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「教えない、通じる」 No.296

○教えないという教えについて☆

 

 教えても教えきれない、教えたことは使えない、教えなくてはいけないことは教えても仕方ないなど、これまで教えることについてたくさん述べてきました。

ホリプロの社長も言っていましたが、「プロの世界で教えたいという人から学ぶべきことはなく、教えない人からどう学ぶのか」という、昔ならあたりまえのことがわからない時代になりました。このことばを、よく覚えておくとよいでしょう。

 あのプロ歌手のようになりたいと思ったら、まずはトレーナーでなく、なぜそのプロ歌手やその人を育てた人に習いにいかないのでしょうか。歌手は会うこと自体、大変で簡単に教えてくれないが、トレーナーなら歓迎して教えてくれるものと思っていませんか。

 

○プロ歌手が教えられない理由

 

 プロ歌手の多くは、教えません。そこには歌手特有の事由がいくつかあります。

1.自己流でうまくなれた。ゆえに、人に学んでいないので教える体系がない。

2.ほとんどがシンガーソングライターで、作詞作曲演奏も加えた総合力である。

3.自分の活動本位なので、教えることで、喉を酷使できない。

4.他人を、責任をもって引き受けて、教えられる、育てられるとは思わない。

 寿司屋を2か月で独立、ラーメン屋も3か月で開業できるようにするような学校ができたのは、よいことでもあると思います。歌やドラマ、映画の世界では、素人を3週間でプロにするようなことさえあるのですから、特に驚きません。しかし、それは楽器のプレイヤーにはありえないでしょう。本当は、声や歌でもありえないことです。

 ですから、プロで教えている人は、そのパターンの逆です。

1.教えたい。広めたい。普及させたい。ファンを得たい。活動の場にしたい。

2.仕事がない。活動がない。他の仕事より向いている。生計の糧が必要。

3.教わってきた人のやり方を知っている、自分のやり方をもっている。

しかし、日本の現状でみる限り、トレーニングで教える人の活躍レベル以上に育ったことは、稀です。プロデューサーやかつての作曲家の方が、プロをつくっています。

 

○日本のポップス

 

 日本のポップスに関しては、早くも古典芸能化しているとさえ言えます。スタンダート曲というのは、日本では、今のがよくないから昔のもののカバーで成り立っていく、というプロセスで成立することを、身をもって私も知ったわけです。自らの時代に体験したのでは、あまり喜べません。

 私は当初から、日本にも、いつも歌える、長く誰からも愛される曲が出てきたらよいのに、と述べてきましたが、考えると、唱歌、童謡、歌謡曲、演歌はそうだったのでしょうか。浪曲、小唄、民謡などのような運命になるのでしょうか。この後、J-POPSはどちらに?

 

○発声で正しいこととは☆

 

 「発声に正解、そんなものはない」というのは、何回も答えていますので、別の角度からみましょう。発声が正しくとも、多くの人はそれゆえにプロにもなれません。正しくなくても、一部の人はそれゆえにプロになっていると思ってください。この「正しい」を「うまく」といっても当てはまると思います。

 うまくなる、楽しめるようになることを目的とするのは、その人の自由です。絵描きでみるなら、うまい絵、正確な絵を目指すのは、アマチュアです。絵を目指すのでなく絵を使う、歌や発声を目指すのでなく歌声を使う、表現に、です。

 時代や場においても基準は、変わります。しかし、それを超えた一流ということを目指すなら、結果として、それ以上にうまくも正しくもなっているということです。

 逆に考えると、間違えるとは何かということになります。その一つは、結果として、そうなっていることに対して、原因、理由、方法を求めてしまうということです。

 そこからです。盲目的になることで、あらぬ方向へ極端に走ってしまうこと、例えば、歌でいうと、大きな声で高い声を長く出し続け、喉をおかしくしてしまうことなども一例でしょうか。

 これとて、 他のことと同時にやると、雑になって、やれた気になるからよくないだけです。それを分けて丁寧に扱っていくと、トレーニングのプロセスになります。

 この間違いをそのままに、それを超える努力や才能でプロにのしあがった人も、少なからずいます。となると、その間違いも間違いといえなくなります。大逆転、どんでん返しがありえるのが、歌い手や役者でした。

 

○時間をかける才能★

 

 上達とは、早くできることではありません。本当の上達とは、時間をかけられることです。

 最初は11曲しか覚えられないのを18曲覚えられるようになる上達と、1か月1曲あげていたのを11曲、101曲となるのとは、意味が違います。私のレッスンでは、1フレーズに1か月というのもありました。

 これは、あるレベル以上になった人でないと、なかなかわからないことですし、取り組めません。ですが、わからなくとも、それゆえ、取り組めるともいえます。最初は不器用でうまくないのに、後になって、際立つタイプもいます。いつのまにかぐんぐん伸びるのです。

 例えば、こういう中和策があります。発声教本のコンコーネ5050曲を月に2曲、2年であげたら、次に1曲に2か月かけていくような取り組み法です。

 

○具体的にする

 

 なぜなら、アートとは、どこまで詰めていけるか、だと思うからです。オブジェクトとして、あてをつけていく、検討をつけていく、目当てにもっていく、絞り込んでいく、対象化してみることもありますが、一体化していく方がよいように思います。

 ある種のフェティシズムでもあります。そこは、声ですが、女の足の指に執着した谷崎潤一郎でも、似たようなものでしょう。声を愛してください。

 すべては個別にそれぞれ異なることです。一つの方法で解決できることはないのです。考えなくてはいけないのは、やり方、ハウツー、メニュではありません。考え方を知って、実行して欲しいのです。それが、やり方やメニュになっていくのです。

