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「学びのヒント」 No.293

○人に学ばない☆☆☆

 

 ホリプロの堀威夫氏でしたか、「『プロの世界では、教える意志のある人から学ぶものはない』という教えがあると言われている」と聞いたことがあります。

 教える意志がある人から教えられることはプロ以前の問題についてであり、プロには、そうでない人から自ら盗み取ったものしか使えないということかと、私は思います。盗み取るというのは、自ら気づいて学びとり、自分のものにするということです。

 一方で、教えようとする人たちは、わかりやすく教えようとします。教わろうとする人もそれを求め、それで選ぶからです。すると、まねしやすい形として示すことになります。それは、早くわかるのですが、それではプロの世界では役に立たないということになります。

とはいえ、学んでみて使えないことを知るのは、よいことです。それで次のステップに行ける人もいるからです。しかし、このことを気づかなくて、いつまでも学んでいるつもりで空回りしている方が多いと思います。

 私は、人から学ぶのでなく、人を通じて学ぶことと思っています。その人にあるものでなく、その人を通じて学べるものがあるか、そういうきっかけを与えてくれる人に出会えるよう努めているかが大切だと思うのです。

 

○素の質と人気☆☆

 

 素の質、ということをよく考えます。

 先日、囲碁の武宮九段にお目にかかり、お話を伺いました。氏は13歳でプロとなられたので、「13歳の子をみて、わかるものですか」と尋ねると、「すぐわかる」ということでした。筋や勘のようなものでしょうか。

 私も多くの人を、若いところから、その2030年先をみてきました。齢を重ねるとは、そういうことです。

 そのうち、第一印象、プラス、レッスンでの感触で、ほぼわかるようになってきたものです。というのも、この世界でやっていけると思った人以外は、結果として残っていないからです。

 そういう人は、アカの他人がファンになるのですから、人を惹きつける何らかの要素が出ていなくてはなりません。ただ、それも時代とともに変わるものだと思うのです。

 例えば、テレビは、よくも悪くも視覚優位ですから、「素として光る」ものを選びます。そのために音声としては、素人の時代を築きました。人気を得るもののオーラの質が大きく変わったのです。素人には、よくも悪くも素の質が出ています。隠すすべを知らないからです。そう考えると、本当のスターの時代は、完璧なまでに日常を封印していた寅さんあたりで終わったのかもしれません。

 ときおり、どこかで急に化ける人もいますから、例外はあります。例外を出すのをよしとして、ここは存続しています。

 

○次世代へつなぐ☆☆

 

 よく、ご自分のトレーナーが、忙しくなってとか、海外へ行ってとか、引退してとかで、次のトレーナーを求めてここにいらっしゃる人がいます。

 歌手は、大体が一代限りです。芸能界に限らず、今の日本の社会は、二世、三世が全盛、そのなかで、珍しいことでもあります。

 しかし、トレーナーもまた一代であったのです。それでは今、ここに小中学生で来ている人の行く末はみられないかもしれない、となれば、次代のトレーナーに任せていくべきなのでしょう。

 自分でなくてもできることは、できる人に任せていくのが、何の分野でも大きな発展のためには大切です。

 自分のようにやるように、自分にしかできない、自分が一番できる、自分が教えたい、他人に任せたくない、これらは皆、慢心と我欲かもしれません。生活のために、そうもいかないケースもある、ほとんど今はそういう状況だとも思いますが、それでも、相手の立場から考えてみるべきことと思います。目の前の相手の今だけでなく、その将来や他のトレーナーのことも。

 

○自戒☆☆

 

 声の問題を突き詰めると、心身のことからスピリチュアルなことまで含まれます。相手の未来に対して取り組むのですから、将来の世の中への予見も必要です。その上でその人が声を背負ってきた半生、育ち、誕生、もしかすると、それ以前へまで関心を向けざるを得ません。

 常に、現実の生活の場、仕事の場、そしてレッスンと、3つの場の3次元と、過去から将来への時間を加えた4次元があります。本当は、さらに余剰次元があるらしいのですが。

 現実的には、あなたが体からの呼気を共鳴させ音声として放ちます。それと受ける相手との相互のありようとなります。そこに体をそのように動かす自らの意識、気、生命の流れがあります。

 一個体としての個人のしていることのようで、あなたとともに、声には人類、生命の人類の歴史がつづられているのです。

 それゆえ、それを他の人がコントロールすることの危険性、他人の呼吸や声を扱うことの難しさをいつも心においています。人対人であっても、それは、天地を介して行われるようにセッティング、導き、トレーナーは、自らを消すのに努めるべきに思うのです。

 

○選ぶという才能と感性☆☆

 

