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2015年12月

「ヴォイトレの本質」 No.292-3

○材料と基準

 

 前提として、どうして「受けた人がよいと思うレッスンがよい」というトレーナーが、自分のレッスンを正しいと確証をもてるのかから入ります。世界一の歌い手ならわかります。世界一のレベルの歌い手を育てたならわかります。世界一の歌や声だというならわかります。私も多くのトレーナーに学びました。日本だけでなく、海外にも行きました。そして、これまでここで学んでいるトレーナーも含め、誰よりたくさんのトレーナーと接してきました。教え方のうまいトレーナーも、歌や声のよいトレーナーもみてきました。

 今も、研究所のなかでも、他のスクールでも、どのトレーナーのやり方をみても、間違っているとは言いません。その意図や理由をいつも読み取っているからです。ケースによっては、やり過ぎや、もっとよいやり方があると思われることはありますが。

 私自身、学んできた経験として、トレーナーはやり方(ノウハウ)やメニュでなく、材料と基準を与えるべきと思います。

 世の中に通用するには、10のうちのたった1つ、役立つものをみつけ、それを自ら10として使える能力がないと何にもならないのです。最初はその能力をつけるための期間です。自分を知ること、自分の本当の目的を知ることが第一なのです。

 ゴールは人に頼ってもどうしようもないとわかったら、それでよいのです。そこから、初めて本当に人を活かせます。

 

○苦労を積むこと

 

 現実として、腹式呼吸でも発声でも、100人いて、私の思う基礎のレベルができている人は1割もいません。(ここでいう基礎は音大オペラ科4年生くらい)ですから、私は、教え方やノウハウでは、12年で23割うまくなっても、その後5年、10年伸びていない業界の現状、それを知ってから本当の基礎をやっても遅くはないと述べています。この研究所でも基礎を本当の意味でとことん掘り下げてやっていく人は3割くらいです。それほどに、声の基礎というのは大変なものです。

 早く、楽に、誰でも身につくなどということは、やっていない人のなかでは価値があっても、やっている人のなかでは、何ら価値にならないものです。

私は10年などすぐに経ってしまうから、きちんと努力し、苦労し、きちんと悩めるようにさせたいと思っています。きちんとした下積みとなるトレーニングをお勧めしています。それは、可能性から早く限界に行きつき、絶望のなかで一筋の可能性を見つけて、ものにしていくプロセスなのです。

 

○本質と本物

 

 本質について述べる資格があるのかと、いつも自問するのです。そういえば、私が、本物とか、本当とか、本質とかを、現場で、ことばとして使うことはあまりありません。私に接した人は何千人か何万人かいるでしょう。そういえば、ビジネスマン相手に「感性」の関係で、本質把握というのを話したことはありました。そのとき以外に、こういうワードが使われた覚えのある人はいないと思います。

 本物というのも、「あの人は本物だ」とか、「あの○○(芸)は本物だ」と、他人が勝手に祭り上げていくものです。「私が本物です」などと言うのは、一時、流行したTVの番組か、戦後、現れた自称天皇とか皇族とかいった偽物か、真犯人くらいでしょう。

 しかし、トレーニングにおいて、いえ、教育や勉強など、意識的に学ぶことや他人に対して働きかけるときに、効果を出したいと欲するのなら、目先でなく長期的にみて大きな効果をと願うなら、結果として本質をつかんでいくことが大切になります。

 

○本物とにせもの

 

 本質を把握すること、そして、動かす、変える、変わるなど、行動すること、そこでは、つかんで動かすという、もっとも原始的な原理のままに、ものごとは成し遂げられます。五感でキャッチして行動する、つまり、この2つの動きで成り立つのです。

 トレーナーが、なぜ本質をとらえなくてはいけないのかというと、そこのことばを口にする必要はありませんが、他人のことを見て、変える、変わるようにするからです。

 自分のことなら、それは、黙ってやっていればよいのです。歌い手や役者なら、これを読む暇があれば、練習すればよいのです。

 トレーナーも自分のことなら練習をする。しかし、他人に対応するには、自分の本質を述べても仕方ありません。「私は本物だ」とか、「本当のレッスンはこうだ」と言うとしたら、きっとそういうことがわかっていないからです。仮に本人が神か仏でも、「私が本物だ」とか言わないでしょう。同じように、他人のことを「にせものだ」「他人のが間違っている」と言うような人は、自分が本物だと言う人と五十歩百歩だと思うのです。

 

○スタンス、「どう」するのか

 

 その人の本質をつかむこと、それはとても大変で、私も、まだまだ未熟ですから、そこをスタンスと言い換えています。第三者からみて、その人の今の声や歌がどうなるべきか、なればよいか、この2つをつかむのは、トレーニングの基本でしょう。

 プロデューサーなら、歌が「どう」あって、「どう」作品にするのか、「どう」売るのかを見抜く力になるのかもしれません。プロの歌手や役者なら、相手が「どう」であって自分と「どう」違うかはわかるでしょう。ただ、トレーナーは、未来ヘ将来への軸をもつ、そこで補佐したり変えたりして、次の「どう」を実現させていくのです。

 このときに、この「どう」を今日の効果にとるのか、5年、10年後の「どう」にとるのかは、全く違うということをくり返して述べてきました。そういう条件をはっきりさせることがスタンスです。

 プロの歌手の半分はきちんとスタンスをもっていらっしゃいます。4分の1は、自己把握していない天然(歌手ならではです)、あとの4分の1は、ここに来られる方に限る特殊な例ですが、白紙→再びスタンスから問いにいらっしゃるケースです。(これは、他のスクールやトレーナーのところでは珍しいと思います。ポップスを歌っていて声楽も勉強したいくらいなら、よくあるでしょうが…)

 

○歌から入る

 

 ポピュラー歌手は、

1.歌は、欧米という模範への挑戦に

2.日本のプロレベルの模範での厳密なチェック、

3.プロとしてのレベルの到達

とわかりやすく、多くのトレーナーが、23.のことで現実に対処しています。

 ヴォイトレも、多くのヴォイトレ本やCDが声のメニュよりも音域、音程、リズム、発音、歌のフレーズなどで占められていることからも23.が中心とわかります。

 声になると一人ひとり違うので、歌では音域で男女2パターンつくっておくくらいしか、一般化しにくいのでしょうか。ともかくも声については、ほとんど扱われていないのです。ほとんどヴォーカルトレーニングメニュです。ちなみに私のつくった教材もそうです。ただし、ビジネス用について、私のには、声色までアプローチしたのもあります。(中経出版刊)

