「芸道」
「芸道」
「何か」があるらしいというのはわかるが、まだわかっていない。そのことにアプローチしていく。それは「後になって身につく」という漠然とした予感からスタートします。
その答えは人生の後半、もしかすると死ぬときにまでわかりません。また、一流や名人には、そこでも時間が足らなかったと言う人もいます。
○プログラムのないこと
私が専門学校やカルチャー教室をやめた一つの原因に、年内プラン(シラバス)を前もって提出しなければいけないことがあります。会ってもいない相手とどうなっていくかもわからないのに。内容を出すときは、それなりに考えて出しても、実際は違うことをやることになりました。カルチャースクールで何度か、カリキュラム通り進んでいくトレーナーのレクチャーを受けてつまらなかったからかもしれません。
歌も芝居もいく分かにしろ、慣れないものであればわかるまでには時間がかかります。最初に聞くなり好きになるものもありますが、何回も聞いているうちに好きになるものも少なくありません。
ですから、これから学ぼうとするなら、できるだけわからないものに接することです。それをわからないからといって切り捨てたり、二度と接しないのはよくありません。特に一流の作品なら、そのアーティストや作品は、ともかく、大きな歴史の流れで、人類が人類に伝え続けてきたところにある価値をリスペクトするべきです。それがわからないなら「自分の方に?をつける」という謙虚さ、素直さが必要です。そして、わかるように待つくらいの努力はすべきです。
まして、音楽や芝居は時間の芸術です。時間を経ないとわからないのです。(15秒でわかるのはCMだけです)前に「アナログ脳からデジタル脳」へ、ドラマ的展開の成立しにくくなったことについて語りました。とはいえ、作品はそれを切り出すことで、ビジネスの商品と近い点もあります)
○置き換える
人間関係やコミュニケーションも同じです。相手が第一印象や一回の会話でどこまでわかるのでしょうか。わかるというのは、これまでの自分の経験した範囲での好き嫌いで言っているだけのことが大半なのです。相手が自分よりもはるかに若いと、たとえば子供が、どれほどモノが見えなくて、幼いかはわかるでしょう。その構図を自分より年配の人と自分にあてはめてみて考えるだけでも想像できそうなものです。
同じことができないという点で、力の差は明らかです。というまでもなく自分のみえていないものがみえている人の存在くらいはわかるはずなのです。そもそも、みえないもののもつ深い世界を感じ得ない人が、どうアートに接していくというのでしょうか。
私が師と思う人たちは、そういう大きな流れを感じさせてくれました。そして一日一日私が学ぶよりも大きく学んでいて、その距離は縮まるどころか離されるばかりです。
私が残念なのは、話していても批判ばかりする人、知ったことで学んだつもりのような人が少なくないことです。たとえば、今の私は、昔の私と違う私です。つまり、私自身は今も学んで、いや、昔よりもずっと学べるようになっているから昔と大きく違います。ところが、あまり学んでいない人は、学んでいくと毎年のように大きく変わっていく人の可能性というのがわからないのです。大体は学んでいない人の中にいるから、なおさら人は変わらないと思い込んでしまうのです。
師とは、超えるとか超えないとかでなく、超えられないものの象徴としてあるものです。ですから、技術や知識において弟子の方が勝っていても、それはどうでもよいことなのです。
武芸などにおいては、まともに勝負したら30代くらいの人の方が80代より強いでしょう。だからといって「私は師の師になった」などと言うなら愚かなことでしょう。
自分で決定する人は、それがいきすぎると自己完結してしまい、水たまりにいるのに気づかないと言いたいわけです。でも、本人なりには学んでいるつもりですから、直らないのです。ですから、偉い人ほど人につく、師を求めて自ら師事してついているわけです。これは、学びの程度の問題です。
○フェア
昔は、学校の若い先生を町や村の人が、尊敬しつつも育てていったものです。今のようなモンスター・クレーマーはいなかったのです。子供も、誰の子であっても、それは村や町の子であり、天から授かった子だったのです。
鳥羽一郎の「師匠」(これで「オヤジ」と読むが師匠のこと)という歌では、殴って育ててくれた師への感謝があり、尊敬があります。
今の世の中、「人間はみな同じ人間」とみるのは、ある面、大切ですが、そのために大切なものがみえなくなってしまったのは否めません。(体罰問題は別に触れましたが、日本人の旧態で日常的だったものが、今の時代も残っているコミュニティについては、どう判断するのかは難しいことです。誰もが自分の都合のよい方に考えるからです。女人禁制のような域や、イスラムほか宗教の儀式、禁忌なども。クレームとお節介いとの違い一つでも判断の難しい社会になりました)でも、自分の絶対有利をフェアでないと考え、譲ったから(多くは、奪われたのですが)今の平等があるわけです。
○改善のアドバイス
1、 わからないからやれる。
2、 わかっているからやらない、(働かない、学べない)
1、マニュアル、ルーティンワークをしつつ次のステップを待つ
2、将来を、よりよくする方へ生きること
3、身体で捉えるよさと頭での誤解の多さについて知る
○トレーナーの全能感について 2013.0320
「あらゆることを説明できる理論も方法もない」これは科学的に、もしくは理論的に物事に取り組むときに保持しておくべき基本的な考え方です。しかし、わけのわからないものに対して、精神的なアプローチでは物足りなさ感じる人は、いともたやすく”科学的”や”理論的”なことにとりつかれます。そこでだまされてしまう。これこそが20世紀を通じて学ぶべき真理であったのではないかと思うのです。(近くは、オウム真理教や日本赤軍などの残した教訓です)
ここのところ、他のスクールやトレーナーからいらっしゃる方が多くなりました。それは「安易な方法や実践では1,2年も続かない」という証拠でもあります。そして、表現者やパフォーマーとしては、それなりの実践力のある人でも、ひとたび他人を教えると、こうも安易な間違いを犯すのかと、ぐちを述べたくもなりました。
1、トレーナーは、最初は、こわごわと生徒に接します。自分の考えややり方が、他人に通じるのか、自信がもてないからです。また、他人に伝えるということでどうなるのか、特に誰からも学んだことのない、現場での叩き上げの人は不安に思うのです。