 

○反論への反論

 

 あまりに短絡的な反論は、先に、気にくわないという感情、嫌い、目障りと、妬み、嫉妬、嫉みがあるのでしょう。だから、そのときにそういう人を相手にしても論議になりません。実りもありません。

 同じことを、ただ言い方を変え、声高に何回も叫んでいるだけの人も多いのです。それがどういうことなのか、何のためになるのか、そうでない見方や方向に発展できないのか、などと考えもしません。感情の発散だけ、ただ相手を貶めて気を晴らしているのでは何のためにもなりません。

 私の述べていることは、私のものでないのです。もっと大きなところから来ています。ですから、何を批判されても気にもなりません。

 相手により、状況により、学ぶことにより、人も日々変わっていくのです。コミュニケーションをしている現場を優先しているなら、尚さらです。感性を磨くこと、常に進化していくことです。

 

○反論への反論2

 

 理解できないし、しようともしない相手への反論は、労力の無駄ですが、いちいち対応していたこともあります。それは、誠意としてです。相手を信頼するから反論するのでしょう。

ところが、反論されたこと自体を快く思わない、内容でなく、反論されたことで傷つく人もいます。それはそれでよいとも思うのです。でも、反論するというのは、コミュニケーションなのです。

 反論という応じ方そのものに、人間性や感情などを問題視するのは、おかしなことです。論は論にすぎません。そうでなければ、最初から無視すればよかった、応じなければよかった、読まなければよかったという、私の後悔になるわけです。そこで多くの人は、スルーするようになってしまいがちです。

 今さらですが、質問も意見も反論も礼状も、読まなくてはいけない、受け入れなくてはいけない義務や答える義務はないのです。大きなところからみて、同志と思えば対応するのです。あるいは、先生という立場で教えようとするなら、です。

 返事しないのも一つの回答です。同じことを述べても仕方ないので「その通りですね」と。「すごいですね」「いいですね」で、無難にお引き取り願うような対処となっているケースも少なくないでしょう。

 あきらかに反論できてしまう話でも、そうするのでなく何かをつかめたら、もっとおもしろいと工夫することもあります。いわば、くり返しに飽きてくるからです。多くの人は、こちらのことを学ばずに、同じような質問してくるわけです。

 

○できた―できない

 

 できなかったことができたとなるのは、嬉しいことです。でも、人生、特に芸事では、できないことをみつけた→できない→できた、のくり返しです。

 天才、一流の成しえたこと、すごいことへ向かっての、この無限のようなくり返しと挫折、ただのくり返しでなく、バージョンアップを目指します。

 習い事は、ソフトです。未完成のままにバグの修復の連続的進化、ときにはOSの変更をして大幅にアップしていくのです。完成を目指しつつ、完成はありえません。

 

○実力をつけるために

 

 「自分でメニュも理論もモデルもつくりなさい」

 

○待つ

 

 信じ切る、言い切る、その根拠などは、思い込みでよいのです。問題は強さです。それが誰よりも強くなくては、大した効果も出せません。

 それを自信をもって確信し、周りに断言するのが、カリスマでありリーダーです。トレーナーもそうありたいものです。が、断言には慎重であるべきです。

 私が未来に関心があるのは、次にそこに行くのが決まっているからです。

 今は行けない、でも時間をかけてトレーニングすれば行ける。行けなくともよい、未来はくるのです。時間でくるのです。待てばよいのです。よりよいものがもたらされるために、よりよく何か得られるために何をするかということでしょう。

 

○ナチュラルを盗る☆

 

 ナチュラルななかでのナチュラル、その状態をなかなかもていない人もいます。そういう人は、ライブやコンサートに行って頭を空にして心を満たしましょう。あるいは、音楽療法で、その状態を状況として把握します。アーティストのもつナチュラルから盗ることです。

 レッスンでも、トレーナーの声より一流アーティストの作品に心身をさらすことを重視しましょう。その考えは、私の直観とはいえ、今でもその通りと思います。

 頭がはずれるのがよい。一流のアーティストは、ヴォイトレでなく、その一流の先人アーティストの音の洪水をスキャンし続けています。そのスキャン能力を高めた基礎があるゆえに、また新たな才覚が誕生するのです。絶対的な体験、できたら至高体験の補強こそが、才能の畑づくりです。

 

○確かなものはゼロ

 

 今の時点で言えることは、本とブログ、レクチャーとレッスンでは違ってくるということです。また、公にできることと、できないことがあります。

 辞書、辞典に載っている知識は、確かなものであっても、その分、古い、権威というのもそういうものです。といっても、とにかく新しいものは、胡散臭いものです。これからの人は、「早く人に評価されること」を恐れなくてはなりません。特にこの日本では。

 

○説明できない

 

 説明できなくても、できる人もいれば、できている人もいるのです。何でも説明できると思うほうがおかしいのです。複雑に全体として成り立つものを部分に限定してシンプルにすると、何とか理論とか説明ができ、誰でもできそうに思うのでしょう。わかりやすく、シンプルにすることで受け入れてしまうのです。しかし、大切なこと、重要なことは省かれてしまっているのです。

 声は複雑です。声を使う相手との人との関係も複雑です。そこで「正しい」と言われていることは、真実でなく、ただ安全なこと、楽なことに過ぎないことが多いのです。

 

○何もない

 

 「身体が動いた、息で声が出た」そこには、理屈も、プロセスも、マニュアルも、ハウツーもありません。流れはいつも突然に変わります。人の世も、人の身体も声も同じです。

 現実というドラマでは、脅かされて偽証する悪役のように成り下がっているのに、「社会のため、正義のため、人のために」と煽って、自己充足している人も少なくないでしょう。まず、人から与えられたままのスローガンを捨てることからです。

