正しいということ No.286
<正しいということ>
○正しいとは何か
いらっしゃる人の少なくない割合の人は、間違えずに学びたいと思っています。いや、誰しもがそうでしょう。理論的かつ科学的だからと、研究所にいらっしゃいます。このことは、これまでも述べてきました。
声は、顔のように、正しいというのはないが流行はあります。伝達の機能としてなら優劣もあります。NHKのアナウンサーの発音やイントネーションは、放送においては「正しい」でしょう。しかし、正しい喉の使い方、共鳴のさせ方、高い音やミックスヴォイスの出し方などというのと、声そのものの魅力づくりとは、次元が違うのです。
結論からいうと、「やり方」はアプローチの一つにすぎません。声の出せる体や感覚がわかる、身につく、鍛えられる、調整される、その結果として、声が通じるようになるということが、必ずしも、その延長には存在しないのです。
○正しいと正しくない
「喉が痛くならないように」「安定して声が使えるように」など、いろんな目的がありますから、それに対応しています。すべてを同時に叶えられることもありますが、必要や優先順も人によって違うわけです。むしろ、そういう課題と自分の可能性、声の限界を明らかにしていくために行うのが、私の考えるヴォイトレです。
「正しい」と考えてしまうと「正しくない」が出てきます。「正しい」ということを行うのでなく、結果として「正しい」と思われたらよいわけですが、このときは、実際は、深くてすごいとか、心地よいとか、通るとかで、あまり「正しい」にならないのです。「正しい」は消えてしまうのです。なのに「正しくない」のをやめることは、「正しくない」から「してはいけない」となってくるのです。
そして、指導は、大半が「こうするな」「こうしなさい」となります。間違いを指導するのを間違いとは言いません。しかし、体のことは、間違いをなくしても正しくはならないのです。正しくなってもよくはならないのです。「正しい」とか「正しくない」で判断される次元を超えなくてはいけないということです。
○正すのでなく、入れる
これまでも音程外しの指導の直し方で、その音程の間違いを指摘して直しても、つまりそこを正したところで、付け焼刃にすぎないという問題で例えてきました。明らかに外れることで、自分で気づかないのは最悪、聞き直して自分で気づくなら少しまし、瞬時にそこで気づくのはまし、というくらいでしょう。それも、カラオケ採点勝負ならともかく、ステージというなら、根本的にどれも五十歩百歩で全く足らないのです。この場合、音感のトレーニングとして、直すのでなく入れることが必要です。この場合、正しくないのを直すのでなく、足らないのを入れることです。それは、結果が出るまで時間のかかることです。
○間違いを直さない
プレイヤーということのレベルでいうなら、100回弾いても間違えずにあたりまえと、2回弾いてミスタッチが出る人との差くらい大きいのです。絶望的なくらいに、この差が大きいとわかりますか。小学生でも何回弾いても間違えない子は何万人といるのです。間違いを直しても、それは間違いをカバーしただけです。ストレートにいうと、ごまかしただけ、正しく見せかけただけです。習字での二度書きみたいなものです。
でも習いに来る人は、それが学ぶことだと思っている人もたくさんいます。プロは、そういうレベルの間違いを犯さないのです。そういう「違いの差」をつかまずに習っても、仕方ないとは言いませんが、すぐに頭打ちです。その違いに気づくと自ら学べるようになります。
そういう根本に気づかせてくれる人につくことの必要性がわかるのも才能です。そういう人についてもわからないのが才能がないということです。(この場合の「プロ」は、プロのことでなく、高めにレベルをとらないと安易に解釈を図ってしまいがちなので使っています。プロを目指していないから関係ないということにはなりません)
○「正しい」の抹消
ピアニストはミスタッチはしないでしょうが、歌はプロでもけっこう間違えます。歌詞なども間違えることはあります。しかし、それで歌はだめにならないのです。(そこからだめになることもありますが…)