この不安こそが本当はとても大切なものです。これが直観的によりすぐれたものと結びついています。ですから、いつまでもその初心のスタンスを保持することが大切なのです。
しかし、熱心に他の先生に学んだり、本などをたくさん読んだ人は、ときとして、この不安という素直さから入れなくなります。自信満々に入っていく人ほど、やっかいなものはありません。
自分が学んだことを誰かで試したくてたまらない。自分はできる、だから他人を誰より「もっと早く楽にうまくしてあげる」という熱意でがんばります。そこで、「自分の言う通りにするとできるはず」という根拠、指導、実績のない自信は、自分の成果さえ見誤らせる最大の要因となるのです。
2、生徒が満足し、喜んでくれる。そのうち、生徒のなかで何人かに(基準の甘いトレーナーなら全員に)効果らしいものが表れ、トレーナーは伝わったことを実感します。
多くの場合、それはトレーナーでなく、そういう生徒が秀でているのです。(でも、そういう人がくることがトレーナーがすぐれているということです。私は、ただくるのでなく、3年~5年は学び続けていることがより大切だと思います。特に私のように本を出していると一度はくる人も多いので…)
トレーナーには、自分の言い通りにすぐ、できるのが、素質があり、努力している生徒、そうでないのは素質に欠け、努力していない生徒のようにみえることになります。
すると「自分のように」「自分の教える通りにして伸びた人のように」まだ、「伸びていない人はやらなくてはいけない」、となってきます。
2,3年もやり、一通りのタイプに説明するなど、慣れてくると、教え方(=型)というのができてきます。よくも悪くもそこから「トレーナーの独自性」が出てくるのです。これが出てくるトレーナーと出てこないトレーナーの優劣は、簡単には判断できませんが、専門家するに従って独自化されていき、より合うようになる半面、合わない人とはより合わなくなってくる。(薬と同じです)そこでトレーナーは柔軟に対応するか、他のタイプのトレーナーと組むかとなりますが、どちらも実際はとても難しいためできていることはあまりみられません。
よりよい事例をみて、よりよく効果を早く集中的に、かつ効率的に上げようとすると、手探り状態で遠慮勝ちにしていた指導が、前向きに、積極的に働きかけるように変わってきます。やや強制的に、ある意図をもってレッスンが行われます。それに合っている人は、よりよき効果が得られるから、ますますその傾向に偏ります。だからこそトレーニングであり、私はそういう意図が余りにもない現状の方を憂えています。
それはトレーナーの自信の裏付けとなるのと同時に、気づきにくい落とし穴になっていきます。やや専門的に深くなった分、多くのケースでは必ず狭くなります。そこでは偏向してきているのです。
しかしトレーナーは、そもそも「自分に合っている人しか残らない」という閉ざされた環境でやるので、自分のおかれている、その立ち位置に気づきにくいものなのです。
○トレーナーの偏向と流派
トレーナー自身がレッスンの環境であるのですから、自分とレッスンをやる相手が「トレーナー=自分の環境の中」にいることを意識しなくなります。(だからこそトレーナーが他人に学ぶことで自分だけで勉強を完結=クローズしないことが大切です。なかには他人を教えたこともない、本当に自分だけでクローズしているのに、トレーナーを批判するような人も少なくありません)
これはアットホームなところほど、そのままファミリー化してしまいます。つまり多くのレッスン生が同じ傾向になるので、さらにその色に染まることが正当化されていくわけです。そのファミリーの流儀に染まっていくことが上達となってしまうのです。(流派なども、こういう類の一例といえます)
するとトレーナーも生徒も、他のやり方や考え方に否定的になります。情報も、自分に合のよいものを選びますから閉ざされていきます。そして、似ているものを、ちょっとした違いをもって、競争ならまだしも、排除していこうとします。(このあたりは政治や宗教などと似ています)
日本の多くの歌や芝居は、そういう「主人」の家風がとても強くて、作品に抵抗を感じることがあります。自立した個が集まって共同でワークするのでなく、その家にいないとやっていけない依存的な体質において、表現が個でなく、全体の平均値をもって、なりたっているのです。よく私が例える「日本の合唱団」のような均質無個性的な集団が多いのです。
それではコラボレーションでなく、排他的な集まりになりがちです。(このあたりの日本の組織については前にも述べたので割合します)つまり、舞台でなく、その家にいる限り、長くいるほど全能感に満たされ、高揚でき、いつも述べているように、コミュニティとしての安定感をもたらすので、メンバーも離れにくくなります。そしてグルはますますお山の大将になってしまうのです。メンバーがそれを望む、というのは自立できないメンバーが長居し、常時いることで、そういうシステムが構築されていく、このことはよいのですが、節度も失せ、価値も滅していくことになりがちだからです。
○理屈
声に関わる専門家やトレーナーも一匹狼の人が多いものです。私もいろんなところに呼ばれ、他の専門家と一緒にいろいろとやることはあります。しかし、他のトレーナーと一緒という場は、ほとんどありません。トレーナーとしては一人、あとは、医者やアーティストなど、異なる分野の専門家と行うことがほとんどだからです。企業や文化人の研修などでは、体を使うことで極物的?な?です。
お山の大将となると、そういうなかで先述したのと同じミスを犯していることがあります。ミスはともかく(というのも何をもってミスとするかは一概にいえないからです)ミスやミスしている可能性に気づいていないことがミスなのです。
最近はどういう分野でも、「科学」や「理論」という「理屈」を欲しているので、なおさら知識によるためのミスが見えなくなっています。医者も学者もトレーナーも、よほど気をつけないとそうなってしまうのです。実際にこの分野は詳しい人が少ないこともあり、諸手で称賛はされても、批判というのはほとんどありません。
私のように、自らの理論を仮説とし全能でないことを前提に、基礎を語るのでさえ、多くの人はそれをバイブルのように信じたがるのです。何であれ知識や理論、つまり考え方というのは、具体的に適用するのには、とても厳しい節度をもち、制限して使うということが必要です。また、それが前提なのです。こういうこともたくさんの人と長くやってきてわかったことなのです。
○有効にする
