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2015年5月

体で学べるようにするには  No.285-2

○声は音の世界

 声は音ですから、聴覚で捉えます。とはいえ、自分の声は、骨振動でも自分に伝わっています。他の音も体でも捉えているわけです。限度を超えた低周波や高周波は、人間の耳の鼓膜だけではとらえられません。映画館やお祭りの大太鼓、花火の音など、重低音は、心臓や胸、脳、足などにダイレクトに伝わりますね。それは触覚といってもよいくらいです。もちろん、波動の世界でもありますから、その高いところに光、色の区分け、視覚もあるのですが。
 かつては、ラジオやレコードに長らく耳を傾ける時間がありました。そこは聴く力を磨くベースになりました。遊びも仕事もアウトドア、自然のなかで行っていました。そこが体で感じるベースになりました。今の私たちは視覚優位の世界にいます。インドアの、さらにPC、スマホのスクリーンのなかにいます。それを切り替える時間を意図的にとる必要があると思うのです。

○胎内巡り

 会社の研修などには暗闇を歩くようなものがあるそうです。そこでは耳や体の感覚が鋭くなります。
 お寺のなかで、いつも、あるいは特別な時期に、仏様の下を潜ることがあります。有名なところでは、長野の善光寺や京都の清水寺ほかで、私も何回か体験しました。真暗な床下に降りていき、壁や手すりを頼りに進みます。
 経験のない人は、お化け屋敷や洞窟、鍾乳洞の探検などを思い出してみてください。
 耳と手がセンサーとなり、嗅覚も、全く見えない中で視覚も研ぎ澄まされます。頭をぶつけないように腰はかがめることでしょう。
 なぜ、ライブやコンサートで消電といって照明を消すのかというと、ステージに集中させるためです。特に歌では、耳だけで聞いてもらいたいものほど、明かりを落とします。ピンスポ一本にしますね。注意や集中力を喚起するためです。
 闇にする。これは、耳の力を取り戻すよい方法です。

○体感

 人工のセンサー万能の時代になっても、トレーニングや修行を積んで研ぎ澄まされた人のもつ感覚には、いつも驚かされます。千原ジュニアの番組「超絶凄ワザ!」を見ると、達人の技は、センサーや精巧な工具を今もって超えています。1000分の1ミリなどというのが触感や削り出す技術に使われたりします。そういえば、坂本龍一氏※が、リズムで1000分の1秒で異変に気づく、1000分の40秒で明らかにわかるというようなことを述べていたような覚えがあります。
 トレーニングした人と、トレーニングしていない人との差は著しいものです。
 小さな頃、野球でいうフライを獲るのに、うまいのと下手なのがいました。何秒後、何メートル先のどこにいたらキャッチできるのかを予測して行動する体感力です。高度な物理学でも計算は難しいし、そのようなロボットはまだまだできないと思います。天空に上がったボールを射撃することはできるかもしれないが、ピッチャーのフォーム、バッターの捕え、打撃音から瞬時に検討をつけ、大まかに位置方向を捉え、予測して動き、調整、修正してキャッチするのは、経験と勘です。そこでは、どのくらいのデータがいるのでしょうか。
 高度に発達しつつあるAI、センサーやロボットは自然の世界や、しぜんに生み出した動植物に追いつこうとしています。でも、ようやくダンスや階段を昇降できるレベルになったところです。最後までロボットに取って代わられないのはどこなのかを考えることです。

○流れ

 ひしめく日本人によるスムースな横断を見られる、渋谷の109前の交差点は、外国人の観光名所になっているといいます。私は、高校生で上京したとき、渋谷駅でたくさんの人を見て具合が悪くなりました。その話をしたら母がたいそう心配したのを覚えています。学生の頃には、いつのまにか人にぶつからずに大勢の行き交うなかを歩くことのできている自分に気がつきました。部活のバスケットボールの経験が活きたとも思っていましたが、考えるまでもなく、東京に住んでいる人ならぶつからないのです。
 ラッシュにも鍛えられました。その秘訣は、誰でも知っていることですが、この先、大切なキーワードとなるので言います。流れに逆らわないこと、脱力すること、自らを無とするということです。つまり、大きな流れに入って、そこに身を委ねるのです。結果としてスムースにしぜんと電車に乗り、しぜんと階段を上がっているのです。自分で乗ろうとか上がろうとせずに、その流れに加わり、周りから押されるのを受けていれば、しぜんに足が動いて、なるようになります。
 ここまで述べて、日本のラッシュは、個人の意識や行動する力を奪う働きをしているのではないかと気づきました。それゆえ、「降ります」と、流れのないところで電車の出口に近づくことに、大したプレッシャーを感じる社会になっているのです。ちなみに私は、ラッシュでは、座席になだれ込まないように流れをくいとめる大魔神のような役割でした。筋力を最大限使って支えていました。背が小さく宙に浮いてしまっている女子高生と、どちらが大変だったのでしょうか。

