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2016年6月

「研究所のレッスン、調整、修正、鍛錬」 No.298

○ヴォイトレの特殊性☆

 

 声がほかの習い事と違うのは、すでにもの心ついたときから使ってきているものだからです。つまり、日常に行っていることを見直し、変えていこうとするからです。

 無意識にやってきているものとして、新たに見直すとしたら、他の例とは、ウォーキング講座や話し方講座のようなものでしょうか。でも、茶道でも武道でも、元はそういうものだった。

 こういう類のことは、新しくやることよりも面倒です。これまでの習慣で、知らないうちにがんじがらめになっているからです。求めることやレベルによって、調整、修正、鍛錬とそれぞれに違います。

 例えば、ことばをしっかりと読んだことのない人なら、早口ことばから始めてもよい。しかし、それが日常でできているアナウンサーなら、そのメニュは、これまでのくり返しにしかなりません。そしたら、イタリア語でオペラの1フレーズをやるようなことに挑むのが、声や、ひいては発音にもよいかもしれません。

 ここにこないと、絶対に一人ではやらない、思いつかない、わけのわからないこと、それを求めて人につく。自分でできないことをしないのなら、レッスンの意味がありません。自分でできることはできるだけ自分で、その方が、ここをより活かせるのです。

 

○「こういうときにどうしたよいか」という質問☆☆☆

 

 質問に対しては、一つの答えを与え、「それでできる」と思わせることが、もっとも当たり前に行われています。これは必ずしもよいとは思いません。例えば、何も答えないで表情で表すとか、こうしたらよいと、いくつかの事を、できたらわけのわからないくらいに、たくさん答えるとか、この私のように、ですね。

 そうすればよい、それでやるとよいということが、それでしかできない、それしかやらないという方向に行くとよくありません。それでできるはずが、それでできなくなったとき、行き場がなくなりかねないからです。

 一流のアスリートは、専門となるスポーツをする前に、別の種類のスポーツをしていることが少なくありません。錦織圭(テニス)はサッカー、朝原宣治(陸上)はハンドボール、佐藤琢磨(F1レーサー)は自転車、鈴木桂治(柔道)はサッカー、澤穂希(サッカー)は書道、プロ野球ピッチャーの前田、大谷、藤波は水泳など。

 これは種目でも同じで、けっこう多種目やる人が伸びます。より違ったことを学ぶこと、その複数の経験から気づくことが多いということでしょう。手段などというのは無限にあるモノなのです。

 私は、多くのトレーナーと会ってきましたから、よく、その人の方法やメニュの根拠を尋ねました「私の先生がそう言っていましたから」「本に書いてありました」と堂々と言うトレーナーも珍しくありませんでした。

 ですから、方法やメニュについて、メールなどで聞かれても、一つの正解を与えたくないのです。それが、これを始めた目的です。

 

○修正能力

 

 レッスンでは、次回に結果をみて修正できます。できないから失敗ではなく、それでうまくいかないということがわかれば、それでよいのです。ただし、1回くらいで結果としてみるわけにいかないから、時間や回数もかかります。レッスンの回数でできることもあれば、本人のトレーニングの時間がなくては、何ともならないこともあります。まともなことは、その2つが伴わなくては進みません。やったことをヒントに、次回に、その人により合った手が打てるのです。トレーナーが、その修正能力が高くなくてどうするのかということです。修正能力こそ、学ばせることだからです。

 ただ、どの時点で修正をするかも、我慢比べのようなところがあります。最近は、毎回、小さく修正して効果を実感させないと、トレーナーが信用されません。しかし、本当は、そういう指摘に依存するのでなく、本人自身がくり返しのなかで気づいて修正することでしか本当の力はつかないのです。自ら気づく、発見する力が問われているからです。修正することより修正する能力をつけるのが大切なのです。

 正確な知識や理論よりもイメージが大切なのは、まさに一般的な正解を排除するためです。☆自分の外に正解を求めてどうする、こういう当たり前のことがわからなくなっているからです。それを伝えるのがトレーナーなのに、その邪魔をしてはなりません。トレーナーのやさしさがお節介となり、レッスンが歓談の場となるのは避けたいものです。

 

○技術的なことのアドバイスや批判

 

 技術論や理論のレッスン、あまりそのようにしたくないのは、そんなことでよくならないからです。その暇に練習をした方がよい。これを読むより練習すること。優先順を間違えてはなりません。それは、「技術に頼るのは必要悪」と説明してきたとおりです。とことん行き詰ることが大切なのです。

