○本質の話
○本質の話
総合化と個別化で触れたかったのは、声のまわりの問題を総合化としてはぎとり、その人自身の声そのものの問題に、より焦点をあてたかったからです。そこで、声はどのように鍛えられていくかということを私はみてきたのです。
ヴォイストレーナーも成果を急がされ、プロデューサーや演出家的な役割を求められるなかで、これは忘れられ、あるいは取り上げられずにきた大問題です。彼らのチェックとの違いは、彼らは声質や才能ある、すでに選ばれた人を扱えばよいということです。あるいは選ばれるまでを、よりよくセッティングする、調整するのです。
私も最初はプロに対してレッスンをしていましたから、そのようにしていました。しかし、トレーナーですからトレーニングして、そうでない人をプロレベルにしなくては、あまり意味がない。その名には値しないと思っているのです。(そこでのここの現実の歩みについては以前に述べました)
アーティストを育てるのは10戦10勝とはいきません。そこでヴォイトレは確実なものとして、ローリスクローリターンの声の調整一辺倒になってきたのです。しかし、確かに発声法でなく、声そのものが変わっている人、声がプロになっていく人は、たくさんいるのです。
このプロという声の定義はとてもややこしいのですが、私は本で、いくつか機能面をチェックとしてあげています。その多くは総合化、声の使い方についてのもので声そのものではありません。
本質は、声質、音色についての変化についてみるべきです。
役者、声楽家には、大きく変わる人がいます。しかし、他の分野では10代後半から20代、成長が止まるまではあまり、落ち着きません。その後、老けたり、かすれたりすることはありますが、男性の第二次性徴期の声変わりほどの大きな変化はあまり起きません。しかし、顔が人を表すのと同じく、声も人を表します。職業や地位の変化により声は案外と驚くほど変わることがあります。
同じ人でさえ、自信のあるときと、落ち込んだときとで全く変わることもあります。
○声の使い方での変化
ものまねの人を見ていると、かなり意図的に音色をつくる能力を、私どもは持っていることがわかります。奥様族には、よそ行き声と子供を叱る声、1オクターブも違う人がいます。時として、電話での応答などで、相手を知るなり別人のようになるのは、女性に限ったことではありません。
これらは口内や声通での変化によって可能なのですから声の使い方となります。魚市場のせりやアメ横の売り声は、職による嗄れ声が多いのですが、なかには立派な声の人もいます。同じ人が社長になるか平社員か、営業か技術職かでも20,30年の歳月は人の声を確かに変えます。とはいえ、データとしてはとりがたいでしょう。心身が弱ると声が別人のようになるのも、これまで触れてきました。ホルモン剤などでも違ってきます。
声を使わなくなったための劣化は、声をよく使う職業から引退した人をみると、よく感じられます。歌手のなどは、歌わなくなると声が高いところへ届かなくなります。声量も衰えます。
トレーニングは、使わないために劣化することの真逆をやると思えば良いのです。使っていくことで、その扱いをすぐれさせていくのです。ただ、使い方を間違えると痛めるのは、他の分野の肉体トレーニングと同じです。
最初は、その人にあった量や時間がありますから、無理せずにゆっくりとコツコツ長く続けていく、が理想です。しかし、早く変えたいからトレーニングする、そこに矛盾が出てくるのです。
「使い方を間違える」というと、声の間違い、間違った声や不正解の声があるかのように思われる人もいるでしょうが、これは目的にそぐわない方向にすることと言い換えておきます。
○育つということ
声楽家の先生などには「日本人の発声は皆、間違っている」と言う人もいます。「日頃からイタリア人のように発声しろ」と教える先生もいます。私はそういう、古きよき人たちの理解者でもありたいのですが、それでは一般化できないから、彼らは相手にされないのです。
私はビジネスマンにも「声の問題を解決したければオペラを学べ」とさえ言っているのです。オペラ歌手やイタリア人のような声になりたい人でなくても、クラシックといわれるようなものは、人類の財産として共有すればよいと思います。
よく使われている「大人のラジオ体操」にも、プラスαとしてバレエの基礎やヨガが、載っていましたが、人類皆兄弟です。
でも、そういう先生方は、なぜかしら排斥的で、「他の先生は発声も教え方も間違っている」と平然と言うのです。それには違和感を感じざるをえません。
私がこれを述べているのは、自己を正当化するためではありません。結果として、誰でもそのままでも正しいという自己肯定から始めています。文句を言うと、天に投げた矢は、自分に落ちてくるのです。研究所も、私以上の生徒やトレーナーがきて、学べることを前提につくっています。そうでなければ私が行う意味がありません。
世の中には、すばらしいアーティストや演奏者がいるのですから、そのようになりたければ、そこに行けばよいのです。しかし、そのうちの1パーセントの人もそうはなれない。そこから、ここはスタートするのです。
私が教えるのでなく、皆が学ぶのです。私に追い付くのでなく、私やトレーナーを叩き台にしていくのです。本もブログもメニュも材料であり、叩き台です。
次の時代のために、次の人がより高いところへ行くためにここがあるのです。これを間違えると、いろんなすばらしい劇団とか、養成所とか、アーティストのところでも、人は大して育たないのです。
そもそも歌や声が声がよいからと真似したところで、人は育つものでしょうか。それがトレーナーの資格だとすると、私は世界一、声がよく、歌がうまくならなくてはなりません。
