根源的な問い No.282
○根源的な問い
小泉文夫さんの本のなかに、「外国人が日本の古典、あるいは、伝統芸能を学びにきたら、案外と早く学べるだろう」というようなことを述べているのがありました。彼らは、いくつもの流派を、これまでの不文律を超えて横断的に学ぶであろうし、師も外国人だから、わかりやすく説明するだろうと、私も思うのです。
日本人に限ったことでもないでしょうが、「なぜそれをやるのか」というような根源的な問いは、その世界やそこの第一人者に憧れて、手習いから入っていく後輩には発せられないし、無用でしょう。一芸を一つの流派で一人の師から継承していく、幼い頃から長年にわたり究めていく人は、中心にいるほどそういう発想にはなりにくいのです。日常的に慣れ親しんできたことがそのまま、芸となりゆくからです。それに対し、外側からくる人はよそ者ですから、客観的にも批判的にもなれるのです。そのため、よい批評家、評論家、あるいはトレーナーになれるともいえます。「なぜやるか」は哲学であり、「どうやるか」はメソッドになるからです。
〇プログラミング
欧米に私が学ばされたのは、まさに世界のあらゆるものを標準化、プログラム化して、システム的に教育していこうという考えです。大航海時代、彼らにとっての未開の地を征服していくのに、学者を連れていく。動物や植物を収集、研究して、体系化する。そのために自国に動物園や植物園までつくってしまうという徹底さです。欧米列強をまねて、日本も短い期間に他国へ進出、同化政策をとっていましたが、世界戦略については、まだ経験が浅かったといえるのでしょう。
〇軸のとり方
私は、日本と西欧(アメリカも含めて欧米としてもよいのですが)の対比でなく、ワールドミュージックやエスニック音楽(日本も含む)とクラシックの軸で考えることが多くなりました。日本が特殊というよりは、クラシック音楽が特殊とみるほうが説明がつきやすいことが多いからです。そこで欧米のポップスをどう位置づけるのかは悩みますが…。
日本人がクラシックで才能を発揮するのと同様、外国人も、邦楽で活躍し始めています。幼少や若い頃から日本の文化に慣れ親しんだのでないとはいえ、今の日本の若い世代もまた、日本の伝統的な因習に切り離されているので、こうなると似たようなものになりつつあると思うのです。
〇研究所史(1)
この研究所は、対外的にはロック、ポピュラーの声づくりから始まりましたが、その後、声優、役者などの声づくりに拡がりました。どちらかというと欧米のメソッドを参考にしつつ、ヴォイトレに関しては、先に、日本の役者の声づくりをロック、ポピュラーに応用していました。
次に、音楽(洋楽)スタイルを目指す歌手の補助として、最初はワールドミュージックⅠ(カンツォーネ、ナポリターナ)、次にワールドミュージックⅡ(シャンソン、ファドなど)の順で使いました。Ⅰは、声質、共鳴、Ⅱは、ことば、日本語と外国語の問題に対応してきたのです。それに併行して噺家、お笑い芸人、声優、邦楽家を経て、一般のビジネスマン、OLさんなどと接して、一般化していくことになるわけです。
今、ここには、8つの音大出身のトレーナーがいますが、そこまでに音楽大学(声楽)以外に、ミュージカル(宝塚、劇団四季、東宝系)、ポップス、ゴスペル、ジャズ、コーラス(合唱、カラオケ)の関係者、プロデューサーや演出家(日本、韓国ほか)のゲストなどと共に、いろんなトレーナーと接してきたわけです。そして、今に至るまでに、プロとして、噺家、声優、朗読、役者、ものまね、民謡、長唄、詩吟など、まさに声と歌唱で、研究所はさまざまな世界を縦断してきたわけです。
○研究所史(2)
この芸事の伝承を標準化しようとしたスタイルが学校であり、カルチャー教室であり、ビジネススクールです。研究所自体、個人レッスンが集団レッスン、グループレッスンに変じていきました。一個人の研究から、複数での普遍化へ、研究したい個人が集まるということで、集団化の流れをとっていきました。プロダクションや会社、コーラスからバンドなどとも関わっていたので、私のなかには、いろんな考えや方針がいつも混在していました。
それを、今の若い人や、年配の人がそれぞれに、どう受け入れ、その結果どうなったかもずっと渦中にいてみてきたわけです。
