○文字から音声、さらに動画へ
人類が文字を発明するまで人は口承で全てを伝えてきました。文字ができてから長らくそれが写され広められました。絵が絵文字、そして文字になったプロセスは今のアナログからデジタルに変わる以上の大転換といえます。絵では表しきれない時間、そして論理が入ってきたからです。
活版印刷の技術革新で16世紀からは本の時代となりました。20世紀には絵から写真に、言ったはしから消えていく音声がレコードに録音、記録、保存できるようになりました。さらに動画として映画、フィルム(サイレントからトーキー)になり、ラジオやテレビで視聴できるようになりました。(ちなみにデジタル化とは、大量のデータを統一(0と1の組み合わせ)圧縮、コンパクトに保存し、瞬時に伝達できること、および検索できることにすぎません。しかし、これは文字だけでなく、音声、動画をも同じデータ(0と1)として容易に扱えるようにしました。コミュニケーション(発信、伝達、受信)のコストを徹底して下げたということです。)
これらは主に情報を発信する側のメディアでしたが、今世紀になり、インターネットの発達は、手紙、電話といったプライベートな交流を一気にオフィシャルなレベルまで高めたのです。それらは90年代にマルチメディアということばで見通されていたことです。そして、世界の距離や時間の感覚は、この10年で大きく変わりました。そして全てが電話の延長のスマートフォンに集約されつつあります。
今さらこの問題を扱うのは、20年ぶりなの気がひけるのですが、こうして文字で伝えることのもつ意味を述べています。
(参考までに、マルチメディアに関する拙書からの引用、会報No.)
○デビュー本
私がヴォイトレの本を初めて書いたのは、もう20年以上前のことです。これは、発声について欧米から学んで、翻訳家や学者や声楽家が書いた本とは異なり、日本人としての実践的な本でした。「基本講座」は理論、「実践講座」にはメニュを中心に載せました。当時、いくつかのカラオケ指導の歌の本や医者の発声の本などはありましたので、喉の仕組みあたりは引用させてもらいましたが、それ以外は独創的なものでした。「ロックヴォーカル」とついていたものの、ポピュラー全般を対象にしたもの、歌の本なのに歌には触れず、歌手に限らず声についてまとめました。もう少し詳しくいうなら、プロが一から声づくりをしていくために、私のヴォイトレの活動から参考書としてまとめたものでした。
そのときに意図したことは、それまで述べられていなかった、欧米人とは違う日本人の感覚や体に焦点をあてることでした。(このあたりの経緯は別に述べているので省きます)これは、あまりにベーシックであったために役者や声優などでも使えるもの、今では邦楽から一般のビジネスマンにまで応用されているものとなりました。しかし、その分、対象、レベル、目的も不明確になったということです。その点は、すぐに岩波ジュニア(10代、教師向け)や祥伝社(女性や中高年向け)、さらに英語やビジネスなど、対象によって異なる本へ分化させたので、ある程度はカバーできたと思っています。
○CD付本
その5年後からはCDも付き(ビジネスマン、一般対象本では10年後)、見本、サンプル音源も入るようになりました。
VTRやDVD化など動画の話は、よく持ち込まれたのですが、いくつかの理由で踏み込めませんでした。音声でみせることまでで止めることにしたのは、あくまで声=音にこだわりたかったからです。また、わかりやすくみえることが、学べることとは異なることを知っていたからです。これはTVやラジオへの経験からも痛感していました。当初は、他のビデオ教材をみて、とても本当のことを伝えるのは無理と思いました。まもとにつくるとイメージダウンは避けられないし読解?誤解?がさらに大きくなると思いました。
1、 楽器の練習のように格好よくない。
2、 トレーニング風景を入れると役者の舞台裏のように地味で暗く、当時でいうとAVもののようなアングラな感じになる。
3、キャスティングをモデルさんで行うと、きれいなだけのもので、そらぞらしくなる。
4、プロの歌い手で行うと本人の歌はよいけど、絵になりにくいし学びにくい。
当時は作曲家の先生(たとえば曽我先生)などのも、いくつか出ていましたので、それらしきものになってしまうことしかイメージできなかったのです。
研究所には、当時から国内外、数多くの発声やヴォイトレのビデオ、DVDがありました。合唱団の発声など実用的なものも、たくさんありましたが、私自身にあまり役立たなかったし、人に勧められなかったというのもあります。
CDについても、この研究所がおそらく、もっとも多種多様につくってきましたが、いつも試行錯誤していました。英語の教材からヒントを得たことも多々ありました。
最初は、体や息のトレーニングは音声にならないので、カットとしていました。最近の私の本には、図やイラストで指示してトレーニングメニュとして入れていますが、そういうことさえ他のDVDやCDが出てくるまで、わからなかったのです。
そこに私の声を入れるのは避けました。今の研究所の体制と同じく、私はプレイヤーでなく、プレイヤーをサポートする立場だからです。ですから、当初は、練習メニュとして体系だけを入れ、プロを現場でディレクションするようにしました。トレーナーは相手の声を指導することのプロなのですから、この方がよりよい仕上がりになったと思います。最近は、一般の人向けなので、説明も必要となりますが、それこそ本の役割です。
本で理論ややり方を理解できるようにして、CDはできるだけ余計なことを入れないようにしました。CDをかけたらすぐに練習できるものがよいと思うからです。私自身が使えるもの、使いたいもの、そして生徒の自習に使えるもの、使わせたいものを目指しました。
CD教材といっても、一回聞いて終わりのものと、くり返して使うものは方針が違ってきます。最初にイントロや説明が長く入っていたら、2回目からは邪魔でしょう。
トレーナーが一方的に見本をみせているのもあります。生徒とかけあってレッスン室のようにしているのもあります。これらはTV向けのパターンで、みることでよくわかるようでも、他人のレッスンですから、自分のレッスンには邪魔でしょう。他人の声が入っているのもそのうち邪魔になるでしょう。分けて入れても、時間がムダになります。
私のは、原則として本人の自習、自主トレ用としてつくっています。ですからDVDにするとしたら、トレーナーが呼びかける対面式のようなものか、目の前にお客のいる本番シミュレーション的なものとなるかもしれませんね。
レッスンに通う人が使うのなら、補助教材です。レッスンに通わない人がレッスンのかわりに使うとするなら、かなりシンプルにつくらないと逆効果になると思います。最近、私のCD付の本も多くなったせいか、そのなかでの違いを聞かれます。
私の本のCD、音源のメニュをサイトに載せましたので、参考にしてみてください。URL
○教材のつくられ方
本は文字ですから、イメージは伝わりにくい、といわれます。でも読んだ人のレベルに応じたイメージがつくられていくともいえます。CDなどの音声があると、それよりも声としてのイメージは、はっきりします。具体化される分、限定されるわけです。絵がつくとさらに具体化するために限定されていきます。ラジオはホットなメディア、TVはクールと言われたのは、そのせいです。
