感覚について No.286-2
○先を視る感覚
運転の教習で「先をみること」という注意を受けると「そんなに先をみるの?」と思うものです。高速では、さらに「もっと先をみること」と言われます。慣れるとあたりまえに、先に集中すべきで、横などは見ても仕方ないとわかります。時間が流れる、その時間は、前に走るときは前からくるのですから、時間を空間に置き換えて、視線は先にいかないといけないのですね。
球技でパスを受け取るのと同じで、先に走ったところにボールはあるのです。ボールを追いかけては間に合わないのです。最初はやたらみえるものが多く、周りの人やものの動きに気を囚われます。頭で考えようとして体で覚えることが妨げられます。先を見ないと、体ごと先にワープさせないと危ないのです。
最初にアクセルだけ、60キロから80キロくらいで長く走る講習をやれば、もっと早く体に身につくと思います。あれこれ見ようとする頭が切れるでしょう。アクセルをふかして、初めてその世界がみえてくるのです。昔は、踏み込む勇気のない人、特に女性の運転が危なっかしかったのを覚えています。
○体になじませる
現実的には、リスクもあるのでシミュレーションによるでしょう。そういうレベルの違いが、車の運転でさえ、一般の人の周りにもあるわけです。これがF1のレーサーともなれば、想像しがたいでしょう。速度の出せない教習所よりは、自然のなかや、広い空港みたいなところで車を体になじませた方がよいでしょう。一方で、ある点では、ゲームでもシミュレートできます。ただ、それを全てと思うと危急の際に何ともならないのですが、宇宙飛行士などは、万一の対応も徹底する心身づくりをするのです。
車の助手席でもつかむし、無免許運転でもつかんでしまう人もいるでしょう。鈍くても旅や長い道中のときに、そのステップアップした感覚をつかむでしょう。
車で例えたものが、体かもしれない。いや体と同じです。それを楽器やボールと一体となって感じるときに、ここで自分自身の肉体と、ここで述べる感覚で捉えた体とは異なっているのです。私たちは自分の体を何か行うことにフィットさせるのにも手間がかかるということです。
○柔軟
柔軟やストレッチが必要ない人は、それなりに体力もあり、柔軟でもあるからです。スポーツをしていると、おのずとそういった体感レベルになります。スポーツを続けている人は、そうでない人がこのレベルに体をバージョンアップして保つことの難しさを知りません。それでも、すぐれた選手でない人が一流の選手との違いを埋めようとしたら、そこで柔軟やストレッチの、より徹底が求められることに気づくはずです。
部分を強化してほぐしている、そこにしっかりとしたつながりをもち、常にしなやかに脱力して最大の力が発揮するようにするのは、並大抵の努力では無理です。いや、努力しなくてはいけないというレベルでは無理で、楽しむとか、したくて仕方ないというレベルにならないと外せません。
誰かに強制された柔軟運動などの方が、最初は早く効果も出るのです。それを自分で強制していくと限界までは行くのです。しかし、しぜんに使えるようになりません。強制せず限界をつくらないような別のルートがあると思ったほうが結果として伸びます。
○フォーム
フォームというのは型で、誰しも共通なところがあり、そこでの限界がみえると個人的にアレンジしていくものだとくり返し述べてきました。音楽のベースの感覚を捉え、さらに乗り越えるにも一流の共通を入れることと、自分が出したときの障害をなくすこと、そこで新たな創造が求められるのです。
共通に入れるのは、異なるものを出すためのです。同じものを食べて同じものが出てくるのは動物です。
私は共通としてもつべきもののために必要なものを含むもの、そこから学びやすい材料をできるだけ加工せず、生で与えるようにしています。
料理そのものでなく、新鮮な素材、材料を並べておくのです。包丁の手入れと使い方を最大限に伝えたら、それ以上の何も要らない。そこで関係や場ができたら、自ずと引き出されます。少なくともこちらから先に与えること=教えてはいけないのです。
引き出された形だけをみて、それを教わったところで何もならない。ですから教えないのです。でも、何もならないことを教えて何もならないことがわかればよいというので教えているというのは、よいとも思っています。それもわからず教えているのは、教えたらこうなるはずだが、という考えで固まってしまうので困るのです。
○マニュアルの弊害
私の本の「姿勢のチェックリスト」では、それでチェックして判断したという人の質問が相次ぎました。「そうならないが、どのようにやるのか」など。これは姿勢をつくるためのリストでなく、いつ知れず、そうなったものを確認するためのものです。あるいは、最初に漠然とイメージしておくくらいのものでよいのです。すぐこの通りにしようとしなくてよいと述べています。
姿勢は「これでできていますか」と止めて聞くものではありません。たった一つの正解はありません。あるとしたら危険だといえるかもしれません。
マニュアル、ことばは、全体を分けて切り取るから、訳のわからないものになるのです。わからないのならまだよいが、そんなにわかりやすいものは大して使えない、わかりやすくわかるとしたら、何にもならないということさえわからなくなったとしたら問題です。マニュアルの弊害を地で行く例です。
○姿勢と呼吸
正しい姿勢かどうかは、呼吸をみればよいのです。正しいと言ったところで、正しく保とうとしているのだから呼吸は深まっているはずがないのです。深い姿勢、姿が勢いをもっていたら、深いものに感じられます。あるいは、自然、体、呼吸などしていないようにみえるのが一番深いのです。
すぐにわかるように教えてはならないのは、こういうことがスルーされるからです。その鈍さが助長されるからです。
教えるならその逆、自ら鈍さに気づく材料を与えることです。
教えてわかってできるようになったというプロセスには、何ら深さがないからです。正解を覚えてくり返して言えるようになる。そういう知識で論じる人ばかり増えてきました。
