« 2015年6月 | トップページ | 2015年8月 »

2015年7月

メニュ No.287

○メニュ

 伝えるにはシンプルにしなくてはなりません。シンプルだから、そのくり返しで質や深さということが感じられてくるのです。シンプルにあるものを説明すると複雑になります。わからなくなります。そこで、ともかく「息を吐いてろ」などということになるのです。
 今のレッスンや本では、それでは雑すぎるということで、それらしきメニュをつくります。多くは自分の経験でなく、それを基に、形として整えて出すことになります。
 ですから、メニュなどは、元より形です。本当は、何であれそこで行われていることでの深みが大切なのです。なのに、いつ知れず、何回何秒行うこと、などとマニュアル、つまり、やりやすいように形になってしまうのです。
 そこには大した根拠も道理もありません。何もないよりは、これから使ってみて、気づいて考えて直していくように、そのために使ったら、という叩き台にすぎません。
 こちらが叩き台として出しているものを大まじめでバイブルのように扱う人たちが出てきて困りました。メニュだけで、その効果や是非など論じられるわけなどないのです。「これで水をすくえ」と投げた空き缶を、どのくらい価値があるか値踏みして騒いでいるようなものです。そもそも、体やその人自身を離れたところにメニュなどあるものでしょうか。

○声と体のイリュージョン

 体の使い方をどうこうすることで、声が出るのではないのです。声が作品の素、あるいはツールだとしたら、それは体に一体化している。すでに声は体なのですから単体として扱っても仕方ないのです。
 例えば、難しいのですが、荷物や他人を背負うのと我が子を背負うのとの重さの違いを考えてみましょう。同じ20キロとしても、かなり違うはずです。
 子共が寝ていたら重くなる。起きている体は、バランスをとって動くので軽いでしょう。自転車の後ろに乗せてもわかることでしょう。これらを実際の重量で判断するのは愚かなことでしょう。感じる重さと測った重量は違うのです。声や耳の世界は、事実と異なることがたくさんあります。科学的より想像的であるべきです。
 生きていること、連がっていること、さらに関係、深さというなら、むしろ愛情の深さで重さは大きく変わるといえばよいのでしょうか。
 自らのなかに取り込むこと、荷物でないから人の声はすでに取り込まれ、体と一つになっているものです。それを外側から取り扱い、仕様に沿って動かそうとするのは、よいアプローチではありません。

○声と歌、せりふ、結びつきの強さ

 声と歌やせりふ、この関係も似ています。体と声が一体化のように、それらの内にも距離がない方がよい、バラバラで捉えるより、関係性で捉えられるのがよい。さらに一体となれば、もう正しいも間違いもないのです。
 強い声は、ないよりもあったほうがよい。しかし、それは、体を強く使って出すのではありません。強い体から出る、あるいは、体との強い結びつきから出るのです。となると、強い声を目的に鍛えるのは、あるところまでのことで、そこからは変えなくてはなりません。結びつきを強くする、強い体にする、ということです。
 体、筋肉を強くするなら、トレーニングの量と時間です。研究所では、そこにおいては、音大くらいの声づくりの成果は充分に出しています。しかし、歌やせりふで判断するとしたら、それは量、時間よりは質、深さとなるのです。大きなターニングポイントです。

○トレーニングと一流の差

 トレーニングは、確実な地力をつけていくためのものです。崩れても最低限支えられるだけの器、フォームをつくり、再現性を確保する。まさに礎づくりです。
 再現性=基本は、私のキーワードですね。何回も登場しているので省きます。よく読んでもらえばわかると思いますが、再現性の確保は、目的ではないのです。より大きな飛躍、高い次元を生じさせる、その可能性を高めるための下準備、前提条件にすぎずません。
 一般の人の参加するスポーツなら怪我しないとか、毎日健康に過ごすというのも、最低限での再現性といえます。これは、情報を集めておけば、あるとき閃くかも、というようなものにすぎないのです。
 毎日、徹底的に基礎を重ねなくては、「あるとき」も来ません。この主従関係を捉えないとトレーニングは益なく終わりかねません。そういう人に限ってトレーニングの成果とかやり方に一喜一憂して云々言うので不毛なのです。