「よい例」、「悪い例」をたくさん入れてあるようなものは、判断力をつけるために役立つでしょう。でも、悪い例を何回も聞くようなことは、もっとも、喉によくないので、そういうつくりは、練習用のものとしては賛成しかねます。同じ理由で、あまりに個人的なメニュや部分的なメニュも人によって悪影響を与えかねません。一般的にはシンプルで、凡庸なメニュのほうがよいのです。
メニュがたくさん入っているのはよいと思うのですが、全て使ったからといって大して意味はありません。特殊なものを除き、できるだけ誰でもあてはまる範囲内に収めておくことです。海外のものにも、かなり特殊なケースでのハイレベルのトレーニングが入っているのもあります。相手がみえないのですから参考にするにはよいのですが、使う人が今、使ってよいのかどうかの判断をできるわけではないので、よほど優秀な人以外には、ダメージをあたえかねません。少なくとも、そのトレーナーに会って、そういうレッスンを受けてから使うべきものだと思うのです。
同じ意味で、見本の声の入っているものは、具体的な分、よしあしがどちらの方にも大きく振れます。日本のものは、残念なことに、困ったものが多いです。弱々しく抜いただけの声か、がなった声、喉声のものが少なくありません。それを聞くたびにイメージも悪くなり、声にもよくありません。そもそもヴォイトレなのにスケール(音程、リズム)などが中心で、発声、呼吸や共鳴などは形だけのつけたしとなっていることが多いのです。もちろん、応用や周辺から入っていく、慣れるというのもアプローチの一つです。でも、本当に身になるトレーニングが欠けているのです。
使い方次第なので、こういうものもあるのはよいし、全てを同じように誰もが使えると勧めているのではないのですから、これ以上の言及はしません。
教材は、実際のレッスンに、こと発声については及びようはありません。レッスンのまとめとして、トレーニングのモチベートや方向性をより確かなものにするのには、本はよい判断材料となります。本にもよりますが、少なくとも、あなたよりは声については、学んで実際に知っている人の経験談でもあるからです。
ただ、多大に期待してはなりません。私が本、会報、ブログなどでたくさん述べているのは、レッスンに来れない人のためではありません。レッスンでできるだけ無言でありたいからです。自分の声で、自分で向きあってもらいたいからです。一方的に他人に委ねるレッスンは、最初はよいと思うかもしれませんが、本当のあなたの力にはなりません。そういうレッスンの方が多いのです。それがあたりまえのようになると鈍くなります。
自分の声に向きあうのに、少々時間がかかってもかまわないのです。今だにトレーナーのところにいくと、自分の歌や表現が変わるから心配だとか嫌だという人が少なくありません。トレーナーによって悪影響があるくらいにしか自分に向きあっていないのなら、そのままでも同じです。(「トレーナーにつぶされる個性など個性ではない」を参照)
トレーナーを、自分に向かい合うためのレッスンや、そこからのトレーニングを自分に活かすために、使うのです。
○レッスンの回数
トレーナーと長く一緒にいると何か身につくし―というような人が日本には多いので、それは確かにそうかもしれません。でも、そんなものだけではどうにもならないので、こうして述べているのです。週一回のレッスンでも、何にもやらないとか、一人でやるよりはずっとましです。しかし、週一回でも二回でも、そのレッスンが、365日をひっぱらない限り、本当には大して変わらないのです。これは私のレッスンの回数についての答えでもあります。
○ピンチに学ぶ
ヴォイトレで調子を崩すと、トレーナーや方法やメニュや本のせいにする人も、若干ですが、います。なぜ、調子を崩したのかの分析や理解、その対処こそ、トレーナーとともに行うべきことであり、絶好の機会なのです。その前で両手をあげてやめるのでなく、それを超えていくことが、力をつけることなのです。
ボクシングでコーチに言われたままに出場して、初戦KOされたら、コーチに「バカヤロー」と言うような人は、幼いだけでしょう。
レッスンもトレーニングも誰かに頼まれて受けにくるというのではありません。自分の目的のために、より自分を活かすために、使うものです。
そして、何度も述べているように、そこでは自分の求めるものをすぐに成し遂げようとするのでなく、本当の目的、本当に必要なこと、可能なことを知っていくことから始めてください。すぐにわからなくてもかまいません。ずっとわからなくてもよいから、考え続けることをやめてはなりません。基準やプログラムがないと後で伸びないから、こういうところで述べている基本的な考え方などを学ぶことこそが大切なことなのです。
○文章のことばの力
私は情報を得るときに、写真や動画は、情報量が大きく確かな証拠でもありますから参考にします。しかし自分自身に取り込むにあたっては、発信している人自身という情報と文章そのものに重きをおいてみます。
TVの大きな影響力はまさに「百聞は一見にしかず」というものですが、その「一見」の大半は誰かが意図をもってみせようとしたものです。安易にその意図に乗せられてしまいがちなのです。
一方で、文章は、案外と真実を直接、イマジネーションによって捉えることができるともいえるのです。ビデオを何十回みるより一言のアドバイスがすべてを変えてしまう例は、少なくありません。もちろん、両方あればよいのですが、一度みた動画、画像はあまりにも強烈な印象を残すので用心すべきです。
○視点の盲点
私は、あるときの合宿で、このことを証明するような体験をしたことがあります。20名ほどの舞台で、音声だけでパーフェクトに成り立たせたのを、次にちょっとした振りと動き、つまりヴィジュアルの効果を入れたところ、音声は半分の完成度にまで落ちてしまったのです。それを演出している私以外、出演者もみているお客(出演者の控え)も気づかなかったということです。
目にみえる効果が入ることで音の世界がこんなに壊れるのに、客は、そういう効果に目を奪われ、トータルとして作品がよくなったと思うのです。舞台ですからヴィジュアル効果が大きいのは当然です。そして、私のような、耳だけで、目をつぶっているかのように判断するというような音に厳しい客がいないのなら、音より視覚効果に力を入れるのが当然なのです。
これでは、もし私がプロデューサーや演出家であったら、声のちょっとした変化を示すよりも、手の動きで示す方が客に伝わるということを選ぶことになるはずです。私がプロのアーティストなら、迷わずそれを選ぶでしょう。
まして、一般の客が耳での判断力が低く、目での判断力が高いとしたら、どうでしょう。これが日本の、日本人の音声表現力の育たない最大の原因と私は思っています。これは、ヴォイストレーナーからみるから、よくないということになるのですが。
このことを踏まえた上で言うなら、本当は音の世界での完成度も落としてはいけないのです。絵のために音を犠牲にするほど論外です。仮に、動きとしての振りといっても本人のなかでは、表現=振りと音とが完全に結びついていなくてはならないものです。
この体験以降、私は舞台のビデオをみせるときに、2回に分けるようにしました。最初に動画でみせて、次に音だけで聞かせる、ときには逆にします。しつこく両方を試みることもあります。動画でみると、その出来に安心していた人が、音だけで聞いたときに唖然とします。
私は目でみながら、耳で判断します。声のトレーナーだからです。みるのは他の人、客や出演者の心の動きであり、舞台は目をつぶったのと同じ世界で働きかけてくる音、声だけをひろいます。このあたりは、まさに音楽監督と一緒です。