○馴れる

 私たちは頭で考えて動いているつもりで、決してそうではありません。むしろ、頭をストップした方がうまくいっていることを知るべきなのです。目的地くらいはセットしなくてはいけませんが、これも同じところへ毎日行くのであれば、家を出たら会社や学校に着いているものです。これもトレーニングであり体が馴れて、そして覚えたということです。もっとわかりやすいのは、自転車や車の運転でしょう。
 私はペーパードライバーから車を運転し始めてしばらく、頭を使うとわからなくなることが、ときにありました。アクセルとブレーキを間違えたり、左足でブレーキを踏もうとしたこともありました。慌てるとさらにひどい、ギアをPとかNに入れたり、パーキングブレーキを解除し忘れたり…。私よりは鋭いと思われる人も、教習所のときを思い出してください。そのことから、人は考えてやるのではなく、考えなくてもやってしまうものであると知りました。考えるとできなかったり、うまくやれなくなることを、もう一度捉えてみてください。

○頭を切ること

 スポーツをしたり自転車に乗ったりすること、これらは大脳の働きでなく小脳が司ると教えられました。頭でなく体で覚えると言われてきました。頭での思考や理解が全くないとはいえませんが、練習を重ねることで、誰もがあるところまではいきつくのです。反面、いくら考えても体を動かしてくり返さない限り、何ら身につかないのです。
 もっとわかりやすいのは、できないことができたときです。スポーツも、自転車も、ピアノを弾くのも、すべて、考えることが切れたときに体でできていたでしょう。つまり、考えが切れていたときに起こるのだから、考えてはだめということです。
 これは、できたあとに頭が働くことでもわかります。我に返って気づくのです。ここで考えや頭というのは、意識というようなことでしょうか。
 ピアノでいうと、一曲、何も見ずに丸ごとなら弾けるのに、途中で一か所躓くと、そこから先は弾けない。そういうときに、何も考えずに頭からやり直せば、大体はまた弾けますが、間違ったところはどうだったのか考えたら指も動かなくなる。考えないなら指が動いてできるのに、考えるとその日は全くできなくなって、それを忘れた翌日には弾けたりする。歌の歌詞などを忘れるのも似ています。ですから、禅などでは、頭を切る修行をするわけなのです。

○体で聞く☆

 昔の人、というと失礼ですが、私が研究所を始めたときには、レッスンの質問というのは、ほとんど出なかった。それは、レッスンを受けるまえに大方片付いていた。大体は、事務的な質問だったわけです。レッスンでは、参加者はひたすら体で吸収することに専念していたともいえます。
 もしかすると、私に聞きづらかったのかもしれませんし、そういう雰囲気でなかったのかもしれません。当時、私には、質問を聞こうとする姿勢も教えようとする姿勢も、今ほどにはなかったのを認めます。
 それは時代のせいでも私のせいでもなく、いらした方が優秀、かつ自立していたからだと思うのです。私も若輩でした。でも、他のトレーナーには質問しやすかったせいか、そこを介して質問回答集などをつくっていました。レッスンでは感覚を集中させたかったからです。
 今と異なり、レッスンで学びに行くのに質問するものではないという風潮もありました。体を使った人は黙ってコツコツと変わっていくのに、頭を使った人は身につかず口から文句が出てくるようになったのは、まさに対照的でした。
 
○質問の意味

 私も、自分の先生に、本当に知りたくてという質問というのは、したことがありません。挨拶代わりにコミュニケーションのツールとしては使いましたが。いつかはまともに質問できるレベルになって選び抜いた質問を、と思っていました。せっかく会えるのに、下手な質問をたくさんするのは愚かなこと、周りの迷惑にも先生のレッスンの邪魔、ひいては、自分のレッスンの質が落ちるとさえ考えていました。
 質問して答えをもらったところで何ともならないし、質問を褒めてもらいたいなら別ですが、それでこちらが見透かされる恐怖もあったのです。今も、大体はそれで合っていたと思います。ただ、そういうものは、その関係性、目的、レベル、タイプ、そして場、環境にもよるでしょう。当然、時代や育ちにも。
 私は、自分が自分に対して否定しているものでさえも、皆さんの場としては、選べるものを提供しようとしてきました。そうする器をもつ努力をしています。
 仮に質問は不要であり不毛だと思っていたとしても、(そんなことはありませんが)研究所はあらゆる質問を内外から受付け、回答しています。<Q&Aブログ>は、この分野では世界最大のものとなっています。なぜなら、質問から学ばされるのは私たちだからです。これはクレームと同じく、大切な気づきの材料です。

○パントマイムの人もくるヴォイトレ☆

 今は、いきなり声を出してもらうことはありません。
 本人が望めば、声やせりふ、歌のことを学んでいくのですから、当然、まず聞かせてもらう方がよいのです。しかし、メンタル面に問題のある人や声の病気をもつ人が来るようになり、かなり変わりました。声をうまく出せないのでなく、声自体を出せない人もいらっしゃるからです。
 さらに、声を出す必要のない人、ダンサーやパントマイムなど、呼吸を学びに来る人さえいるのです。故障などのリハビリを早く終わらせるのにも有効です。そういう人も、呼吸を深めたり、指導や共演のときのために声が使えることは必要だからです。
 
