「フレーズ、本番ステージ、メンタルの問題など」 No.300
○技術を消す☆
心身を鍛え、感度を良好にしていくと、出るべきように声は出ます。頭を使ったり本を読んで知識を覚えたりして出すのではないのです。誤解を恐れずに言うと、勉強やトレーニングを闇雲にすればよいというのではありません。大して効果が出ないか、それによって早めに限界をつくるという逆効果になりかねません。
条件が欠けているときは、条件から習得する意欲をもつことです。これが、今の日本人には大きく欠けています。姿勢、呼吸から体幹、筋トレからメンタルまで、みえないところの力をつけることが必要です。多くの人には、そこを抜かすなと言わざるをえません。
一方、意欲があると、一人で急にたくさんやって、雑に固めてしまいがちです。それでは、実力はどこかからアップしないのでトレーナーがいるわけです。
状態の調整は大変ですが、ベストな状態の心身であってこそ、そこで初めて次のレベルへ行くきっかけをつかむことができます。次のレベルをつかむためには、そのセッティングに集中して調えます。そこでやりすぎたり、怠けたりする、体調不良や精神的なもので、その条件が崩れるのです。それを最低に抑えるために技術などということばが出てくるのです。
○取り組み☆
発声の技術もヴォイトレも必要悪であって、その習得を目指すものではありません。まして、それらを目的にするのではありません。次のレベルに行くことを担保するだけです。それを使って実力を上げるのではない、その技術で支えられるのでなく、それを使わない、なくすこと、少しずつ消さなくてはいけないのです。☆
ほとんどの人は、その問題を取り違えています。技術を学ぶのは、上達でなく、下手にみられないためです。技術を学びたいとは、できなくみえないように安全装置をくれと言っているようなものです。ですから、教えてもらうと、下手ではないし間違いもない歌になります。素人には、うまいし正確だとみえる。そうでなかった人は、褒められるので嬉しくもあり安心してしまうわけです。
技術でこなしたら技術でみせるようになっていきます。ただ、歌が歌のように思われ、そのうち退屈になって飽きてしまうのです。技術を勉強した人だとみえて、技術がでしゃばります。トレーナーが学ぶときに、もっとも気をつけなくてはいけないことです。というのは、技術を売りにしている人に技術の欲しい人が行くものですから。
本当の歌は、歌で働きかける。問われるのは、歌ではないのです。結果として歌われている、その人そのものです。いえ、その人さえ消したものです。ただの声、いえ、声さえ消えたものなのです。
その人と技術が2つ、出るのは、もっともよくありません。トレーニングが出るのは暑苦しいですが、まだ熱意、情熱に気が紛れます。
○2つの落とし穴
トレーナーは、相手の様子から姿勢、表情、喉までで、瞬時にスキャニングするわけです。ヴォイストレーナーなら発声状態から声とその周辺のスキャンをします。
例えば、顔の向きなどもイメージする。しにくいときは、同じようにまねて、そこでの違和感をみて直そうとします。
原則は、認識からです。自分をモデルとして、相手とのギャップとの認識をします。そのギャップをふまえ、自分でなく相手のあるべき理想像を描いて一致させるのが指導となるのです。
ここに2つの大きな落とし穴があります。第一は、自分を見本にしてよいのかということです。ここには、プロやベテランだけでなく、全く別の分野の人も来ます。自分では、足りないことがたくさんあります。
向うは信頼してレッスンにいらしているから、それでよいのですが、私は疑い深いのです。そこで、何人かのトレーナーと分担させるのが、次善の策です。見本が一人のトレーナーに偏らない分、リスクヘッジできます。
1. 本人とトレーナー
2. 本人とトレーナー複数
3. 本人とアーティスト
4. 本人とアーティスト複数
5. アーティストと本人の間としてのトレーナー
6. 一流のアーティストで誰にも合いやすいケース
7. 一流のアーティストで本人に似ているケース
8. 本人の次の段階(理想)
一流のアーティストのイメージを借りるのが、もっともよいのですが、それを相手とどうマッチングさせるのかは、けっこうな経験がいります。一流ゆえに、相手と離れているし、根本的に理想像とかけ離れていると使えません。そのギャップを埋める聴覚からのトレーニングが必要です。
○スキャン能力