私が見本をみせるとよくないのは、それがサンプルになるからです。サンプルの一例というならよいのですが、気をつけないと(いや、気をつけていても)それが絶対視されていくことがあります。私も、個人レッスンになってからは、気兼ねなく声を出しています。
でも、ポピュラーではオペラと違い、(オペラでもそうかもしれませんが)先生に似ていくのは自殺行為になるのです。
影響力のある人ほど、その影響をストレートに与えすぎてはいけません。それにより洗脳された人が集まるようになります。
一流のアーティストと出会い、そこに学んでいくやり方は、これまでもくり返し述べました。そうして環境=場と材料、基準を与え習慣化させていくことが、ここのレッスンの真髄です。
○体と声
さて、ジャマイカの曲に関西弁をつけて大ヒットをとばした、とある人の話です。彼は私のところに向こうのレベルの声と体を求めてきました。そのころの私は、まだ体についての理解が十分ではなかったので、彼は、イチローのトレーナーのところに行きました。「1ヶ月で太ももが2倍になった」と言って、それに対応できるようなヴォイトレを求めていたのです。
1ヶ月では声の太さは2倍にはなりません。外国人のような声にもなりません。あるいは、声の太さや外国人と同じとは、どんなことなのかということになります。
声帯は2倍にもなりません。喉の筋肉を2倍にはできません。(将来の整形外科手術などでは可能かもしれません)そもそも発声と筋肉量の明確な関係はわかっていません。力の働きと発声は違います。音に変化させるのですから、筋肉を使うとはいえ、音響科物理学や音声生理学の分野です。
しかし彼の要求もよくわかります。これまでにもボディビルダーやフィジカルトレーナーのように体のつくりそのものを、毎日のトレーニングメニュや食事、他、24時間の管理において実現していくのは、トレーナーの夢でもあったでしょう。
「貴方は、この100項目のうち、この○項目に問題があります」「このメニュを毎日、○分○回くり返し、○ヶ月たてば必ず解決できます」そう言いたいのです。
勘と経験をたよりに、またデータと他のトレーナーの知恵をたよりに、今では私一人でやっていたときよりは、ずいぶん多くの人に対応できるようになりました。しかし、その完成度はスポーツのトレーニングなどからみると雲泥の差です。彼らは3Dセンサーから血液分析までして、24時間プログラム化されているのです。
声は楽器と異なり、客観的になりにくいために、アプローチが発展しません。データも十分でなく理解や判断も素人だましな状況にすぎませんから、勘頼りのプロジェクトで、実績、結果を積み上げているのが現状です。
それでも、いろんなトレーナーが20年、30年とかけて、人をみてきたところからの判断や処方は、私にはとても参考になります。トレーナーにも天才的な人や神様のような人もいますが、実績のある人ほど、ある特定の条件下におかれてしまうため、なかなか一般化できません。
トレーナーの書いた本が、ほとんどは、うまく(トレーナーが望むように)使われていないのが、その証拠です。それでも「すごい効果が出た」とか、「声が変わった」と言ってくる人がいるので、複雑な心境です。それがどの程度なものか、本当にメニュのおかげかもわかりません。(他のメニュの方がもっと早く高い効果が出る可能性もあります)
これは、トレーナー、レッスン、トレーニングについても同じことがいえます。ここのように十数名ものトレーナーがいると、いろんな試行ができます。多くの人は1人のトレーナーと進めているわけで、問題さえも深くつきつめられないことが多いように思います。
一つの方法がよいか。複数の方法がよいか。トレーナーを変えた方がよいか。続ける方がよいか。私は「他のところのトレーナーがよくない」というつもりはありません。そういうところと、こことを両立させている人も少なからずいるからです。
ただ、ここのトレーナーは2人ついても、それをメタでみるサードオピニオンがいることが大きく違います。他のところのトレーナーの価値観や方法、メニュについてもたくさんの情報が入ってきます。それだけ判断の材料が多くなるわけです。他のところではOKということでも絞り込めば、もっと矛盾も問題も出てきます。
それに耐えられない人もいるのですが、いつかそれを楽しみ、自分の変化を楽しめるようになればよいのです。トレーナーや私があなたを変えるのでも、つくるのでもありません。
私は、再三述べているように、「トレーナーにあなたのレッスンの邪魔をさせない」ように注意しています。
教わりにくるのはよいのですが、いずれは、主体的にならなくてはなりません。日本人は、自立、主体的ということさえ、大人になってもどこかで学ばなくてはいけないようです。
私は昔、教わりに行きましたが、教えられたくなかったから、ここも教えないところにしました。芸事は環境を与えて待つしかないのです。そこの醸し出す空気が、私や先輩たちが流した汗と涙がみえない力となって、いえ、人類のDNA、地球も宇宙も、あなたが、あなたたるように助けてくれているのです。
昔から、私はトレーナーにも生徒にも一冊の本を、自分の本を書くように言っています。本当に書いた人はこれまで数人ですが、本一冊分の量を書いた人はたくさんいます。
たぶん、トレーナーなら4,5年、生徒でもそのくらいで、400字200枚くらいになります。週に400字でも年に48枚、4年で一冊分となるのです。
一回の出会いでも一期一会で、変われる人は変わるのです。今もレクチャーは月に3,4回行っていますが、こちらもその人を本当に知るには4~5年かかります。トレーニングが幹となり、枝葉となり、たわわに実るのは、その辺りからなのです。