 便利になると、身体を使わなくなります。そこは、ノウハウでは間に合いません。次から次にこなすのでなく、一か所にとまって流動的なものを止めてみましょう。時差さえ、自らコントロールする、そのためのレッスンです。

 充足、退屈、不満、不足、破壊、混乱、創造と、いろんなことが起こります。たくさん早くできるようになるのでなく、少しを長く楽しめるようになる、極めていく、その力をつけて欲しいのです。

 

○よくないということ☆

 

 どうしたらよいかがわからなくても、どこがよくないのかはわかりやすいものです。そこで、それを中心に教えることになりやすいのです。

 しかし、よくないものを直すのと、よくすることは違うのです。一般的、平均レベル、普通にするのと、誰よりも秀でるようにすることは違うのです。よりよくするのと絶対的によくするのも違うのです。

 プロに対しては、当然ながら、さしてよくないところがないというのでしょう。それでは対応できないのです。どうしたらよいかは、一流になるために、というところになります。一流ゆえに一人ひとり違うから、初めてのモデルとして、その人のなかによさを見つけなくてはなりません。

 日本の場合、一流レベルとの比較でないところでも充分に改善ができるので、大して困らないのです。困らないことが困るのです。大半は、他のどのトレーナーにも任せられるところが大なのです。

 他方、実力としてパワフルに、メリハリのついたフレーズを得る、そのために原点の声から、ゼロからやる必要があるのです。出だしやエンディングの一声のレベルの差を海外と比べてみれば明らかです。

 

○現場に出る

 

 日本では、本番でバランスをとる、崩れないように心身を調整する、その修正くらいのレッスンで終わってしまうのに、それでも充分成果が出たと思われてしまうのです。音大4年生くらいのレベルで、です。

 前向きに自信をもって明るく元気に歌う、これくらいで成り立つのはアイドルくらいだったはずです。☆

 なのに、大の大人でさえ、笑顔をつくり、嘘くさく、偽物っぽい歌に声をあてているのです。表面上合わせるセンスはよいので、すぐ直せ、いくつにも歌い分けられる、この2つは最大の弱点にも思えます。

 

○できた

 

 どこで学んだのか、発声がよくなって楽になって声がきれいになった、でも、つまらなく退屈な歌になってしまった。歌が安定したので、本人は喜んでいる。周りもよいと言う。表現の魅力はなくなったというのに。こういうケースでは、プロになれても、それゆえ歌の資質がなかったということになります。

 

○「レッスンメモ」★

 

 ノートや録音で伝わるようなことは、まだまだつまらないことです。誰かの技術を教えたところで、教えながらつまらないと思うからやめることになります。

 いつも、たった一回きりの内容なのです。レッスンメモをつけていますか。そこには、10行でも本一冊くらいのものがあるのですが、どうにも語り尽せないのです。

 

○違うということ☆

 

 仮に、つかんだ真理が絶対でも、それを表現したら相対的にしかならないこともあります。そこに絶対はないのです。

 そのことがわからなくなってしまったのでしょうか。教えられたことを信じるのではありません。自己の道を信じていくことです。

 教えていることと教えている人とは違います。まして、組織では、その人も個人とイコールではないことです。

 医者、科学者、教師、フィジカルトレーナーとよく話します。そこで現場経験より、机で勉強した時間の多い人は、知や数字、データが邪魔してしまうのに注意することでしょう。

 

○口伝の限界

 

 一子相伝では、「なぜ」は生じないのです。原理やシステムへの探求は、師匠のレベルまでは、行えません。そこまで、とことんまねていくのです。次の師匠になったときにしかそのレベルにはいけないのです。まして超えられない。だから、すでにあるモノを演じ継承することになってしまうのです。それは、基礎よりも応用です。応用だけで基礎を賄うに足るのです。

 

○感化する☆

 

 大体、自分がわかるようなものを自分よりも天分のある人に教えようというのが、おかしいのです。若い人は将来性がある、今、才能とか実力はなくても、自分より長生きする可能性がある、そういう人は、何であれ、自分を超えていくでしょう。自分が死んでも、生きているからです。その可能性のある人は、それだけで意味がある。自分はゼロ、でも、その人は生きているのですから。

 まだ人生半ばにして「死して何を残すか」などと考える人はほとんどいないでしょう。

 要は、こちらがわかっていないものの存在を伝える、ことばでくり返し、ことばの奥で感化するようなこと、それがレッスンだとも思うのです。

 所詮、相手が変わるのです。こちらには、それがどうなるか、わからないこともあります。オーディエンスや読者などはまさにそうでしょう。ずいぶん経ってから礼状が来たり、会いにきたりします。私自身、影響を受けた大半の人々には、すでに接することもできませんでした。

 ということでは、本人、受け手の方も気づいていないことも少なくないのです。人に感化されたことは大きいほど、あとでわかることです。まだ、わかっていないことも少なくないしょう。親の年齢になってから親の影響がわかったり、子どもをもって初めてわかることもあります。一生気づかないで終わることもたくさんあるでしょう。

 出会った人すべて、それぞれの感化がくり返されていないはずがない。だから教えたり、変えようとしたりしたようなことで、相手がどうにかなるわけでしょう。

 そういうつもりもないのに、教わったとか変わったと言う人もいます。教わって変わろうと会いにくる人は、主体的です。でも、目先のことをやりたいのにすぎないことも、多々あります。

 

○提供しあう★

 