私は、他の人の考えや理論や方法が間違っていると言っているのではありません。それがうまくいくのと同じくらいに、うまくいかないこともあるということを知っておくべきだということです。誤解のないように。そして、それは私にも、ここのトレーナーにもあてはまるのです。それを私は知って対処するように努めています。その違いが大きいと言うのです。
それゆえ、私は、私とそれぞれに考え方や方法の違う他のトレーナーを”有効に”使えるのです。(私の考えに基づいてとか、同じ方法でやることを強制しないでやらせる。その代り自由にやらせているようにみえてもセッティングや再セッティングにとても気をつかっています。なかなか生徒さんにはみえないし、再セッティングなどは2割ほどの人しか必要ないのですが)
つまり、前提としては、私のレッスンも、有効なものも無効なものもあり、他の人のレッスンも有効も無効もある。それゆえに、もっとも活かせるようなやり方をすればよいということになります。
有効、無効という言い方はやや極論かもしれません。
「ある人においてはあてはまり、ある人にはあてはまらない」というような、おおざっぱなものでよいから、そこに基準というものをもとうとするということです。同じ人でも状況によって異なるときもあります。
むしろ、「ある目的に対して有効なやり方は、優先させてしまうために、同時に、別の目的に対してはマイナスになることがある」という方が正確です。
薬と同じで、「早くよく効く薬は、同時に早く大きく何かを損ねている」わけです。私はそういう(対症的な)化学療法的な治療には用心しています。漢方薬の方がよいと思っています。だから「長期的に」と言っているのです。
トレーニングやレッスンをこういうケースで言いかえると、治療と言ってもよいと思います。
しかし、巷で良く売れる本や方法は、どうもそうでないものが多いようです。それは、早く成果をあげた分(上達した分)早く行き詰まり、早く限界となるものです。自分自身の発見に至らず、他人のまねを求めて(基準にして)自分の声の限界を早めることさえあるのです。[このあたりはドリアン助川氏が最近の著書でうまく表現してくれています。「声優ダイエット(P)link」
ですから、私も他のトレーナーも、科学や理論といった理屈よりも、説得力のあるものとして、実体験を元に語るようにしています。また、体験した人の口からそれを言ってもらうことで、信用を高めているのです。しかし、こうした体験談こそ、片やまやかしにすぎないし、生徒による自画自賛(トレーナー崇拝)になりがちなことにも気をつけるべきです。
少なくとも1,2年でなく、5~10年のスパンでみなくてはいけないと思います。本人も入ったときにはよいことばかりを思ったものの、何年かたったあとでは、それを取り消したい衝動に駆られることもあるのではないでしょうか。
そのあたりが、食べて、すぐの感想が案外と当たっている外食の評価の「食べログ」とも違うし、まして、製品の機能の評価中心の「価格com」の評ほどの客観性などはもちえないのです。(ただし、私自身は「食べログ」の評は2割くらいしか信じていません。10軒で2軒くらいしかあたっていないという実感です)
最近の本や雑誌、ホームページ、ブログなどには、発声についての理論や方法がたくさん取り上げられています。そこで「必ず」「絶対」と言っているもので「新しいもの」?ほど、基本的な理論や説明から離れていることが多いのです。
歌手や役者の方々の本には、残念ながら、かなり常識的なところでの誤りがたくさんみられます。(医者や学者も専門分野以外はいたって暴論が少なくありませんが、詳細は改めてにします)「イメージ言語」としてでなく、知識レベルでのミスです。
○反駁を反証する
なぜ、私がこのように言うのかというと、私がこの分野で最も多くのレッスンを言語化してきたという自負があるからです。それも自らのレッスンだけでなく、25年にわたり他人のレッスンを書き留めてきました。また、それ以上に、多くの人にもことばにしてもらって、記録し、比較、検証してきたからです。生徒はもとよりトレーナーやゲストについても、私は自分のレクチャー、レッスンと同じく、ほとんどをリライトしてもらってきました。それが単なるレッスン場でなく研究所であるゆえんです。
本を書くにも、レクチャーするにも、そこで出せる具体例は自分の理論や方法を肯定できるデータだけです。それでは賛成者だけの意見を聞いて改革を実行する愚行に等しいわけです。
「科学的に」と言うのなら、持論を支える理論に当てはまらないケースを全て集めて、それを一つひとつ反証していかなくてはならないのです。
これはレッスンでも当てはまります。私が他のトレーナーと共にレッスンを分担しているのは、私のレッスンに当てはまらない人に当てはまるレッスンのできるトレーナーがいるからです。トレーナー、もしくはトレーニング(方法、メニュ)です。この「当てはまる」とは甚だ曖昧なものです。
大体の人を1年くらいでよくするのは私でもできるし、他にもトレーナーをやっている人なら大体、誰でもできるでしょう。
しかし、ここでは複数2~3人のトレーナーを同時につけることで初心者でも早くトレーナーやそのレッスンの比較できるようになります。このトレーニングがよい、このトレーニングは合っていないと思う、なども、一人のトレーナーにしかついていないよりはずっと言いやすくなります。
たとえ初心者や門外漢であっても、偏向をさせなければ、人間の能力というのは案外と高いものです。(トレーニングするというのは、どこかしら偏るし、一人のトレーナーなら、その程度が分かりません)
「このトレーナーのレッスンは私の○○にプラスで、あのトレーナーのレッスンは○○に役立つ」などということが言えるようになります。
そう、何よりもレッスンを受けている人を賢くしていくことが本当は大切なのです。トレーナーの言うとおりにくり返せるのでなく、自分のためにトレーニングをきちんと身につけていけるようにします。
声の場合、あいまいになるのは何でもできるかのようにしようとするからです。判断の基準をつけるには、目的の明確化、つまり、できるようになることに制限が必要です。(このことを今まで述べてきたのです)
これはマンツーマンでは特に大切なことです。そのトレーナーとクローズになるからです。
レッスンは、「今日はレッスンの○○はよかったから、もっとやりたい。でも、○○はいらないと思う」というようなことから始まってもよいでしょう、と言っています。それが正しいかどうかは別にして、主体的になるのが第一歩です。