 

 ステージとしての歌唱でみるのか、発声の応用としての歌唱でみるのかは、反対の方向です。私は、楽器の演奏レベルという高度なところからみて、そこに統一した基準を出しました。☆

 が、現実としては、ステージらしく仕上げるのか、発声がうまく歌に活かされているのかのどちらかで見ることになります。この2つは、下(初級者レベル)でみるとけっこう隔たってしまうので、どちらかを選ぶことになります。現場に近いほどステージらしく歌える、その声ということでみることになります。それが、ヴォイトレもヴォイストレーナーも、カラオケ指導スタイルになっていくというのが、これまで述べてきたヴォイトレの構造的な障害です。

 相手のレベルによっては、音程、リズム、発音のチェックとなります。こうなると、ピアノを伴奏する人やバンドの人でもチェックできるし、修正させることができるわけです。かつての作曲家、プロデューサーなどがヴォイストレーナーということになるのです。ステージより発声、発声―歌―ステージの一本化と、上(トップレベル)でみる必要を強く感じます。

 

○真逆のアプローチ

 

・高音域でパワフルに

・息を混じらせずに音色輝かせる

・中低音までしっかり太く

・声量ある声でメリハリつけて

 このあたりから、ヴォイトレでどのくらい改善しているのかをみていきます。

 いつも、私の述べるのは、芯と共鳴の同時進行です。つかんでうく、にぎって離れる、集中したら解放する、一見、矛盾の2つの動作のようなことを瞬時に同時に可能とすること。それが他のプレーと同じく、ヴォイトレにも求められます。

 そのために、やりたいことができないとしたら、そのとき、やりたいことの逆のことをやるのです。つまり、やりたいことができることではないのですから、ある程度チャレンジしたら中途半端にごまかさずに諦めます。そして、真逆のことをすべきなのです。つまり、「基本講座」で私が説いたように、高い声が出したいなら低い声からです。

 

○高い声へのアプローチ

 

 高い声が出ないから出したいのですから、高い声で練習する。すると、あるところまでいって、限界となります。ただ、これを自主レッスンで行うと、将来、もっとできるはずの可能性を、自ら雑にして疲れさせ、悪い状態にして、はるか手前で障害にしてしまうのです。そこで、トレーナーにつくように勧めています。

 本当の限界にきたら、さらに必要か可能性をどのレベル(質)として捉えるかも考えながら(トレーナーに考えさせながら)何でもできた方がよいというなら、さらに挑みます。しかし、そこまでの発声の完成度を高めることが第一であることを忘れないことです。具体的には、中高音の質の向上です。

 そして、限界がきたらアプローチを変えるのです。裏声からのアプローチもあれば、低音からのアプローチもあります。高いところを出していると高く出やすく、低く出しにくくなるのと出しにくくなる。この慣性の法則のようなことに振り回されるから、うまくいかなくなるのです。☆

 

○裏声アプローチとハミング☆

 

 やたらファルセットを使うのが増えたのと、高音は弱くしか求められなくなった、先の慣性も含めて、この3つの理由で、いつ知れず裏声でのアプローチが全盛となりました。それにはリスクが少ないことも大きいでしょう。しかし、これは本質でなく、使い方での応用、つまりは、やり方のノウハウに過ぎないのです。

 裏声アプローチは、もとより、高い声の人に向いています。やりやすいだけでなく、低声からのアプローチが難しいので、それが頼りになります。そうでない人は、慣れていないので、少し慣れて出せるようになるだけでマスタ―できたように思います。ただ、力で出していたのを脱力させて出すことが、その秘訣の正体なのです。

 今の日本に限ると、なぜかいつの間にか、これが主流になりました。一定レベルまで早く安心して達しやすいので、日本人の性格に合っています。それゆえ、目指すところが必ずしもアーティストに向くのではないのですが、ミュージカル、合唱の人にはよいでしょう。最近はJ-POPSの人にも私は勧めています。共鳴(頭声)から入るので、目標を絞り込みやすいのです。

 ちなみに私のハミングでの高音レッスンは、ほぼ同じ考えです。声帯に負担かけず響きを拡散せずにまとめるので、喉声を外すのにわかりやすいからです。一言でいうと無駄無理のないメニュです。

 初心者なら第一、上級者ならそこを使います。しかし、これで実力が鍛えられるのかというとどうでしょうか。声帯、その周り、呼吸関連、まして、全身でのコントロールは難しいでしょう。そのために、私のハミングのレッスンには、独自ともいえる中低音の共鳴(胸声)が芯づくりとしてあるのです。

 

○比較でなく絶対

 

 地声で低い声、さらにオクターブ下までの完成が、同時にマスケラを兼ねるということを何回か述べてきました。最高音と最低音は、極端ということでは同じ感覚なのです。ただ、周波数、倍音が異なることで体感するところが頭と胸での比率が異なるように感じるのです。当然、高い方が頭で、低い方が胸です。

 日本人は、ハイCはともかく、高いだけの声はさして苦手ではないのです。現に、声楽ならテノールとソプラノばかりでしょう。民謡や詩吟、邦楽でも、高い声の名人はいます。そういう世界でも、今のJ-POPSとは比べられないほど質的に厳しかったのです。質とは、音色と共鳴です。ただ弱々しいものやキンキンするものは、素人でした。

 以前のヴォイトレ、特に声楽家のレッスンは軟口蓋を上げて、咽頭を下げて、口内の空間を大きくしたら共鳴を眉間とか、頭のてっぺんに、でした。今もさほど変わっていません。とはいえ、いろんな試みは、長く続けられているので、多くの蓄積があります。

 

○技法ジラーレほか

 

 高音域にもっていくときに声が裏返ってしまう、これを防ぐためのカバーリングが声楽からヴォイトレに入ってきました。高音で喉を壊す人は少なくなりましたが、それは、ストレートに大声にしなくなったからです。それが最大の貢献といえるものです。

 ステージで調子が悪いときに失敗する人や外す人も少なくなりましたが、それが二番目の貢献です。ところが、決して昔の人を上回る成果になっていません。ジラーレ、アキューゾ、デッキィング、など、カバーリングはカバーであって、カバーすべきときに使えばよいのですが、正攻法でないのです。できの悪いときの非常手段、高音アプローチのためのノウハウ、ハウツーです。