 それに気づかない人には、いくら言ってもわからないと思うのですが、不平をもってやめるとなったら元も子もないから、いつか気づくように猶予期間を設けるようにしました。このQ&Aもその一環です。そういう間、他のトレーナーにお任せすることも多いのです。技術論のやり取りほど不毛なことはないからです。

 

○間違い☆

 

 多くの人は、間違いを正そうとか正しく覚えようとかして、技術を知りたがります。でも、相当にやらないことには間違いも生じません。本当の間違いはそう簡単に生じません。完全な間違い、いや、おかしいというところまできたら、トレーナーは、やむをえずストップする、これほどわかりやすい例はありません。学べるスタンスができるまでの許容範囲は広いのです。ほとんど何をしてもよいくらいです。出し尽す前に絞り込むからあとが伸びないのです。☆

 極端に言うと「喉を壊すから間違い」といっても、そうは壊さないし、壊せないものです。「壊したら間違い」も、「壊したら厄介」なくらいでしょう。壊しても元に戻ることが大半です。もちろん、わざと余計な苦労をすることは勧めません。

 本人が「間違った」と言うことでも、その経験から学ぶことが多ければ、長い人生で生涯かけて続けていくことなら、マイナスよりもプラスが大きいことになります。

 だからこそ、短期投資、ローリスクハイリターンのような伝え方をしてはいけないと思うのです。技術を教えてはいけません。それを求める人ばかりでは、そういう教え方ばかりになります。

 他人よりも自分に目を向けること、自分を知ることです。

 主体的とは、自分が声もヴォイトレも変えていくことです。それができるようになるためにレッスンがあるのです。批評家、評論家は、何年経っても声がよくならない。でもトレーナーになる。技術で学ぼうとすることが間違いであり、人は技術で間違うのです。私の経験したこと、学んだことです。

 

○声についての分析

 

 自分を知るのは大切ですが、分析などのデータや誰かの所見は、それを鵜呑みにしないようにしましょう。私もときに、そういうものを私自身や希望者にも使ってみます。自己申告の診断でも何とかそれらしい結果が出ます。使い方によってはヒントになります。

 自動車の免許更新でも適正チェックみたいなのが出されますね。でも、程度の低さや不甲斐なさなどは出てこないですね。占いとも似ています。誰が何のために作ったかとことも思うことがありますが、そこで時間をかけて、質問をつくった人と対話するのは無駄なことではありません。少なくとも自分では考えない問いからみえてくる自分もあるからです。それらをもちろん自分で、自分の判断シートをつくればよいのです。

 

○声の器

 

研究所や私やトレーナーは、最初は外にあるきっかけの一つにすぎません。それを利用して大きく変わればよいのです。そこでのメリットやリスクも、やる前に個別に説明しています。人によって違うからです。

 変わるとか変わらないというのでなく、大きく異なるほどに変わるのは、自分が決めるということです。変わろうと思わなくても変わっていくのが理想です。変わっても元と違うものにはなりません。いや、なってもよいでしょう。ヴォイトレで表面的にどのように変えても本人の声なのです。スーツを着て敬語を使っても、一声聞くと、その人のままなのです。いつでもやめられるし元に戻れるのです。

 それが異なったものとなるのは、相当な修行のレベル、年月と練習量がいります。それを誰も強いません。

 あなたの日常が変わらないのに大きく変わることはありません。小さく変わっていくのでもよいのです。変わるというのが怖いのなら、だからこそ変わると使っているのですが、それは器が大きくなるということにすぎないのです。その大きさを、私もそれなりの人もみています。声の器のことです。

 

○トレーナーとの関係性をみる

 

 ヴォイトレは、今のあなたの声をそのままよしとするか、メニュやノウハウで少しばかり大きくするか、無理に変えて別のものにする、などそれぞれです。トレーナーにもよります。同じトレーナーでも相手によって異なるものです。   

 私は、第三者としてみていますから、わかるのですが、トレーナーは、生徒との関係性については、自分を合わせてしまうため、どういうスタンスに自らと相手がおかれているのか、ほとんどみえていません。私も、スタジオに入ってしまうとそうなります。同じゲームのプレイヤーとなっているのです。このことのよし悪しは、「トレ選」で何回か触れてきました。関係を築くのでなく、その関係性をみる第三者が必要だと述べてきました。

 

○未熟と周辺の声☆

 

 あなたの今の声も無理に変えたくせ声も、違っているのではなく、未熟なだけ、器が小さい、いびつなだけで否定するものではないのです。声優のアニメ声の一部などは、まさに無理に別のものとして使っているものの代表例です。男性のファルセットも、そうなっている人がいなくもありません。