一人のトレーナーのなかにもいろんな方法や方針があるのです。それを受け入れつつも共に考え、変えていくことがあるべきだと思うのです。
マンツーマンであれ、外の情報を遮断してはいけません。そこでクローズになると、そのトレーナーの価値観だけを元に声や歌が形づくられていき、リスクが大きくなります。特にプロやトレーナーというのは、その方法や理屈を売り物にしている人が多いので、それが薬と同時に毒になってしまいがちなのです。
○制限と判断
私は以前、グループレッスンのときから、他のトレーナーを使って、個人レッスンもトレーナーにやらせていました。すると、「福島のレッスンよりも、他のトレーナーのレッスンの方がいい」という人も出てきました。それは、私が分担しても、成り立たせるために仕向けたことです。私は後進に譲ることはあっても、競っていくつもりはありません。
後進のできることは、私はやらずに任せます。そしていずれは、私ができないことを任せる。これは今の研究所でも同じです。
なのに、そういうことさえわからない人が増えたのでしょう。
私は自分だけで教えているのでなく、研究所の組織として教えているのです。以前から、私がいなくて成り立つレッスンが成り立つ研究所が、もっともよいというのが私の立場です。(これはグループでも毎回言っていたことです)
日本人に「主体性」を気づかせるのは、殊のほか難しいものです。レッスンをマンツーマンにしたのもグループでの主体性が少しずつ失われてきたからです。
間違えないでほしいのは、の差異を比較して、トレーナーの優劣を決めても仕方ないということです。
少なくとも他のところより、競争にさらされるここのトレーナーは、独自性なくしては続きません。生徒がつかなくなります。誰にも支持されていないトレーナーは一人もいられないのです。
目の前のトレーナーから学べることは学びつくせば、おのずと次のステップが見えてくるのです。
(付言するならば、ここで私から学ぶことを声とするのはもったいないことです。せめて耳を、できたらスタンスを学んでほしいものです)
もっとも自分にふさわしいトレーナーをみつけるにも、目の前のトレーナーを理解しつつ使いつくすことが第一歩なのです。
他のところでついていたトレーナーに不服があっていらっしゃる方にも、他の人は、「そのトレーナーからも、もっと多くを学んでいる(可能性がある)」とともに、ここでうまくやりたければ「トレーナーよりも自分のスタンスを変える」ことをアドバイスしています。誰にしろ、「自分が関わった人を自分に活かせること」が「有能」ということなのです。「自分を変えることが学ぶことの意味」なのです。
○評価について
自分を出し切る。それも第一の条件ですが、出しきったくらいでできるのは、声を二次的に使う分野くらいです(教授についてでも、です)
ですから、トレーナーの誰が合っているかとか、レッスンのどこがプラスなどというのも、習っている本人が、自分の「今の器」で考えたり、思いこんだことに過ぎないのです。その思い込みや判断がその人のさらなる成長を止めていることもよくみられます。
しかし、だからこそ自分の判断を取るか、トレーナーの判断を取るかは自分で決めたらよいともいえるのです。自分で判断するのか判断を他に任せるのかに、その人の本当の力が出ます。(すべて自分で判断/するのは学べないことになるのです)
研究所が学ぶ場であり、サービス業のようなビジネスでないのは、「お客様として生徒をみているのではない」ということです。
私が生徒にトレーナーのレッスンの評価をさせているのは、最近取り入れられている大学での「生徒による教授評価」とは全く意図が違います。生徒の考え方や学びのレベルの進歩を知るためです。決してそれでトレーナーを判断しようと思っていません。「生徒が先生を評価する」というのは、ビジネスの顧客満足サービスと混同したおかしな制度です。
トレーナーも人間なので、ムラもあれば失敗するレッスンもあります。苦手な人もいれば、教え方の相性が合わない人がいるのも当然です。(すぐにうまくいかなくてもよいと思うのです)そのことに、私が早く気づくことができます。でも、トレーナーや先生と学ぼうとしているのであれば長い目で見るようにして欲しいのです。
どのトレーナーにも万能になれとは望んでいません。たえずレッスンは、トレーナーも生徒も、共に改良していく姿勢で臨んでいくものだと思っています。お互いの研究であり創造なのです。過去の伝承であってはならないのです。だからこそ、記録し、判断し、そして、自らの力を伸ばすのに役立てていくのです。
○学び方
私はここのシステムや制度をもって、トレーナーも生徒にも学ぶ場のありよう、学び方を伝えているつもりです。それが変わらないのに声が変わることもあまりないのです。
私のところのように、よかれ悪しかれ、他のところではレッスンができない人が3割くらい、くるところでは、いろんなタイプのトレーナーが必要というのもあります。
そういう組織をもっていないなら、トレーナーとしては、勘を鋭くして、「自分のやり方が、相手の望むことと合うときは引き受け、合わないときは引き受けない」―こういうルールをもって対処するべきでしょう。しかし、この「合う」、「合わない」というのは、大半、真の目的が不明確なままにいらっしゃるので、声において判断するのは至難の業です。未経験なタイプについても、レッスンをしてみないと、わからないのです。その試行錯誤の経験なくしては得られるものも得られませんから大変です。
私のように何十タイプものトレーナーや何百タイプもの人を何年もみてきても完全にわかるわけではありません。それでも、わからないゆえに、選ばずに毎月、何十人もの新しい人を引き受け、400人くらいの人を毎月、続けて10年以上みていたことは、今となっては願ってもない、よい経験でした。
ですから、今の私はトレーナーの適性や使いどころといった、位置づけをおこなう能力については、誰よりも自信があります。
医者や他の専門家にも大分、通じるようになってきました。年に何人もの外国人のアーティストやトレーナー、専門家なども訪ねてきますが、1~2回のレッスンをみると、大体、理論、考え方、方法、そして声への判断基準がわかります。そのスタンスや位置づけがわかります。
むしろ、相手の方が、自分自身のやり方の、他との共通性や異質性をまったく知らないので、少々指摘するとびっくりするのです。(特にヴォイストレーナーは、他のトレーナーと共同で仕事をしないものなので、そういう経験はほとんどないのです)
○固定観念を外す