 日本の邦楽家には、そんなものを使わなくても素晴らしい高音をもつ人もいます。また、海外のポピュラーヴォーカルはいうまでもなく、私からみるに、一流のオペラ歌手も必しも使っているようにみえません。このあたりの判断は難しく、技法として習わなくても使えている人がいるとか、習って使っているうちに、使わなくてもできるようになったとかいうことになるのです。「あ、ジラーレした」とわかるのでは、まだまだだということです。

 

○シンギングボール

 

 研究所には、直径40センチくらいのシンギングボールがあります。歌うのではありません。鐘、お寺などで、あるいは、仏壇でカーンと鳴らす鐘のようなものです。これをホールに響かせるには、もっとも響くところをもっとも強く打ち、鐘を座布団の上にのせ(本当は、スピーカの下に置く接点の小さいもので支えるとよいでしょう)共鳴を邪魔しないようにします。弱く打っても邪魔しなければかなり響きます。強く打っても、そのまま押しつけていたら、全く響かなくなります。

 ということで、ヴォイトレでも、この邪魔しないことだけをノウハウとして伝えてしまったのでないでしょうか。特にポップスは、マイクが使えるので、それだけが中心、私は、日本のオペラ界も似たものに、と言いたいのですが、そこはやめておきます。

 強く打って鐘を抑えたり、歪ませたり、壊したりしては、元も子もないのは確かです。本当は、強くでなく、速く、つまり最高スピードで一瞬に打ち、すぐ離す、そのインパクトがパワーです。

 ここは打楽器で、声帯の発音原理が違うので勘弁してほしいのですが、パワーの無視ということが、部屋には響いても大ホールに大きく響かない(小さく響く)スケールのものにしてしまったと思います。

 

○響くということ

 

 鐘のどこを打つとどうなるかは、音響物理学に任せて、これを人間のどこに響かせるかということに置き換えます。私の基本的な考えは、響かせるのでなく、響かせてはダメで、響くのを待つということです。しかし、プロセスとしては、(つかむ)打つ、(はなす)響くがあると思います。それを芯―共鳴としています。

 芯で鐘を打つこととすると、それは、ど真ん中の一点に絞り込んでジャストミート、つまり、打点としてスピードの最高点で、もっとも飛ぶ角度でミートするわけです。バットは振り切りますが、鐘は瞬時にターン、離すわけです。声にこのイメージはよくないので、シンギングボール本来の使い方のように、バチでまわりを回すとかになるのでしょうか。打つときは、音はほぼ同時に響いているのですから、次に響かすというのでなく、打つ=響き、つまり、打つだけとか響きだけと捉えられてしまうことになります。打つだけの人は強く大きくだけ、響かすだけの人は緩めて離すだけと誤ってしまうのです。

 

○大げさに

 

 共鳴体感部がどこなのかというようなことしか、発声では教えられないのですが、弱く響かすより強く響かす方が簡単なのです。第一に、体や呼吸が動員しやすいからです。全身でバントするより、全身で全力フルスイングする方が正しくとりくみやすいのに似ています。

 トレーニングは、最初は大げさにやることというのが私の原理でしたね。しかし、過保護ゆえに、最初に全力で振って空振りしたら体を痛めるだろうから、バントからやりましょうなどというノウハウができてきたようなものです。体を痛めるなら、痛めない体をつくるまで振らないのが、まっとう、いや基本的な考えというものです。

 強く大げさなのは、荒く雑に乱暴になりがちです。それゆえにトレーナーとして禁じたくなるわけです。痛めてわからせるわけにはいかず、痛めないように危険を排除するのはともかくも、少しずつ丁寧にしていく。そこは、トレーナーのとるべきスタンスであり、考え方です。ただ、そうしてあらゆる可能性から選んだならともかく、そこに一つしかプロセスや答えがないと考えるようになってきたのがよくないのです。結果として、誰もが同じ発声、同じ声質、同じ歌になっていくのです。強くと雑は明らかに違うのです。なのに、「強く」がだめという、「雑」なのがだめなのでしょう。

 

○荒削り

 

 昔は、若くて荒削りな方が成長したものですが、それは、自ら壁にぶつかり、修正し学んでいったからです。リスクを知り、限界を知り、自分を知ったからこそ、その先に行けたのです。もちろん、最低限のセンスはあったからです。

いえ、時間をかけたから、わからなくても体得できたのです。今は、その前に止めてしまう、まとめてしまう、引きさがる、方向を変えてしまうのです。本人が行きづまり、迷い、考えるまえに、頭のよいトレーナーが方法を変えてしまうのです。もちろん、よくない例として述べています。残念なことに、他の人に教えられて、そうしてしまう人が多いのです。

 センスの伴わない人が荒削りでやると、やるほど、力がつくほど、荒っぽくなり、喉にも異常をきたすだけです。(それだけなのかどうかは、人にもよりますから、そうとも言えませんが)です。そういう人ばかりみると、トレーナーも早めにアドバイスせざるをえません。

 同じようにくり返せない、やりにくい、痛いなどいうのは、修正への警告です。そこで加減を覚えていくのは楽器でも同じです。ただ、今の世の中、「思い切ってやれと言われて思いっきりやって、喉を壊した、責任をとれ」などと言う人も出てきかねません。

 以前にいくつかのチェック法を述べました。大きく出すことや喉を壊すことを目的にしないこと、休みを入れること、調子に応じて練習時間を考えること。疲れは注意、痛みは警告といったことです。

 

○共鳴の練習

 

 共鳴しないのは、きちんと声にしていない、がなっている、声帯が合わさっていないというイメージ言語で言う人もいます。ただ、ポピュラーを扱っていると、「ハスキー=だめ」ではないのです。でも、できる限り、声に活かせぬ息の音はなくたいものです。表現でなく発声の基本としては、です。

 共鳴については、鼻音(ハミング、n、mほか)5母音(a―i、a―u)も、微妙に音によって響きが違います。

 歌を共鳴(ハミング、母音など)で歌ってみて、出しやすいものを知るのもよいでしょう。以前、ことばの成り立ちと世界の音楽(ヒカキンとか)を関連づけて共鳴について述べました。ここはヴォーカリーズでの練習です。低音はG(ガ)の行、中音はm、高音は ハミングなど、分けるのもよいでしょう。