 多くのトレーナーにまみえてきたなかで、それぞれのよし悪し、長所短所、さまざまにあるなかで、大切なこととして、次の2つを学ぶことの必要を感じます。

 トレーナーは、声や歌を扱っているのですが、声も歌も一人をまねることのリスクについては、多くを述べてきました。「まねることが学ぶことだ」という言い尽された格言に従うとしたら、次のように訂正すべきでしょうか。

1. 一人でまねられるところまでまねてみる。

2. その限界を知り、レッスンを通し第三者のトレーナーに、まねから解放してもらう。

3. まねをとり、そこでの基本を成して、その上に、自らの個性をどう出すのかにシフトする。

 現実は、憧れの人やトレーナーをまねて、それで、「早く上達」という名のもとに、より早く限界をつくり、本来の可能性が制限されてしまうケースの方がほとんどなのです。

 一人での探求と養成の期間、そこでの時間と量が、基本の前のバックボーンです。次にできる限り、一流の方からまねる。語ったり歌うことだけでなく、聞くことの不足、感覚や運動の絶対量の不足が限界をつくっています。

 そこをみずに最初からレッスンに依存し、依存したがための教えたがりの人を選ぶのです。アマチュアには最適そうにみえることは、プロにはもっとも不向きです。そこをどう選ぶのかは、多分に感性というものだと思うのです。

 

○表現か機能か☆☆

 

 多くの歌を判断してきました。プロデューサーとしてではなく、トレーナーとして、です。プロデューサーとしての判断は、プロデューサーになり切ってみるのですが、そこでなり切れない分、プロのプロデューサーに劣るわけです。私からいうと、割り切れない分ということですが。

 仕事がら、今の時代と時代の先を読む、未来を読む、そこで視聴者を読むことになるのです。しかし、視覚が聴覚を凌駕したどころか、聴覚の価値がとことん落ちたことで、特に日本人は元々そういう傾向が強いのですが、判断が世界と異ならざるをえなくなったのです。

 ヴォイストレーナーの本分は声の判断ですが、声には正解がないのです。声をツールとして何らかの効果を上げる表現でみることに価値観があるのです。ただ、それが芸術的なのか、技術的なのかで、全く異なるのです。表現か機能か、ということです。

 それを私は音声でみます。徹底して発声だけにも、芸術、宗教、神がかり的なもの、普遍的な宇宙の原理をみます。

 歌なら歌の音声としてですから、発声は副次的になります。せりふも語りも、まずは、機能的なものを求められます。とはいえ、基礎がないと本当の応用もきかないのです。長期的に基礎を固めさせていく一方で、基礎は簡単に身につくものではないのです。そこで、ある程度、長所のなかで基礎の足らなさを見切って、音声の表現としての魅力を優先しているわけです。

 

○見本をまねない☆☆

 

 声や歌の判断を、ことばで述べるのは難しいのですが、ことばが使えないのはトレーナーとして失格と私は考えるので、伝える努力をしてきました。10年くらい経つと、それまであまり馴染みのなかったジャンルの歌にも、私自身の判断ができてきました。ことばを使えるようになってきたからです。

 そのことが、ことばによってわかるようになります。新しいことばが生まれて、アーティストのクリエイティビティにトレーナーとしてのクリエイティビティが追いつきます。いつしか追い越していったようです。

 「こう歌えばよい」と見本のようにみせるのは、アマチュア対象、カラオケ指導ですから、そこはプロの歌手、あるいは、歌唱としてプロレベルの歌手を連れてきて行えばよいのです。

 プロの歌手に対しては、何でも歌えてしまうので、それよりも、より聞かせるためのあらゆる可能性を一緒に探ることが優先されます。声のフレーズを一つのタッチとして、誰かがみせても、それが正解のようになる、あるいはそれをみているうちに、気づかないままに、そこに従属されてしまうなら、よくないのです。

 つまり、形としてできているようにみえても伝わらないのです。形から実を入れていくこともありますが、大体は小さく形を作ってしまうことで、実が入らなくなるのです。先に、ベースとして実を育てることです。

 ヴォイストレーナーとか歌のレッスンを好ましく思わない否定論者は、この点をついてくるわけです。いくつかのタッチを参考としてみるのはよいのですが、それなら一流の歌唱のフレーズを同曲異唱で、ベースとしていれる方が有効です。即効でなく、後で効いてくるからです。本当の差はそこで埋め込むしかないのです。

 

○チェックとトレーニング☆☆

 

 オリジナリティそのものにも、いくつかあることを述べました。表現にも、声にも、歌にも、せりふにも、それぞれにあります。

 あえて声だけをみるトレーナーの指導だけでは、心身の解放の域に留まり、そこを出られないことがあります。呼吸、体のトレーナーも同じです。しかし、そういうトレーナーは、まさに声のトレーナーでもあるわけです。そういうケースでは他の分野のプロと組めばよいのです。