ベテランのトレーナーの中にも、最初から決めつけてかかる人が少なくありません。「あなたの声は…だ。だから、こうすべきだ」と。これでは初心者のトレーナーよりも悪い結果になりかねません。
確かに一回のレッスンで、わかりやすい人もいます。しかし、わかったつもりでわからないこと、そう思っても必ずしもそうでないという可能性があるものです。そういうときは、よくも悪くも、判断を棚上げにしておくことが大切です。つまり、先送りする。保留にしておくのです。
すると、生徒は不安になるかもしれません。でも、そこで判断して、へたに希望を持たせたり、絶望させても仕方ありません。(最近は、可能性を高めに見積もり、希望ばかりをもたせ、勇気づけることに行き過ぎているようですが、それはメンタル対策に過ぎません。メンタルも大切ですが、フィジカルを軽視してはなりません)
レッスンを続けさせたいがために甘いことを言わざるをえないのが、今の大半のトレーナーです。仲良くやっていくことが、このメンタル的に弱く依存症の人の多い声の分野では、大切な"つなぎとなるからです。ヴォイトレは、ヒーリングなのか、ストレス解消なのか、自信をもてばよいのか、自信の元となる本来の力をつけるのか、どれが大切なのかをよく考えてみることです。
○短期と長期
トレーナーとしては、トレーナー本人の力量を信じさせないと効果も出にくいし、レッスンも続かないので、どうしても過度に勇気づけたくなるものです。早くレッスンの効果をみせて信用させたい思いから、多くの方法が使われています。(TVや本で紹介されているものの、ほとんどはこういった類のまやかしもの)
何もかも「○○を見れば」、「○○すれば」、「○○を直せば」、それで「すべて片付く」、「よくなる」ということに対しては用心することです。
私は、ときどきそういう軽さにうんざりするのです。短期ではよくても、長期では続くはずがないからです。そこで続かなくなって、ここにいらっしゃるからです。それもプロセスとしてはあり、と認めています。ですから私は、「最初からここに来ればよかった」などということは一切言いません。どんな過去も結果として、よくなった人には必ず肯定できるだけの意味(学びの深さ)からです。
しかし、人間は愚かなもので、急ごうとするほど短期のくり返し、浮き沈みのくり返しだけで、結果としては、大切な時間をたくさん使ってしまうのです。
この時代、長期でものごとに取り組める人は、それだけでかなりのアドバンテージがあります。研究所は、当初からそのスタンスをとってきています。「トレーニングとは、今すぐ役立たないことをやること」です。それをヴォイトレにおいて実践してきたのが。ここだからです。
これは基礎についても、あてはまります。「基礎も今すぐ役立たないこと」をやるのです。多くの人が、基礎を欲しつつ、実際のところ徹底しないし、続かないし、やっていないのです。だから基礎が大切と言われるのです。
○なぜできないのか
「できないことをできるようにしたい」これがレッスンの大きな動機です。しかし、「なぜできないのか」ということと、「できたらよいのか」ということを、よく考える必要があると述べてきました。
目標のとり方として、
「できないよりできた方のよいもの」と、
「できなくてもよいもの」と、
「絶対できなければいけないもの」
があります。
どれを優先すべきかは、けっこう重要な問題です。私は人にもよると思います。
「なぜできないのか」は、結局、「絶対にできなければいけないもの」についてだけわかればよいことですが、「わからなくても、できたらよい」のですから、方針としては「できないことからでなく、できていることからアプローチするべき」だと思うのです。
本当のことを言うと、「あなたができていると思っていることは、実はしっかりとできていないから、できないことが出ている」のです。この「実は」「しっかりと」がわかるということが肝要です。
これを考えてみると、「トレーナーはできていないとみるのに、自分はできている、あるいはわからないとしている」ところが根本的な問題です。トレーナーは、「そこができていない」という判断を与えます。そして、いずれその「できていないということを判断する基準」を身につけなくてはなりません。
基準のレベルの差を知ることが、ヴォイトレの第一歩です。「それができていない」のを知るために、声域や声量などの限界をチェックしてみるというならよいのですが、それが目的になっていませんか?
今や「○オクターブ以上、○日で出せるようになる」というようなマニュアルに惹かれる人が多くなりました。というのは、真の目的さえ、まともに立てられないという人が多いということです。
そのような副次的な目的をメインにおくと、一見わかりやすいようでも、さらに基礎は乱れていくのです。応用の応用をやっても基礎は固まるどころが、よりひどくなるのです。今、通用していない1~2オクターブが3~4オクターブになったからといって、何がよくなるのでしょうか?歌は1,5オクターブもあれば、ほぼ充分です。
副次的な目的とは、「そうなっても大して役立たないが、身についたときには、もしかしたらそれに伴って得られるものがある」というものです。つまり、ある分には、ないよりもよいが、それを得る努力に見合う目的にはならないことです。確かに「○オクターブも出る」ならば、どんな歌も調を変えずに歌を歌えるかもしれません。でも歌はそこで競うものではありません。声域の伸びに伴って発声もよくなっているとみられるとしたら、それだけがとりえですが。
さらに問題は、そういうキャッチに惹かれる人の多くは、声域がない人だということです。声質や発声もよくない。声域ばかりを念頭にやってきた人もいます。そこから脱しないとさらに悪化させてしまうということなのです。その問題から一時離れることがもっともよいことなのに、やはり、また同じところに惹かれてしまうのです。
○表現における二重性
日本語の勉強を、文法で捉え「主語」というとき、そこでの欠陥をあげつらう人がいます。しかし、そのような概念は、欧米の言語学からきたものですから、そこからの分析だけでは日本語のよしあしの判断はできません。日本語にとって不利な分析となります。
(国の将来の経済方針のヴィジョンとしてアメリカが作り上げた経済学を、日本の社会にあてはめて解釈しようとしても、当てはまらないし、使えないのと同じです)
つまり、欧米のベース(言語、リズム)の音楽を、日本語をつけて歌ってみても、日本人の声や感覚の根のところにあるものには、そう簡単にはならないのです。