 私で足らなかったら、他のトレーナーに聞けばよい。私も知らないことを、ここのトレーナーはたくさん知っています。私のできないことをできるトレーナーがいます。自分一人がすべてできるなどと盲信しているトレーナーにつくよりは、ずっとよいはずです。

 「おれが全部できる」と言うトレーナーを集めたら、ここはバラバラになってしまいます。いらっしゃる人に複数のトレーナーをつけるようにアドバイスしているのはそのためです。

 自分が何かを提供でき、相手が何かを提供できて、トータルとして誰かが求めるものになるということでしょう。

 

○使えない☆☆☆

 

 本人がトレーナーのよし悪しを判断して、それが絶対正しいというくらいなら、本人の声や歌にこれまで問題は生じなかったはずでしょう。トレーナーにつく必要もないでしょう。独学で何でもできるようになるはずです。

 いろんなところで、トレーナーの選択のミスをしてきた人ほど、それがわかっているはずなのに、「私はたくさんのトレーナーについてきて、私と合うトレーナーをよくわかっているから、私が選ぶ」と言うのです。そういうときは、「これまで選び間違えてきました。それほど選ぶ眼がないので、選ぶところからお願いします」となるのが正しいと思うのですが。

 トレーナーのよし悪しや、合う合わないというのは、感覚的なことが大きいだけに難しいものです。自分が何を学ぶべきかわからず、友だちでもないのに相性を第一にするからです。それは趣味のようなものです。その人から自分が何を学ぶかが大切です。

 多くのケースでは、根本的な問題に気づかない、気づいていたら直っていくのですから、むしろ、気づかないように避けている、直面しない。そして、これまで通り自分の好むトレーナーを選ぶ、そうでないトレーナーについても、新しいだけのことやこれまでの延長線上のことを学ぼうとして、本質的なことを臭いものとしてフタをしてしまうのです。せっかくのトレーナーのレッスンを自分に合わせて、自分のいいようにしか使えなくしてしまう人も少なくありません。トレーナーも、その人の満足に合わせるから、なおさらです。

 だから、1年くらいで「大体わかった」とか、「前のトレーナーと同じ」などという結果になってしまうのです。

 そういう人は、充分にやってもいないのに、「私は○○には向いていない」「○○は私にはできない」と思うのです。自分で、無理やりできないことを確認して、元に戻っていくのです。だからこそ、その二者の関係をチェックしてアドバイスする人が要るのです。

 

○変えるということ☆☆☆

 

 もっとも大切なのは、最低限からの可能性の追求や限界の打破です。これまでの思い込みでの限界の確認、現状維持の安定、安心に確信を得て、満足するのは、トレーニングでなく励ましです。認めて褒めるのは、トレーニングの結果においてでなのに、続けてもらうことにそれを使っていては本末転倒です。でも、それが必要とされている、それに対応する、そこで人は育たない、の悪循環です。

 まして、今すでにある形を変えるというのは、ゼロから学ぶよりも大変なことです。それが周りに認められたり、プロとして活動しているなら、周りの評価もこれまでのファンも含めて、変えるのは大変なのはわかり切っていることです。だからこそ、ここの利用の価値があるはずです。

 そこで本当に変えられる人は偉大です。多くの人は現状維持での守りに終わるということなのです。それ以上の努力まで、トレーナーは強要できないのです。

 プロの人は、根本的に変えたい、本当の力をつけたいと思っていらっしゃいます。ただ、そこで一歩踏み出す覚悟が、よほどなければ大して変われません。

 越路吹雪さんは、日本ではすでに評価されていながら、パリでエディット・ピアフのステージをみて、「私はゼロ(まったく実力がない)と知った」といいます。それを知ることができたところで偉大なのです。凡人にとっては、天才と比較などできないのです。比較ができたらそこへ歩めるのですから。

 そこまでを考えているのが、日本では、この研究所なのに、と、思うこと、しばしばです。

 

○解放

 

 ライバルというのは、優秀さで争い、高め合うモティベーターですが、トレーナーには、欠点を晒し補っていくのがよい関係だと思うのです。

 今、トレーナーは、まだ「自分では正しい、自分だけは間違っていない、他のトレーナーはこんなことも知らない、用語の使い方や教え方も間違っている」

 だから「私が教えます、他のトレーナーにはつかない方がよいです、間違っている人が多いです」から、というようなことを言っているくらいのレベルです。

 それでは大した結果が出せないのですが、それで充分に思う人には充分なのでしょう。

 求めるべき結果というのは、「声がよくなった(ように思う)、歌が歌えるようになった(ように思う)、前よりよくなった(ように思う)」などでは、なく、本当の結果のことです。

 「周りの人がそう言ってくれるようになった」くらいでなく、「一声で、トレーニングした人だとわかる」あるいは、「声さえ感じさせずに違いがわかる」。それでなくては裸の王様のままなのです。

 

○自省

 

 自分ができていない、間違うこともある、と自覚していないのは、周りのレベル、いらっしゃる人の要求レベルが、総じて低いということです。

 やったことのない人がやれば、何でもその分よくなるのは当然です。そこは教える仕事としては、確かなところです。が、私は、そこから先のことで述べているのです。

 挫折したことのないトレーナーは、声のことは努力したとしても、他には、頼ることができません。

 トレーナーを通しても世界を広げていくのが、理想です。しかし、却ってフィルターがかかってしまい、狭くなってしまう。

そういうトレーナーは、生徒さんが外部へ学びに行くこと、他の人やセカンドオピニオンにつくことを嫌います。もちろん、教え方はやさしいが厳格なレッスンで人を伸ばしているところもあるでしょう。

 

○テクニック☆

 