 それと比べるなら、歌のトレーナーやステージのトレーナーは、声をあまりにみてこなかったといえます。声を選ぶことはしても、そこから育てる、創ることはしなかった。せりふの言い方、歌い方や声の使い方を優先して、心とか表現として指摘はしても、結果として、技巧しかチェックしていないのです。

 なかには、メンタル面だけで指導する人もいます。それでも声の見せ方は変わるからです。モティベーションを上げるタイプと、緊張緩和を優先するタイプがいます。心の状態を安定させて声を取り出すところは、ヒーラーに近いともいえるでしょう。ヒーリングは、トレーニングでなく、今の状態での状況改善です。本人の安心が自信になっても実力にはなりません。

 チェックとは、今の状態、状況への判断にすぎないのです。そこから最良の声を選ぶのは過去のプロセスへのアプローチになります。トレーニングとしてのレッスンは将来のプロセスを導くべきなのに、ほとんどそれがなされていないのです。トレーニングで、声そものが大きく変わることを念頭に置いていないからです。

 とことん考えると、もっとも大切なのは、オリジナリティをどこにみるかなのです。それを第一優先に絞り込み、それを出せる補強をしていくことで第一歩なのです。誰もが退屈しないものだけが、ものになる可能性があるのです。そこで声の力がものをいうのです。

 

○オリジナリティの学び方☆☆

 

 オリジナリティの見方は、相手あってのものであり、いくつかの組み合わせの結果であるので、要素での分類には、そぐわないものです。そこをあえて、無理に述べてみます。

a. 声そのもののよさ(白鳥英美子、カレン・カーペンターズ)

b. 声の動かし方のよさ、フレーズ

c. 歌の構成、展開での声の音楽性(日本なら木村充輝、横山剣、ほか)

d. 歌詞、ことば

e. 感情表現、意志、エネルギー、オーラ

 これまでに出してきた福島英選のヴォーカリスト一覧を参考にしてください。このなかで、ヴォイトレの目的となるのは、b.フレーズで、フレージング、オリジナルのフレーズといった類です。多くのレッスンや教材が、実践に役立たないのは、そこを完全に欠いているからです。私自身のものにも、未だ、一般、初心者対象では、そこを入れようがない、ことばでイメージを伝え、伏線を引いておくのが、やっとのことです。(「ヴォーカルの達人」の2巻での付属CDに、スキャットトレーニングなど、若干あり)

 海外のものには、ギターなどではナビ集のように、多彩な声のアドリブのようなフレーズ集があります。が、あまりに影響されるとヴォイスパーカッションのようになりかねません。楽器と異なり、声は音色が人によって大きく違うので難しいです。そのために音色やフレーズでなく発声だけでみたり、歌のメロディ、リズム、歌詞でみるからです。 同曲異唱を同じフレーズ異唱(異は異なる人のこと、一流のアーティスト,プレイヤー、楽器も可)でとことん聞くようにアドバイスするのは、そのためです。

 

○フレージング☆☆

 

 フレーズについては、リットー・ミュージック刊の「裏ワザ」にやや詳しく述べました。声の音色と動かし方を、絵画のデッサンでの、色と線で例えて説明してきました。

 歌は音色でのデッサン、線のデッサンです。これは、4小節を中心に構成され(8ビートで入りやすい)Aメロ、Bメロ、サビのなかで成立している多くの曲での展開に対して、歌い手がどのように切り込むかを中心にします。

 しかし、その解釈と創造によって一人ひとり違ってくるのです。まさに楽器と演奏は一人ひとり異なるからです。その持ち味も違います。

 本当は、同じ人でさえ最初のフレーズの入り方で、その後の展開、構成すべてが変じていくほどのものなのです。しかし、楽器プレイヤーの常識レベルが、日本の歌い手には通じないのは残念なことです。本場のジャズやブルース歌手に学んでみてください。

 

○歌か人か、カラオケか役者か

 

 その人に合う歌、合わない歌についても、オリジナルのフレーズから決まってきます。カラオケのチャンピオンは、どの歌も同じようにうまく歌えます。しかし、歌い分けられる人は、歌によって分けられてしまうだけの人です。それぞれの曲を創唱した歌手に似させてしまう人の方が、本人のオリジナリティはないとみてよいでしょう。

どんな歌も、元の歌い手と全く違うようであってこそ、似つかないものになってこそ、オリジナリティというものです。ただ、まねているだけなので、どの歌も同じように創唱した人の歌になってしまうのです。そこが、一流のプロとカラオケのチャンピオンとの最大の違いです。しかし、日本のプロ歌手は、カラオケのチャンピオンタイプが多くなりました。声がいい、うまい、器用、だから、そこまでなのです。