 いろんな共鳴をアップして、どう響いているのかを整理してみましょう。わざとこもらせたり後ろに回したり「オ」で、えなりくんのイメージ?掘ってみたりしてみるのです。

「声の大系」 No.292-2

○基本と方向

 

 一般的なヴォイトレでは、私の「声の基本図」で説明しています。ここのトレーナーは声楽の基礎をマスターしているので、まずは、共鳴についての専門家として紹介します。一言でヴォイトレを示すなら、その本質は、声の共鳴のためのプロセスをトレーニングすることだと思うからです。共鳴とは倍音フォルマントの違いで生じる音色(声質)ということです。

 生物が人間が進化していくプロセス、あるいは赤ん坊が大人に成長するプロセスこそが基本です。トレーニングそのものも、そのプロセスを歩むものです。

 人並みになるのと超人になるのとは目標レベルが違います。自分の能力の回復と潜在能力の、さらなる開発とは目標レベルが違います。私の目指すのは後者ですが、現実には前者の仕事が多いです。人は人に憧れ、比較して優劣を競うものだからです。上へ上へとできていないところへ行きたがります。しかし、本当の基本とは、他人と関係なく本人の掘り下げ、下へ下へとできているつもりのところへ戻ることなのです。

 

12通りでみる

 

 共鳴の基本を下へ下へとると、共鳴―発声-呼吸―体となります。プロセスとして4つに分けていますが、いつも本当は一つ、一体なのです。これは、体-共鳴を無理に分けているのです。

 レッスンでは、体-呼吸、呼吸-発声、発声-共鳴、それを、それぞれ、体から呼吸、呼吸から発声のように2経路でみるわけです。さらに、これはやや高度な能力ですが、体-発声、発声-体、呼吸-共鳴、共鳴-呼吸でもみているのです。共鳴-体、体-共鳴も含めると4つの要素ですから、12通りあります。それを大きくみると、大体は呼吸を発声するところに感覚や使い方のズレがみつかるわけです。それを部分的に修正するのか、体の方に下がって全体的に修正するのかという、いつもの問題になります。

 

○口笛に学ぶ

 

 体と一口にいっても、姿勢、体力(筋力)、心(精神的)統一など、いくつもの要素があります。それは呼吸に現れます。他のフィジカルなプレー、スポーツなどに比べると,発声は原理として,喉頭の中の声帯で外からは触れられないところを、しかも、呼気という空気を声帯の扱いで音に変える独特の方式で声を生じさせるので、そこだけがクローズアップされがちです。

 そこに関しては、笛のように考える方がわかりやすいと思います。笛の中では尺八のように音を発するのに、本人の唇の入るもの、つきつめると、口笛が最適の例かもしれません。口笛を鳴らすには口唇のセッティング、キープと息の使い方、キープが重要です。口笛をどのようにマスターしたか覚えていますか。

 

○アーティキュレーション

 

 共鳴から上の話をします。ここから話、せりふの方向へは、発音、ことばのフレーズ、アーティキュレーション、そして、せりふ、表現と進みます。アナウンサー、声優、俳優、噺家などです。

ちなみに、アーティキュレーションは、音楽では音のつながり方(強弱、スラー、メリハリ、表情、テヌート、スタッカート、レガートなど)を指すのですが、教育用語では、カリキュラムやその学習のつながりに使われます。英語では、区切ること、接合部、これは言語の関節、節目(artus)、話の分野では、明瞭な発音や発声などに使われています。

 そのためでもありませんが、プロとしての表現のメリハリをつけるためにヴォイトレにいらっしゃる人のなかには、アーティキュレーションやプロミネンス(強調表現)が中心、そのために発音アクセント、イントネーションを学ぶ人もいます。つまり、せりふのためのヴォイトレです。

 

○共鳴と母音

 

 歌を中心とした音楽的な方向は、声の共鳴が、より基本となります。共鳴には、いろんな要素が含まれているからです。

 まずは、母音、これは口内、舌の位置で変化させます。ここでの母音は日本語だけでなく、世界共通の母音です。つまり、子音でないものです。

 子音とは、調音点で調音法をもって出します。無声音だけでなく、有声音もあります。すべて共鳴や吐く息に対し、加工、つまり妨害、邪魔することで音を発するのが子音です。ですから、子音の発声が入るところから共鳴は妨げられたりくせがついたりするわけです。

 ことば、せりふは、喉を疲れさせるわけです。子音の瞬時の発音と、母音の持続的な共鳴のどちらが疲れるかは、どうみるかにもよりますが…。母音で歌うのは、劇団四季の練習法として取り上げられることがありますが、ヴォーカリーズ母音唱法として昔からあります。

 

○ヴォーカリーズ

 

 母音唱法をヴォーカリーズというのは、フランス語で、声だけで歌え(声にする)vocalise(命令形)に由来します。英語ではvocalization(母音vowel子音consonan)、共鳴を旨とするオペラの歌唱での練習法として取り入れられてきました。

 母音のベースはa、i、uの3母音で、aを中心に、a-i、a-uの三角形となります。この間にe(a-i)、о(a-u)厳密には、оは直線上のa-uの間にはないのですが、語によっても異なります。詳しくは、IPA(国際音声記号)を参照ください。このあたりは、レッスンのヴォイトレにも入っています。

 ミュージカルとはいえ、日本語発音を優先するものですから、劇団四季は、あくまで5母音の発音の区別のために母音歌唱をしていますが、私のところやオペラのような歌唱芸術では、もっともよい発声-共鳴(音色)で歌曲をさらえるようにするために、ヴォーカリーズを使います。

 

○「ハイ」と「ハイ、ラー」

 

 私は、役者の声のベースを「ハイ」(声門の調音での発音、発声)とする一方で、役者のヴォイトレにも共鳴中心、もっともよい一音(母音、さらに子音)ですべて発声させ、他の音を巻き込むようにしています。「ハイ、ラー」「ハイ、ララ」など。

 ここは、発声共鳴中心か、発音、ことば中心かの別れ際だということです。音楽的であれば楽器、器楽的な条件を優先し、発音やことばは後で調整すべきというのは、日本では珍しい私のスタンスです。オペラ歌手以外、そうしているヴォイトレはあまりありません。

 ちなみに高音域になると発音と共鳴は矛盾して、両立しなくなります。オペラ歌手は共鳴を優先し、その結果、何を言っているのかわからなくなります。音楽だからそれでよい、声がよければよいというのは、私の立場です。