発声を正しくしたら歌唱力がつくと思う人がいます。しかし、1,2割はよくなっても、さして変わらないはずです。なぜなら、歌唱力とは、説得力のようなもので、発声とは異なる次元の力だからです。「正しい」―「正しくない」の軸と、「伝わる」―「伝わらない」とかの軸は、いわば次元が違うのです。
なかには、ヴォイトレを表現力、歌唱力から切り離して教わる人もいます。しかし、体や呼吸だけになると、なおさら「正しい」―「正しくない」はわかりにくくなるのです。表現の必要に耐えうるか、その必要の程度は、表現やその人によって違うのです。つまり、程度の問題です。ですから、トレーニングでは、大きめに余力までつけておくとよいのです。
ともかくも、「正しい」のを目指し、「正しくない」のはよくないから「正しくない」ようにしない、ではだめです。なのに、間違いを捜して正すことが、レッスンになっているケースが、まじめで熱心な人や先生ほど多いのです。
教わっても、それを守らないという学び方もあるので、全てを否定しませんが、(そこが私のよいところでありますが)常識やルールを外れるのが、アーティストでしょう。ただ、ルールを破るのでなく、創り上げることで「正しい」などを消滅させるパワーがいるのです。
○才能と運
「すべきこと」「しなければならないこと」は確かにあります。しかし、それは「した方がよいこと」であって、それをする自由、しない自由は本人にあります。時期やタイミングもあります。それを捉えられるのは才能がある、見過ごすのは才能がないとなります。普通の人はそれを運と言います。
他人からの強制を外れたところに表現はあるのです。たとえ、表現を行使する状況に制限がつけられていても、規制があっても、そんなことは大したことではありません。だからこそトレーニングは、そこから解放され、思いっきり思うがままに自分をぶつけることになるのです。
それを基準に対比させて向上させていくのが、レッスンであればよいのです。いつか、その基準に対比できなくなったときに、新しいものが生まれているのです。
○慣れて安定する
現実には、思うがままの「思い」がないどころか、「誰かの思うがまま」にやりたい人がとても多いのです。やりたいといってやらされているのです。それであれば、トレーナーの言う通りというのに慣れていくのが優秀で勉強ができるとなります。
日本のレベルでは、仕事を与える側が、そのくらいでよいという程度の期待です。そこで、その選択もできるようにしています。そのようにしてから研究所のレッスンの多くは、よくも悪くもとても安定しました。成果がわかりやすく、実践的になったのです。ただ、そこはプロセスに過ぎないのです。
○場の要求レベル
話を戻します。「すべき」や「しなければいけない」を排除するのに、あるいは超えることを知るために、「すべきこと」や「しなくてはいけない」ことを逆に徹底して押し付ける、これも徹底していたら反発反抗、かつ自立心が生じるきっかけになるものです。
思いがあっても形にはならないので、形にするツールを選び、それを実践に使えるレベルにまでアップさせる、いや必死でそのようにさせなくてはなりません。それは、誰かから「すべきこと」として与えられるのでなく、自らが自らに課す、つまり、周りの要求レベルよりもずっと高く目標を掲げなくてはいけないのです。
そのことがわかるように、私は、その場で言うのでなく、文章で述べてきました。場において使うことばは両刃の剣です。私は、ことばのない場だけとして維持したかったのです。やがて、やむなく場の終わりでコメントすることになってしまいました。リップサービスが求められるようになり、グループレッスンそのものをやめました。場の程度を下げては元も子もありません。
○育つ
昔から理不尽、不条理をぶつけてくる師だけが、師を超える弟子を育てました。それが分家や破門、仲違いであっても、要は、そこを出て20年後、30年後、その人物がどうなったか、なのです。
元より、反体制下に、反抗を経て、それを打ち破る自らを確立する育成システム、本質を選び取り、新しい時代の新たな息吹を入れて変じていく、そのために、縦社会、父権制、子弟制は、一人前に育てるのに適したシステムでした。何事も、理由も必要もなしに体制ができてくることはありません。そこでは9人を切り捨てても、1人のエリートを出したのです。
今や、大人になるということさえ、多勢で否定されていく。落ちこぼれだけでなく、抜きんでるもよしとしないし選ばれていかない。これからの日本の社会では、従来のシステムやノウハウでの維持をするのは難しいと思います。