 一方、個性的な歌にする人には、役者、タレント型が多いのは、日本の特徴です。そこは、声そのものや本人の演技力がオリジナリティになっていて、音楽としてのフレーズは欠けていることが多いです。とはいえ、歌い手より声にオリジナリティがあったので、本格的なヴォイトレは彼らの方がやりやすいこともあります。今は、役者も個性的な声がなくなりつつあります。

 

○ヴォイトレの保守性☆☆☆

 

 歌ってしまえばオリジナルになってしまうようなのは、才能に近いものかもしれません。結局のところ、歌もまた、天賦のものとみるのであれば…。ただ、どの世界も本人のものになってしまうのは、それだけの量と質をこなしているから可能なのです。これは練習量だけではありません。特に、歌手や役者は日常もまた、声を使うため、修行のようなものだからです。時間、量として他の楽器のプレイヤーのように、具体的に何千時間とは出せないのです。

 比較的、よい質に転じやすい人がいるのは事実です。運動神経やIQなどと同じことです。それゆえ、歌手は、歴史上ヴォイストレーナーに育てられたプロは少なく、プロデューサーが発見し、プロとなっての調整や基礎固めに作曲家やトレーナーを使うものでした。伴奏で正確に歌うようにするだけというのもありました。トレーナーのノウハウでプロになったのでなく、プロとして続けられるためのノウハウとして使われています。

 ということもあって、一般的に、ヴォイトレは、攻めよりも守り、強化より調整、将来よりも今や過去のキープに寄ってしまっているのです。☆

 

○イメージプラン☆☆

 

 私は、レッスン前にシートで、歌の解釈とどう歌いたいかの意図、イメージ(これが創造のブラン)を提出させます。そして歌を合わせてみた後に、本人のイメージのプランと結果(現実の歌唱の評価)を聞きます。

 イメージに結果が追いつかないなら、続けていればいつかできてきます。イメージ、プランがだめなら、その練習はムダとはいいませんが、方向違いではあまりよいこととはいえません。9割以上の人はイメージが描けていないか、そこの描き方でのミスです。あとの1割についても可能性としてはありかなというレベルがほとんどです。その延長線上で、いつかできるものでないこともあります。

 多くは、その見極めまでに45年かかります。時間をかけるとプランは描けるようになります。つまり、歌の成立する基準と自らの持つ武器がわかってきます。そこを何とか結びつけようとすると、どこに線を引くべきかもわかってくるのです。しかし、そういうこと=解釈と創造を詰めていかない人は、プロであっても大半は、どうにでも歌えるようになるだけでよいから、歌のうまい人で終わってしまうのです。こうした経緯を辿った歌のうまい人、カラオケのうまい人、ものまねがうまい人がプロになったりトレーナーになったりするのが、最近の傾向です。詳しくは、私の日本の歌手についての「声の二極論」を参考にしてください。

 

○行き着く先☆☆

 

 歌やトレーナーを目指したところから、すでに時代から遅れているのですから、今さら言及はしません。なので、私はそことは分けています。しかし、そのレベルでは、トレーナーもやがてナレーター、声優と同じくPCに取って代わられるでしょう。

 日本では、ヴォーカロイドはシャレでなく、メインとして成長してきました。どの世界も、個としての芸が確立しないとなれば、人はお金を払ってまで手に入れたいみたい、聞きたいとならないでしょう。今の段階で、すでに日本人においては、ヴォーカロイドはヴォーカリストより独創的に登場してきたということです。日本人のどのくらいかが人間のもつ個性、音声での表現、特にパワーを嫌うのだと私はみています。☆

 ヴォーカロイドやカラオケは、皆が受け手として楽しむだけでなく創り手にまわる、これからの時代の象徴でしょう。誰もが他人のもっているものが欲しい、他の人と同じようになりたい、他人と違うのは嫌だ、の日本人の行き着いた先でもあります。

 

○これから、日本は

 

 今の日本の場合、出過ぎても打たれずに無視され、つまり、その存在は許されるくらいなので、誰もがやりたいようにやればよいと思うのです。出過ぎる人が出ていくと、それを超える人も増えていくでしょう。妬み、嫉み、狭量、平等意識の強い、相変わらず村社会の日本では、持ち上げては貶めるワンパターンです。欧米的特権意識はなくなってきたものの―それも悪い方に出ているようにも思うのです。

 来日した「アナ雪」のイディナ・メンデルは、武道館ではアカペラも披露したとのことです。(「フォー・グッド」)、ちなみに彼女は、かつて「ウィキッド」で渡辺健さんが逃したトニー賞を獲っています。