これを日本の演出家は、せりふはまだしも、ミュージカルや歌においては、声を楽器の演奏レベルで全く捉えられていません。その結果、ダンスが世界のレベルに追いついても、声や歌は置き去りにされてしまっているのです。
ベテランになるにつれ、歌い手もそうなりがちです。ラジオやレコードだけならそうならないのですが、ステージの体験が皮肉にもそれを助長します。
○ヴィジュアル面での勝負
ライブ舞台では、こと日本では、ヴィジュアル面の演出、照明、衣装といった装置の発展のおかげでもたせてきた分、声の表現について雑になります。
音楽技術を使いこなすのでなく、それでカバーされて、同じようにこなすだけになります。他人と同じように、そして、自分のも同じようにこなせるのがうまいと言われるのも、悪循環の一つです。うまいからダメだという理由は岡本太郎氏の論拠にゆだねます。そうやって表現を薄めてしまうわけです。
喉に負担なく、リスクなくというのは、それだけをとると悪いことではありません。ヴォイストレーナーが皆それを教えているのですから、ただ、即興性が、結果として消化試合のように、そのエネルギーを体の動きやMCの方へまわすわけです。プロとしてステージを活かすために当然だと思いますが、若く有能なヴォーカリストが早い時期からそうなっていくのをみるにつけ、残念でなりません。
PVやテレビも、最初は音声の表現レベルの高い人が登場していました。それに加えて振りや衣装や装置が派手になってきました。すると今度は、その演出や装置を使うと、音声の表現力のない人もみせられるように、もつように、こなせるようになるわけです。
アイドルやダンサブルな人たちを批判しているのではありません。もともと音声の表現力のレベルで選ばれたり認められたりしていないのですから、あたりまえのことです。それぞれに売りが違うだけのことです。いつの時代でも、かわいいだけ、かっこいいだけのスターがいました。ただ、歌手というなら、歌=音声において、みせられる力で聞きたいと私は思うのです。
シンガーソングライターは曲づくりの才能の総合力、アーティストも総合力というのはわかります。ただ、その結果、昔のように何を歌っても、その人の声、その人のフレーズでオリジナルなものにしてしまえるという人、歌唱におけるプロ、声と節(フレーズ)のプロというのがみられなくなったとするならば、もったいないことです。
詩吟や邦楽などは、伝統芸ということもあり、あまり年齢、ルックス、スタイル、振りなどが問われなかったので、声での表現力での勝負となります。
そういう人がここには多くなってきました。オペラでさえヴィジュアル力を問われる時代です。でも、そうでない大半の人たちには、みかけだけに囚われて考え違いをしないで欲しいものです。
○邦楽は、音声を鍛える
音色をしめたり絞ったり、まるで染物のように声を歌へと編み上げ、色づけしていくのは、邦楽の世界の方が多彩です。輝き、響く声、柔らかく美しい声を会場の隅まで飛ばせることを条件に求めるオペラと異なるところは大です。そこでどのような価値観で判断するかは、その世界、そして師匠の感受性ですから、ここでは触れません。
ただ、一流のものは、シンプルに飛んできて、聴く人の心にしみ入り、何か奥深いものを宿したり、動かしだします。声が違うと言うよりも結果として表現の働きかけが違うのです。基礎の上で離反した本人独得の表現だから、それをトレーナーは云々できないし、しても仕方ないのです。
再現性をキープするための喉や体の管理について、基礎の基礎を固めるくらいのことでは、分野という境界なく共通です。私は極端にいうと、これらをフィジカルトレーニングやマッサージと同じように位置づけしています。今はヴォイトレにも、フィジカルトレーニングが幅を利かしてきています。
声のベースのキープは大切です。私も毎日整えています。日頃、体を動かしておかないと、動けなくなるのと同じです。ただ、これをもってトレーニングというのは私には抵抗があります。
○名人には簡単には学べない
一流に学べと言いますが、名人の表現は、結果としてすごいから、感覚の奥に入れておくために、ただ開く、聞き込むだけです。直接の参考になりません。
弟子なら、師匠と、師匠はもちろん師匠と、さらに彼らの手本、見本とした名人のものを繰り返してみて、聞いておくとよいでしょう。このときは目をつぶって入れておくのです。(私のように眼をあいて客の心にも沿いながら客の聴いているものを聞くには少し修行がいります。)
そのまま真似することが、稽古では求められますが、ヴォイトレではよくないことが少なくありません。守破離でいうと、名人は離反してしまっているのです。本人のもつ喉の絶妙さで、ギリギリの表現をしています。声の延長上というよりは、それを超えてしまう破、飛躍してしまった離で、作品を提示しているので、まねると危険でもあります。
基礎のデッサン力のない人が、いくらピカソの抽象画を真似してみても、でたらめにしか感じられないのと同じです。ですから、学ぶとするなら、初期の若い頃のもの、最初の頃の作品の方がずっとよいことが多いのです。
これはトレーナーにもいえます。私が若い人を若いトレーナーに預けるのは、もう私の声のトレーニングでは、生きた年月でも、培ってきたキャリアでも、名人ではありませんが、離れてしまっているからです。ベテランのトレーナーも、「自分のようにやってみるように」と、教えるのはよいですが、そのようにできないことを注意しても仕方ありません。
トレーニングは成果が出るには、必ずそれなりの歳月を必要とします。また、そうであればこそトレーニングというのです。
1,2ヶ月で、あるいは半年、1年で、いかなる芸事の分野で一人前になれるでしょうか。基礎が習得できるものでしょうか。
人前で演じられるのに、最低、必要な条件というのがあります。最初からそれがあればトレーニングは必要ないのです。とはいえ、より高みを目指したり、確実な力をキープするなら、やはり、それは最低限、必要なものなのです。
最初に、固い、直線、強い、弱い、などというのは、やがて柔らかく、丸く、コントロールできるようになります。ならないところは、ある時期、無理をかけてやってみることがあってもよいと思います。私は、拡散が集約され、そして固定が自由に解放され、ゆるやかになってくるのが、上達のプロセスだと痛感しました。
しかし、その前にいろんな準備段階があるのは悪いことではないのです。固定するのが悪いとはいえ、解放がいい加減なときは一時、固定させていくのもプロセスなのです。喉も同じで、閉まっている人には閉めるなと言うのですが、閉まりもしない人(声にならない人)は閉めることから入ることもあるのです。
そして、やがて飛躍が来ます。私には、そのように感じられました。
声に息や体がついてくる
吐くのでなく、吸うように出ていく
当たるのでなく、集まってくる
○ステージ以前の歌の基礎
たとえば、
1、 声が伸びずに生声になる。響きがない、声量が足らない。
2、 高音が出にくい。または、中低音域が出にくい。
3、 ピッチがずれる。リズムにのれない。
4、 発音、歌詞がクリアに聞こえない。
いざステージとなると、誰でもこのような問題への対処が迫られるのです。この個々の問題はこれまでにも触れてきましたね。Q&Aブログにもたくさん述べてあります。
ここでは、トレーナーとしてのスタンスのとり方、ひいては、本人へアドバイスすることとして、あげておきます。ケースによって相手によって異なるので、いつものように「自論」として(ここで「自論」というのは持論というよりも、自分だけのための論法や自分に限定したなかで通じる例としてのような意味、私見に近い、他人には役立たないものですが、それゆえ、一時例、特殊例として突き放すことで一般化でき、誰もがワク組をとることができる、というその視点であげておきます)
