「プロへの道~身体を通して」☆ No.295
○プロの調整
トレーナーは、できないことは、あまり強いてやらせてはなりません。試しに、というのならかまいません。できないからやれないのですから。このできるできないを、どういうことで判断しているかが問われるのです。
メニュや方法などはどうでもよいのです。この基準がぶれていると、私は、そのトレーナーと一緒に仕事をすることはできません。ただし、リスクについては大幅にみています。それは、プロや一流の人も来れば、そうなりたい人も来るという、ここの特殊な事情ゆえです。初心者や一般の人への対応だけでは、そういうレッスンを受けた人のなかには、続かない人もいるのです。他では間に合わないからここに来るのですから、そこは、自ずと異なります。
むしろ、プロの微妙な調整は、声を壊した人や、声の弱者の人との調整と似ていると感じることがあります。しかし、調整よりも、はるかに難しいのが根本的な改善、いや、革新です。
○プロとのギャップ☆
次に、プロになりたい人の問題、それは、プロとのギャップの明確化と克服手段です。声優でも何万人も学校へ行っていますから、そこで習ったことができても多くの人はプロになれません。国家資格を得るための学校のように、90パーセント以上の合格率とは反対です。
となると、どこかで化ける、ワープしなくてはいけません。ビリからトップになる、最初は、「なりたい」「いつかなれないか」が、「なれるかもしれない」になって、「なれる」「なれないとおかしい」と、妄想でなく実感できる、そういう力がつくには、周りと現状の把握が、それぞれのレベルで必要です。
多くの人は、なりたい―絶対無理だ、なりたい―なれたらいいな、絶対無理だ、そのままでは、学ぶ意味がありません。学校へ行っても、なりたい―絶対無理だとなる方の人が、多いというなら、当然、その例外を目指すしかないのです。
私のいうプロは、生涯、その仕事を続け、飯が食えるレベルです。年に数回、誰でもできる仕事が回るくらいの力では、今後、AIロボットに替わられてしまいます。
未来に対しての可能性は、誰にでも開かれていますから、時間を能力に変えるために学びに行くのです。このままでは無理、であっても、このままでなければ可能です。絶対可能にどうやってなっていくのか、そこが大切なのです。
それをトレーナーが教えないのは、ライバルを増やしたくない、からではありません。彼らも、優秀なパートナーには期待しています。どう、教えたら育つのかということ、どうしたらよいのかということ、そこに方法やノウハウが確立していないのです。となれば、ワープする力のつけ方をどこかで伝えなくてはなりません。それも自分たちの生きてきた時代、世界にでなく、未来へ向けて生きる力を、です。
○系☆
心技体、それぞれの問題では、バラバラにたいしょするのでなく、そのコンビネーションが問われるのです。日本語でいうなら、結びつき、つまり、系です。
今の自分の能力をいつも100パーセント使えてうまくいっているというなら、すごいプロです。そうではなく、一つひとつの力がそれぞれにあるというのでしたら、この結びつき、系の問題です。
センサーとして感じやすく敏感になり、一方で、そこで振り回されないようにします。不要なものはカットして、入ってしまったら排出します。有用なものを吸収して、自らの滋養としましょう。生きているのと同じところに、能力の開発もおくことでしょうか。
○レッスンとリラックス☆
発声を妨げるのは緊張なので、それに対して、緊張させないようにトレーナーや周りが気を使っているものです。それは、その日だけのワークショップでのノウハウとしては、大いに使えます。つまり、「あのワークショップはよかった、役立だった」という評判のためのカリキュラム、プログラムです。プロとしてのステージ演出であり、その裏も見抜けないなら、プロになろうとしている人なら困ったものです。
緊張しないレッスンなどレッスンではない。緊張しても、力を出せるようにならなければどうしようもない。なのに、リラックス、リラックスとなりました。
逆に、威厳をもってレッスンで強要して緊張させていた昔の先生のは、結果として、修行のようなことになっていました。
今や、子弟関係も友達感覚、トレーナーとはお客さん感覚、ステージもそうなってきています。そういうことのメリットの一部は私も認めていますが、それでは続きません。