 長く生きると、長く携わることになったものについては、表向き、説明したりノウハウを使ったり、うまくこなせるようになります。声というのが、本当に経験キャリアにのって、物事が成せるものというのなら、歌手や役者が十代でプロデビューなどできないでしょう。スポーツや楽器プレイヤーでは考えられないことが起きる声の世界では、経験、実感は目安にすぎません。

 ですから、難しいと思われている声の判断も、現場では大して迷いません。本当のところ、「全然だめ」とか「おかしい」―それが99パーセント、あとは、その内容をいかにことばにして説明するか、仮の解決策を述べることに努力が必要となります。

迷うのは「できていないもの」を「できているようにみせる」ところでの評価です。世界のレベルでみれば、声、音、音楽で明確なことを、そこまで届かない、あるいは、日本独自の基準、特にことばの重視、さらに音響、ヴィジュアルで総合パフォーマンスにするところから複雑になるのです。そこにテクニックが出てくるわけです。ここではあまりよい意味で使っていません。

 あとは、業界や仕事という応用に、その競技のルールに合うようにアレンジして、技として認められるように加工、修正します。求められることがそこであれば、それに即した対応をするのが仕事、空しいときもありますが、本質でやり取りできる人は、1割もいない。本質を知る人には、説明不要、不可、ただ声でくり返すだけ、いつものレッスンです。ヴォイトレの仕事の残り1割はそこです。

 その点、私はトレーナーとしてふさわしくない、と思います。テクニックなど教えていません。でも、その仕事に対してのプログラム、トレーナーへの役割分担には慣れているのです。あとの1割を求めて深める人がいるので続けてもいるのです。真の上達はトップダウン、一流レベルから下してくるしかありえないのです。

 世の中のニーズと真実、その2つのズレを把握していること、それが私にとっても応用と基本です。山にこもって、本質を究めるにも、世の中と結びついていなくては先もありません。自分で自分をみるより、他人をみる方がきちんとみられるから、皆とやっていくようになったというようなものです。

 

○再現性の打破☆

 

 レッスンは「これがよい」というのが出たら、それを指摘し、その確実な再現を得ていくプロセス、と説明したことがあります。トレーナーは、そのためにいます、と。

 例えば、「ハイ」というレッスンは、本人がすぐ実感できるときと、できないときがあります。ともかくも覚えて、自主トレで、あるいは、レッスンで再現できるようにします。その確率を上げていく。

 一回できたらマスターできたケースもあれば、逆にできたはずなのに、二度と取り出せないこともあります。だんだん出せる確率が高くなっていくように、トレーナーは、底上げのレッスンをするのです。間違いを正すのでなく、修正を細かくしていくのです。

 厳密には、一回一回、違っているのです。また今のベストが出たといっても、本当の理想とは異なっているものです。出すと意識すると、すでに固めるからです。それをよしとしないというのは、私の目指す最高のレッスンです。型破りのための型、爆発のための再現、つまり、同じ爆発などありえないのです。

 しかし、多くのレッスンは固定をよしとし、再現性を目指します。確実、安定を優先するからです。つまり、再現=固定化なのです。

 日本の業界もステージも、安定した実力=固定化を求めているので、そこに合わせるのなら、それが正しいとなるのです。私の求めている再現性は、再現が目的ではないのです。巷では、それで充分どころか、それを変えて欲しくないという逆風しかないのです。(特に日本では。ミュージカル、合唱、声優に限ったことではありません)

 

○手引き

 

 感覚を忘れない、それを頭でやるのか体で覚えていくのか、頭→体にいくべきなのに、ずっと頭で、というパターンが多いのです。そして、そういう器用な人が重用されます。表現力よりも、立ち回りの力、存在感より機敏な動き、という感じが優先されているのです。

 マニュアルの形、指導のためのメニュや順番は、「その感覚だ」と言うのと同じで手引きにすぎないのに、その上へ行くためのプロセス、補助輪にすぎないのに、そのままでずっと残ってしまうのです。

 「123と覚えなさい」が、123とカウントしないと動けない、早く動くには早く言わないとできない、そんなのおかしいでしょう。別に、23、とか3からでも、123、がなくてももっとよければよいでしょう。それを可能にするのは勘や衝動です。

 この、囚われをとることがレッスンの主な目的になることもあります。しかし、それはそれでそこに囚われているわけです。問題に関わるのは大切ですが、そこにその問題以外が見えなくなることは、より大きな問題です。もしかしたら、本人が悩んでいること、その問題自体がいらない、不要かもしれない、ということがたくさんあります。

 「電車が止まったから行きません」「じゃあ、車で来なさい」そんなやり方でどうするのでしょう。

 

○プロセスとアプローチ☆☆

 

 トレーニングのプロセスでは、私はトレーナーにことばをかけません。プロセスで結果を問うことはおかしいことでしょう。

 ですから、セカンドオピニオンとしても、他のスクールのトレーナーの指導もそのプロセスで判断はしません。明らかにおかしいように思えても、そのデメリットに値するメリットを探してみます。いったい何を目的として優先させて、このように教えているのかということをみるのです。

 声楽家のはわかりやすいです。独自のものが少なく、教わってように教えているからです。継承されているパターンも、ほぼ決まっています。

 一方、合唱やミュージカルは、仕上げ方が似ている割に、アプローチは心身にまで及びます。中高生の集団が相手だからでしょう。マニュアルというなら、この分野の方が革新を続けています。