守の3年、破の3年、離の3年でも(これは私の造語)、桃、栗3年、柿8年でも、石の上に3年でもそうです。他の人が大体、続かなくなってあきらめたあとから、あなたの道が開けてくることもあるのですね。そこからが楽しいのです。
ですから最初から楽しい人はとても恵まれています。
「声が守=固める。声が破=動き出す。委ねていく。声が離=自在、自由になる」というのが、私の10年です。(本当は10年以上かかりました)
○自然と訓練
正月恒例のガラに桂三枝、いえ、文枝師匠が出演されていたので、通してみました。昨年は少し若返りして、ガリガリしていた、若さでなく質ですが、今年は、今の日本の舞台でよくやるものを中心に、タレント、知名度のある人をもってきて、安定した興行を成り立たせると、視聴率を上げるので、私もそれにのっかってみたのです。
とはいえ、録画なのですが…。今、研究所では15名のオペラ歌手がいます。さらに音大の先生たちとの交流もあるので、自然ではないけどみせたのです。
オペラよりも文枝さんのトークに、クラシック好きの文枝さんよりも私は、三橋美智也好きの談志さんに影響を受けたので、亡き氏を偲びつつ、オペラの声と2人の声を比べてみたりしたのです。
私はオペラのよき理解者でもよき観客でもないし、それでいえば、ポップスについてもそうですが、肩入れしない分、客としてフェアで自然であるつもりです。そこを求めてくる人もいるので、できるだけ、自然でいようと思うのです。トレーニングは無理せず、自然にというわけにはいかないのですが…。
出演されている人は音楽面や外国語はもちろん、歴史や地理から台本、脚本と膨大な時間を費やして舞台に出ているので、その努力には毎度頭が下がります。皆、キャリアはプロとして必要な1万時間くらいは超えているでしょう。私もそういう時間、無理して背伸びする時間があったからこそ、今があるのですが、ここ4,5年、トレーニングを再開して、確かに声の調子がよくなったので、自分のメソッドのよさを実感しています。(自分のメソッドが、そのまま他人に通じるかは、再三述べているので省きます)
私は、舞台を降りてからは、発声のトレーニングというものはしなくても声に困らなかったのです。まわりのトレーナーには、さぞ怠慢にみえたことでしょう。
しかし、当時はレッスンの指導を、朝の10時半か11時から夜の10時か11時まで、ひどいときは15分の休憩で続けていたのです。夜だけのレッスンのときも、それまでに人に会ったり講演で、毎日最低4時間、多いときは8時間使っていました。そして今も、私は4~8時間、声を出しても何ら支障はありません。自然であるというのは、その生活に声が必須であれば、それだけの声を出しているということです。
自然、毎日、生活、そういうものから離れた声や歌やアートというのは、私は、あまり好きではありません。もちろん、アートは非日常かつ華やかなもので、客は日常を離れて楽しむものです。ですが、出演者は別です。客の数倍も大きな日常の世界に住み、高度な芸を自然にふるまうべきでしょう。私は、日本のオペラに自然を感じたことは、あまりありません。ミュージカルはなおさらです。
小さい頃、映画館に行くと、映画という、自分の外側の世界のことが、きまりの悪くみえました。スクリーンに知らない世界の映像が投影されている。そんな感じです。200年前の、遠いヨーロッパの国のことを日本人が、向こうの言語で当時の衣装で再現している、それに大学の教授たちが仮装して出ている。高邁な趣味のサークルとしか感じられないときもあるのです。
今、ここでいうリアリティが迫ってこない。これは、美輪さんが、フランスの小さな女性を演じて、観客全てを泣かせるのと次元が違います。私の好みということではありません。私は美輪さんとは古いのですが(出会っただけ)歌も、演目も好きでありません。でも、彼の永遠のテーマが、舞台では、今、ここに働きかけてくるのです。といってオペラやクラシック歌唱の評論をするつもりもありませんし、できません。吉田秀和さんも亡くなりました。ただ、ポップスについては、論じ続けていくつもりです。
JPOPSでも、がっかりしたのは数え切れないくらいです。でも、家にずっと1日いるよりもよいと思うようなレベルでは、どんなイベントもないよりはあった方が、見た方がよいと思うのです。映画に演劇も落語も同じです。
そもそも、下らないと思うのなら、そんなものに接せずに自分がやればよいのです。つまり、出演者たちの彼らが客にまわるほど感動できることをやればよいのです。これを書いていること自体、私は彼らの期待する客から最も遠いのです。
自然=素人として、この番組を見ない人、途中で切った人、見た人と分けると、圧倒的に多いのは見ない人です。素人が偶然、画面をみると多分10人中9人はチャンネルをかえます。それは今やポップスの歌がおかれている現状とさほど変わりません。
歌は特に嗜好を左右するので、好きな声か、好きな歌が好きな人(タレント的でもよい)で歌われるのでないと、なかなか見ようとしないものなのです。
ただ、その世界でがんばろうとする人や、私のように関わってメシを食べている人は、努力して見ます。努力したり、無理したりするのは自然ではありません。でも、見ているうちに、見ていなければわからなかったであろうよさも、見えてきます。
途中でチャンネルをパッとかえる素人を相手に、惹き付けようする方が、よほど厳しい。それゆえ、大衆とはいいませんが、一般の人に対して働きかける力、それを持つことは大切なことなのです。
これは、スターはジャンルを超越することで、つい少し前に述べました。三大テノールが来日したときは、オペラなど見たことがない人が見に行き、CD、DVDを買いました。