リラックスしたレッスンばかりで本番に行くと、一気に飲まれてしまう。トレーナーとのレッスンの鈍さが伝わるのは、もっともよくないのです。
緊張をしないように、とか、緊張したくないとかでなく、緊張してもしなくても、きちんとすべきことをこなせる。大舞台ほど、緊張するほど、よい結果を出せる、そういう結びつきをつけるために受けにいくのが、レッスンです。
○新しいレッスン☆
新しい発見、気づきは、新しいところに行くと起こりやすい。新しいから気づきやすい。新しいトレーナーや新しい受講者から学ぶことも大きな刺激です。
しかし、同じトレーナーと同じメニュのレッスンで、それが起き続けないと、本当の上達はしません。☆
緊張しないのは、マンネリであることも少なくない。私も、ときに、トレーナーにメニュの組換えを促したり、トレーナーの変更、追加をアドバイスします。最終的には、本人の判断を尊重しますが。
リラックスしたレッスンにしたければ、トレーニングでとことん本人がやっていくことです。そのときに、自ずとそうなります。レッスン以外で、ステージや自主トレで厳しくできるならもっとよいのです。
○読むこと
先や周りを読むこと、危機管理ができることがプロの必要条件です。なのに、先を読むこと、周りを読むことを必要としない、危機感、切迫感のないところにいたらどうでしょうか。トレーナ―が前もってあらゆる状況を整えて、リスクもゼロにしたらどうでしょうか。
その人は、どこか他のところで他の全てを学ばないとなりません。そういう人には、自らで本番、ステージをもつように、ということをアドバイスします。
自分でゼロから組み立ててみると、大いに学べます。その一部は、ここでもステージ実習の形で行っています。
しかし、スクールのライブのように、周りが全く整えてしまうと、多くの人には多くのことがみえません。形だけ知っても、その舞台裏をみようとしなくなるからです。
厳しいステージと楽しいレッスンがあるのと、厳しいレッスンがあって楽しいステージがあるのとどちらがよいでしょうか。一流の人は楽しいステージと楽しいレッスンをしていますが…。アマチュアにもそういう人はたくさんいます。要は、内容です。
○気づきのレベル☆
身につくのは、本人が気づいて、取り入れたものだけです。教えられたり押し付けられたものなどは、褒められたところで、少々高い段階では全く使えません。自分が選び、組み合わせたり改良して、自分で高めて自分で使えるものだけが残っていきます。そこを自分だけでやるなら、同じことの同じレベルのくり返しになりかねないので、人を使う、その一つがトレーナーとのレッスンにすぎません。
でも、レッスン十年間のたった1つのアドバイス、たった1分が全てを変える。これは、たった1曲が人生を変えるのと同じです。☆
それまでそのレッスンで気づいて力となった、あるいは、気づいても力になったとか思わないでも、そこさえ得たらよい、と思うのです。
よく、初回のレッスンで、そのたった1つに気づいたという人がいます。でも、多くの場合、それは、頭で間違って覚えてきたり、ことばで間違って覚えてきたことを正されたり、確認できただけのことが多いのです。すごくシンプルに余計なことをとると、光のようにみえることはあっても、それだけで身についた人はいません。
○自立★
反面教師もよいのです。教師なのですから、逆の形で伝えてもよい。そういうのも含めて背で語る教師でよい、何も教えなくとも、そこで人が変わっていくなら、よい。
教わることですぐにできる、簡単なものなどと思わせてしまうより、よほどよいことだと思うのです。
メニュや方法や技術などと同じく、トレーナーも存在しない、いないのがよいのです。
私はここのトレーナーにも存在しないように心掛けています。頼られたり、どこかしら依存されると、生徒を向かずに私の方向に向いてしまう。それでは、お客より上司を気にする店員のようなものです。そんなトレーナーならいらないし、私一人でやる方がよい。トレーナーが自立していないのに、生徒が自立できるわけがないでしょう。
私の言う通りに動くようなロボットのようなトレーナーは要らないし、レッスンの受講生にそれが伝わるようでは意味がない。
自立しないと気づけないというレベルがあります。このところ、自己責任ということばは、かなり歪んで使われているので誤解されやすいのですが、自分でやることは、自分で決めて、その結果も自分でフィードバックする、そのために他人の知恵や経験が貴重だと、あたりまえのことですが…。
○不備☆