 ポップスや役者はその人「独自」で、方法まで多彩ですが、ここにくる全国のトレーナー、スクールからの生徒さんや本、CDDVDとで、ほぼ捉えているつもりです。

 大体は、目的、レベル、タイプとずれていても、トレーナーの感覚や考えが浅いだけで、それゆえ、致命傷になるほどのことにはなりません。

 本格的に厳しいレッスンや医者などの治療の方が、よくも悪くも影響は大きいです。

 「こういう効果を狙い、○○にはメリットがありますが一方で○○にはデメリットになります。一時的に○○になります」など、その可能性、制限を私なりに述べます。他のトレーナーなら、「それは(その生徒のその方法は)間違っているからやめなさい」とか言うかもしれません。それでは、その人は困ってしまいます。

 

○効果ということ☆☆☆

 

 ○○式というのは、それを開発した○○先生本人には、きっと当てはまるものでしょう。ただ、他の誰にでも通用するわけではありません。○○先生が、喉が強いか、弱いか、メンタルは、フィジカルはどうか、そういう条件も似ている人でなければ、使うのは難しいでしょう。そのため、使う人によってのタイプ別や、目的別などもつくられていることが一般的です。それを体験談、効果談で補います。

 本来、よい例だけを集めたらよくないのです。しかし、どこでも、データとして集めると、よい例だけが多く集まります。よいと思う人が出すからです。何よりも、効果のない人は続けずにやめて他に行くからです。元より、効果の上がる人しか、そこでは続けてはいないわけです。そこでは、効果といっても本人の満足度や充実感による自己判断が多いということです。これは、サービスも含めてのことで、純粋に方法の効果でないことも少なくありません。

 もう一つは、初心者なら、これまでやっていないことをやって上達しない方がおかしいということです。

 効果といっても、目的やレベルで全く違います。プロになりたい人が、音程がとれるようになっても武器にならないでしょう。目的レベルが低ければ、100パーセントの人に効果が出ます。そのトレーニングを5年、10年行い、グラミー賞を獲れたというなら、高いレベルの成果ですが、日本では、今のところ皆無です。

 歌や演技は、発声で支えられていても、それですべてではないし、まして、日本のレベルは、国際的に高くないので、効果というのも紛らわしいものです。

 

○失敗に学ぶこと★

 

 私のところでは、効果がない失敗例もたくさんもっています。レベルを高くしてみると、成功とか効果でさえも、失敗とは言わないまでも、あまり効果が出ていないともなります。

 もう一つは、方法や他のトレーナーに変えて効果が出たとき、出なくなったとき、これも、厳密には、前のトレーナーがよかったのか悪かったのかは難しい判断です。他のスクールから来て、効果がなかったから前のトレーナーが間違っていたとか、未熟だったとは限りません。(この辺りは、以前述べました)

 新しいトレーナーが、信用を早く得るのに、「以前のトレーナーがよくない」とか、「間違えた方法や判断だった」と断定するのは、よくあります。本当に、自分だけが、誰に対しても、正しい教え方ができると信じている人がたくさんいるのです。

 客観性を得るためには、複数で判断することですが、失敗、うまく行かない例をきちんと記録し検証すること、この2つの大切なことが行われていないのです。まだまだこの分野は、こういうことから述べないといけないという啓発レベルにあるのです。

 失敗の体験を開示し、それを避けるのにどうすればよいのか、どうすればよくなくなるのか、これらは、よくなくなったときの対処や解決法を研究していなくては、よくなっていきません。それと、心身、体質や性格も含めて、本人が自分のことを知ることが大切です。

 ここでは、そのお手伝いをしています。その上で、目的レベルに応じたレッスン、トレーナー、方法やメニュがあるべきと思います。

 

○練習は自由に

 

 練習も表現も自由でよいのですが、自由では大して自由に動けなくなるのです。それについては、スポーツのフォームやバスケットのフォーメーションを例に述べたことがあります。自分勝手にやっても範囲が狭まり、固定化してくるものです。

 自由にやっていたら、できたという人は、それでよい、というのは、それが理想だからです。作曲でも10曲もつくれば、普通の人はワンパターンになっていくものです。少なくとも、ここに関わる人にはそうではないために、理想をもちつつも、不自由な現実に対応をしていくわけです。

 自由になるのに、必ずしも型が必要とは言いませんが、理想的に収まるところに、模範、基準はどうしてもできてくるのです。型、フォーム、メニュは有効なアプローチです。

 自由に詞を書いたり曲をつくって、他人との優劣とは言わないまでも、すぐれているものが出ればわかるのです。そこでわかるものが出るようにしていくのがレッスンです。

 それは、トレーナーが、予め知っているようなものであってはならないのですが、大体は、売れている先行パターンや、これまでのモデルをまねさせます。

 何よりも本人がつかまなくてはならない、至高のパフォーマンスというのを目指していくべきと思います。周りの望んでいるものよりも、日本を超えた世界で望まれるもの、そこへ、個としての体、声を沿わせていくセンスということでしょうか。

 そうであれば、周りとも日常とも、生きることとも離れない。よって、見放されたり衰えることもないのです。いや、そうなることで危機感をもち、また、創り出していく、そういうものが残る。芸も文化も人も、作品、商品も同じです。

 

Q.何でもできそうな気がします。

A.何でもできそうでできないから、できていないから、できるところへ集中する。言うだけでなく、早く何でもやってみて限界を知ってください。

 素人でやり始めるときは、すべて無限の可能性です。人並みのところまでやると、一つひとつ限界にあたっていくのです。

 

 レッスンで、可能性を大きくするには、すべての力がついてもできないという限界をみせて、本当の絞り込まれた、唯一の可能性を何とか出すためです。当の本人が気づき、取り組むようにさせるためです。井の中の蛙を引きずり出すのです。