○くり返し

 シンプルなトレーニングメニュをこなすと、その単調さに飽きる人もいます。しかし、そのことを無意識に際限なくくり返していくと、普通は、意識は次のレベルのものを捉えようとします。そして少しずつ深まります。より細やかに丁寧に、しぜんと大きく深くなっていくことを狙ってのことです。
 メニュをこなして次のメニュに行くというのは、メニュをやっているだけで何の意味もない。それでも、あとで、くり返してみて気づくこともあるので、一通り、どんどん進めるのは、アプローチとしては悪くないのですが、その場合には、一通りやり終えた後で、もう一度詰めなくては何にもなりません。
 与えられたメニュをやることで自分の感覚を殺している人も多いように思います。それによって自分の感覚を解放し、気づきを得なくてはいけないのに、どうしてなのでしょう。生徒もトレーナーも共に、教えて、教えられる関係だと思うからです。トレーナーがメニュを教えるのでなく、生徒がメニュで気づかなくてはならない。そこでは、トレーナーは私心を入れず、公平に仲介するだけに専念することです。よかれと思って、自らの思惑で邪魔してはよくないのです。歌い方を教えるなどとなると、尚さらのことです。あまりに形だけのレッスンになっているのに気づいたなら、そこから問うことです。

○剥き出す

 レッスンに、理屈、言い訳、責任転嫁といったものが許されるようになれば、それはもはやレッスンではありません。でも、これまでにそういうことさえ学ぶ場も時間もなかったのなら、それを学ぶという使い方からでもよいと思っています。
 これも、いつかでなく、今すぐ、ワープして欲しいものです。声を通したら一瞬にできるはずなのです。
 そういった、周りの余計なもの、余分なものを削いでいかなくては、本質を剥き出せません。剥き出すには、耐え難い覚悟もいるかもしれません。周りの声というのは、それに影響を受けやすい人には、ときに大きな邪魔や障害になるものです。
 生きている、その実感においてしか人に本当に伝わるものはつくれないのです。そうした実践は、頭でなく体で行うしかないのです。

○鍛練の注意

 鍛錬することで鈍感になってはいけない。これは、体や声にはまることへの注意です。しかし、恐る恐る接するくらいなら、とことん鈍に浸るのもよいでしょう。そこから抜け出さない、抜け出せないなら、それだけのものだったということです。
 教えることで、相手を鈍感にしていく例はいくつもあります。教えないことが相手を鋭くしていくのと反対にです。きっとその方が多いのですが、本人がよければそこまでなのです。それ以上のものを感じられるようにできるのかということです。
 なかには、甘え、理屈や言い訳ばかりがうまくなっていく人もいます。周りの影響も大きいのです。
 できる人は狐として群れない。ということで、鈍くなるのを防いでいます。どこでも群れたがる人が主流派になります。不毛な集団化ですが、そこに加わると安心する人も少なくないのです。人数が多いのは、何も生み出さず、それゆえ同じようなメンバーを結びつけようとする力が強いからです。それも周りの人とうまくやっていける才能と言えなくもありません。このあたりが、本当の意味でのセンスが問われているということころでしょう。

○検証

 鈍くなると、痛みがきてもそのうち感じなくなるとか、いつか明日の糧となる、などと考える人もいます。こういう思い込みは無謀です。無駄はともかく、無能がどれほど生じてきたのでしょう。それを乗り越え、それゆえリーダーになれたものが、そのプロセスをきちんと検証せずに他人に伝承すると、その弊害は大きく長く続くのです。
 ハードなトレーニングは、その見返りを求めます。そのトレーニングのおかげで上達したとなりやすい。それがなければもっと上達したかもしれないという疑念も消してしまうのです。
 あくまで達したレベルの高さをみるべきなのですが、そこがわかっていないケースが多いのです。歴史をみるまでもなく、日本人はいつもそれをくり返しているように思います。