 日本では、歌はことば(とストーリー)で聞くので、劇団四季のように発音を明瞭にする方がわかりやすくてよいとなります。ただ、基本の発声ができていない多くの人には負担がかかってしまい、長続きしない、突出したスターが出ないなどにつながります。

 

○日本のアナウンサー☆

 

 アナウンサーでは、ラジオをのぞくと、ビジュアル面もあり、母音は口(唇)や顎の開きでも母音を明確に分けて発音します。口をみると、新人ほどトレーニングしたてで練習の口形で出ています。声の力がないので、やむをえないのですが、滑舌、早口練習でかまないことを第一優先で学んでいることがわかります。ですから、2年くらいでプロ?(サラリーマン、OLですが)になれるのです。

 海外のキャスターのように、何年もキャリアを積んで、声の魅力や音声表現の説得力で起用されるのでありません。ルックス、スタイルなど、アイドルに求められる要素と同じです。

 そこから、20代後半30代以降、声の魅力を、といらっしゃる方もいます。朗読、ナレーションになるとルックスでカバーできないからです。声が通らないと失格なのです。

 

○オペラ歌手と役者

 

 オペラ歌手の体、体-呼吸、発声と共鳴をもって、声の仕事をする、今のスタンスは歌手、日本のオペラ歌手に、かつての役者や邦楽家のような強い声、喉を持って歌うようにと、私が、ヴォイトレを始めたとき、提唱したことと逆転したようにも思いますから、まとめておきたく思います。

 オペラ歌手でいうと、ソプラノ、テノールが主役、特に日本では、そのパートが、体格などもあって多いのですが、アルト、バリトン(バス)をイメージしてもらう方が、全ての分野に共通の声の基礎としてわかりやすいと思います。ポップス、特にJ-POPSでハイトーン、ハイCなど使うのは、かなり特殊で、しかも音響あってのものです。以前はオペラ歌手しか日本人は使わなかったし、オペラ歌手も本当には使えていなかったのです。あとは、天与の条件によらず、生涯使えるという可能性から考えるべきであり、少なくとも私のヴォイトレでは、ハイCの最高音域を絶対条件とはしていません。他の基礎のある上で、声域は広く、高音域も使えた方がよいのは言うまでもありませんが…。

 

○練習曲集、「コンコーネ50番」

 

 共鳴は、母音歌唱、ヴォーカリーズとして練習、音大などでは、「イタリア歌曲集」などの前に、「コンコーネ50番」を使います。(25番、40番、15番など)、その50曲を母音や音名階名で歌うのです。まさに、ヴォイトレとしてソルフェージュのように使われました。

 歌は音楽として歌詞がなくてもよいというので、ヴォーカリーズは、声楽の発声技法の練習から作品そのものにもなりました。もとより、歌詞のない器楽曲をハミングや母音で歌うとそうなるのです。日本でも、口唱歌、口三味線として楽器の演奏家は、まずは歌って覚えていたわけです。雅楽もです。つまり、発声練習曲集で、「パノフカ」、「トスティ」、「ヴァッカイ」(歌詞のあるものもある)など、ピアノのバイエルのようなものです。

 

○作品としてのヴォーカリーズ

 

 ヴォーカリーズの作品は調べてみてください。たくさん美しい作品があり、声の響きを楽しめます。また、共鳴の練習にもよいでしょう。意味のないことばとして、音のリズムや動きを楽しむのは、魔法使いサリー(ご存知でしょうか?)に出てくる呪文「マハリク マハリタ~」「ラミパス ラミパス ルルルルル~」「テクマクマヤコン」など、他にも数々挙げられるでしょう。タモリの北京語(中国語)やハナモゲラ語などはgibberishというらしいです。

 日本ではオノマトペとしてよく使われています。まったく知らない言語を感覚だけでとってくることもあります。日本の歌として、シャンソンなどを訳すときに、部分的に言語で残してあるのは、意味を訳せないのではなく語感を残したいからでしょうか。ビートルズの「オブラディ オブラダ」は、アフリカのヨルバ族の語(「なるようになる」の意味)らしいです。

 

○スキャット●

 

 「ヴォーカリーズ」というと、ボビー・マクファーリンのCDが有名です。レッスンで使ったことがあります。そのとき、チェロがヨーヨー・マと知らなかったのですが、いろんな声や体で音のパフォーマンスをする歌い手です。

 なお、「シャバドォビ ダバドォバ」はテレビ番組の11PM、大橋巨泉さんつながりで、「やめてけーれドォビドォバ」は、左卜全(「老人と子供のポルカ」)、ザ・ピーナッツの「恋のフーガ」、新しいところで椎名林檎さんの「唄ひ手冥利」の中のjazz a gogoスキャットとジャズではいうもの、これは母音の響きより子音のリズムや語感覚を活かしたものです。

 スキャット唱法ということをつくりあげたサッチモことルイ・アームストロングのトランペットと歌唱で、「バラ色の人生」を比べたこともありましたね。

スキャットの女王エラ・フィッツジェラルド「マック・ザ・ナイフ」は、日本では渡辺えり子さんのを勧めていました。さらに、サラ・ヴォーンの「枯葉」は、よく使いました。

 

○マウスミュージック

 

 マウスミュージックは、声を器楽のように使います。人間の声、ことばでのハイテンポ、早口ことばの音楽で、マウスとはいえ全身を使います。

 ヒカキンなどの楽器音、スクラッチなども含め、人間の声とは思えない完成度の模倣をします。これは、そのまま楽器の代用のように人の器官を使うビートボクシングです。ヒップポップのドラムマシーンの代用から生じたようなものです。一方、楽器で意味を伝えようとすると、トーキングドラムとなります。モールス信号など。音での合図もその延長上にあります。

 

○声とフレーズ

 

 スキャットやマウスミュージックの子音は、アタック、リズムなど各音の性格で選ばれているのでしょう。語感やオノマトペで研究するとよいでしょう。それに対し、母音は、音の高さ(高い方からイーエーアーオーウ)や長さを担っているようです。

 共鳴には、音声のもつ高さ(高低)、大きさ(強弱)、音色、長さ(減衰 響きの伸び)などが含まれます。それゆえ、私は、楽器音としての声の可能性として、子音やことばのつく前の一声を、完成された楽器として取り出そうとします。さらに、そことフレーズとしてオリジナルなもの、個性も含めた表現を基準をもって評価、その動きを養成しているのです。