 少子化もあって、競争に晒されず育った人たちの幼さ、我のなさは、平和であれば、21世紀の末頃に実現するかもしれない地球規模の人類世界、つまり、国がなくなった社会を先取りしているとも思いますが、もう3世代ほど、これで乗り越えていけるのか、心配です。

 

○理論は方便の弊害☆☆

 

 声については、皆さんより、わかったようなふりをして間違ったことを言う先生の方が問題ではあるのです。特に、個人の可能性について、努力半ばで挫折した人ほど、「それは無理です。できません」と言います。自分のできなかったことだからです。その克服法を見つけて、他人をできるようにしていくのがトレーナーなのに、と思います。

 医者でも、その見立てを疑ったら、他に2軒目、3軒目と訪ねる今の人たちが、なぜ、ヴォイトレでは「先生がこう言った」ゆえに「対処できない」と信じるのか不思議です。前の先生を離れてもまでも、そこで学んだことばに取りつかれていることがよくあります。

 動きのように、形でないものを教えようとすると、いくつかの形で覚えていくしかないのです。それを形で教えると、忠実でまじめである人ほど固まってしまうのです。ことばは、固定された形です。動きは、こうして、ああしてのようで、そこでの一瞬です。

 声帯の動きを一コマずつずっとみても、連続してみるのとは全く違います。プロのゴルファーは連コマ写真でフォームチェックできますが、素人はいくら見ても修正できないのです。その形や動きをわかっても、それこそが理論であって、トレーナーや医師が説明するのに使うと便利、つまり、納得させやすく、わかったような気にさせるだけの方便なのです。

 例えば、「ここがこうなっているから、こうなる」という説明は、同時に、他のいくつものところの動きやバランスを無視しているから簡単に言えるのです。まして、「こうすればこうなった」といって、因果関係を取り出しても、大半は、「そのため」に悪いことも生じたり見えなくなっているのです。

 その動きは、息でコントロールした結果なのですから、そのイメージを、入れてもだめなのです。その動きをすばらしくできるには、人のイメージを、そのままでなく自分に合うように移し替えて入れるしかないのです。それは、みえないし、教えられても、イメージことばです。自分でアプローチするしかないのです。

 できたかどうかは、わかったかどうかとは関係ありません。そのままでなく、自分にわからせることを応用実践としてみるのです。

 

○ビブラートのかけ方

 

 研究所には、ビブラートのかけ方を教えるトレーナーはいません。私が禁じているのではなく、今までのところ、そうだったのです。今後のことはわかりませんが。それだけをもってよし悪しを決めるつもりはありません。形を教えてわかるようにさせて、違っているという例の一つとして説明しやすいので、取り上げます。

 声はまっすぐであれば、ビブラートは結果としてかかっているのです。もちろん、説明する気になれば、ビブラートをかけてみせることができます。ポップスを歌うクラシック歌手や演歌歌手のなかには、それをもってプロの技術とみせているかのように思える人もいますが、表現上の無駄、バリ(burr)のようなものです。ゆれ声とビブラートの違いを知るべしです。

 ところが、揺らした声の乱れを感情の高揚と思ってテンションを上げる客も日本には多いのです。真の技術は、隠れて支えるものです。しかし、そういうのを聞くことのない人は、あえてつけたビブラート、ゆれ声を、退屈な歌にメリハリをつけて派手に盛り上げる技術だと思ったりするのです。それで歌を成立させるのは、興業上よくても、歌手のためにも歌のためにもよくないことです。そういう客に歌手が応じると劣化が始まるのです。ナツメロで、体力の落ちたベテラン歌手が、ステージを凌ぐのに使う禁じ手としてのテクニックなのです。

 まっすぐに一点に止まっているように、完全にコントロールされた声のフレーズでなくては、人は充分に感情移入できません。

 美空ひばりの歌で、私は、声も含め、すべてが静かに止まっていることを知りました。彼女に限らず、一流の歌には安定、安心、やさしさがあります。彼女の歌には、悲しい美しさがあります。(私も詩で表しました。EIのポエム参照。)

 

○ビブラートの習得

 

 まっすぐな線でも、本当に止まっているのでもない。動いている。しぜんにおおらかに伸びている線、フレーズについて学んでみましょう。ビブラートが安定していると、まったくブレていないようにみえます。

 呼吸の力が衰えてくるとフレーズはブレてきます。コントロールできなくなるのです。ベテランには、それを、ことばや間や表情などで見せてカバーする人もいます。

 秘訣は、くり返し徹底し、ひたすらやり抜くだけです。同じことがくり返せるのは、実力がないと無理です。わからない人は、15秒のロングトーンを元に、呼吸のトレーニングを重ねていってください。

