○「伝える声」を「伝わる声」にしたアナウンサー NO.249
○「伝える声」を「伝わる声」にしたアナウンサー
アナウンサーの方々とは、長いつきあいがあります。私のところにいらっしゃるアナウンサーにも、二通りいます。
一つは、現役のあと、朗読など他の分野に挑戦したい人、もう一つは、現役バリバリで、お笑いやパーソナリティとしての力を兼ねたい人、その中には、フリーや独立を目指す人もいます。
話のプロ、アナウンサーなのに、なぜヴォイトレに来るのかと思いませんか。
私は、アナウンサーの声を必しもよい声とは思いません。もちろん、ベテランとなると、それなりに大した声です。たとえば、松平定知アナウンサーや加賀美幸子さんあたりになると、その人の個性が声に出て、魅力的なものになっています。
しかし、若手の報道や司会のアナウンサーは、話し方の形が決まっています。なぜなら、全国津々浦々に、正しくことばでその内容を伝えるのが、彼らの本業だからです。つまり、アナウンサーは、発音、滑舌、高低アクセント、イントネーション、そして、共通語に関するプロ、そして報道、伝達のプロといえます。
たとえば、発音本位に考えると、母音アイウエオは、それぞれ区別した方がよいので、普通の人よりも際だって、異なる発音をします。その方が明瞭だからです。そのために日常からやや離れた、くっきりと聞きやすい人工的な言語となります(ちなみに劇団四季の目指すような日本語も、これに類します)。
発音とは調音、構音のことであり、音を構じさせるのです。一音を他の音と区別しないと、曖昧もことなります。
しかし、共通語というのは、東京のことばそのものではないのです。
これをやや深読みすると、私たちのふつうの日本語が音声としては、初期の放送に耐えなかったのかもしれません。当時は、アナウンサーや役者は、大きな声、エラの張ったあごのしっかりした人がよかったといわれます。当時は音響が悪かったため、そういう人の方が、マイクに声が集まりやすかったからです。それに対し、役者はトタン屋根の体育館で雨音の中などという悪循環で、遠くまで声が聞こえるためには、地声の強さが求められたのです。
本来、日本語は、少し高めに発した方が、発音がわかりやすいのです。しかし、小宮悦子さんはキャスターを引き受けるにあたり、声を低くしたそうです。それは、信頼や説得力を増すためだったといいます。同じことを、私はイギリスを再建したサッチャー首相について、聞いたことがあります。
○お笑い芸人と声
今の若いTVタレントが、映像がフルハイビジョンとなり、小顔がもてはやされるようになったのは対照的です。今のしょうゆ顔で、声も細くなってきた若者へのトレーニングは、けっこう多くの問題を抱えているのです。あごが小さく、噛む力も弱く、多くは顎関節症です。
でも、お笑いのM1グランプリあたりでも決勝進出レベルにくる芸人さんは、声がありますね。
テレビ番組「レッドカーペット」などでよく見られたお笑い芸人と、そのネタ声(肝心の声は、伝えられないのですが)をとりあげてみます。
U字工事「かしこ かしこまりました」
ハム(諸見里大介)のしゃくれ、サ行が「しゃししゅしぇしょ」になります。
我が家(坪倉由幸)「いわせねーよ!」
ダブルタッチ(西井隆詞)「お前、ナニャッテル」「~たり、ラジバンダリ!」
ゆってい「わかちこ!わかちこ!」
はんにゃ(金田哲)「~ねえし!」
マシンガンズ「(女って)めんどくせえ」
響(長友光弘=みつこ)「どーもすみませんでした!」
もう中学生「~だねえ!だよ!」
ものいい(吉田サラダ)「ちがうか!」
渡辺直美 ビヨンセなりきりエアヴォーカル
ななめ45℃(岡安竜介)駅(車掌)ネタ
どきどきキャンプ(岸学)ジャックパウアーのものまね
ハイキングウォーキング(鈴木Q太郎)「ごめんねーごめんねー」
天津木村 エロ詩吟
いがわかり蚊 チェンバル語
THE GEESE いい声110番
キングオブコメディ「~みたいな!」「~的な!」
オードリー(春日俊彰)「トゥース!」
Wエンジン「惚れてまうやろ!」
麒麟川島の低音「キリンです」
スピードワゴン(井戸田潤)「アマーイ」
いかがでしょう。どれも、個性豊かな声ですね。
○目でみるもの、みえないもの
スポーツなども日本人は、海外の一流のコーチや選手を入れると比較的、早期に追いつき、トップレベルの成績をあげることもしばしばです。野球は、ベースボールに追いつき、サッカーもワールドカップで予選を突破できるレベルになりました。なでしこジャパンは何と世界一になりました。バレエや
耳についても、これまでの日本人の指揮者やピアニスト、バイオリニストの活躍をみれば、異文化というハンディキャップをみると、誇れるべき成果がみられます。
唯一、そこまでの成果があがらないのは、オペラ歌手やポップスのヴォーカリストではないでしょうか。もちろん、邦楽でのハイレベルの芸はありますが、日本人が未だに世界レベルになるに至らないものとして、歌手や役者があります。役者はちらほら評価されていますが、それなら、役者は長谷川雪洲、オペラには藤原義江など、昭和の頃までの方が大スターがいました。
三代はかかるといわれたバレリーナでさえ、ダンスでもモータウン・アポロでも上位にいく人が出ましたが、歌は相変わらずです。
話を戻して、つまり、日本人には、日常の中で、あるいは初等教育の中で、あまりに音声表現の必要が問われず、著しく低いレベルのままであるということです。物言わぬがよしとされた日本ですから。むしろ、寺子屋時代から昭和までの方が、しっかりと声をつかんでいたかもしれません。日本人の声の力の最盛期は、ときの声をあげ、名乗りをあげていた戦国時代の武将たちだったかもしれません。巷をみても声を使ってきたのは、漁師など、あとは庶民の祭りのなかではないでしょうか。
○音声に苦労する日本人
私はこれを日本語の音声面の単純さと使い方にも起因すると考えています。
日本の若者は、成人になる洗礼を受けないので、ことば遣いということでは、苦労しています。
日本語には、自称、他称などにさまざまな言い方がある以上に、敬語という特別な用法があります。今の若い人は、体育会系の部活動などをやっていなければ、バイトをするなかで、はじめて大きな声で挨拶をする必要性にせまられます。
声がうまく出ないから、メンタル面で参ってしまう人もいます。ここのところ、メールでのコミュニケーションが中心になったため、さらに対面した相手との声でのコミュニケーションスキルは、低下しています。これらは、音声コミュニケーションの問題です。
ただ、日本では、内容が音声になれば、伝えなくても伝わるというくらいの甘えで、大して深まってはいません。そうであるからこそ、カラオケや自動音声装置などが、日本では発展してどこにでも使われるようになったのでしょう。
駅のホーム、車内アナウンスから自動販売機までにみられる、不必要な音声の垂れ流しは、過保護を求める日本人の甘えと相まって、外国人には驚くほどの無神経な騒音となっています。
音声文化を大切にしていたら、ここまでぞんざいな声の氾濫はないはずです。