○受け身体質では

 幼い頃、大きな声で騒いだり叫んだりしていたのが出せなくなったのは、教育のせいでもあるのでしょう。マナーということでは、声を荒げないのは日本だけではありません。が、受け身体質として、主体性をも奪ってしまう日本の学校教育、音大も含みますが、それは反面教師としての役割を果たしていたのでしょうか。
 何よりもアーティストになりたい人は、アーティスティックな毎日のなかで研鑽していくものでしょう。先生の教え方とか、トレーナーがよいとか悪いとか、考えること自体、無駄なことに思うのです。
 私は、なぜ、自分の表現を、つまり、自由な表現を目指す人が自ら不自由に教えられようとするのか、教えてくれるところにしか、自由も表現もないと思うのかわからなかったのです。むしろ、逆でしょう。
 しかし、こうして、30年も同じことを続けていると、なるほど、日本人というのは、先生だけでなく生徒も不自由をよしと、人に動かされることをよしとするのだとわかってもきたのです。でも、方法やメニュで教えてくれたものなどは役に立ちません。学び取ったものしか、ものにならないのです。

○人を選ぶ能力とマッチング

 人を選ぶのもその人の能力です。出会いも同じです。私たちは、必要な人とは出会うように生きているのです。たとえ選び損なったと思っても、その経験を基にして選び直せばよいのです。そんなレベルで、どうのこうの言うだけ時間の無駄です。そんな暇があれば動けばよいのです。やることがないから愚痴っていくと、それで生涯を終えてしまいます。そういう人たちに「そうでないように変われ」と示しても改心できなかったとすれば、それも私の力不足ですが…。
 理想というのも相手あってのもの、ニーズに応えつつ、少しずつ方向を変えていくのも必要だと思って、私は焦らなくなりました。自らの理想ははっきりとしているので、ニーズについては、それを、それぞれもっとも適切な人と役割分担すればよいわけです。
 教えられたい人には教えたい人をマッチングすればよいということです。どんな形であれ、声の研究ができているのなら、声の研究所です。
 というか、そのおかげで私は一人でやるよりもその10倍の学びを得られるようになっているのです。もっとも多くのトレーナーと接することで、もっとも多くのことを教えられたのです。
 研究所のブログなどは、そのプロセスであり、私からのお返しということです。どうマッチングしていくのかこそ、自らの世界をつくる最大の秘訣なのに、なぜそこを学ばないのでしょう。

○叩き台と絶対量

 私は、自分で考えたことをしゃべっていますが、人に「考えろ」とは言いません。本やブログに「考えるように」と書くことはありますが、それは考え尽くさないと考えることがやめられない、人間の性や業へ対してです。こういう文章を元に考え尽して、「もういい、考えたって仕方ない」と開き直るために必要な人もいるからです。
 声は出さないと出ません。ピアノは弾かないとうまくなりません。それだけなのに、今は、そこが絶対的に足りない人が多いのです。私を支えているのは、誰よりも声を出した日々があったこと、そこだけです。
 昔はそこが充分だったので、その逆に、考えること、頭でなく体として感じることのステップアップとして叩き台が必要だったのです。今回も、このレベルくらいで述べたいのですが、まずわかって欲しいのは、「絶対に足りていないこと」です。
 これでは、医者やトレーナーに何を相談しても何ともなりません。モチベート、気力、取り組みといったメンタルについて、今や9割の人たちの問題となりつつあります。何にもならないのに、何かになっていそうに思ってメソッドや教本が使われるのです。それでは抗うつ剤のように思いませんか。

○個性

 個性的というなら、少なくても役者、歌手なら、昭和の時代の方が多かったでしょう。5人から48人で歌うような人たちを歌手と呼んでよいのかという時代錯誤な疑問は置いておくとします。でも、声一つ考えても、アーティストは違うものでしょう。
 集団化、シンクロナイズにおいて、日本は北朝鮮の上をいくほどで、共産国家、独裁国家よりも一糸乱れないように教育、いや牽制しあって育ちます。世間を重んじる国民性でもあります。それを美しいとか、仲間とそのように楽しみたいとかいう人は、それでよいでしょう。
 でも心身はどうなのか。というのは、声一つにもそういう気質は現れるからです。つくった表情や作り笑いは、しぜんで健康的なものとは違うのと似ています。個性が出ていなくては魅力はありません。
 