○聞く

 言われるままにやっていたら何とかなる、ここにいたら何とかなる、それでは全く反対のケースさえイメージしていないのでしょう。言われなくてもやることでしか何ともならない。ここにいなくても何とかする。その上でここを使うのです。すべてをゼロから組み立てるつもりで臨むのです。
 成長の度合いは、その人の目的意識、どの高み、どの深みを欲しているのかによるのです。
 そういう意味では、間違いも正しいもない。人生なのですから、その選択のくり返しなのです。
 伝統や精神論、権威などは、いろんな形が目隠しをしてしまう。
 だからこそ聞かなくてはいけないのです。それは自分の心の声などというものでない、自分を超えた天の声のようなものです。かといって、毎日のように聞こえるはずはない。いつもいつも求めて聞くのです。

○精度

 毎日のトレーニングが成り立っているという感じは、とても大切です。ただし、そこに頼りすぎるのも危険です。力任せを充実した感じに思うことも多いのです。
 回数や量での再現性で見るとよいときもあります。しかし、いつも再現できるようなやり方を覚えてしまうことで、くせとして固定してしまうことも多いのです。要は、精度なのです。
 再現のプロセスをとらずに形をとる。声でいうと、カバーリングするといっても、ほとんどがくせ声なのです。そこで作品がつくれたり評価されてしまうからたちが悪いのです。
 再現もまた、固定するのでなく、常に動いて、結果としてピタッと同じような形をとっているようにみえるということで、同じということが絶対条件ではありません。
 とはいえ、固定したものの方が、細かく見るとぶれてしまうのです。動いているからこそ、定まらないので活きるのです。変じるのです、そういうプロセスには時間をかけることです。

○基本の程度の差

 多くの人が勘違いをしているのは、基本について、です。教えられたままに疑問に思わず、2、3年でできていると思っている。2、3年くらいやっていたような人から基本と言われたことをやっていく。それを誰もが身につけているもの、動きやフォームのように考えているのです。
 それなら呼吸や発声の基本のできていない人などはいなくなってしまう。事実、そうでしょう。だからこそ、私はオペラ歌手、10年くらいのキャリアでの基本あたりを最低ランクにおいています。
 一般の人にも、発声や呼吸の基本を教えるとは言わず、しっかりやっていくと何年か経つと身についている、かもしれない、くらいでアドバイスしています。
 確かにテニスでも、その基本は、初心者レベル、中学校レベル、高校レベル…などと分けられるわけではないが、程度の差があるでしょう。しかし、テニスの基本とは、一流選手が共通してもつものとした方が明確です。多くの人が一生かかっても手に入れられない、身につけられないのが基本なのです。それを身につけるために体やフォームを準備していくのです。
 いや、現実には、完全には身につかなくても今よりもずっとよくなるように、よくなり続けているようにしていく基本こそが大切なのです。基本も必要とされる程度によって変わるものなのです。その習得を妨げる要因が、自己評価、自分で感じてできているという判断になっていることも少なくないのです。

○自分の声

 みるのとやってみるのは全く違う。わかるのとできるのも違う。基本を、人に教える前に、まだまだ自らも基本ができていないと考えるのが、人に教える資格をもつ人の謙虚さというものです。
 その点で、本当の声、本物の声、自分の声、本来の声と、安易に言うのも危険です。また出していて心地よい声、充実する声というのも、そうでないものよりはよいというだけで用心すべきものです。
 人が評価した声、評価してしまった声、そこまで疑っては元も子もないといっても、声ほど気分や状況や関係で左右されるものもないでしょう。聞く人にとっても同じことです。トレーナーも人間ですから、聞き方も並みの人よりすぐれているとしても、絶対ではありません。出すことばかりに専念して、まともに聞くことのできないのもいるわけです。

