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2015年6月

感覚について No.286-2

○先を視る感覚

 運転の教習で「先をみること」という注意を受けると「そんなに先をみるの?」と思うものです。高速では、さらに「もっと先をみること」と言われます。慣れるとあたりまえに、先に集中すべきで、横などは見ても仕方ないとわかります。時間が流れる、その時間は、前に走るときは前からくるのですから、時間を空間に置き換えて、視線は先にいかないといけないのですね。
 球技でパスを受け取るのと同じで、先に走ったところにボールはあるのです。ボールを追いかけては間に合わないのです。最初はやたらみえるものが多く、周りの人やものの動きに気を囚われます。頭で考えようとして体で覚えることが妨げられます。先を見ないと、体ごと先にワープさせないと危ないのです。
 最初にアクセルだけ、60キロから80キロくらいで長く走る講習をやれば、もっと早く体に身につくと思います。あれこれ見ようとする頭が切れるでしょう。アクセルをふかして、初めてその世界がみえてくるのです。昔は、踏み込む勇気のない人、特に女性の運転が危なっかしかったのを覚えています。
 
○体になじませる

 現実的には、リスクもあるのでシミュレーションによるでしょう。そういうレベルの違いが、車の運転でさえ、一般の人の周りにもあるわけです。これがF1のレーサーともなれば、想像しがたいでしょう。速度の出せない教習所よりは、自然のなかや、広い空港みたいなところで車を体になじませた方がよいでしょう。一方で、ある点では、ゲームでもシミュレートできます。ただ、それを全てと思うと危急の際に何ともならないのですが、宇宙飛行士などは、万一の対応も徹底する心身づくりをするのです。
 車の助手席でもつかむし、無免許運転でもつかんでしまう人もいるでしょう。鈍くても旅や長い道中のときに、そのステップアップした感覚をつかむでしょう。
 車で例えたものが、体かもしれない。いや体と同じです。それを楽器やボールと一体となって感じるときに、ここで自分自身の肉体と、ここで述べる感覚で捉えた体とは異なっているのです。私たちは自分の体を何か行うことにフィットさせるのにも手間がかかるということです。

○柔軟

 柔軟やストレッチが必要ない人は、それなりに体力もあり、柔軟でもあるからです。スポーツをしていると、おのずとそういった体感レベルになります。スポーツを続けている人は、そうでない人がこのレベルに体をバージョンアップして保つことの難しさを知りません。それでも、すぐれた選手でない人が一流の選手との違いを埋めようとしたら、そこで柔軟やストレッチの、より徹底が求められることに気づくはずです。
 部分を強化してほぐしている、そこにしっかりとしたつながりをもち、常にしなやかに脱力して最大の力が発揮するようにするのは、並大抵の努力では無理です。いや、努力しなくてはいけないというレベルでは無理で、楽しむとか、したくて仕方ないというレベルにならないと外せません。
 誰かに強制された柔軟運動などの方が、最初は早く効果も出るのです。それを自分で強制していくと限界までは行くのです。しかし、しぜんに使えるようになりません。強制せず限界をつくらないような別のルートがあると思ったほうが結果として伸びます。

○フォーム

 フォームというのは型で、誰しも共通なところがあり、そこでの限界がみえると個人的にアレンジしていくものだとくり返し述べてきました。音楽のベースの感覚を捉え、さらに乗り越えるにも一流の共通を入れることと、自分が出したときの障害をなくすこと、そこで新たな創造が求められるのです。
 共通に入れるのは、異なるものを出すためのです。同じものを食べて同じものが出てくるのは動物です。
 私は共通としてもつべきもののために必要なものを含むもの、そこから学びやすい材料をできるだけ加工せず、生で与えるようにしています。
 料理そのものでなく、新鮮な素材、材料を並べておくのです。包丁の手入れと使い方を最大限に伝えたら、それ以上の何も要らない。そこで関係や場ができたら、自ずと引き出されます。少なくともこちらから先に与えること=教えてはいけないのです。
 引き出された形だけをみて、それを教わったところで何もならない。ですから教えないのです。でも、何もならないことを教えて何もならないことがわかればよいというので教えているというのは、よいとも思っています。それもわからず教えているのは、教えたらこうなるはずだが、という考えで固まってしまうので困るのです。