他の組織の歴史、関わった人たちのその後、それらもまた研究所の歩みの中に凝縮されています。そこまでには、いろんな選択がせまられました。何かを選んだために捨てざるをえなかったものも多々あります。成功も失敗もたくさんありました。第一線にいるためには、方向転換や変革の連続だったのです。
ある時期で、研究所のプロダクション化やライブハウス運営、専門学校化の方向もやめました。やめる判断も、その都度、学びの材料として、皆さんに提示してきました。
自らのできること、できないこと、やりたいこと、そうでないこと、やるべきこととやるべきでないこと、多くのことをジャッジしました。
私は、研究所を創り、支えるための副業に、プロダクションや会社のアドバイザー、コンサルタントもしていましたから、企業やプロダクション、大学などの内情にも通じ、一方で、ビジネス社会、マスコミ業界、芸能界、学会などと、今もですが、あえて均等に距離をとっています。その中では、教育界、医学界、健康・メンタル関係者との関わりが多くなってきました。
コンサルタントと事業化というのは、タレントとプロデューサーというのと同じく、両立しがたいために中途半端にもなったと思いますが、それゆえ、見えてきたこともありました。突き詰められずに得られなかったこともたくさんあったと思うのです。しかし、それよりは、そこで得たことを次にどう活かすのかを優先しています。私はまだ人生を回顧する立場にありません。ただ、研究に専念できる体制づくりに、こうして25年もかかったゆえに、選択については、人よりも多く学べたように思っています。この25年の研究所の歩みは、すでに「読むだけで…」(音楽之友社)にまとめましたので参考にしてください。
○研究所史(3)
今の研究所は複数名(2~4名)のトレーナーによる個人レッスン指導と、それとは別に内外のいくつかの研究会、勉強会、実習、研修を主にしています。そこでの体制、システムとして、最も参考になるのは、邦楽とクラシックの世界です。
一人のカリスマが一つの芸を確立させた、あるいは、形としていった、そこに人が何かをみたり聞いたりして感じ入り、人が集まった。次の機会にリピートした。そこから時流にのると大きくなり、のらないと廃れていく。舞台やイベントであれ、店や会社であれ、人間の芸であれ、その人の創りだしたものであれ、大きくみると同じことです。
人が感動する、人が集まる、この2つのくり返しを、私は若いときから、いろんな機会や場を借りて行いつつ、自らも、事業、研究所、学校、アドバイザーとして試みてきました。
これらは、縦社会よりは横社会のつながりでした。かつてのスーパーコンピュータよりはマック(マッキントッシュ)の思想でした。現実に社会は、その方向に動いていきました。しかし、それによってアーティストが生まれたのか、それによって人々が、より大きな感動と集まる機会を得られたのかというと、ことはそう単純ではありません。
〇研究所史(4)
研究所のレッスンは、集団グループからマンツーマンに移行したとはいえ、多くのトレーナーや生徒さんが通っていますから、いろんな考え方が持ち込まれます。未熟かつ柔軟な組織ゆえ、その場の相手との対応で自由にできていたことが、形ができて、それを求められるようになると、メリットとデメリットの兼ね合いも、優先度も変わってきます。
そうして一律の判断が求められると、7割の人にはよいが3割の人にはよくないという、まさに民主主義の欠陥のようなことが出てきます。その3割のなかに一人でもすごい人がいたら、そこへすべてを絞り込む方がよいという考えはとりにくくなります。巷では、1割にも満たないクレーマーぽい人のために全体が不利益を被り、いつしれず、存続させることが目的になり、サービス面での成果を出すことが目標になったところも数多くあります。
「アーティストたれ」を掲げて発足した研究所も、この目的だけでは、5年ともたなかったことでしょう。それを死守するなら、私自身が5年で潰したはずです。少なくとも、2000年の時点で、ここは「声に関心をもつ人なら誰でも来たれ」になりました。声に関わる分野があまりに広がったため、深く絞り込む前に拡散していく方にいきつつ、10年以上経ったわけです。それを今、再び、いや新たに突き詰めようとしているのです。
〇研究所史(5)