まずは、スタンスとして、これらの問題は個々に具体的であるのですから、ステージとして、あるいは歌としての問題でなく、ヴォイトレの問題、声の基礎や音楽の基礎としての問題です。ですから、ステージ以前に解決しておくべきことです。一言で言うと、これらは、もともとできていないままに出してしまったゆえに出てくる問題だということです。
今TVに流れているフィギアスケートで例えるなら、TVで放映されるレベルの決勝ラウンドでは、仕上がりや技を競います。でも予選や、習い始めて間のない子供の発表会やコンテストなら、最後まで何とか滑れるレベルで競うこともあることでしょう。
テンポに遅れないだけのドラマー、コードだけを何とか間違えずに抑えられるベーシストは、アマチュアですが、自分の足らなさを知っています。歌やせりふは、そこがあいまいなために厄介なのです。ルックスや慣れだけでもけっこうよいステージに立てます。
必ずしも、大した練習を必要としなくてもできる人もいるだけに、大体はこのレベルという問題が捉えられないままに進められてしまうのです。そしてあるとき、急に全くの基礎のなさに気づくことになります。
あるときとは、
1、 より高次のレベルのことをやるとき
2、 より高次の人とやるとき
3、 自分のベストがキープできなくなったとき
などです。
○基礎とは何か
この基礎とは、音大やスクールで学んだことを意味しているのではありません。自己流でも、プロとなった人のなかには、卑下して、「全く基礎がないので」と、私どものところにいらっしゃったりすることもあります。でも、プロであったなら基礎がないのではありません。音大やスクールに4年間行って学んだことが基礎ではありません。それと異なっても、きちんとした活動が4年間もできていたならば、はるかに高い基礎力があるといえるのです。
「歌ってきただけだから」とか、「舞台に出ていただけだから」とおっしゃる人もいますが、そこで、声の力を少しでも認められていたのなら、声の基礎は、100点満点のうち70点くらいは充分にあると自信をもってよいのです。それが50点でも歌や演技などで70点になり、ステージで100点満点になっていればよいのです。
応用されてこその基礎であり、応用できない基礎は、本当の基礎ではありません。100点のステージができるなら基礎も100点といってもよいくらいです。声の基礎は必ずしも100点なくてはいけないのではないのです。
少し基礎の話を詳しくします。応用できるまでに基礎は応用のできないステップをふみます。応用できないから、基礎をきちんと固めるのですから、あたりまえですね。
先の5つの問題は、応用できないところで気づかされた、フィードバックした基礎のレベルの欠如という見方もできます。ただし、その5つの基礎をしっかりとさせたら、応用での歌がすべてよくなるかというと、必ずしもそうはなりません。基礎といってもたくさんあるからです。
○基礎と生命力
以前に木と根、建物とその地盤ということで、応用と基礎をということを説明したことがありました。今回は建物で例えましょう。その地盤を掘って、コンクリや杭を打つことを、まさに「基礎」といいます。そのときに、真下に何メートル掘るのか、どのくらい固めるのかは、地盤の固さにもよりますが、建物の大きさ、とくに高さや強さによるはずです。また、どれくらいの安全を保つ必要があるのかにもよります。地震の多い日本は、世界一厳しい基準ですね。かなり余裕をもたせているはずです。
基礎も考え方でいろいろと変わるということです。さまざまなバリエーションがあります。形、量、深さ、時間など、どこまで必要であるのか、必要とするのかに見合うものであるべきです。
応用のバリエーションにおいても、これは、かなり変わるでしょう。目的がいつものメンバーとのカラオケで同じ曲を同じように歌うというのなら、かなりの限定ができますね。限定する方が早く仕上がるわけです。ただ本当の基礎はいつ何時、どんなときも通じるレベル、などというと、余裕があるに越したことはないので、限界がない基礎となるでしょう。
○ステージでの解決
話を戻して、ステージでの問題は、発声、声に落とす前に、ステージとしてのレベルで解決することが早いし効果的です。ヴォイトレがブームとなってから、すべてを発声や声帯、共鳴のせいにする傾向が強まってきました。
「基礎がないからうまく歌えない。せりふが言えない」これは、勉強熱心な人に多く、最近は、ヴォイトレ、トレーナーなどの存在がこの傾向を助長しすぎた嫌いがあります。
本当につきつめてこそ、発声や声帯の問題も入ってくるのです。しかし、多くのケースでは、そんなことまで掘り下げなくても、ステージはステージングだけの問題として解決できることが多いのです。
だから、プロデューサーや演出家は、声にまでふみこまずに現場の演出で解決しています。それは、カラオケの先生が1,2月で発表会の歌を仕上げてしまうのと似ています。表面を加工して、お客さんが「へた」に気づかないレベルにする、あるいは、そのポイント(この場合は、耳)をずらすのです。そこでは、何よりもメンタル的なもの、フィジカル的なものでの調整がものをいいます。もちろん、音響技術での音声加工によるところも大です。
モチベーション、意欲、気迫、やる気、自信、覚悟、体調のよさ、体力、気力の充実、リラックス、疲労感軽減。
これらは発声でなく発声の基礎、いや、人としての基本、生きる力での問題といってもよいでしょう。
ステージには構成、展開なども入ります。音響、照明、伴奏、アレンジ、パフォーマンスなどで解決できることもたくさんあります。
それぞれについて、10点満点でチェックしてみましょう。低いところは補なったり対策をします。その分野のプロのヘルパーを捜すのも大切なことです。
現在のステージのように総合芸術化した上にコラボを必要とする分野では、トータルとしての力と、個としての力について、いつも両方からみることが大切です。そのすべてについて、私も専門ではありませんが、それぞれの専門家がどうみるか、あるいはそこまで行かなくても、それぞれの専門家をどうみるかは知っています。
自分の限界を知って、他の専門家の領域はその人に任せるのは、門家としての大切な見識です。世の中に何でもできる人はいないのです。つまり、一人のトレーナーからすべて学ぶのは、リスクが大きいということです。
何よりも、そのトレーナーが「すべて一人でできる」「自分のだけが正しい」と思っているような人だと、あるいは、そのトレーナーのそういう時期にあたると、その生徒もそのように思う人ばかりになってしまいます。世に出られない人を育てる「立派な」先生になってしまいかねないので、ご注意のほどを。
○まわりと変える。自分を変える。
天と地、今立っているところにきちんと足をつけ、現実の世の中の求めていることの少し先を行くことは、まさに基礎であり応用です。日本人には、この2つのみえないままに、宙ぶらりんになっている人が多いように思います。「みえない」とかいうよりも、「みない」というべきかもしれません。自分自身のもっている力と、世の中や、他の人の求める力ということについても同じことが言えそうです。
自分を変えるのは、まわりに合わせるのでなく、自分のもっとよいところを伸ばすためです。眠っているところを起こして、充分に使えるようにするためです。
ただし、ここでも日本の場合はダブルスタンダードです。充分に自分をみないまま、先に求められる形があって、それに早く、器用に合わせるように求められます。そのように学ぶと本質を見失いがちです。