そのときに実を失わずに、より高いレベルに設定するのは、どうすればよいのかは、大きな課題です。誰もが同じように落ちこぼれず、秀れすぎず、横並びに並んでゴールしたいという今の日本人の気質のなかでは、本質的なものが失われていきます。底上げはしたがスターは出てこない現状は、それを証明しているのです。
○すぐれるということ
個人がそれぞれに感じていることが、そのままで肯定できるものとは言いません。芸は、車が運転できるとか自転車に乗れるという、多分に、歩くようなことの延長上で誰もが行えるようになることではないからです。
もちろん、ヴォイトレの全てをそこにおくトレーナーのスタンスもあります。ヴォイトレというのは、誰でもできるようになるというものです。これはできているというのと、どう区別するのかが曖昧になりやすいです。長くやっているとしぜんにできている、というものです。場によって、当てはまることもあります。そのレベルでは、皆が参加しているので、公共のルール、つまり暗黙に守らなくてはいけないことが出てきます。そうした方がいいということ=マニュアルのことです。カルチャースクールの和気あいあいとしたクラスのようなものです。
それなら、自由に息もしてはいけない子弟制の方が、長い眼でみると人は育つでしょう。なぜなら、自分の実力の否定から始まるからです。ゼロやマイナスからのスタートを切るために必要なのが、否定であり、大逆転であるのです。
○実感のレベル
感じていることにもレベルがあります。このあたりは、いつも述べている、好き嫌いでなく、すぐれているかどうかが問題だという自論に譲ります。
一般レベルでの個人の感じの大半は、好き嫌いです。よくある感想というものです。それは消費者、受け手、聴衆のものです。
ちなみに、すぐれているものは、正しいとは違い、すごいか、おもしろいかへ向かうものです。レベルとはいうより、本当は、何かで測れるようなスケールのあるものでないのが、本物、一流です。
そこはトレーニング、育てる対象にならないので、プロということで、ここは述べました。必ずしもプロになるプロセスを経て一流、怪物のような人が出てくるとは限りません。この論のどこかに、私の考えも超えたところに、息づくものを殺してはいけないというサンクチャリー(聖域)があります。しかし、人に殺されるくらいではヒーローになれないので、そんな心配も不要でしょう。
出てくる人はどこにいても出てくるのです。そこは考える必要がありません。私の話が、その人の人生の1ページの1行にもなっていれば、ありがたいものです。要は、1パーセントもないかもしれないとしても、可能性を殺さないこと、トレーナーでなく本人が自ら殺してしまわないことが第一なのです。
○歌、せりふの成立を
身についていた可能性を人間の教育でいかに壊さないのかを問う、と言いつつも、私たちは幼いまま、この社会を縄文人のようには生きられません。大人になれ、学べと言われることと、それをどう整合すればよいのかを考えてみます。
教育の偏りのせいにはできません。正しい教育も正しい育ち方もないからです。
スポーツはルールと場をさだめ、それでこそ、才能を選ぶこともできます。結果として、感動できるほどハイレベルな技能をみせられる人が育っています。
アートも似ています。新しいアートを創り出すこと。アートでありたいとはいえ、クラシックもポピュラーも固定しつつあります。
新しいスポーツが、これまでのスポーツを乗り越えるには、これまでのスポーツのファンを超えていくスーパーヒーローが必要です。その一人の登場で、すべてが変わります。それに憧れる人が増え、層が厚くなり、全体のレベルがアップします。裾野が広がることでトップレベルに才能が集まるのです。そしてプロの基準が定まって、人に見せて興行するプロが成立します。
声も同じでした。ただ、相撲などと似て、神事にも使われていたものを、歌やせりふに限定するのは無理があります。個分化され形骸化していくのは、根本を失っていくからです。歌もせりふも日常の延長で、そのクライマックスにあったものだからです。
○動き、しぜん、裸になる