○マニュアルの弊害

 私の本の「姿勢のチェックリスト」では、それでチェックして判断したという人の質問が相次ぎました。「そうならないが、どのようにやるのか」など。これは姿勢をつくるためのリストでなく、いつ知れず、そうなったものを確認するためのものです。あるいは、最初に漠然とイメージしておくくらいのものでよいのです。すぐこの通りにしようとしなくてよいと述べています。
 姿勢は「これでできていますか」と止めて聞くものではありません。たった一つの正解はありません。あるとしたら危険だといえるかもしれません。
 マニュアル、ことばは、全体を分けて切り取るから、訳のわからないものになるのです。わからないのならまだよいが、そんなにわかりやすいものは大して使えない、わかりやすくわかるとしたら、何にもならないということさえわからなくなったとしたら問題です。マニュアルの弊害を地で行く例です。

○姿勢と呼吸

 正しい姿勢かどうかは、呼吸をみればよいのです。正しいと言ったところで、正しく保とうとしているのだから呼吸は深まっているはずがないのです。深い姿勢、姿が勢いをもっていたら、深いものに感じられます。あるいは、自然、体、呼吸などしていないようにみえるのが一番深いのです。
 すぐにわかるように教えてはならないのは、こういうことがスルーされるからです。その鈍さが助長されるからです。
 教えるならその逆、自ら鈍さに気づく材料を与えることです。
 教えてわかってできるようになったというプロセスには、何ら深さがないからです。正解を覚えてくり返して言えるようになる。そういう知識で論じる人ばかり増えてきました。
 私の体験では、教えず、わからず、できていないという方が、深い、可能性が大きいというケースが多いものです。

○場のよさ

 あなた自身において、レッスン、スタジオ以外の方がリラックスできていて、よい状態にあるはずです。それなら、そこを覚えて、ここにもってこれるようにするとよいでしょう。
 なかにはレッスンの場だけで、よくできるという人もいます、それは、それなりに関係性や場の力がうまく働いているといえる。これもありがたいことです。もっとたくさん来て、写しとっていけばよいのです。どちらもレッスンの狙いです。
 私はかつて、ライブのステージをみて、客席からミカンを投げられたら顔にくらうようなものはだめと言ったことがあります。そこで動けないくらい神経が全室内に届いていないのに、声や音が届くものかと思ったのです。

※○姿勢のイス

 年齢をとると、よくなくなるのは無理がきかないことです。体力や気力が欠けると怒りっぽくもなるし、長く物事を続けられないことになります。しかし、そこから学ぶのなら、無理がよくみえてくることです。経験を積むと、知ったかぶりをして無理無駄をなくして、動きを効率化しようとしてしまいます。若いときに無理や無駄というのは、みえないから無理も無駄もできるのです。人脈も金もなく時間があるときの特権です。それが自ずと合理化されてしまうから、早く無理や無駄をたくさんしておくようにというのです。でなくては、個性も味も出てきません。
 私は、だらけた格好では、腰が痛くて長く座れなくなりました。20年前に、24時間以上飛行機に乗り続けないと出てこなかった腰痛が、2、3時間でも出てくるようになったということです。皆に姿勢がよくなったと言われるのは、日頃、偉そうにみえないようにしていたせいでしょうか。
 海外に行くと背筋をしゃんとして大きな声で話すのに、日本では郷に入れば…で。そういえば、モデルの女性も、そうなるまで目立たないように、姿勢、呼吸も声も制限していた過去を持つ人が多く、それゆえ、ヴォイトレも大変です。
 日本の同調圧力で遠慮がちに引いていたのが、何と腰痛のせいで、人体としての構造上、正しいという姿勢にならざるをえなくなる。すると木の椅子でも、車や電車でもシートは倒さなくても平気、それどころか、座るより立つ方が楽になったということです。ソファよりも固いイスの方が楽になったのは、我ながら驚きです。

