むしろ本職でうまくいかない人も多いのですから、できていても売れない、でもプロの世界では、それはできていないとなるわけです。

 ですから、ヒット曲や出演機会もないトレーナーが、プロの歌手やプロの役者とその分野で張り合ってもどうしようもないことです。トレーナーは、声をみて判断し、トレーニングすることのプロであるべきです。トレーナーとして声がよいとか、カラオケがうまいのは、そうでないよりはよいだけで、本質的なことではありません。それで実力を問いたいということなら、役者や歌手をやればよいのです。なぜ、それで通用しないか、自らを知ったトレーナーでないと、プロをみたり育てたりはできません。

 

○トレーナーの業

 

 私ごときが声のトレーナーをやっている、なら、「自分ならもっとできる」で、アーティスト志願者がトレーナーに転向したなら、それは、よくも悪くも、失敗です。反面教師としても、私の影響下に入りすぎだと思います。それで人生が変わったというのは、必ずしも喜べません。なぜなら、好きなことの周辺で食べられる数少ない職とヴォイトレを考えてしまったと思うからです。

 私は、ライフワークとして、自らの心身のためと後進のために、声の研究のための研究所をつくっていました。アーティストや社会人としての勝負もしないうちから、トレーナーとして先生になって欲しいとは思わないのです。

 世界への人材が出ていない日本で、私は、アーティストの踏み台になるつもりではあったのですが、トレーナーの踏み台にもならなくてはいけないようでは、困惑します。「トレーナーの選び方」を、トレーナー向けに述べているのは、その責任もあってのつもりです。

 

○よいと思うことを疑う

 

 「昔がよかった」という自分が、まともだとは思ってはなりません。自分たちがよいと思うよう行動していて、時代がよくなっていっていないというのなら、自分の「よいと思うこと」を疑うところから始めるべきです。

大人はバカだといって、大人になってみると、バカになっているものなのです。それに気づいているのといないのとは、天地ほどの違いがあります。私が語るにあたり気をつけているのは、次の2つの事実です。

 

1.海外の外国人の声、歌唱のレベルは総じて高い。

2.今の日本のレベル、日本人の歌唱力、声の力は向上していないどころか低下している。(平均レベルはカラオケレベルで上がっても、トップレベルは下がっている)