落語や邦楽に比べ、以前から述べている日本人の二重性、特に舶来品好きがフィルターをかけている分、本人たちが、その不自然さ、特殊であることに気づかなくなることがすくなくありません。そうすると先がありません。当初、「男が音楽やファッションにうつつを抜かすとは…」などと言われた時代に学んだ人たちは、何をやったかという前に、やろうとした時点で革新的でした。
そして客=ファンが増えると、その通を目指すのにはまじめな人が多くなります。まじめと才能とは違います。
でも才能があろうとなかろうと、それは舞台で決められていくので、私は、それらを支えている人には何ら言うこともありません。まがりなりに才能と努力を伴って主役をはっているソリストにも、何も言えません。このあたりは誰かが厳しい批評家として、あらゆる声の分野のアートにも出てくるのを願っています。
研究所の当初の目的の一つは100人に1人のアーティストでも、99人の耳のよい客をつくることでした。これを20年くり返して20人も出たら、日本はおろか、世界を支配できるのです。私でなくアーティストたちがです。
オペラの養成所として莫大な支援を受けていて音大は何万人と、毎年アーティストの卵を送り出しています。そこでの発声の基礎は、技術、特に歌唱に急ぎすぎているのは確かです。
生活のなかに取り入れておくことです。そして、非日常をリアルに現実にしていく、この点では、芸人の世界の方がちゃんとしています。このちゃんとしているというのは、ちゃんとしていないことでちゃんとしているのです。MC(司会者)はおろか、歌手、役者、声優、ナレーターまでも、お笑い芸人にとってかわられているのが、その証拠です。
私も歌以外の人をみることも多くなっているのですが、やはり、オペラ、邦楽に関わらず、歌手の存在意義が問われているのではないかと思うのです。安全な人が、安心な人だけが求められる状況そのものが、舞台をつまらなくしてしまうのです。宝塚歌劇団や藤原歌劇団も、当初はそうでなかったはずです。オペラ歌手も大衆歌手でした。
いろんなウンチクと有名タレントに頼って啓蒙的に行っているのは、明治から昭和の、欧米に追い付け追い越せの時代と同じです。本場と比べられる(比べられて劣るという前に比べられる)ようなものからは、そろそろ脱皮すべきだと思うのです。
自然な発声は、オペラでは、パバロッティのような人でないと100パーセントは実現できない。としたら作品ありき、人はいないと、人をみせる人がみせるわけです。それでは、その人の魅力に支えられる本場にかなうことはありません。
と、私が述べているのは、発声、歌唱、そしてヴォイトレに、このような精神構造がそのまま共通しているようにみえるからです。技術ではトップクラスの日本のプレーヤーが(バイオリニストなどで)「自分の思うように弾きなさいと言われると何もできない」というのは一昔前よく聞いた話でした。先生の教えた通りやるのが正解、楽器はそこに大きなアドバンテージがあるので、日本の子供たちは優秀です。工業大国、家内手工業の強い日本の伝統のようなものです。
大学と家との往復の毎日から、ドラマチックな、というか、メタメタな愛の物語などが演じられるものでしょうか。それこそ自然ではありません。特に日本の場合は、プリマドンナより男性の先生方に、大変ですが、がんばってもらいたいものです。教師役は比較的うまいように思うのは皮肉でしょうか。自然に、芸にその人が現れているものだと思います。
ですから日本人の場合は、勉強にがんばるよりも、それを壊すことにがんばる?ことが大変だと思います。(日本の女性は外国ではとてももてるので、逆にいろんな経験を積めるということです)
○本質と中心軸
大体において、習い事いうのは、すぐれた人がさらに自らを高める場として求めるか、同じように学んでいるはずなのに、どうも自分は効果が出ていないと思って高めたいときに通うことになります。
この研究所は、こういう分野に、初めてということでいらっしゃる方のガイダンス的役割と、あらゆるところをまわって最後にいらっしゃる方のダメ押し、もしくはダメモト的役割を担うことが多いようです。つまり、トップレベルと中の下あたり(もしくは下の下)は、比較的、他に行くところがないこともあって、よくいらっしゃいます。
私は、ここは二重の意味で、周辺に位置しており、それゆえ、自由であると思っています。芸能からもビジネスからも、さらに病院からも、すべてに接していつつ、そこと直結させず、距離を置いています。そこで、古いものと、新しいものといえど、すでにあるなら古いのですから、アーティストでありたければ、新たなビジネスに使いたければ、中心は他に譲り、そのまわりに位置しておくのがよいと存じます。
他のトレーナーやスクールとも利害関係を生じないことで、より多くの情報や学びの研鑽が得られるのも、ここのメリットです。そのことを考えると代々木というロケーションは、なかなかよいところです。
プロには、表現、オリジナリティでの効果を軸に、普通の人にはフィジカル面、喉、よくない人にはメンタル面を処するのが中心となります。プロに対してのレッスンの必要性は、トレーナーが自分のできることでなく、できないこと、そのプロにおいてのみ、ギリギリで何とか手の届きそうなところに課題を設定することになります。ここに通うプロでも3割くらいが、その本質的なことを究めようとしています。あとの3割は声の本質、後は音楽の基本や発声の形をマスターすること、どれもヴォイトレに必須のようであって、あまり他のところでは扱っていないことです。
というのも、トレーナーは自分よりへたな人ばかり教えているものですが、そういうところとは違い、ここは、高いレベルの人もくれば、全く扱ったことのない分野の人がいらっしゃることも少なくないからです。
声のトレーナーやスクールが増えたので、普通の人は、身近なところに通います。わざわざ遠くからくる人は、特別な必要や特殊な事情があることが多いのです。