○個声

 私は、かなり客観的に、「どんなヴォイトレもよい」と全てを認めています。トレーニングなのだから、それ自体に正誤はなく、自分にプラスになるように使ったらよいと。それをマイナスになるように使うのならやめればよい。そのために、まず、何がプラスでマイナスか学ぶべきです。
 こうして述べていくと自らのヴォイトレやヴォイトレ論だけで浮いてしまっている居心地の悪さを感じます。
 正しい声、正しい教え方、正しいヴォイトレを求め、そうでない声を否定する。そういう流れは居心地よくない。しかし、そういう声ばかりになりつつあります。
 歌手は、役者は、もういない。使いたくないのではありません。でも使っているレベルが落ちたのも、客も、多分、つくり手の多くも気づいていないかもしれません。俳優、声優も同じく、表舞台から消えつつあるのです。やがて、浪花節や時代劇と運命を共にしてしまうのでしょうか。個声がなくなっていくのです。それでよいはずがありません。

○声量のこと

 文明が発達すると声は小さくなるようです。子供が大人になり、プリミティブな社会だったのが先進国になると声は大きく出さなくなる、ただし、それと、大きく出せなくなるとは異なります。
 声の大きさは一つの要素で、必ずしも大きな声がよいのではありません。しかし、トレーニングでは大は小を兼ねる。大きくしか出せない声はよくないし未熟ですが、大きく出せて小さく使うのが、本当の芸に欠かせない技術です。
 それは、器と丁寧さとの関係です。いつも述べているように、大きく出せるという器で細かくメモライズして丁寧に使う。
 マックスは使わず、マックスが想像つかないという、底の見えないところ、それがバックグランドとしてあるから魅力となるわけです。
 ですから、その懐の深さをもって、今度はきめ細やかに声量の差、メリハリをつけ、さらにミニマム、ピアニッシモの声でもきちんと伝えられるように出す。声量は力でなく、力があるから、力を出さなくても声量となるのです。そのために呼吸、発声、共鳴ということを学んでいるのです。
 声量は、今の日本人のもっとも不得意とするところです。すぐにマイクでカバーしてしまうため、声質(音色)とともに忘れられつつあります。それゆえ声の魅力をもてず、世界レベルへ達しないのです。
 カラオケがハイトーンの競争に陥ったように、発音や高音(声域)というわかりやすい低レベルの基準で、あたふたヴォイトレをしているのです。
 先の2つに比べ、後の2つは大したことのない問題です。原曲キィで、本人のように歌おうとするから問題が生じるだけです。そればかりにこだわっては、本当の個声を追求できず、才能も磨かれずに終わりかねないのです。

○よくないことの勧め

 「気を付けの姿勢で胸を張って歌いなさい」最近はこういう指導は、あまりされていないと思います。「大きな口、口を大きく開けて歌いなさい」もかなり減ったでしょう。
 でも、人によっては、場合によっては一時試みるのも悪くはありません。トレーナーからは、それなりに否定の理由があるでしょう。胸を上げすぎると腰のところに空気が入らない(支えやら深い呼吸がしにくい。口でなく口の中を開けるべきだ、響かず、浅くなる)など。
 しかし、何事もやってみることはよいことです。よくないことさえ、やってみるのは悪いこととは思いません。もしかして私の想像を超えたよくないこともあるかもしれませんから、それがよいこととまでは言いませんが、試すのはいけないことではありません。
 頭で、教えられたとおりにやってもみずに従うよりも、自らやってみて、よくないと知ることも大切です。注意されないように頭で考えるようになるのはよくありません。最初からやらないのでなく、やって注意されて、気づいて修正していく方がずっと大切なことだと思いませんか。

○何でもやってみる

 トレーナーについているのですから、きちんと使うことです。きちんと使うとは、新しいことを知ってやってみるのでなく、これまでのことを新しくみるということです。
 プロのピッチャーは、まずきわどいところに投げて、今日のアンパイアのストライクゾーンをつかみます。一流のピッチャーはきわどいカウントを逆手にとり、そのストライクゾーンを自分に有利に決めていくとさえ聞きます。
 頭のよい優等生は、間違いだと思う答えは記入せず、平均点以上をきれいな回答で収めるそうです。しかし、本当に優秀な人は、すべての欄を記入します。そのくらいでないと、絶対に間違っている答えを堂々と記入して、たまに1つ当ててしまうような、勉強ができない人の直観力や処世術にも、いつか負けてしまいます。

○思いっきりよくの勧め

 私はよく、「思いっきりやってみなさい」と言います。「めちゃくちゃはみ出せ」と、それがよくなければ自分でわかる。わからなければ言うからと。何を恐れることがあるのかと。
 オーディションなら、作品そのものでなく自分をみせる場なのです。はみ出ださずに、どうアピールするのでしょう。熟練した技など得意にひけらかす人を誰がとりたいと思うのでしょうか。(でも日本では、そんなのを、安全というのでとるのも多いから困るんで…)
 はみ出てひどすぎたら注意されるから直せばよい、自分を出して、それが合わなければ何か言われる。そこで修正してよい。はみ出た上で作品をチェックする権利があると思ってください。
 