 歌における説得というのは、口説きに近いものかとも思います。となると、歌垣の頃に戻るのも基礎ということになります。

「声と精神的な問題(メンタルセラピー)」 No.292-1

○ともかくリラックスを☆

 

何事もリラックスは、よいプレーの前提です。でも、プロセスにおいては、リラックスを覚えることとトレーニングは別なのです。

 何をするにも慣れるまでは、緊張して、心身を固めてしまうものです。ですから、心身をリラックスして発声さえすれば、よい声は出ます。

プロのアスリートでも、歌やせりふとなるとリラックスできない人は少なくありません。こういうケースは同じことです。充分にリラックスしている時の声が取り出せたらよい、というレベル、接客や面接あたりならそれでよいでしょう。私がバッティングセンターでリラックスしていれば、少しはうまく打てるのと同じです。でも何かおかしいと思いませんか。

 それは、100パーセントの力を出せたら、それでよい場合に限るのです。

 慣れないことをすると固くなるのをほぐす。それは前提です。しかし、私が、もしプロ野球で活躍したいと考えたら、それが入団テストなら、誰も「リラックスしてこいよ」とは言わないでしょう。リラックスも実力がなければ何ともならないのです。ギターやドラムの演奏でも同じでしょう。

 なのに、声や歌は、発声であり、声は出せるから、初心者などはなくて、リラックスしたら通じる。つまり、カラオケレベルの目的をとるかのようになってしまったから、ヴォイトレもわかりにくくなったのです。

 とはいえ、それは、あなたの求めるレベルによります。声の出せない人のリハビリに、言語聴覚士はリラックスを中心に声を導きます。元に戻ればよいのなら、それでよいでしょう。しかし、元の発声ができない状況、あるいは、元々できていない状態で行うとしたらどうでしょうか。

 声そのものを音として取り出すことに向けて、強化、鍛錬しなくてはいけません。それも、新しいやり方で行うと慣れるまで力が入ります。リラックスしてできるまでは仕方のないこともあるのです。

 このプロセスでの、一時的に脱力できない状態を経ずにリラックスできるとするなら、すでにそれはできているということなのです。ですからリラックス本位の方針は、新たなレベルに達するトレーニングでなく、調整や現状維持のトレーニングとなります。極端にいうなら、リハビリテーションなのです。

 

○心と体のスキャン

 

 心と体の問題に入らざるをえなかったのは、発声以前の問題がそこに大きく障害のように横たわっているからです。声、ここでは、その人の行っていることや内面で思うこと―心の声というようなものでなく、まさに声そのものです。が、声をずっと聞いて、その問題点を頭で考えるのでなく、まず自分の体で同化して、イメージですが、体でスキャンしているわけです。すると心と体の問題も感じてしまうことになるのです。そのままスキャンすると心身を壊しかねないので、ブロックしてしまうこともあります。

 体のことは、姿勢、呼吸の不具合や、まだ準備できず足らないという条件としてわかります。しかし、精神的なことや心はそれだけでは、なかなかわかりません。

 表情や所作、そして、ことば、話し方や会話の中に、そのヒントはいろいろと潜んでいます。育ちや経歴、声について、さらに家庭や学校、仕事場といった、周りの環境、そことの接し方、さらにコミュニケーションの相手とそのあり方が、声には深く関わっているからです。感情、感性やの能力、病気、健康などと関わるのも、気、呼吸、霊性と声は、深くつながっているからにほかなりません。

 

○声を出すだけでよくなる

 

 まずは、今の自分のままの声をしっかりとみることから始めてください。そうでないと、いろんなところをぐるぐる回るか、あるところを気に入って最初は順調にいって、23年も経たずにパタッと進歩しなくなるのです。そこでOKとか、できたと思ってやめる人も少なくないでしょう。それで目的達成ならそれでよいのですが。

他のところへ行く人もいて、それはそれでよいのです。他のヴォイトレを批判して、自分のところはそれと違うとPRしているところの109は、そういう自転車操業をしているのです。それは、生徒のことは言うまでもなく、トレーナー自身や、その方法、メニュが進化しない、変わらないからです。

 

○変革する

 

 心を扱うカウンセラーの半分は、かつてカウンセリングを受けてよくなった人、あとの半分は、まだよくならない人、病んでいる人だといいます。それに対し、フィジカルトレーナーやヴォイストレーナーは、大体において明るくて元気でよいと思っています。

 覇気やパワーが人を動かすのです。元々それが足らない人は、パワーを増量するか、せめて相手の前では絞り込んで、最大に使わなくてはなりません。

 医者が本当にその責任を果たしていたら、病人は減るはずです。カウンセラーもヴォイストレーナーも同じです。でもクライアントがどんどん増えているというのは、どうでしょう。歌手や役者がますます食べられなくなっているというのはどうでしょう。それは、効果を上げていないことだと認めた方がよいでしょう。このままでは、病人や薬の売り上げを増やす病院と製薬メーカーと同じです。大きく変革が求められているのです。

 

○病気と障害

 

 病気は治せるが障害は治せない、そういう意味ですが、表現者にとっては、治してもゼロ、何ら価値は生じません。障害があるといってもハンディとは限りません。それを知り尽くしたら活かせると考えるべきです。この2つをきちんと区別しましょう。

 素質と育ち、性格と行動、そのどちらかのせいでうまくいかないのか、本当にそうなのか、いずれすべて突き詰めていくか、よい方向に変えていくことになるのです。

 

○感情と範囲☆

 

 人間が関わること、特に個人レッスンは、マンツーマンであるから感情が入ってくるのは当然です。それは、クライアント側だけでなく、トレーナー側でも同じでしょう。精神分析では、それを転移、逆転移といって戒めています。感情が生じるのは当然ですから、それを認めた上でレッスンに影響を与えることを避けるわけです。これは、相手を尊重し、自分を守るために必要です。

 トレーナーの熱意がクライアントに負担になったり、無理強いになったりすることはよくありません。また、親身になることは大切でも、それが声の指導を超えるのは考えものです。専門外の問題にまで、家族や職場での人よりもトレーナーを最大の相談者としてしまうことも避けたいことです。

 トレーナーとしては、責任感が強いのはよいとしても、問題を一人で抱え込まないことです。誰しも万能ではないのです。原則として、分を知り、受け持てる範囲を限定して対処するべきです。

 

○だめでよい☆

 