○声の実感・快感

 声の実感や快感をどう捉えるかは、スポーツや武術のように傍から評価しにくいものであるだけに、大変に難しい問題です。レッスンとしては、実感して快感であってほしいとは思いますが。
 まして、声でのインパクトとバランスは、相反しやすいものです。聞く人は、バランスをとりつつもアンバランスを欲しているし、インパクトを喜びつつも安定を望んでいます。歌う人やせりふを言う人も同じです。それをどのように合わせ、ずらすのか。この組み合わせと音や声との関係だけでも、こうして展開すると膨大な論になりそうなので、今回はやめておきます。

○我と不足

 我の出ている話、歌は聞き苦しいものです。自意識は必要ですが、それではその人のものであって客のものにならないのです。つまり、価値、作品、商品の受け渡ししかないのです。いくら声を出しても届いていないのですから続いてはいかないのです。
 でも、一つ二つの作品なら、個性的でしょうし、おもしろいときもあります。ですから、そのリピートで、それ以上に作品を続けて飽きられる理由から改善するか、根本から変える必要性を知ることです。大体は、一本調子で展開パターンが少なく、絶対的な強み、オリジナリティが乏しいのです。
 今の自分のままでは決してできないことを知り、そこを突き詰めていくと基本のレベルは上がっていくのです。
 レッスンは基本を身につけるというのでなく、基本のレベルを上げていくと思う方がよいでしょう。トレーナーはそれをわかりやすい形で明示すべきでしょうか、そこも難しい問題です

○外と内

 メニュや方法に私が否定的なのは、大体は、それが外にあるからです。内に入れば、もう基本ということをいうこともなく体で取り込まれているから、ことばはいらないのです。
 優れた人たちが現実に対応しようとすると、外界に体が対応するのです。身につけた共通要素が基本というとするなら、現実や周りの状況が変じたら、基本も変じて応用されるとみてよいでしょう。
 天才肌の人は、感覚からもっともよいフォーム、体、声をつくりあげてしまいます。ただ他の人はそうはならないのですから、基本を使い、応用していきます。
 トレーナーも、チェックのときに基本というのを持ち出すと、指導のよりどころになるので便利です。しかし、チェックしてここがよくない、足りないからやるというのは、必ずしも合っていません。本当の型や基本は、マニュアルと対極のものなのです。

○トレーナーと違う声

 自分の感覚で正しいのに、トレーナーは違うと言う。
 トレーナーは正しいと言うのが、自分のではピンとこない。
 これらは、ときたまみられることです。私のところは2、3人のトレーナーが担当しているので、珍しくも、そのことを検証する機会をもてるのです。
 それはどの声が正しいかでなく、トレーナーの判断の違いがどういう価値観に基づいているかということです。このときに、私なら「トレーナーに合わせるように」とは言いません。トレーナーの方が経験も耳も肥えているとしても、です。
 ここで正しいと言い張ることを認めたうえで、その根拠を問います。質問するのでなく本人が何をよしとしているかを声そのものでみます。よほどの人以外は嘘ではありませんが、よいとか正しいという声の範囲が定まっていないと、自分でわからなくなります。
 困るのは、くせ声での快感や個性的という実感です。高く出したりハスキーに聞かせるようにしてつくった声です。大体は体で支えられていないものです。そういうときは、その柔軟性の応用力のなさを問います。しかし、それを使えないというのではない、むしろ、区別です。
 どれでもよいと思いつつ、柔軟な声に絞られてくる時間を待つ方がずっとよいのです。急かされない限りでは、私はゆっくりと何年も待つつもりで対しています。ただ、聞くだけ、それでも声は育っていくのです。