研究所の発足当初は、時間など誰でも気にしませんでした。劇団のように、最初のレクチャーが3~5時間連続でも誰も去りませんでした。それが、2時間でも長すぎるという人が出てきたのが、ちょうど1997年頃、転機とともに終焉でした。
私のところは、いらっしゃる人も、時代の波から20年くらい遅れていたのが、最大の長所だったのですが、バブルから後の日本、特に音楽の業界の動きは、私の望む方向と真逆になりました。生き永らえているのが不思議なほど、日本で歌の価値、その世界が縮小したのです。
当時、「レッスンが延びては困る」というような人が出てきたのに驚いたのを覚えています。(今では、それはあまりにあたりまえのことなので、そのことに驚いたということに驚くくらいです)
人数がいくら増えても、人材が出なくては仕方ありません。幸い、研究所で学んだかどうかは別としても、在籍したあと、歌い手だけでなく、アーティストやプロデューサー、ビジネス、自営業、役者、トレーナー、指揮者として活躍している人が少なからずいるのは、とてもありがたいことに思えます。
この10年は個人レッスンだけにしたため、プロやほぼプロの人が来るのと、他のプロダクションやトレーナーと併用される人が多くなりました。そういう面では、純粋な成果がみえにくくなりました。しかし、「他と分担することで、ここで声のことにより専念できる」なら、悪いことではありません。どこでもヴォイトレに即効性を問われるようになったからです。そして、声よりも総合的なバランスを整えるように。(それは厳密には、声のトレーニングの成果でなく、声の使い方の成果ですが)ともかくも、こうして声そのものの成果を出すことに専念していく体制にしていったのです。
〇研究所史(6)
メニュ、ノウハウ、マニュアル、方法については、それよりも基準を学ばせ、それに必要な材料を与えるというのが、最初の考えでした。このあたりは私のデビュー本に詳しい。(現在は「ヴォイストレーニング基本講座」として増補改訂)
邦楽も声楽も、ここの一人ひとりのトレーナーのレッスンは、標準化されたものでも、共通のものでもありません。浅いレベルではそうでも、深いレベルでは、そのトレーナーなりに捉えた持論の実践です。それゆえ、組み合わせることで効果を大きくしてリスクを回避しています。
ここでは、声楽家だけでも、長くたくさんレッスンをしてきた人を中心に、これまで30名以上を組み込んできました。30パターンもあると、日本の声楽の現在について、どの声楽家やトレーナーよりも共通や異質の要素を抽出して標準化できます。しかもここでは、オペラ歌手が音大生に教えるのでなく、全くの門外漢に教えるのですから、相手に応じた組み換えができなくては長くは続きません。生徒のタイプ、学び方、進度についても、多くの人を長くみていくと、同じように、トレーナーとの組み合わせも含め、いくつかのパターンが出てきます。他のジャンルのトレーナーや海外のトレーナーも加えると、さらにこれが明瞭になります。
これは、最初に述べた、外国人の方が日本の継承にこだわらない分、比較しつつ学んで、総合的に早くよくわかるというのと同じです。一つの流派だけで何十年もやっている人は、他の流派のことを全く知らないということもあります。また、そこに合う人だけが来て残るので、同じタイプにしか通じない教えられ方になることもあります。トレーナーが独自のやり方をもつのでなく、そこへ来て長くいる生徒の望むやり方に偏っていくのです。トレーナー本人もそれに気づかず、万能と思ってしまう愚を避けられます。このあたりはフィールドワークなのです。日本において、洋楽を学ぶ音大生の方が、邦楽や日本の芸能については、一般の人よりも無知だというのも似たような愚です。
○革新していく
日本は、一端、形、型ができると、それを深めるのに純化していく傾向が強く、そうして強国には築かれた縦社会ゆえ大きな障壁となっています。縦割り行政ということばでよく使われていますが、障害となるのは行政だけではありません。大横綱ゆえに代表理事をやる、料理長が経営をやる、選手として実績のある人が監督やゼネラルマネジャーをやる。それは、本当は、違う才能とキャリアが必要だとは考えないのです。そこで、おかしなことが起こるのです。一流のアーティストとしての才能は、ビジネスやマネジメントの才能とは別、ということもわかっていないのです。