教えることを目的にするのと、歌を聴かせることを目的にするのは全く違います。歌いこなすことと歌をつくることも違います。リズムや音をとることと、リズムや音をつくりだすことも違います。
ところがスクールでは、マイナスをなくすこと、うまい人のようにそろえていくことを、早く望む人が来るので、自然とそうなっていくのです。プラスを生むことを全く見ずに終わってしまいがちです。素質としての声の存在と可能性をクローズアップして、拡大していくべきなのに亡きものにしてしまうのです。
特に日本のような受け身の教育を学校で体験してくると、先生も生徒も、それが、レッスンだと思ってしまいます。一方でアーティストなどは、型破りに、自己流で直感的にワークショップを行います。それもまた、別の意味で即物的な、表面的なものにすぎないことが少なくありません。
演出の力で行うもの(日本のゴスペル)心身の堀り下げ体感的なものの発掘で行うものも、人間性回復、心や体の健康、正常化に意識が覚醒されるので、一見、とてもよい体験のように思いますが、突き放してみると、1日スキー教室のようなものに思えるのです。
つまり、どちらも翌日からの自分の生活に対して、アーティスティックな軸を通す力を持っていません。それゆえそこに行かなくても何とする力を持った人だけが、プラスαを少し得ていくというものになります。そこのトレーナーや主宰者だけが多くを学ぶというような気がします。私も以前、グループで50名単位で合宿を10年行ってきましたから、そのときの自分を考えて分かるのです。
もっとも大切なのは、シンプルな練習をコツコツとくり返していくこと。それに耐えられないから、レッスンやメニュや理屈や精神論があるようなものです。
すぐれた人はそれさえいらないのです。直に心で受け止めて声に感じられる。そればかりは自分でやらなくてはなりません。
それをレッスでトレーナーが活かすべきなのに、逆に妨げてしまう例があまりに多いのです。
必要性を自覚させる。必要と思うことが絶対に必要だと餓えるくらいに待たせる。そこで自らを感じ、動きをとり込まないと手に入らないのです。
原始生物は、まわりの環境で左右されます。自分の持つ条件を超えて、寒ければ温かいところへ移動し、移動できなければ死にます。しかし、人間は火を焚いたり、エアコンをつけて環境をコントロールします。あるいは自分の体を鍛えて対応できるようにします。そういう意味で人間らしくあらねばならないわけです。
何よりも覚醒するには、かなりの時間がかかるのです。つまり、即効果をうたうのは、すべてそれを捨てていることになるわけです。
○技術と表現
全らくは「技術を超えるものを表現するために技術を究めなくてはいけない」ということです。ですから舞台を超えるために舞台があり、表現を超えるためにレッスンがあり、それはレッスンを超えなくてはならないのです。
歌のうまい歌手と心に残る歌手がいます。うまいというのは、うまくみえるということです。たとえば難しいことをよくこなしていると、うまいレベルで競っていることになります。
「カラオケバトル」という番組は以前に少しふれました。プロ歌手が、あるいは、元歌の本家の方の歌手が、けっこうな確率で負けています。本当にへたなこともありますが、目をつぶると、やはり本家の方が伝わっていることが多いのです。
これは数字ですべて実証しないと納得できない現代人の心理をついたゲームです。私が解釈するなら次のようになります。(カラオケの得点基準も、正確さから表現力に重きをおくようになってきているのですが、そのあたりの進化にはふれないことにします)
たぶん、歌としての正しさは80点くらいでクリアされているのです。あとの15点くらいのなかで、よりカラオケの基準に応じるのか、独自の表現の方へつめていくのかということになるのです。
以前の得点基準は、さすがに正しく歌う力を声楽などで磨いた人が有利でしたが、今や本家プロも、カラオケで練習してくるので困ったものです。
私としては本家プロを100パーセントとして、それに「どれだけ近づけるか」(基準1)、
それに「どれだけ離れても、歌として成り立たせられるか」(基準2)、
離れるというのは点が低くなるのですが、それで「本家より表現が伝わる」(基準3)
となれば、とてもよい番組になるのですね。
とにかく、あれだけ歌手も関わっているのですから一考していただきたいものです。歌はゲームにしてもかまいませんが、本家が自ら歌をおもちゃにするのは、いくらなんでも、それがPRの機会だとしても悲しい感じがします。
歌、そこはTVで普及してTVでだめになったのですから、少し改まって考えてみたいものです。
○楽譜とオリジナリティ
実のところ、こんなことはどうでもよいのですが、楽譜とオリジナリティについて述べたいと思います。ときに、こんな質問がくるからです。
「楽譜は読めなくてはいけませんか」
「楽譜通り歌うのですか」
私共のQ&Aにもあるので検索してみてください。
「歌は好きなようにうたってよい」
「楽しんで歌えばどんなものもよい」
というのも、これと類した問題です。
「レッスンを受けて歌が楽しくなくなったのですが、続けるべきでしょうか」
などもあります。
本当は私はここでとりあげたくありません。なぜなら、どうでもよいからです。悩んでいる人にどうでもいいというのではありません。歌やレッスンやカラオケなどを、どのように位置づけるかなどは、本人の自由だからです。声についてもヴォイトレについても同じです。
悩むというのは、自分のなかに、自由で好きでありたいけれど、だからといって、好きであっても、表現が成り立っていないのは嫌だという思いがあるからでしょう。それをスタンスといっています。