○はみ出す、自分を出す

 私が教えないのは、トレーニングは、内なる自分を出す、そのプロセスだからです。いくらバランスよくまとめて声を整えても、インパクトなしには何の魅力もないのです。
 特に自分の世界を打ち出していくときに…。
 自分を出す前に何を教えるのでしょう。先生のやり方、ミスしない方法、カラオケの点数アップ?「それでよいのですか」と問うても、「お願いします」というのが、この国のこの頃です。
 自分でまとめなくても、はみ出たのがひどければ、自ずとまとまってきます。客を前にして、自ずとまとまろうとします。自ら注意すべきことに気づきます。調整はそこからでよいのです。
 歌やせりふで私は「プロや一流は、あなたたちが思う以上にはみ出しているから、あなたがどんなにはみ出しても足りないと思え」と言います。やりすぎたら注意すると言って、注意する程にやり過ぎる人、むしろ、そういうことのできる人は、ほとんどいません。日本でよく聞く自主規制、自己規制、それは魅力規制です。そんな人ばかりで、いくら集まってもつまらないものにしかならないのです。

○禁じない

 私は「――しなさい」は言いません。それは強制であり、「それ以外してはいけない」という禁止です。子供のような生徒でも、子供扱いすると子供のままになります。自由奔放な幼児にまで戻せるならよいのですが、自由を失った子供に、声や歌まで受験勉強のようにさせてどうなるのでしょう。
 教える先生やトレーナーの自己満足では、高校の管理野球のようなものです。日本の合唱団もそういう体質でしたが、義務教育の一環と、アートや大人としての場は違うとしましょう。
 なのに、「教育したがる人―教育を受けたがる人」の絆は、強いのでしょう。それでは私は失格となるのでしょうね。
 教えたい人の熱意はよいのですが、それが、相手の呼吸や意志をコントロールしてしまう。心身を緊張させた状態においてしまうことが問題です。レッスンでリラックスさせた分、本番であがってしまうのでは…。
 声を声で教える、怒った声や命じた声は、悪い見本でしょうか。役者や声優は、そういう声も使うので参考になるかもしれません。一人の人間にいろんな声があることを学ぶのならよいでしょう。そういう意味で声の表現力の弱いトレーナーは、別に見本をおくようにすることです。

基準と基礎から、一流と大衆性 No.285

○基礎と基本の定義

 基礎とはfoundation、下部構造、大本、基い、土台、建築物でいうとコンクリートの基礎であります。基本はbase、物事の成立に基づくもの、判断や行動、存在の基、基い、根本、土台という感じでしょうか。
 とはいえ、英語でもどちらにも使われ、日本語も区別されないときもあります。ちなみに私の本では、基礎、基本講座とついたものがあります。基礎、基本に対応するのは応用やアドバンスで、上級などになるのでしょうか。
 そんなことはさておき、ここではヴォイトレにおいて、歌唱やせりふ、朗読に対しての位置づけのことです。声のヴォイストレーニングに対して、歌はトレーニング、せりふ、朗読はせりふ、朗読トレーニングでしょう。そんなことは何回も述べてきたので、ここでは定義で考えてみたいと思います。つまり、芸能の判断をするときの基準としての基礎や基本ということです。これは、とても大切なことです。そこから伝統と芸、時代を生き残るための基本、芸術性と大衆受けまで述べていきたいと思います。
 
○基礎のある人

 よく「誰を聞けばよいのか」と聞かれます。基礎のある歌い手や役者は誰かということです。また、プロの人は「基本を教えて欲しい」とか「基本をやり直したい」とか「基本を知らないので」などと言って、ここにいらっしゃいます。
 特にポップスでは、歌っていたら、バンドを組んでいたらプロになれたという人が、自分は基礎をやっていない、正規の教育を受けていないといいます。そういうコンプレックスがあるのかもしれません。しかし、基礎や基本とは何なのでしょうか。
 今、研究所では、そこを「声楽家の体としての基礎」においています。音大のカリキュラムのような統一されたものではありません。しかし、どこかで学ぶべき基礎といわれるのなら、ある程度の統一は必要です。
 これは、以前から述べてきましたが、トレーニングが特殊なものゆえに、基礎トレーニングというくらいなのですから、どこでも迷いが生じることです。声楽では教育を受けずに、つまり発声の基本を身につけずに、オペラ歌手になるのはとても難しいので、発声の基礎が、何となくですが、明らかにあるということなのです。しかも10年ほどのプロセスとして歌唱と力や分離されて声楽、発声練習としてあるのです。もちろん、邦楽でも10年、20年で基礎どころか、50歳で小僧という深い世界です。そこからも多くを学ばせていただいていますが、分離ということ、さらに、流派(一人の師)ということ、日本だけで、という点で扱いにくいのが実状です。
 