それゆえ、日本は、アーティストが一流の作品をつくることに専念しにくい環境といえなくありません。根本的には、大きな革新ができず、古いものを残していく、そのわりに新しいものが好きで、どんどん惜しげもなく前の世代のものを跡形なく壊して、リニューアルしてしまうのが日本人のように、私は思うのです。
私などは、ずっとたくさんのすぐれたトレーナーを使ってきているのに、ずっとたくさんの古今東西のすぐれたメニュの革新をしてきているのに、研究所で声の研究をしているのに、そういう面で評価を受けられません。研究では、自分がすぐれた研究をするとともに、自分よりすぐれた人を集めて、よりすぐれていくようにしていくことがもっと重要だと思うのですが。
〇未成熟のままに
日本人においては、完成されたものより、未成熟でのプロセスが人を惹きつけます。弱者の文化、弱者としての生存術が、日本の歌謡においても、特に大戦後は頑ななものとして続いています。その前に流行歌まで禁じられていたという状態からの反動もあったと思われますが。
アメリカによる徹底した破壊と敗戦から一転して、予想外の解放と自由が与えられたわけです。これが中国やソ連の統治下であったなら、日本の戦後は全く異なっていたでしょう。もう少し自立して、父権的、武士的なもの、和魂が残ったのでは、と思います。日本に侵略されたと訴えを大にしている2つの隣国と同じく、多くの日本人もまた、戦争の前の日本人、特に軍隊(上官)や軍国主義が嫌いだったのだと思うのです。
今、滅びていく芸は、そういった体質から抜けきれないものが少なくありません。スポーツもです。相撲、柔道、水泳、プロレス、格闘技…、創始者が奔放に創造してきたことを継承して、模範の型やルールに定まっていきます。けれど、その分、保守化してエネルギーが奪われてしまいます。すると、それを超えるものが、他に生まれ育ち、取って代わっていく。それが人類の歩みでもあったわけです。
とはいえ、結果として、何であれ、世界で、民主主義国家と資本主義をもっとも完全に近い形で実現しているのはまぎれもなく日本。そういうことで、そこを否定しているわけではありません。そのやさしさが、表現のパワーにならず、無関心、「表だって行動せず」のようになっているのを誰が責められましょうか。昭和天皇は「自分が正しいと思う人が一歩下がれば争いは起きない」と言い残されました。
○パワーなし
型を通じて型の上に出ていくのが、達人の出たあと、そういう型にはまって出られなくなると、その型は、かつての天才を思い出させるゆえの装置として使われるようになっていきます。「美空ひばりトリビュートアルバム」、トリビュートを出すのはよいことです。美空ひばりを知らない人に何を与えられるか、その曲、詞はどこまで通じるのか、それをみますと、ベテランの演歌歌手でも、ひばりの型にはまる(ものまねになり、足をすくわれる)か、そこを切り離し自分の歌のようにする人か、どちらかです。その型を最大に活かして自分と今の世界を表現できている人、いや、もしかすると試みようとしている人さえほとんどいません。
デビュー時の才能や資質が、プロになったあとに消費されているだけで、さらに高めて最大限に発揮されるようにプロデュースもされてこなかったのです。日本人のお客さんに純粋に対応していった結果、アーティストはプリミティブなパワーを失っていったともいえます。世界で通じる歌唱力で世界の一流のアーティストにも認められた美空ひばりが、世界に知られていない、ヒットもしなかったのは、時代のせいばかりとは言えないと思うのです。「王や長嶋が大リーグに入っていたら」などと似たような愚問なのでしょうか。
日本の芸は、聴き込めば入ってくるものです。パワーで押して持ち上げてくるものではないのでしょう。歌詞が中心であり、メロディののりに母音のビブラートです。生活のなかで強い言語のリズムやパワーで盛り上がっていく欧米、アフリカとは言うまでもなく、アジアなども含めて、それらと違うように思います。
何よりも、日本人は、和、共感、謙虚さを尊びます。しかし、それは、戦い、競争の次にくる世界を創れるのでしょうか。創っていくのに一歩引いていく、そういうことなのでしょうか。