○判断力と再現力
○判断力と再現力
A1、「ハイ」を10回いって、その中の一番よい「ハイ」を選ぶ(判断力)。
A2、選べなければ選べるようにする力をつけていく
B1、そしてその「ハイ」を10回いう。いえなければいえるようにする(再現力)。さらに次のステップとして、
B2、「ハイ」のなかで一番よい「ハイ」を選ぶ。
A3---、B3---以下繰り返しで…。
これは、私のメニュのなかの最も基礎のチェックです。それとともに、これで私のヴォイトレのすべてといってもかまいません。これに伴う考え方としては、次の2つです。
1、 今のなかで、もっともよい「ハイ」をよりよくしていく。
2、 今のなかで、そうではない「ハイ」を今のもっともよい「ハイ」にそろえていく。
このもっともよいは、今のなかで、ですから、多くの人には、もっともよいといっても、その人のなかでは、という私からみるとましな「ハイ」に過ぎません。
「ハイ」を使う理由などは、拙書で述べています。(詳しい説明は「基本講座」を参考にしてください)
これを、グレードのようにランキングしてみますと、「ハイ」=Hとして、10個のHのうちの1つが勝ち抜き、レベルが1つあがる、以下、同じように、それを10個繰り返し、そのまた10個のHのうち1つを選んでいく。もちろん、もっと下位から始める人もいるでしょう。すべては例えですから、「ハイ」や10個というのは、考え方であり、現実的にはそれぞれを母音、子音、ハミングなどで、発声練習で行っているわけです。
レベルA H(1つの「ハイ」)
レベルB HHHHHHHHHHHHH(10の「ハイ」)
レベルC HHHHHHHHHHHHHHH…(100の「ハイ」)
レベルD HHHHHHHHHHHHHHHHH…(1000の「ハイ」)
こんがらがっているであろう人のために、バッティングのフォームづくりにたとえて、フォローしておきます。今、バット(竹刀でもよいです)を持って10回振ってみてください。そして、そのなかでどれがもっともよかったか、直観的に選んでください。何となく1つか2つを選べるはずです。でも、それらを素人である私の実力なら、次にそれと同じスイングだけを10回くり返すことができません。どこかの野球部員なら、きっと私よりもそろったレベルからでスタートするでしょう。大ざっぱにいうと、これはスイングの違いが何センチメートルくらいの幅で認識できるのか(判断力)、また、実際に調整できるか(再現力)の2つの能力の差となります。イチローなら、その差はミリ単位以下なのでしょうね。ボールを投げる側で例えてもいいですね。距離、スピード、コントロール力、今はスピードマシンで測れるからわかりやすいでしょう。
人それぞれ、スタートのレベルが違います。でも、2、3ケ月たつと、その人なりに少しは調整できるようになってきます。少しコツがわかるのです。そういう判断力や修正力がどのくらいあるのか、またどのくらいついてくるのかが、その後の伸びの違いとなります。それはスタートのレベルの違いよりも大切なものです。
トレーナーは、ある次元までは、本人よりもはるかに正しく選べます。声は判断しにくいものだから、その指示に従えば、修正への歩みを効果的に進めていけるでしょう。少なくとも本人よりも客観的に聞くことができるのですから。その客観性での限界があること、高い次元では、特に表現性に伴って磨かれた本人の感覚が逆転するようにしていくべきであることは、ここでは直観として知っておいてください。☆
○「できていない」とわかること
トレーナーがつくのは、
1、 「どれが正しくて、どうそれを合せて修正するのかを教える」
ためと思われていますが
2、「どのように判断するのかを伝え、その判断を満たすように、方法を試行錯誤させ、本人につかませる」
ことが本当は大切なのです。
でもあまりにできないときは、つい、「こういうふうに」と教えてしまうことになります。正しい答えを知らせても、その解き方を学び、自分で実感できなければ、本当は何も変わりませんね。
最初はなんとなく「できていない」と思うだけで「何が」「どう」「できていない」のかが、わからないのです。
でもここにいらっしゃると、よくわかっていないことがよくわかっていくから、一人で行うよりも、長い目でみるとずっとよいことなのです。
「大きな声が出ていない」とか「のどでなく、お腹から声を出せ」と周りに言われて、やむなくレッスンを受けにくる人も少なくありません。「やっているうちにできてくるから」と言われるのでしょう。そのように指摘されても、「どうすれば大きな声が出るか」、「どうすればお腹から声が出るか」は具体的に示されないから、困っていらっしゃるのです。
本人が「やっていないなら、やる」のが先です。やればよい。それで解決しないから、ここにいらっしゃる。それでいいのです。これは、「必要性に応じて、人が場を求めて、次のステップに進める」ということの一例です。
「やっているのに、やれていない」というのを判断する(本人よりトレーナーが厳しいこと)のがレッスンであり、その実現を目指し、具体的に進めていくのがトレーニングです。
○体での習得を知る
スポーツや武道を経験したことのない人には、あるいは頭でっかちだと自覚できている人は今からでも簡単なスポーツを試して欲しいと思います。そういう自覚できていない人こそ行って欲しいのです。そこで頭とか体とかイメージとか、それらの関係をつかみ直してほしいのです。それを声だけで行うのは、案外と難しいことだからです。
結果が出るというのが、どういうことかを体で経験してもらいたいのです。さらに、よいフォームをみてチェックしてもらうのです。コーチ付きならもっとよいでしょう。自分の感覚や体のズレとその修正法、そしてその結果として構造的に捉えてほしいのです。
ゴルフ、バッティングは練習場があり手軽ですね。バスケットやテニス、弓道、アーチェリー、ボーリングなどもよいでしょう。ダーツ、卓球、ビリヤードは、少しわかりにくいかもしれません。それでもいかに自分の頭と体がうまく動かないのかを知るだけでもよいでしょう。
全く同じスイングが10回できるということだけをつめていけば、それには確固たるフォームが必要であり、体力、筋力、集中力など、それを支えるものも補強したほうがよいことがわかってきます。さらに実践、表現=試合で確実に実現するとなると、確実にフォームにのっとりつつ、それを臨機応変、変化自在に動かせる応用力が必要になります。モチベーションやリラックスできる力も必要です。
つまり、トータルとしての柔軟な対応力がステージや仕事には必要です。それがないと、なかなか続けられないのです。
だからといって、こうした応用ばかりでやっていては基礎が狂っていき、応用ができなくなります。柔軟性や対応力が劣ってくるのです。それは基礎的なことを固めない、あるいは固めたとしても、それを維持することを継続していないからです。
○仕事で固定化を強いられる