○主体性のある声

 トレーナーの教えに合わせていくのでなく、自分を出していくとトレーナーによく聞こえていくというのがよいと思うのです。
 自ら出てくる声より周りが求める声、これには日本人ほど気を使っている民族はいないかもしれません。 
しかし、もっとも大切なことは、声なのですから、学ぶにしても主体的であることです。
 憧れから入る世界は、自分の声を否定した人が、他人に合わせたがる傾向が強いので尚さらやっかいです。まして、ステージは普段の自分から化けるのですから、そこで自分に向き合う暇などありません。だからこそ、素である自分、その体、感覚で、声に向き合う場、時間、空間を必要とするのです。
 声は体だけでなく空間に響いているのですから、体=宇宙なのです。

レクチャー・レッスンメモ No.287

○「英語声」西村先生と対談

人の吐く息―H=人を表す
太陽、月、水(水面)
ことば以前 喃語・オノマトペ
共鳴の変化での伝達(ノンバーバル)
概念づくりと体感
日本語 象形文字、日本人は、正したいから書く
音は不明瞭、聞く人によって変わる

日本語こそ子音でよく、英語は、吐く息に音をのせていくから腹式呼吸であり、母音が決め手になるのです。母音で圧力を加えて吐く子音と子音の間の音が大切。吐く息で音を発して発音、それが単語として伸びていく。
日本語はどこでも切れるが、英語は伸びる。
英語は、音節になって意味が生じる、決まる。
こじつけても 覚えられない。
共通してもつ整合性に本質を捉えること。
体感することで保てる。学ぶべきものは息を吐くことです。
多くの単語を覚えるよりも、一つの単語の本質的な意味、イメージを基に学ぶ。単語を絞り込む。
日本では、小学校の英語教育でようやく、絵とイメージ中心となりました。
話す聞く力をつける。読み書く力の勉強法は、日本人に向くが、外国語学習、特に会話では、一面でしかないと思うのです。

Vol.41

声の状態を知る

 

○一日の中でも、声の調子は変わる

 

 声は、心身の状態に大きく影響されます。起きたときはどうですか。寝ぼけ声ですね。起きたばかりで、最高の声が出る人はまずいないでしょう。そのときに、電話に出たら、きっとさっきまで寝ていたことが相手に分かってしまうでしょう。

 起きた直後は、まだ体が眠っているから、体を動かすことには、あまり向いていない状態です。息も弱く、鼻声の状態が声にも反映されてしまうのです。朝早くから、スポーツの試合があるとき、選手はいつもより早起きをします。早く体を動かし、調子をあげておくためです。ビジネスでも、重要な会議などがあるときは、そうしていませんか。頭や体を起こし、最良の結果を得る準備をするのです。

 声に対しても、同じことがあてはまります。心身が整っていないのに、無理に大声を出したら、けっしてよい結果になりません。

 “千の風になって”のテノール歌手、秋川雅史さんは、「朝起きてから3時間は声を出さない」そうです。あなたは、何時頃になると、声が乗ってくるでしょうか。今日から、ぜひ一日の中での自分の声の状態に関心をもってください。

 

○もっともよく出たときの声をベースにする

 

 これは、一日の中だけでなく、一ヶ月、一年の中にも通じます。あなたの心身の状態がとてもよかったときに、よい声が、楽して大きく高く長く、朗々と出たことがあれば、その状態を整えることが最良の声への近道であることを知ってください。

 つまり、声は体の中に入っている楽器から出しますから、心身の状態をよく保つことが、今のあなたの中のもっともよい声を出すために不可欠なのです。つまり、フィジカルとメンタルの両方から声の調子のよしあしを振り返り、またこれからの声のよしあしを知っていくようにしてください。

 声の状態を管理できなければ、最良の声へのトレーニングもできないのです。

 しかし、これは簡単なことではありません。一人ひとり違う自分の体、そして心、さらに毎日の生活の中での状況におかれた、自分を客観視して把握しなくてはいけないのですから。そのお助けをするのが、ヴォイストレーナーなのです。