 すぐれたトレーナーでも、いや、すぐれたトレーナーゆえ、そうでないタイプの人にはうまくいかないことは、声の場合は、よくある、どころか、あたりまえと述べてきました。これまで述べてきたように、構造的に、トレーナーの長所が、レッスンを受ける人の誰かには短所となるのです。また、トレーナーの他の人よりもすぐれた資質が、学ぶ人にはネックになりやすいのです。

 トレーナーの能力を、クライアントが本当に伸びることだとすると、案外と、だめなアーティストがよいトレーナー、だめなレッスンゆえによいレッスンとなることもあるのです。

 だめなというのは、何も自分が声でうまくいかず悩み努力し尽したということではありません。悩んでがんばっても、解決しないこともあります。そういうコンプレックスが邪魔することもあります。しかし、そうした苦悩をたくさん抱えた経験がないと、よいトレーナーになれないのも確かなように思います。

 ですから、若くして、すべて恵まれてトレーナーになった人はあまり続かないし、人を育てられていないのです。

 本当の意味で、すぐれたトレーナーとは、自分のことで悩み、挫折したような経験をもつだけでなく、他人の指導で日々それをくり返してきた人です。求めるレベルが高く、厳しくあるほど、何事も、そう簡単にうまくいくわけがないのです。

 だから、私は、巷のどんなトレーナーもどんなレッスンも、大前提として肯定しているのです。どんなレッスンもないよりはある方がよい。それをどう活かすかは自由、その人しだいだからです。

 

○仮のレッスン

 

 どうすればよいのかばかり聞かれるのですが、なかには、何もしない方がよい、今、言わない方がよい、ただ保つだけの方がよいというケースは、随分と多いのです。レッスンで黙っていられるか、我慢できるかの方が、そこで説明したり説得するよりも、ずっと難しく大変なことです。

 すぐ効くような早急なアドバイスを求めると、よほど自信のあるトレーナー以外は、ペラペラと答えてしまいます。

 レッスンでたくさん話していれば、時間も早くきます。充実感もあります。相手に満足感も与えられます。私はこれを「偽のレッスン」と呼んでいます。それがひどいなら「仮のレッスン」です。

 ことばのやり取りで安心して満足するのは、カウンセリングであり、レッスンやトレーニングとは違うからです。それとて、聞く方が大切です。

 ときには、気まずいまま、あるいは沈黙で、ことばにならないまま終わる、というのもあってよいのです。そこから得ることも大切なことです。

 このあたりは、トレーナーをサービス業と捉えている人やレッスンを顧客満足で評価する人にはわからないことです。

 大切なのは、何十回もあるレッスンのなかでの12回です。たった何回かのレッスンで得られることのために、何十回も何年も通うのです。

 毎回、顧客満足度さえよければよいのか、応対のよいトレーナーでいればよいのか。レッスンを自分のトレーニングに活かせるスタンスをもつことが、いかに難しいかと思います。

 

○総合失調症

 

 理論などは大体、願望していることの具体的事例の落としどころを知りたいためにあるものです。しかし、理論を受容し続けると、あらゆる行動も意味をもってきます。

 わざと人に嫌われることをして人の関心を引きたい、好きなものをうまく選ばないとうまく褒められないと勘ぐる、これらは総合失調症の特色です。

 自己満足でなく自分の再構築を支えていくことです。

 そのために、1、自分の意見を頭から出さない。2、その人の言いたいことをよくする、よいことばにする、代行してあげるとよいでしょう。

 日本人は、心と物との区別が曖昧です。イメージによる治癒、これは意識的でなくてもよいでしょう。言語化よりは直感の方が大切に思います。

 

○会うことでの治療

 

 くり返して会うことが重要なので、それについて話します。ことばも歌も口から出てくるとしたら、それは、自らが毎回、研鑽しているからです。

 意識が、一つのことに固執して、固まると悩みは深まります。意識すれば直るのに、こだわって深まるために、うまく解放しにくくなります。

 くり返し会うというレッスンの関係で因果を外していくのです。そこから自由になることで芸術療法としてのヴォイトレになります。トレーニング用法での「交換」として深く関与しつつも、第三者的に観察するようにしておくのです。

 

○うつ病

 

 うつ病は、内分泌系の異常です。原因や経過でなく、症状そのものに着目することです。操作的診断とならないようにします。気分が沈むのが2週間以上で、他の病名がつかないときに、そう命名するということになりました。

 これによって、診る人によって診断が異なることはなくなりました。が、うつ病の人が増えていったわけです。誰でもそうなるものであり、早く発見したら薬で治るという製薬会社のPRにのせられているといえなくもありません。

 ここでは、トレーナーにすべて任せるのでなく、チームとして支えているのですから、あらゆる症状を出して整理して系統だてて評価していくようにしています。今の状況とともに症状や経過についても入れます。

 

○認知行動療法

 

 相手の何かに感心できるということは才能です。例えば、トレーナーの立場を経験してみるのもよいと思います。

 ・主体的に悩めずにもやもやしている、悩めないという問題。

 ・問題の解決の方法、メニュ、正誤を早急に求める。

 ・自分の内面、思考をことばで表せない。

 ・対人関係で、自立できない、巣立てない。

 認知行動療法では、ものごとの受け取り方を考え方のくせ、歪みとして自覚して、そこからの行動を訓練で修正していきます。今の感情を本当にそうなのかと、きっかけからの「自動思考」を疑い、修正していくのです。

 こういう理論は、そのままレッスンに適用すればよいのではありません。今すぐ通用しなくても、いつか役立つときがあると思って待てばよいのです。経験者のアドバイスは参考になります。ただ、あなたとって有用だったもの、有効なものが他人にもそのままそうなるわけではない点には注意することです。

 

○主体性をもつ☆

 

 かつて、日本人は、ものと心の区別をしないでいたので、ものによって心をコントロールできました。死にたい、というなら深呼吸で落ち着いたというようなものです。ところがメールやネットで外のことを捉え、そのまま、外への要求がエスカレートするのは、症状の悪化を促しかねないのです。

 声について、そういう知識と問題への対処を与えるのもトレーナーです。話を聞いて受け止めて、不安定で内省できない相手を落ち着かせつつ、問題を整理するのです。そして何よりも悪い想像を切らせることです。