ここで重要なことを述べます。同じことをくり返すことで固定させられるような技術ができてきて安定度をますにつれ、失敗は少なくなります。でも同時に新鮮味や面白み、凄さは欠けます。いつの間にか、最高のレベルを目指すべきトレーニングが、安定だけを、リスクをなくすことだけを求めるように、知らずに置き換わってしまうのです。アーティスティックなことが仕事になると、そうならざるをえないのです。そこで伸びは止まります。これは子供という天才が、大人という凡才になっていくプロセスと似ています。
だからこそ、いつもそれをこわすためにトレーニングをしなくてはいけないのです。
一人では難しいので、レッスンがあるのです。しかし、自分で壊して創れるのは、人に教えられたままに、でなく、自分で気づいて、すべてを、たえずゼロに戻って試行錯誤して自分をみつけ、伸ばしてきた人だけです。つまり、独自の自分の世界、オリジナリティのある人だけなのです。
それに対して日本でよく行われているパターンは次のようなものです。
レッスンで正しい方法を教えてくれる。
それと違う方法は間違いだと考える。
その正しい方法で調整して、1,2割よくなる。
その方法を技術(テクニック)と思い、習得して固める。
これで固めて2,3年の進歩で止まる。
まさに、頭でっかちなレッスン生や若いトレーナーの求める形がここにあるのです。
このあたりの人は、とにかく他の方法や理論に批判的です。他の否定において自らが肯定できるわけではないのですが、そう思う人が、教える人によくみられます。ひどいときには、「どの先生が正しいの!」となり、「この先生が一番正しい」、「他の先生が劣っている、間違っている」とさえ思い込むようになります。
そういうことは誰もが陥りやすいことなので、私は、2,3年そういう時期があってもよいと思います。そうして一所懸命やったことは、必ず次のステップになるからです。たとえ、次のトレーナーと方向や判断が異なっていても、極端な話、正反対であってもです。
それを方法だけでみるから対立するのです。あなたへのアプローチに、なぜそういう方法がとられたのかから考える、あるいは知ってみる努力は怠らないようにしたいものです。
本人の演奏という実践に秀でたトレーナーも、初心者の指導に秀でたトレーナーなど、いろいろなタイプがいます。それが見えなくなる時期は、他人でなく、自分をみようとして、一所懸命やるとよいと思うのです。
大切なのは、その自分を突き放して、次に進むステップを予知しておくことです。その時期その時期に、あなたに必要なトレーナーもいるし、あなたに必要な判断や方法もあると思ってください。
すぐれた人は、方法を生涯にわたり変えていきます。方法はツールにすぎないからです。
若いトレーナーとともに行なってると、トレーナーには、自分の直感を磨き、その力を伝えることの必要を感じます。生徒自身が再現できるようになることです。本人が考えたり、疑ったりしても、壁があっても、そこを突き進む力を与えることだと思うのです。
○自然に伝わるとは
頭から入る人もいます。体から入る人もいます。いろんな学び方があります。表現から入る人もいます。声や体から入る人もいます。いろんなプロセスがあります。
声や歌がよくても、そこで表現にならなければ、そこで学ぶことが必要です。表現がよくなるには声の力もいります。自然に、力を入れなくても伝わるくらいで、声が働きかければ、さらによいと思ってください。
そのためにトレーニングし、声を使い切って伸ばしてほしいと思っています。
自然にうまくいっているのが一番よいです。トレーニングでもレッスンでも、それを補うものです。一人で自然とできていたら一番よいです。そういう人はとても少ないから、すぐれるために人について学ぶのです。レッスンやトレーニングをするのです。
その逆となってはなりません。レッスンやトレーニングは補強にすぎません。気づいて変えるための時空です。ですから私はレッスンでは、声だけでなく、このようなことばの働きも重視します。感覚が磨かれるからです。本質をみるには、ただ練習をくり返すだけでは足らないからです。
ただ私は、これをカラオケ教室のスタイルということでは、肯定しているのです。他の方法も否定しません。それなりに実践が伴ってニーズがはっきりしており、そこへいるからです。
しかし、こういう関係については、ヴォイトレにおいては定義や関係性があいまいなので、ほとんどの人はつかんでいません。ですから、いつもここで本番への調整と本来のトレーニングの違いとを、繰り返し述べているのです。
○積み重ねても固めないこと
以前は、カラオケ教室や歌唱教室で、音程やリズムトレーニングをやっていました。うまい人はどちらにも行きませんでした。へたな人は、習って少しうまくなりましたが、アマチュアのうまい人並みにもいかない人が大半でした。なぜでしょうか。それは結果を早く求められるために、固めることを上達法だと思ったからです。
バッティングセンターでは、慣れない人(特に女性など)が、バットにボールをあてようとして、あたって前にはねかえったら喜んでいます。それをくり返しているうちにあたるようになってきます。しかし、どのくらい打てるようになるでしょうか。「バットにボールをあてる」のと「ボールにバットをあてる」のは違います。あたるのではなく、あてなくてはいけないですね。これは似ているようで全く逆のことです。笑わせることと笑われることくらい異なります。
まずは腰中心の素振りをマスターした方がよいですね。コーチが子供に教えるときはそうしています。ヒットを打つのと、バットにボールをあてるのは目的が違います。必要とされる条件も違います。ですから、そこを変えないと大した上達は望めません。
なのに、まずはバットにボールをあてることが先決だと、バント練習ならありかもしれませんが、それが一歩だといっているのが、今のヴォイトレかもしれません。早く楽しむための一手段として考えるとそうなります。
ここもややこしいことです。そこにいる客を満足させるところで判断されるライブと、客を超えるべき一流の作品というものを、どのように考えるかにもよるでしょう。
高校生や野球部員、ノンプロのレベルの打者でも、バッティングセンターなら100発100中、ジャストミートします。まわりでみてはいる人驚くでしょう。でもプロとはレベルが違うのです。
客商売である舞台は、客のレベルに左右されてしまいがちです。そこで自ずと至高の表現よりも確実安全なものを求めるのは当然のことでしょう。素振りをしたところからトレーニングの一歩が始まります。その前に、柔軟から体づくり、筋トレがあるものでしょう。
ですから、「まず楽しみましょう」という役者やトレーナーの行うヴォイトレのワークショップなどは、きっかけとしてはよいと思いますが、トレーニングとは思えません。体験する機会として行われていることはよいことです。私でも似たことを導入として行ったことがあるからです。しかし、そのままトレーニングに結びつけられないのが致命的な欠陥です。