どんな人も使える、そして、優れた人になるということです。私のところで私の提供しているものに不備がある、なら、自分で創ればよいのです。私も創ってきた。その不備を感じさせて、あなたにも創らせようとしているかもしれないではないですか。
でも、不備も気づくということは、満足して何も気づかないよりもよい。気づいたら自ら変える努力をしたかということです。
不備を感じても変わろうとしない人は、結局、外に出ても同じです。どこに行っても不備、そして不満。誰かに、どこかに文句を言っているだけで、生涯を終えていきます。自ら創らず、与えられるだけで満足できるところ、ユートピアなどどこにもありません。
ここには、トレーナーも生徒さんも長くいてくださいます。いろんな不備はあるのでしょうが、それ以上に自らが生み出している、自らユートピアにしている。そういう人は外に出てもどこに行ってもうまくやっていける。ここでさえやれるのですから。
○思っていたことは叶うのか☆
思っていることが本当に思い込めたら、大体は叶います。では、叶ったらどうするか、あるいは、どうなるのでしょうか。その前に、思ったことが叶うというのはよいことなのか、思ったことを叶えるのが人生なのかという問いもあります。
人生半ばを生きて思うのは、自分が自分を限定しているということ。特に、自分が考えたり、思い込んだり、無意識に入れてきたことが、です。
自分の願い、そのものが我欲の域を出ないというところでは、叶ったところで、大したことでない。一時は嬉しくても、嬉しいだけ、心はそれに振り回されていることが多いのです。
願っているつもりで、本気で願っていないから叶わない。本気で願うのは難しいものです。自分で努力しないと大それた願いと思えて、どこかにスキができます。相応の努力をしていないと、願えるものがないのです。
本気で覚悟を決めると、必ず思い通りになりますが、思いがけない展開にもなる。だから、覚悟というのも難しいものです。
どう対処するか、そこまで事前に考えられないから、たくさん試みてシミュレーションしておきなさいと言うのです。それが、レッスンや自主トレです。
自分の思いや願いと全く違うステージ、次元に乗せられる。それは、嬉しくも楽しくもないけど、もっと大切なことのように思うのです。
○囚われる☆
マニュアルやメニュを学ぶというのは、その時点で志が低いわけです。それなら聖書とか歴史とか、偉大な書といわれるものを学んだ方がよいのです。
まして、それが役立つのか役立たないか、正しいか間違いか、よいとか悪いとか邪念が入るのはよくない。そのよし悪しを判断しようとかいうのは、自分に囚われているのですから、すでに学べない。
何に対しても、どう思うのもよい、頭の中は自由です。でも、何か言うことや行動することは自由ではありません。とはいえ、行動が伴わないと、そうしているうちに上から目線で傍観者になってしまう。他人の人生の観察者になってしまう。自分の人生は、そこにありません。
一方的に、学ぼう、信じようとするのも、その人の影響下に入り、すでにその人に取りこまれているようなものです。私を学ぶのでなく、私のものを学ぶのでなく、私から学び方を学んでくれたらよいのですが。
○わかりたい
「わかったら終わりでしょう」と言っても、わかったつもりでいる人が多いのですが…。長続きするには、わからないことに気づいていかなくてはなりません。人も、ものも、芸も奥深いものです。わかりたいからわかろうとして、わからずに究めていく。
わからないことは、人を惹きつけます。調べればすぐわかることなど、簡単に調べられる時代となっては、なおさらつまらないことです。しかも、調べたところで、本当の答えではないことも多いのです。必ず、その先、その奥があります。
こうして述べ続けているのは、私のわかったことで述べているつもりですが、その中にまた、わからないことが出てくる。いや、そうなるように述べているのかもしれません。私の述べたことをわかりたいとか、わかろうとしても、わからなくなる。そこが狙いです。そして、次の問いへ行ける。私も同じです。
○なぜ、できたかをみる☆☆
ときおり、なぜできないのかより、なぜできたのかを考えます。できないことは、私を超えているのですから、考えてもわからない。できた人に聞いても、私にはできない、わかったらできるのではないし、できていないならわかっていない。
しかし、できたことはできているのに、案外とわかっているわけでない。できた理由を説明しても、嘘くさいと思う。