スタンスは一人ひとり違います。そのスタンスしだいで私の答えもすべて異なるのです。
歌が楽しいことが第一目的なら、レッスンを受けて、そのレッスンのための歌が楽しくなくなるなら、(なかにはやる気をなくすという人もいますが)解決法は二つです。「レッスンを止めるか」、「レッスンを楽しくするか」です。
レッスンを楽しくするなら、それは「トレーナーに楽しいレッスンにしてもらう」、「楽しいレッスンをするトレーナーに変える」、「自分がそのレッスンを楽しめるようになる」、あたりが考えられます。
楽しいレッスンが楽なレッスンでは伸びないという人もいれば、楽しく楽なレッスンでしか伸びないという人もいます。同じ伸びなら、楽しく楽な方がよいではないかと、まあ、いろいろと考えられますね。
でも、何をもってトレーナーなのかレッスンなのか、上達なのか、伸びなのか、楽しいなのか、楽なのかを考えてみるとよいと思います。
こうして問いを出しても、結局、「問えるほどにわかっていないから、もっと問えるように学ばなくては」というのが、私のアドバイスです。
先生というのは教えるのが仕事です。「苦しいのを乗り超えなくては上達しません」「自分を向上させる努力こそ、楽しみでもあるのです」とか、「楽しめないなら止めなさい」「楽しいと思えることをしなさい」とか、その人の体験から答えをアドバイスしてくれることでしょう。でも、個々の経験ゆえにそれぞれにあなたの求める答えとは違うでしょう。
スポーツなどでは、そういう努力、苦労といったプロセスをとります。芸事も同じです。でも私はどうでもよいと思うのです。本人が本人で解決しないのなら、問題もなくならないからです。その前に問題にもならないからです。
読譜についても同じことです。「音大に行かないとオペラ歌手になれませんか」とか「○○でなければ○○になりませんか」というのは、頭で考えたり迷ったり悩んだりするなら、それよりは、やりなさいということです。楽譜が読めても歌手になれないし、音大に行ってもオペラ歌手になれない、その方が多いのです。楽譜も読めない名歌手も、音大を出ていないオペラ歌手もいるかと探してもしかたないでしょう。人生を確率でみたら、つまらないでしょう。第一、その人がそうだったから、あなたもそうだという確率などわかりません。
言えることは、頭で考えてもやらなくては何もならないし、やっても何にもならないかもしれませんが、でも、やらなければ100パーセント何にもならないという真実です。
だから、やるべきだと思えば、好き嫌いなどは別にして、やることです。誰も答えを知りません。いえ、答えはまだありません。あなたの求める100パーセントの答えは、どんなトレーナーも持っていません。ですから、私は、良心的であろうとすると「答えません。教えません。教えられません」
それは、それによってできるとかできないとか、99パーセントのことでも1パーセント、あなたは当てはまらない人かもしれないということを、どこかで思っているからです。10人中5人ができることを、あなたはできないかもしれない。他の10人中1人もできないことを、あなたはできるかもしれない。そこに本当の価値があるからです。というより、一段上ではそこにしか価値がないからです。
私は自分を基準に、あるいは、自分のまわりや体験だけを基準にものをみないようにしています。だから、答えられないのです。これは、あなたの最大限での可能性、期待でありますが、こういうことを述べても、まだ迷っているのなら、それは、絶望、可能性ゼロへ一転してしまいます。なぜなら、やり抜いた人は、他人が迷ったり考えている間も、執拗にコツコツやっているからです。それを無駄、無謀、遠回りと思う人もいるでしょう。
大体、先生やトレーナーは、効率よくしてあげようと親切心を出して、少し満足させて、その結果、人をつぶしてしまいます。自分の手の中でしか活動できないようにしてしまうのです。
自分を超えさせるには自分の教えにこだわってはなりません。
でも、最初の3年間くらいは、それはあまりにわからないので、レッスンやカリキュラムがあると思えば良いのです。そして、3年あれば、楽譜も読めるようになりますし、楽器の基礎の基礎くらいは習えるし、初心者のレベルには、教室というのもよいのです。
さて、いつまでも遠く山に憧れている人の問題はこのくらいにして、山中に入りましょう。
楽譜というのは、実際のレッスンに対する、この文章のようなものです。山でいうと地図です。地図があると便利ですが、初めて登った人は、そんなものはなかったので、効率や安新を考えないのなら、絶対に必要なものではありません。その地図がどのくらい正解かはわかりません。また、登る準備やテクニックは、いくら地図をみてもわからないでしょう。
でも、ないよりは、あった方がよいでしょう。レッスンとステージの歌のように、とても結びついているようです。それであって、本当は切り離されているとも言えましょう。
先生たちにもいろんな意見があります。オペラ、ミュージカルのように継承されてきたものを、同じように"再現”するために、楽譜は必要です。アレンジ譜もです。何よりもオーケストラや出演者など、大人数が1つの舞台で一定の時間で役割を分担するのに、楽譜は不可欠です。
でも、美空ひばりさんは楽譜は読めないのに、オーケストラと何回も共演しています。彼女の才能だから…いえ、芸人やカラオケしか歌ったことのない素人でもオーケストラをバックに歌っています。もちろん、こんな屁理屈を言うまでもなく、オペラやミュージカル、合唱では、共演者との練習で、共通のルールとなる地図、つまり脚本となるのは楽譜ですから、楽譜くらいは読めるようにしておくとよいのです。読めないより読めたらよいなら、読めるようにしていく。少しでも将来の向けて有利になるように全力でもっていくのが、レッスンやトレーニングの基本的な考え方です。できて使わない分には、できなくて使えないよりはよい。これも一つの判断のための考え方です。