ヴォイトレや発声での効果というのも、本人が満足していても基準が甘いだけで、大半は多くの問題があります。少なくとも4、5年経たないうちは上達はしていきますが、何をやっても失敗途上というか、本当の結果は、まだまだ出ていないものです。本当の意味で伸びるということを知らないから、上達とか成功と言えるのです。成功には、いろんな意味がありますが、ここでは声についてに限ります。つまり、そのプロセスでは、成功体験でなく失敗、いや挫折体験を必要とします。
何を高めるかというと、トレーナーのスキャン能力を基に、レッスンを受けている本人のスキャン能力です。
修正は、トレーナーの見本をまねしていくうちに、声を変えていく、それが上達のように、当たり前に言われています。しかし、これでは、まねのうまい生徒が最強となります。他のスクールなどに行くと、まさにそういう評価です。私は、そういった声に魅力を感じたことがないのです。それでは、私がおかしいということになります。でも、表面的なコピーと、全身からの表現は対極のものです。
○声のオリジナリティ
ここのトレーナーのスキャン能力はかなり高いし、そのままレコーディングもできるほどでしょう。生徒がそのトレーナーの声のスキャン、姿勢や表情のスキャン、フォームのスキャンを通じて変じるきっかけにするのはよいことです。そこは技術です。求めるべきものはそのはるか先にあるもの、あなたや客の先にあるもの、歌なら歌の神様をスキャンするようなことなのです。
トレーナーの見本やイメージの後を追うのでありません。その先に出なくてはなりません。そこからがレッスンです。模写は作品にならない、ということがわかる人があまりに少ないのです。
声が一人ひとり違うことに甘んじ、そこをオリジナリティと思うから、自分の歌に思えるのです。それは、自分の声であって自分の歌ではありません。磨き抜かれた自分の声でもないことが多いでしょう。でも、歌手なら、自分の歌ならよいのです。
絵具や画材を変えてもまねしている分には練習です。デッサン、線、フレーズの才能は、独自のものとして表れてくるものです。そこで、スキャン=コピーするのでなく、創り出せているかです。
習作にもオリジナルは出るのです。練習の声でもわかります。
それを出そうとするのでなく、消そうというのは努力の方向が真逆です。なのに、日本人の多くは、憧れの人やトレーナーのコピーを目指したがるのです。義務教育の弊害でしょうか。もう、そのまま、まねるのは学ばなくてもよい。まして、トレーナーにつくなら、そこで使うのは、あまりにもったいないのです。
トレーナーもそこで対しているのは、本当は、クリエイティブでないからつまらないでしょう。しかし、このつまらなさに耐えるのが仕事という真面目な人が、教えたい人には多いのです。いや、耐えるどころか楽しくできる。それはそれでよいとしても、オリジナリティが減じられたり、そのまま眠ったままになりやすい。
トレーナーのせいではありません。自ら見つけ、伸ばすというのは、面倒で手間がかかるものです。殊に、表現することについて、主体的に生きてきた経験の少ない日本人には、かなりのプレッシャーになります。
ゆえにレッスンに来るべきですが、そこで伸びているつもりで目指す方向が伸びを制限してしまう、大きくいうなら、習うことで潰れているのです。
自分で主体的にならなくては何一つ始まらないのです。レッスンを受けていても、何ら始まっていないのです。
○待つ
私のレッスンでは、主体的になるのを待ちます。根比べです。しかし、親切な人が「こうしたら早いよ」などと言うと、そこへ流れてしまう人もいるのです。それも、本人の判断であり、またアプローチの一つですから自由です。研究所は、その試行ができるように、懐を深く広くしてつくりました。
教えられたいという多くの人には、まずは、始めることが大切なので、私も、かなり寛容になってきました。
よいレッスンとは、本人がアーティストやトレーナーをスキャンしつつ、自らがそれと異なるものを出し、最後は、その声のフレーズで説得させることです。
もう一度プロセスを言います。最低ラインは、スキャンしたところ、その上に置いておく。そこで相違するもの、差別化したもので問うて、その差を明確にする。つまり、トレーナーも叩き台、基準としてあるのです。
ここでは、差が、違いが出ることを目指します。よくあるカラオケの指導とは対極です。次に、ただ違っている、変だ、新しいというのを吟味する、それだけで留まらない何かの一貫したものがあるのかをみます。そこで問うならほぼ99パーセント使えないのです。
トレーナーは、本来の可能性をみるのですから、例えそれがスキャンできない、理解でいないものであっても、何らかの理があればよいとしておく。そこですぐに結果を問わずに、そこからずっと我慢するのです。出てくるまで待つのです。