でも、受験勉強でもそんなものでしょう。詰め込みだからと避けるよりは、正面から受け止めてクリアしたのちに、自分の足で歩くとしたら、そのストックは悪いことでもありません。一人で自分のことを知るのは、とても難しいからです。
今考えると、私が、当初からオリジナリティの発掘などを、私自身に頼りすぎず、感覚や体を磨き、一流のもつオリジナリティにふれつつ、プログラムしていたのは、我ながら、なかなかのものだったと思います。でも、その先に自分で歩むことを求めない人には、ただの遠回りに思えるかもしれません。アーティストであるなら、自ら釣った魚を自らさばいて食べるべきです。いつまでも魚を買っているばかりではいけないということです。(このプログラムあたりについては「声と歌が…」参照)
基礎としての基準づくりは、まわりと相関させながらも、独自のものですから、他人とは一致はできないものです。少なくとも、それが応用されたときに他人と明らかな差異が出てこなくてはなりません。ここで日本人は、大きな勘違いをしてしまうのです。他人と同一化する方へ自分をゆがめてしまうのです。
自分だけのものを、よしあしの前に見極めなくては、声もフレーズも決まってこないのです。そこで必要なのは、発声技法でなく、本当に、声からの表現を導く発声、フレージングなのです。
○成果と評価
ここのヴォイトレのメニュには、呼吸、発声、共鳴(胸部、頭部)声域、声量、声を伸ばす、響きを集める、声を飛ばす、体に感じる、のどをあける(共鳴腔を広げる)、息をコントロールする、スケール、発音、母音子音など、さまざまなものがあります。他のところにも、たくさんのメニュがあります。考えるまでもなく、食事や健康法、体を治す方法をみても、いろいろとあります。誰もが自分のが正しいと、あからさまにそうは言っていなくても、主張しながら、流行したりすたれたりしています。
TVなどで、とりあげられるヴォイトレのメニュは、絵にする必要上、派手なものが多く、特定の人には役立つが、あとの人にはあまり役立たないもの、むしろ害になるものさえ少なくありません。部分的にはよい場合もあるが、トータルでは、あまり効果のないものばかりといってもよいくらいです。世界でもっとも多くの声のメニュを扱ってきた私の言うことですから、一理あると思ってください。私自身も、いろんなメニュをテレビなどに提供してきたからわかるのです。
誰に対して何をどのように処するとどうなるのかを、まだ、声において、普遍的なレベルまで、きちんと考証できている例はありません。私としても、「一般的には」、とか、「多くの人には」、と言えるところまでです。私もいろんな経験をつんで多くの人やトレーナーを長年みてきましたから、今さら、「どれが一番正しい」とか、「どの人が一番いいトレーナーです」など、バカなことを言うつもりもありません。
評判というものも、個別である相手に千差万別であるケースにおいては、必ずしも指標になりません。なぜならトレーナーも生徒も、きちんとした基準において成果を云々しているわけではないからです。まあ、「プロになりたくて、レッスンしたらプロになれた」というようなことは、一つの名目のたつ実績でしょう。私どももオーディション合格のパーセンテージなどは、実例としてわかりやすいと思いますが、残念ながら、どこまでトレーナーやレッスンがそこに寄与したかを、客観的に証明するのはできません。
再三述べているように、声のレッスンは、その充実感や満足感が評価の重きを占めることになりやすいものです。最近の傾向としても、病院が医者の腕より、ロビーの心地よさなど、サービスでランキングされるのに似ています。風邪ならそれでよいですが、死ぬかもしれない患者を救うために腕を磨いている医者もいるのですから…。ときとして、医者と病院の評価は、ときにまったく相反してしまうわけです。万一の訴訟を考え、患者の受け入れを拒む病院や、執刀をやりたがらない医師が出るゆえんです。
ヴォイトレは健康というもの以上にあいまいなので困りものです。
無理しても響いたら喜ぶ、高い音にぶつけられたら…。説明ばかり求めて、自分の知識が増えたり、うんちくが確認できたら喜ぶ。こういうのもレッスンの福次的産物に入るのですが、成果とは、いいがたいものです。
○すぐにわかること
トレーナーのもつ感覚や体ができることを、すぐにできるのでしたら、それは間違っているか、ごまかされているだけなのです。あるいは、そのトレーナーが基礎ができてないないのか、あまりに求めるレベルが低いということかもしれません。
でも、そのコマだけの満足感や充実感を求めるレッスンには、そういうことばかりが、大切になってしまいます。
それなら、それでもよいともいえます。入口では一歩進むことばかりが目的ではありません。慣れるとか、心地よく声が出せる体験のほうが大切なケースもあります。
研究所の一階ロビーにブルブルマシンがあります。それに乗り、全身をリラックスさせると、それだけでよい効果が出るかもしれません。パソコンやスマホの疲れがとれるだけでも声はよくなるでしょう。体が柔らかくなり、温まり、頭もリラックスして、呼吸が深くなり、よい声が出やすくなりませんか。
トレーナーの発声は、素人あがりのトレーナーでなければ、そこにすでに何年ものキャリアの結果が示されています。深い息に支えられた声で響いています。それを将来のイメージ、あるいは基礎のあるイメージの一つとして参考にしたらよいのです。すぐにそれができたら、その日で卒業できます。(ただ、そういうトレーナーが少ないのが今の日本の現状レベルです)
(何年かに一人くらい、ここにも声を出すことだけにハイレベルで特化したレベルの人もきます。ここでは、8年前に劇団四季をやめ、ブロードウエイにいく途中に寄った人がそうでした。ほぼ、ここのトレーナーのできることをマスターしていました)
○トレーニングの実質
レッスンにおいて、それを束ねている私としては、教わる側よりも、教える側に実感のあるレッスン、トレーナーが声を出すのでなく、生徒が声を出すレッスンを重視しています。本人の限界をはっきりさせつつ、その打破の手段を与え、試みるとともに、本人の限界というくらいなので打破できないときの二次策を用意していくべきだと思います。
大切なことは、トレーニングでは、声を飛ばすこと(声量、共鳴、コントロール)であれば、どちらに飛ばすとか、どう飛ばすとか、応用に焦点を当てるのではありません。そこからアプローチするのはかまいませんが、数年かけてでも、声を飛ばせる、いや、飛ぶ体につくりかえていくことです。
そのあたりを「基礎講座」では、腕で支えた手に、しっかりと重りをのせて飛ばすこと、このときに重りが飛ぶかどうかでなく、きちんと支え、飛ばそうとすることで腕のフォーム、腕の力がつくことが肝要だと喝破しました。スポーツなどでは、ボールをどこまで飛ばすかが大切ですが、そのベースのトレーニングでは、負荷となる重りをどこまで飛ばすかが問題なのではなく、それによって腕力や筋力がどうつくかということですね。
○基礎メニュのつくりかた
たとえば、1,5オクターブで2分間=120秒の歌があったとします。声域、時間、テンポ、これを歌なら、いかにトータルとして聞きごたえのあるようになるかです。心地よくとか、バランスよくとか、みせどころをつくります。この冒頭で「声の5つの個々の要素より大切」と述べた「ステージでの個々の要素」とは、こういうものです。こういうことをうまくみせるのに、声の要素も大切という位置づけなのです。