 

※たとえば、メンタル面でいうと、失声症といって、精神的ショックで声が出なくなることがあります。機能的には、何の問題もないので、耳鼻咽喉科の医者にいっても、何ともなりません。あるいは、どんなにトレーナーが優秀でも、一週間ほとんど寝ていない人の声をよくすることはできません。まず、睡眠を充分にとってもらうことからです。つまり、歯を直すように、早く声帯をいじるということではないのです。

 フィジカル面も同じです。1,2ヶ月骨折して入院していた人はまともに歩けるようになるのに、筋トレのリハビリが必要です。宇宙飛行士は、今は筋トレを宇宙船内でしているので、すぐ地上で立てますが、以前は無重力のため、戻ってきてから歩けなかったそうです。

 

※今、私のところにいらしているプロ歌手の方は、体を壊して入院していたときに、全く声が出ずに、回復とともに声が戻っていったことを感慨深く話してくれました。体の中の発声器官は筋肉で動かしています。筋力が弱ったら衰えるし、トレーニングしたら鍛えられるのです。(使わないと老化する)

 

声の条件を変える

 

○ベターの状態の声からベストの条件を伴う声へ

 

 多くのトレーナーやヴォイトレを受けている人は、声の状態をよくさえすれば、すばらしい声が出ると思っています。しかし、そんなに簡単なことではないのです。ワークショップなどのヴォイトレで一時的に声がよくなったのに持続しない、あるいは発展しないと、ここを訪れる人が増えました。現在の私たちの生活は、あまり声を出すのに向いていません。

 冷房下で8時間、タイピングをして、いきなりスポーツや歌を歌うのは、自殺行為でしょう。けがの原因にもなります。ですから、多くの人は尚さら、マッピングをしてからやりますね。声も同じように考えたらよいのです。

 

 ヴォイトレの多くのは、最初、緊張した空間で行います。改めて、声を出すということを意識したら、不慣れなのは当たり前です。そして、トレーナーがメンタル面でリラックス、フィジカル面で体をほぐすにつれ、あなた自身のすでに持っていた声がうまく出るようになるのです。つまり、マイナスがゼロになるのです。このゼロがこれまでの最良の状態であり、最良の声だったとき、私はこれをベターの声と述べています。つまり、多くのヴォイトレは、リラックスさえすれば、誰でも最高の声が出るという考えで行われてきたのです。

 

※もちろん、それが一人で取り出せる人は少ないので、メンタルやフィジカル面でのトレーナーアドバイスは、とても効率のよいことです。ただ、リラックスさえすれば、癒される、その人の声が出るというのは、私には病気で声を失った人が、元に戻るためのリハビリテーションで、言語聴覚士の仕事のようにも思うのです。つまり、それでも充分な人はたくさんいるでしょうが、それだけでよいのかと、それでは、本当に厳しい舞台やビジネスでは通用しない。つまり、状況が変わり、状態が悪くなることで、左右されてしまう声だからです。

 

○条件をよくするトレーニングとは

 

 宇宙人が、私とイチローと松井とを採集して分類したとします。すると、イチロー、松井の体は野球をするための体ですから、私と区別するでしょう。彼らは素質、キャリア、センス、集中力、記憶力など、野球をする能力はトップクラスですが、体だけをとっても常人とは全く違うはずです。サッカー選手なら、太ももが女性のウエストほどあるでしょう。ピアニストでも、両手の小指が私たちよりは強いでしょう。バイオリニストでも、バイオリンを弾くプロとしての体をもつでしょう。それなら、声を出す人、たとえばオペラ歌手は、オペラ歌手の体をもっているでしょう。

 つまり、ヴォイストレーニングというからには、トレーニング、つまり負荷をかけ、意識的に部分的に強化トレーニングを行い、体(感覚も含む)を目的に添わせていく、そういうものだと私は考えるのです。体が変わると何が変わるのか、声は4つの要素があります。それぞれが変わるのですが、トータルでの結果である音色が変わってこそ、トレーニングの成果といえましょう。