こうして人に教えようとする。すると、正直になるほどに、ことばに苦労する。ようやくことばにします。でもどこか胡散臭く、自分をも騙しているように感じる。それを伝えても、相手が、やはりできないなら、なおさらです。
できたらレッスンにこない。できないからくるのです。でも、いずれできるようになる。そこで、なぜできたかをみると、私が自分のできていないことへアプローチする手掛かりともなります。
ウサイン・ボルトをみて、彼のように走ろうとするより、幼児に歩き方を学んで、オリンピックの100メートルで優勝する。そんな極端なことを詰めていくような作業の方が、案外と有意義のように思うのです。☆
○身につく
声を身につけていって100パーセントというのは何を示すのでしょうか。100点満点というのは、それで何ができることなのでしょうか。
声については、すべて身についてもいるともいえるし、全く身についてもいないともいえる。そこをどうみるかは、その人の必要性となります。
身についているのかは、ある見本をみて比べることで、その基準を応用してチェックすることが多いです。
声からいうと、ことば、せりふ、歌も、けっこうな応用です。もし応用でなく、声と同じレベルに、それらが捉えられ、使いこなせていたら、音声表現のプロとして一流でしょう。
最初は、距離があるから応用と言います。関係ないくらいに遠いから大変です。でも応用できたら世界は広がり、基本は固まります。応用できていたら、大体はうまくいくようになるのです。
○気づくレッスン
すぐにわかることなど、一回見たら人にも飽きられてしまうのです。わかりたいからと「科学的に」「理論的に」などということに頼るのは、あまり賢いことではありません。わかりたいから一つの手段として使うのは、悪いとはいいません。どの程度なものかを知るのはよいでしょう。それで声がわかるのでなく、それで声がわからないことを知るために、です。
レッスンやトレーナーも、自分のわからない、知らないこと、気づかないことに出会うためにあります。
少なくとも私のレッスンはそうですし、そうでした。レッスンを受けても、教えても、先生―生徒の授受などではありません。気づくことです。気づくと相手も気づくようになります。そういうことが大切です。上も下もない、勝負でもない、のが学ぶということです。気づき合い、力のつけ合いをするのです。よいレッスンでは、私も、とてもたくさん、あるいは深いことに気づくのです。
昔、50人ほどの合宿の総合コメントで言ったことがあります。「準備も併せて、いつも私が一番、勉強になっているのではないか、それでよいのか」と。
○ソフトの能力☆
人を教えようとすると、今の時代、「科学的に」「理論的に」となりがちです。ここも、声紋分析や声のソフトをたくさん導入しています。それは、本と同じく、世の中でのアプローチの最新の状況と限界を、来訪者やトレーナーのために知っておくためです。私がアーティストとしてなら必要ないものです。
それは今のところ、まだ必要ないし、使えないことを踏まえておくために投資をし続けているともいえます。学者や医者と話すときに、このことで、理解が早まる人もいて、助かってもいるのです。
専門家といっても、そんなものです。科学、実証主義に毒されていると思えなくもないのですが、そういう方々には、感性や直観だけでは納得してもらいにくいのです。その人はわかってくれても、その人の組織に持ち帰って伝えられないということもあるからです。
「何十人もの人の声が聞き分けられるソフトがあれば、学校の先生は楽ですね」と学校の先生に言われて「冗談ですか?」と思ったことがあります。教室の子供の声を聞き分けるくらい、先生なら充分にできます。顔と名前は早く一致させて覚える努力もしていらっしゃるはずなのに。人の能力で、声を感じとる力はもっと信じてよいはずですよ。
○実証より反例を
疑問をもち、理論や説が自分や他の人に、必ずしも当てはまらないことで、さらなる仮説をつくり上げていく、そのくり返しで、声を丁寧に扱う力が上がっていきます。
ある方法ややり方が通用する、そんなことの実例を出したり、それを体験談などや科学などで裏付けするような稚拙なことをやる暇があれば、それに当てはまらない人や例を見つけることこそが大切なことでしょう。妥当性を、自ら壊していく、自説を自ら反論して、次の段階へ進まなくてはなりません。
○亡霊☆☆