 3回、同じフレーズをくり返し、全く同じくできたかどうかで、歌い手の基礎力はわかると述べてきました。1番でも2番のAメロでも、サビのリピートで比べてもかまいません。

 日本の場合、同じ歌でも、123番と、歌詞でフレーズが違ってしまうことも多いのですが、それも、わざとしたのか、その結果プラスかマイナスか、コントロールできずにそうなったかくらいは、重ねてチェックしてわかっていって欲しいものです。

 

○力をつける 気をつける

 

 声をしっかり捉えるのと、力で捉えて、動かすのとは違います。体は動いてもよい場合もありますが、心は静まっていなければなりません。

 「声を声として捉える」のに、数年はかかるでしょう。声は、出そうとしたら出てしまうのです。それを根っこで捉えて、動かすようにするのです。それには、イメージ、声の頭のキャッチ、持続、伸ばすキープ、声を離す、響かす、消し込むことなどを感覚しなくてはなりません。見えない声を実体化し、実感していくのです。しかも、口先でなく根っこで、そこが基礎です。呼吸と一体化したメリハリをつけて動かせるかが問われます。

 私が見るに、最初から、皆、応用しすぎます。余計なことを考えすぎます。それも大切な無駄なのですが。次に「声を声としてでなく捉える」のに、また数年かかるのです。

 ですから、発声とかヴォイトレなどのレッスンはせずに、本番だけをすべきと言う人もいます。レッスンに慣れてしまうことで甘くなる人もいるからです。しかし、レッスンこそ、声どころか本番にも囚われない力をつけるために行うものなのです。というあたりは、トレーナーやレッスンにもよるのですが…。力をつける、これも力を入れるとみえなくなるので、間違えないでください。気をつける、気づく、そういうことです。

 

○力を抜く

 

 力を抜くには、どのように力を抜くのかを学ぶことです。無駄な力、無駄な動きが上達を防げるからです。腹式呼吸といってもお腹に力を入れるわけではありません。集中することで力を抜く、無意識になることで脱力されるわけです。欲を鎮め、無駄な力を収めるのです。

 力を抜くには力の入らないところ、下に重心をもっていくことです。意識して、それに囚われないようになるのに慣れていきます。その練習には、体で覚える時間が必要なのです。

 フレーズデッサンも同じです。静まっていなくてはイメージも出ないし、そのイメージを声になどできないのです。

 イメージのないのは、二流の役者の歌です。感情移入して伝えようといくら情熱的に演じた歌であっても演技になってしまいます。自分の歌=音楽としての歌とはなりえません。

 

○わかる、できる、やれる

 

 頭がよくて、すぐに「わかった」と言う人が多くなったように思います。私も、若いときは、内心わかったと思って、後日、わかっていないことがわかったことの方が多かったです。わかっていてもわかっていなくても、できることが問われるのですから、わかることに専念することはありません。

 その点、音声学も発声の原理もわからないというプロ歌手が、全世界でもほとんどなのですから、それは、大して必要ないと思ってよいのです。

わかっていてできないより、わからなくてできる方がよいと思うのです。なかには、そういうプロがわかったらもっとよい歌になると言う人もいますが、そうでもないように思います。喉の病気になって、そういうことも必要なら、わかるようにしたらよいのです。つまりは、実践より理論のアプローチからわかろうと入る人は、あまり向いていないということになります。

 できないということはわかっていないということともいえますが、大してできないのに活動がやれていたらもっとよい。それは、可能性があるということです。

 声がよく歌がうまいのに、認められない人、できているのにやれていない人の方が、問題は大きいのです。声が悪く歌が下手な初心者よりも、プロになるということでいうと、難しいといえるのです。

 ステージができて歌が下手なら歌の勉強を、歌ができて声がダメなら声の勉強を、それが、まっとうな順かもしれません。

 

○考えない

 

 「悪い頭は使うな」と言うのは、使ってもうまくいかなかったら使うな、ということで、最初から使うな、ではありません。使えないのを知るために、大いに使ってもらいたいのです。

 心身も頭も、自分に限界を感じて、他人のレッスンを受けた方が素直になれるからです。考えないことが考えるよりも大切なことがたくさんあることを知ってください。

 悪い方へ考えたり、悪い知らせばかり集めたりするのは、自分を悪くすることです。なのに、人生をそうして、自らの努力を棒に振っている人、自分の可能性を潰すことに尽力している人をよくみるのです。がんばるのにも、その方向性が決定的に大切です。