○本物
その人の本当の作品が出てくるときは、その人の世界といえるように集約されてくる、バラバラでなく筋が通っている、そういうものなので、すぐわかるのです。誰でも瞬時にわかるが、先生、トレーナー、専門家の方がわからなかったりするので、注意です。本人もです。
それをいろんなメニュで、どんなことにもつなげるようにする力をつけます。バラバラなことばかりできるようにしては、結局は使えません。力になりません。
でも、教えられたことを、そのまま実力と思う人も少なくありません。すごい人は100曲歌えるからすごいのではなく、1曲、1つのフレーズ、出だしの1、2秒ですごいのです。それで100曲がすごいなどという人はざらにはいません。そうであれば歴史上に名を成しているでしょう。私は、歌で1か所、ステージで1曲、すごいのがあれば充分どころか感謝感激です。
多くのレッスンやステージを合わせても2、3年に2、3人、2、3曲出ればよい方です。
すぐれたヴォーカリストは、お客の求める歌のステージをスキャンして、必ずその上をいきますからヒットします。ところが客がそれなり厳しくないと、まあ、一流の客がいないと、スキャン能力も育たないし、スキャンしてもよいものになりません。
そういう意味では、日本は、無名からデビューのときに、もっとも客が厳しいともいえます。3年、5年経つと、とても甘くなる。周りにファンしかいなくなるのと、そのファンがやさしい。歌を聴きにくるのでなく、歌手に会いにくるからです。そういった国ですから、ヴォーカリストもそのラインを辿って、実力の保持に、守りに専念するようになります。ショービジネスの厳しい国では、そう考えたとたん、脱落してしまうはずです。
会えるだけで嬉しいファンが増えると、会うことのスキャニングになるわけです。スポーツなどでは、ファンは長くなるほど目も肥え厳しくもなるのに…。なぜかというのは、私の述べたことを昔から読んでいる人にはわかると思います。
声は、みえない世界でのスキャニングです。考えてみると、どの世界でも誰もが目で見ているのですから、目で見えるものの世界で勝負を決めているのは、見えないものを観る力になるわけですね。
○基準―長さ
基準を具体的に示してほしい、と言われるときがあります。例えば、ロングトーンを10秒、15秒と声を伸ばしていくと、どのくらい均質にコントロールできるか、しぜんなビブラートがかかっているかで、ほぼキャリアと質がわかります。できない人は徹底して、そこを掘り下げていくとよいです。
1日1000回やったらできるようになるかといったら、できません。本人ができたと思っても、ちゃんとしたトレーナーなら認めないでしょう。ところが現実には、その秒数伸ばせただけでOKと言ってしまうレベルで、ヴォイトレの9割は行われています。マイクがあればリヴァーブをかけたら、済むからです。
どこかで、2、3年、ヴォイトレをやってきました、と言う人も、20秒ほどのロングトーンなどまともにできません。音大の声楽科目の4年生あたりや、劇団四季のオーディションに通るくらいの人ならできる、としたら、それも、一つの目安です。
できない―できるを区分けしないと、レッスンは進めにくいので、どうしてもそういうことでみてしまいがちでが、本当は、20秒のロングトーンは絶対必要条件ではなく、挑戦課題、チェックにすぎないのです。
できるというのも、よりハードルを上げて評価したらできていない。この「できていない」を本人がつかめているかどうかです。5秒や10秒では、誰でもできたと思い、音質の判断がつかないので、15秒以上で挑んでみて、呼吸と発声の力を伸ばしていくという初心者向けのわかりやすいアプローチです。
そこをカラオケのマイクのエコーは、初心者の1日目に、10回もくり返せば、うまくつなげてくれる。それは、できたのでなく、カバーした、ごまかしたのです。小さく口先でぼそぼそ出しても15秒つなげられます。が、カラオケにごまかしも本当もないでしょう。楽しくないことをする必要もない。これが、そのままステージになりつつあるような現状では、基準が低くなるどころか、なくなるのも無理はありません。
○基準―大きさ