本来の上達とは、バッティングセンターでも100回振るのではなく、いいフォームを100回みて、1回振る、イメージ通りに一回振るために、バッティングセンターの外で、素振りを100回振る、その筋トレをする、ということだと思うのです。
声や歌も同じように考えてよいと思うのです。何回も歌い込むのが大切なのは、表現でのオリジナルのフレージングのレベルで仕上げです。基礎は、何回も聞き込むこと、100回聴いて全身全霊で1回行うのです。そのために別にヴォイトレの時間をとっておくことです。
量だけでも、質だけでも足りないものですが、このようなことが時間、量をかけることで質とつながることを区分しておいた方がよいということです。この辺りを、レッスンと自主トレの関係に私は考えています。
ですから家では、よくわからなくなっても思う通りにやりたいだけやればいいのです。それに指導や方向づけを与えるのは、本来は一流のアーティストやその作品からの天啓です。その代りとして、トレーナーが部分的、ある時期、関わっていると考えてください。
○自分と体での判断
ですからトレーナーの言うことや本の理論に振り回されるなどということは、本末転倒です。
最初に述べたことですが、情報量が少ないために、それを中途半端に増やしていくことを学んだと思うこと、そのために決めつけたり、混乱したりするくらいなら、「情報をマックスにして判断不能にしてしまえばいい」、というので、この連載をしています。もう一つは、本人の資質もいるので、必ずしもお勧めはできませんが、「すべての情報を切って体で動くこと」ということです。
「ハイ」でもスイングでも「先生どれが一番いいですか」でも、聞く前に、自分で本当に見分けがつかないのか、選べないのか、とことん試してみればよいのです。
体というのは頭の中身よりもずっと正しくて、すごく精巧なメカニズムで動いています。少しでも狂ったら死んでしまうくらいにあなたの体は正確無比に働き続けているから、生きているのです。そこを信頼すればよい。
ただ、そのためにあなたの声も歌も、あなたが否定しているとするなら、よりすぐれた一流モデルをイメージとしてインプットして、そこから正すこと、それが唯一の王道だと述べてきました。そしてトレーナーがそれを左右する存在であってはいけないのです。
でも、何かを教えたり、アドバイスすることは有益であるほどに邪魔をするのですね。薬と同じです。ですから、たくさんの薬はいけません。中途半端に他の本や他のアドバイス、レッスンを受けても混乱してよくないからです。
そのグレーゾーンのレベルで、私は多くの人に悩むなと言っているのです。悩むと、ものの見え方がネガティブになり、行動が後ろ向きになります。他からレッスンを移ってくる人の半分はそういう状態なので、よくわかります。移ることで問題は解決しないのですが、トレーナーを移るという行動でポジティブになるなら、それも一つのアプローチです。
なぜ、そんなに何かを知ることで変わると思うのでしょうか。
体が正確に動いている限り、大きく変わるのはハイリスクなことです。
日常は安定しているから日常でありえるのです。そうでなければ非日常です。ですから、歌手や役者は虚構の世界にいて、非日常的存在です。それでありつつ、そこでの本質を日常化していくことで、プロとして一流としてのキャリアを積んでいきます。
デビューのときには緊張してあがっているのに、慣れてくると落ち着くのと同じことです。でもより高いレベルへ挑むと、また緊張するはずです。そのうち、場や相手に左右されずに、まわりに左右されずにできるようになります。舞台が日常化したのです。そこから次に各々の世界を作るべく、自立した個として、イマジネーションとの格闘になってきます。
○その人らしい声や歌
声、ことば、歌というものは、日常のところから帰る必要があります。でも日常ゆえに不自然にできません。そこでトレーニングします。日常を変えるのは、トレーニングという必要悪において可能なのです。
しかし、特に日本の場合、歌やせりふが必ずしも、その人の日常の延長に求められるものでないのですね。むしろ、別に形づくられ、そこから判断されたりするのでややこしいです。
私はヴォイトレで、その人の声、歌もその人の歌の復権を意図してきました。業界の求めるものでなく、本当の意味でのその人らしさです。この「らしい」さえも、日本では形だけのものになりつつあります。
そこがもっともよくわかる例の一つは、ミュージカルの歌です。ブロードウェイと比べてみましょう。あるいは本場のゴスペルと日本のもの、合唱団などとでもよいでしょう。
日本の声の表現での二重性(ダブルバインド)については、これまでにも、詳しく述べてきましたから省きますが、それをプロデューサーや演出家はもちろんのこと、トレーナーも、助長してきたことも否めません。
あこがれの歌い手のような声と、その歌い方で歌いたいのは、誰もが同じでしょう。カラオケの指導や、ヴォイトレは、そこにも使えますが、それは真意でないと思っています。自らの器を大きくして、今は非日常のものを、明日の日常に化していくことがトレーニングだと思うからです。
ですから誰でもトレーニングしだいで何でもできるようになるわけではありません。結果として自らの潜在的な能力を開花までです。
それを理想の方へ、変えていくのです。何かをなしとげた人は、努力ですべて叶うと言います。すべて叶うほどの努力をした人の言うことを否定するほど私も傲慢をではありませんが、それだけが真実なのではありません。そこまでの努力ができるのも一つの才能であり、それ以上の努力をしても適わないこともあると、述べておくにとどめます。
確認しておきます。トレーニングで潜在的な能力を開花させていくのは、そのことですべてが可能になるからではありません。むしろ、「やっていない人たちのなかには、やれば通じること」でも、「やっていない人たちのなかではやるのがあたりまえで、なかなか通じないこと」を知るためです。つまり、自らの勝負をできる場を知るためです。努力するのは、敗れる限界を知りつつ、破っていくことで、自分の限界を知ることです。ヴォイトレで声域や声量を拡げたい、でも拡げても、限界があります。あなたの限界を超えてやっている人もいます。上には上がいます。
歌や声は努力しても、努力しないようにみえる人にかなわないこともあります。しかし、そこから本当の個としての勝負が始まるのです。
○限界、制限あっての個性の表現
レベルが上がるというのは、可能性の世界のことです。クラスのなかでバスケットボールが一番うまくても、バスケット部に入ったらどうでしょう。市の優勝校のエースでも、県では、国では、オリンピックではどうでしょう。いろんな能力をつけていって、その活躍の場が広がり、上がるほどに、自分以上の存在も能力も、まわりにみることになります。
さらに上がると、どれにもかなわないところにいくでしょう。そこから、本来の意味での、自分のオリジナリティが決まってくるのです。