 問題は、それが中心か周辺か、本人の中心に近い周辺か、本人と離れた周辺かということです。それによって、しぜんとよくなるケースにも、なかなかうまくいかないケースにもなります。☆周辺になるほど無理がきます。しかし、そこを周辺として中心を知ればよいのです。中心に修正していくか、周辺も中心に含まれるように器を大きくしていくか、レッスンで両方を兼ねられたら理想的ですが、多くは、修正までもいかない調整で終わります。☆

 ところが、多くの人は自分の真ん中に中心をとらないで、他人の歌や声に合わせようとします。時にオペラ、ミュージカル、合唱などでは、あたかも本人以外に正解や基準があるように思ってしまいます。トレーナーも、本人が望むのだから、それを正しい目標とします。すると可能性が狭くなり限界が早く来るのです。

 それは、周辺を中心と思って深めようとするからです。これは、不利な勝負です。無駄とは言いませんが、最終的には、報われにくいし、努力の効率もよくない。しかし、表向きの器用さで選ぶ日本のレベルでは、早く形をつけやすく認められやすいノウハウになります。深まらないが早くできるということで、売り物になりやすい。初心者が飛びつきやすく、トレーナーにしても教えやすい。それだけに、用心すべき点です。

 それは、例えると、早口ことばで滑舌をよくするみたいなメニュです。私たちも入門用に使っていますが、それを2週間やると、大抵は淀みなく話せるようになります。なったところで大した力となりません。

 表現力としては、全く変わっていないし、声も変わっていない。ただ、つっかかっていたところがつっかからない、それで達成感があります。素人のなかで感心される手品セットのようなものです。

 それを、プロのマジシャンの一歩とみるのか、素人芸とみるのかは、その人のその後の歩みによります。そもそも手品セットで売られていることに限界があるのです。マジシャンでなくとも、その種は少し学んだ人には知られているからです。

 でも、人前で、自分も楽しみながら人を楽しませることはできます。小さいながらもエンタテインメントです。映画の「バクダット・カフェ」を想い出します。でも、それはプロ並みの大掛かりなマジックに進化しました。

 つまり、手品を、仕掛けを知ればできるツールとみるか、相手の心理からコミュニケーションまで学び、自分の身体でのパフォーマンスとして磨かなくてはできないものとしてみるかでは、全く違います。ヴォイトレも似たようなものです。が、案外と、「その手品セットいくらですか」みたいな質問がくるのです。

 

○ものの考え方、教わり方

 

 ヴォイトレで、トレーニングとかメニュとなると本来は個別になるものです。本などで具体化すると、一般の人や初心者が一人で使って大丈夫、安全第一で、大半の人に早く少々効果あり、と市販薬のようなものとなってしまうのです。

 そこは、個別のレッスンで深めていくしかありません。私は千以上のメニュと、その組み合わせを使っていますが、本当は、2つくらいでよいと思っています。それを気づかせるのに2つを何十にも変化させているのです。

 あるいは、他のトレーナーのものでもよいと思っています。本人がやりやすかったものを使うこともあります。

 要は、メニュでなく、それをどう使うかなのです。いくつかのメニュで使い方を賄うこともできます。

 お寺は信仰の入り口になりますが、対象とはなりません。どこから入っても、お寺でなくても仏像がなくても、信仰はもてます。制度や形にしたものの功罪をよく知るべしです。

 私たちの接する人のなかには、カラオケ好みで上手になりたい人といった、一般的な方々と対極にある人もいます。普通のヴォイトレのメニュでは、その範疇に入らない人も少なくありません。一方で、CD付きの私の拙書で間にあう人もいます。レッスンを求める人にも、いろいろといらっしゃるのです。

 

○一般的なヴォイトレで欠けている要素☆

 

 両手(隻手)を叩いてどちらの手が鳴ったか、という公案があります。声も、少しずつ表層を剥いでいかないと芯は出てきません。特に女子アナやアニメの声優さんは、表層の上に塗料を塗ったような感じですから、けっこう大変です。今の日本の社会では、メッキが厚く柔軟性に欠けた声だらけです。

 そういう人は、ここに来るのです。なぜなら、声優の教室や声楽のトレーナーでは、次のことが欠けていて、うまく対処できていないことが多いからです。ざっと挙げると次のような要素です。

1.声の芯(通る声)

2.強い声 大きな声(声量)

3.耐久性のある声、ハスキーでも使える声(タフさ)

4.太い声 低い声(個性的な音色、太さ、低さ)

5.柔軟で表現力のある声(応用力)

6.一声でその人とわかる声(個性)

 

○組織と人の育成

 