私が、日本のオペラやミュージカルに反射的には入れないのは、それが日本人でない精神を具現化したままだからです。たしかにクラシックは古典としてグローバルなものになり、また、多くのミュージカルも日本語で日本人が演じています。それでも基本的に演目が向こうのもののままであることが多く、そんなことを超えて個人の声がリアルに働きかけてこないという、現実のパワーについて述べているのです。
○「JAZZのレッスン」
たとえばジャズのヴォーカリストが何人か来ている研究所では、21世紀の日本で「英語で60年代」のジャズを歌うという、この分野での表現のあり方、あり様にあたらざるをえないのです。しかし、現状、現実的にはほぼ見過ごしたままでいます。というのもレッスンでは、次の3つができていない人が多いから文句が出ないのです。
1、 声楽、クラシックのレベルでの発声より丁寧なロングトーンやレガート
2、 音楽的基礎、正確な読譜、メロディ、リズム
3、 声の管理、タフでつぶれにくい声づくり
こういう問題の半分は、音大卒レベルの基礎のなさ、あとの半分は声の管理や使い方(応用)についてです。
歌唱は、大体、バンドの方へ預けているので触れないことも多いのですが、「スタンダードとしての60年代の歌い方」で近づけます。
それにしても、ジャズピアニスト、ギタリストのトレーナーの教える歌は、その声の使い方が雑であるままのことが多いと思います。(前に触れたので割合)楽器のプレーヤーですから自分のプレーのように考えたら、もっと丁寧に、繊細に扱わせるようになるはずでしょう。
なぜか女性歌手しかいないのです。すると自ずとMCと心地よさ優先となるのです。
日本には音楽的センスでの「伊藤君子型」が多いのですが、一部、「金子マリ型」もいるようです。
このあたりは、いつか詳細を語りたいのですが、今は、このままではジャズでもオペラも邦楽も、20年後に存在の意味がなくなるのではないかと危惧しています。
60年代後半に団塊の世代が支えたもの、壊したものはともに大きかったといえます。それが、日本のなかで音楽というものを大きく変えてきたし、今だに変え続けていることは否定しようがないのです。
○正しいと言うな
声に正誤はありません。あるのは、広さ、深さです。それゆえ、程度、できの問題です。ですから、一つの方法でなく、いろんなやり方、アプローチがあり、プロセスがあり、効果があります。
せりふは、ことばとしては、子音で母音などの共鳴を妨げ、具体的な意味を得るかわりに共鳴の美しさを損ねます。多くの歌は損ねるものの方が多くなったゆえに、その地位を他に譲りつつあります。
それも、レコード―ラジオの時代は、万能にして神のような声や歌も少なくなかったのです。その完成度をもって伝わるものは大きく、その後のテクニカルに加工されたものを凌いでいるかのようです。
神の領域ほどのピークにものごとが達したとき、もうそれは、次の世代では保てないという運命に甘んじることになったように思います。
歌のない世の中は、歌が不可欠とされるような状況、時代よりはよいのかもしれません。
一流のヴォーカリストは一種のカリスマであり、天才であるので、ヴォイトレでの説明では語れません。その世界に触れることによって、伝わるものによって、時空を越えて、新たな人の可能性をもたらします。そういうことの起こる場として研究所があり、レッスンが機能すればよいと思っています。
○共感
学び手が引き出すトレーナーの能力について述べていきます。
かつて、私はここ(研究所のライブ)でのステージを見て一言も語りませんでした。そこの場は真剣に臨む人が多くいて、それだけでよかったからです。
それを私がうしろ、あるいは前にいて、昔の校長先生のように空気の緊張を高めていれば、何も話さずとも伝わるものがあったからです。歌ったら何か起きる。そういう歌を聞くと、歌って何も起きなければ歌の意味がなかったとなるわけです。(正直に言えば、歌や芝居に対して、今ほどに語れることばを私自身も持っていなかったからです)
ステージですから「何かが起こったら」誰でもわかります。起こらなければ失敗、というよりも、勝負以前なのです。何かを起こすかどうかは別として、起こしたところで何かが起きなければ表現ではないのです。
それが5年くらいして、私がいちいち破片を拾ってことばにしなくてはならなくなりました。また5年くらいして、次に一人ひとり、誰にでもわかることばを与えるようになって、その場は普通のスクールの発表会と変わらなくなりました。
時代も変わりました。歌も、せりふも、声も音響技術の加工の力に反比例して単調になってきました。ことば使いのレベルでなく、同じことばを声やその動かし方で異ならせて、全く別のことばにできない人ばかりです。(今そのレベルの人は、歌手よりもお笑いの芸人の方が達者です)
昔は「自分を出す歌はうるさいから、神の声に身を委ねろ」と言っていたのが、今は「自分を出して歌ってください」と言わなくてはならないようになってしまいました。
自己表現力は、体力とメンタルに支えられます。その我が弱くなりすぎた。だからその人の生き方、生き様が出てこないのです。
歌が曲やメロディ、ことばで、アレンジで聞かれてしまうと、もう私は先述のオペラ、ミュージカルのリピート状態となり、飽きてしまうのです。
歌や表現を、たとえレッスンの場だからといっても「生徒だから先生として評している」というのではよくありません。知り合いだからではなく、だからこそ、知らなくても惹きつけられるような表現を出してくれないと願いつつやっています。
○自立した歌
1、 その人を知っているから我慢できる歌(カラオケ)
2、 その人の努力、歌への思い、好き、が出ている歌(のど自慢本人)
3、 その人の後にあるものが全て伝わってくる歌
こんな感じでしょうか。3、が神(といっても私は、神を信じているのでないから、これは、「人類が太古から今まで生きて受け継いできた大きな流れ」のようなもの)
ですから私のレッスンで使う歌のほとんどは、「誰かに、(多くは私自身に)一人でも多くの人に私が残したい、伝えたい歌唱や曲」です。そうした曲は、その声と共に普及し生き永らえてきたのです。
生き生きと「生命力」にあふれ、「リアル」に3D(立体感)に迫ってくるようなものが、表現としてすぐれたアートです。その声で伝わるその人も生き方は、生きる力を与えてくれるのです。
それがどうしてなくなったのかというと、意識として、それに対抗する「死」がないからでしょう。(日本では3.11で身近に死が迫ったとき、歌は一時命を吹き返しました。でも、3.11でなくとも人間の歴史のなかで死は常に人に対峙して、身近に存在していたわけです。命が危険にさらされたときの感受性の鋭さをもって、舞台で創造性は駆使された。しかし、今やアートは好きの延長上のひまつぶしでしかないのかもしれません)