○なる

 なるようになる、これが本道であるのは、何となく多くの人が感じています。天に任せて、これももちろん、やるだけのことをやって、人事を尽くして天命を…ということですが。それならなるようになっている今の自分、これはよしも悪しもなく、今読んでいる今のあなたの今のことですが、なるようになった今、それをみてスタートすることです。
 言われるまでもなく、レッスンもトレーニングも本番も、今、なるようになる、あるいは、なるようにしかならなかった今を全てとしています。
 結果でみる、結果よければ、結果でオーライ、姿勢も呼吸も発声も、すべて今、です。
 しかし、それなら何もしなくともよいということにはならないのです。
 ここから時間は過ぎ、なるようになっている今から、あなたの目指すようになるようにしたい未来へいくのです。このまま何もしないなら、このままどころかさらによくないようになるのはわかりきったことです。
 でも、なるようになっている今をよくみてください。本当になるようになっているのかということです。どこがどうであって、次にどうありたいのかということです。

○我慢と正念場

 我慢強い世代は、日本にもいました。いや、日本人全体、我慢強い方だったと思います。しかし、軍隊や会社など、組織では強いタイプが、自由な中では、あるいは個としては、必ずしも強くないともいいます。まったく逆のタイプもいますが、今やどちらでも強いといえない、強くありたいとも思わなくなった日本人になってきたようです。
 頭でイメージして理想を固めていくのは無理があります。現実は思うままにいかないのです。しかし、アプローチとしては、強制も自由もどちらも有効だと思うのです。そこからは共に、体が固くなって心も自由になっていないところで限界があります。
 レッスンは、ときとして、そこまで突き詰め、追いつめて、早く大きな限界を目前に現出させることを必要とします。
 一流に憧れ、やり始める時期は、幸せです。下に落ちることもなければ、やった分だけよくなっていくからです。ただそのまま続くということでレッスンになっているというのは、少なくともアーティストへのプロセスではありません。
 もしありえるとしたら、その人が本番で修羅場続きで、そのフォローとしてのメンタルトレーニングとしてレッスンを使っているケースくらいです。それを専らとしているトレーナー、カウンセラーはいますし、私も一部、それを担っています。
 しかし、それだけの場が与えられていないなら、本番以上の正念場としてレッスンはあるべきでしょう。

○脱力の力と伝承

 机の下にもぐって頭を上げたときにぶつかって、ものすごく痛い体験をしたことはありますか。それは、リアルに働く力の大きさを教えてくれます。自分で思いっきり頭をぶつけようとしても、ここまでストレートにきれいな痛みは生じない。限界まで打ち付けようとしても、死ぬつもりでもなければ、どこかカバーしてしまう。いや死ぬ気でぶちつけても難しいでしょう。腰を中心に脱力したときに最大の力が働いているのです。そのとき漫画なら、頭蓋骨が黒でフラッシュアップされる、まさにそういう瞬間は、理想の発声共鳴と思えるのです。
 それでは他人にぶつけてもらう、といっても、まじに殺す気でなければ、やはりカバーしてしまうでしょう。そこで手加減しない覚悟をもつのは、自分に対しては自分でしかないわけです。
 そこまで覚悟した師につけばよいが、殺される可能性の方が高いから教えてはもらえないでしょう。だから、盗むしかない―それが暗黙の了解の上での技の伝承であったと思います。弟子をとるというのは、師の覚悟なのです。
 そうでなければ誰でもよいから何か驚かせてみろよという、緩やかな関係もあると思うのですが。驚かせることをできるのは、ごくごく限られた弟子でしょう。

正しいということ  No.286

<正しいということ>

○正しいとは何か

 いらっしゃる人の少なくない割合の人は、間違えずに学びたいと思っています。いや、誰しもがそうでしょう。理論的かつ科学的だからと、研究所にいらっしゃいます。このことは、これまでも述べてきました。
声は、顔のように、正しいというのはないが流行はあります。伝達の機能としてなら優劣もあります。NHKのアナウンサーの発音やイントネーションは、放送においては「正しい」でしょう。しかし、正しい喉の使い方、共鳴のさせ方、高い音やミックスヴォイスの出し方などというのと、声そのものの魅力づくりとは、次元が違うのです。
結論からいうと、「やり方」はアプローチの一つにすぎません。声の出せる体や感覚がわかる、身につく、鍛えられる、調整される、その結果として、声が通じるようになるということが、必ずしも、その延長には存在しないのです。