 一般的に、人が群れて、それに酔っているようなところに行くと、人は仲間になりたいと思い、しばらくは同調するものです。しかし、だんだん鬱陶しくなり、離れるか無視するのか選択を迫られてしまうのです。子供たちの成長、青少年の自立もその表れです。宗教や音楽、スポーツ、ときには、政治や市民運動など、集団のあるところでは、こういう状況がでます。祭りなどでもそうかもしれません。そこはピークで納めないとだらけてしまうのです。それゆえ、どんなことも内実を失わず続けるのは難しいものです。

 人として、誰もが集団や組織を羨ましくも思ったり、逆に、そこに関わり拘束される鬱陶しさを感じたりして過ごしているものと思います。

 そういう組織を判断するには、どうするのかという問題もあります。どの時代でも、コミュニティは似た問題を抱えているものです。

 ですから、研究所という装置、体制も、自らの体系や組織を否定できるところまでつくって、実行できるくらいのものでありたいと思うのです。組織でなく、個対個のよさを最大限に尊重するように改革してきました。

 伝統の重みで潰れたものを見ると、それは守りに囚われて、創る力、そのために破壊する力をつけるのを怠ったからです。そういう人材を育てたり受け入れなかったからでしょう。何事も、守りに集中して自己保身に囚われては、本末転倒なのです。

 

○活かす

 

 トレーニングは、自分を活かすのに使うものです。要は、今、小さく活かすのか、将来大きく活かすのか、なのです。

 自分を活かせぬように使う人も多いのです。それなりに大変でもあるトレーニングを、「すぐに少しよくなってお終い」のようなトレーニングと比べて否定する、でも、そのくり返しで同じようなところをぐるぐる回っている人が多いのです。腰を据えなくては何事もものになりません。ときに、若干ですが、一時、自分を殺しかねないようなものを乗り越えて活かしていく人もいるわけです。そのくらいのリスクと覚悟のいらないものにあたることがないのに、自分が大きく変わると思うこと自体がおかしいのです。そのあたりはセンスの問題です。つまり、対し方、使い方の問題なのです。

 

○自ら創る

 

 かつて、そこでアーティスト放任主義で、私の覚悟が伝わらなかったあたりに、私の若さや未熟さがあったのですが、本質をつかむのに時代は関係ありません。もう少しで深くなるところに、浅く楽なロープが降りてきたら、それを助けとばかりにつかまる人もいるわけです。

 この本質は、私がそう思っているだけで、それが通じていない以上、相手には本質として存在しないのですから、みえなければそこであきらめるしかありません。もっとパラダイムシフトを、つまり体系や型を揺らして本人が自ら創り上げていく手伝いを、具体的に身を挺して求めていくことが望まれたのかもしれません。

 当時から、声もせりふもヴォイトレも、本人自ら創っていくものとの思いは変わりません。多くの人は、固定観念からか、発声法は教えられるべきもの、声はこう出すべきもの、正しい発声があってそれを学ぶものということで囚われてはよくないのです。

 そこで私は、自分の方法にこだわらず、本質にだけ焦点をあてました。声楽というものも取り入れて、道標とするようにコラボしたつもりです。それをポップスや役者、声優ほか、一般の人のヴォイトレにもステップとして入れました。これは、今、考えても画期的なことでした。オペラの基礎を学べば、ビジネスマンの声もよくなるみたいなことだからです。しっかりつかめたら、それは当たっています。声に加え、歌においては、オペラ―イタリア歌曲、ナポリターナ、カンツォーネ―ワールドミュージック―邦楽を一本の声の流れにおいたことも特筆したいことです。

 

○最初に会って行うこと

 

 声については、その人の求めるものを具体化にしていくことに尽きます。こうしたい、ああしたいと言いつつも、かなり曖昧で都合のよいことばかり求めてくる人も少なくありません。それを実現可能な方向にまとめていこうにも、さまざまな矛盾が出てくることがあるのです。それを問うと、「そこまで考えていない」とか、「どちらもすぐによくなりませんか」とか、前提を覆すほど無理なことになるので、そこからもう一度、一緒に整理することになります。方針は、レッスンと同じくらい大切なものです。

 特に、最初に本人が望んでいると言っていたことがずれてきたり、全く違ってくることも多いのです。これは、プロの人も同じです。

 これまでと全く異なる声を出すとしたら、当然、これまでの声へのリスクもあるし、大体は今の声も確定していないのです。簡単にうまくいくはずがありません。今の実力を安定させるという、リスクヘッジしてから、次の挑戦に入らなくてはならないことが多いのです。仕事を続けていらっしゃるのならなおさらです。

 

○できるということ

 