○一流を入れる

 スポーツや音楽の世界では、ときに教えられずに、あるところまで才能を発する人がいます。しかし、それにはやはり条件があります。必ずやそれ以前、一流のプレー、試合、作品などに接して、自らそこから吸収しているのです。独力で伸びる人は誰よりもそこから多くのものに気づき、学び、自分をコントロールし、足らないところを補っています。語学などもラジオだけで何か国語もマスターした人もいますね。何から、あるいは誰から学ぶかもセンスであり、才能の一つです。
 オペラにはメソッドがありますが、ポップスや邦楽にはありません。メソッドといっても、その時代の流行のもので、全世界で統一してあるというわけではありません。
 ここで述べたいのは、独力であれ、学校であれ、一時期はしっかりと他の人に学んでいるという事実です。歌を聞いてもいないし歌ってもいないで歌手になった人もいません。最初からうまかったとしても、しゃべれなかった時には、プロのように歌えていないでしょうし…。実力は、何に出会い、どう反応してきたかの積み重ねなのです。

○天然型の基礎

 基礎への探求は、これまで、何事にも基礎があるということで、なされてきました。しかし、それをメソッドとして学ぼうと学ぶまいと、人から教えられようが教えられまいが、ともかく、身についているかどうかということです。そして、それは、よい早くとか、より高く(ハイレベル)、より深くとか、より長くとかのために必要であるということです。
 歌っているだけで、実力派の歌手になれた人は、そこに全ての基礎も、必要なことも入っていたということです。聞いて声を出すだけでハイレベルに対応でき、つくりあげることのできた人です。
 そして、そうでない大多数の人のために練習法、メソッドやトレーニングがあるのです。そして今の私の立場は、そこを突き詰めることが主になってきたのです。しかし、それに加えて、あまり論じられないことですが、さらにプロの力をつけるにはどうするのかということです。
 歌手や役者になれた人でも、その実力を維持し続け、向上させ、時代に対応するには、たくさんの課題があります。そのための声の研究がメインなのです。
 
○「歌がうまい歌手」リスト

 新年の週刊現代の「歌がうまい歌手」日本人で、プロデューサーたちが選んだリストをみました。その翌週には、歌手やヴォイストレーナーが異論を、それぞれに述べているのですが、私は、そこともスタンスが違いますので、結局、述べられませんでした。私としては、一般論ですが、歌手であれ何であれ、世の中でやれていたら皆それぞれによいという立場です。
 それは音楽、歌、発声だけの実力に限りません。そこは研究所のトレーナーとも違います。(スタンスというなら、レッスンでの声の可能性と限界においてみるようにしています)
 私のところには、マルチな才能をもつ人がたくさんきます。声を、何にどう使おうとでやれていたらよいということです。これはやれていなければダメということではありません。芸能であれ、ビジネスであれ、やれている人の声は、それゆえ、ひとまず肯定するというスタンスです。
 プロなら声で伝えている、その伝えているということを、広く捉えているということです。
 私もその一人です。それを歌とか朗読、アナウンスでは、プロでないと言われたところで畑違いなのです。
 このなかに、私の知人もいるのであまり述べたくもないのですが、具体的でないと論じにくいので引用しますと、
 ヴォーカルランキング
1、桑田 2、中島 3、山下(達) 4、小田 5、井上 6、五木 7、沢田 8、都 9、石川 10、玉置 11、桜井 12、中森 13、松任谷 14、坂本(冬) 15、稲葉 16、布施 17、吉田(美) 18、高橋(真) 19、椎名 20、松田(聖) [週刊現代1月17、24日版]
 これに対して、最新号で、歌い手やトレーナーらが異論を展開しています。
 
○声に戻る

 私の自論はこれまでも述べてきました。(拙書「読むだけで…」に、リストあり)
 トレーナーとしては、すでにプロとしてやれている歌手のよしあし、好き嫌いはどうでもよいのです。そうでない人が誰をどう見本や参考にして、何をどう学ぶかということです。しかし、それは一概にいえないでしょう。相手(生徒)の目的やレベル、方向、優先すべきものによって違うのです。
 他のトレーナーのように「この人だけを聞きなさい」とは言いません。また、「この人は聞かない方がよい」とは、もっと言いません。どんなプロ、いやどんな人からでも学べる、学ぶ力がプロであること、それをプロのように学べる力をつけていくことがトレーニングだからです。 
 それでも私がこのようなものに学び、気がかりになるのは、何よりも、現実、現在の日本人のなかでも、耳があると思われている人の評価のあり様です。このケースでは、プロデューサーや歌手、トレーナーは世間の一端を代表しているからです。
 私なりのランキングは、声中心ですから、すでに今の時代、日本の歌は、声中心でないので合わなくなってきています。それも踏まえた上で、声、そこに戻ることこそが基本だと言いたいのです。ですから、いささかクラシックな考えになります。1960年前後のポップスなどでは、すでに50年経ち、現役つまり当時のリアルタイムで聞いていたファンが伝えてきたとしても、すでに少なくなってきているので、クラシックになりつつあります。
 つくられたときにいた人がいなくても継承し続けたところでクラシックとすると、そうなるのは早くて80年、およそ100年経てからです。ちょうど著作権の切れたところあたりから後ですね。
 つまり、時代を超えた、ということ、しかも、国を超えて自国のファン以外にも愛されてこそ、ということです。それは、このランキングではなしえていないのです。
 