○正しいと正しくない

 「喉が痛くならないように」「安定して声が使えるように」など、いろんな目的がありますから、それに対応しています。すべてを同時に叶えられることもありますが、必要や優先順も人によって違うわけです。むしろ、そういう課題と自分の可能性、声の限界を明らかにしていくために行うのが、私の考えるヴォイトレです。
「正しい」と考えてしまうと「正しくない」が出てきます。「正しい」ということを行うのでなく、結果として「正しい」と思われたらよいわけですが、このときは、実際は、深くてすごいとか、心地よいとか、通るとかで、あまり「正しい」にならないのです。「正しい」は消えてしまうのです。なのに「正しくない」のをやめることは、「正しくない」から「してはいけない」となってくるのです。
そして、指導は、大半が「こうするな」「こうしなさい」となります。間違いを指導するのを間違いとは言いません。しかし、体のことは、間違いをなくしても正しくはならないのです。正しくなってもよくはならないのです。「正しい」とか「正しくない」で判断される次元を超えなくてはいけないということです。

○正すのでなく、入れる

 これまでも音程外しの指導の直し方で、その音程の間違いを指摘して直しても、つまりそこを正したところで、付け焼刃にすぎないという問題で例えてきました。明らかに外れることで、自分で気づかないのは最悪、聞き直して自分で気づくなら少しまし、瞬時にそこで気づくのはまし、というくらいでしょう。それも、カラオケ採点勝負ならともかく、ステージというなら、根本的にどれも五十歩百歩で全く足らないのです。この場合、音感のトレーニングとして、直すのでなく入れることが必要です。この場合、正しくないのを直すのでなく、足らないのを入れることです。それは、結果が出るまで時間のかかることです。

○間違いを直さない

プレイヤーということのレベルでいうなら、100回弾いても間違えずにあたりまえと、2回弾いてミスタッチが出る人との差くらい大きいのです。絶望的なくらいに、この差が大きいとわかりますか。小学生でも何回弾いても間違えない子は何万人といるのです。間違いを直しても、それは間違いをカバーしただけです。ストレートにいうと、ごまかしただけ、正しく見せかけただけです。習字での二度書きみたいなものです。
 でも習いに来る人は、それが学ぶことだと思っている人もたくさんいます。プロは、そういうレベルの間違いを犯さないのです。そういう「違いの差」をつかまずに習っても、仕方ないとは言いませんが、すぐに頭打ちです。その違いに気づくと自ら学べるようになります。
そういう根本に気づかせてくれる人につくことの必要性がわかるのも才能です。そういう人についてもわからないのが才能がないということです。(この場合の「プロ」は、プロのことでなく、高めにレベルをとらないと安易に解釈を図ってしまいがちなので使っています。プロを目指していないから関係ないということにはなりません)

○「正しい」の抹消

ピアニストはミスタッチはしないでしょうが、歌はプロでもけっこう間違えます。歌詞なども間違えることはあります。しかし、それで歌はだめにならないのです。(そこからだめになることもありますが…)
発声を正しくしたら歌唱力がつくと思う人がいます。しかし、1,2割はよくなっても、さして変わらないはずです。なぜなら、歌唱力とは、説得力のようなもので、発声とは異なる次元の力だからです。「正しい」―「正しくない」の軸と、「伝わる」―「伝わらない」とかの軸は、いわば次元が違うのです。
なかには、ヴォイトレを表現力、歌唱力から切り離して教わる人もいます。しかし、体や呼吸だけになると、なおさら「正しい」―「正しくない」はわかりにくくなるのです。表現の必要に耐えうるか、その必要の程度は、表現やその人によって違うのです。つまり、程度の問題です。ですから、トレーニングでは、大きめに余力までつけておくとよいのです。
ともかくも、「正しい」のを目指し、「正しくない」のはよくないから「正しくない」ようにしない、ではだめです。なのに、間違いを捜して正すことが、レッスンになっているケースが、まじめで熱心な人や先生ほど多いのです。
教わっても、それを守らないという学び方もあるので、全てを否定しませんが、(そこが私のよいところでありますが)常識やルールを外れるのが、アーティストでしょう。ただ、ルールを破るのでなく、創り上げることで「正しい」などを消滅させるパワーがいるのです。