ですが、私は「才能があれば…」「金があれば…」「方法があれば…」「トレーナーがいれば…」などという人は、そう言っているときには信じません。期待しません。大切なのは時間です。時間だけがあなたを変えていけるのです。量的な時間、そして質的な時間、才能、トレーナー、金、方法などは、量の質的転換において、使えることがあるというものです。「自分がやれば…」精一杯やれば、今の自分の限界がきます。そこで本当の自分の限界を知るために一つ上の何かが必要なのです。つまり、それがレッスンと、それに基づくトレーニングです。ここで初めて、あなたが判断し行動を統御する才能、それを補助するトレーナーがものをいいます。あなたの位が上がるにつれレベルの高い参謀が必要になります。歩兵には参謀は使いこなせません。将軍には参謀が必要です。共に持っている専門能力は違います。それぞれに高めあってきた能力を合わせてことにあたっていくわけです。
声は、体が楽器ですから、共通して人間のもつ体というところで、あるところまでは共通のトレーニングができます。能力、体力、集中力、呼吸など、他のことで共通している基礎といわれるものもそれにあたります。
しかし、そこからいつかは、野球でいうと王、張本、野茂、イチローといった独自のフォームを持つ世界へ入るのです。
オリジナリティとは、他人のまねないフォームへの追及と、その結果による実力=一流の証明です。歌やせりふは、アートですから、スポーツよりも自由が効くので、本質の見抜ける人は早くオリジナリティの壁につきあたります。見抜けない人や、他人のようになりたい人は、また異なる壁に突き当たります。見本のようにパーフェクトにできないという壁です。
そこに一定の基準を設けることは難しいことです。しかも、人の好き嫌い、ファンという、とても移ろいやすいものに支えられています。
とはいえ、何でもOKです。そのなかで、よいものは人に伝わり残っていく。そういうものを価値とする、という結果論です。
そこまで考えて、ヴォイトレのよしあしなどは申せません。だからこそ、いろんなメニュや方法を、いろんなトレーナーや関わる人がいるという状況なのであり、それを私もよしとしているのです。
○成り立ちのありよう、ありかた
まとめておきます。(詳しくは「声の基本図」参照)
基礎←→応用
自分←→相手
積み重ね←→飛躍
これらは左から右へいくのでなく、インタラクティブ(双方向性)です。
ヴォイトレは、体から声へ、自分の声へ進んでいきます。
歌やせりふは、表現から声を引き出していきます。
トレーニングは地力、底上げ、再現の確実さ、徹底した丁寧さを目指します。
レッスンには、いろんな目的があります。私のレッスンについては、いくつか述べてきましたが、内容としては次の4つが中心です。
1、 日常のトレーニングのチェック
2、 声のチェック―体、息、発声、共鳴、それらの結びつき
3、 表現のチェック―声を中心としたオリジナリティ
4、 ステージのチェック―表現を中心としたオリジナリティ
これらは歌でもせりふでも、歌手でも役者でもかまいません。
これをみると、何かをチェックするということは、一つ下に戻って支える、支えるためのそれぞれの要素を、より確実に行なう、行なえるように調整したり、鍛えたりすることだとわかります。
歌は、歌としてみるのですが、そこでチェックしたり直したりするのではありません。そこでの問題を一つ逆上って、それを成立させる各要素の成り立ちのありようをみるのです。
ヴォイトレというのが、歌のありようをみて、それを扱うのでなく、どのありかたなのか(舌や軟口蓋や喉頭の位置など)をみて直すようなのが多いのは、こういう理由なのです。
トレーナーは、表現をみながらも、その基礎のところまで、いくつかのステップ、あるいは連続的に、かつ構造的に捉えていかなくてはいけないのです。そして、医者の診察のように仮説をたてながらも、不足している情報を得るために、メニュ(この場合は、チェックリスト)で本当の問題をあぶり出していくのです。あるときは部分的により丁寧に絞り込んでいくのです。またあるときは包括的にみます。
つまり、何かを習得させるためにメニュがあるのでなく、まず問題を拡大して本人に気づかせ、自ら修正できるようにするために、与えるのです。レッスンは気づかせることと述べました。ピアノを弾いているだけでも、そのスケール範囲、テンポなどをいろいろと変えることで気づきやすくしていきます。教えないで気づかせること、それまで待つ、(トレーナーは)沈黙のレッスンこそが、もっとも本質なものだと思います。ですから、教えないレッスンが成立するには、生活の感覚が磨かれているか、磨かれてくることが大切です。そこに教えられることがレッスンだと、私からみると依存症ですが、今の日本の教育を受けたらそれも当たり前の人がくると、成り立たせることが、難しくなります。商品のように「払った分よこせ、ノウハウを教えろ」という形になるからです。ことばで言うのは簡単ですから、多くのトレーナーはすぐに教えてしまいます。教えていると楽だし、気持ちいいし、時間も早く感じるから、先生というのはとかくしゃべりたがります。求められないことまで話してしまいます。その方が生徒の受けもよくなりますから、充実したレッスンになります。しかし、これこそが虚構のトレーニングなのです。それゆえ、私はトレーナーに話すな、理論を言うな、教えるな、やらせてつかませなさいと、よく注意します。力のないトレーナーは知識や理論を使わないと間がもちません。それと最初はしゃべれなくても慣れてくるとしゃべれるようになり、受けがよくなるので、2,3年たつと、すごく話が多くなる。主に自分が学んだり、他で気づいたことを話しまくります。そこには本人の気づかない慢心もあります。だからこそ、私はそれをメッセージや会報でやらせるようにしています。私自身は本で延べています。
レッスンの目的を個別(その人のオリジナリティ)のモデルか、共通の要素(誰にも必要と思われるもの)に重きをおくのによって大きく変わります。
また、「誰にでも必要と思われる」というのは、オリジナリティの価値がある人ほど、必ずしも必要としないので、そこでトレーニングをどう考えるのかは、けっこう大きな岐路になるわけです。
たとえば、J-POPSの歌手がきたとき、オリジナリティを重視するなら、その人の今の全部、歌い方を、作品、ステージ、音響も含めて、どう活かせるかを考え、声についてもそれに最大限必要なところまで伴わせます。これは、プロデューサーや演出家的な立場です。すでに選ばれたものをさらに、選んで絞っていく、即戦力として役立てるためのレッスン=調整なら、これでよいのです。
しかし、育てていく立場のトレーナーは、その人中心に考えます。ただ、その人のよいところが活かされる(基礎の徹底)のと、仕事になる(求められる)のは、必ずしも一致しません。
とはいえ、私はその一極として声楽を4年ほど、音大にいったつもりで学ぶようなトレーニングをお勧めしています。