しかし、トレーニングでは、これをもっと集約します。部分的に拡大して、もっと丁寧にするのです。たとえばテンポを半分(スピードを2倍おそく)♪=60にしたらプロでも、うまく歌えなくなるでしょう。♪=100くらいでもよいトレーニングになりますが、♪=80くらいまででやるとよいでしょう。すると声域もきつくなるから1オクターブ内に編曲(カット)してもっとも歌いやすいように移調します。発声=息(呼吸)=体の結びつきを徹底して、そこでもっとも理想的な声のポジションをみつけてほしいと思っています。
1、 息(浅い→深い)
2、 息→声
3、 声→共鳴
4、 1~3の体から声の共鳴までの結びつき
これだけで
1、 豊かな響き
2、 息とコントロールされた声
3、 深い音色(声の芯やフレーズでの線)
と、
その人の声のオリジナリティのベースが浮き出てくると思います。一瞬でも(=一音でも)、その完成形を本人に自覚させると目的が具体的になります。私のレッスンはそこが入口です。イメージの入口までにも時間がかかるものです。
○フレーズのレッスン
歌い手は、これに加え、歌=音楽です。この音色を動かしてデッサンしていくというイメージのオリジナリティが問われます。つまり色と線でのデッサンです。それは最初はイメージですが、いずれ自分のもつ声の上にセッティングできるかどうか問われるようになります。多くの人は全くできないので、自らの声の延長上にそのイメージを、声を使ってつくっていくことがステップになるのです。楽器の音が自由に動いてくると、それがフレーズになり、組み合わさり、作品となるプロセスを踏むのです。私が求める基礎というのは、本当は、ここまでのことなのです。
これをどう作品にするのかは、ヴォイトレでは、目的、表現として基礎を掘り下げるところの必要性をみるにすぎなかったのですが、音響の発達などで声の不足が補われてしまい(ごまかされてしまい)、その分、その人の表現からのデッサンを、かなり折りこんでみるしかなくなりました。(特にポップス歌唱において)
ただ邦楽の人や役者などをみるにあたっては、私は、この基礎の基礎をもとにしているので、同じ土俵で、そのままトレーニングできるのです。
○教えることの進化
私の考え方は20年以上まえから変わっていません。「基本講座」「実践講座」の2冊を読んでいただくと、具体的手段が細かく述べてありますので、そちらを参考にしてほしいと思っています。
最初の本は、私自身が学び、習得してきたプロセスでした。私の考え方と実践のすべてが入っています。しかし、15年あとに改めてペンを入れて改訂したのは、他の人に対応させるためです。他の人に教えてきた経験を加えたのです。著者のなかで、仮説と実証、理論と実践の上にさらに検証して再び、同じ本を出したのは私くらいでしょう。ありがたいことです。
この本の使い方や意味については、何度もくり返し述べていますので省きますが、こういう類の本はなかったため、デビュー本は、今からみると不親切、かつ自主レッスンにそのまま使うには、いろいろと不足がありました。
それは、ここでレッスンをしている人を元に書いたからです。そしてありがたいことに、その後、私の本で自主レッスンをしてきた人を、ここで何百人とみることになり、いろんな気づきがありました。
早々に他のトレーナーと組むことによっても別の面からの気づきが多くありました。さらに、私から学んだ人が教えるのをみると、おのずと、その人がどこを学び、どこは学んでいないか、相手に対して同じように継承しているのはどこで、改良や別のメニュにして与えるのはどこか、それはなぜか、と考えられます。よしあしはありますが、ここでの伝承、伝統ということの現実が、見事にまでわかるわけです。
しかも、どのトレーナーよりも恵まれていたのは、365日、全力投球する、すぐれた努力家の弟子(私がそのように言うと怒るかもしれないので、生徒でもいいのですが…。敬意を込めてこう呼びたい)にたくさん恵まれたことです。人として伸び盛りの時期に、ヴォイトレの5年から8年くらいのプロセスを何百人の単位でみるのは、声楽や邦楽でも、なかなか難しいのではないかと思うのです。音大、宝塚歌劇団、そしてこれからの劇団四季あたりでは可能でしょうか。
私は、才能があり、努力する人たちと、トレーニングそのものを応用、進化、分化させていきました。研究所も、声づくりだけを専らやるべきところだったはずが、歌からステージ、せりふからビジネスのプレゼンテーションなどにまで広がっていったのです。そのプロセスは以前にも詳しく述べましたので省きます。当時、考えや方法、価値判断を異にしていた人もいましたが、それによってさらに多くを学ぶことができたのです。今の研究所のレッスンは私だけで間違えてしまうるようなことができなくなっているのです。これは大したことがないように見えるかもしれませんが、個人一人で教えている先生との最大の違いであり、この研究所の、実践に鍛えられた研究所たるゆえんです。若くしてトレーナーになって生涯まったく変わらず、研究だけを深めているような人もいます。自分だけが正しいと、他を否定することでしか自らを肯定できない人もいます。すべては試行し、錯誤し、間違い、改め、そうやって、ものごとは進歩していくのです。今の研究所も私のやり方も万全とはいえません。しかし、長い年月にわたり変わっているからこそ、古くて最新でありえるのです。
○万能薬はない
研究所で私がもっとも学べたのは、一つの方法をもって、すべてのタイプ、すべての時期には当てはまらないということでした。トレーナーの違い、方法の違いは、生徒の違いと同じく、どこで同じ、違うと分けるかがすでに、偏りなのです。その判断自体が価値観の違いにすぎないからです。
同じとしたものを丁寧に細かくみていくと、やはり違うのです。ですから、「正しい判断」などという論争は、この分野では本当に不毛です。
皆さんにも方法やトレーナーについての、そのような先入観や固定観念で判断するのをやめるようにお勧めします。
毎回、少しずつ身になることもあれば、どこかの時間をバーンと飛躍することもあります。しかもそれは、トレーナーや方法よりも本人によることが大きいといえます。
さらにレッスンやトレーナーは、本人が役立てるように活かせばよいというものです。同じトレーナー、同じ方法でも、活かせる人もいれば活かせない人もいます。誰もが少しずつ活かせる人や方法もあれば、誰かがあるところでバーンと大きく活かせるのもあります。
私自身が十数名のトレーナーのほか、外部のトレーナーのレッスンの情報も集めて、内外問わず、方向も含めてアドバイスしているのは、そういうことをやれる人がいないからです。
誰もが正しい方法、正しいトレーナー、正しい…を求めています。そして、ほぼすべてのトレーナーが、それは自分だと思っています。(私のところのトレーナーも多分に同じです)
それは、考えればおかしなことなのです。皆が正しいなら、皆同じになるはずです。
目的やレベル、プロセス、自分でできることできないことなどを、個々に絞り込めばもう少し選びやすくなります。
私のところで4人くらいのトレーナーを経験すれば、日本の8人くらいのトレーナーを体験するのと同じ、世界の(といっても欧米中心になりますが)およそのヴォイトレはわかると言っております。
研究所にはアメリカのセス・リグスからイギリス、フランス、中国の発声の、プログラムや音源などがあります。日本のものは、この30年内のものは9割は、揃えています。高木東六さんや曽我さん、松田トシ(敏江)さんから、まだ今、30代のトレーナーのものまであります。