○才能と運

 「すべきこと」「しなければならないこと」は確かにあります。しかし、それは「した方がよいこと」であって、それをする自由、しない自由は本人にあります。時期やタイミングもあります。それを捉えられるのは才能がある、見過ごすのは才能がないとなります。普通の人はそれを運と言います。
他人からの強制を外れたところに表現はあるのです。たとえ、表現を行使する状況に制限がつけられていても、規制があっても、そんなことは大したことではありません。だからこそトレーニングは、そこから解放され、思いっきり思うがままに自分をぶつけることになるのです。
それを基準に対比させて向上させていくのが、レッスンであればよいのです。いつか、その基準に対比できなくなったときに、新しいものが生まれているのです。

○慣れて安定する

現実には、思うがままの「思い」がないどころか、「誰かの思うがまま」にやりたい人がとても多いのです。やりたいといってやらされているのです。それであれば、トレーナーの言う通りというのに慣れていくのが優秀で勉強ができるとなります。
日本のレベルでは、仕事を与える側が、そのくらいでよいという程度の期待です。そこで、その選択もできるようにしています。そのようにしてから研究所のレッスンの多くは、よくも悪くもとても安定しました。成果がわかりやすく、実践的になったのです。ただ、そこはプロセスに過ぎないのです。

○場の要求レベル

話を戻します。「すべき」や「しなければいけない」を排除するのに、あるいは超えることを知るために、「すべきこと」や「しなくてはいけない」ことを逆に徹底して押し付ける、これも徹底していたら反発反抗、かつ自立心が生じるきっかけになるものです。
思いがあっても形にはならないので、形にするツールを選び、それを実践に使えるレベルにまでアップさせる、いや必死でそのようにさせなくてはなりません。それは、誰かから「すべきこと」として与えられるのでなく、自らが自らに課す、つまり、周りの要求レベルよりもずっと高く目標を掲げなくてはいけないのです。
そのことがわかるように、私は、その場で言うのでなく、文章で述べてきました。場において使うことばは両刃の剣です。私は、ことばのない場だけとして維持したかったのです。やがて、やむなく場の終わりでコメントすることになってしまいました。リップサービスが求められるようになり、グループレッスンそのものをやめました。場の程度を下げては元も子もありません。

○育つ

 昔から理不尽、不条理をぶつけてくる師だけが、師を超える弟子を育てました。それが分家や破門、仲違いであっても、要は、そこを出て20年後、30年後、その人物がどうなったか、なのです。
 元より、反体制下に、反抗を経て、それを打ち破る自らを確立する育成システム、本質を選び取り、新しい時代の新たな息吹を入れて変じていく、そのために、縦社会、父権制、子弟制は、一人前に育てるのに適したシステムでした。何事も、理由も必要もなしに体制ができてくることはありません。そこでは9人を切り捨てても、1人のエリートを出したのです。
今や、大人になるということさえ、多勢で否定されていく。落ちこぼれだけでなく、抜きんでるもよしとしないし選ばれていかない。これからの日本の社会では、従来のシステムやノウハウでの維持をするのは難しいと思います。
そのときに実を失わずに、より高いレベルに設定するのは、どうすればよいのかは、大きな課題です。誰もが同じように落ちこぼれず、秀れすぎず、横並びに並んでゴールしたいという今の日本人の気質のなかでは、本質的なものが失われていきます。底上げはしたがスターは出てこない現状は、それを証明しているのです。

○すぐれるということ

 個人がそれぞれに感じていることが、そのままで肯定できるものとは言いません。芸は、車が運転できるとか自転車に乗れるという、多分に、歩くようなことの延長上で誰もが行えるようになることではないからです。
もちろん、ヴォイトレの全てをそこにおくトレーナーのスタンスもあります。ヴォイトレというのは、誰でもできるようになるというものです。これはできているというのと、どう区別するのかが曖昧になりやすいです。長くやっているとしぜんにできている、というものです。場によって、当てはまることもあります。そのレベルでは、皆が参加しているので、公共のルール、つまり暗黙に守らなくてはいけないことが出てきます。そうした方がいいということ=マニュアルのことです。カルチャースクールの和気あいあいとしたクラスのようなものです。
それなら、自由に息もしてはいけない子弟制の方が、長い眼でみると人は育つでしょう。なぜなら、自分の実力の否定から始まるからです。ゼロやマイナスからのスタートを切るために必要なのが、否定であり、大逆転であるのです。