声については、昔、私の述べたことを、当時は肯定していたのでしょうか?今さら探し出して、そこで云々言う人もいます。こちらは、そこから何十回、何百回と段階をアップしているのに、その人はずっと人の考えは変わらないものと信じて、いるのでしょう。つまり、自ら、変わることのなかった人なのか、勉強していないのか、こちらを神様のように思ってくれているのか、ずっと2、30年前の世界にいるのです。どんな理論も仮説であり、説明の仕方も時代や相手によって変わっていくものでしょう。
○仕事は応用力
気づいて実現できていく環境に身をおくことは大切です。空気が汚いと呼吸は深まりません。清ければ、しぜんと深くなります。そういうことで、環境は、大きなアドバンテージにもハンディキャップにもなります。
わからなくてもできる、できなくてもうまくいく、こういう応用力を身につけないと社会では通じません。売れている人をみて、うまくないとか、できていないのに、とやっかみを言ってもそれは違うのです。仕事が回っていることがプロなのです。
芸がないのにTVに出ている、ではなくて、TVに出ているから芸があるのです。その人が何がわかっていてできていて、などは後付けの説明で不要です。
しかし、芸があってもTVに出ない人や出られない人がいる、そこを忘れなければよいのです。TVに出ているから偉いとはなりません。出たくても出られない人よりは、ましかもしれませんが。応用力が基本の上に成り立っていかないと、いずれ通用しなくなります。ですから、レッスンは応用を入れることよりは、基本でよいのです。
○バックグランド
どこでも休める、寝られる、悩まない、一日位食べなくてももつ、気にしない能力、早く食べられる、寝なくてもまともに考えられる、欲の強いこと、目立ちたがること、次々と前に出ること、考えずに動けることなど、こうした、どの社会でも、みえにくい能力がけっこう仕事を支えているものです。
歌い手や役者は、歌う能力や演じる能力を問われているようで、その前に目立ちたい、化けたいなどという能力が9割でしょう。そんなことはないと思われるでしょうが、歌唱力や演技力が高くても、そこで、みえない能力が一般の人並みや、それ以下であったために出られない人をたくさんみてきました。
サッカー選手になる前に、走る力というのも、充分な集中力や根性、あるいは、五体満足のような健康な人としての基盤があります。それらは、あまりに当たり前でみえていない能力というものです。
○メッキ
火事場の馬鹿力でないのですが、追い詰められた状況で、人一倍の力が出る、としても、大体は、1、2回のビギナーズラックで終わります。メッキは剥げるのです。しかし、それが積み重なっていくうちに、ものになったという人もいます。役者に多いようですが、歌手にも当てはまります。タレントなどは、まさにそういうタイプの集まりです。
その反対として、練習やリハでは文句のつけようもないのに本番が人並み、あるいは、必ず失敗する、これは続くと出してもらえなくなります。場合によっては、メッキも必要です。フィクションの世界ですから。
どちらも年に数人の代表例をみてきて、考えさせられてきました。後者はメンタルトレーニングの導入のきっかけとなりました。
○声を学ぶ必要について
ヴォイトレをするときに、いつも私はこのことを考えています。学ばなくてもすごい使い手がいるのです。学んでそれを超えられないなら、何の学びでしょうか。
私も、多くのことをやってきましたが、何をやっても似ているし、同じでもあると思います。むしろ、同じことのなかに何をやっても違うことがある、その方が深いと思ってきたのです。
声のことでやってきたことと、声以外のことでやってきたことが、30年も経つと完全に混ざっているのです。専門家が、後に森羅万象に関心を拡げるように、私は専門でもないけれど、いろいろやってきて、というより、やらされてきて、気づくことが多かったのです。
やらせてもらえたのはなぜかというと、決して実力があったからではない、若くて何もわかっていなかったから、相手もわからないものとして私を使っていたとも思うわけです。私としては、若気の至りで、使われていた気もなく、そういう人を使っていたつもりでした。ともかく、刺激的とは、気づきの多いことなのでした。しかし、残ったものは平静ななかで声を出していたことでした。その結果として、獲得された声だけでした。
○変わり方を変える☆
人は、成長するにつれ、変わります。でも、中学生にもなると、生涯その顔やことば、所作のほとんどはできあがっています。50年、80年経っても変わらないと思うのです。