そこで、プロなのに大きな声が出ないという悩みが生じます。昔は、大きな声が出ないとプロになれないから、そこは最初に問うべきことでした。そこで乗り越えたつもりのハードルを、後から再セットして変じるのはけっこう大変なのです。物事には順番がありますから、ゼロからやり直さなくてはいけません。でも、プロが、まさか自分の力がゼロとは思っていないから、大して変わらないのも確かなのです。多くは、それ以上の声の実力はつかないが、崩れない技術=カバーするやり方を覚えてしまうのです。「しまう」というのは、そのことでその後、さらに器が小さくなりかねないからです。自ら、歌の技量のように思って、声に制限をかけてしまうのです。一流をみて、小さな声で大きな世界を表現しているのを真に受けてしまうのです。
日本人の歌手については、ベテランになるにつれ、歌のスケールが小さくなるのは真相です。それを円熟として、寄り添ってくれるファンがいるからです。
ファンの多くは、若いときのように同じように歌って欲しいと思っていませんか。日本人の歌へのノスタルジー、青春の懐古をしたい人たちばかりの客、ということは、以前述べたので割合します。
日本の歌のヴォイトレでは、音の高さばかりをメインにしているので、あえて、長さ、大きさを挙げてみました。音色などは、もっと扱われていません。念頭におかれていないのですから、そういう力はつくはずがないということです。
○レッスンでどのくらい変われるか
多くの場合は、人は、今の状態を根本的には変えたくはないのです。本気で変えたいと思えば、その分は変わるものです。
声もその結果の一つです。執着、執心するために、パワー、生きる力も落ちていくのです。声の場合、その人がとても大きなことに触れると急に変わることがあります。
守りに入ると終わると、私は述べてきました。終わるというのは、戦いではないから死んだり殺されるわけではない、固まっていくということです。その方が楽なのです、安定するのですからです。それを上達と思うからなおさらです。
自分が楽にならないと他人も楽しめないから、エンタテインメントは、もとよりそういう宿命をもっています。つまり、ステージで楽しめることが安心してみていられるように変じてしまいがちです。それは実力としても、パフォーマンス力や演出力なのです。
上達することで最初は上を目指し、上に達する、達したように思うと、後は堕ちていくものです。芸としてさらに上りつめていくには、自らが楽しめることも客が楽しむことも関係ない。むしろ、そこに失敗しなくてはいけません。最初のように―。
なのに、今のエンタテインメントは、最初から人を楽しませられるものとして出してくる。歌い手もそれを目指しているところで、すでにアーティストでもアートでもないのです。それが悪いのではなく、いつの時代も9割はそうであり、1割が次の時代につながることをやっていました。わけのわからないことをハイレベルでやっているから目が離せないのです。この1割がいるかどうかが、そのアートの寿命を決めるのです。それを殺すのは、多くは保守的な残りの9割、そして、古いファンなのです。
その古いファンに合わせようとして若い人が出てくるのをみると、さすがに絶望的になります。そこでの「仲良しクラブ」が、芸の命を短くします。そこでは古いファンを拒もうとも、先人のアーティストを超えようとしてこそ、結果として、芸がつながるのです。それが伝統というものです。
つまり、師や親を乗り越える、相撲でいうところの恩返しです。いつも先代や先輩に負けているのでは一緒に引退して何も残りません。まだ、他分野へ転身してでも活躍した方がよいかもしれないのです。
○意味を調べずに、外国語で歌う
何事も目的によります。前にも述べたように、言語は、区別を強います。意味を与え、分析するだけでなく、内と外、仲間と敵とを分けます。しかし、言語としてわからなければ、ことばは、どこのことばも音楽なのです。
レッスンでは、イタリア語、フランス語、ポルトガル語、スペイン語、さらに、それ以外の言語の歌を、ことばの意味、文法や発音は学ばせずに使うことはよくあります。わからなくて使ってもよいのかでなく、わからないからこそ、使いたいのです。英語は日本人にわかるので、わざと使わないほどです。そこでまず、言語がわからなくても、歌は声で伝わることを知ってほしい。その声を聞いて欲しいのです。海外のアーティストの歌も、そうして耳に馴染んでくるのではありませんか。
言語もその歴史や地理、風土も知ってこそ舞台で歌えるというような、声楽家には信じられないかもしれません。もちろん、学べるものは学べばよいのです。学び方というのは、効率を考えるために、すぐに出来上がったもののまねに終始します。元のもののレベルが高いと、まねでもまねしきれないまま、生涯が終わります。次代かその先に行けたら、よくなる可能性はありますが、大体、その前にも行けないのです。まねのまねもできないと、可能性はさらに低くなっていきます。