○実感のレベル

感じていることにもレベルがあります。このあたりは、いつも述べている、好き嫌いでなく、すぐれているかどうかが問題だという自論に譲ります。
 一般レベルでの個人の感じの大半は、好き嫌いです。よくある感想というものです。それは消費者、受け手、聴衆のものです。
ちなみに、すぐれているものは、正しいとは違い、すごいか、おもしろいかへ向かうものです。レベルとはいうより、本当は、何かで測れるようなスケールのあるものでないのが、本物、一流です。
そこはトレーニング、育てる対象にならないので、プロということで、ここは述べました。必ずしもプロになるプロセスを経て一流、怪物のような人が出てくるとは限りません。この論のどこかに、私の考えも超えたところに、息づくものを殺してはいけないというサンクチャリー(聖域)があります。しかし、人に殺されるくらいではヒーローになれないので、そんな心配も不要でしょう。
出てくる人はどこにいても出てくるのです。そこは考える必要がありません。私の話が、その人の人生の1ページの1行にもなっていれば、ありがたいものです。要は、1パーセントもないかもしれないとしても、可能性を殺さないこと、トレーナーでなく本人が自ら殺してしまわないことが第一なのです。

○歌、せりふの成立を

身についていた可能性を人間の教育でいかに壊さないのかを問う、と言いつつも、私たちは幼いまま、この社会を縄文人のようには生きられません。大人になれ、学べと言われることと、それをどう整合すればよいのかを考えてみます。
教育の偏りのせいにはできません。正しい教育も正しい育ち方もないからです。
スポーツはルールと場をさだめ、それでこそ、才能を選ぶこともできます。結果として、感動できるほどハイレベルな技能をみせられる人が育っています。
アートも似ています。新しいアートを創り出すこと。アートでありたいとはいえ、クラシックもポピュラーも固定しつつあります。
新しいスポーツが、これまでのスポーツを乗り越えるには、これまでのスポーツのファンを超えていくスーパーヒーローが必要です。その一人の登場で、すべてが変わります。それに憧れる人が増え、層が厚くなり、全体のレベルがアップします。裾野が広がることでトップレベルに才能が集まるのです。そしてプロの基準が定まって、人に見せて興行するプロが成立します。
 声も同じでした。ただ、相撲などと似て、神事にも使われていたものを、歌やせりふに限定するのは無理があります。個分化され形骸化していくのは、根本を失っていくからです。歌もせりふも日常の延長で、そのクライマックスにあったものだからです。

○動き、しぜん、裸になる

 自分の声は消していけない。しかし、今の声ではいけない。自分本来の声を取り返さなくてはいけない。また「―いけない」を使ってしまいました。でも、「いけない」からやり始めるのも、大きな動きの一歩です。
自分の声、体というものはどうなっているのか、精神、心、頭など、いろんなものとどのように関わっているのか、を問うのです。
声と向き合うには、声だけでなく、声と関わる時空のことと対峙すること、常に時代に巻き込まれざるをえないのです。
今の日本の生活で失われた声、歌、ことばを、失われつつあるそれらとそれらの創り出してきた芸能を考えるときに、まずは自らの声、体を把握するのは当然のことでしょう。しぜんなところで服を脱ぎすてたら、本来の声が出るのか、是非やってみてください。
ワークショップでは、かつては、幼い頃へ戻して、素直な声を取り戻させました。童謡や唱歌もわらべ歌もそのきっかけとして使えました。しかし、今の日本人には取り戻せる声、それを、どうみるのでしょうか。生まれてから使ってきた声というのがあるのでしょうか。既成服を着ていたのをオーダーメイドにしていくのです。