 これまでできなかったことをできるようにするというのは、これまでやったことのない人がやったことのないことをやれるようにするのと違うことが、あまりにもわかっていません。やったことのない人は、何でもやったら、他の人の平均レベルまで(一応、日本人の平均にしておく)いきます。(ほとんどヴォイトレやその本は、そこを対象にしています)

 しかし、うまくできなかったことに対し、特別のやり方や、メニュや、ノウハウがあって、すぐに解決できるなどというのは、信じないことです。ヴォイトレがそのためのものとするなら、早く解決したように思えて、そこで終わってしまうことが多いからです。あるいは、できたとしたら、それは、できなかったことでなく、これまでやっていなかっただけのことです。本当にできていなかったことをできるようにするのにトレーニングがあるのです。それには時間がかかります。感覚と身体が変わる必要があるからです。

 

○点検

 

 ヴォイトレのメニュのほとんどは、せりふや歌のなかでの一つのフォームでの取り出しによる点検にすぎません。ですから、根本的な解決になりません。解決するには、体、呼吸の強化、鍛錬も含め、全体の器を大きくするしかないのです。メニュが役に立つとするなら、それを何千回と使って身につけていくプロセスがあってのことです。

 ですから、私は、声のプロに対しても、日本人は、ほぼ器が不足しているゆえの問題と喝破しました。

 歌やせりふの声そのものから、その実力、基礎のパワーを、具体的には、声の芯、共鳴、フレーズのコントロールの力としてみます。そして、その弱さを、一フレーズで聴いての差として取り出したのです。そこを、日本のカラオケのチャンピオンがもつことは稀です。日本人にみえにくいところ、あまり重点をおかないところだからです。

 あるもの、ないものをはっきりさせて、ないものをつけさせるというのは、本当の基本トレーニングです。足らないから補充するのが、実践応用トレーニングです。

 そのあたりを、声でなく、声ではピンとこない人が少なくないので、プロ歌手には歌のなかの声で説明するわけです。そのときに本人が好きなアーティスト、そういう見本になる人が、声として実力があれば、わかりやすいことが多いのですが、いなければイメージして入れる、あるいは、あえて先に応用トレーニング(今の声の確実性を詰めていくこと)にすることも多々あります。そうなりたいのは本人であって、私たちがどうこうさせたいのではないのですから当然です。

 

○発声はどう変わるのか☆☆

 

 発声を学ぶと、これまでのことが、一時できなくなることもあるのですが、これまでのことが必要なら、変えるなと言うわけではありません。これまでのこともできるように、いえ、これまでのことが、より簡単に楽にできるように変わるところからでよいのです。プロセスでは多少、いろんなことがあると思いますが、結果として、よりよく出せるようになればよいと思います。

 そのあたりは、経験を踏まえ、バランスや優先順位、さらに確かなこと、わからないことさえも整理して正直にアドバイスしています。

 私の経験上、一直線でよくなるようなことは、今の状態の調整や使い方でのアドバイスに留まるので限度があります。根本的に変えるなら、若干、好転反応でありませんが、一時、とっつきにくかったり悪い状態になることがあるのです。考えてみれば、当たり前の事で、そうでなければすでにそのように自らがして、よくなっているのです。壁があるから、先に行けないのを超えるのですから。

 

○欠点と違和感

 

 結果として、できていった人をみるほど、欠点を取り除くのに急ぐのはよくないと思うのです。意識が変わり、日常が変わるだけでも、声は変わります。次に大きく変わる準備をし始めます。

 メニュは、型としてありますから、ときに、これまでの自分にそぐわない動きを強います。だからこそ、そこに意味があるのです。レッスンメニュには、違和感があるのがよいのです。

 最初、受付けなかった曲がいつの間にかとても好きになる。トレーニングのメニュにも、そのような時間的な変化が必要です。新しいもの、不慣れなものには違和感があってあたりまえです。すぐにそのメニュが馴染むというのは、これまでの歌をくり返しているようなもので、大して勉強になっていないのです。一つ次元の高い感覚に自ら変わることこそが大切なことなのです。

 

○どんなメニュがよいのか☆☆

 

 それでは、どんなメニュがよいかということですが、シンプルで、できるはずと頭では思っているのに、声が思うままにならないようなメニュがよいでしょう。それをくり返していると、比較的しぜんに、これまで馴染んだものを乗り越えられます。メニュができることはどうでもよくて、それを使っていることで、感覚、息、声などが深化することに意味があるのです。曲を覚えてメニュがこなせたと思わないことです。ヴォイトレなら声、声づくりのためにメニュがあるのですから、声の響きや質、柔らかさやしぜんさでみることです。

 

○メニュやトレーナーのやり方が合わない

 