 

○3時間の猛特訓の果てに

 

 「声を鍛える」ということは、よく言われます。果たして、声は鍛えられるのでしょうか。

 ときどき、私のHPや本を読んで「毎日3時間カラオケボックスで、ぶっつづけで歌っています」という熱心なファンの方がきます。「これ以上、何をすればよいのでしょうか」と。

 

 私は即座に「やめた方がよいです」と返答します。人間の集中力は3時間持ちません。のども3時間使うと、かなり悪い状況になります。これでは声を壊したり、病気になりかねません。質的なレベルアップは難しいでしょう。3時間の練習をあてるのは立派ですが、内容がよくないのです。3時間あるなら、30分ほどを発声にあて、あとは体をほぐすにつれて、あなた自身のすでに持っていた声がうまく出るようになるのを待つのです。

 

 それよりも、体づくりや聴くことのトレーニングをした方がよいでしょう。

 さらに、その30分もできるだけ、よい状態だけで声を取り扱いたいのです。ですから、1分間声を出したら、1分間休む、調子の悪いときは、2~5分間休めてもよいほどです。合計時間を競うのでなく、もっとも状態のよいところで行うことだけを、トレーニングと考えて欲しいのです。その理由は、発声の原理(特に声帯からどう声が生じるか)を知れば、納得していただけるでしょう。

 

※状態が悪いときは、状態をよくすることに集中してください。ときには、発声も極力しない方がよいこともあります。

 なぜなら、トレーニングとは、よりよく明日、将来のために行うものだからです。

 もちろん、役者の仲代達矢さんのように、声をつぶしては、鍛えたという一流の人もいます。しかし、平幹二郎さんのように声が弱く、薄い紙を重ねるように磨いていった人もいます。

 人それぞれというよりも、自分の持って生まれた楽器を知って、それにあったトレーニングをすることが大切なのです。

「声の出ない体」 No.287

 声の出ない体をみることが多くなりました。
 今の日本の話です。教育によって教わらなくては物事は学べないということで、誰かの認めた基準に合わせようと躍起になっているようにも思います。そこは正論や善悪という基準によっているのでしょうか。
歴史を学べばそんなものは、100年ももった試しがない。そこから考えていくべきなのに、それに当てはめていくのを学ぶことだと思うようになって、そうでないとまともでないとなってきたのでしょうか。いや、まともでないことがなくなっていっているのでしょうか。まともしかまともでないといえば、その通りですが。それではつまらないでしょう。
 国や政治が私たちをうまく管理するためにも、教育があるのはわかってもいたのですが、それはそれで利用していく価値も充分にあるのです。むしろ、最大の障害は、これから何かをなすべきかを考えず、なしたいこととあるはずの側にいなくなっていることです。自らが声の出ない体を求め始めているとさえいえるかもしれないのが、現状のようにも思えるのです。
 皆が、それぞれに異なる声をあげた上で調和していくのが、人間が求めてきた理想です。誰も声をあげなくなる、それは豊かで平和である証かもしれません。でもいつか、皆が声を出さなくなったとき、大きな声を出せる独裁者に盲目的に従属させられてしまう。
本気でヴォイストレーニングを必修にするか、寺子屋の音読と武道を活用するか考えて欲しいものです。
そういえば、ワールドカップでのCMが「声を嗄らす準備はいいか」、応援する前から声が嗄れると思っているのは、世界広しといえども日本人だけでしょうね。

« 2015年6月 | トップページ | 2015年8月 »

ブレスヴォイストレーニング研究所ホームページ

ブレスヴォイストレーニング研究所 レッスン受講資料請求

サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

発声と音声表現のQ&A

ヴォイトレレッスンの日々

2.ヴォイトレの論点