○自分自身の判断について

自分の声というものがよくわからないからこそレッスンに行くわけです。今の声を知り、そして何よりも将来の声にしていく。その位置づけの把握とギャップの埋め方がレッスンのメインメニュです。
「レッスンは判断力をつけるためだ」と言っている私も、自分のことは生徒さんのことよりもずっとわからないので、いろんな先生と接し、今も学んでいます。
先生、トレーナー、生徒さんを通して、自分のよし悪し、可能性や限界を学んでいます。特に秀でた人やプロと、その真逆のメンタルやフィジカルの恵まれていない人から学ぶことが多いのは、以前に述べた通りです。
わかっているつもりで生徒さんに教えることは押し付けですから、よくないと思っています。それで「一回で」とか、「その場ですぐに」できる方法などと望まれても、気をつけています。生徒さんは当然、トレーナーは、すべてわかっていて最良のことを選択して与えてくれると思いたいのです。それでは、誰でもできる方法で、誰でもうまく上達させてくれるという信仰になります。
これだけ情報を出しているのは、当座限りのレッスンでなく、継続したレッスンを行うことのため、問題の根本的な解決のためです。そこには幾分の信用、権威づけも必要だからです。
自由を与えると、その自由で不安になって続けられない人も少なからずいます。トレーナーでさえそういう人が多いのですから無理もないでしょう。
ですが、最初から一方的に導くのでなく、応じて出してくるようになるのを待つことです。その人の内面から出てきたものに応えてレッスンを修正していくことが大切なのです。

○限界の先

 自分で思う限界は限界ではない。これは他人に接して初めてわかることです。
自由になるには解放しなくてはいけないのですが、自分で解放するにも、いつか限度がくるものです。
それが高度にできていたら、すぐに世の中に問えばよいのです。問い続けることだけで自ら修正して伸びていけます。これが正道、いや、正しいとは言いません。本道です。
それが、声などでうまくいかない、あるいは、頭打ちになるからトレーナーを使いにくるわけです。そのスタンスなら、レッスンは行き場を失うことはないのです。
トレーナーが自らを目標にさせて100パーセントをセッティングすると、そこまでも行けない人が増えるだけのことです。それはそれでよい先生だと思うのですが。

○型と場

 型に入れて伸びるのは、その型から逃れられない状況においてです。そうでないと、型はプレッシャーとなり、他へ安易に逃げる言い訳をつくることになります。それは逃げられなかった型で育った人が見逃してしまう点です。ですから、他の師匠についた弟子はとらないのです。忠義を立てる裏社会と通じるようなものでなく、芸の型を叩き込むシステムと思います。
でも、今や、無人島に二人ででも行かなければ、型にはめることもできないでしょう。
自由な状況ゆえに、その自由がみえない、自由が使えないのです。自ら不自由にしてしまうのは、自由を縛るものが時代や人など体制として固定しているのでなく、みえない、曖昧なものとなっているからです。だからこそぶつける場がいるのです。

レクチャー・レッスンメモ  No.286

お座敷芸―日本料理、和食と歌
ローカル 現地化
ご意見番の不在
声のパワーは対決せまる 坐する文化
基本と基準のとり方
イントナティオン―アーティキュレーション
芯、音程、メロディのなかにある芯

松たか子、挿入歌、劇中歌、ドラマ、ストーリー
MayJ、エンディング、BGM、テーマ、カラオケ
役割の違い 配役
時代-舞台―映画―音楽―劇
俳句と吟詠
オレ(個性)のコピー
欠点 オリジナリティ
総合力として 大衆が長く支持するもの
人に似る 似させていけるもの
声の分析 
1、 音響 空間 波動
2、 生理的 体性
歌、語り
オリジナリティとバランス
声量と芯 流れと声域
トレーナーの変容
噺家のトレーニング 
声に意識おくと変わる
パフォーマンスにおける声の力の統合力 気合
絶対音階の話
ヒーリング―人間の声、声明
勢いと守り

80 Boy 反発 逃げ
90 B’z 努力
00 ミスチル関係性

現在
日本人
1、 視覚
2、 ことば

1、地方-都市
2、女―男
3、POPS-クラシック(声)

多くの人が
長くの間

○リピート
○基準
○ライブ

Vol.40

○てきぱきと、正確に伝える事務処理声

 

基本トレーニング

1.「どちらさまでしょうか」

2.「大変失礼いたしました」

3.「お待ちいただけますでしょうか」

4.「かしこまりました」

5.「お忙しいところ、ご丁寧に」

 