 自分のやり方で限界を感じて他の人につくのなら、すぐに自分で判断しないことです。レッスンには、自分のやっていたことのない、できるだけ、すぐには合わない、ピンとこないやり方を使ってみることに意味があると思います。

 自分自身で、トレーナーも、メニュも、好きなのを選ぶのは、自主性がないよりあった方がよいというレベルでは大切です。

 私も、「好きなメニュでやってください」と言います。しかし、もし、これまでと同じことを同じレベルでくり返しているのでは、あるいは、メニュややり方が表向き違うだけで、レベルとして同じものなら、ストップをかけます。合っていてやりやすいものばかりのくり返しでは、大して変わりません。それは、もっともしぜんで理想的なプロセスですが、日常レベルと変わらないなら相当の時間がかかる、それなのに他の人並みに変わらないことも多いでしょう。

 本人はいろいろ工夫しているつもりでも、これまでやってきたやり方しか、大体は、使っていないものなのです。トレーナーにつくからこそ、今までやっていないやり方、知らないやり方を学ぶチャンスなのです。合わないのは、気にしないことです。

 合わせなくてもよいこともあります。歌い方というのもそうでしょう。曲が変わっても、大体は、同じようにしか歌えません。それは自分に入っているものしか使えないからです。合っているもの、それらは、やってきたことだからです。そうでないようにも歌えるように言えるようにレッスンするわけです。もちろん、強味をさらに強くするのと、これまでにないところや弱点を補うのとは異なります。その優先度や比率は、よくよくトレーナーと相談して考えるべきことです。

 

○できないことを教える

 

 すぐれたコーチというのは、その人自身のできないことまで教えてくれます。難易度が高くなっていくようなスポーツ、例えば、スケートや体操で、コーチがトップアスリートよりもできるのなら、コーチが出場したら金メダルでしょう。歳を取ってできなくなるのではありません。すぐれたコーチは、自分のできないことをできる人を育てているからすぐれているのです。そのイメージ力と実現の手段と選手を選ぶ眼をもっている、タイプによっての才能の伸ばし方を知っているから、名コーチなのです。そのコーチがいなければ、そういう選手は生まれなかったというのがコーチの真の実力、そしてコーチ冥利です。

 歌手が教えて歌手が育たないわけではありませんが、日本では、声楽家、邦楽家以外は、プロデューサーが選び抜いて、何とか実績をつくってきたというところです。

 ですから、私としては、トレーナーは叩き台、その人を超える人が出れば、まずはそこからだと思うのです。

 

<レッスンでのQ&A>

 

Q.本当に正しいやり方を知りたいです。

A.本質的なことは、言ってもそう簡単に伝わらないけれど、何回もくりかえしていると、感じられるようになります。しかし、接していなければ、避けていては、せっかくのチャンスも活かせません。

 誰もが続けていくと固まってくるので、ここでは私がそれをかき回す役となっているのですが、かき回すにも段階や準備がいるのです。

 

Q.どの声だけが使えるのか知りたいです。

A.なぜ、そんなに整然としたものを求めるのでしょうか。無理無駄を省きたいのはわかりますが、ここは一人ではできない無理無駄をするところとして使って欲しいのです。今の自分で限定したらもっと狭くなります。今の声でどの声が使えないなど決めつけるのはもったいないです。ありったけ出し、さらに出し、そこから考えても遅くないでしょう。

 

Q.教えても効果の出ない人がいます。

A.私のところでは、トレーナーは教えるというよりは、サポートする、支える役割と考えています。効果というのを具体的に目的として掲げていくことにも慎重です。あまり教えようとか何とかして効果を出そうと考えると、目先に走りがちになるからです。周りの人がちょっとよくなったり、あまりよくならない人が少しいたりというのは、効果というほどのものでもないように思います。すぐに効果は出なくても、何かが変わっていればよいからです。普通の人のレベルに足らない人を普通よりも上げるのと、普通の人のレベルの人をトップレベルにするのとは、全く違うことです。

 

Q.プロになるには、コードや音楽理論がいりますか。

A.使い道によっては必要ですが、歌い手なら、不要です。あまり、それに囚われてはなりません。理論に対して人はその知識に偏り、伴奏がうまい人はそこにこだわり、もっと大切なことに気づかないことが多々、あるのです。何かをもっているがために、もっと大切なことを見失っていることを恐れるべきです。

 

Q.歌は、ピアノで正しく学べと言われました。☆☆

A.歌は歌に学び、ピアノで学ぶものでないと思いますが、「楽譜で正しく」というのと同じように「ピアノで正しく音をとれ」ということなのでしょう。歌の響きは、ピアノという打楽器、打鍵してから響きが伸びるものと、少々違うのです。