○価値、選択、優先順の判断を変える
私は何を価値として、どう選択するか、選択したものをどのような優先順でやるのか、それに対してアドバイスするのがトレーナーの本分であると思うのです。ある価値、ある選択、ある優先順は、若く狭い初心者には難題です。自主性に任せておくと多くのなかのある一つでしかないものが、しばしば唯一絶対となりがちです。他の選択も、他の優先順も、他の価値さえあることを、私は伝えたいと思っています。そこで、最初から複数のトレーナーにつけて教えさせています。
本人一人よりはトレーナーにつく、さらに複数のトレーナーの方が、多様なもの(方法、メニュなど)を持っているわけです。私はそれをもう一つの価値、選択、優先順としてみて、他のトレーナーをつけ、自分でもみています。
もちろん、私自身のそういったものは、私の判断に影響してくるので、私はそれによって、すぐれもしたが劣りもしたという中立視をしています。
ところが多くの先生というのは、「私はそれですぐれたから正しい。だから、それを教える」という立場を崩しません。「他の人はまちがっているが私だけは正しい」という井の中の蛙が多くて、私はほとほと困っています。その色を強くつけて、ここにいらっしゃる人も少なくないからです。そういう先生は、私たちには生徒よりたちが悪いのです。神のように崇められている達人や世界に名を馳せたオペラ歌手でさえ、他人の指導において多くの誤りを犯すものなのです。
他の分野ではわかっていることさえ、歌や声の分野では、未開拓で未熟このうえないものと白状しておきます。ヴォイトレは、試行錯誤の連続なのです。そして一言、学ぶのは学べるようになることです。つまり、学べていくと、そのプロセスではともかく、結果として、どういうトレーナーともうまくやっていける能力がついているものなのです。ですから私はいろんなトレーナーと、ここでも長くやっています。ただ、一つの絶対的価値観をもつトレーナーを除けばですが。
○楽譜の研究
私がもっとも楽譜研究をしたのは、当初、プロのヴォイトレトレーナーを始めたときと、90年代初頭、グループレッスンの初期、すぐれたヴォーカリストたちが集まってきたときです。ともに、歌唱力も発音も、音感、リズム感もすぐれている人たちを相手にしたかからです。声と耳を中心にヴォイトレをやってきたのですが、どうしても表現に関わらざるをえなくなりました。そのときに、「これではよくない」というのをフィーリングだけで伝えても伝わりません。フィーリングは、プロはオリジナリティとして持っているのですから、そして、それはプロとしての活動に裏付けされ、ときに強固なものです。まして、こちらは若いゆえに説得力に欠けました。
そこで、私は、その説明の根拠を徹底して楽譜から探したのです。ことわっておきますが楽譜をみて歌を考えたのではなく、歌をみて、そのよしあしの説明に楽譜を使ったのです。それもただの楽譜の記号ではなく、生きた音楽として、です。音大生のようなレベルで解釈するのでなく、表現としての曲の成り立ちと対応させてみるのです。
具体的なケースとして、自分のよしとする感覚、感性を音符や、数値やコードで置き換えるようなことです。そこで私なりの楽譜、音楽の構造の解釈や歌うための公式が生まれました。(拙書「裏ワザ」に一部を収めています)
たとえば、楽譜のオタマジャクシをすべて線でつなぐと、高低や長さの流れができます。誰でもわかることで言うと、高くなるとサビff-低くなるとppみたいなことです。
そこで、相似形をみつける。数字の公式のようにパターンを思い出して、大きなルールを取り出すのです。これはベース音やコードの記号をみてもわかります。ためしに同じコードを同じ色で塗り、その配列に規則性をつかんでみてください。(循環コードなどを字はなくとも何曲も分析するとわかります)
たとえば、ドレミドレミと2つくると、次もドレミなはずなのに、ドレファとかドレソとくると、ファやソとかも大きな意味(「転」)をもつということです。
音符の長さの変化や、表拍、裏拍の変化も重要なモチーフです。欧米に感化された日本の曲では4拍の裏や3拍の裏から入るものもあります。こういうのは日本人の歌い手にありがちな歌詞、優先の伝え方と矛盾していくので、歌い方でも対立しやすいところです。
そこでよくよくわかったことは、昔の私の本に述べてありますが、(特に「ヴォーカルの達人」の音程リズム論に詳しい)日本人の次のような特徴でした。
1、(歌)詞を重視、リズム(グルーブ)は従
2、ハーモニー(和音)感覚
3、全体構成、展開力のなさ、短いフレーズでの組み立て
4、呼吸の浅さ、ロングトーン、レガートの雑さ
5、声の芯、深さ、音色、楽器としての演奏力のなさ
6、パターン認識のなさ、リピートの不確実さ
7、声量、声域、統一音声のなさ
8、歌いあげる、歌としての歌唱の様式化
9、生命力、立体化、リアリティのなさ
10、表現力、インパクト、パワー、テクニックのなさ
ここでは悪口を述べているのでなく、
そもそもレッスンとは、よくないことを洗いざらい明確にして直していくのです。
ですから、ほめて伸ばすというようなものではメンタル面のことにしかならず、メンタルで足らないからこそ、フィジカル面でトレーニングしていかなくてはいけないわけです。しばしば私のレッスンでは「これで充分、もう完璧」といってくる歌手の作品を吟味して、徹底して荒や欠点を探さなくてはならないこともあります。