でも、なかには別人のように変わってしまう人もいる。これは変わり方が変わるのでしょうか。アーティストの作品や生き方には、その要素が大きいと思うのです。どこで化けたか、あるいは、化け続けていくかということでしょう。
ここを出て、つまり、会わなくなって、10年、20年ぶりに再会する人がいます。とはいえ、小学生辺りで別れたのでないのですから、大体の人はそうは変わりません。でも、こちらが思い出せないくらい大化けする人もいます。人が変わる要因は、よくも悪くもとんでもない毀誉褒貶の人生を送ったタイプと、たえず、自ら変えていったタイプがあるように思います。
○クラシックとヴォイトレ☆☆
私は、心を奪われるなら、別世界のままであってもよいと思う、いや、はれ、非日常だから当然そういうものだと思うのです。
一方、歴史も、地域も、背景の全く異なったものがつくられ、輸入され、好まれてきた。その一つが、クラシック音楽です。
宝塚歌劇や劇団四季も似たようなもので、それは、映画のように別世界をみせてくれる。クラシックといえばバレエもそうで、凡人にはできない特殊な身体の使い方で、人間の可能性を美しくみせているわけです。
そこで声を考えてみると、その人間の声の高遠な可能性の一つであるオペラから、誰もがアプローチできるように声楽メソッドをつくってきたのです。ポピュラーやカラオケは、庶民的でありますから、そういうのは出てこなかった。まあ、ヴォイトレはヨーガ、禅、合気道のようなものと捉えてよいでしょう。絶対に必要というものではない。
私としては、その声楽メソッド、世界中の民族が使ってアプローチできる、しかも、ハイレベルに実績をもつ、そのオリジナリティには敬意を払いつつ、オペラだけでなく、声を使うすべてのことの基礎として、ヴォイトレをおきたいのです。そうでなければ、その存在意味が希薄になるからです。私にとっては、です。
日本人の大人に日本語を教えるのでなく、かといって外国語を教えるのでなく、どちらも応用できる万能ツールとしての声を伝えたいのです。それは、確かにあるのに、ないような分野、例えば、表情、笑顔、マナーなどと似ています。
○面談カウンセリング★
「何でもよいから、やってみてください」と言われて、やることのできる人は少なくなりました。「?」のあと、動けないのです。昔は、やりにきた、いや、自己PRにきたのですから「待ってました」とばかり、どんなレベルであれ、挑んできたわけです。
今となっては、皆さんのそういう気配を察して、こういうことを言うのもやめました。企業の採用面談ではないのですから。
多分、「やってもよいのですか」「何をやればよいのですか」「やれるものがありません」という答えが戻る、どれもこれも、レッスンのスタート時点までに、かなりのフォローが必要と思います。そこで、そのような対応をします。
声を出すとか歌うのは、日本人にとっては鬼門です。与えられた状況では、安心してカラオケなどを楽しめるのでしょうが。
「音源はありますか」とも聞きます。即興では大変なので、また発声練習なども、そのパターンに慣れていないと却って声が出ないので、その人の録音したものを聞かせてもらいます。歌は、話し声と変えた声を使う人が多いので、実際に聞かせてもらった方がよいのです。
最初から、方法やメニュを出してほしいというのはわかりますが、決まったものがない。出すのは、あなたのです。あなたの出した声に応じて全て変わるのです。
○バージョンアップ
声がバージョンアップする、それを目的として欲しいのです。ヴォイトレなのに、目的が、その他の応用に行きすぎていませんか。メニュも方法も感覚も、全てがバージョンアップをくり返していくものです。決まったやり方、固定した声や技術を求めないようにしましょう。そのために、どれだけ大きな可能性が制限されているのか、ということに気づいてください。そして、常に工夫、改良してください。工夫、改良する力をつけるためにレッスンがあります。自主的な工夫を通してしかバージョンアップはできないのです。
○脱力
本当に脱力したら倒れます。立っていられません。リラックスも緊張を抜いたら使えません。体の力を抜くのでなく、入れるところには入っている、余分な力、必要ない力を入れずに行うのです。ですから、急にできなくてよいのです。少しずつ変わっていけばよいのです。脱力とか、リラックスの出来など気にしなくてよいです。声が出やすく、しぜんになっていけばよいのです。