 歌はビブラートや音の高低の僅かなズレで演奏のなかに埋もれず、くっきりと声の線をみせるべきです。平均律からの脱却を言っています。つまり、合唱のように一つの音に溶け合うのが目的ではないということです。大きく外れる人は合わせなくてはいけませんが。

 

Q.スランプについて、どう乗り越えますか。☆☆

A.「お前ごときでスランプと言うな」これは、あなたに対してではありません。自分自身に対して思ってきたことです。一流アスリートやアーティストのスランプの話を聞いてみてください。

 できたことができなくなったのがスランプですから、私などにはスランプは来ないのです。そんな私が、一流の仕事をしている方々からアドバイスを求められるのです。

 「一流のオペラ歌手は、生涯、発声法を変え続けています、そして、スランプを乗り越えます」というような例を出します。つまり、スランプは壁なのですから、これまでのプロセスを反省する機会です。次のレベルに行く前の総点検、そして、新たな力を得る機会と思うべきです。

 

<レッスンメニュのQ&A>

 

Q.メニュは何のためにありますか。☆☆

A.メニュは、声の動きとしての基本のフォーム、これを型といいます、それをつくるためであり、また、それから自由になるための型ということです。これまでもバスケットやボールや素振りなどで説明してきました。

 型というのは、形と違ってフォーム、動きの一定というものです。その人にとってシンプルになるようにレベル設定します。難しすぎると、こなすことで精いっぱいになります。第一の目的は感じること、そして認識することです。☆

 姿勢なら、写真でチェックするのでなく、立ったときの状態、少し肩のあたりを押してもびくともしない、衝撃を吸収できる柔軟な構造と動きをとれるかというようなものです。その人が充分にこなせるところまで、シンプルなメニュにすることで精度をあげるのです。

 これには、空間であり時間の流れも入ります。その日の型でもあり、曲やステージによっても変わります。さらに、生涯に渡って変わっていく型でもあります。

 そこでプランニングをして、将来まで設計図を描きます。それは、イメージトレーニングにもなります。それを本人と共に修正していくのです。メニュづくりはトレーナーの大切な仕事となります。

 

Q.具体的なメニュを少し教えてください。☆

A.音楽的なメカニズム、曲の構成、展開を、音程やコードなどとの調和でなく、メロディの単音として伝えられる力が必要です。一つの声の動きなのですから、そこが第一です。次に全体の調子や役割分担としての音楽の構図となりますが、それらをプロレベルに磨くのです。

 

Q.テキストの「マリア」のメニュの使い方を教えてください。

A.マリアというのは、maria、つまりハミングのmnmu)から母音のarは特に正しい発音のrでなくてもよいです。riiを入れてiaaで収めます。難しければmaiaとかma―でもかまいません。マリアという名前と関係なく、でも切って、マリア。マリア マリア マリーア(ミソソ ミソソ ミソファ)、この曲は、ウエストサイドストーリーの挿入歌「マリア」をホセ・カレーラスが歌ったものからの着想です。

 

<トレーナーに関するQ&A>

 

Q.トレーナーに必要な力は。

A.素材がプロで歌えるレベルなら、第一には、その修正力でしょう。よりよいイメージを出して修正していきます。片や、初心者やセミプロにはプラントメニュ、根本的に改革すべきプロのときはプラン作成能力と与えたメニュを使っての修正力でしょうか。

 その前に、喉を中心とした発声に関するスキャン能力が必要とされます。その精密さをどこまで細かくもてるかです。動きの中での細かさをみる力、声を出す力より聞く力が問われるのです。

 私も声と歌、例えば、歌詞でいうと、一つのことばどころか、一字だけでも入り方、伸び方、つなぎ方(切り方)と3つ以上の尺度でみていることもあります。

 今のカラオケのチャンピオン歌手などでしたら、新人歌手の歌唱のヴォイトレには向いています。ただ、尺度が一つなので、同じタイプにしか育てられないでしょうか。自分のもっていないものと相手のもっていないものがわかる人は、少ないと思います。

 

Q.オペラ歌手は、見本たりうるのでしょうか。☆

A.例えば、日本人が英語を学ぶのには、語学力以外のメリットがたくさんあります。発想や考え方、文化の違いを知る、さらに、呼吸、体、共鳴、表情、舌や口の使い方など、です。どちらがよいかでなく、やっていないことや異なることを学ぶことで、日本語の、特に音声について得るところは大きいのです。

 ここは、声楽をベースにしているだけで、オペラ歌手そのものやオペラの歌唱を必ずしも見本にしていません。ただ、学べるものなら、そのアプローチはとても有効です。日本人のやっていないことと異なることにアプローチして、より必要なことを認識できます。特に本人が独自のやり方でやっていたとか、他のレッスンをずっと続けてきたという人には、有効です。