さて、本編に戻りまして、私と日本の声楽家の叡智を集めたつもりの研究所のトレーニングは、今や私のトレーニングの欠点をもフォローしています。
世の中には、より早く上達させられるようなプログラムや機器がないわけではありません。ただ、何度もくり返すように、トレーニングというからには、長期的に確かな差となってくるもの、逆にいうなら、すぐにちょっとした違いにしかならないものは、無視するべきです。こういう方針は、この現代には合わないのかもしれませんが、私は死守するつもりです。
オーディションに受かりたいなら受かることをすればよい、しかし、その後続かなければ…。人生は長いのです。
生徒でもトレーナーでも、2,3年でやめる人が多いのですが、プロというのは、10年、20年やって初めてそういえるのです。せめて、トレーニングというなら、そこで力になることをやるべきです。その2つの根本的な違いについて、私は何十回も述べているのです。
○表情筋のトレーニング
80才で、ますますお元気なドクター中松さんこと中松義郎さんには、私が20代の頃、虎之門でお会いしたとき、その頃(今も?)面談まえに40分ほどの自己紹介PRビデオをみせられたものです。都知事選には、彼とともに、マック赤坂さんが、このところ毎回立候補されています。
ヴォイトレで表情筋について、最近はよくクローズアップされています。美容の方では元より詳しく扱われていたのですが、カメラでさえ笑顔認識する昨今、口角を上げるのは、必修化しつつあります。表情の魅力づくりとして、自己啓発セミナーでもよく取り上げられます。笑いのセミナーというものあります。アンチエイジング、ボケ防止、就活、婚活にと、この口角上げは、まるで万能薬のようです。
声楽やヴォイトレでは、以前から割りばし、スプーン、鉛筆、指などを使って、教える先生もいます。共鳴のために共鳴控を拡げたり、舌根を下げ、喉頭を下げて、声道を広くすることが、直接のねらいです。
私のテキストにも、表情を各パーツごとに動かす運動を入れています。これは、初心者や自主トレ用に入れたものです。私のレッスンや私自身では行っていません。(ここのトレーニングでは似たことをやるレッスンもあります)ただ、声の調子の悪いときに少しやることはあります。表情がこわばっているときは全身、体の柔軟性も失われていることが多いのです。
なぜ自分がやらないのに本のメニュに入れているのかというと、体力づくりや柔軟と同じような意味で、これは基礎レベル以前のことだからです。それの伴っていない人に、意識づけ、アプローチさせるためのものです。
私の表情は昔からゴムまりのようにフワフワでした。つまりよく使っていたので、やる必要がなかったのです。今年、最少年で東証一部に上場した会社(リブセンス)社長、村上太一さんの顔のような人は必要ありません。
新人の営業マンはミラートレーニングでやらされますが、ベテランはいつも表情が柔らかくなっているので不要です。新人アナウンサーは早口言葉をやって、局入りしますが、ベテランは不要です。身についていたらよいのです。
私のテキストには声を安定させるまでは、あまり口を大きく動かさない(発音より発声になっている)のです。その期間、あまり表情を使わない人は、補強すべきだと思ったので、本に入れてあります。しかし、高音の練習になるにつれ、表情は動き、太もものあたりに支えが求められます。そのあたりでのトレーニングをしていると、表情筋のパーツトレーニングは兼任されるものです。(この支えの感覚の要、不要については、改めて述べます)
「基本講座」には「へたな練習するよりも、腹を抱えて笑った方がよい」と述べました。(これを声の本で最初に引用してくれたのが巻上公一氏でした)毎日、腹を抱えて笑っていたら、このトレーニングはいりません。
目的は、声で伝えることですから、発音の明瞭さは一つの要素にすぎません。明瞭でないよりはよいのですが、明瞭さにこだわるあまり、声質、感情、間、メリハリが犠牲になっては、元も子もありません。表情たっぷりに歌う人もですが、基礎の発声において、装飾のしすぎは禁物です。
でもレッスンやトレーニングで滑舌(早口)に凝りたいときは、それでよいのです。
○発音の前に発声
声楽家がそういうトレーニングを基礎に入れていないのは、口形を変えることで、声の質に影響が出てはよくないからです。魅力的な声の共鳴、輝きと発音のクリアさは最高音になると、両立しがたくなります。そこで、オペラ歌手は当然、共鳴の完璧さを取るのです。
通の客は、声を聞きにきているのです。初心者の客は、ことば=ストーリー内容を聞きにくるのですが、オペラは原語で歌われるので、どうせ初心者にはわからないから、声を犠牲にできない。それゆえヴォイトレの目的との一致をするのです。
役者はことば命ですが、それも、しぐさ、表情に従属します。死にそうな状態になりきれば、そこで出た声がリアルになるのです。そこがオペラとの最大の違いです。
劇団四季は、母音の口形練習の徹底で、誰でも聞きとれる発音重視の日本語にするため、喉に負担を強います。浅利さんが演劇出身で、音楽軽視なところは他にもみられますが、それゆえ、日本人に合っているのでしょう。日本人は、ことば、ストーリーの方にしか耳がいかないという私の論の証明になります。
○ベテランアナと新人アナの違い
若いアナウンサーの場合も、日本では声もできていない状態でTVに出すのですから、どうしても口形重視となります。そんな表現力のないアイドルアナを起用するのは、日本だけです。それをいうなら歌手も声優も役者もレポーターも、すべて似たようなものとなりますが。これらは先に述べた「できないのに出ているために見過ごされていた問題が出てきた」という一例です。これは一流レベルのセレクトがなされている国や分野では起こりません。
彼女たちの
1、 口のはっきりした、わざとらしいくらいの動き
2、 そこでの発音
3、 そこでの声
4、 伝わる度合
これをベテランアナと比べてください。1~4の重点が全く逆の結果になりませんか。
ベテランは、
・よく伝わる
・声がいい、個性的
・発音はあまり気にかけていないがクリア
つまりは、発音の明確さは、本来は目的でなく「伝わる」のが目的なのです。それがなかなかできないから、発音とルックスのよさで何とかやれているのが、新人アナなのです。日本はメディアに主義主張の偏向のあってはならない、というおかしな国です。ただ正確に内容を伝えるだけが報道である、ということです。そういう本来ありえない未熟なジャーナリズムには、ルックス本位の人の未熟な声が魅力的なのでしょう。
本当のことをいえば、それもいらないのです。口をはっきりと切りかえるのは不自然です。アナウンサーが、朗読、詩吟などをやりたいというと、そこの先生に「素人より悪いくせがついている」などと言われて、よく私のところにきます。役者のせりふやお笑いについても、うまく噛み合いません。私も何人ものアナウンサーをみてきましたが、一種の職業病です。日常会話さえ、報道モードになる人も少なくありません。(でも、欧米では、一般の会話が報道でなく、日本でいうところの演劇モードなのですね)
そこで表現の本質をわかって、声を伝えるようにした人が、キャスターやメインの仕事で40代、50代と活躍しています。たとえば、国谷裕子さん、森田美由紀さんなど。
大竹さんのラジオ番組に出たとき、阿川佐和子さんに「役者の声は、もてますが、○○アナウンサーの声はどうですか」とふられ、「だめです。もてません」と答えたところ、阿川さんは「アナウンサーは。(句点)までしか読みませんが、役者はそこで切ったあとに、伝わらなくては」というようなことを言っていました。「さすが」です。