○即興的効果の限界
ここでは発声については、ある面では、音大よりも効率をよくやれている自信はあります。少なくともオペラでの発表に重点をおいていない分、そこでのロスを声づくりに集中させられるからです。
研究所には、少なくとも8つの音大の声づくりのノウハウをおいているからです。
これは、私一人が教えるということとはケタはずれにパワフルな体制です。「一人のトレーナーの考え方や方法、嗜好で結果が左右されるリスク」が防げます。
だからといってトレーナー同士が話しあえば何事も解決するわけではありません。むしろ、徹底していくほど意見、見解も、実のところ必ずわかれることでしょう。それでも本人の歩みに多角的な気づきを、早くたくさん与えていくことにより、同じ期間や同じ練習時間に対しては、よりよく変えていける可能性が高まるということです。
効率というのは一つの指標にすぎません。しかし、どこでも今の情報優先の世の中においては、即興的力効果、早ければ1回、1日、せいぜい1~2ヶ月で何かを効果としてみせることを強いられるトレーナーは、そういう方法やメニュをとらざるをえないからです。
これをわかって行っているならまだよい方で、若く未熟なトレーナーは、いらっしゃる方が充実したり、満足したりできるなら、それがもっとも正しいやり方と信じてしまっていることも多いのです。こうなるとビジネスか癒しです。ヒーリングなどにもその傾向が強くみられます。
でも先述したように、「早く2、3割よくなるプロセス」と、「時間がかかっても2、3倍よくなるプロセス」とは必ずしも一致しません。むしろ早く2、3割よくしていこうということの方が、その先の可能性を低くしてしまうものです。
初心者用レッスンというのが第一歩として、入口からの第一ステップであればよいのです。しかし、入口に入れない第一歩であることも多いということを述べているのです。
私はより高いレベルにいたるには、より深く掘り下げなくてはいけないと言っています。建築物のように、高さを考えるほど、より深く土台を堀ることを優先すべきだと思っています。自己流をやめて、基礎を固めるものが初心者用レッスンであるべきだと思うのです。なのに、それが本人の自己流と異なっても、トレーナーの自己流というのではよくないでしょう。
しかし現実にステージを、それなりにもっている人がくると、今さら土の中にいる蝉のような潜在期をもつことは難しいのが現状です。オーディションや、大きなステージ前には柔軟的なこと、つまり調整以外のことは、かなり薄めてステージに差しさわりのないように、用心して処方していかなくてはなりません。「ヴォイトレをやったら、へたになった」と言われかねないからです。だから通常の柔軟、のどの調整ばかりがヴォイトレのように思われるようになってきたのです。
アドバイスくらいなら、調子がよくなるのですが、根本的に変えていくようなトレーニングをすると、一次的にバランスをくずし、調子の悪くなることもあるのです。
自己流でけっこう泳げている人に、水泳のコーチが正しいフォームを教えたら、一時は、泳ぎにくくなり、記録も上がらなくなくなるでしょう。ここでメキメキよくなるのは、自己流というのが、あまりにひどかった人です。そういう人がヴォイトレにも多くなってきているので、またまた問題がややこしくなるのです。ここで正しいというのは今日結果の出るので正しいのでなく、将来、今とは比べられないくらいに、よい結果が出るので正しいということなのです。それを今日だけでみるなら。間違ったフォームとさえいえます。
○腹式呼吸を例に
たとえば、呼吸法、これだけでも変えたら、発声は一時、今までよりうまくいかなくなります。(発声を変えたら歌もうまくいかなくなります)といっても、エラ呼吸を肺呼吸にするわけではないのです。
トレーナーは「腹式に切りかえろ」と言うのですが、正しくは、「併用に呼吸しているのを、腹式をより働かせられるようにする」ということです。「より高度の必要に耐えるようにする」ということです。
「長く伸ばす」とか「大きな声を出す」とか、「楽に出す」というのがわかりやすいので、よく目的になるのですが、本来は、「より繊細にコントロールすること」、「息から声に、より確実に理想的に共鳴し、それを支える」ということです。
「より大きな必要に耐えられる」ということは、胸式の方でがんばると、肩や胸が動いてしまうので、それを抑えて、お腹というか、横隔膜あたりの方で対処するのです。それは発声という、生命のためとは異なる新しい機能を求められたために生じたことです。そのために呼吸法とか、呼吸トレーニングがあります。といっても、それも日常の延長上なので、より大きな表現、より大きな必要性があって身につくのが理想です。
ただ「○○法」とかいうように、特別のメニュをつくるのは
1、 そこだけに要素を分けて、集中できる。
2、 表現するには、それにギリギリの基礎より、やや余裕をもって余力のあるくらいに身につけておいた方がよい。
つまり、より早くより強く身につけられるからです。これは私の考えるヴォイトレ=トレーニングであって、ふつうヴォイトレは、単に「胸式を腹式に切り替えましょう」レベルですから、何年たっても、結果として、あまり身につきません。しかし、1、2回でも、あるいは1、2ヵ月でも、少しはそのような感じになります。緊張気味のレッスンで、少しゆるめたらそう感じるだけのことです。欧米でパンに飽きて中華を食べるとうまいと感じるようなものです。日常での少し運動したあとくらいの強さの呼吸になるくらいにすぎないのです。他のスクールからきて、腹式呼吸や腹から声を出せるような人は、10人に1人もいません。
トレーニングでも、その必要性も高めていないと何年たってもそのままなのです。
スポーツであっても、フォームを教えてもらったところで、それをキープする感覚や支える体、筋力を身につけていかないと、また自己流のフォームに戻ります。
それを知らない人よりはましなのかもしれませんが、できていないのは同じです。でもこういう人は、しゃべるとまっとうなことを言います。
ヴォイトレのトレーナーにも、そういうトレーナーのレッスンを受けた人にも、そういうタイプの人は少なくありません。わからなくても、説明できなくても、できていれはよいのに、困ったことです。
そういう人がここにきたら、息の吐き比べをやることもあります。声の伸ばし比べでもよいでしょう。息のコントロール力だけでも、その違いは一目瞭然なのです。息を吐けたからといって偉いわけではありません。歌やせりふがすごいということとも違います。ただ、基礎というとわかりやすい。試合でなく、素振りやリフティングだけみせて差がわかるというようなものです。本当の基礎の差はせりふや歌でなくとも、一瞬の呼吸、声でわかります。そういうことが直観的に感じられない人が多くなったことが、困ったことなのです。