○ワールドサイズで考える

 歌や宗教をワールドサイズで考える視点が、どうもこの国では欠けていて、ガラパゴス化を超え、自家中毒になっています。それは批判ではありません。時代や国、時間や空間を超えて通じるものであってこそがクラシックということです。そして、そうであろうとなかろうと、これは基準と基本を知るためには、とても大切なことなのです。
 これは、アーティストに声の基本を強要したいのではありません。音大に行かなくてもプロになれた人は、音大に行った人より才能(努力も含めて)があります。音大を出た人こそ、そこに学ぶべき基本があるともいえます。
 それをクラシックとかポップスとかで二分するのではないのです。長く多くの人たちを惹きつけるものには、根本に共通のルール、つまり基本が宿っています。私が、このリストを前振りにして、本当に述べたいのはここからです。根本、基本があることと、世に認められる大衆性を得ること、および芸術性との関係、その成立の確認についてなのです。
 
○根本のもの

 美空ひばりは、玄人受け(プロから目標とされた)だけでなく、大衆受けし、死して十数年経ってもセールスは続いています。紛れもなく、偉大なアーティストです。これで国際的なヒットがあればと残念な限りです。歌は、その大衆性こそが、このリストの歌い手の名に表れているのです。
 誰をあげるかで、その人の基準、判断がよくわかります。好き嫌いであげる人もいますが、音程、リズム、発音などでみる人、音質、発声でみる人もいます。歌は歌唱力とはいえ感情表現、感覚的なこと、聞く方の個人的な感情や育ちが入るので、なかなか客観的にならないものです。
 ゆえに私は、会っていない人、自分の人生と別のところに見本をとることを勧めています。まして、学ぶというのなら自分に入っていないものも学びたいものです。それは苦手や嫌いなタイプの歌手、トレーナーがもっていることが多いのです。となると複雑なものです。
・表現レベルに芸能としての歴史、浪曲―歌謡曲―JPOPS(日本)
・それに対するワールドミュージック、世界のPOP・
・さらに大きなくくりでは、学校、小説家、歌、声優、お笑い、神話、詩、本―漫画―アニメ、演劇―映画、ラジオ―TV、レコード―CD-DVD、
 世の移ろいにつれ、いろんな流行り廃りがあります。
 そこに仕掛けたプロデューサー、それを受けとめたり流していく大衆、群衆、個衆(個人志向)、一見すると、とりとめのないもののなかで、そこに普遍的に共通しているものがあります。その根本を学ぶことを知ることが大切なのです。
 
○21世紀には

 オペラも邦楽も21世紀になり生き残るのに青息吐息、歌の番組はプロレスやボクシング、野球並みに低迷しています。スターが生まれなければ滅びる、ヒット、人気商品が出なくては、やがて衰え潰れていくのです。
 多くの人が長く愛するもの、それこそが基本のあるものであり、私たちの学ぶべきクラシックとしての基準です。(ここでのクラシックは、オペラ、声楽のことではありません)それは、ときに、その時代、その国や地方のその場限りの大衆性と反します。
 ですが、根本を考え、そこをトレーニングします。それは世の中を、次世代を先駆ける感覚を形にすることです。その一つのツールとして、ヴォイトレを捉えるということなのです。ちなみに、ローリングストーン誌が世界のシンガーのランキング100を公開しています。それをみると、いろいろと考えさせられるはずです。

レクチャー・レッスンメモ No.285

高・大・音色 発育
aーiよこ a―u奥 aをたて
抵抗 拮抗 ひびかないがひびくように
花―茎ー根 腹圧
声域×声量×声質
声の芯 必ずしも共鳴させない
強い声 きれいな声
個性 バランス
繊細 丁寧
くせ 素直
低い声づくり 押した声 固い
ベリでも ドラマティコ
軽く 表情筋 PP 共鳴
状態のデータ 体全体共鳴
歌唱力 切り替え
圧力 疲れによるアンバランス

声と伝え方
理論と気づき
歩くこと
ロングトーン3~5秒×5
声たて 硬起
夏の鍛錬 冬の調整
器力と効率
飾りをとる
自分で聞いた修正の修正
上達と安定と型破り
息吐き
細工
声をおく
目標設定
ステップ化(可視化)
高音の太さキープ
息と共鳴
実験の場
切り込み 刈り込み
なつかしくする
お経と声の支え
メリハリ フレーズ
絞り込み
胸声のハミング
共鳴効果

Vol.39 

○小さな声で伝える、注意しても通るガイダンス声

 