 よいものを得るとき、次元を一つ高めるときは、何も考えてはいないのです。考えると、いつもの自分で考えるからです。やるだけのことをやりつつ、ワープを待つことです。特に結果をつきつけられにくいアート、そのなかでも、もっともわかりにくい歌や声ではなおさらです。

 

○革新をする

 

 余裕があり、煮詰まらないのは、低いレベルでやるからです。高いレベル設定ができていないからです。それでは、少し上達したあとに伸びることもありません。

 「周りから『うまい』と言われて、これ以上どうすればよいのか、どこが悪いのかわかりません」という人も研究所にはきます。全国には自信のある人はたくさんいると思いますが、自らを省みられる人が来るのです。こんなのも案外と多い質問です。

 それに対して、直ちに教えてはよくないのです。すると、その教えを受け止めるかどうかという押し付けた答えになります。

 大半の人は、自分の好むような答えをくれるトレーナーを選ぶことになります。その答えはすでにこれまでに思ってきたものと変わらないのです。それをもって多少修正されても、そう伸びません。

 次元をアップするとは、これまでの全てを捨てる覚悟が必要です。出だしの一フレーズでさえ、すべて否定されるくらいの革新を迫られないと、人は、特にやってきた人ほど、変わらないのです。

 選ぶ必要はない、チャレンジすればよいのです。そこで無理なら戻ればよいのです。仮に、すべて捨てても本当に必要なものは残ります。捨てるために、一つ上に挑めばよいのです。

 ということで、どう転んでも、安心できるプロセスを結果として与えるのが研究所のレッスンでありたいと思っています。今の力を維持しつつ革新する、そのために、いろんな考えややり方があるのです。見通しやケース事例を、本人にそって丁寧に話すところからスタートしています。

 

○結果として

 

 押すと反発する、その力を吸収すると相手は自ら倒れ、気づいたら勝負に勝っている。結果としてうまくいっているわけです。合気道の藤平師範に教わりました。

 人間関係も、アートも通じるものがあります。

 もっとよいのは、そこに関わらないことです。自立、唯我独尊であることです。

 「―でなくてはよくない」ということとはないのです。

 ですから、研究所では、何でも自由なレッスンとなっています。私もトレーナーに相談は受けますが、こちらから押し付けた指導はしません。「どうあってもよい」のなかで創り上げられていくのです。

 判断の力として、本当の基準を満たさなくては世の中には通じなくなってしまいます。周りには動じなくてよいのですが、それなりに応じられる力はついていくべきです。自ら、天道の元に、真理体得していくことは避けられないのです。

 

○できる

 

 できた、と言っても、確実にできなければ使えません。ときたま、できたときだけ人前でやってみせるわけにいかないのが、肉体芸術やアスリートの厳しさだと思います。

 どんな状況でもできるのをもって、応用と述べてきました。オリンピックなら、アスリートは4年に1回の数分の本番のために練習を繰り返すともいえます。僅かな時間のために、多くの時間でシミュレートして、確実にできるようにしておくのが、トレーニングです。

 確実さのためにお蔵入りになった声や歌もたくさんあります。確実な再現性を、どのレベルで選ぶかが、レッスンでもっとも難しい判断として迫られます。リスクをとって大技に賭けるかどうかです。そういう挑戦心を怠ったらアートは衰退するのです。フィギアスケートでは、選手が大技で転んでも致命的な点にならないようになりました。美しさよりも挑戦する勇気を評価するようにしたからです。

 歌はどうでしょうか。喉を壊すのが怖い。トレーナーなら、なおさらです。いらした人の喉に責任があるわけです。そのため、安全が最初から第一になってきました。それは、本来、第一優先でなく、ギリギリの回避をしてでも表現力を高めることに準じるべきことなのです。お客さんのやさしさが裏目に出る、というよりも、音声かトータルの演出か、どちらの表現をとるかですね。この国は、迷わずに声の変化より音響や演出での表現を優先してきたのです。その結果なのです。

 

○見立て

 

 成果を直感でみる、それを10年先か今日みるのかでは全く違います。ここまで近視眼的になってしまったのは、時代とはいえ、教育や環境のせいで、今の大人の責任も大きいでしょう。

 きついから高まるわけではありません。でもきつくないのに高まることもありません。楽しいことも、要は質の問題、あとは、価値ということになります。

 常に一つ上をめざして生きているかという価値観、哲学のようなものが、その人の世界観として作品に出るでしょう。

 声や歌は世界を創るツールなのです。でも、ツールにすぎないのです。ですから自分の意志が大切です。それも、どう見立てるかで問われるでしょう。

 ここは、それぞれのコーチのようにトレーナーがいて、私は監督として、その役割と配分をどうするのかを伝えます。日々、見立てについて、考えるのです。

 

○素直

 