その人の動作や体つき、たとえば、筋肉の付き方からだけでもわかるのが、アスリートの世界です。もちろん、スポーツにもよりますが…。それでも、走ることなどを除くと、スポーツは楽器のプレーヤー同様に、かなり特別なトレーニングを長期にわたり、続ける必要があります。
それに比するのは、ポップスよりは、声楽や邦楽の世界でしょう。そのためもあって、私のトレーニングのベースの説明は、そういう方面におくことになっていったのだと思うのです。
○レッスン特有の問題
個性とは、多様なものですから、それに基づくものですから、それに基づくレッスンでも多角的にものをみることをお勧めしています。しかし、共通化、共有化、ルール化が必要とされる実際のトレーニングにおいては、数多くの問題を引き起こします。複雑になってもしかたないので、どこかで「エイヤ!」とシンプルに、トレーニング前と後に比較ができるような指標をとらざるをえなくなります。
人間、わかりたいし、わかりやすいほうがよいと思うので、自ずとそういう方向に進めていくものです。また、そういう方向に進めている人がいるとそういう方向に進んでいきたくなります。そして組織ができて、それが固定観念となっていき、例外を許さなくなっていくものです。コーラスなどでも、その傾向が強いですね。何にあっても「道」というものがつくられやすい日本人は、そういう一糸乱れぬことに美を見出そうとする国民意識が強いように思います。
一般の方に限らず、さまざまなトレーナーや専門家がここを訪れます。多くの人は、正解を求めてくるのです。私は本でも「そんなものではない」と述べています。
私の本を読んできた人でさえ、同じことを聞きます。「でも、正解は?」
これについては、レッスンという場も、時間が限定された特別な空間として、ある目的をもつ場合での仮の答えと考えるしかありません。トレーナーに接する時間や場を共有し、ヒントを得るために使うということです。
トレーナーの仕事が教えることとするなら、何らかにおいて教えられる人よりすぐれており、そのスキルを伝えることができたら、仕事となるからです。
歌ってきた人と、これから歌う人であれば、歌い方について、歌ってきたことによって知っていることを伝えることになります。プロがアマチュアに教えるといっても、表現のプロもいれば、指導のプロもいます。(といいながら、何をもってそういうものとするかは大変にわかりにくいことです)また、アマチュア同士で教え合うこともあるので、そこは、あまり区別しないでよいと思います。
スクールでは、生徒さんとして入ったばかりの人が、トレーナーになっているケースも、よくあります。そういう人は、いろいろと困ってよくここに教え方を学びにきます。それでも問題があるとは思いません。私のように長年やっているから問題がないともいえません。完成などでないほど奥の深いものなのです。
レッスンやトレーニングでは、「教える―教えられるという関係」が生じることによって、それまでになかった、たくさんの問題が出てくるのです。それらのなかには、教えるという体制をつくるためにつくられたもの、人によっては全く必要のないもの、役に立たないもの、逆に害になるものも少なくないということです。
○プログラミング
私は、どんなメニュもやり方もないよりはあったほうがよいと考えています。それは選ぶ機会が多様にある方が豊かな可能性があるからです。単にそのなかから選ぶだけではありありません。そこで自ら創り出すための材料となるからです。一人でゼロから創ることを考えてみたら、どれだけ助かることでしょう。
人類は先人の経験を生かし、文明や文化をつくり出してきたゆえに偉大であるのです。文明は共通、基準化され、発展します。文化については、一般人、一個人、一地域、一時代のオリジナリティを元とするために、常に二律相反の問題に悩まされるものですが、ある程度までのプログラミングは、文化、芸術の理解、指導、習得にも有効です。私が多くの方法やメニュを一個人でなく、組織として公開するのもそのためです。まず第一段階として、材料を一覧化しているのです。第二段階として、基準をこのように論じています。ノウハウやメニュを欲しがる人が多いのですが、必要なのは、基準とそれを満たす材料です。(1990年)
ここで、予め注意をしておくのなら、表現は基礎を必要として、基礎によって可能性を大きくしますが、基礎そのものの中や、その延長上に表現が生じないことも多いということです。
声は基礎、表現は歌やせりふとなります。声を出しても、そのまま表現にはなりません。それはとてもよい竹を叩けば、よい音が出るというレベルです。尺八にしても楽器として加工し、さらに演奏者がその技術を高めなければなりません。
そのレベルでの表現を私自身は目標にしていますが、なかなか難しいものです。
声が基礎、でも基礎の声とは何か、ということが最大の問題です。このあたりになると人間としてもって生まれたもの、例えば顔と同じで、時代や違いによってよしあしはあっても、正しいとか、間違いとかはありません。今、流行の歌や声というなら、ないわけではないのでしょうが…。
私がよく一般の方に言うのは、「どの人の声にも間違いはない」ということです。いろんな問題を抱えて、いらっしゃるのですが、本当に問題になる人は1パーセントくらいです。声が出ないとか歌がへた、音痴が直らないといってくるのですが、そのうちの1パーセントの人以外は、それほど深刻な問題でないことがほとんどです。
その1パーセントは、声の器官そのもの、もしくは耳(聴覚)、脳の問題があげられます。そこは、医療の分野やメンタル的なアプローチを要します。
多くの人は、「本来の問題をきちんと捉えられていない」だけです。それをチェックしていくのはトレーナーの第一の仕事となるでしょう。
まず、声というよりは、話や歌での機能での問題、声量やことばの明瞭さ、滑舌(発音)や音感、リズム感です。不慣れなら慣れていくことで、ほぼ解決します。そこには、緊張などメンタル面のことも大きく関わっています。
舌、表情筋、呼吸筋ほか、柔軟性や運動不足などの日常生活があります。発声の効率などは、かなり高度な問題です。
声そのものでは、本人の声と本人の理想とする声(憧れの声、モデルとしての声)とのギャップの問題です。声の判断基準は、いろんな人の声を聞いて、できてくるものです。そこで、多くの場合は、自分の声から目指すべき理想とイメージでの理想に大きなギャップがあります。
ややこしいのは、すでにこれを無理に(くせをつけて)のりこえて、自分本来の発声でなくなっている場合です。歌うときにはもちろん、日常の声にもくせはついているものです。
自分本来の発声と思っているものも、本人のもつ生来の声に、育ちや生活、(環境や習慣)が入っているので、姿勢などと同じでくせがついているものです。ですから「くせを取り除く」というのが、レッスンの第一の目的となりやすいのです。その結果、そこでは悪い意味で合唱団の発声のようになることが多いのです。さらに体や呼吸の使い方のこともあります。