 声が出ると思っても、トレーナーについたら、そのトレーナーの方がもっと出る、なら、そうなろうとかそれを超えようとするのでなく、声が出てもそれで何とかなるわけでないことを知ることでしょう。その上で、声も必要、あった方がよいのか、なければいけないのか、そのあたりは詰めなくてもよいのですが、トレーナーを見本、叩き台にすることもあります。トレーナーくらいの力はつけるべしと、有利になるように力をつけていくのです。

 

Q.教える人の方法の違いは、「山の頂上は同じで、登り方が違う」と、よく言われますが。

A.一つの山ならもっともよいルートがあり、いくつかのルートはよく、後はかなり大変なルートかとも思います。私からみると、少なくとも、ここのトレーナーには、同じ山を登らせようとしているのではなく、あなたの山をとにかく登りなさい、でルートなど比べなくてよいというスタンスを取っています。ヴォイトレに関しては、トレーナーごとに価値観も目指す頂上も違う、それでよいと思います。でも混乱する人は、頂上は同じと信じてください。

 

Q.うまくならなくてもよいと思っているのはよくないのですか。

A.うまくならないこと、苦手なことを望んでいると、ずっとそのままになります。それを自己アピールとして個性に使えるという人は、それでよいのですが、能力がない、体がないなど、コンプレックスになっている、頭打ちにあっているケースでは、能力も体もそう思い込んだら変わらない、それゆえ、変わらなかったのです。それは、考え方を変えましょう。

 トレーナーは、そこを変えるためにいるのだから、変わるべき、変えたい、にスタンスをとることです。これで、問題は半分解決します。

 

Q.少しずつ上手くなるものなのですか。☆

A.これまでも、少しずつできていくのでない、それはリスク回避のための、底上げという再現性に過ぎないと述べてきました。初心者のうちは階段型、らせん型です。そして、上級者になると進歩はなくなり、飛躍が突然変異のように、降って湧いたアイデアのように、瞬時に全体としてパラダイムシフト、ブレークスルーするように起きるのです。

 

 トレーニングは下積みです。それだけで満足するのでなく、レッスンやステージで、それを忘れてスパークさせる、変じて、その上を得るようにとくり返し言っているのです。

 よほどの人でないと、下積み、安定、楽を、「確実だから正しい」という感じで選ぶのです。本当に必要なものは正しいものになく、これまでの延長上に生じる可能性のあるものです。その可能性を高めるための下積み、底上げ、再現性です。

 つまり

1. 初心者 これまでのマイナス解消と回数での慣れ

2. 中級者 くり返しによる底上げ、再現性

3. 上級者 ワープのための準備

となるのです。

 毎日続けていたらだんだんできるくらいのものなら一人で行えばよいのです。レッスンは、一人でできないことを得るためにやるのでしょう。トレーナーのできないことをやるのでしょう。

 

Q.すべての人にお勧めの方法はありますか。

A. 万人に当てはまるトレーニング方法などありません。自分に合ったものをみつけましょう。トレーナーは、その手伝いをしていくのであり、当てはまらないものを無理に当てはめるものではありません。

 

Q.早くうまくしてあげるというトレーニングは、本当にあるのですか。☆☆

A.早く少々できるようになることは過大に、長くかかってすごくできることは過小に評価されるものです。だからこそ、自分のトレーナーとして適任者をうまく選ばなくてはならないと思います。

 

Q.どんなメニュや、どんな方法がよいでしょうか。

A.どんな方法やメニュもどれがよくて、どれがダメということはありません。短期的にみて、片方は少しよくなり、もう一方は少し悪くなるのを、よいもの正しいものと、悪いもの、間違ったものに思っているのです。本当は、どちらにもメリット、デメリットがあります。

 こちらは、このメリットがあるが、一方で、このデメリットがある。もう一つの方は、このデメリットはあるが、このメリットがあるというものです。メリットだけのメニュや方法はありえないのです。

 両方のメリットを活かせる人が有能であり、本当のトレーニングはそうなるように力をつけていくのです。それにはまず、頭の中だけの、机上での正誤の論議はやめるべきでしょう。

 

Q.くり返しのトレーニングで力がつきますか。☆☆

A.慣れていくこと、身につけていくこと、マンネリになることは、トレーニングの中心での進歩です。これをくり返しつつ、同じレベルでなく、レベルをアップさせていくのが大切です。ですから、同じことを新たな視点でみせたり、違うことを新しく与えていく発想力、想像力が必要なのです。トレーナーは、それを必要に応じて気づかせるべき存在です。

 

Q.すべての人にお勧めの方法はありますか。

A. 万人に当てはまるトレーニング方法などありません。自分に合ったものをみつけましょう。トレーナーは、その手伝いをしていくのであり、当てはまらないものを無理に当てはめるものではありません。

 

Q.どこでやっていくと、学び上達でなく世の中で通じるようになりますか。☆☆

A.シンプルには、厳しいレッスンのあるところです。自分に合ったところ、人、やり方というのを望む人が多いのですが、やれていないのなら、自分に合うことよりも世の中に通じることの方が優先のこともあるのではないでしょうか。むしろ、今、世の中に通じていない、よほどのことをしないと通じないとするなら、自分に合わない方を選ぶ方が大きな可能性があるとさえいえます。そこまで掘り下げて、ゼロからもう一度やり直すだけの努力のできる人は少ないものです。尚、厳しいとは、ヴォイトレでいうと、指導が厳しいのでなく、声や音に厳しい、精度が緻密ということですから、間違えないように。

 