 話し方教室は、かつて対人恐怖症や赤面恐怖症の人が、よく行っていました。1970年代の境界例も解離性障害に変わると、多重人格者などが多く現れるようになりました。やがてこれは、発達障害に替わられます。もはや主体のなさゆえに、です。内外の区別がつきにくい社会では、自分の内面と向き合えないのです。それは、甲状腺疾患などにもみられるようです。サービス産業全盛となり、人を相手にする仕事が増えたためでもあります。

 

○時間をかけて変わる☆

 

 人が変わることは、ハイリスクで、場合によっては命にかかわります。表面の動きのよさと裏腹に、内面は、あせりとゆとりとのくり返し、ということもあります。

 レッスンを受けるためでなく、話を聞いてもらいに会いに来る人もいらっしゃいます。そういうときは、すぐに解決を目的にしなくてもよい、と思います。共に少しでも深い心理を探っていくのです。自分への信仰心のようなもので表向きの悩みを絶つのです。とことん困らないと悩まないものです。また、古い観念を壊すのは難儀なものです。

 トレーナーが守ってあげるから安心して壊せと言うのに壊さない、でも変わりたい、変えたい。トレーナーが壊そうとしたら、守ろうとするものです。それでは何のためのレッスンかわかりません。

 ですから、待つしかないのです。これでよいのか、このレッスンでよいのか、と問いながら、本当は、こんなものを求めているのではないのかと疑問を、深く投げかけながら…。本人も気づいていないことを明らかにしていきます。

 心身での組み換えは、相当に若くタフでなくては耐えられないはずです。共倒れをしてよいのがというと、否です。でも、引きあげなくてもしぜんとよくなります。

 レッスンで自分の見方のバイアスを知ることでしょう。質問にコメントする前に、その人のスタンスや考え方がみえてくるようになるのです。

  

○合わせる

 

 クライアントがトレーナーに合わせているのを、合っているとトレーナーは安易に肯定しがちです。それではいけないのです。なんといってもトレーナーなのですから。

 トレーナーがそれに気づかないと、どうなるでしょうか。クライアントは皆、同じ発声、同じ歌い方、同じ表情になっていきます。合唱団病というようなものです。

 本人と周りの人たちがよければ、気づかないのが幸せというものなら私は何も言いません。

 マンツーマンのレッスンは、クライアントと、そのトレーナーがお互いに気を使って合わせています。かつての師と弟子のように同一化を求められる、そんなものだけだとしたら不幸なことです。

 その世界やその人への憧れから入った人は、自分からの脱却よりも、トレーナーへの同一化を目標としてしまうものです。同一化が目的で、上達、充実、幸福なのですから。

 その間違いに気づくために、2人以上のトレーナーにつくように言います。トレーナーは誰しも、多かれ少なかれ「自分が正しい、間違っている生徒を自分のように直す」と思っているのは確かです。そこで裸の王様のようにならないようにしましょう。

 

○日常からトレーナーに

 

 トレーナーのレッスンによって変わるのではなく、日常から自ら変わっていくように努めることが理想です。自分のことはわからないのはトレーナーも同じです。それゆえ私は彼らにアドバイスします。そして、それを私自身のアドバイスとするのです。

 心身のプロフェッショナルであることは、なんて難しいことなのでしょう。

 ・話をよく聞く。

 ・師事した人、有名人、学派、学会などを宣伝にしていない。

そういう人をトレーナーにお勧めします。

 よいトレーナーに35年で出会え、よいトレーニング法に510年でもっておけたら幸せと思うことです。しかし、それは求めたら誰でもいつか得られるのです。

 

○トレーナーとの出会い☆

 

 トレーナーは、レッスンの方針や説明を、どこまで自分のことばでできるのかというのが大切です。声には、生活、仕事、日常のことが全て関わるのです。評価はそうした体制とメニュ、ノウハウ、プログラム、そして何よりトレーナーに声そのものがあるかではないでしょうか。

 それを見抜けないでトレーナーについても、かまいません。そのレッスンだけでなく、その後、幅広く学んでそれに気づいたら、次のレベルへのアプローチをすればよいのです。

 トレーナーを選ぶのはあなた自身です。それは、決して運などではありません。人との出会いも、それ以上のものを求めていれば、必然的に必要な人と出会えるように人生はなっています。

 ただ、求めたときにすぐにみつからない、あるいは、気づかない。そこでギャップ、時間がかかるのは、まだ、学ぶ力、気づく力があなたに足らないからです。それで、どこでも学べないのです。あまりに学ぶ環境が整ってないならトレーナーも引き受けられないかもしれません。世の中もそうして成立しているのです。当初、会ったときに私も目的や理由を聞かなこともあります。すべてのことにタイミングで時期があります。

 セールスでもないのですから急いではなりません。人と人なのです。時間がいるのです。その人のなかで満ち足りていたら1回の出会いで決まるし、そうでなければ、また後日に、改めて決めればよいのです。

 

○掘り進める☆

 

 声が出るとしても、それでは、まだまだ充分に出してないのかもしれません。声のおかれている状態ほど雄弁なものはありません。発声の道は、計画的のようにみえてもその場しのぎというのもあります。ヴォイトレは、長くコツコツのなかでしか体得できないという価値なのだと思います。

 ここは、何よりも皆さんのレスポンスに支えられてきました。よし悪し、どちらのレスポンスも刺激になりました。より深くしていくのには、孤立は避けられず、まだまだ闇の中にいます。しかし、そんなことは関係ないところで、研究所で皆さんとつながっている、トレーナーを通じてレッスンで必要なことが成り立っている、それでよいと思います。炭鉱夫のような毎日でも、私は真理を求めて掘り進めていくだけです。

「次代のゆき手」 No.292

文明は、硬く四角く乾き、文化は丸く柔らかく潤っているような気がします。自然、生物は前者、 技術、生産物は後者なのでしょう。 つくったものは、角ばって硬く、乾燥しています。生きものは、丸く柔らかく水っぽいものです。男女であれば、女性が後者において勝るといえます。 日本は今や、女性が強く、男性性が中性化してきていて、それは、何を表しているのかと考えるのですね。 日本の歴史は、戦に明け暮れた時代と文化の育った時代が交互に来たわけです。木村尚三郎氏は、平成、大正、江戸は、女時で、昭和、明治、安土桃山、奈良は男時、それは交互にくると述べていました。

平成の次に男時が来るとなると物騒です。国際紛争、貧富格差、移民、大災害、力による変革期となるのでしょうか。

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