「精神的な履歴とレッスン」 Vol.248
今、私の半生と研究所の歩みの視点から新刊を書きあげたところです。
さて、「その人が怪我した体をどの程度なら酷使していいと感じるかは恐らく主治医も推測できないであろう。(中略)…患者の、精神的な履歴など知りようもないからだ。だから、リハビリの程度一つでも、患者当人が判断しなくてはならないものかもしれない」[曽野綾子さんの文章]を読んで、怪我した体でも確かにそうだと改めて思ったところです。
それなりの修羅場を通り抜けてこそ、自分にとっての最もすぐれた判断をなせる直感が磨かれ、自信をもって実行する勇気と行動力をも伴うものです。私は、その結果の是非などないのだと思います。自分の人生を自分の心身で生きるのですから。
となると、専門家を本当に活かせるのは、自分の心身の履歴と合わせて再構築していくプロセスにおいて、といえましょう。体の治療の専門家の医師であってさえ、自分の精神的な履歴を知らないゆえ、怪我の回復もまた自分の判断が優先するとするなら、表現の自己表現である発声のプロセスや成果などにおいて、もはや、全てが、本人の資質や経験からの判断、取り入れ、取り出しになるものというしかないでしょう。
トレーナーの指導で混乱したり、迷っている人はよく考えてほしいのです。大切なのは勘や感性ですが、こればかりは本人が性根を据えるしかない、どこかで修羅場を通らなくてはならないのではないかと。レッスンやトレーニングがそういうものとなればよいのですが。もっとも、別の経験からのほうが活かしやすいようにも思います。スポーツや武道あるいは厳しい仕事の経験の方が何かが身についていくプロセスというのが、わかりやすいのは確かでしょう。そこに照らし合わせつつ、舞台や人間との関係で大いに修羅場を得てほしいものです。(もちろん、トレーナーとしては助言も的確さを向上させていく努力を怠ってはなりませんが。)
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