○本質的なメニュとは器づくり
しかし、私たちのヴォイトレでは、声中心にしたいものです。
ヴォイトレにおいて、本質的なことをやりたいのであれば、本質的なメニュとそうでないメニュくらいは区別して知っておくことです。これを説明しても伝わらないのは、同じメニュでも、その人やトレーナーの使い方で学べることにもなるからです。本質的でないメニュのようでも使い方によっては本質的になることもあります。
たとえば「外郎売り」は滑舌のための早口ことばとして使われているメニュですが、メリハリをつけて使うと、口上として表現力を磨くことができる、魅力的な課題となります。(ただ初心者には難しいので、どうしても滑舌のトレーニングメニュになりがちです)
表情筋トレーニングは、よく高音の発声のためのメニュに使われていますが、本当は、高音を出していくと表情も動いてくるのです。(動かずに最高音を出せるのは、パバロッティのレベルで一流かも?)そこで、兼任できるのが望ましいともいえます。
これは、きちんとヴォイトレをやっているなら、立ち方のための30分のメニュなどが不要なのと似ています。退院したてのような人はヴォイトレの前に何か月か、筋トレ、柔軟、呼吸に追加して、発声せずに立ち方のトレーニングをした方がよいと思います。(前に私の本で、体験談として述べました)
とにかく一人ひとり異なるのです。それを一人では捉えられないからトレーナーが必要なのです。そのため、トレーナーには幅広い視野と深い考察力が望まれます。
誰にでも共通した「基本メニュ」を難しいと言われ、そのたびに、より簡単にしたものもたくさんつくってきました。他のトレーナーの皆さんにも、「これがいい」とか、「これは間違い」とかいろいろ言われているようです。しかし、これも、メニュの内容でなく、目的を明確にすることの方が大切であり、メニュそのものは、使い方で変えれば、どうにでもなるのです。一つか二つを使い込めたら、充分なのです。
たとえば「母音はどの音、子音はどの音を使えばよいのか」というと、私共も「共通Q&A」で、ご覧になるとわかると思いますが、それぞれの母音、子音にいろんな特徴があり、それによって可能性や処方があるのがわかると思います。どれか1つが絶対ということはないのです。目的やその人のレベル、タイプによって異なります。(詳しくは改めて触れます)特にメニュを変えなくとも、使い方を変えれば、ほとんどは対応できるのです。
どれがよいとか悪いでなく、その人の今の発音や発声によるし、目的にもよるということです。
それにしても、この研究所でさえ、ほぼ全員トレーナーが使うスケール(音階)、母音、子音が、これほどまでに違うのは、おもしろいことです。その違いを超えて、学べたものが本質を得るということがわかります。すべての発音やスケールを学ぶ必要はありませんが、いくつかを使って全てに通じるものを学ぶとよいでしょう。
○バランスの崩しかた
さて、最後にいつものように物量で、ヴォイトレをまとめておきます。先の唱歌の例に戻ります。その1フレーズ(8小節くらい)をサンプルとします。あなたの歌うための声、器の容量が2オクターブで16だとします。
器(トータル)を拡げるイメージ
トータル=2オクターブ(使う声域)×16小節[伸ばす長さ]×声量
2オクターブなら8小節(SHとする)×声量1(単位は仮に1Qとする)
1オクターブ~8SH×2Q
半オクターブ~8SH×4Q
3音~8SH×8Q
1音~8SH×24Q
1音~4SH×48Q
1音~2SH×96Q
1音~1SH~192Q
2オクターブで8小節歌っていたのを、1音で1小節にすると192倍の声量が出るわけではありませんが、2倍以上の大きさの声は出るわけですね。
全くわけのわからなかった人には、別の例え方で(「基本講座」と似た例で)説明します。
今度は長さ(小節)を省きます。あなたの器を100として、10×10つまり、声域1オクターブを10とし、声量に10を使うとします。
→声域を半分にすると5、その分声量へ20をかけられます。
→声域を3音だけとすると、声域3×声量33,3…
→声域を1音(もっとも出しやすい1音高)声域1×100
つまり、1オクターブで歌うと10ホーンでしか出せない人を、もっとも出る1音だけにすると100ホーン出る。もちろん、極端な例として例えていますので、こんなことはありませんが、イメージしてみてください。
たとえば「アー」と目一杯出してみればわかりますね。大体は、このままの声量で歌には使えません。歌には声域などがあるからです。カラオケの人は、声量を小さくして声域をとりますね。この2つの他にも、長さ、メリハリ、音、リズムなどが同じように変数として使えます。しかし、目的は、先ほどのように器そのもの、つまりはトータルを増やしていくことなのです。
そこで、私のトレーニングでは、体、息、声、それぞれを器を大きくすることを目指します。さらに大切なのは、同時にそれらの結びつきを強めていくことです。そこでは深い息、深い声がポイントとなります。
拙書の「基本講座」では、高低差(声域)3度ドレミレドと、声量ド<ド>ド強弱差(声量)を同一の見地で述べています。ドからミへ音(ピッチ)が高くなるのは、体や息の負担でない。むしろ「高い方は楽になる」というのが反論としてありました。(新刊版ではそれに対しての説明も加えています)ここでは、振動と周波数のことを述べているのでなく、もし、ドがもっとも出しやすいなら、ミは(あるいは下に3度低いラでも同じ)その台の支えをつくらないと同じには出せない―出せるようにする―そのために息や体が備わるということです。息や体の力を強く使えということではないのです。(音色を同じに出すというのは文章では伝わらないので、知りたい人はいらしてください)
歌唱、発声の2オクターブをみると、ほとんどは1オクターブ半以上高くなると、声帯の使い方が変わります。(声域が変わる。裏声、ファルセット)そこでは別のやり方で、振動数(つまり周波数)を増やす使い方になります。しかし、「基礎講座」は基礎1オクターブが中心なのです。話声区においては、強く言うと高くなるという、単に、声門下圧と声帯(声帯の長さと緊張度)で捉えてよいのです。
ただ、それでは、多くの人はあまりに喉声なので、私は、いわゆる胸声でのフレーズで動かしていくようにしています。つまり、クレッシェンドと同じ感覚で音程(この場合高めの音)をとります。(「メロディ処理」=私の造語参照)
ベルディングのようなのは、声楽では中高音になると否定されていますが、単なる命名は実体を伴わないので論じません。地声(1オクターブ内)では、一流の声楽家は皆、声の芯で同質の共鳴を深くキープしています。(日本人が歌唱をせりふの延長上でなく、響きの方からもってきたことについて、非日常的であり、そこに二重性の問題をはらむというのが私の立場です。日本人の歌唱が、なかなか自然なロックや、ミュージカルにならないことについては、「トレ選」や私の本に詳しいので省きます)
ここで述べたかったのは、すべてのバランスをとることこそが、うまくこなすことの目的になりがちですが、トレーニングは、そのベースを固めつつ、ときに、その逆を試みるものだということです。つまり、バランスを意図的に崩してそこで、異なる可能性を追求するのです。(違うメニュを使うのもそのためです)そうして自分自身の本質を知っていくのです。本来は基礎だけでなく応用である表現そのもので、これまでのバランスを壊してももつように、それがもっとよくなるようにしたいものです。