私は、向こうのものをそのまま、移してきたもの、例えば、発声もピアノの伴奏もきれいにこなす先生たちに魅力を感じないばかりか、正直、退屈してきました。そういう人は、語学、発音はもとより、背景やストーリーをしっかりと把握し、それが絶対条件と考えています。でも、本場に行ったり、元のを聞くと、すごいのです。つまり、本質が全く継承されていない、創造的精神が死んでいるのです。
本当に歌に値するなら、声に魅力があるなら、周りの装置は何もいらないのです。どこでもそこから発生してきたはずです。さらに強めようとして、他でプラスαとして付加されたものが、音響、演出などです。
そのうち、実力の足らないものを形としてみせるのに、これらの装置や技法が補強として使われるようになります。トータル化されることで声の力もわからなくなったわけです。
問われるのはトータルとしての舞台ですから、アイドルやオペラのようなステージでは、私は判断しません。そこに集まるお客さんがよいと思えばよいと思うのです。
人は言語がわからなくても、歌に感動します。来日したアーティストたちが、その日にルビをふって、ほとんど初めての日本語で歌った歌にも感動したこともあります。
ことばも、風土も、すべてを備えた人が歌うことがふさわしいのは確かですから、バックグランドを学ばなくてよいとは思いません。しかし、バックグランドというものは、学べるものでないかもしれません。
向うの国に行き、向うの国の人になり切るというのが、従来の学び方でした。向うで生まれて育った人に比べると、あまりにハンディが大きすぎます。圧倒的に不利な勝負ゆえ、成し遂げられた人は純粋にすごいと思います。
一方で、ネイティブレベルに発音がよくなった日本人の歌手の英語曲を聞くにつれ、昔、カタカナのようにしか歌えなかった日本人のプロ歌手と比べ、失ったものの方が多いと思うのです。
どちらを優先とするか、どちらが本質かということです。模倣、再現か、創造表現かということです。発音、ピッチはよくなって、表現力、声力、オリジナリティ、個性、パワーはどうなったのでしょうか。
○メンタルの問題
体質、性格、ものの考え方、おかれた環境などの原因を探るべく2000年以降、最初はメンタル、次にフィジカル、そしてスピリチュアルと、補充せざるをえなくなってきた経緯は、以前にも述べました。一般の人や若い人、年配の人が来るようになったこともあります。
もう一つは、声優やミュージカル俳優の特質です。まだ、私のなかでまとまっていませんが、声優のメンタル面のフォローをしていて、かなり似た傾向のあることがわかってきました。歌い手や芸人の場である全身で自由に動けるステージと、彼らの場である決めごとの多いスタジオとでは、かなりプレッシャー、いや、その解放やリフレッシュの機会が違うと知りました。音声医、耳鼻咽喉科からの紹介でいらっしゃる方が、単に喉や声の問題ではなく、別にもっと大きな問題が、メンタルにあることを指摘してきたことと通じます。
○化ける
まずは、真剣に取り組んでいるか、そこからでしょう。目的を声に定めよとは言いませんが、「○○のため」が、本質をみえなくしてしまうことが少なくありません。例えば、研究のためといい、分類したり、それをまねてみたりする。それだけでも大したことをしていると思われるほど、他にあまり取り組んでいる人はいないのですが。これも大したことでなく、自己満足のための勝手な分類みたいにして、とても使えたものにならない声で揃えていたりする。つまり「研究のため」が本質をみえなくしているのです。
実験のステージなどというなかにも、私の見聞きしたものでは、表現からの逃げになっているのが少なくありません。まさに、なんでもやればよいくらいに投げやり、基準がないから吟味がない。丁寧でない、やりっぱなし、実験というならなら仕方ありませんが。
他にも、派手なだけのもの、パクリだけなもの、向うっぽいだけのもの、雰囲気だけなもの、それが大半です。
でもそういうなかで化けるものもあるし、ともかく出して問わない以上、先にも進めないから、10のうち9のはずれもよいと思うのです。まして、プロセスをみるトレーナーとしては、先を期待したい、次を見たい、と思わせてくれたら充分です。もしかしたら、そう思わせる力こそが才能かもしれません。☆
でも、問うていないどころか客ばかりみて、それ以上に挑もうとしてないものがほとんどになってきたために、つまらなくなってきたのでしょう。楽しむけど感化されない。その日に疲れて、翌日はふつうの生活に戻る。昔のように、翌日に別人になる、そんな衝撃を与えてくれるステージがなくなったと思うのです。「客を見るな、あと先考えるな」と言いたいほどです。