○できること
私は昔、研究生の述べてくるものには、いちいち論として返していきました。ときには私のあり方をまっこうから否定してくる者に、まじめに対峙してきたのです。そこで時間をかけて答える姿勢を保ち続けることが私の良心であり、責任であり、生きることの一部でもありました。
ところが、その対し方を伝えたいのに、その論の正誤ばかりにこだわる人が多くなりました。今も意見や感想はそのままに掲載しています。論破する後味の悪さに、日本人らしく私も大人になったのかもしれません。
そもそも「相手のことを理解できるというのは幻想」です。どうしても無理なことで、「それを知った上で理解する努力を諦めない」というものでしょう。まして、それを紙の上でできると考えられると、紙を放棄しないとまずいと思うわけです。(今は紙=メール)
こういう分野はわからないものです。わからなくてよいのです。わかってしまうくらいのものならつまらないし、わかってしまったら、私は飽きてしまい、他のものと同様、投げていたでしょう。
ですから「わかっているぞ、正しいのはこうだぞ」というような人に関わっても無駄だと思うのです。そういう人ほど、貧弱な声しかもっていないものです。
ちゃんとした声をもっていたら語らなくてもいいからです。わかるというのは、どこかで見切っているだけです。わからなくても、一部わかっても、どうでもいいのです。できることが大切なのです。
○わからないものをわかるな
私のコメントにも、わかりやすさが求められるようになりました。
音楽でも「聞いて、わからない人に説明しても仕方ない」というのです。でも、そのコメントをきっかけに何回も聞く人もいるというなら、万に一つでもそういう効果があるなら、やってみる価値はあります。そして、それがレッスンというものになります。続けていると、あるとき「わかった」とくる。学ぶというのは、そういうものです。
今日聞いて今わかったものなんかどうでもいいのです。大して、あなたが変わることではない。わからないものなら、それがもしかしたらわかるだろう、わかりたい、わかったらおもしろいかも、など。そういう「いつかの自分への直観」を働かせて期待するのが、「学ぶ」ということです。
今の人は「わかるように教えてくれ」とか「わからないからつまらない」とか「わからないものはよくない」と、自分で幼い判断してしまうのです。つまり今のままで、将来も幼いと宣言してしまっています。これでは幼児と同じです。
私たちは若いころ、わからないものを知りたかった、見たかった、味わいたかった。そして、わかっている人、あるいはわかったようにみえる人にコンプレックス=ギャップを強く感じた。そして、そこから抜け出せたら、その溝さえ埋まればもう一つの世界がみえてくるという予感があった。
貧しく悪環境に置かれていると、こういうことが起きやすいし、豊かで恵まれていると起きにくいのかもしれません。
「変わりたい」という欲求は、自分の外であれ内であれ逆境を意識しなくてはいけないのかもしれません。今は「変わりたい自分」より「変わりたくない自分」が強くなったのでしょう。でも本当にそうでしょうか。
今、甘受している豊かさは自分のものでなく先人の作りあげたものです。それに気付かないのは平和ボケです。何一つ自分でつくっていないのです。
昔から子供みたいな人はたくさんいましたが、そのことを家や学校や社会で気づかされたのです。そういうメカニズムが、今は働いていないのでしょうか。
先生が教育の先には何もないようなことさえ言うのですから。でも、まわりがどうであれ、問題は自分自身なのです。
○整えていく
BV法とか理論とか言っても、そんなものがあるわけではないのです。自然なものの成り立っていくプロセスを理解して身につけていくアプローチの一手段として仮に命名しているだけです。
「ブレスヴォイス」というのですから、息を吐いて声を出して生活している、そういうなかに声や歌において、すぐれた人も劣った人もいる。なら、もう少し深く息を吐いて、深く声を出して、生活を深めたら声も歌もよくなるといったようなものです。
体や呼吸の調節も似たようなものです。日常が浅く乱れているのですから、ある時間をとって、ある場所で集中して(非日常として)うまく整えていくのです。そのくり返しがトレーニング、そのきっかけがレッスンです。
身体の能力を高める、感覚、心、精神関係、全てにもっと丁寧にアプローチをしていくのです。そのプロセスはヨーガとか武道とまったく同じです。BV法もそのモデルの一つにすぎません。
ですから、何事であれ、心身をプロとして扱って何かをなし得たことのある人は進歩が早いのです。声や歌というものは、その土台に体と感覚のコントロール、筋力なども含まれます。土台があって今のそれらもが維持されているのです。
すると少々、無理をしても応用しているうちに基礎も固まります。
昔の役者は、音大生などよりもずっと声の習得が早かったと思います。今は声も呼吸も浅い人が多いです。特にアナウンサーや声優がそうです。浅い呼吸の上に急いで正確な発音をつくろうとしているために声が素直に出てこないのです。
体は健康であれば、半分の50%はOK、そこから100%までというのはオリンピックレベルとして望む人だけ、大体は、20%くらいもアップできたら、何をやっても大体はうまく適応できます。
○理想から引きあげる
ヴォイトレは、普通の人の力を50%を70%にしていくものですが、本当は積み重ねるより天才ヴォーカリストと言われるような人のもつ完璧さ、100%の感覚の方から引きあげられるようにしていく、感覚―イメージ―体の順でレベルアップしていくのが理想です。
私としては、未熟な体をそのままに、小賢しいレッスンからたくさんの技巧を習得して、歌をうまくするようなことは、百害とは言わないまでも、一利しかないと思っています。ですから名人のものをたくさん聴くことが大切、そこから感覚、そして体を変えていくしかないと思うのです。
しかし、聴いていても聴き方がなっていないからうまくいかない。それならば、そこをトレーナーが感覚と体の両面から分析して部分的によくしていくのを手伝うのです。声もせりふも歌も丁寧に聴けるようにしていくのです。
音楽やせりふは、時間のアートですから時間をどうみるかです。これは「永遠の問い」にも通じますが、ともかくも、まわりを無音にして、一つの音やその動きに集中して、ゆっくりと学ばなくてはよくありません。