基本トレーニング

1.「どうぞお召し上がりください」

2.「きっと気に入っていただけると思います」

3.「ちょっとお電話を拝借できますか」

4.「危ないので注意してください」

5.「どなたかご用のある方はいらっしゃいますか」

 

□チェックポイント

A.姿勢、体 呼吸、フレーズ

 前向きに、やや早い呼吸にする

B.顔の表情

 言いたいことを表情に表してみる

C.発声、高低、強弱、トーン

 小さくした分、高めにする(周りに聞かれたくないときは低めに)

D.発音

 きちんと歯切れよくする

E.声の表現法

 短く言い切り型でいう

 

○小さくても通る声にする

 

 声に芯があれば、よく通るのです。芯のある声とは、役者のような声です。決して大きくも大げさにも出しませんが、胸から胸へ伝わってくるような深い声のことです。

 

○通る声は、フォルマントで決まる

 

 声帯で生じた音(喉頭原音)は、声道(のど、口の中)を通り、響きがつきます。母音に応じて、その形を変え、共鳴の特性を変えます。

 この共鳴周波数をフォルマント周波数と呼び、低い周波数から順に第一、第二、第三…フォルマントと名付けられます。第一と第二フォルマントの周波数の組み合わせで、母音が決まります。

 アナウンサーは、第三フォルマントの周波数が高く変動も大きいそうです。この周波数三〇〇〇~四五〇〇ヘルツ域が、人の耳にもっとも働きかけやすいそうです。

 つまり、よく通る声の特徴は、第三フォルマントの付近で特に変化する幅が大きいのです。これは口を充分に動かし、正しい口の形をつくって発声して得られた声です。

 

○印象に残る声は語感を大切にする

 

 発声練習は、滑舌をよくするのにも使えます。トレーニングをすれば、すぐに効果が出るでしょう。しかしそれは、文章を音声に変換しただけです。決して心地よく印象に残るとはいえません。

 よく通り、印象に残る声というのは、物理的には共鳴がよい声、心理的には、その人柄や、気持ちが表われている声です。それにはいろんな条件があります。特に大切なのは、声のトーン、語感といえます。

 俳優の声はどんなに小さくても、口をほとんど開けなくても、遠くまで聞こえます。そのぶん体が支えているからです。

 しかし、あなたのまわりにも、とても魅力的に印象に残る声をしている人、そういう使い方のできる人がいるはずです。

 その秘訣は、あなた自身で追求してみてください。

 

○お年寄りには低い声で話す

 

声は、高い方が聞こえやすいものですが、場合によっては聞きとりにくくもなります。表情をつけるのも、伝わりやすくする方法です。ささやく声の方がよく聞いてもらえるのです。音の干渉作用で、低い声の方が回り込むことも知られています。

 耳の遠いお年よりには、大きな声でなく低い声を使うのがコツです。年齢を経ると、耳は、高い声をとらえにくくなるからです。

 

□しっかり通る声にするトレーニング

1.「カケキクケコカコ」

2.「タテチツテトタト」

 

□ことばをていねいに発するトレーニング

 丁寧にしっかりと言ってみましょう。

1.「今日は、雨が降りそうです。」

2.「二階の会議室に集合ください。」

3.「お手元の企画書にそって、プレゼンテーションをいたします。」

 

応用トレーニング

1.「お客様がお見えになりました」

2.「恐れ入りますが、こちらでお掛けになってお待ちください」

3.「課長、お客様にその契約書をご覧いただきたいのですが」

4.「お忘れ物をなさいませんように」

5.「課長がおっしゃられたことをお伝えしておきます」

6.「急ぎの仕事のお話があるのですが・・・」

7.「失礼します」

8.「今少し、よろしいですか?」

Q.レッスンで、トレーニングを指示するときの目的は。 No.285

A.いろいろとあります。あえて言うなら、漠然と行うのでなく、特定の箇所を意識して行わせることでしょうか。そのことによって、そこが調整されたり強化されたりすることになります。

ただし、喉の強化については、どちらかというとタブーとされてきました。声帯振動という開閉は、声帯筋やその周辺の筋肉が司ってはいるものの、ベルヌーイの定理のように呼気に両側の声帯が吸い寄せられ触れあって声になるのであり、筋力による働きでストレートに声を出すのではないからです。

しかし、以前は、喉ということを相当に意識して、そこを鍛えて一人前になった人もいたのですから一概に否定できません。邦楽や役者なら、なおさらです。

他の筋トレと違うのは、あまり部分的に鍛えるように思わない方がよいことと、生じた声と感情とのつながりについて、どうするかということです。感情や心の動きが声やことばになる。そこは忘れてはいけないところです。

舞台でのせりふの練習や本番でも、必ず喉の筋トレを伴っているのです。喜怒哀楽、喜びも怒りも悲しみも、感情は、それぞれの声に現れます。声を、息を、導き、変化させます。そして聞く人もそれらを受け入れるのです。ヴォイトレにおける心身の働きは、声とともにいつも研究すべき課題の一つです。

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