それが本人らしい声なのか、理想の声なのか、他人の求める声なのか、いろんな見方があると思います。
でも、私はそれであっても、できないよりはできた方がよいという判断をしています。表現の可能性、つまり応用性を大きくしていくのが、トレーニングの目的であるからです。
この基礎としての声をどのように定義するかは先述したように大変な問題なのですが、多くのケースでは、「とてもシンプルに認める」か、「全くタッチしないでスルーする」というようにされているようです。
私は、これを
体の中心からの声で、共鳴した声というよりは、共鳴を自在にできるベースの声、
芯のある声、小さく話しても聞こえる声、
口を動かさなくても発音が明瞭な声、
聞いて心地よい声、その人らしい声、説得力のある声、自然な声
などと捉えています。
○よい声とタフな声
よく私自身の声を問う人もいますが、一般の皆さんと接して使っている声は、私自身ではもっとも私らしい理想の声やよい声というよりは、仕事のできる声です。タフで崩れず、8時間以上耐えられる声です。つまり、よい声かどうかは別にして、タフな声、強い声です。仕事に使うのですから仕事の声でしょう。ですから、レッスンのなかでは、かなり変えることもあります。つまり、使える声といっても、応用されるのですから、ケースバイケースであって多様なものなのです。
そして応用というのは、ある意味では調整でなすことであるために、自分のもつ器のなかで上下左右動かしていくことであり、器そのものの拡大とは違うのです。しかし、これを上下左右、器のなかでも大きな振り幅で動かすと、結果として自然と器を少しずつ大きくしていることもなります。それは、リスクをおさえ、時間をかけてやっていくことですから、自然、トレーニングとしてみると正攻法です。
大人になるにしたがって大人の声になっていくというのは、人生の歩みとともにある声なのです。トレーニングではない、自然な日常の声の進歩こそが、本来は理想なのです。
とはいえ、誰もが歩いたり走ったりしていたらオリンピックに出られるとか、記録をつくれるわけではありません。高いレベルを求めるとか、自分自身の不足を補うとか、高い能力を早く手にいれたいとなると、必ず無理が生じます。その無理を承知の上でセッティングするのがトレーニングなのです。それゆえ、私は「トレーニングは必要悪」と言ってきたのです。
今の器を大きくするのは、今の形を壊すともいえますが、全く違うものをゼロからつくるのではありません。ベースに今のあなたの声があり、その最大の器をみます。そして、そのまま全方向へ伸ばすのではなく、むしろど真ん中の声をみて、そこを再びつかみ直して、さらなるマックスにしていくということです。
野球で言うとストライクゾーンを拡げるのではなく、それをもっとも力を発揮できるコースを絞り込んで、自分自身のストライクゾーンをセットしていくようなものです。それが資質や応用性に恵まれていて、ルール上のストライクゾーンを包括するくらい大きくとれる人もいれば、その半分くらいしかとれない人もいるかもしれません。
しかし、勝負すべきは、広さではなく強さなのです。
声の広さというと声域のようなものになるのでしょうが、高音だけを目的にトレーニングをする人が多すぎるのです。そのためにトレーニングとやらも長い目でみると、方向違いになりかねません。へたにトレーナーといる方が、とんでもない指示や浅はかなメニュでの一時的な上達に長けてしまうことも少なくないのです。つまり、高い声は出るようになっただけで声質(音色)やコントロールは、初心者のままという結果です。何年たっても、そうなのは、プロセス、そしてその目標のセッティングが違っていたということです。
○あるレッスンを例としての洞察
たとえば、「歌える体づくり」とか、そのための「筋トレ」といっていながら、「声の向き」の指導において、「できましたね」とほめるときには、いつのまにか声の高さが変わっている。「向き」ということをポイントにするのは、悪いことではありませんが、生徒はともかくトレーナー自身も気づいていない。これが、今の日本のヴォイトレのレベルです。高さが変わってできるようになったのなら(それが目的なら)よいのです。そうでなく、最初からできる高さに問題をすり替えて、「できた」というようなのは、まやかしにすぎません。
生徒に自信をつけるトリックを使い、トレーナーの信頼感をもたせるためにしているのなら、別です。これを、トリックと呼んでよいのかわかりませんが、あきらかに、右に求めていたことを左にしてOKと思わせているのです。トレーナーも気づかずにやっているのですから、トレーナーに罪はありません?こういう例はとてもたくさんあります。
とはいえ、あまり意図せず、やっているものです。
こういうことは、私やここのトレーナーも、多少は、意図的に使っています。私は知って使っていますが、なかには知らないで使ってしまうトレーナーもいるので、そこは注意します。そういう手練を知った上でレッスンに役に立つなら使ってもよいと思っているからです。ただ、これをトレーニングだとか、トレーニングの成果とすべきではありません。
レッスンに、こういう仕掛けをするのも、目的を遂げる手段の一つとして、私は容認しています。ただ、それをトレーナーが知っていて、トレーニングのために役立てることが前提です。リスクも使える範囲も知っていて、処方するからこそ、専門家なのです。こういう場合、声を害するのは、注意を守らない一人よがりの自主ハードトレーニングです。トリックがトレーニングそのものと信じているトレーナーも少なからずいます。そうすると、こうしたレッスンを受けた人も、そのまま変わりません。たとえば、次のようなところで、よくこういうトリックはみられます。
高い音に届かせる→あてる
音程、あるいは音高を正しくとる→あてる
大きな声にする→ぶつける
その日に行う下半身の筋トレや、股関節の柔軟、お腹のふくらみ、お尻の穴、手を上げるとか、この辺りも、状態の変化を促すためのとってつけのものです。何かを変えるためにプラシーボ効果として使われやすいものです。
「気持ちや体の状態が変わることで初心者の声は大きく変わる」、というか「変わったように聞こえる」のでよく使われるのです。どれも、高いレベルで使えないことでは、本当に変わったといえないのです。
○お腹からの声
そのもっとも大きな誤解の上で行われているものの一つは、「お腹からの声、腹式での発声、胸式、太い声、声量のある声の出し方」などでしょう。質問にも、とても多い事柄です。
高音に届かせたり、喉をはずしてクリアな声にしたい。出すこと自体は簡単な調整でできるようになるのですが…。その実、ぬいたり、そらしたり、逃がしたりしていることが多いのです。ポップスのトレーナーの見本をみるとわかります。
それはカラオケなら使えるということもあるので、まだよいとして、「体からの声を腹式呼吸によって(同時に)出す」というのは、一般のビジネスマンなどの声の指導などにまで多く使われるようになってきました。しかし、大体が「押しつけ、無理をした声、お腹を固めた声」なのです。