○打破
状況に対して、応じようとする、と、その状況に依存している。すると先生にも依存する。欧米は、それを先生が嫌う度量があるが、今の日本はイエスマンを好むようです。人柄をみるか才能をみるか、これは状況対応か状況打破かのどちらを目指すかの違いでもあります。
ヴォイトレでも、ヴォイトレ打破であってこそ、というのは、私くらいなのでしょうね。若いときから周りの求めるものを優先しすぎるためにみえなくなっていくのです。
オーディションに受かるより、受かった後に長くやっていける力、他のところでも通じる力をつけるべきでしょう。合格だけを目指すのは、入る方が難しく、入ったら安心という、日本の大学や会社のもたらした悪い刷り込みなのでしょうか。変わらない万世一系で革命がない日本ですから、革新しにくいのです。それはよいことでもあったのでしたが…、一個人の表現力養成にはよくはないのでしょうか。
○掛け合わせる☆☆
昔、グループレッスンで、高橋竹山の三味線とマイルス・デイビスのトランペットを同時に流すようなことをやっていました。その中で、次元を超える何かがシンクロするのです。
それは、一人のときにも生じましたが、私と参加者のつくる場でも生じたのです。同じところで生じたら、同じように感じたら、それは偶然とはいえ何かがあるといえます。
演奏家は共に、天才ですから片方だけでも聞きごたえがあります。もし、本当に共演していたら…。多分、CDの掛け合わせよりも、もっと大きな何かが生じていたと思うのです。そういう音が歴史を伝説をつくってきたわけです。
○フレーズについて☆☆
フレーズ感こそ、もっとも声の表現にとって大切と思うものです。それにも関わらず、多くの歌やヴォイトレのレッスンで、ほとんど無視されているものです。
ここでいうフレーズ感は、合唱団の統一しているようなフレーズ感とは違います。入り方、つなげ方、収め方、その動きのタッチやニュアンスのことです。これは、皆に共通するレベルのものでないのです。その人の個性、武器とするものによって、すべて異なるものです。
同じ人のフレーズでも、イメージと解釈一つで大きく変わります。例えば、出だし一つ変えると全体がすべて異なっていくものです。ハイレベル、即興的でこそ、活きているのです。
本当は、歌のフレーズを自由に展開する、その動きを支えるだけの声のコントロール力をつけることこそ、ヴォイトレの本道なのです。多くのレッスンはそれ以前のレベルで終わってしまいます。今の歌を目的にしてはハイレベルになりません。今の力でこなすことで、歌一曲は精一杯になるほどの課題だからです。
一つの原因は、曲づくり、伴奏をつけて親切すぎるからです。カラオケなどがまさにそうです。笛の名手がいつもカラオケに合わせて吹いていたら上達しないでしょう。静かなところで自分の音を出し、確かめ、共鳴やその働きをゆっくりと全神経で集中してこそ、自分の音がわかります。つまり、ソロの練習が必要不可欠なのです。
レッスンでは、せっかくアカペラでフレーズを細かく自覚できるのに、すぐにピアノで助けては、もったいないともいえるわけです。カラオケにも劣らない音楽的なサポートとなるからです。ピアノのうまい先生の力で歌になってしまって聞こえるのです。
声について実力の細かなチェックも、その必要性も、本人に身につかないことも少なくないのです。伴奏に頼り、合わせるくせのついている人がいかに多いのか、それでは自立できないということです。
Q.ヴォイトレと本番との違いはあるのですか。
A.プロのヴォ―カリストに「声が乗って、表現しやすくなったときに、声、つまり喉はもう疲れている」と言って、反省したことがあります。本当でも言わない方がよいこともあるのです。
歌もせりふも表現です。そこは、発声としてのピークで、もっとも理想の声が、表現としてもよいとは限りません。少し疲れたあたりからの方が感情がのります。その状態でも1時間以上のキープ力が、プロには不可欠なのです。
Q.舞台での作品とヴォイトレの練習との関係は、どういうものですか。
A.練習は、あらゆる状況への対応、シミュレーションの訓練なのです。
プログラムもメニュも、一つの作品をバラしたようなものです。よりシンプルに短くして細かく対応できるようにするということです。チェックを厳しくし、弱点補正もします。それは、レッスンの目的ではなく、副次的効果のためにあるのです。自分の強みを出す、そこに気づけるものにする、そして高めることです。舞台や作品全体と絡めたことでないと学べないこともあります。