 教えられるまま、言われるままにするのと、素直とは違います。教えを活かすには、従順なだけでは足りません。活かせない人には、教えるよりも自ら気づくようにさせることからです。

 よく、声は気分や響かせ方を少し変えたらずっとよくなるということを言います。ワークショップなら、それでよいのですがレッスンでは、あえて、気づくことを待つことも必要です。

 声は、案外と大変なことだということを伝えています。それとともに、それを成し遂げるプロセスへのアプローチ、努力の仕方、できたら、深さをおもしろさを伝えられたらよいと思うのです。

 特に、日常での踏ん張りどころ、あるところまで行くのが大変なのですが、そこまで行かないのに、いろいろと知っていることをたくさん教えては、却って、ものになりません。一流の声作品を紹介して聞かせてあげる方がずっとよいでしょう。

 考えるな、感じろ、ということです。「どのくらいで身につくのか」は、身につくまでやることであって、愚問です。

 小さな障害を引きずらないように切り替えさせる、そのまま長くやると悪いところが出てくる、それで本人もわかる、力任せでもたなくなる状況で、力を抜くことが身につくということです。

 

○シンプルに

 

 頭でっかちでわかることよりも、量からしか学べない質、そして深い存在に気づくことでしょうか。慣れとコツ、力の使い方や抜き方、それらは一時、欲張ると、その複雑さにきっと混乱するでしょう。そうしつつも、自分のすべきこととしてはシンプルになってくるものです。

 いいのが出たのを指摘する。出ないうちは続ける。

 自分のこと、まして先のことはわからないものですから、それでよい。

 息や声なら「ハイ」、歌なら1フレーズでも練習できます。

 息は出せば入る。

 息でストレスも吐き出せる。

 息でスランプも脱出できる。

 息吐きは、メインメニュです。

 時間をかけて訓練をする。

 基本はくり返しの努力、ひたすら、こつこつ。

 身につけることは、カンニングでは無理。

 やる気、根気、勇気、そして覚悟。

 

○メニュ

 

 普遍 誰にでも当てはまること。

 再現 同じことが何度もできること、いつでもできること。

 それに対して、メニュのなかには、誰かが、大体は、それをつくった人だけが、あるいは、他の人が数回だけできた、というものが少なくありません。それはやる必要はありません。仮に難しくても、それが難しいのでなくあなたが中心のものではないからです。

 誰もが今すぐいつでもできるもの、できるようになるものは、できない人にはよくとも、できたところで終わってしまいかねない。

 いつも、次につながるものが大切です。その先には、自分だけができるものになっていくもの、これをどう手に入れるか、いえ、創り出すかです。

 

○習慣

 

普遍化させる必要はない。再現をしていければよいのです。自己増殖です。人間から個としての自然になっていくわけです。

自然や作業で学ぶこと

効率を考えないこと

遠回りをすること

あらゆる試みをすること

極めること 大成を目指すこと

深みを得るために単純作業をくり返しすること

発声、声出し、息吐き、歌い込み

科学、対象化してものをみたり、分析したりするのでなく、

みえないものを感じる、観る、同一化する

あえて競うのもよいことです。人と比べて慢心になり卑屈になるよりも。

36524時間の生活、習慣

 

○プロとの基準☆☆

 

 オリジナリナルのフレーズをみるには、せりふや歌に応用してみて判断します。

 歌い手のなかには、本人の世界観をそのままぶつけてくる人もいます。それはそれでよいのですが、私はプロセスとして、オリジナルのフレーズの組み合わせの結果としての歌としてみています。

 いえ、現実には、そのようにみるしかないのです。日本の歌手で一曲は大きすぎるのです。つまり、手におえない、それなら、たった一つでもよいフレーズがあれば、その前後は、その組み立てでフォローして、そのフレーズを活かせていればよしとするのです。かつてのオペラ歌手の声の饗宴のように、です。

 そのときは、動きと音色、つまり、線とタッチをみます。そして、そのルールをみます。誰かのルールでなく、本人が創り上げたルールを本人が最後まで貫徹させているのかを判断します。それについて、いろんなアドバイスを行います。

 スピード、運動量、つながり、声の大小、強弱、クレッシェンド、デクレッシェンドなどに至るまで、一つの作品としての絵画が描けているのかをそこで追求します。それが伝わるのか、何が欠けたり逸れているのか。

 ですから、どこがダメでなく、ここがこういくなら、そこはこうなる方がよい、なるべきだというアドバイスになるのです。一つのことばに一つのコメント、いや、一つの音に一つのコメントが付くほど細かく、具体的に判断して、しかも、ことばにします。プロに対しては、ただ好み、価値観の違いでは、レッスンは成立しません。

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