私の体験では、教えず、わからず、できていないという方が、深い、可能性が大きいというケースが多いものです。
○場のよさ
あなた自身において、レッスン、スタジオ以外の方がリラックスできていて、よい状態にあるはずです。それなら、そこを覚えて、ここにもってこれるようにするとよいでしょう。
なかにはレッスンの場だけで、よくできるという人もいます、それは、それなりに関係性や場の力がうまく働いているといえる。これもありがたいことです。もっとたくさん来て、写しとっていけばよいのです。どちらもレッスンの狙いです。
私はかつて、ライブのステージをみて、客席からミカンを投げられたら顔にくらうようなものはだめと言ったことがあります。そこで動けないくらい神経が全室内に届いていないのに、声や音が届くものかと思ったのです。
※○姿勢のイス
年齢をとると、よくなくなるのは無理がきかないことです。体力や気力が欠けると怒りっぽくもなるし、長く物事を続けられないことになります。しかし、そこから学ぶのなら、無理がよくみえてくることです。経験を積むと、知ったかぶりをして無理無駄をなくして、動きを効率化しようとしてしまいます。若いときに無理や無駄というのは、みえないから無理も無駄もできるのです。人脈も金もなく時間があるときの特権です。それが自ずと合理化されてしまうから、早く無理や無駄をたくさんしておくようにというのです。でなくては、個性も味も出てきません。
私は、だらけた格好では、腰が痛くて長く座れなくなりました。20年前に、24時間以上飛行機に乗り続けないと出てこなかった腰痛が、2、3時間でも出てくるようになったということです。皆に姿勢がよくなったと言われるのは、日頃、偉そうにみえないようにしていたせいでしょうか。
海外に行くと背筋をしゃんとして大きな声で話すのに、日本では郷に入れば…で。そういえば、モデルの女性も、そうなるまで目立たないように、姿勢、呼吸も声も制限していた過去を持つ人が多く、それゆえ、ヴォイトレも大変です。
日本の同調圧力で遠慮がちに引いていたのが、何と腰痛のせいで、人体としての構造上、正しいという姿勢にならざるをえなくなる。すると木の椅子でも、車や電車でもシートは倒さなくても平気、それどころか、座るより立つ方が楽になったということです。ソファよりも固いイスの方が楽になったのは、我ながら驚きです。
○なる
なるようになる、これが本道であるのは、何となく多くの人が感じています。天に任せて、これももちろん、やるだけのことをやって、人事を尽くして天命を…ということですが。それならなるようになっている今の自分、これはよしも悪しもなく、今読んでいる今のあなたの今のことですが、なるようになった今、それをみてスタートすることです。
言われるまでもなく、レッスンもトレーニングも本番も、今、なるようになる、あるいは、なるようにしかならなかった今を全てとしています。
結果でみる、結果よければ、結果でオーライ、姿勢も呼吸も発声も、すべて今、です。
しかし、それなら何もしなくともよいということにはならないのです。
ここから時間は過ぎ、なるようになっている今から、あなたの目指すようになるようにしたい未来へいくのです。このまま何もしないなら、このままどころかさらによくないようになるのはわかりきったことです。
でも、なるようになっている今をよくみてください。本当になるようになっているのかということです。どこがどうであって、次にどうありたいのかということです。
○我慢と正念場
我慢強い世代は、日本にもいました。いや、日本人全体、我慢強い方だったと思います。しかし、軍隊や会社など、組織では強いタイプが、自由な中では、あるいは個としては、必ずしも強くないともいいます。まったく逆のタイプもいますが、今やどちらでも強いといえない、強くありたいとも思わなくなった日本人になってきたようです。
頭でイメージして理想を固めていくのは無理があります。現実は思うままにいかないのです。しかし、アプローチとしては、強制も自由もどちらも有効だと思うのです。そこからは共に、体が固くなって心も自由になっていないところで限界があります。
レッスンは、ときとして、そこまで突き詰め、追いつめて、早く大きな限界を目前に現出させることを必要とします。
一流に憧れ、やり始める時期は、幸せです。下に落ちることもなければ、やった分だけよくなっていくからです。ただそのまま続くということでレッスンになっているというのは、少なくともアーティストへのプロセスではありません。
もしありえるとしたら、その人が本番で修羅場続きで、そのフォローとしてのメンタルトレーニングとしてレッスンを使っているケースくらいです。それを専らとしているトレーナー、カウンセラーはいますし、私も一部、それを担っています。
しかし、それだけの場が与えられていないなら、本番以上の正念場としてレッスンはあるべきでしょう。
○脱力の力と伝承
机の下にもぐって頭を上げたときにぶつかって、ものすごく痛い体験をしたことはありますか。それは、リアルに働く力の大きさを教えてくれます。自分で思いっきり頭をぶつけようとしても、ここまでストレートにきれいな痛みは生じない。限界まで打ち付けようとしても、死ぬつもりでもなければ、どこかカバーしてしまう。いや死ぬ気でぶちつけても難しいでしょう。腰を中心に脱力したときに最大の力が働いているのです。そのとき漫画なら、頭蓋骨が黒でフラッシュアップされる、まさにそういう瞬間は、理想の発声共鳴と思えるのです。
それでは他人にぶつけてもらう、といっても、まじに殺す気でなければ、やはりカバーしてしまうでしょう。そこで手加減しない覚悟をもつのは、自分に対しては自分でしかないわけです。
そこまで覚悟した師につけばよいが、殺される可能性の方が高いから教えてはもらえないでしょう。だから、盗むしかない―それが暗黙の了解の上での技の伝承であったと思います。弟子をとるというのは、師の覚悟なのです。
そうでなければ誰でもよいから何か驚かせてみろよという、緩やかな関係もあると思うのですが。驚かせることをできるのは、ごくごく限られた弟子でしょう。