自分の声は消していけない。しかし、今の声ではいけない。自分本来の声を取り返さなくてはいけない。また「―いけない」を使ってしまいました。でも、「いけない」からやり始めるのも、大きな動きの一歩です。
自分の声、体というものはどうなっているのか、精神、心、頭など、いろんなものとどのように関わっているのか、を問うのです。
声と向き合うには、声だけでなく、声と関わる時空のことと対峙すること、常に時代に巻き込まれざるをえないのです。
今の日本の生活で失われた声、歌、ことばを、失われつつあるそれらとそれらの創り出してきた芸能を考えるときに、まずは自らの声、体を把握するのは当然のことでしょう。しぜんなところで服を脱ぎすてたら、本来の声が出るのか、是非やってみてください。
ワークショップでは、かつては、幼い頃へ戻して、素直な声を取り戻させました。童謡や唱歌もわらべ歌もそのきっかけとして使えました。しかし、今の日本人には取り戻せる声、それを、どうみるのでしょうか。生まれてから使ってきた声というのがあるのでしょうか。既成服を着ていたのをオーダーメイドにしていくのです。
○自分自身の判断について
自分の声というものがよくわからないからこそレッスンに行くわけです。今の声を知り、そして何よりも将来の声にしていく。その位置づけの把握とギャップの埋め方がレッスンのメインメニュです。
「レッスンは判断力をつけるためだ」と言っている私も、自分のことは生徒さんのことよりもずっとわからないので、いろんな先生と接し、今も学んでいます。
先生、トレーナー、生徒さんを通して、自分のよし悪し、可能性や限界を学んでいます。特に秀でた人やプロと、その真逆のメンタルやフィジカルの恵まれていない人から学ぶことが多いのは、以前に述べた通りです。
わかっているつもりで生徒さんに教えることは押し付けですから、よくないと思っています。それで「一回で」とか、「その場ですぐに」できる方法などと望まれても、気をつけています。生徒さんは当然、トレーナーは、すべてわかっていて最良のことを選択して与えてくれると思いたいのです。それでは、誰でもできる方法で、誰でもうまく上達させてくれるという信仰になります。
これだけ情報を出しているのは、当座限りのレッスンでなく、継続したレッスンを行うことのため、問題の根本的な解決のためです。そこには幾分の信用、権威づけも必要だからです。
自由を与えると、その自由で不安になって続けられない人も少なからずいます。トレーナーでさえそういう人が多いのですから無理もないでしょう。
ですが、最初から一方的に導くのでなく、応じて出してくるようになるのを待つことです。その人の内面から出てきたものに応えてレッスンを修正していくことが大切なのです。
○限界の先
自分で思う限界は限界ではない。これは他人に接して初めてわかることです。
自由になるには解放しなくてはいけないのですが、自分で解放するにも、いつか限度がくるものです。
それが高度にできていたら、すぐに世の中に問えばよいのです。問い続けることだけで自ら修正して伸びていけます。これが正道、いや、正しいとは言いません。本道です。
それが、声などでうまくいかない、あるいは、頭打ちになるからトレーナーを使いにくるわけです。そのスタンスなら、レッスンは行き場を失うことはないのです。
トレーナーが自らを目標にさせて100パーセントをセッティングすると、そこまでも行けない人が増えるだけのことです。それはそれでよい先生だと思うのですが。
○型と場
型に入れて伸びるのは、その型から逃れられない状況においてです。そうでないと、型はプレッシャーとなり、他へ安易に逃げる言い訳をつくることになります。それは逃げられなかった型で育った人が見逃してしまう点です。ですから、他の師匠についた弟子はとらないのです。忠義を立てる裏社会と通じるようなものでなく、芸の型を叩き込むシステムと思います。
でも、今や、無人島に二人ででも行かなければ、型にはめることもできないでしょう。
自由な状況ゆえに、その自由がみえない、自由が使えないのです。自ら不自由にしてしまうのは、自由を縛るものが時代や人など体制として固定しているのでなく、みえない、曖昧なものとなっているからです。だからこそぶつける場がいるのです。
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