□チェックポイント

A.姿勢、体 呼吸、フレーズ

 動きもてきぱきとする

B.顔の表情

 表情をしっかりと定める

C.発声、高低、強弱、トーン

 やや高めに大きくする 硬い方がよいときもある

D.発音

 発音を正確に滑舌よく

E.声の表現法

 聞きやすく、メリハリをつける

 

○歯切れをよくする

 

 歯切れのよさは、発音のほかに、声立て(発声)や呼吸にも関係しています。どこもかしこも伸ばしては、曖昧に、内容にしまりがなくなります。歯切れよくことばを切って表現しましょう。ですから、声は伸ばすよりも、できるかぎりリズミカルに言い切ることです。特に伝達に対しては、テキパキと言いましょう。

 

○低くこもらせない

 

 息がつまるとは、口呼吸やそれに近い状態で話すことです。つまり、舌を上に巻いてふさいでしまうのです。これはどもる原因にもなります。

 「ラ行」「サ行」と同じ舌の位置で、すべてを発音しているように聞こえる人もいます。これも、矯正が必要です。

 力を入れるとすぐのどにひっかかる人や、声が長く伸ばせない人は、次の発声トレーニングで直していきましょう。

 

○滑舌をよくしよう

 

 口がまわらず、いつも噛む人、言い間違いをしやすい人、急いで言っているように聞こえ、よく伝わらない人がいます。

 これは、口を開けすぎたり、あごや舌に力が入っていて、唇やあごの動きに余計なエネルギーが使われているからです。ことばにするときに、のど、舌が追いつかず、気持ちが入らないのです。

 のど、舌、唇、あごの4つの運動機能がバランスよく、働くように整えていきましょう。

 

○舌足らずを直そう

 

 舌足らずの声も不明瞭に聞こえます。舌がうまくまわらないとか、舌足らずの感じになるなら、舌のトレーニングを続けましょう。

 そのまえに、唇のトレーニング(P )を充分に行なうとよいでしょう。

 舌のトレーニングの基本は腹話術です。あごと唇を使わずに舌とのどの動きだけで発音します。これは、舌足らずを直すのに効果があります。いつも舌を動かしておくとよいでしょう。

 

□舌根、舌背、舌先を連結するトレーニング

1.舌を口から勢いよく出す

2.舌の先を閉じた唇のうしろにあて、唇を押してふくらます

3.舌を口の右側左側に交互に大きく出す

4.口を大きく開き、舌先を上の歯の後ろのほうに、次に下の歯ぐきの後ろのほうに動かす

5.舌を歯と唇の間に入れて、上、下の歯の外側内側にそってまわす

6.ナ・ン・ダをいう

7.ガ・ヤ・ダをいう

 

□巻き舌のトレーニング(※巻き舌)

1.「ルルルルル」

2.「レロレロ」

3.「ラルレロルレラロ」

 

応用トレーニング

<シチュエーション別>

1.「××さん(先輩)、課長がお呼びになっています」

2.「明日(みょうにち)、(同僚が)課長にご報告すると申しておりました」

3.「課長の××にその旨申し伝えておきます」(得意先へ)

4.「××商事の××様より日程を変えていただきたいと連絡がありました」(上司へ)

5.「××課長、○○部長がいらっしゃいました」(上司へ)

6.「失礼ですが、電話番号をお教えいただけますでしょうか」

7.「恐れ入りますが、どちら様でいらっしゃいますか」

8.「恐れ入りますが、もう一度御社名をお願いいたします」

「本物の音」 No.286

 有明の埋立地で横澤氏の石笛を聞かせていただきました。その演奏は、私たちに、というより四海を超えたところ、天地とのパフォーマンスのようで、強い衝撃でした。場によるものかもしれません。圧巻でした。本物はすぐにわかるんだと。歌や邦楽やオペラは人気がなくなっているのでなく、本物がいなくなってきているだけだと新ためてわかりました。私にはわからないままに、いつも真実は時空を超えて現れます。

 そうした、大切な機会を本当に活かせるかは、毎日の処し方にかかっています。

 私も、これからは現場で、あの笛の音が聞こえるように、私の声がそうなるように、いらっしゃる方があの音を感じられるように、本物になるべく、日々精進したいと思いを新たにしました。

 みえないところにある大切なもの、それを音としてきたのですから。皆さんも勇気と根気をもって、大切なことに気づきましょう。

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