よいところはファンが認めてくれるのですから理由はいりません。トレーナーは悪いところを、その理由とともにあげなくてはなりません。それは意地悪なようですが、よりよくしたいからこそ、悪いところを探すのです。ただそこをあげて悪いというのではありません。それではただのアンチファンです。直らないところは見切って(いろんな隠し方や修正でカバーして)直るところをきちんと直していくのです。あるいは、もっとも大切なことは、もっと大きな可能性を探って、次のステップへの実験をしていくことです。もしかしたら、こういう表現や演奏が考えられるのではないかと発想、発案をする。あるいは本人に促していくのです。そして、さらにその実現に必要な材料を与えていくのです。
アレンジャーはそれをアレンジでやるのですが、ヴォイストレーナーは声でやらせるわけですから、ずいぶんとクリエイティブなことなのです。それを、こう歌えばいいというのなら簡単ですが、そんな付け焼刃なら演出家やプロデューサーに任せればよいのです。可能性とは、材料を渡して何かが出てくるのを待つのですから気の長い話です。このときにすぐ役立つ材料なら、すぐに変わるけど根本的には、歌い込みでわかることを先取りするくらいです。あとで役立つ材料や、どう役立てるかわからないものを与えてこそ、私の仕事といえるのです。
ですから、欲をいえば本人が100パーセント完全、あるいは自分の全力でこれが限界というものをあげてからが、本当の仕事といえるのです。
それには何人かの作曲家やアレンジャーと仕事したことが幸いでした。私は感覚で判断しますが、特にすぐれた作曲家は徹底して論理的な感性をもっています。作曲家の作品を、なぜかしら日本ではそういうときに限ってあまり歌唱力のない、声質だけのよい女性ヴォーカルなどがくるので、現場では大変だったわけです。
声で変えられなければ作曲やアレンジで変える(編成)、音響やリバーブやコーラスで変える。昔なら「歌手を替えろ」だったのが、今はあまりにいろんな手段で修正できるのでややこしくしてしまうのです。
日本のバンドのプレーヤーは、ヴォーカルに対し、ピッチやリズムに厳しいわりに、表現や声には大甘です。それゆえ、私はバンドやオーケストラにヴォーカル不要論を唱えてもいるのですが、どうも楽器、演奏レベルでみていないのです。というか、そのレベルでみられる歌手があまりに少ないのでしょう。ピアニストなどがジャズなどを教えているところでは、かなり、声は固めて解放されていないことが少なくありません。
でも、作曲家や演出家には、歌唱をことばでなく、声が伝わるか、音声が心を動かすかで判断している人もいて、心強くもありました。とはいえ、そういう人もミュージカルや演劇では、妥協の産物か、歌や音楽面は重きを置いていないものになり、不幸なことに、日本では、それを指摘する人もいないのです。加えて言うなら、プロダクションや代理店は、タレント性を売りたいのですから、声や歌が充分でないケースが、日本では大半とさえいえるのです。
○楽譜と歌
よくレッスンで受ける「楽譜通り歌いなさい」も「楽譜をみて歌いなさい」も、どちらも曲が未消化、不自然であることは同じことです。私は
1、 楽譜で覚え
2、 楽譜を忘れて歌い込み
3、 楽譜に戻って完成させる
ことを教えられました。まさに守、破、離です。
この場合、楽譜に戻ってもそれは守るのでなく離れているのです。せりふなどで問われることも同じかもしれません。
与えられたものを、まずはマスターしますが、それは自分のものではありません。そこで、自分なりに差し替えたり、動かしたり、自分の心の方から伝えるべき表現を求めます。練習場から離れて、その役の職を体験したり山中にこもったり滝に打たれたりする、というよくある行き詰った練習の打開策です。そこで実を入れます。そしてまた、練習場に戻って、余計なものをそぎ、原型の形に戻すのです。
レッスンも似ています。ある練習曲を
1、 覚えて
2、 忘れて
3、 忘れてもできるようにする
1、 自分で演じているうちは、自分
2、 まったくの他人を演じているときは他人
3、 他人のなかに自分がでる
あるいは
1、 他人の形を演じる
2、 自分の心を入れる
3、 他人の心を演じる
このように、いろんな3ステップが考えられます。どちらにしろ、形に実を入れ、実が形をとる。つまり、与えられたものを自ら再生する。まさに、人の形で生まれた自分が我から、人としての自分に再生させるのです。すべてにおいて、こういうプロセスをとらなくてはいけないのです。
私は、「歌手も消えて歌が残る」「歌が消えて人間が残る」こういう2つのステージを最高のものとしてみたことがあります。「声が消えて歌が残る」「人が消えて魂が残る」そういうのにあたった経験もあります。まあ、ここでの結論は「楽譜が消えて歌が残る」くらいで充分だと思います。
楽譜という形であれ、その人の頭の中の曲想であれ、現実としては、声が動いてその振動が人の心を動かせるものに仕上げるのです。ということでは、もう楽譜ということを改めて問うことは必要ないでしょう。ただ、オリジナリティが残るとなったときは
1、 作品なのか
2、 歌手なのか、を考えることがあります。
でも、これは愚問ですね。歌とは詞かメロディかと問うているようなものです。その作品がその時その歌手により新たな命を吹き込まれたとき、オリジナリティをもって再生、いや、誕生したわけです。決してリピートでないもの、再生でなく、新たな誕生です。
故立川談志が何年か前の「芝浜」で神がかったあと、「また違う芝浜ができました」と深く頭を下げたのが印象に残りました。生涯で何回か、そういう神懸かり的な巡り合いがある、あれば、それをよしとするのが、アーティストなのだと思います。(これを至福の時間ということで、以前に詩にしました。ホームページ、「ジョルジア」参照)