私は安易にピアノ伴奏に頼らずアカペラをメインにしています。それは、何かが描ける透明なキャンバスに声を吹き付けさせるようなことを意図しています。
私のベストのレッスンはとても静かです。その人の声だけが響きます。声で時空を変えるのですから、時空が止まっていないとダメなのです。時空を一瞬で捉えてひねり変えるようなことをやっては、みているのです。
○開かれる
これまで、いろんなレッスンをみたり経験してきました。ワークショップは騒ぎすぎ、個人レッスンでもピアノや声がうるさいのが多いように思うのです。日本人はおとなしいので、トレーナ―がテンションをあげさせるようにしています。それでは、本人の耳の感度が高まりません。
私の合宿では、静寂のなか、小さな鐘を鳴らし、そこに小さな声を一人ひとり重ねていくようなことをさせました。それだけで、もともと遠くまで聞こえるのです。しかし、この共鳴とロングトーンのコントロールは、基礎が、呼吸や体がないとしっかりとはできないのです。まずはできていないことに気づけばよいのです。
私の手伝いをさせていたトレーナーがあるとき、私の全体評(ステージ実演のコメント)のあとに自分も「私と同じことを、寸分たがわずにノートに書いた」と言っていました。さすがに「10年も続けていたのだからわかること」なのだと思いました。
評というのは、歌への評価ですが、「スタンスとして、今、何か欠けていて、どうしなくてはいけないのか」ということです。
ステージの多くの問題は、歌でなく、そのスタンスにあると思うのです。つまり、スタンスができていたら何をどう歌っても大体はもつのです。できていなけれな、どんなにうまく一所懸命歌ってももたないのです。
スタンスとは、「落ちるべきところに落ちて、納まる」ということです。見ていてもその人の「表現の力」、その人の「存在理由」が「納得できる」、「腑に落ちる」ということです。
ですから何にしても「鈍い」を、「鋭い」にしなくてはなりません。
レッスンでさえ、スタンス一つで決まります。それをみている人が感動するようなものでなくては、と思うのです。私はそれが第三者に開かれているように意識してやっています。それゆえ、グループやマンツーマンでも、先生と生徒でクローズであってはならない。誰もいなくても常に外に開かれている。そうあるべきだと思うのです。
考えてから動くのでなく考えなくても動くようになること。ピンポーンと鳴ると同時にドアの前にいる。そんな反応のできる感覚と体づくりの方がよほど大切です。
身体性の問題はここのところ、何事においても中心になりすぎたキライがあります。とはいえ、声を支えるもの、歌を支えるものであるから、とても大切です。私はよく「頭でよいと思っても頭ゆえに判断は間違うもの」だと言っています。
だから、たとえば、そういうとき、「バッティングセンターでいつもより打てるか(ボーリングでもダーツでも)チェックしろ」と言っています。頭でよいと思っても打てなければだめ、頭でだめだと思っても打てたらよし。
それゆえ、身体が不良(悪い状態)と頭が思っても信じません。レッスンには、「体でいけ」と言っています。「倒れていなければ行ける」ということです。
まあ、私に関してはワークショップのメニュに、レッスンではできないいくつかの体、感覚の刺激、耳と声のつながりみたいなものを入れています。ご参考に。(リットーの「裏技」)
○BV理論
理論を用いるのは、自分の体をモデル化して捉え、イメージで動かしやすくするため、そして記憶するためです。私のイメージのモデルは、頭と胸の中心に2点があって、それが結ばれているもの(軸)としています。特に地声や話声の弱い日本人対策として、胸のところに口のあるようなイメージ(胸部体振)をつくりました。
それは私のイメージですが、素直な人なら版書のイメージそのまま自分の体に読み込めるのです。
私たちトレーナーは生徒の発声、つまり、その母体としての体を自分の体で読み込みます。その逆をするのです。
とはいえ以前に違うところから読み込んだものが、あまりに強かったり、頭で考えたイメージが強いとなかなか入れません。できたら一度白紙に戻して、トレーナーのイメージと柔軟に入れ替えられるのが理想です。
イメージは一度入れても変化していくものです。その変化に対して、同一のものを再現できるようにしていくのが基礎レッスンです。
トレーナーとして、それぞれに言っていることや、方針、方法が違うことはよくあります。特にことばの間での矛盾は、イメージをもてずにやっていると起こるものだからです。ことばそのものに囚われずに、それをイメージでとらえなくてはなりません。(ことばは、インデックスに過ぎません)
○「よい状態」を知る
かつて合宿として軽井沢に行ったのは、心身を解放された場でリラックスと集中を、スタジオの次元と異なる深さで体験させたかったからです。
いい状態にするのに時間をかけるのでなく、「いい状態から始めたい」それなら、いい状態になれるところに行くのも一つの方法です。
よく休め、よく眠れることも大切です。頭で考えてわからないのなら、黙って騙されてみればよいのです。そこで疑うと心身は深まらなくなります。頭が妨げるからです。何事であれ、ある種の大きな信仰心がいるのです。宗教めいたことを言うと、それを嫌う人は少なくありませんが、哲学も宗教もアートも同じことを目指しているのです。
○判断しない
なぜかというと、日常レベルの声や歌がうまくいってないこと自体があなたの判断の誤りです。(それでも、学びにくる人は自己評価は客観的にできているから、ずっとよいのです)その判断を一時預けて、トレーナーに替ってもらうのがレッスンです。何でも自分で知ることは必要ありません。トレーナーと分担すればよいのです。
○あこがれと身体との間
快感にも2通りあります。ロックで体が踊りだすようなもの、これは他律的なものです。それに対して自分の心身内部からの心地よさは自律的なものです
レッスンは、他から入り自に至らせるプロセスです。他から入るものは嫌なものですが、それを受け入れていくことで、より早く大きく変化できるようになるのです。ですから、私は嫌なトレーナー、嫌なレッスンもまた、大いに貴重だと思っています。
幸か不幸か私のところには全ての人に嫌われるようなトレーナーは、残れないのでいません。「最初は苦手と思ったトレーナーに、いつしか自然に対応できるようになった」とき、その人の器が大きくなった、真に成長したともいえます。人間関係とまったく同じですね。