トレーナーの見本自体が、お腹からの声でなく、「のどで胸に押し付けた声」になっているケースがほとんどです。そうでないトレーナーは、ごく少数で名前を挙げられるくらいです。
自然にお腹から出ている声では、レッスンとしてわかりにくいので、わざと、体や息を使っているようにみせるような“演出”が必要なこともあります。深い息を、本当は無音なのに、有音にしてみせたりするのは、私も演出(先の「トリック」)として使っています。しかし、トレーナーがそれを本当に「腹からの声」と思っていると、どうなるかわかりますね。のどを乾燥させたり痛める危険が大きいでしょう。
私は「トレーニングは無理を強いるもの」と言っているので、それが、本当に使える声として反映するまでにはかなりの時間、タイムラグをみています。
「できないことは、そんなに簡単にできるわけがない」というのが原則です。「すぐできたら教えて」というものです。もしそこでできたと思ったら、それはトレーナーがすごいのではなく、大体は、先述したトリックです。
フィジカルトレーナーのところでも、いくつかの例を示しました。ただ、それが入口で本人のモチベート、やる気になるならとてもよいことなので、私は反対まではしません。
ただ、そういうトレーナーが多くなることで、そうでないことしっかりと時間をかけてやっているトレーナーを無能に思うようなことがあるので、その方が問題です。先に述べた、「どこまで求めるか」ということです。
○「できる」ということ
ある能楽師の話です。鼓というものは最初うまく鳴らない。手で打っていると、よい音が出るのに30年もかかるそうです。しかし、そのあともずっとよくなっていくのです。それを最初から無理に伸すなら、板などで打つと、すぐに音が出るようになるのですが、全く長持ちしないそうです。同じことではありませんか。
体からの声も、調整としては部分的な障害、力が入っているなどを解決するために、脱力、柔軟などがあります。呼吸の扱いの向上が発声へ結びついていきます。さらに共鳴のイメージと共鳴の向上など、本一冊では述べられないくらいのチェックポイントがあります。それは求めるもののレベルやその人によって変わります。
多くの人は、姿勢を定め、固定し、(下半身の力で支え、上半身のリラックス)フレーズを短くすると、(自然に短くなる)できたように感じます。でも、そこで間をとらずに4フレーズなど時間をかけてみると対応できません。これは私も「ハイ」で説明した通りです。
歌やせりふで、バランスや間や流れが悪くなっているのに、「できた」などと私は言いません。そのメニュややり方を使わなくても、1フレーズで、ゆっくりと短めにやればできるのを、いかにもトレーナーの考えた方法やメニュでできたように思わせているのです。(その分、他のことが疎かになり、両立できていないのをみていない)つまり、ABCDEでABCDができて、Eができていないときに、Eだけやってみて、できたというのは一要素を取り出しただけで、A~Dと両立できていないのです。つまり本当は使えていない、使えないのです。Eだけでやれば元々できているのを、「できた」と言っているだけなのです。もし本当にできていたら、すでにA~Eのなかでできているのですから。A~Dとともに使えなくては本番では使えないのです。
「一人でやるとできない」などというトレーニングには、こういうケースが多いのです。(こんなことはレッスンに行っている人は知らなくてもよいのですが)
「できた」と思ってやる方が、「できていない」と思ってやるよりも楽ですから、その錯覚を利用するのは、一つの方法です。
つまり、ABCDは○、Eは×を、ABCD-×、E-○にしてみせただけです。
体を鍛え、息を深くして、声の結びつきをより強固にして、その結果の体からの声は、聞くだけでも全く違います。姿勢も、ポジショニングも、呼吸も発声も何ら「自然」のままに体から出した声でないと「不自然」で自然には使えないのです。
ですから、私はビジネスリーダーに、「アナウンサーのようにきちんと話すな」というのと同じく、役者や歌手に、「ステージで腹から声を出す」などとは考えるなと述べています。
今日行なった調整は今すぐ使えるとしても、今日行なったトレーニングが今日使えることはありません。でも、アナウンサーのような滑舌練習、オペラ歌手のような腹式呼吸の練習をやらせます。
○「ひとつの声」としてみる
筋トレや柔軟に対しても、私は「自分のメニュ」と「教えるメニュ」を分けています。「他のトレーナーのメニュ」も何ら否定もしません。「どんなメニュでも、よい」と言っています。本人にとってどれくらいよいのが悪いのかは別のことです。
どんなレッスンでもトレーナーも生徒も思い込みのなかでやっています。ですから、「あまり片寄らないようにやる方がよい」と言っています。
たとえば、走ることばかりをいくら練習しても、山を登るときはつらいでしょう。それには階段を上るような運動の方がよいトレーニングになると思いませんか。
息を深く吐いてみるのは、深く息を吐くためでありません。表現の声の必要に応じて深さで入れるようにするためです。「息が浅い」などと言われても、本当は言葉への感覚やスピード感が劣っていることが問題なのです。今、すぐに息を深くしても直りません。
喉が弱くなった。
声量がなくなった。
声域がせまくなった。
これらも一つひとつの問題よりは、心身の問題であることが多いものです。それを発声法や喉の問題にするのは、トレーナーとしては教えやすいし、そこでみせかけて、できるように思わせられるからです。心身のトレーニングだけで、あなたの実力は2~3割はアップする(取り戻せる)はずです。
魅力的な声
説得力のある声
強い声
よい声
安定している声
これらは、それぞれに違いますが、できたら一つの声(の応用)でまかなえるのが理想的です。すべて自由に変じられるのが理想ですが…なかなか難しいものです。
自分の声を中心に、自分の声の中心をみつけ、イメージや理想をその可能性のマックスのところにおく。そうするように、できるようにすることです。
あこがれの人の声を中心に真似ていこうとしたり、そこで自分の声とのギャップを埋めようとしないことです。またいくつもの声の出し方をそれぞれに使い分けて、つくってしまうようなことも、教え方としては一般化しているようですが、特別な目的の場合を除いて感心しません。私のところでは行っていません。
発音、話し方、歌い方などの表現においては、一流の作品からよい影響を受けることです。そういう環境に身をおきましょう。たった一人の相手だけを見本にするのでなく何人もの一流の人から多面的に刺激を受けて、自分の未熟を補う方がよいでしょう。彼らの共通のベースに気づき、自分の不足を補っていくということです。
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