Q.レッスンでのことばが、わかりにくいです。

A.レッスンのなかでのことばゆえに、わかりにくいのですが、わかりやすい言葉にしても、それは空回り、テキストのメニュの音読のようなものになりかねません。二者の間で声やことばが変じる、そこにレッスンの活きた何か(ことばだけでなく表現や所作も含まれる)が生じる。そこを記録し、伝えられたら、と思うのです。

 

Q.苦手な人への対処法はありますか。

A.媚びたり無視するのでなく、なびかず、白けさせてわからせるとか、間を持たせない、間を外す、など、いろいろとあります。

 

Q.騙されたくないのですが。☆☆

A.信じるのは、騙されるということなのです。唯一絶対と言うなら、他をすべて知った上で、しっかりと判断すべきことですが、すべてを知ることはできません。他の人に聞いたところで同じでしょう。

 信頼できる人=信じられる人=騙す人、何でもありです。健康食品、サプリ、投資、すべて同じです。騙されるのは自分です。自分を騙しているのなら、信じているのだから、どちらがよいとか悪いではないのです。自分で考えることです。

 でも、考えてわかることでないし、人に聞いてその通りにするのは、信じることで騙されていることです。騙されてだめでなく、騙されて騙されて、身につけばよいのです。歌手も役者も声優も、アーティストは皆、フィクションや虚構をリアルに感じさせて騙す仕事なのですよ。

 

Q.芸事に、アカウンタビリティ、説明責任は必要ですか。

A.それは、多くの場合は、責任逃れ、つまり、説明した上で合意した上で、なのだから責任はとらない、賠償はしないということに使われているのです。大事に無事にという願望に対して保証をしているのではありません。芸事はコンプライアンスとして、説明できるものでない。目標、目的がなくても何となく当てがあるのでよいともいえるのです。

 

Q.あまりアドバイスをしてくれないトレーナーはだめなのでしょうか。☆☆

A.トレーナーさえも消えているのが理想のレッスンです。なら、一人でやればよいのでしょうか。いえ、トレーナーが場を作っているからこそ、声が導き出されるのです。

 トレーナーが教えないどころか、そこにいないとなると、スクールに通うような人からは、この時代、非難ごうごうでしょう。レッスン時間が1分、2分、短いとか、一回のレッスンがいくらだとか、考えるところが全く違う。そのあたりの取り組みを変えないと、とてももったいないと思うのです。

 

Q.「教えない」、「直さない」と言って、人が来るものですか。

A.全面的に依存する人は少なくなるかもしれません。そういう人は、どこかで全依存できたら少しはよくなるかもしれませんが、その先には行けません。そこで気づけば、いらしてもよいと思っています。

 だからこそ、ライフスタイルから心身まで、徹底して変えようという必要を感じている人は、単に教えられたり直されても、大して変わらないことを感じて、ゼロからやるつもりでいらっしゃいます。今の状況を表面で捉えるか、根本から捉えるかは、その後のプロセスも全く違うものになると思います。

 

Q.先輩のアドバイスで混乱しています。☆☆

A.技をことばにできるのは熟練者だけといわれます。なまじ中段階では、ことばにすることで上達を妨害してしまうことが多いようです。

「規矩作法守りつくして破るとも離るるとても本(もと)を忘るるな」(利休、道歌)

「心はそれ自身を組織化することによって、世界を組織化する」(ピアジュ)

 

Q.「Q&A」を読むと、どんどん迷ってくるのですが。☆☆

A.○か×かを知りたい人が読んで迷うなら、それは私の願うところです。つまり、答えを求めにきた人は、考えだしたから迷うのです。問えるようになったわけで、一つ深まったのです。未熟な人は、すぐに白黒を求め、誰かそれを言ってくれる人を探し、その答えに安心します。しかし、声のようなものは実にリアルなものです。それを知ったからといって、あなたの声も何ら変わらないからその先もありません。私も、こうして述べていくにつれ問いが深まっていき、結局、問いのつくり方を述べるしかなくなりました。つまり、私の能力は、あなたに答えられるのでなく、あなたにより深く問えることなのです。

 

Q.なぜ、他のヴォイトレと違うのですか。★

A.その一つは、会ってきた人があまりに多く、タイプも多様だったことによります。Q&Aでも、他では20くらいのものが、ここのは一万個以上、公開してきたわけです。

 さらに加えるなら、他のヴォイストレーニングは、せりふや歌をみます。私は声をみます。声の理論やメニュもたくさん知っていますが、それよりも、その人を動かしているものや、その人のなろうとしているものをみます。

 ですから、そこがはっきりしていない人は、訳がわからないと思うか、一緒にはっきりさせていこうとするかに分かれます。トレーニングというなら、その人が今どこにいてどうするのかでなく、ずっと先にどうなるかです。そういうことで老若男女、キャリアを問うてはいません。また、声を仕事とする専門家以外の声についても、広汎に興味があり、研究してきました。歌や劇のように形づくられたものから声をみるのでなく、声からの生成、プロセスまで遡ってみています。

 

Q.声について述べられたものに関心はないのですか。

A.読むよりも、話したり伝えることの仕事なので、できるだけ、すべてに目を通していますが、優先はしていません。とはいえ、自分で完成させてしまい、同じところをくるくる回らないように、自分と相手のために誰よりも語り、答え、残してきたのもわかっていただけるでしょう。

 述べたものは分析となり、報告となり、歴史となります。一方、仕事はリアルな直感、創造、即興での対応を問われます。

 こうして述べるときは、いろんな脚色もできます。しかし、声というリアルな空気中での波動のキャッチボールは、まさに身体的接触のようなものなのです。その感覚を文章にはできなせん。歌を聞いたことのない人に、いくら文章で伝えようとしても、伝わりません。述べられたものは、あくまで余技で、参考で、補充なので

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