Q.レッスンに慣れることですか。
A.慣れは必要ですが、対応ということで慣れてはよくないのです。
Q.先生の考える理想的なレッスンとは。
A.理想的には、本人が、自分で切り出すために、レッスンの内容を決め、トレーナーはそこでやるのをただみるだけ、トレーナーもいるかいないかわからないのがよい。とはいえ、トレーナーもコンピュータ以上に頭も心身も使っているものです。
見ても聞いてもいないような状況で何か飛び込んでくる声になるように、仕向けて来るまで待つとか、スタジオで自主トレをしたら、トレーナーがいるときよりもできるようにしていくとか、ともかくも主体的になることの邪魔をしないよう心がけています。本人が、どう今日の状態を調整し修正し、最高にもっていくのかをみていること、最後に一言二言、感じたことや少々のコメントを伝えたら、充分というのがよいですね。
Q.音をよく聞いて出せと言われます。☆
A.聞かないのはよくないです。よく聞いてください。でも、待ち構えてはだめです。トレーナーのやることの、常に先に行くつもりで臨みましょう。ときに、急にプログラムが変わっても、反射的についていけます。
ピアノを弾いていると、その音の先に声を出している人は、勘がよい。主体的に動けています。途中で音を消しても、動ぜずにペースを保っています。
トレーナーは、ピアノの音を聞いて、それに合わせるような教え方をしてしまいがちです。伴奏を完全にしようとして、聞いているのは、ピッチと発音だけだったりすることがあります。
Q.耳の鍛え方を教えてください。☆
A.聴覚を磨くのに、あまり、ことばの情報、視覚の情報を与えない方がよいと思うことは少なからずあります。ただ、無心で聞いていた方が耳は集中するでしょう。
目をつぶって聞いてみます。次に、目を開けても同じように聞くことができますか。私は、そこにかなり訓練を要しました。
Q.エネルギー源が足りないと言われました。☆
A.エネルギーは、重さや速度で表されますが、そのものの持つ力といったものでしょうか。立っているだけでも、そこに位置エネルギーとやら熱エネルギーとやらがあります。が、簡単に考えてみます。エネルギー源は、車ならガソリン、リットル量か、質で、ハイオク、レギュラーなどでしょうか。
人の場合、摂り込むのは飲食や空気です。炭水化物、脂肪、タンパク質をみると、その燃焼は、同量の酸素の燃焼の結果に近いそうです。そこで、酸素消費量としてみます。
そこから生物学、酸素で食べたものを燃やしATPをつくり、そこにエネルギーを保存し、分解して必要に応じ提供しているのです。これはミトコンドリアの仕事ですね。エネルギー消費量の目安が基礎代謝率となります。これまた、運動していると大きく変わるのです。
Q.絶叫したら、歌になりますか。
A.本人の叫びのままでは、歌にならないでしょう。それでは、子どもの我儘です。「神が自分の口、声を借りている」と信じているような一流のオペラ歌手もいます。そうでなくとも、私のことばも私のものでない、あなたのことばもあなたのものでないのです。
あなたと私のものというのならなら、よいでしょう。だから、私は、著作権フリーの考えです。一人で生み出した作品などない、などと言うと盗作などと騒ぐような輩もいるでしょうが。
Q.ステージで大切なことは何でしょうか。
A.時間と空間、自分の立ち位置を感知する能力でしょう。
Q.本番は、練習と同じではよくないですか。
A.本番は、今の力の100%を出す。練習は100%が今の力としたら、120~200%の実力をつけていくものです。今の力の100%出すのが練習、ヴォイトレだとしたら、いつもステージをやっている方がよいとも思います。
Q.本当の力とは何でしょうか。
A.環境の安定より、変化する環境への対し方が安定することです。自ら変じて対応できることを本当の力といいます。
Q.成功を恐れているのかもと思います。
A.うまくいくと心身によくないなどと思うと、自ずとブレーキがかかります。うまくいくことで他人や社会に迷惑がかかるとしたら、うまくいくことを心から望めなくなります。みぞおちが固くなり、支える邪魔をしかねません。
成功してこそ、すべてがよくなることを信じましょう。うまくいっていれば、うまく納まっていれば、それでよいのです。そうでないからこそ変わる努力をするのです。
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