 

<研究所への方針へのQ&A>

 

Q.音大生や音大出の人、オペラ歌手には対応しないのですか。☆

A.1割ほどいらっしゃいます。そこにはもっとも自信をもって、ここのトレーナーは対応できると思います。音大以上に人が育っていると自負しています。育つという意味が違うと思いますが。オペラ、合唱、ミュージカルは大得意です。音大受験も可能です。

 

<代表福島英へのQ&A>

 

Q.本は完成品ですか。

A.声と同じく、売ったときから私のものではないのですから、その人にとってどうかということです。本は締切り、最終校正の締切りで、私の考えは切り取られます。完成は、刷り上がったり店に置かれる日でなく、著者にとっては直しを諦めた日です。作品に、真摯に向き合うのなら、できる限り手放さない方、公開しない方がよいのですが、市場に預けるのは一つの勝負であり、諦めです。それをホームページやブログで補って、追加、フォローをしています。

 

Q.Q&Aは、なぜ続くのですか。

A.Q&Aも、よし、完璧という答えはない。そういう答えになるときが来るわけでないから、完成というより、よりよいものへ一歩でも近づけていくということです。完成品として出したときから、未完成です。そのままに出して、直せないなら追加する。次につながる答えでありたいので、Aが問い、Qは、皆さんの答えとみる方が当たっています。

 

Q.このQ&Aや先生の活動は、言論を通じての、ヴォイトレの普及ですか。

A.それは、およそ済んだと思っています。ヴォイトレもヴォイストレーニングも一般の人の知ることばとなりました。

 これらを説得する努力は、結果として、してきたつもりですが、「全てが説明できる」とは思っていません。すべての人に、でなく、すべてのことが、です。

 でも、あまりにそう思っている人が多いので、また、それに乗せられている先生も少なくないので、少々、老婆心も手伝って、経験からあたりまえのことを述べているのです。

 こういうあたりまでのことは、いつの時代もいつまでも、くり返し述べられてきたことです。いかに当たり前のことが当たり前でなく、人にわかってもらえないものかも知っています。

 同じことをずっと述べているのに、また同じことを聞かれるからです。誰よりも発言してきたし、こうして、いつも説明しています。説得したいとは思いません。ただ、何ら検証もせずに正しいとか間違いとか言うのはおかしいことです。そのような当たり前のことを述べているのです。

 

Q.なぜ、歌に惹かれたのですか。

A.歌い手は、いつの時代でも預言者です。私には、画家やデザイナーよりも、音やことばを扱う音楽家、歌手、詩人は、その先を行くように思えました。売れなくてはいけないというなかでは半歩先に止まり、つまり、わかりやすくなった分、よくなくなりました。

 「歌は世につれ世は歌につれ」で、同時代でということですが、そこは主に歌詞です。世の中の動きに伴った歌ができ、ヒットすると、世の中の人が、それに皆、のる、トレンド、ブームの作り手だったのです。

 ヴォイトレも、未来という先に対してデザインして修正していくのです。あるときから、私にとって、歌い手よりもヴォイトレの方が先取した仕事、クリエイティブに思われ始めました。それゆえ、一つの世界観ができてきたのだと思います。☆

 私が育った頃には、歌手は、詞や曲を渡され、自分のものにするために作品の全解体と声での再構築をするのがプロだったものですが、大人になる頃にはすっかり、シンガーソングライターが主流になっていったのです。さらにその後、プレイヤー、プロデューサーやアレンジャー、ミキサーなどの方が、よりクリエイティブになっていった時代だったと思います。

 そして今や、カバー、カラオケ歌手、ヴォーカロイドと、これもいずれ、どこかに意義を見出したいと思います。かつての日本のクラシックよりもかなり質量を伴わないレベルでクラシック化してしまったという感じです。

 

Q.先生のメニュすべてを学べますか。どのくらいの期間がかかりますか。

A.私の知っていること、できること、全てを学びたいという人もいます。しかし、私が示せるのは、自分の使っている声くらいのところで、そのプロセスとても、同じ年月を経ないと伝わりようもありません。すべてが伝わる必要もないし、同じ年月をかけるというのなら非効率です。そこは、私でなく、あなたの未来なのです。

 一方、メニュは、これまであった人以上たくさんあり、大半は、あなたの必要としないものです。ちなみに、ホームページをすべて読むだけでもかなり時間がかかると思いますが、チャレンジしてみる価値はあると思います。是非、徹底的に絞り込んで、ハイレベルに練り上げてください。

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